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『隠された戦争』
(萩原遼 著)


「生命

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◆安明哲  アン ミョンチョル
1969年、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)咸鏡南道洪原郡生まれ。
1987年、洪原農業専門学校を卒業2ヵ月前に入隊、11号政治犯強制収容所で新兵としての教育を受ける。その後、13号、22号、26号等の収容所で警備隊員として勤務、政治犯の監督にあたる。
 1994年9月、単身北朝鮮を脱出、中国経由で韓国に亡命。「北朝鮮絶望収容所」を発表、一大センセーションを巻き起こす。現在、韓国京畿道の農協に勤務。

◆金泰振 キムテジン
1956年生まれ。
中国に親戚がいたため、労働党員にもなれず、大学にも入れず長年北朝鮮社会に恨みを抱き続け、
1986324日中国に脱出。
19877月中公安に逮捕され、北朝鮮に送還。1988331日から耀徳15号収容所に送られ1992410日まで収監。1988年収容所の中で安赫と知り合う。
 家に戻ったが妻から離婚を求められ、母さえも本人が養子であることを理由に一緒にくらすことをいやがられ、ついに脱北を決意。
199747日脱北。20016月韓国に亡命。
現在、韓国総神大学神学部に在学。「政冶犯収容所解体運動本部」宣教(missionary works)部長。

安明哲氏(右)と金泰振氏(左)

金泰振  キムテジン 証言
  6月3日に収容所で苦労した体験を有する
者たちが集まりまして、未だ北朝鮮に残って
苦労している人たちを一日も早く救出するた
めにたとえ小さな力であっても何かするべき
ではないか、立ち上がりました。

  そして6月3日に解体設立本部を立ち上げ
まして集まった中で盛大に第一声を上げたわ
けです。
  そのように人民のために何かをしようと歩
み始めたわけですけれども、一言で言って大
変不満足な状況です。
金正日が依然であれば到底そうでないと思っ
ていたんですけれども、拉致を認めました。
拉致を認めた姿を見て私たちの考えが変わり
ました。
  拉致問題というのは在日朝鮮人と関係のあ
る問題だと思うし、日本の人だけの問題では
ない。日本の人々は、収容所の問題は朝鮮半
島の問題とお考えかしれませんが、これはす
べて関わっているこという自覚にいたりまし
た。
  そのような考えのもとに日本の守る会と共
同で北朝鮮の現実を日本国内で知らせる活動
というのも始めまして今回多くの方々の関心
を示していただきましたし、準備に力を注い
で下さった、守る会とこうしてこの場に集っ
て下さった皆様に感謝を申し上げたいと思い
ます。
  政治犯収容所の問題、拉致の問題等など北
朝鮮内の人権問題がすでに知られていること
と思います。
  今回時間の制約もあることで詳しく申し上
げられないかも知れませんが、収容所の中で
実際に体験した数々のことを皆様にお伝えし
ようと思います。
  私は56年に中国で生まれまして、6歳ま
ですごした後に母に連れられて北朝鮮に帰り
ました。
  私はチョンジンで幼い幼年期を過ごし、ウ
ォンサンで高校を卒業した後にピョウやンで
近くのキョンソンで脱北するまで過ごしてい
ました。
  私は北朝鮮にいましてなぜか体制の不条理
というものを意識せざるを得ませんでした。
ちょっとしたことで本人のみならず家族まで
収容所に送ってしまう北朝鮮のやり方、たと
えば金にちせいの写真をちょっと汚してしま
った、破いてしまったということだけで本人
ばかりか家族までも収容所に送ってしまう、
憲法においては結社の自由、デモの自由があ
る、を謳っておりますが、そうしたキズが少
しでも見えれば、本人ばかりか家族までも送
ってしまうそうした北朝鮮のやり方、周囲の
ものの中でそういう目に会った人が23回直
接目撃してから体制に対する不信というもの
が決定的になりました。
  私、60年の後半だと思うんですけど、日
本の時代という雑誌だったんですけど一人で
デモをしている姿が映っていたんですね、
その人たちの姿を見ますと飢えた人のように
は見えない、その人たちが体制に反対して決
起して異議を申し立てしているという姿なん
ですね。
  中国がひとまず解放をした後に親戚に会う
ためにひとまず中国に入ります。
 その親戚の家で1年4ヵ月あまり過ごしたん
ですけれどもただ親類に何時までも頼ること
も出来ずに一人で炭坑で働いておりました。
その時の住所は吉林省ののなんとかといいま
しだが、そこでキリスト教に出会うこととな
りました。
  1987年7月25日のことであります
が、当時も現在も中国共産党はキリスト教の
団体を監視下においていますけれども私自身
がその監視網に引っかかり怪しいものという
ことでその日の夕方の7時ごろに捕まりまし
て、強制送還されました。
  私は北朝鮮を自ら脱出しているものですか
ら民族と祖国に背いた民族反逆者という罪名
を被せられ、なおかつ偶像を崇拝したという
ことと重なって、北朝鮮では信仰生活という
ことはまったく考えられないことでありま
す。金にちせい以外に信じているということ
になりますと、あまさず粛正の対象でありま
して、その罪が三つ重なって8ヶ月間の過酷
な取り調べの後、88年3月31日ヨドクに
ある人民軍警備隊0000という管理所に送
り込まれました。
  収容所の写真というのは今回公開されまし
たけれども地方講演にお持ちすることが出来
なかったので、絵に書きました。その冊子の
中に織り込まれている地図がそれでありま
す。表面は完全統制区とされているヨンピョ
ンでありますし、竜の壷と書く、裏面が革命
化区域の略図です。
  どのようなつながりかといいますと、それ
の表の下の部分と裏の上の部分が続くつなが
りと思って下さい。

  今回、衛星写真、東京では公開しました
が、今後さまざまな形で皆様の目に触れるこ
とになると思います。
 幸いなことに9月30日に北朝鮮の全収容所
の衛星写真がアメリカの人権委員会というと
ころの手によって公開される運びになってい
ます。万が一、その時、15号ヨドク収容所
の革命化区域の図が私の提示したものと違っ
ているということであれば、私たちの証言の
真実性が疑われても当然ですね、
  ですから、今回私どもの証言が信じていた
だけるという前提のもとにお話させて頂こう
と思います。
  今現在、革命化区域となっている、裏部分
をご覧頂ながらお話さしていただきます。
  左側は北朝鮮の原住民、元々住民北朝鮮の
人々だった方々が入れられている第一作業
班。右側が在日朝鮮帰国者が住んでいた地
域。下のほうに鉄条網が描かれておりますけ
れども独身者が入れられている独身者中隊と
いうのがあります。
 そこでの生活について簡潔にお話します。
私たちはそこで農業、木材加工、山に登って
木材の伐採、そうしたことを主にやりまし
た。
 普通は朝3時から4時に作業を始めまし
て、夕方は暗くなると作業を終えることが多
かったです。それは何故かというと暗くなる
と逃走する虞が高まるということで作業を終
えていたんですね。
 機械化されておりませんから当然人手で大
変しんどいわけです。農業もなかなかしんど
いものだなとこの時身にしみて感じたわけで
す。
 その中にも帰国者でありましても海外の親
族からの支援は受けられない人が入っており
まして、大体入れられた人々というのが、入
れられる前に過酷な扱いを受けております。
大体8ヵ月から2年の過酷な取り調べの末に
入れられておりますので、既に体がぼろぼろ
です。しかも入ってから栄養失調に見舞われ
ますので。
 実は飢えを1度2度3度と分類しているそ
うです。3度となりますと、生きてはいけな
いまず死ぬ、こういう人はここには居りませ
ん。ここに入れられているのは2度、命だけ
はながらえているという状況です。
 冬には主に薪取り、木材の伐採もやりました
し、あと山に登って山菜摘みとかそうことが
おおかったが、数多く人々が転げ落ちて死ぬ
ということがありました。
 食事はどういう状況になっているかといい
ますと、トウモロコシがあてがわれるわけで
すが、機械で砕いたものなんですね。本来、
公的な基準では一食あたり130グラムを割
り当てることになっておりますが、これは食
堂で働くものや収容所の責任を持つものがど
んどんかすめてしまいますので、そうした量
はまわりません。多く見せるためにくだいた
ものをおかずのようにして、それは硬くなっ
ているのですが、それは器に盛りましても底
が透けて見えるような分量しかいただけませ
ん。
 そうした食事がほぼ全部でありまして食用
油などが口に出来る機会というのはまずあり
ません。
ヘビですとかねずみとか、こうしたものを
捕まえられた日というのは大変な幸運な日で
ありまして、それだけで力が回復できる幸福
な一日になります。

