韓国の市民団体、北韓人権市民連合からの最新情報です(「生命と人権」最新号の原
稿を翻訳したもの)
長文ですが、脱北者問題に興味のある方は是非お読みください、
UNHCR,お前らなにやっとんのじゃ。後ロシアと中国、こういう非人道的な国が
あるから北朝鮮問題解決できないのです。
 
7人の脱北者強制送還事件の再検証*
社団法人北朝鮮人権市民連合調査要求チーム
 
目次
 
I.はじめに
II.7人の脱北者事件の概要
1.事件の日時および北朝鮮人権市民連合の活動
2.国連人権理事会の書面質疑および北朝鮮側の応答
3.7人の脱北者へのインタビュー内容
III.新たな証言者たち
1.キム・スチョル
2.キム・サンウォン
3.キム・ウンチョル
IV.結論および提案
 
I.はじめに
 
2000年初め、21世紀という新しい世紀の入り口に、世界は北朝鮮人権問題の深刻さを
認識し、脱北難民の人権保護のために国際的協力のメカニズムを構築する必要性を痛
感することになる一つの大事件を目撃することとなった。
1999年秋(11月)、中国でロシアとの国境を越えて韓国行きを企図していた脱北者7名
がロシア国境守備隊により逮捕され、UNHCRが難民としての地位を付与し、国際社会
が大きな関心を寄せたにも関わらず、1999年12月30日ロシアは彼らを中国に送還し、
2000年1月12日に中国から北朝鮮に再度強制送還されたという初めての事件が発生し
たのである。
 
この報告書は北朝鮮人権問題に対する国際社会の高い関心を引き起こす歴史的な契機
となったが、現在までも多くの疑問点とともにベールの中に隠されていた「7人の脱
北者事件」を再検証して、新たに得られた証言をもとに2001年4月5日、北朝鮮が国連
人権理事会に提出した29項目からなる「書面質疑応答」の虚偽性を指摘し、ウィッ
ティ・ムンタポン特別報告官に対して、北朝鮮側に明確な解明とともに生存者らに対
する人権保護を促すための参考資料として作成されたものである。
 
