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題名: [hrnk] 収容所から脱出したとされる13歳脱北少年の手紙

送信日時: Fri 12/17/2004 02:49:42

以下は、昨年一家全員で政治犯収容所に送られ、今年になって一人生き残って逃亡、脱出した13歳脱北少年の手紙です。

地名等まだ手直しが必要なところを若干残しておりますが、取り急ぎお送りします。ハングルの原文も付しますので、訳でお気づきのところがあればお知らせください。

ともかくひどい内容で、事実であれば世界に広く告発すべき内容です。

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南朝鮮の方々にお便りします。

北朝鮮から逃げ、今、ここ中国でこの手紙を書いています。

私の故郷は平壌です。

父は金日成総合大学で政治学部の先生でしたし、母は金亨禝師範大学で外国語学部の先生でした。姉は平壌音楽舞踊大学で器楽を学ぶ学生でした。私の家族は平壌市東大院区域で暮らしました。

私は中学校1学年に上がって間もなく父、母、姉と共に政治犯管理所に行くことになりました。

 

 

平壌に住んでいた時、私たちは幸せに良い暮らしをしました。

ところが父が友人と酒を飲んで酔い、労働党に反する政治的発言をして反党、反革命分子となり、家族は咸鏡北道明川郡とかいう所の政治犯管理所に捕えられて行きました。

夜寝ていると突然ドアをどんどん叩いて人々が外で大声を張り上げました。

父が出て行ってドアを開けましたが、外で待っていた4人の人たちは真っ黒なメガネを掛けていて、父の胸を強く殴ると両側から腕を捻り後手にして手錠をはめ、父を引いて出て行き、二人は我が家を捜索しました。

家の中を全部ひっくり返し、台所のどんぶりまでみな割ってしまうと、母と姉、私に床に座れと言い、父が家で反革命的な発言をしなかったか、悪い人たちと接触しな

かったか、録音機でラジオを聞かなかったか、と言いながら、いろいろなことをしつこく尋ねました。

父の党証を探して自分たちが保管するといってポケットに入れ、父が全国知識人大会と社労青大会、そして軍隊の時の大会に参加して撮った記念写真4枚を全部剥して風呂敷に包み、自己批判する準備をしっかりやっておけというと外出できないように外から鍵をかけて行ったのでした。

お母さんは健康ではなかったのですが、人々が出て行くとたちまち気絶して倒れました。

姉と私は泣きながらお母さんを揺すりましたが、母は明け方になってようやく目を覚まし、姉と私を抱いてずっと泣きました。

朝9時なってカマツ車(ロシア製貨物トラック)が来ると、我が家の物を全部載せ、母と姉、私は更生(68年北朝鮮製)に乗せて平壌市保衛部に行き、そこで2晩監房にいました。私はそのままでしたが、母と姉はずっと呼ばれて調査を受けました。

指紋を何度も採ると、3日目の朝、冷凍車(北朝鮮で独自に鉄製の積載函を加工して載せた車だが、護送や砲薬、弾薬など重要物件を運ぶ時に使う)に乗れと言いました。

その中に入ると何もなく、軍人4人が銃を持って座っており、私たちを引き上げて乗せました。

その時私たちの家族だけなく若い男3人、女2人も一緒に行きました。

その人たちは手と足に鎖をはめられ、私たちの家族はそのままで行きました。休まずにずっと行くと、どこか知らない所で、「外に出て手洗いをしろ」と言われ、私たちの家族は車から降ろされて道の横で小便をし、鎖にくくられている人々は車にバケツを入れ、そこに小便をさせました。

我々家族に乗れというと、ドアは一つだけ閉じて一つは開けておき、軍人4人と運転手、星をつけた人2人が包んできたご飯を広げてご飯を食べながら「食べたいだろう?それなのになぜ党に反対するのか?党に背けばお前たちは獣より劣るんだ!」と罵りながら自分たちだけでご飯を食べていました。

星をつけた人1人が私に「おい!そこのガキ反動!こっちに来い!」というと「お前の父ちゃん母ちゃんが反動だからお前も苦労するんだ」といいながら小麦パン二つとキュウリのおかずをひと箸大きくつまんで、私の手の平にくれ、全部食べたら上がれと言いました。私はキュウリだけ食べ、パンは食べる振りをしながら、ぎゅっと握って小さな塊を二つ作り、「ご馳走様でした」と挨拶して車に上がると、すぐさま一つの塊は母の口に、他の一つは姉の口に押し込みました。