 こうして何とか飢えを凌いでおりますけれ
ども、野菜がありませんので、一つの組を作
って山菜取りをしますが、食べられるものは
行った人たちが飢えておりますから口に入れ
てしまうわけですね、それ以外の木の皮です
とか、食用にあまり適さないものばかりを持
って降りてくる、それは水で何度も茹でない
と引き続き黒い汁が出てくる食に適さないも
のでした。
 そうしたものであっても、ほんのちょっと
塩だけ混ぜたものになりますけれども、そう
したであっても何とか少しでも多く飲みたい
という状況でした。
 そうした生きる保証のないところで、逃れ
ようということで、脱走した事例が私が居た
間に5回ほどあったようです。
 ところが大変自然の妙で御座いまして、なん
とか逃げまして駆けずって少し休んで気がつ
いてみると元来た場所に戻っていたというよ
うなことがありました。私が居た革命化区域
と完全統制下区域を合わせますと、東西に3
4キロ南北に20キロという広大な地域が収
容所の区域です。
 警備も大変厳しいもので警備隊が配置され
ておりますし、鉄条網高さ2.5メートルの
鉄条網で覆っておりさらにその外側では落と
し穴が掘ってある、ですから逃げ出すのは大
変難しい。
 捕まりますと短い尋問の後に、100パー
セント銃殺されるわけですけれども、銃殺さ
れる人間が引き出されていく姿を見る機会が
ありました。たいがいマスクされているんで
すけれども、私が隠し見たところでは引き出
されていく人間の口には、川辺にある小さい
丸い石が詰め込まれて歯が全部たたき折られ
て、口の中には石がぎっしりつめこまれてい
た。
 われわれを全部あつめておいたところに、
彼を引きづり出してきてひざまづかせて、死
刑の準備をしました。
その処刑場がこの図の下の部分なんですが、
処刑場とかいてあります。
 そして私たちに完全武装した警備隊が銃を向
けている中で、刑が執行されます。
 10メートルにもならない短い距離で銃撃手
が3名出てきて、一人当たり三発計9発を撃
ち込みます。そして下士官が死刑囚のところ
に行って死んでいることを確認するために頭
に大体2発拳銃を撃ち込みます。
 そして隣に木の板を渡しているものに死体を
乗せて車の方に運んでいきます。体が少し車
からはみ出しているんですけど、それがどこ
に運ばれていくのか私たちは知りません。

 元来、収容所内においても原住民と帰国者は
分けられて接触が出来ないようになっていま
す。何故かというと資本主義の風潮を原住民
に伝播させる虞があるということで遮断され
ているわけです。私は帰国者たちと一緒に暮
らした期間がありました。その時収容所には
帰国者が数多く収容されておりましたが、ど
ういう訳で入れられたのかと聞いたらスパイ
ということで、スパイも随分多いものだなと
感じました。
 その中で、日本のアスファルト敷設の技術
を北朝鮮に伝えようとして帰国してきた技術
者たちが主に捕まったアスファルト・スパイ
団事件、それでスパイの罪名をかぶせられて
入れられた人たちと、それと総連中央本部ス
パイ団事件という大型の事件がありまして、
その二つの事件で専らスパイの汚名を着せら
れていれられた人たちが多かった。
 彼らが本当にスパイかどうか私には確認する
すべはありませんが、彼らは一応にスパイで
はないと否定し続けために、自分たちの罪を
認めないという一点で引き続き15年から17年
その中に入れられました。
 収容所の中の帰国者は、学習ということを
やるんですけど、その班の中に日本人妻がい
ました。私は当時、言葉を交わすこともなく
名前も聞いておらずに今となっては確認する
ことも出来ないのですか、日本人妻だったと
いう方がおりました。その中で私が名前を聞
いて記憶している方は、何人かお伝えしよう
と思います、もしかしたら知っている方がお
られるかもしれないという期待を込めて。
 本人が言う言葉によると日本ではヤクザにも
なっていたという人間で、キンチョン・ミョ
ンという方がいました。チェスンヒ、チェキ
ョンニンという女性の方々、生きていれば今
50代です。チャンチュンブ、キンテイイン、
多くの方々の名前を記憶にとどめております
けれども、子供のことについても聞いていま
すが、これは公開もされていますので皆様ご
存知かもしれません。
 北朝鮮では政治犯の汚名を被せられた者は
もはや人間としては扱われないんですね、政
治的生命のないものは人間ではないというこ
とになります、単なる動物と一緒だというこ
とになります。私は、妻より離婚訴訟を起こ
されまして、その離婚訴訟を終えた後に収容
所に送られました。私は元々刑期としては三
年となっておりました。これは裁判もなにも
ないんですよ、お前は三年だと言われまし
た。
 ところが、本来でしたら1991年四月に出てく
るはずのところですが、収容所にいる時に帰
国者のチェヨンミンという女性で、朝鮮中央
放送の日本語のアナウンサーをしていた方な
んですが、90年当時にはこの方には8歳にな
るヘイルという子供がいました。本来、収容
所内では男女関係というのは厳禁でございま
して、恋愛というのはあってはならないとい
うことになっているんですが、そのチェヨン
ミンという方と私が男女関係になりまして、
当時(キムテジンさんは)収容所のある作業
者の責任者の立場になっておりまして、国家
保衛部より関係を切るように、切らなければ
処罰すると脅されたんですけれども、結局こ
れを聞き入れずに、収容所の中の更に収容所
といわれる勾留所というところがあります。
これは収容者に更に重い罰を課すところです
けれども、この中に1ヶ月間行政処罰として
入れられて収容期間一年延長の後92年に収容
所から出されました。
 その中で更にどういうことを経験していっ
たかということを二・三お話しします。
 飢えというものがどれほどむごいものかとい
うと、死人を埋める作業をしますと一杯のト
ウモロコシをいただけるんですね、その一杯
のトウモロコシのために皆志願しまして、死
体の傍でご飯を食べているんです。
 食べ物を手に入れるためには何でもやる、お
互いに奪い合うこともする、人間性というも
のを喪失した状態になります。
 そのようになって収容者が死にますと家族
にも知らせないんですが、一度こういうこと
がありました。
 そこであったことは一切口外しないという
ことを誓約して出てくるんですが、ある村で
政治犯の死人が出ましてその家が葬式を始め
ました。それを察知した保衛部が調査を始め
ました。本人が死んだ日付と葬式を始めた日
付が近いので、保衛部が調査したところ、あ
る人が家族に何時何時死んだということを教
えてあげた、本来こあいあことは伝えてはな
らないことになっているんですが、死者の家
族にある人が教えてあげたことが発覚してし
まった。
 その問題のために知らせてあげた人は刑期
が二年伸びまして入れられました。