II.7人の脱北者事件の概要
 
1.事件の日時および北朝鮮人権市民連合の活動
 
1999年11月10日、ホ・ヨンイルら脱北者7名が中国からロシア国境を越えてロシア
沿海州国境守備隊に逮捕される。
1999年11月10日〜12日、ロシア「沿海州国営放送(OPT)」が事件を最初に報道す
る。
1999年11月12日日本「産経新聞」がこれを受けて大きく報道する。北朝鮮の人権市
民連合は12日付け産経新聞の報道を日本の協力者から提供される。
1999年11月15日北朝鮮人権市民連合はボリス・イェリツィンロシア大統領に産経新
聞の記事原本および英語の翻訳文と一緒に彼らが望む通り韓国に送るか、ロシアに留
まるようにしてくれるように要請する内容の書簡を送ると同時に、その複本をUNHCR
およびAmnesty International(以下AI)に送付した。
1999年11月23日北朝鮮人権市民連合はUNHCRからこの事件を関係部署に委任したと
いう知らせを受ける。
1999年12月1日、北朝鮮人権市民連合はロシアの沿海州国営放送局から脱北者7人
の逮捕過程を取材したフィルムを緊急入手し、12月1日から3日間にわたり開催された
「第1回北朝鮮人権・難民問題の国際会議」の開会式で上映する。その際、外国から
来た人権運動家たちと学者たち、そして在韓外国大使館の参席者たちを含む約500余
人の聴衆がこのフィルムを視聴し、国際会議が終了した翌日、国際ネットワークメン
バーであるカナダのアレクサンダー・エプシュタイン弁護士はこのフィルムを本国に
持ち帰り、カナダ政府がこの事件を注視するようにし、もし彼らの韓国行きが不可能
になった場合カナダに連れて行けるよう手配したという連絡を受けた。
1999年12月初め。UNHCRはこの脱北者たちと直接面談した後、「難民」であると判
定し、彼らの「第三国行きの希望の有無」を確認した後、国際赤十字社発給の旅行書
類と韓国への入国ビザを準備し、ロシア政府に対して出国ビザの発給を要請する。
1999年12月6日、韓国の当時のホン・スニョン外交通商部長官は国会外交通商委員
会の質疑・応答の中で彼ら7人の脱北者たちがUNHCRの積極的な協調により、韓国行
きが確実視されたと明らかにした。
1999年12月8〜18日、ロシアはUNHCRを通じて脱北者たちに有効期間10日の出国ビザ
を発給したが、結局彼らは韓国に入ることはできなかった。10日間のビザ有効期間が
満了し、引き続いてロシアに抑留されていた。
1999年12月23日、韓国政府がロシアの外務部に確認した結果、ロシア側は「行政職
員のミスで脱北者にビザが発給されて、職員を問責した」と答弁したことが明らかと
なった。
1999年12月27日、当時韓国のイ・インホ在露大使はロシアのカラシン外務次官と面
談中にこの問題を協議したが、カラシン次官は「当面は特別な措置がない」との言質
を与えて、韓国政府はこれによってただちに問題が解決するという希望的な感触を抱
いた。
北朝鮮人権市民連合は同日、7人の脱北者のドキュメンタリーテープ18巻を国連難民
高等弁務官室(UNHCR)、国連次官高等弁務官室(UNHCHR)、国際赤十字社(ICRC)、そし
て国際赦免委員会(AI)など、国際人権機構および団体を含む本会議の国際ネットワー
クのメンバーたちにそれぞれ郵送する。
1999年12月30日、ロシアは脱北者7人を中国に送還してしまい、このニュースは強
制送還した後になってロシアの国境守備隊側が在ウラジオストック韓国総領事館に通
報したことから明らかとなった。
2000年1月4日、韓国のホン・スンニョン外交通商部長官は中国のタン・ジャーシュ
エン外交部長に協調要請の書簡を送り、6日、韓国の外交通商部の特殊政策室長は彼
らが中国に強制送還されたことを非公式に発表する。
2000年1月7日、在韓ロシア大使エフゲニー・アファナシエフ(Evgeny Afanasiev)氏
は「コリアヘラルド」を通じて、「7人の脱北者の中国送還の事実」を明らかにし、
「ロシアの法律によると不法越境者は国境を越えた国に再び帰さなければならない」
と発言しながら、「7人の脱北者に会ったUNHCRの代表が彼らに公式の難民としての
地位を付与したことはない」と主張する。これに対して北朝鮮人権市民連合は在韓ロ
シア大使のこのような発言の事実があるか確認するため、この記事をUNHCRスイス本
部およびモスクワの事務所などに送ると同時に国際社会が7人の身辺を心配してい
て、彼らの安全を保証することも求める内容の書簡を中国政府に送付することを国際
ネットワークのメンバーに要請する。
2000年1月8日、北朝鮮人権市民連合は在韓外国大使館17カ所に中国に送還された7
人が北朝鮮に送還されないように協調することを依頼する書簡を発送する。
2000年1月10日、韓国のホン・スンニョン外交通商部長官はエフゲニー・アファナ
シエフ在韓ロシア大使を呼び、この問題に対する遺憾の意を表明することもあった
が、以前の状態に戻すにはすでに遅すぎた。ロシア大使は「出国ビザの発給は行政手
続きの過ちであり、ロシア−中国国境を脱北者たちの韓国行きルートとして利用する
ことは容認できないし、このような先例を作ることができないとするのが基本的立場
である」と重ねて協調し、「ロシア−中国国境条約にもとづいて、彼らを中国に送還
した」と明らかにした。これに対して、北朝鮮人権市民連合は中国の江沢民主席に書
簡を送り、ロシアから送還された7人の脱北者を北朝鮮に送還させないよう訴え、彼
らに難民としての地位を付与するように要請した。
2000年1月11日、中国の朱邦造外交部スポークスマンは「脱北者7人は難民ではな
いし、中国国内の関連法により処理するが、人道主義的観点と韓半島の平和と安定の
維持を考慮する」という方針を発表した。
2000年1月12日、中国政府は脱北者7人を北朝鮮に強制送還する。
2000年1月12日、ロシア人権新聞「Express Chronicle」の編集長であるアレクサン
ダー・ボドゥラビネク氏はこの事件について遺憾の意を表明し、彼らに関する記事を
人権新聞に掲載するために北朝鮮人権市民連合に写真を送る要請をしてきたことに応
えて、本連合は送還された7人の写真を提供する。国際ネットワークのメンバーであ
るカナダのアレクサンダー・ウェプシュタイン弁護士はスイス、フィンランド、ノル
ウェー、デンマーク、スウェーデン、カナダ、ドイツ、フランス、オーストリア、ア
イルランド、日本、オーストラリア、南ア共和国、英国、米国、インドネシア、ポー
ランド、ハンガリー、ウクライナ、スロヴァキア共和国など20カ国の外務長官に北朝
鮮に送還された脱北者7人の安全を要請する書簡を北朝鮮政府に送るよう要請する書
簡を送る。
2000年1月13日、北朝鮮人権市民連合の国際ネットワークのメンバーである米国の
国立民主主義基金(National Endowment for Democracy)のカール・コシモン会長は国
連駐在日本大使である佐藤行雄氏に国連難民弁務官である緒方貞子女史に会い、7人
の脱北者問題を取り上げることを提議し、本連合が提供した資料を渡した。これに対
して佐藤氏はこの問題の深刻さをすでに認識しており、緒方貞子女史に会った席でこ
の問題を提起することを約束したと知らせてきた。
2000年1月14日、北朝鮮人権市民連合は国際ネットワークのメンバーである米国の
防衛フォーラム財団(Defense Forum Foundation)のスザンヌ・ショルティ会長は金正
日委員長に7人の事件に対する憂慮を表明する書簡を発送する一方、米国の米国上院
議員、グレイグ・トーマスを始め、10人の上下院議員と米国の国務省関係者および言
論人たちに対してこの事件に注目することを要請し、さらに中国とロシアで棚上げさ
れたままになっている脱北難民問題の重要性を直視するよう要請する。
2000年1月19日、北朝鮮人権市民連合は東亜放送大学と共同主催して脱北者支援慈
善コンサートを開催し、7人の事件に関するビデオを上映した。この日の夕方、
KBS-2TV「ニュース・トゥデイ」で7人の脱北者がまだ中国にいるときに撮影した
フィルムの一部を17分にわたり大きく扱い、KBSは23日の日曜日KBS-1TVの日曜スペ
シャルで全体の内容を放送する予定であることを明らかにした。
2000年1月21日、米国の「Los Angeles Times」は7人の事件に対する記事を大きく
扱い、米国企業研究所(AEI)の客員研究員であるジョシュア・ムラビチク氏はニュー
ヨークにいる北朝鮮代表部に7人の安全を憂慮する書簡を送る。
2000年1月22日、KBS-1TVが予告していた日曜スペシャルの放送を突然取り消す。こ
れに対して北朝鮮人権市民連合は予定通り放送することを要請するキャンペーンをE-
メールとKBSのウェブサイトの掲示板に載せる形式で実施したが、結局放送されな
かった。
2000年1月23日、北朝鮮人権市民連合は7人の事件に対する19日付けのニュース・
トゥデイの放送分を録画したフィルムのコピーと内容録取本を英訳して国際ネット
ワークのメンバーたちを含む約35団体および個人に郵送し、BBCとCNNなどにも配布す
る。
2000年1月28日、国際ネットワークのメンバーである米国のジャック・レンドラー
・オローラ財団の事務総長は米国国務省の人権次官補および米国内の代表的な人権団
5カ所の関係者に会い、7人の事件と脱北難民問題全般について注目するよう要請
する。
2000年2月2日、在韓ロシア大使館のV.シューヒニン参事官は7人の事件に対するロ
シア政府の立場(脱北者は不法越境者であり、ロシア領土が彼らの脱出経路として利
用されることを望んでいないという立場)を説明する書簡を北朝鮮人権市民連合に
送ってきた。
本会はこの書簡をUNHCRなどを含む国際人権団体および国際ネットワークメンバーた
ちに送る。
2000年2月3日、北朝鮮人権市民連合の国際ネットワークのメンバーであるイタリア
出身のフリーランス、モリチオ・キュリアーノがイタリアの外務長官に送った7人事
件に対する質疑書を英訳して国際社会に配布する。
2000年2月19日、米国のワシントンポスト紙は「在中脱北者の身辺不安、強制送還
に対する西側諸国の沈黙」という表題の記事で7人の強制送還を「国際法違反」であ
ると強調する。
2000年2月22日、日本の「統一日報」、「文化日報」が北朝鮮に強制送還された7
人の脱北者のうち、一人が奇跡的に脱出したと報道する。北朝鮮人権市民連合はこの
報道を国際ネットワークのメンバーたちに伝えたが、当時この報道の信憑性は確認で
きなかった。
2001年4月5日、国連人権理事会は北朝鮮側で1999年12月25日に提出した「2次定期
人権報告書」と連携し書面質疑を通じて「7人の脱北者事件」について解明すること
を北朝鮮側に要求する。
2001年7月19日、北朝鮮側のシン・ヒョンイル代表が第72次国連人権理事会、19944
回会議に出席し、「29項目の書面質疑」について答弁する。
2002年2月9日、北朝鮮人権市民連合と日本実行委員会が共同主催して、東京で開催
した「第3回北朝鮮人権難民問題の国際会議」で行方が確認されなかったキム・ウン
チョルが再び逮捕され、耀徳収容所に収監されたという情報を含んだドキュメンタ
リーを制作し、上映する。以後7人の脱北者が送還された1月12日前後にキャンペー
ンを毎年継続的に展開してきた。
 