母は何も言えずに私の手をぎゅっと掴んでパンの塊を口にくわえたまま私を見て涙を流しました。

こうして私たちは明け方2時頃に管理所に到着しましたが、正門の前に人々が出てきて待っていました。(この子供が入った収容所は咸鏡北道化城郡にある16号管理所)

私たちにがみがみ怒鳴り、頭を上げずに手を上げ、頭の後に付けさせました。招待所に入ると鎖にくくった人たちはそのままその道を車に載せて入り、私たちの家族は部屋の床に跪かせると、あれこれ尋ねて本に書くのでした。

人が4人やって来て、お母さんと姉を先に連れ出し、私たちを連れてきた人たちには「もう済んだ。帰っても良い」と言うと、その人たちは自分たちどうし話しながら出て行きました。

事務室の床に一人で座っていたら、ある保安員がやって来て私を連れ出し、監房に入れました。

入る前に着ていた服をみな脱がし、そこで囚人服をくれましたが、大きすぎて麻袋のようにぶらぶらしたし、とても古くて穴だらけ、あまりにも垢染みていて、服には見えませんでした。

その中には20歳から10歳までの男の子たちだけ30人いましたが、そのような班が6つありました。

私は4班でした。

私がいた所は3区域だと言いました。

夜明けに班長が「起床!」と大声を張り上げるとみな起き、外に出て列をつくります。

その時、外を見ると両側は崖なのですが、崖に洞窟を掘ってそこに機関銃を下げて軍隊が歩哨に立っていました。崖の哨所を数えたら、12個所で3区域を守っていました。

その日から家具を作る組で大工仕事を教えられ始めました。

私たちの家族はみな分かれて、父は1区域、母と姉は2区域に行きましたが、1区域の父の部屋は手と足に鎖をはめてつながなければならない厳重な囚人区域であり、2区域は腰を曲げて入るコンクリート倉庫ですが、階段で地下に降りて行くと部屋がありました。

天井は格子窓を打ち、その右に歩哨兵が銃を担いで歩哨に立ちます。

2区域は強制労働をさせる所で、男たちは木の伐採と製材をして(丸太から板を作るところ)、女たちは農作業をしました。3区域は高齢者と子供、そして1、2区域の家族たちでしたが、囚人を治療する診療所もありました。

ご飯は一日二食くれましたが、一食はじゃがいも1ケと塩を数粒で、もう一食はトウモロコシを煮たものを一握りくれたり、稲の籾殻やトウモロコシの芯を粉にしてごった煮にし、一杯ずつくれたり、全粒小麦を煮て一握り与えたりもしました。

仕事ができないからと私の分は級長がしょっちゅう半分奪っていきました。

それでも先生たちには言えませんでした。監獄周辺には草も生えないように薬を撒いてあり、お腹が空いていても草を毟って食べられませんでした。偶然に食べられる草を目にしたら、先生たちに見つからないように根っこまでみな引っこ抜いて食べ、残りは噛んで塊にして隠し、夜寝る時、こっそり食べました。

 

3区域の人たちの中には、山でドングリを拾ったり松茸を取る人々がいて、その人たちはそれでも山で仕事をしながら、葛の根、山葡萄、猿梨の実、ヤマナシの実を口にできましたが、私たちのように平壌で暮らした人たちは何も知らないので管理所のなかでさせることだけをしました。

昨年、管理所に入ったとき、私たち家族全員が数ヶ月間の検討期間だったので、他の人たちよりもずいぶんたくさんの苦労をしました。一週間に2回から3回ずつ父と私たちの家族を一箇所に集めてはいろいろ尋問し、監視員先生たちは父がちゃんと答えないといいながら、私たち家族が見ている前で角材で父を叩き、担いでいた銃から掃除帯を抜いて殴りました。またある時はモーターにはめるベルトを切って作ったムチで殴りました。

父が殴られるたびに母は気絶しました。母が気絶すると先生たちはバケツ一杯の水を私に渡して母にかぶせろというので、私は恐ろしくて震えながら母の体に水を注ぎました。父がその度に大声を張り上げると先生たちは「この野郎、まだ根性が直ってない」と言って駆け寄り、父の関節の間に角材を挟み、ヒザを踏みまくりました。あるときは父を逆さにぶら下げ、「ここに資料が全部あるんだ。金をいくら貰ったのか。安企部要員を吐け、お前たちの団体を言え」と殴りました。あまりにも殴られたために父は歯を失い口が裂けてまともに話せませんでした。頭を丸刈りにされましたが、頭も散々殴られたのでつるっとしたところがありませんでした。

全身傷だらけでまともに歩けず、先生たちが両脇で引きずりました。

先生たちも殴り、調査にやってきた洋服姿の人たちも殴りました。しきりに吐けと言い、父が「そんなことはない」とたて突くと、数人が駆け寄り、ほとんど死ぬほど殴りました。

昨年の冬12月。正月を数日後に控え、私たち家族を全員呼び出し、「正月前にお前たちの仕事はけりをつけなければならん。頭が痛いわ。この野郎!