 北朝鮮では95年、96年、餓死者が大量に発生
した時期においてもテレビでは大変な豊作で
あるという映像を流し、スケソウダラが大漁
であるという映像を流しておりました。
 彼らは自分たちがやっているとんでもない行
為を覆い隠そうといてそうした宣伝を引き続
きやっておりますがいくら隠そうとしたとこ
ろで、これまでも明るみに出てきたように今
後も明るみに出て来ると思います。そうした
ことは後で明らかになることでしょうから、
その後については私たちは考えることがあり
ます。
 現在世界の中で北朝鮮がそれほど最悪の状
況であるということを信じられない方々、ま
だ知って居られない方々がまだまだ居られる
と思うんですね。
 多くの人々がこうした内情を知るようにした
後に国際機関が総力をあげてこうした北朝鮮
の難病、末期症状をどうするのかということ
を、その治療にあたらなければならないと思
います。
 北朝鮮の人民たちも人間であります。彼ら
が人間らしく生きられる、人権の光が射し込
むその日まで、こうしてお集まりの方々が力
を合わせていただくことを心から願って私の
話とさせていただきます。


証言 アン ミョンチョル

 北朝鮮のフェリョンにある22号管理所で警
備員として勤務したのち韓国に亡命したミョ
ンチョルと言います。
私は北朝鮮にいる当時、国家安全保衛部フ
ェリョン収容所警備隊に所属しまして4つの
収容所を勤めました。北朝鮮では政治犯収容
所という言葉を使いませんで、国家安全保衛
部○○○と地域名を付しまして人民軍警備隊
○○○分駐所と、そのような名前を使ってお
ります。
 そして政治犯という言葉も使いませんで、
移住者と称しております。
私が何故収容所の警備隊員になれたかといい
ますと、父が配給をつかさどる党の幹部をや
っておりまして、その力があって87年に警備
隊員として勤務を始めました。警備隊員とい
うのは北朝鮮での最高のエリート、保衛部の
幹部ですとか党の幹部の師弟が配置されると
ころとなっています。
 私はその警備隊員に入隊する前は収容所が
あるということは全く知りませんでしたし、
金日成金正日がいう通り北朝鮮が世界で最も
幸福な国であるということを信じておりまし
た。
 私が最初に配属された収容所はハンギョン
ブットウ感興北道11号にあるキョンソンの収
容所でありました。
 その11号収容所は金日成の別荘を作るために
閉鎖されました。ここは風景の大変いいとこ
ろで第二のコンゴウサンと呼ばれるくらいに
景色が素晴らしいところです。
 温泉も出まして湧き上がってくる湯も40度
になるほどの良質な温泉です。
最初11号に配置されたわけですけれども、
軍団のほうから指示されたことは、移住者た
ちに接するときに言葉を掛けたり笑ったり彼
らの願いを万が一聞き入れたりする場合に
は、お前たちも彼らと同じように処罰の対象
になるということを言われておりました。
 最初、移住者たちの姿を見たときに果たし
て人間なのだろうか、何なのだろうかという
疑問がわいてくるような姿でした。北朝鮮で
は韓国を誹謗しまして多くの人々が苦しんで
いる乞食になっているという映画を作って
人々に見せておりました。その映画で出てく
る乞食もはるかに及ばないようなひどい姿で
した。
 人間が両足でたって歩いているから人間で
あるというのもあるんですが、彼らの中で二
本足で立って歩いている人はいないんです
ね、彼らは四つんばいでなんとか這っている
というのが大部分でありましてその背も一般
住民に比べるとはるかに低くて、もしかした
らそうした障害者だけを集めたのかなとも思
ったのです。
 このような形で警備隊員として勤務を始め
たわけなんですけれども隊員の宿舎には金日
成・金正日の教示というものを掲げてあるわ
けです。
 教示の内容というのは、人民の天地をとも
に抱くことの出来ない敵(かたき)であると
ころの奴らを三代にわたって滅ぼせ。奴らと
いうのは政治犯のことなんですけれども三代
にわたって滅ぼせというのがある、逃走した
敵たちは射殺せよ、捕らえよというのが掲げ
てある。
 警備隊員のなかで教育のなかで一番比重を
占めているのが思想教育でありまして一日に
二時間程度施されるんですけれども、敵たち
に対してどのように対峙するのかというのが
中心になっている。
 そして訓練というものも専ら暴動や逃走に
どう対応するかというのが念頭の訓練であり
まして、格闘技の訓練もですね、警備隊員一
人に10人の収容者がかかってきた時にどのよ
うに倒すか、収容者を相手に思いっきり実施
しております。
 そのような教育を四六時中受けていたこと
もありまして、私をはじめ同僚たちが、本当
に党と首領を転覆させようと画策するスパイ
たちであり本当に悪い奴等だと考えていまし
て、そうした憎悪の元に彼らを苦しめている
人間たちも非常に多かった。


 私もほぼ三年目あたりまでは収容者たちは
悪い人間だと考えていました。
 私は始め11号のいましたがその後オンソンの
収容所に移りまして外核の警備にあたってい
ましたけれども、警備隊としてしっかり勤務
したのを見込まれて大隊長から運転手をやっ
てみないかと話しを頂いて、大隊本部の運転
手として抜擢され、それが契機になって収容
者に対する見方がだんだん変わって行ったよ
うに思います。
 運転兵として勤めますとどういうことをやる
かといいますと、朝車に乗って兵営を離れ政
治犯の村々を回りながら炭鉱などに行きまし
て、政治犯たちが生産している石炭・トウモ
ロコシ・ジャガイモ、こうした物を載せまし
て保衛部に持っていったり或いは保衛部員た
ちの願いのもとにいろいろな物を運搬したり
とその機会で政治犯たちと話しをする機会が
大変増えました。
 私が車の修理をしようと思いまして、運輸台
といいますが、修理する場所があるんです
ね、私の父親になるほどの政治犯が修理を受
け持っておりました。
 私は車の中にタバコを置いておいたんですけ
れども、修理が終わって行ってみたらタバコ
がなくなっていたんですね、
 修理をした政治犯に、お前タバコを見なかっ
たかとききましたら見なかったと答えた
ものですから私は無条件にその収容者を殴り
つけました。私はさんざん殴りつけた後でそ
の収容者は膝をついて大変誤ったことをして
しまいました、もう二度としませんので命だ
けはなんとか奪わないで下さいと言いまし
て、それをきっかけに一体どういう罪で入っ
てきたのかということを聞くようになりまし
た。
 そして、どうして入って来たのかと聞くと本
人は全く知らないというんですね、どういう
理由で入ったのか分からない、ある日夜中に
突然に車にのせられてこちらに送られてき
た、よくよく考えると、彼の兄は人民武力部
に勤めていたんですけれども、その兄が粛清
されてその連座ということで、本人は何の罪
もないんですけれども送られて来たようだと
言いました。
 そうした話、他の者も聞きましたらそもそも
自分は何の罪で入ってきたのか知らないで送
り込まれてきた人が数多いということが分か
りました。
 私はそれ以降車の修理を頼むときには、車の
中に乾パンや飴、これは収容所内で生産され
ているものなんですが、それを少しずつ置い
ておいてですね、それは修理が終わって来ま
すとなくなっているんですが、そういう形で
常に置いておくようになりました。
 勿論、収容所内の政治犯たちは、北朝鮮政
治体制の被害者でありますが、警備隊員たち
も被害者であるという面があります。
 勿論、警備隊員たちをかばいだてようとする
意図はまったくないんですが。