2.国連人権理事会の書面質疑および北朝鮮側の応答
 
2001年国連人権理事会は質疑書面を通じて、北朝鮮側に「7人の脱北者」事件に対す
る解明を要求した。北朝鮮は1981年に加入した「市民的・政治的権利に関する国際規
(B規約)」によって1983年の最初の報告書を提出し、1984年の追加報告書を提出し
て以来、定期報告書の提出義務を履行しておらず、16年ぶりに1999年の12月25日「2
次定期人権報告書」1)を提出しておいていたが、2001年の4月5日、国連人権理事会は
2次報告書と連携して、書面質疑2)を通じて北朝鮮側に「7人の脱北者事件」と関連す
る質問項目を含め北朝鮮側に対して誠実な対応を要求したものである。
 
14.ほかの国に亡命してから強制送還された公民たちを法的、もしくは実際にどの
ように処理したのか説明してください。また2000年1月に中国から送還された7人の帰
国公民たちの現在の状況について説明してください。」
 
これについて、シン・ヒョンイル北朝鮮代表は2001年7月19日、1944回目の集まりに
出席して、北朝鮮は「29項目の書面質疑」3)に対して答弁した。
 
1) Second periodic report of the Democratic People’s Republic of Korea on 
its implementation of the International Convention on Civil and Political 
Rights. CCPR/C/PRK/2000/2.
2) List of Issues: Democratic People’s Republic of Korea. CCPR/C/72/L/PRK.
3)Summary Record of the 1944th Meeting: Democratic People’s Republic of 
Korea. 
 
その内容はつぎの通りである。
 
<表1>2000年1月中国から送還された人々の現況(北朝鮮による説明)
氏名 住所 現在
ホ・ヨンイル
現在教化中
9年の労働教化刑
 
バン・ヨンシル
現在教化中
5年の労働教化刑
 
リ・ドンミョン
平壌市万景台区域七曲3洞
国家体育指導委員会重建機関労働者
 
チャン・ホヨン
平壌市万景台区域チュクチョン1洞
万景台教区備品工場労働者
 
キム・ガンホ
咸興市東宣区域ソサン洞
咸興市建設事業所労働者
 
キム・ソンイル
咸鏡南道端川市港口1洞
高等中学校生徒
 
「私たちはほかの国に亡命しようとする人達について、法的、実質的に関与しない。
双方人道協定によりほかの国から受け入れた人達は該当機関の調査を通じて密輸など
の犯罪との関連がない場合は、法的や実質的に問題視しない。2000年1月の中国から
送還された人達は7人ではなく、6人である。」
 
彼らの現在の状況を上の<表1>(報告書原文−表5)の通りである。
 
しかし、このような説明にはつぎのようなすっきりしない疑問点がある。
 
最初の疑問点は「7人のうちの1人であるキム・ウンチョルの行方がどうなっている
か」という点である。2000年2月22日、日本の「統一日報」、「文化日報」が北朝鮮
に強制送還された7人の脱北者のうち1人が奇跡的に脱出したと報道したものであり、
北朝鮮人権市民連合はこの報道を国際ネットワークのメンバーたちに伝えることは
あったが、この報道の真偽については長い間確認する方法がなかった。
 