すっきり吐いてしまえばお前も気が楽だし、こっちも気が楽だってもんだろう」と言いながら、1区域の中にある作業場倉庫前のヤマナシの木に縛っておきました。洋服姿の人は大きいコートを着て座っており、他の先生たちはそばに立っていましたが、洋服姿の人が他の先生に、角材6本を持ってこさせました。その先生は捧げ銃の姿勢をとると、製材所で挽いておいた角材を持ってきました。

母と姉、私に一つずつ握らせると、「これから一言尋ねて話さなければ一人3回ずつ力いっぱい叩け」と言いました。

私も3度、9回も父を殴りました。それでも父は「私はそんなことは知らない。私は党にやましいことはない」とようやく言いました。

すると先生たちは「この野郎、これではだめだ」と言って、母と姉を裸にし、広場に鉱山で使うトロッコが四台ありその中に水を張っていて凍っていたのですが、それをツルハシで割って「中に入れ」と言いました。母と姉は泣きながら足掻いたので、先生たちが氷の中に母と姉を入れると出られないように上から足で踏みました。

そして父の前にまた立たせ、「父親の罪を告発すれば、お前たちは家に帰れる」といって言わせようとしました。しかしちゃんと言わないからとかちかちに凍りついた母と姉の全身を軍官の革ベルトで殴りました。

また他の先生1人は母の両脚を開かせ、「このアマの巣は良さそうだな」といいながら母の陰毛を引き抜きました。他の先生は姉に「おい、お前は大学で男たちと何発

やったんだ?」と聞き、姉が泣きながら「一度もそんなことはありません」と答えると、「嘘をつくんじゃない、開いて見せろ、検閲するぞ」と、姉を地面に寝かせて両脚を空中に向けて開かせ、靴を履いたまま姉の陰部を靴でほじくり、さらに角材で突付きました。さらに「このアマ、ずいぶん遊んだようだな。それでも嘘をつきやがるか。嘘をついた罰だ」と、ガスライターをかざすと「動いたら踏み殺すぞ」と大声を張り上げて、姉の陰部に火を点けました。

姉が「あっ!」と大声を上げて体を捻ると、先生たちは面白がってはやし立てました。

その日私たちの家族は皆死ぬものと思いました。母が気絶して意識が戻らなくなってようやく調査が終ったのです。

その後10日が過ぎて、また家族が集まって調査を受けました。夕方までやり、生活総和するといって他の先生たちは行って2人が残り、父を柱に縛り、母は木に縄で両手を縛り、さらに私を母と一緒に縛っておくと、姉を見ながら「このアマはこの中に入って1年になろうとしているのにまだ肉がちょっとついてるな、何を盗んで食ってるんだ」「お前はおかしい、なぜ肉が抜けないのか検閲しなければならない」と言って無理やり服を脱がせました。

父が縛られた所にかますと葦で作ったござがあったのですが、先生たちがそれを引いて来ると、その上に姉を寝かせました。一人の先生が「このアマ、垢まみれで汚すぎる。見てられない」というと地下足袋を脱いで片方の靴下を姉に与え、「トロッコの中の水にぬらして下腹部をきれいに拭け」と言いました(自分は新しい靴下を胸から取り出して履き替えたという)

姉が靴下を濡らして拭いてまた拭くと真っ赤になりました。

姉が近づく二人の先生に逆らうと何発か殴り、一人の先生は吹かしていたタバコを姉の乳首にこすり付けながら「殺してしまうぞ」といって姉を地面に倒して顔の上に尻を乗せて座り、両手を足で抑えました。それでも姉が脚をバタバタさせると手と足を別々に縛りました。