 私の同僚たちの経験に照らしてフェリョン
の22号収容所では湾岸戦争が終わった後に、
大々的なトンネル工事を始めました。そして
当時、300人の収容者を動員して、保衛部員と
警備隊員が隠れる宿舎を建設しました。当時
彼が所属していた分隊長が政治犯で作業して
いたある女性、ハンジントクと言いますが、
強姦しました。肉体関係を持ったわけであり
ます。元々警備隊員が政治犯とそういう関係
を持つということはとんでもないことになり
ます。警備隊員も若い年月に10年も山の中で
暮らしておりますと外目には人の姿にも見え
ないような政治犯の女性が美しいものに見え
ることがあるんです。それなりに美しいもの
に見える。
 何回かそういう関係を持ったようです。当
時、私は豚舎で豚の飼育を担当しておりまし
たが、後ろでそういう行為に及んでいたとこ
ろを一度目撃いたしました。
 その分隊長は、ハンジントクという女性
に、本来警備隊員が履くところの靴を与えて
あげました。その靴を履いているのを見た同
僚の政治犯たちが保衛部に告げ口をしてしま
ったのです。そしてハンジントクというのは
収容所の懲罰を受ける勾留所というところに
連れて行かれまして、拷問を掛けられたうえ
に、その分隊長と関係を持ったということを
自白し、その分隊長は靴を与えたということ
で軍隊から追い出されました。
 そして保衛部はその女性政治犯に対して二
度と女性として存在できないような 拷問を
加えた末に、炭鉱、収容所でも炭鉱労働はき
つい労働なんですけれども、炭鉱に追い出し
てしまいました。
 そして私が所属している大隊が非常召集を
うけまして、集まったところが分隊長という
のが前に出されて、この者は反党、反政府分
子である除隊させるということ、そういう処
分が取られました。
 その分隊長は後6ヶ月勤めあげさえすれば
ピョンヤンで大学に通うことが出来、そこで
暮らす資格も得られたんですが、故郷である  
農村地帯、サリボンですが、そこらに送り返
され未だに炭鉱で働いていると聞いておりま
す。
 しばらくしてその炭鉱に石炭を積むために
行ったんですけどハンジントクという者の姿
が炭鉱内のトロッコの事故で足をひかれてし
まって両足を失い、膝で歩いている、そうい
う姿に成り果てておりました。
 当時彼女は26歳でありましたから、今でも生
きているとすれば30代半ばになっていると思
います。
 北朝鮮で警備隊員たちが収容者に加えてい
る虐待の数々を具体的に申上げるとするとあ
まりにも凄惨なものが多くて口にするのもは
ばかられるようなものが数多くございます。
警備隊のなかでも収容者とよく接触し話を交
わす機会のある警備隊員たちは実情を知って
彼らを苦しめるようなことをあまりしなくな
ります。むしろ私のように彼らが可哀想に思
えてきて、同僚の軍人のなかには水産物・魚
を保衛部たちに配った後、少し残り物が出た
んですけれどもそれを彼らにわからない様
に、食べてしまえと言って渡す人も、そうし
た人もいました。
 その人もそういう行為をしたことが発覚し
て一週間便所掃除をさせられておりました
が、だからといって厳しく対処することもな
かなか出来ない人たちもいて警備隊などに配
られている食料などを密かに分け与えている
人たちも、わずかであってもいることはいま
した。
 ところがそうした政治犯たちと話を交わす
こともなく、外郭の軍人たちが多うございま
すし、彼らの大部分は政治犯たちが大変悪い
人間であると植えつけられて考えております
から、彼らが大変な苦しみを与えることにな
ります。
 収容所では秋や春になりますと山菜採りを
させるために収容者たちに山に登らせるんで
すけど、彼らが逃走しないように特別のチー
ムを作りまして彼らを監視しています。
 警備隊員たちもただ単に監視だけをやってい
るわけじゃなくて、一定の課題を与えられ
て、これこれの物を取って来いという課題が
与えられるんですね。
 そうした作業は警備隊員たちにとっていや
なものですから政治犯たちが作業している場
所にやってきてそれをまきあげて、それを自
分たちが取ったということにして収容者たち
をその場でくくりつけてほったらかしにして
おくということもあります。

 そうやって一日中木にくくられていた政治
犯も他の政治犯に見つけられて解いてもらい
戻って来るのですが、一日の任務を遂行でき
なかったということで保衛部に大変な扱いを
受けてその日の夕方には食事も与えられない
ということになるわけですが、それでも警備
隊員たちに取られてしまったんですというこ
とは言うことが出来ないんですね。
収容所の隊員たちにも問題が生じまして、当
初警備隊員たちを募集するときには三年勤務
したら保衛部の大学に送ってあげるという約
束で募集をかけるんです。
 私なども三年勤務すれば大学にいけるとい
う条件で入ったんですけれども、どんどん話
が変わってきまして三年が六年になり、六年
が九年になって、そういう長期勤務を嫌がる
隊員には、逃走しようとする政治犯を捕まえ
れば、大学に送ってあげるという話がされて
いましたので、畑で働いている政治犯たちを
強制的に鉄条網か鉄柵のところにつれてきて
それを越えさせようとするのです、ただそれ
をすると死ぬことになると政治犯たちは分か
っていますから越えようとしません、それを
無理やり足蹴りにして鉄条網のところに追い
やって、それを射殺して、逃走しようとする
ものを射殺しましたといって報告をあげて、
そのような形で大学に行くことが出来た同僚
がかなりの数に上ります。

 そうした警備隊員たちが通える大学という
のは、保衛部傘下のピョンヤンの大学であり
まして、一旦大学を卒業しますと更に収容所
のメンバーとして抜擢されて,一たび収容所
勤務に関わりますと秘密保安のためにその勤
務から抜け出せない、そういうサークルにな
っています。
 大学の外にいて勉強できない人たちはピョ
ンヤンのある安全保衛部の方に送られまして
建設部隊があるんですがその配置となって、
保衛部の庁舎の建設とかに従事するようにな
ります。そういう形でピョンヤンでの居住資
格が与えられてそこに住むことが出来るよう
になります。
 これは北朝鮮国内では大変な特別待遇で
す。いくら一般の兵士として勤めたといって
もピョンヤンでの居住許可を与えられるとい
うことはなかなかありません。これは収容所
警備隊員だからこそ与えられる特別な恩恵で
す。
 何故そのような特別待遇を与えるかといい
ますと金日成・金正日の偶像化のために、敵
となった独裁対象者たちを捕まえ警備しその
秘密を保安したものたちであるということ
で、特別待遇が与えられるのです。
 私が収容所に勤務した当時は11の収容所があ
りました。
 当初11箇所あった収容所ですが、国境に近
くて秘密が保てない理由ですとか、収容所の
中で暴動があった、あるいはアムネスティ・
インターナショナルが収容所の存在に気づい
て暴露したとか、いろいろな事情が重なりま
して89年から90年にかけて大々的な改変が行
なわれ、現在収容所は5つに統廃合され、そ
の中に20万人が収容されていると承知してお
ります。
 その中には、元々北朝鮮住民だった方も入
れられておりますが
 日本から帰国した10万人のうち約一割一万人
が入れられておりますし、朝鮮人の夫につい
て帰った日本人妻も多数入れられておりま
す。
 収容所を革命化区域と完全統制化区域と二
つの分類がされています。
革命化区域といいますのが、カンチョルファ
ンや先ほど紹介されたキムテジンさんが入れ
られていたところでありまして、そこは思想
教育、再教育が行われて、一定期間すめば社
会に出る可能性がまだまだ残されているとこ
ろです。