2つ目の疑問点はほかの6人の処遇に関する北朝鮮側の説明をそのまま信ずることがで
きるか、という点である。北朝鮮当局は「6人中、ホ・ヨンイルとパン・ヨンシルの2
名は咸鏡北道のある倉庫で盗みを働き、火を放ち、国家に対して10億ウォンに達する
損失を与えた罪で各々9年と5年の労働教化刑を賦課され、残りの4人は職場と学校に
戻して、現在正常な生活を送っている」と説明した。しかし、当時北朝鮮の為替
(1$=2.15ウォン。2001年12月現在)を考えると、4億6000万ドルを超える莫大な損失に
相当する事件であるはずだが、そのような規模の大規模火災がおきたとする信頼する
に足る根拠がない。当時、4億6000万ドル相当というのは、想像を超える価額であ
る。
 
歴代国際社会の対北朝鮮支援金額の最高潮に達したのが2001年であったが、2001年の
1年間で韓国を含む国際社会から北朝鮮に支援された総額が4億9000万ドル(韓国政府+
民間レベル:約1億3000万ドル、国際社会:約3億5000万ドル)であったのを考慮する
と、これほど大規模な火災やこれに相当する損害が発生しうる倉庫のようなものは咸
鏡北道には存在しない。すなわち北朝鮮側の主張の信頼性は疑わしいもので、ホ・ヨ
ンイルとパン・ヨンシル夫婦を処罰するためにねつ造された偽りの主張である可能性
が高い。
 
また、ほかの4人をただ解放したという説明と関連して、信頼できる根拠は提示しな
かった。当時彼らの行方に対して、つぎの第3章で追跡している。個別に実施した3人
の証言者たちとの面談を通じて、ほぼ事実に近いものと推定される情況証拠が確認さ
れた。
 
その前に2000年の初め7人の脱北者たちが北朝鮮に強制送還される直前に直接実施し
たインタビュー内容を再び確認する必要がある。つぎの章で確認した新しい証言者た
ちの説明を理解するのに有用な背景情報を提供しているからである。
 
3.7人の脱北者へのインタビュー内容(KBS)
 
つぎの内容は2000年1月23日、KBS-1TVを通じて放映される予定だったが、前日22日に
突然放映が取り消されたドキュメンタリー「日曜スペシャル」のテープを入手し、要
約した。
 
(1)ホ・ヨンイル
 
ホ・ヨンイルとパン・ヨンシルは3歳の息子がいる夫婦だった。彼らは1990年10月20
日、子供を実家に預け、豆満江をわたった。これが彼らが一緒にした初めての脱北で
あった。夫、ホ・ヨンイルはすでに1998年除隊した後同僚4人と一緒に越境したこと
があり、逮捕され、清津市道集結所に一ヶ月間収監されていたが、解放され3ヶ月ぶ
りに再び越境して中国で逮捕された。それにより政治犯収容所に収監されたことがあ
り、その後吉州郡監獄、吉州労働鍛錬隊(収容所)、そして非人間的な人権侵害で知ら
れている清津市道集結所などに送られたこともあった。
友人の一人は集結所に送られる途中逃走を試みて銃殺されたこともあり、何人かは集
結所で殴打と拷問を受け極端な労働と飢餓により死んだ人もいると伝えられる。生命
維持に重要な塩は配給されず、水がわずかに配給された。集結所内の規律は非常に厳
格で、収監者たちは45度に頭を下げてそのまま座らされたまま、うとうとしたり動い
たりすると殴られたという。お互い話をしてもいけないのは当然のことであったとい
う。解放されたとき、彼に残っていたのは憤怒のみであり、どんな危険を甘受しても
再び北朝鮮を脱出しようと決心する切っ掛けになったという。彼らが北朝鮮を脱出し
た重要な理由は深刻な飢饉だったが、それがだけが理由ではなかった。
 
(2)パン・ヨンシル(本名:パン・ヨンスン)
 
ホ・ヨンイルの妻であったパン・ヨンシルは1997年に比べ配給状況は少しよくなった
と証言した。ホ・ヨンイルとパン・ヨンシルは彼らが行動と決定の自由をどれほど希
望しているかを強調した。この夫婦はコッチェビ(孤児)として生活していたキム・ソ
ンイル(13)に会った後、一緒に移動してきたといった。
 