片足は父が縛られた柱にくくり、もう片方は母の体と木に括り、両手は柱とトロッコの取っ手に縛ると、「てめえを今日雑巾にしてやるぞ」といって強姦しました。

母と私には他の先生に話したらお前たちをこの世から消してしまうぞと脅し、父にはこれでも吐かないのか、こんな毒種野郎だから安企部の密偵をやるんだと言いながら父を解いて氷水に漬けようとしました。

その時、父は最大の力を尽くして先生の横腹に差してある銃剣を掴んで自分の腹を思い切り刺して自殺しました。深く刺したものですから父の回りには血がたくさん流れました。

先生たちが慌てて連絡し、医者たちがきて担架に乗せて行きましたが、運んで行く途

中死亡しました。その時母がまた気絶して頭がおかしくなり、次の日から精神病棟に入り、ある日便所の中で人糞を3皿ほどの量を食べて死にました。

(この事件によって、娘を強姦した軍人2人は降職処罰となり他の部隊に移ったという。また、上部からの検閲が入り、管理所内軍人の思想闘争会議が行われたという)

 

 

姉も色々な病気にかかって、ずっと患っていましたが、父、母が死んだ後に気が狂って正気を失ったり戻ったりしていました。私は一人残った姉を生かそうと、私に出される食べ物を密かに隠して、製材所にお使いに行く度に姉の部屋に投げ入れました。毎日夕方に思想改造会議をやるのですが、男と女は別に座らせ勉強させるので、姉と私は見つめあって声も出せずに泣くばかりでした。

姉はますます弱まり、本当におばけのようになりました。髪も刈られ姉を探すのがたいへんなこともありました。

平壌にいた時、姉はとてもきれいで画報にも出たし青年文学にも出ました。アパートの人々は本当に映画俳優クラスと言いましたし、口数が少なくて礼儀正しく、大学でも姉を知っている人はみなほめました。しかし監獄にきた後あらゆる苦労をし、いろんな目に会って、姉は病身になり廃人になりました。

こうして8月になったのですが、その時からは管理所では食べる物がなく、ジャガイモ畑でジャガイモを掘って囚人に与えました。ジャガイモ掘りは女が鍬で掘っておくと男がもっこに入れて先生が守る所に集めておけば、牛車がきてのせて行きます。

昼食時間になって先生たちが集まって座り、ジャガイモを焼いて食べるのだと警備に立った先生が行っている間に、男の囚人3人が姉に駆け寄って強姦し、姉は一人で死にました。

ずっと病んでいた上に何日間食べられずにいたため、ジャガイモ掘りに出て警備先生の目を盗んで生のジャガイモを我を忘れてかじり、それが当たっただけでなく、男たちが駆け寄ってきたのにびっくりして精神発作まで起こしたのです。先生たちが走ってきて様子を掴みながらも、「盗み食いするから罰が当たって死ぬんだ」といってジャガイモを掘った穴に入れ土で覆えと指示しました。男の囚人3人は護送の先生たちが連れていきました。

その時私はジャガイモを掘る所にはおらず、山菜を摘む組で仕事をしていたので、姉が死んだことを知りませんでした。

ずっと姿が見えないので先生たちに姉を探してくれと言うと頭を殴って知らないとしか答えません。

私と親しいヨンスが教えてくれて姉が死んだことを知ったのです。

そうとは知らずにいたのですが、人がいなくなれば管理所では大騒ぎするはずなのに騒ぎにはなりませんでした。

何日間か雨が降り続いたために外に出されず監房の中に閉じ込められていたので消息が分かりませんでした。それが8月10日以前でしたが、20日になってまたジャガイモ掘りが始まり、私もジャガイモ掘りに出ました。畑に先に入った人たちが畑を整理していて姉の死体を見つけたのです。

管理所では死んだ10日に処理しなければならないのですが、その間雨がずっと降っているので、またジャガイモ掘りをする時に処理しようとしたのです。私たちの担当先生はそれを知らずに私をジャガイモ掘りに送り出したのです。私は泣きながら先生たちに私の姉を埋めてくれと言いましたが、先生たちはかますにグルグル巻くと囚人たちに担がせ、私を付いてこないようにしてその日火葬場に運び火葬してしまいました。

管理所の中には火葬場がありますが、1ケ月に10人以上火葬しました。

姉の死体を見ると片手にはジャガイモのつるが腐っていたし、もう一方の手には土がありました。

口の中には腐ったジャガイモが土とともにありました。

それで指で口の中の土と腐ったジャガイモを取り出し、姉を抱いて泣いたのですが、先生たちが駆け付けて私を殴り、級長に大声を張り上げて私を連れていかせ、かますに巻いて姉を持っていきました。私は幾日かこっそりと泣いて過ごしました。