 革命化区域の人間は社会に出る可能性があ
る人たちですので、完全統制化区域に比べる
と、大変な苦痛を伴っていることは事実であ
りますが、それでも完全統制化区域に比べる
とまだましなところであります。
 一般の人間たちは、革命化区域の人間たち
は社会に再復帰するものも多数おりますし、
在日帰国者の場合には日本にいる親戚の訪問
や送ってくるお金を当局が手にするために再
び送り出す可能性が残されていたわけです。
一方で完全統制化区域というところは、政治
犯の命を干からびさせるところでありまし
た。完全統制化区域では、夫婦生活は認めら
れませんし結婚もさせません。
 その中で、生きる希望は何かといいますと
一生懸命仕事をして保衛部員が指名する者と
結婚するということであります。
一年に五組ほどモデル的に結婚させるのみ
でありまして、それ以外は結婚させません。
当初私が勤務していた22号収容所、これは完
全統制化区域ですけれども、そこには学校が
5つ置かれるほど子供たちが多かったんです
けど
 ところが人口を増やさないという政策をと
っているためにですね、当初5つあった学校
が2つに減らしたほど人口が減っておりま
す。
 当然革命化区域でも結婚させたということ
ではないんですね。

 完全統制化区域というのは、どれほど一生
懸命働いても死体さえ外に出られないところ
でありますし、仕事をしている間に早死にし
てもそれすら罪になるというところでありま
す。
 事故や病気で死んでも党と首領に対して犯
した罪をあがなわずに死んだということで、
墓を作らさないのはもとより土に埋めて平た
くしてしまいます。
 私、今回、日本に参りまして朝鮮総連の前
で呼びかけを行いデモもしました。
 日本から渡っていった帰国者たちの責任を取
って、収容所の彼らが出てこられるようにあ
んた方も共に闘えと呼びかけデモもしました
が、彼らが何とかそういう方向で立ち上がっ
てくれることを願っております。
 私は総連の東京高校に行きましたら、北朝
鮮共和国建国の記念行事というのをやってい
ました。学校の入り口には北朝鮮国旗を模し
たものを掲げて記念行事をやっていたんです
けれども、それを見て胸が痛んだんですね、
私自身北朝鮮にいる当時には金日成・金正日
に忠誠を尽くした人間でありますが、韓国に
来てどうだということではないんですけれど
も、総連の彼らもまだ騙されているのかと思
うと哀れでもあるし大変胸が痛みました。
 私が彼らに要求したことは、総連が今も維持
している日本における民族教育というのはそ
れなりに意義を持っているものなんですね、
異国の地において民族の魂を引き継ぐという
のは大変尊いものであり意義のあることでは
ありますが、ただ総連の幹部の何人かがです
ね、いまだに金正日の独裁政権にべったりと
いう形でそれを支えている、こうした形を改
めろと金正日との繋がりを断ち切ったところ
での民族教育をすべきだということを要求し
ました。
 勿論総連が今困難な状況に置かれているこ
とは、私も話には聞いておりますが皆様ご存
知のことと思います。

 今回日本に参りましたのは、私は韓国入り
をしてから建国大学というところを卒業し、
農協に八年勤務しております。その間に守る
会との連携の元に6月3日、収容所解体本部
というものを脱北者たち有志が立ち上げまし
て、今、守る会といった人権団体以外にも、
アメリカの人権団体数多くありますが、彼ら
との協力関係の中で当面の目標として国連の
場において人権問題が一定の議題として可決
されて国連人権委員会の査察団が北朝鮮内に
入りその実態を明るみに出して国際社会の耳
目を集めること、これを当面の目標として活
動しております。
 皆様の御協力、御声援をお願い致します
し、私たちも引き続き実態を暴露するために
活動し続けてまいりたいと思います。ひとま
ず私の話を終わりまして、皆様のご質問をお
受けしたいと思います。

質疑応答 
Q 安さんと金さんに一つづつお伺いします。私
がまづかんが得たのは、国連は何をしている
のかということです。私が今着ているTしゃ
つは台湾せいなのですね、台湾というところ
は今国連に加盟していません。
国連に加盟していないこの国でも民主主義が
あって発展しているわけです。ところがこの
くに北朝鮮では国連に加盟しているのにどう
してこういうことが許されているのか、今日
きた時強く感じました。
 
A 今年の三月だと思いますけど国連の人権委員
会で北の人権問題が上程され可決されまし
た。ただそれに韓国は棄権という形をとった
のですね、朝鮮半島のおなじ民族としてその
ことに大変憤りをもっております。でもひと
まず、そういう形で国連は人権問題を上程し
可決しています。
 それ以外に調査事業というのは引き続き続け
られておりまして、今年の9月30日には、
これはアメリカですけれども米人権委員会が
北の全収容所の解像度の高いのを公開する予
定てす。それがだされましたら北は言い逃れ
は出来ない、そういう状況ですからひとまず
はそれを見守っていただきたい。
 本人がお話になる前に私(そん)が話します
と、さきほど二つのスパイ団事件というの
が、朝鮮総連中央本部スパイ団事件とアスフ
ァルトスパイ団事件というのがありました
が、それに関わったとレッテルをはられた人
たちがここに住まわされているということで
す。そこの人たちは言葉づかいが、独特で直
訳になっていますが、そういう人たちがいれ
られているところだということです。

テジン もちろんこの中にいれられているの
は、そのスパイ団に関わった本人ではなくて
その類が及んだ家族たちで、本人は別の所に
送られてしまっている、罪をかぶせられた家
族たちが連座でこの中に送り込まれているん
ですね、
 その人たちに直接聞いてみますとですね、お
よそどういう罪で入れられたかということぐ
らいは分かっている、およそ夫がスバイ罪を
かぶせられて、そのあおりで自分も入れられ
たと、只夫の生死は知るすべがないという状
況です。
 その人たちが北に入ってからどのくら
いの期間を経てここに入れられたかという
と、その言葉になれるという間もなかった、
北は社会主義を自称していますが、その実情
がどのていどのものかという認識するまでの
余裕もないままにこの中に送りこまれた、と
いうのが私の知る実情です。

テシン そのなかで実際見聞したことを申し
上げますと、日本では警察と言いますね、北
朝では安全員といいますね、北で警察といい
ますと日本植民地時代に日本の手先となって
同じ民族を苦しめた犬というような、極めて
否定的なニュアンスが込められております
し、それにたいして安全員というのは社会の
安全をまもる人という肯定的イメージで言葉
が使い分けられているんですけれども、
 ところが、日本から渡ってきた人たちは、言
葉の使い分けも出来ない、だから年令の言っ
た方も保衛部員がくると警察が来たと思わず
言っちゃうですね、息子ねゲンキと呼ばれた
息子はですね、まだ若いですからね適応の早
い息子さんはなんと言ったかというと、警察
じゃない安全員と言わないとだめだとお母さ
んに言っている状況がありましたし、
もうひとつ彼らがスパイでありえないという
ことを知った端的な例を言いますと、彼らは
余りに純真な姿でいたということなんです
ね、
 正月の朝に、韓国で軍人をしていてその後日
本にも住んでいたんですがその後北に渡った
キムジョンインという人なんですけどね、正
月の朝に挨拶したんです、正月おめでとう御
座います、それに対して彼は何と返したかと
いうと金日制の挨拶というのが北ではその日
の九時に発表されるんですけど、金様のご挨
拶をお聞きしてからね、正月の挨拶を交わす
べきではないかといったんですね、政治犯の
汚名をかぶせられ苦しめられているのにもか
かわらずそんなことを口に出していう、そん
なこと、アカと言っていましたけれど、アカ
がどうしてスパイでありえるんだとそうした
端的な例を二つ申し上げて置きました。
 必ずしも質問に十分お答えしているか定か
でありませんけれども、存じている限り申し
上げます。