(3)リ・ドンミョン
 
リ・ドンミョンによると、第11号労働鍛錬隊は平安南道甑山(チュンサン)郡にあり、
全国各地から捕まえてきた人達を収監するが、収監者は主に西海岸地方の人たちであ
る。リ・ドンミョンは東北部地方にもう一つの労働鍛錬隊ができるということを聞い
たと証言した。彼の推測によると、11号労働鍛錬隊は1万人を収監できるほど規模が
大きいといい、非政治犯を収監する労働教化所と政治犯を収監する政治犯管理所が全
部含まれていると説明した。普通、労働鍛錬所では公民権は剥奪しないのに、11号で
は公民証も剥奪し、誰の訪問も許されず、外部とは徹底的に遮断されるという。
11号労働鍛錬隊は11個の区域に分かれていて、各区域には50人程度の収監者で作られ
た班単位で、すべて5〜6つの班単位で収監されている。女性と男性は別々に管理され
る。女性たちは主に詐欺や売春の嫌疑で、男性たちは闇取引、暴行、詐欺などの嫌疑
で収監されることが多いという。各分組ごとに違う作業が与えられ、ある分組が田ん
ぼで働いている間、違う分組は豚を世話するなどの形である。田んぼで働く分組が
もっとも労働量が多く、1つの分組で20人を超える人が死亡するほど劣悪だったとい
う。豚を世話する仕事は少し楽な方だという。リ・ドンミョン自身は豚を世話する
チームにいたため生き残ることができたと証言した。
リ・ドンミョンによると、一緒に収監されていた50人のうち30人が死亡し、そのうち
10人が深刻な栄養失調だったという。リ・ドンミョンは数個の豆がまざった小麦を三
食分配給されていたが、栄養は非常に不足していたという。生存に極めて重要な塩も
配給されず、家族たちがヤンニョム(薬味)を差し入れようとすると、管理者たちがそ
れを認めてくれず、トウモロコシの粉だけならできると伝えたそうである。
極端な労働や殴打、もしくは餓死する場合が多かったため、同僚たちの死はそれほど
の重大事ではないと受け入れた。死体はむしろで巻いて平地に埋めた。死亡者の名前
が書かれたペニシリンのビンを死体の足指に縛り付けるだけであったという。リ・ド
ンミョンは死体を埋葬した経験が何度かあるが、もともとその辺りは埋められていた
死体が多く、どこを掘り返しても死体が出てきたという。家族たちは死んだ人たち本
人の刑期が終わるまでは死亡の日を知らされることがなかった。家族の大半は死体を
捜そうとさえしなかった。身体的に弱い収監者たちが死体を埋葬する仕事をしなけれ
ばならず、これは担当した仕事をするためには体力がない彼らも同じ目に遭う可能性
があるという厳しい警告であった。
リ・ドンミョンは平壌出身で、生活が苦しくなり始めたときは彼の家族たちは家具、
テレビ、冷蔵庫、ラジオなどをすべて売らなければならなかったという。やがて彼は
日本と中国から輸入した中古の服の商売を始めたが、(その当時は)個人の商売が許
可されなかったために逮捕されて、1年間11号労働鍛錬隊に収監されたという。1996
6月に解放された後、彼は家で健康を取り戻し、1999年の8月26日に国境を越えた。
彼の計画は中国にいる親戚たちに助けを求め、10月1日以前に再び北朝鮮に戻ること
だったが、中国に到着してから再び北朝鮮に戻ることが北朝鮮を出るよりも容易では
ないことに気づいたという。中国にいる間、世界、そして韓国に対する考えが変わ
り、計画を変えたという。彼は中国に来て、より広い世の中を見るまで自分自身が北
朝鮮のことをよくわかっていなかったことに気づいたという。平壌にいる家族のこと
を考えると北朝鮮に戻りたかったが、逮捕されると再び収容所に送られることを考え
ると、韓国に行きたかったという。犯罪記録があるため、もう一度逮捕されれば収容
所に送られることが明らかだったからである。
 
一般的な見解とは違い、平壌に住んでいるすべての人たちがほかの地域に住んでいる
人たちよりも必ずしも豊かであるとはいえないという。北朝鮮で特権階級だけが住ん
でいる平壌の貧富の差が大きく、貧しい人たちについては平壌に住んでいることがむ
しろほかの地域に住むよりもいっそう苦しいが、これは首都では個人的な商業行為が
より厳格に統制されるためであるという。平壌に住んでいる人たちは闇市で売れるも
のがあっても飢えるほかないという皮肉なこともいわれる。
 
(4)チャン・ホヨン
チャン・ホヨンは1999年9月の初め、国境を越えた。彼は貧しい家で生まれた。彼の
父親は運転手として働き、自分自身は3年間映画撮影所で仕事をしたという。子供の
頃、肺炎を患った関係で、背が非常に小さかった。彼の父親は心臓病で1994年に死亡
し、母親は1997年飢えと病で死亡し、二人の兄弟も死亡したという。彼の家族のうち
4人が飢饉により死亡し、これ以上北朝鮮にいる理由がないという考えをもったとい
う。
チャン・ホヨンは中国にいる間、韓国人に会いながら、恐怖感はだいぶ薄らいだが韓
国に対する偏見のため、韓国に来ることが恐ろしかったと告白した。「越境した罪が
赦免されるとしたら、北朝鮮に戻りたいか」という質問に「統一前には帰りたくな
い」と答えた。労働の対価を受けられない国には戻りたくないということで、特権階
級に属する党員たちや日本帝国主義時代に抵抗して独立運動をした人たちは特別な待
遇を受け、平民は蔑視されるといった。
しかし、北朝鮮によい点が2つあるといえば、それは無償治療と食料配給制だったと
いう。しかし、家があまりにも困窮し、物を売りに出なければならず、そのため、職
場に出なかったという理由で逮捕され、拘留場に送られたときいままでの不満が明ら
かに怒りに変わったという。拘禁されていた15日の間、母の葬式にも参席することが
できず、彼はただ生きるためにしたことのためこのような処罰を受けなければならな
かったことに対して怒りを感じたという。
 
(5)キム・クァンホ
キム・クァンホは配給が切れ、生活が困難になった後、中国に行く方がチャンスが多
いといううわさを聞き、1999年6月19日、一人で中国に脱北したという。彼の母は
1996年に脱北し、父は1999年1月に脱北したという。しかし、父母たちが死んだのは
飢えではなく、病のためであったという。父母二人とも職業があったため、飢えて死
ぬような状況ではなかったということである。
彼の計画は中国でお金を稼ぎ、北朝鮮に戻ることだったが、すぐにそう簡単ではない
ことに気づいたという。脱北者たちに対する現状が日に日に厳しくなり、越境は一番
深刻な犯罪のうちの一つであり、帰ることも出ることもできない状況であったとい
う。彼は言語と風習が同じである韓国に行きたいといった。
 