Q安さん、カルメギに22号の写真があります
ね、二二号に勤務されたと言いましたね、こ
の写真は何が写っているんでしょうか。

A私、この写真についてご説明しようと思って
いたところですね、お話していなかったんで
すがこれはフェリョン22号収容所の中の本
部を形成している建物の一部が写っています、
左の方をみますと黒く写っているのと白く写
っているのがありますね、ほえい部員たちが
食べる食用の米を生産しているたんぼなんで
すね、
 この真ん中の建物がほえい部と警備隊の車
両、車を修理する修理場です。
 この建物にはですね、北に帰国した在日朝鮮
人の二世がたくさん住んでいました。
 そのなかの一人に日本から帰国した人がいた
んですけども、彼はセイコーの腕時計をはめ
ていまして自動車の修理工をしていたんです
けどね、それをほえい部員に奪われて叩き壊
してしまったんですけどね、それは父親の形
見だったんですけどね、大事にしていたんで
すけどね、それを奪われて炊き壊されてしま
った後は魂が抜けたようになって、ずっと寡
黙なまま過ごしていました。
 この真ん中に見える白い、道があります。こ
こにはほえい部員と出退きんさせるためのバ
スが写っているのです。横にいくつか長く見
えるのがありますが、それがバスです。
 さらにその上の法にある建物は、政治犯たち
の車両を修理するための建物です。
 その横の建物、収容所で生産するほえい部員
たちの食料工場になっています。
 その建物は三階建てになっていまして、そこ
て゜働いているのは20代の女性の政治犯だ
けなのです。その食料生産工場では女性たち
に作業させるときには、肌に何も着せないで
白いガウンだけをまとわせて作業させていま
した
 こちらの建物は保衛部員たちが酒盛りのパー
ティをする場所になっていました。
 建物がこわれた真ん中の黒くなっている場所
がありますが、池なんですね、池で魚の飼育
などもしていました。非常に大きな建物でそ
のなかで酒盛りのパーティなどもやっていま
したね、
 この食料生産工場で生産される代表的なもの
の一つ上げますとピョンヤンの高麗ホテルな
どに行きますと売っています、かんこうろと
いう酒があるんですね、甘い紅の露と書きま
す。もち米から作る酒なんですが、色が赤み
を帯びいるものですから、かんこうろという
名前になっています。
 大変質のいいもので今でも引き続き生産して
いると思います。それはもともと収容所で開
発されつくられたものなのですが、今でも作
られて高麗ホテルで売られています。
 その下にある建物はもし収容所などで暴動な
どが起きた場合に警備隊員とほえい部員が食
べる食料を蓄えている倉庫です。
その下にありますのは、警備隊員とほえい部
員が食べるための豚を飼育する、その飼育の
作業は政治犯たちがするわけですが、そのト
ン舎になっています。
 その隣にあるのがトサツ場、豚の専門のトサ
ツ上です.
 道で十字路になっていますが、右をすこし行
きますとほえい部の本部になっています。
今の写真にはそこまでしかうつっていません
が、衛星写真には今後公開される衛星写真に
はすべて写っているだろうと思われます。
 今までのフェリョンの収容所はこうした本部
と炭鉱部分しか公開されておりませんが、9
月20日に米人権委員会が全収容所の写真を
発表するときには全体が出てくるでしょう。
フェリョンの収容所というのは、東西が45
キロ、南北が35キロという広大な領域にな
っています。

Q北を全体を見た場合。今の体制を全面的に信
じている人と不満を抱いている人とどのくら
いの割合になるでしょうか。

Aこれは統計も出ないことではあるんですけ
ど、口に出せないだけであって、大多数の北
朝鮮の人民は悪しき体制と認識しています。
口に出せないだけです。金正日の独裁体制
下、今の体性は悪いんだと口に出せばこうい
うところに送られてしまうんですから、言う
ことはできませんね。
 参考までに申し上げますと、北の建国記念日
9月9日大々的なパレードをやったというこ
と皆さんお聞きおよびと思いますが、本来北
では9月9日の建国記念日にはパレードはそ
れほど行いませんでした。軍の記念日にはパ
レードをやるんですけど、やっているのはな
ぜかと言いますと六者協議で不利な立場にお
かれましたし、経済的にも困難な状況にあり
ますから、住民の結束を高めるために、政治
的ショウでああいうことをやって、体外的に
有利な者を引き出そうということで、いくた
大々的にやったとしても周辺国、日本の皆様
は恐れることは全くありませんし、げんにピ
レードに自分からやりたくてやっているもの
はまずいない。

 日本で、西回り東まわりということで行脚を
されていますが、北朝鮮の収容所の実態を告
発されていることに敬意を表したいと思いま
す。そのなかで日本とかいろいろな発信をさ
れておりまして、そのなかで北の人権問題に
ついて世界的な世論の盛り上がりもあろうか
と思いますが、それがキムジョンイルの現体
制、韓国であるとか日本とか滞在中の身の危
険について、大変危惧しています。これにつ
いては脱北者全体のことですが、
 北の人権問題を中心にして反対するものが大
勢いるという話をされました。私は国連を中
心とした世論の盛り上がりと北へのプレッシ
ュー、それにより収容収容所の解体につなが
ると思います。大事なのは北のなかの民衆
が、告発の活動にタイアップする形で収容所
の解体がなされるのじゃないかと思います。
皆さんの蜂起をされる可能性、その状況を教
えて下さい。

A 申し上げたいのは、人は必ずいつかは死
ぬものである。人間であるかぎりそうである。
多くの方が集っていらっしゃいますが、多く
の日本の方がいらっしゃいますかが、いずれ
その人一人一人の行いというものが歴史とい
うものに記録されていくものである。もし、
私が死んだとしてもおそらく金正日は人民の
父だと称していたが300万人の餓死をだす
ほどひどい政治を行った人間であってそれを
暴露するために戦い続けた末の死であって、
そのような形で記録にとどめられるのである
ならは。それららばそれで良しと未練なく死
ねるのではないか、死んだ後にどうなるかと
いう問題はあるにしても。

二つ目の質問ですけれど、北の社会というの
は、大変閉鎖されておりますので、北の人々
は世界の人々がこれほどまでに北の人権状況
に関心を寄せその改善に準備を進めていると
いうことを、知らずに過ごしていることでし
ょう。
 私たち自身も七つの事業を企画し進めており
ます。詳細はまだ申し上げられませんけど
も、知恵あるものは知恵を出し、財力や様々
の力をお持ちの方はそれをお貸しいただい
て、人民に本当に情報が通っていって彼らが
目覚めが進むように、私たちとともに力を合
わせていただくように切にお願いしておきま
す。
 最後に申し上げたいのは、私たちが万一彼ら
の手にかかって死ぬようなことがあったとし
ても、第二第三のミン・テジンが出てく
るであろうと信じておりますし、私たちが訴
えていく活動を続けていく中で、むしろ私た
ちが死をも恐れず進んでいくことによって、
自分たちの罪業を暴露される彼らのほうが恐
れることであろう、と私は思う。

Q韓国のことについてですが、マスコミ報道に
よれば韓国政府はですね、収容所の問題を含
めて極めて弱腰といいますか本来あるべき立
場から後退していて申すべきことを申してい
ないように見えるのですが、何故そういう事
態が起こっているのか、
北から南に向けてトンネルを掘っていてもそ
れを隠して韓国や外国に見せないようにして
いるという形国内や国際的な世論で金正日を
刺激しないために何故そういう形になってい
るのでしょうか。

A私韓国に来てから収容所の実態を数多く証言
しました。しかし韓国のメディアを見ますと
韓国のメディアは政治の影響を大変強く受け
るところですね。
 私が見るところ韓国のメディアは北を刺激す
るまいと大変努力しているように見える。
 その理由というのは南北関係が一定の進展を
見せているのでその障害になってはいけない
ということもあるかも知れないし、南北関係
が緊張しますと海外からの企業・投資が逃げ
ていくという状況があって、少しでもそれを
刺激しないでそのまま穏やかに置いておきた
いと言うのがメディア・企業をふくめた韓国
社会の一つの圧力になっているんですね。
私がみるところ金対中の太陽政策の五年間こ
れがなければ、もしかしたら南北統一は実現
していたかもしれない。
 金大中政権の時代、北朝鮮に対する支援
があったばかりに支援がなされる以前は北が
崩壊の寸前、財政が倒れるかという制際まで
いっていたのに韓国から支援が送られたばか
りに、その支援がどこに回ったかといいます
と、国家ほえいぶ、警察、社会安全部、軍隊
ここに送られました。そのため彼らが息を吹
き返して住民の統制が強化されて、又北の住
民は身動き一つ出来ないという状況にもどっ
てしまった。 
もちろん飢えで死につつある人に米を送ろう
ということは悪いことではないのですが、そ
れは当然誰々に届けて欲しい、送る以上はこ
ういうふうに対応して欲しいと条件をつける
べきでありましたが、そういう条件を一切付
けないで送ったがために、かえって人民を苦
しめている側が強化されて、現在の統制の強
さというものは並大抵のものじゃないときい
ております。
 今回、ユニバがテグで開かれましたがこれも
全く同様ですね、あくまでこれはスポーツの
大会であるべきはずなのに韓国の右翼が北の
国旗を燃やすということがありはしましたが、
だからといって政府レベルで動き出して、選
手を送るだの応援団を送らないだのと北朝鮮
がいうと、韓国は腰が引けて謝罪してしまう、
大変嘆かわしい又哀れというか笑われてしか
るべき対応であって、たえずそういう北のや
り口にふりまわされている韓国の方が大変問
題である。

 今、若者たちがユニ大会の応援で、インター
ネットやメディアを通じて上がってくる意見
というものが、こういうものである。プサン
のアジア大会も美女応援団ということで騒ぎ
ましたけども、あの時は北朝鮮に対するイメ
ージは大変いいものとしてとどまっていたか
もしれないのですが、今回のユニの振る舞い
を見てつくづく北朝鮮の連中はどうしようも
ない連中だという認識に若い者たちも至った
ということなのです。
 本当にテグのユニは南北の政治大会なのかス
ポーツ大会なのか、一体どっちなのだと韓国
の若者自体が疑問に思って意見をあらわすよ
うになりました。
 これはもう韓国政府にお願いするということ
になるかもしれませんが、南北関係を扱うと
きはもっと正々堂々としてほしい、
 何を北朝鮮に恐れることがあるのか、恐れる
ことは何もないはずなのに、散々彼らに引き
釣り回されている一体なんでなんだと。

 今、脱北者たち韓国に数多く来ていまして、
彼らは北朝鮮で大変な処遇を受けて僻地に追
いやられて、逃げてきた人たちです。今北朝
鮮にいる人たち、一日三食で当にわずかなも
のでも命永らえる人たちが一杯います。
 そういう状況にあるということを私たち、外
部の世界に告げ知らせようと心に決めており
ます。
 韓国政府がジュネーブでの国連人権委員会
で、北朝鮮の人権問題が議題に上って、可決
すると段なりボイコットしましたね、なんで
ボイコットしたのかと彼らが問い詰めたとこ
ろ、私たち韓国政府は北朝鮮の人権問題につ
いて論じるだけの資料を持ち合わせていない
と言ったそうであります。
 私たち6月3日にこの運動本部の創立大会を
行った後に、韓国国家人権委員会というとこ
ろがあります。そこをたずねていってこの問
題について彼らを問い詰めました。
 あなた方は数多くの脱北者が今韓国に入って
きているということを知らないのか、彼らに
何故北朝鮮を抜け出して韓国に逃げてきたの
か、北朝鮮の実態はどのようなものであった
のかと聞こうとしたのか、彼らに問い詰めま
した。
 もちろん韓国政府の対応というものは大変残
念なものでありますけれども既に世界の進歩
的な方々がこの問題にめざめて活動を展開し
ています。
 私たちは韓国政府の対応がそういうものであ
るからといって残念に思ったり躊躇したり
運動を手控えしたりということは御座いませ
ん。
 世界の人々と力を合わせて戦い続けるでしょ
うしそのなかで韓国でも事実が事実として語
られるようになっていくだろうと思っていま
す。