(6)キム・ソンイル
インタビュー内容なし。
 
(7)キム・ウンチョル
キム・ウンチョルは故郷が咸鏡北道茂山(ムサン)だった。彼の父は失業者で母は10歳
のとき死亡したという。父が職業がない状況で8人の子供たちの生活は厳しかったと
いう。茂山で彼は学生だったが、北朝鮮を去ることになった理由は、貧しさから自由
になり、よりよい生活を求めてのことだったという。
彼は密輸をしてお金を稼ぐため、5〜6回中国に行ったことがあり、最後に国境を越え
たのが1999年7月21日だったという。
彼は毎日知らない人たちの助けを受けながら生計を立てていたという。7人の脱北者
のうち、ほかの6人とは違い、キム・ウンチョルは北朝鮮に戻り貿易をしてお金を稼
ぐことを希望した。父と妹、弟はまだ北朝鮮にいるという。
 
III.新たな証言者たち
以後、「7人の脱北者」事件は人々の記憶の中で忘れられてきた。しかし、北朝鮮人
権市民連合はこの事件を持続的に追跡して、解決しなければならない重点課題とし、
追加調査を実施してきた。1999年12月ソウルで開催した「第1回北朝鮮人権・難民問
題国際会議」以後、2002年2月日本実行委員会と共同主催して、東京で開催した「第3
回北朝鮮人権・難民問題国際会議」でも「7人の脱北者事件」のドキュメンタリーを
再び制作し、放映することでこの事件に対する持続的な関心の必要性を国際社会に訴
えた。
以後2002年最初の重要な証言者を確保することができ、行方がまったくわからなかっ
1人の脱北者、キム・ウンチョルの親戚から、キム・ウンチョルが中国から北朝鮮
への送還途中に脱出したが、すぐに再び逮捕され耀徳収容所に連行されたという重要
な証言を得ることができ、2005年10月、韓国へ入国した咸鏡南道耀徳15号革命化区域
の収監者だったキム・スチョル(仮名)からほかのキム・ウンチョルを含む7人に関す
る重要な証言を確保することができた。
以下の内容は2人の決定的な証言者たちとの面談を通して確保したもので、必要なと
きは特別報告官の直接面談をお勧めする。
 
1.キム・スチョル(仮名、男性、60代)
2000年初め〜2003年まで 革命化区域(15号耀徳収容所)体験者
15号耀徳収容所へ送られたホ・ヨンイル、パン・ヨンシル、リ・ドンミョン、チャ
ン・ホヨン、キム・ウンチョルとともに収容所内で一緒にいた。
・現在韓国に居住。
・面談日時:2000年10月19日、18:00〜20:00時
・ホ・ヨンイル、パン・ヨンスン、リ・ドンミョン、チャン・ホヨン、キム・ウン
チョルなど5人は2000年7月4日にすべて15号耀徳収容所へ入った。
・女性の名前はパン・ヨンシルではなくパン・ヨンスンという。国家安全保衛部の調
査過程で、拷問を厳しく受けたように見え、初めて入ったときからほとんど死ぬ寸前
の状態だった。骨と皮しかないない状態で来て、一度も作業に出られないほど衰弱し
ていて、2000年9月に死んだ。
・チャン・ホヨンはリ・ドンミョンと同じ年で、平壌時代から友人であった。父母も
なく本当にかわいそうな子供だった。胃が悪く、外で手術をしたというが、胸の肉が
大きくえぐられた状態だった。
・ホ・ヨンイルなど聞いた内容によると、13歳だったキム・ソンイルは収容所に入る
直前、すでに拘留場で死んだという。
・キム・クァンホは成分と土台(訳注:出身、家柄や教育など)がよくなく、ほかの人
たちとは違い、1人終身収容所(完全統制区域)に送られたと聞いたという。
・確認されなかった1人、キム・ウンチョルは中国から北朝鮮に送還されるとき逃亡
して、実家である咸鏡北道茂山セゴリに隠れたが、自分の家ですぐに捕らえられ、15
号耀徳収容所に入ってきたという。
 