 今回私どもの代表山田文明の件に関しては、
この場にお集まりの方々であれば新聞・テレ
ビなどの報道を通じてご存知のことと思いま
す。私どもの会の内容で申上げますと、もと
もと私たち守る会は94年に発足しましたけれ
ども帰国者を通じて知りえた収容所をはじめ
とするとんでもない情報を早く世界にしらせ
ないとダメだと日本国内ならびに世界に対す
る啓蒙ですね、お知らせするという内容で重
点として活動して来たんです。
 活動の流れの中で、難民難民基金という実践
部門が別途立ち上がって役割分担という形で
やってきたんですけど、未だに難民救援基金
も純粋に活動を続けておりますが、去年の11
月にですね加藤さんという代表の方、中国で
拘束されましてなかなか身動きが取れないと
いうこともありまして、そういう中で今年に
入ってから私どもにも救援を求める声が直接
届くようになってきました。
 今インターネットもありますから、脱北して
きた方が中国でインターネットを使って海外
で私たちを救援してくれる人たちはどういう
人たちがいるんだろうと、インターネットで
見ることが出来ますね、韓国の団体を通じて
元帰国者であるならば、日本にこういう団体
があるからつないであげるよという形で私ど
もに話しが来ます。
 私たちはそういう声に対して応えざるをえな
い。そういうことで脱北者の救援に一番情熱
を注いできたのは、山田であります。北朝鮮
国内での悲惨な状況はもとよりであります
が、中国に逃れた後の状況もこれまたひどい
ものがありまして、女性であれば本当に人身
売買。具体例、今回カンチョルファンがきま
した彼は朝鮮日報の記者ですが、危険を冒し
て中朝国境エンペン自治区に入りまして脱北
者の証言をかなり詳細に集めています。
 実例を一つ申上げますと
大体北朝鮮からの女性が人身売買されるとき
の値段というのは、日本円で大体5万円位で
すね。ある人は、中型の船に売られた、遠洋
航海の船に売られた、要するに船員たちは港
港で売買春というものをやる場合が多いですね、
その金がもったいないというので北朝鮮の女
を一人買って船内で性的慰み者としてもてあ
そんだうちに、病気になったりしますと海に
捨ててしまうという話しを船員から聞きだし
ました。具体的な話しをいうと限りがないの
ですが、そういう話を山田が知りまして、こ
れはなんとかしなければならないということ
になりました。
 率直に言いますと、先ほど寄付の呼びかけも
さしてもらったかと思いますが、わたしども
会員数が400人です、私どもの会報を受け取っ
ていただいている方が400人、会費を払っても
らっているかたは一定の数になるわけなんで
すけれども、年会費5000円ではそうした財政
基盤が出来ないんですね、
 脱北者たちが望んでいる韓国入りあるいは日
本人妻を救援するのはなかなか出来ない。そ
れを山田は自分の私財を取り崩しながらやっ
ているんですね、こういう活動には限界があ
りまして、私どもは三年の三月、日本人妻の
帰還に成功しました。
 この時には日本の外務省が、領事
館から車を出してくれたんですね、領事館か
ら車を出して私たちが指定する場所まで来て
くれてその人たちを領事館に密かに連れて行
って中国側と外交の話しをつけてもらって安
全に日本に戻って来ることができたんです
ね、そういう対応を私どもは大変前向きに受
け止めましてですね、
 今後もこういう形で対応していただきたい。
私たち小さなNGOが現地に飛ばすとも、どこに
こういう人が囲われているという連絡を差し
上げればかって日本人であった、かって在日
朝鮮人であったということを確認できるので
あるならば、あえてマスコミに報道されると
いう形をとらないで静かに実質的に救われる
という形を取って欲しいということを、外務
省に何度も足を運んでお願いをしたわけであ
りますが、外務省からは明瞭な返事を頂くこ
とが出来ませんでした。
 一度は日本人妻の救援を果たした後9月の頭
にはですね、今回拘束されている脱北者7人
プラスあと二名いたんですけども彼らが潜伏
している、帰国者でありまたその子孫である
という情報が入りまして、そうした具体例を
念頭に外務省に足しげくお願いしたのですが
なかなか返事をいただけない中で、その脱北
者たちが長期滞在するリスクが高まってまい
りましてこれは早く動かないと危ないかもし
れないということで、かぎられた範囲の中で
山田代表が動かれてああいう結果になったの
です。これは結果として幸いな面もあったの
です。
 幸いな面とはどういうことかと言いますと、
今拘束されている脱北者たちがうまく韓国に
入れたらの話しですけど、山田代表は日本人
であります、社会的な地位もあります    
 こうした行動派全く営利を目的としたもので
はないということです。金銭的な対価を目的
としたものではなくむしろ個人の資産を取り
崩してでも人道的な意図たがのもとにやって
いるという中国側も拘束した複数の人間の話
しのつじつまが合うということで、これは拘
束した中国側も認めました。
 あなたがたか人道的な目的でやったというこ
とは、理解したということを取り調べの時に
言って、これは比較的早く国に帰ることにな
るであろうから心配しなくてもいいというこ
とを韓国側のジャーナリストに取り調べの何
日目にかには言っていたそうであります。
 これは前回、加藤さんが捕まった時にはです
ね、椅子にくくりつけられて夜も寝させて貰
えず、そのまま椅子で寝るというようなほと
んど拷問に近いようなことが日本で報じられ
て中国側の立場が大変悪くなったものですか
ら、そういう学習が効いたたかもしれない、
大変紳士的な対応であったということです。
それをきっかけに改めて脱北者問題というも
のに日本の関心を部分的にせよ向けられたと
いうことは幸いなことでありました。
 どうしても想像力というものを失いがちなん
ですね、衝撃的な映像を絶えず提供されてい
ないと、不景気だといいつつ恵まれた生活を
しているものですから彼らの生活を思い出す
というきっかけはなかなかないですね、
 今回私たちこうした形で世論の関心を集める
ということを全く意図していませんでした、
静かに出来れば外務省の協力を頂いて彼らを
救い出すということが目的であった、ただこ
うなった以上、引き続き皆様にこういった衝
撃的な事情を考慮していただき、脱北者問題
もそうですが、拉致問題・核問題を解決する
うえにおいても世界の人々が関心を向けるた
めには、良心の憤りというものを喚起すると
いう、国民世論というものの後押しがなけれ
ば、利害関係で動いている国家を動かして、
あの国のそうした在り方を改めさせるという
圧力をかけるということがないと、自分たち
が国内においてこれほどひどい政治をやって
いるということを知られるということを恐れ
ています。北朝鮮は国際社会から知られる、
さきほど話もありました、情報が漏洩したこ
とがきっかけになって収容所を統廃合した動
きもあるんですね。

 9月30日に暴露されますが全収容所の衛
星写真が公開されますが、身近なところにご
家族いらっしゃると思います。在日朝鮮人、
総連系の人も含めていらっしゃると思います
が、彼らはなかなか動かない、相変わらず枠
にこもって金ジョンいるがどうのこうのとお
考えだと思いますが、ただ彼ら自身も実情は
知っていますがどれだけ知っているかという
のは疑問符で御座いまして、ただ新しい政治
制度で漠然と推定している程度のことですか
ら、できれば彼らが命がけで抜け出して書い
た本をお読みいただくと共に一人でも多くの
人に知らして頂きたいと思います。
 今回、平壌の水槽という本が新たに出まし
た。カンチョルファンが書いていますけれど
も、北朝鮮脱出で触れられなかった内容を更
に詳しく克明に史的にもうまくまとめた内容
となっていますので出来るだけ多くの人々に
読んでいただきたいと思います。
 一人一人の発言が国を動かすのですから、拉
致問題でもそうでしたね、あれだけの多数の
国民が拉致されて言おうがいいわまいが国が
動かなければならないのに動きませんでし
た。ようやく北朝鮮から拉致を認める動きが
あったのは家族の声があったからですし、日
本国民の声があったからです。
 日本というのは、歴史的に大変重要な位置を
武器を手にして、担っています。日本がどう
動くかによって北朝鮮2000万人の運命が
左右される、今大変な立場にいるということ
を感じるんですね、
 今年三月プラハで北朝鮮人権問題に関する国
際  会議がありました。この国は旧東ヨー
ロッパ圏の国で、独裁政権と仲の良かった国
ですが、そこで開催されたわけです、ハベル
大統領の後押しもあったわけですが。
 北朝鮮に関する書籍を手に入れようと思って
大型書店をいくつか回ったわけなんですけれ
ども、北朝鮮に関する本が一冊もない、日本
では溢れるようにでています、日本では大方
ひどい国だと内情を知っています。
 一部の知識人たち、キリスト系の人々がそ
うしたことはゆるせないということでその場
で打合せをし、その場10数人によって国連
の人権委員会に上程され、公に議論されたと
言うかたちでした。わずか10数人の人たち
が協議して動いた結果そういう形になった、
今日本にいる私たちはインターネットですと
かメールですとかいろいろな情報を自由に取
ることが出来ますし、又自由に発信すること
が出来ます。この日本でわずか数百人、数千
人の人たちが目的を持って自覚的に動いただ
けでどれほどの影響を与えることが出来るだ
ろう、私はそこに大きな可能性をかんじてい
ます。
 日本国民は北朝鮮がひどい国だということを
知っています、今回お聞きになったようなこ
とは国民の多くのの方は漠然と出あれ知って
います。
 皆様は今、2000万人の人々の運命を左右
する武器を手にしているんだということをよ
くわく語自覚いただいてそれぞれの立場で語
り欠けをして頂きたいと思います。そのなか
で出来れば私たちの会員としても力を合わせ
ていただきたいと思いますし、年会費500
0円といいますのもその資金は大変な力にな
ります。広報活動をする、韓国から証言者を
お招きする、彼らをお招きしたことでテレビ
各局に出演することができる、今後ともやり
続けていきたいと思います。
 皆様の持っている知恵、知識、時間、経済
力、一部でも私どもに割り当てて頂いてこう
したうねりが日本発で大きくなっていって世
界を変える力になるようにご協力頂きたいと
思います。