(写真と名簿を確認した後)この人たちは全部知っていますよ。みんな一緒にいました
から。35号室のやつら(工作員)もこの人たちがロシア放送でも、日本の放送でも全部
放送された人たちだということをよく知っていましたよ。私が15号から出るときはま
だみんなその中にいました。その中に入ってくるときは、普通3年といいますが、正
確には刑期が何年ずつだったのか私たちは知りません。もしかしたらもう出所したの
かも知れません。
チャン・ホヨンのような人は胃がよくなく、生きているのか死んでいるのかわかりま
せん。外にいるとき、手術をしたとのことですが、お腹をこれぐらい切り取られた状
態でした。
キム・クァンホは15号に入れず、本来から土台が悪いとして分離され、終身収容所(
完全統制区域)で行ったので、華城(ファソン)へ行ったのか、死んだのか生きている
のかわかりません。たぶん死んだでしょう。
パン・ヨンスンは本当にかわいそうな死に方でした。入るときはそれでも骨と皮が付
いていまして、あれが人間なのだろうかと思いましたが…そのとき見たら、人が痩せ
ると何というのか、骨ばかりで足の骨が浮き出ていて、とても見ることができません
でした。入る前にすでに拘留場の生活で死ぬ寸前の状態だったため、作業には一回も
出られず、そのまま死にました。7〜8月の2ヶ月間生きて、9月に死にました。
彼女はホ・ヨンイルの妻でしょう?ホ・ヨンイルは自分の妻なのだから、パン・ヨン
スンが死ぬ前にその中ではありもしない飴を見つけて食べさせて助けたいとあちらこ
ちら調べて走り回る姿はちょっと哀れでしたよ。パン・ヨンスンが死んだとき、入る
ときに来ていた赤い服でおおってあげました。ホ・ヨンイルはどれほどたくさん泣い
たか分かりませんね。パン・ヨンスンを埋めるときは、私が直接埋めたのでよく知っ
ています。ホ・ヨンイルは「これが私の妻の服」だといいながら捕まってきたとき来
ていた赤いコールテンのジャンパーのような服を死体にかけてあげました。
もともとホ・ヨンイルは軍隊へは行きましたが、結局入党はできず生活除隊(軍隊で
事故を起こして除隊すること)したそうです。それでパン・ヨンスンの家では党員に
もなれず、除隊した人間だと結婚することを激しく反対したそうですが、パン・ヨン
スンは本来の故郷は咸鏡北道富寧(プリョン)郡古茂山(コムサン)で、吉州に引っ越し
て生活するうちにホ・ヨンイルと出会ったそうです。
キム・ウンチョルは北朝鮮に送還されるとき、雪道をただ走って逃げたそうです。暗
くて寒い頃だったから、体が小さく雪道をただ無我夢中で走ったら捕まらなかったそ
うです。それでそのように逃げ出してしばらくするとお寺があったそうです。そこで
助けてくれといったらかくまってくれ、食べ物もくれたので何日か過ごしたそうで
す。それでその生活しているとすぐに捕まりそうで不安になり、北朝鮮の家が懐かし
くなったそうです。誰もわからないだろうとこっそりと実家に戻って隠れて生活しよ
うとしたようですね。それで家に戻ったら、そこで捕まったそうです。家が「咸鏡南
道茂山郡セゴリ」だといっていました。
最初に人々が入ってくると、大半は建設班になります。ホ・ヨンイル、パン・ヨンス
ンは夫婦でしたが、家族が入ってきても家族区域に行かせず、家族を全部ばらばらに
独身者区域に入れました。
チャン・ホヨンのことが頭に残っていますね。胃が悪く、ずっと吐いてばかりで食べ
ることができず、病院へ行くことは行きましたが、病院といっても歯もペンチでただ
抜くようなところだから、別に治療などしてもらっていないのでしょう。それでもた
ぶん生きていることでしょう。
リ・ドンミョンは担任の先生に密告(いいつける)する癖があり、私も一度死にそうな
目に遭いました。すぐに逃げ出す性格もありました。
私の目の上の傷はキム・ウンチョルが投げた石が当たってできたものです。ウンチョ
ルに仕事をしろといったら、キム・ウンチョルが「どうして私だけ何度もつらい仕事
をさせるのか?」と反抗するから、「この野郎…」といいながらこづいたら、こいつ
が腹を立てて石を投げたんです。
20人が1つの分組で、逃走を防止するために3人単位で動きました。便所に行くのも3
1組で行きました。(参考までに、終身収容所、すなわち完全統制区域は5人組で活
動し、いつも一列に並んで動く)昼食に仕事をしていて再び食堂まで来て食べるに
は、あまりに遠く、作業現場でもらったトウモロコシ入り米でご飯を炊いて食べまし
た。
15号には、脱北してから捕まってきた人たちが多かったです。未成年者だとしても全
部こちらに来ますね。幼い子供だからといって特別に大目に見てやるということはあ
りません。大人から子供まで、全部反動者なので「大きい反動者や小さい反動者」な
どという違いがあるはずがないのでしょう。
脱北してから保衛部に拉致されてくる場合もあります。私が知っているのは、中国へ
派遣された保衛部の拉致組の人たちの罠にはまって来た例ですが、「韓国へ行こう」
といいながら韓国語をよくしゃべる拉致組の人たちの罠にかかったものでした。だま
されて船に乗ったのですが、韓国って一体ここのどこが韓国なんだ?、いざ到着して
みたら「降りろ、この反動者ども…」といわれたそうです。そんな風にして捕まえら
れてきたのです。
 
2.キム・サンウォン(仮名、男性、40歳)
 
・生年月日:1967年6月25日
・北朝鮮での住所:咸鏡北道茂山郡
7人の脱北者のうち行方がわからなかった残りの1人(キム・ウンチョル)の親戚
2001年11月韓国に入国、現在韓国に居住。
・面談日時:2002年1月/2004年10月19日。
 
・親戚:キム・ウンチョル(7人の脱北者のうち中国から北朝鮮への強制送還時の脱出
)は最初1996年脱北した。
・キム・ウンチョルは1997年7月韓国へ行くため、中国で会ったほかの6人と一緒にロ
シアへ行ってから捕まった。
・親戚キム・サンウォンによると、キム・ウンチョルは中国から北朝鮮へ強制送還さ
れるとき夜間だったため、暗がりをぬって逃げだし、1人で中国で逃げ回る中国公安
の包囲網が狭くなり、逃げるのが難しくなり、故郷の家が懐かしくなったこともあり
2000年1月に自ら北朝鮮にこっそりと入ったという。
・キム・ウンチョルは2000年1月20日、咸鏡北道茂山郡セゴリにある自分の家で国家
安全保衛部に逮捕される。
・逮捕後、キム・ウンチョルは茂山郡国家安全保衛部で調査を受ける。
・キム・ウンチョルは国家安全保衛部で6ヶ月間の厳しい拷問を受けた末、政治犯と
して3年の刑を受け、2000年7月頃、咸鏡南道耀徳郡15号革命化区域に送られたとい
う。
・親戚であるキム・サンウォンは脱北して、2001年に韓国へ入国する。
・親戚であるキム・サンウォンによると、キム・ウンチョルは2004年耀徳15号革命化
区域から出て、再び脱北したという。
・先に韓国に来ていた親戚、キム・サンウォンが2004年中国へ行き、キム・ウンチョ
ルに会い、韓国行きを手助けして、キム・ウンチョルは2005年10月第三国の安全な場
所に到着した状態である。
 
3.キム・ウンチョル(男性、25歳)
・生年月日:1980年3月24日
・北朝鮮での住所:咸鏡北道茂山郡セゴリ
7人の脱北者のうち行方がわからなかった残りの1人である。
2004年耀徳15号収容所から刑期を終えて出て、中国へ再び脱北。
2004年韓国へ来た親戚、キム・サンウォンの助けで2005年10月第三国の安全なとこ
ろへ到着し、現在韓国入国の待機中である。
・面談未実施
 
IV.結論および提案
 
以上のように北朝鮮人権市民連合が調査した内容を土台に彼らの人的事項と現在の状
況を改めて整理すると、つぎの<表>の通りである。
 
結論的に以上の内容を総合して見ると、2001年7月、北朝鮮が国連人権理事会に提出
した「29項目の書面質疑」に対する答弁の真偽を疑うほかないいくつかの重大な問題
点が浮かび上がる。
 
第一点、北朝鮮側の報告書は中国から受け入れた数字は7人ではなく、6人であると説
明したが、証言者によると報告書の提出時点である2001年7月以前にすでに2000年1月
咸鏡北道茂山郡セゴリにある自宅でキム・ウンチョルを逮捕しており、6ヶ月間国家
安全保衛部で調査を実施した後、2000年7月、耀徳15号革命化区域に収監したにも関
わらず、キム・ウンチョルに対しては中国から直接受け入れなかったという理由で意
図的に除外したという点である。
 
<表2> 2000年1月中国から送還された人々の現況(北朝鮮人権市民連合)
 
区分
氏名
性別
年齢
逮捕当時
現在
出身地
関係
現在
 
1
ホ・ヨンイル
30歳
35歳
咸鏡北道吉州郡および咸鏡北道豊寧郡
夫婦
2000年7月4日革命化区域(15号耀徳)に収監、生存可能性あり
 
2
パン・ヨンシル(本名:パン・ヨンスン)
26歳
死亡
咸鏡北道吉州郡および咸鏡北道富寧郡
2000年7月4日革命化区域(15号耀徳)に収監、2000年9月死亡
 
3
リ・ドンミョン
22〜24歳
27〜29歳
平壌市万景台区域
友人
 
2000年7月4日革命化区域(15号耀徳)に収監、生存可能性あり
 
4
チャン・ホヨン
22〜24歳
27〜29歳
平壌市万景台区域
2000年7月4日革命化区域(15号耀徳)に収監、生存可能性あり
 
5
キム・クァンホ
23歳
28歳
咸鏡南道高原(コウォン)郡
完全統制区域(終身収容所)別途収監
 
6
キム・ソンイル
13歳
死亡
鏡南道端川市
2000年春〜6月の間に拘留場にて死亡
 
7
キム・ウンチョル
20歳
25歳
咸鏡北道セゴリ
2000年7月4日革命化区域(15号耀徳)収監
2004年出監後、再脱北、2005年10月第三国の安全な場所に到着
 
2点、北朝鮮側の報告書は、ホ・ヨンイルとパン・ヨンシルの二人のみ各々9年と5
年の労働教化刑を宣告し、残り4人(リ・ドンミョン、チャン・ホヨン、キム・クァン
ホ、キム・ソンイル)については、脱北前に生活していた場所に帰したと説明した
が、新しい証言者たちによると、リ・ドンミョン、チャン・ホヨン、キム・ウンチョ
ルの3人を含めた5人を耀徳15号革命化区域に収監し、キム・クァンホは成分と土台が
悪いといわれ、完全統制区域(終身収容所)のうちの一カ所に送ったという点である。
 
 
3点、証言者キム・スチョル(仮名)によると、キム・ソンイルは13歳で未成年者で
あるにも関わらず拘留場に収監し、収監中に死亡するよう放置された可能性が疑われ
る。これは北朝鮮も加入している国連児童権利協約に違反する明白な児童の権利侵害
の事案に該当する。
 
北朝鮮人権市民連合は特別報告官が2006年度北朝鮮人権実態報告書につぎのような事
項を含めてくれることを希望する。
 
1点、北朝鮮当局が「7人の脱北者の強制送還事件」以後の経過および現在の状況に
ついて誠実かつ真実の報告をするように一切の事実について全面的な再報告の必要性
を強調することを望む。
 
2点、ロシアと中国当局には類似した状況が発生した場合、UNHCRの難民地位判定を
尊重し、国際人権協約と強制送還禁止の原則を遵守するように再度強調することを望
む。
 
3点、北朝鮮当局には、強制送還された脱北者たちに対する処罰を緩和し、強制収
容所を以後漸進的に閉鎖して、人権状況を改善できるように勧告することを望む。
 
さらに、北朝鮮人権市民連合は特別報告官に現在第三国に保護されているキム・ウン
チョルと直接面談することを望む。北朝鮮側は「脱北者たちを、祖国に対する裏切り
者」で、韓国の「国家情報員の工作と洗脳教育を受け、共和国を中傷謀略するうその
証言をする」と主張してきたので、韓国に入る前に、第三国でキム・ウンチョルと直
接面談することは証言の信頼度を高めるために非常に重要なためである。
 
北朝鮮人権市民連合の活動について、特別報告官の格別の関心と北朝鮮人民の人権を
保護するための労苦と熱情に深く感謝し、神の加護が得られることを祈願します。