泣くのが先生に見つかると反革命分子に同情するとして思想闘争の舞台に立たされるので、泣くのを見つかってはならないのです。

 

私と一番親しい子がヨンスで、私より二歳年上です。ヨンスは私に「ガキ、それぐらいのことは我慢して耐えろよ。そして忘れてしまえ。何としてでも生きなければならないんだ。統一されれば何とかなるだろう」と言って私を励ましました。

ヨンスはおじいさんが戦争の時悪質治安隊で人をたくさん殺し越南したのが発覚し、家族全員中国に逃げ隠れていましたが、3年目に捕まってここに来て4年になり、父は来て間もなく死に、母は2年前に死んだといいます。兄と姉の消息は分からないそうです。姉は中国にいるそうです。中国にいたときはいつも食べられたと、中国自慢をよくしていました。

9月からきのこ取りの組を作りましたが、私もそこに選ばれました。

まだきのこが生えないので先ず山菜を摘み始めましたが、ひとりが一日にリュックサック2杯分ぎっしり集めなければなりません。ヨンスも一緒にやることになりましたが、彼はしきりに逃げようと言いました。

怖いし道も知らない、先生たちが銃を取って警備しているのにどうやって逃げるのかというと、ワラビを摘む振りをしながら、あの山さえ越えれば良いと言うのです。自分は3年以上ここを通ってよく分かっている、どこに鉄条網がありどこに穴があるか、どこに地雷が埋まっているかまですべて分かっていると。

山菜取りに8日通いましたが、草でもたくさん食べたらちょっと元気が出てきました。

私たちが逃げる前日でしたが、ヨンスが大きい蛇を捕えました。

頭だけを捨て、石で胴を半分に切ってしまうと、指を腹に入れてはらわたを捨て、草を摘む振りをしながら皮ごと噛んで食べましたが、皮がとても固くてうまく飲み込めませんでした。

私はしかたなく皮を捨てて身だけを飲み込みました。

 

 

ヨンスは明日は必ず逃げようと言いました。翌日は小雨が多く降りました。

先生たちはレインコートを着て、社会の人たちが色々なものを持ち込んで山菜と交換するのですが、酒と交換して自分たちだけで飲んでいました。監視組長が四方から見ていますが、私たちは大胆に見当をつけておいた所に密かに行きました。ちょうどあちらで守っていた監視組長1人が木のてっぺんから雨で滑り落ち、そのおかげで先生たちが私たちに神経を向けませんでした。

その間にヨンスと私は鉄条網を木の枝で押し広げ、その下から脱け出し、反対側の山のてっぺんに向けて我を忘れて走りました。ヨンスがあらかじめしてくれた話では、何人かがこのように逃げ下の方に走ったせいで捕まり銃で撃たれた、山頂は管理所の歩哨たちに見えるからそこに逃げようとは考えられないんだ、私たちはチビだからあまり見えないし、小雨が降っているから霧がかかって双眼鏡でもよく見えないだろう、灯台下暗しだ、そこに行こうと言いました。

ほぼ山の頂上に近づいた頃、銃声が何度も響きました。私たちがいなくなったことを知って探し始めたようです。

ヨンスと私は死に物狂いで走ってまた走り、山2つを越えました。

谷間に水が流れていましたが、ヨンスはひょっとしたら犬が臭いを嗅ぐかもしれないから水の中に隠れようと言いました。私たち二人は夕方まで水の中にいましたが、軍隊も犬も来ませんでした。

ヨンスはあの山さえ越えれば化城駅前が見えると言います。

私はその時にここが咸鏡北道化成郡であることを知りました。

管理所で七宝山が近いという話は聞きましたが、住んでいるのがどこかは知らずにいたのです。

山から村に降りてきながら、山菜摘みの人や小土地仕事(山の小さな土地を耕して収穫を得ること)をする人々が見えたら避け、村まできて夜になったらヨンスと私は幼稚園を襲撃しました。そこで速度戦粉一袋とトウモロコシ米3キロほどを盗み出し、もう一軒襲って服を着替えました。その家には食べる物がなく、梨を煮たものが置いてありましたが、二人でみな食べてしまいました。ヨンスは電車に乗ってはいけない、道に行かずに鉄道に沿って行こうと言います。

生まれて初めて咸鏡北道に来ましたが、清津まで来るのが本当に怖くて大変でした。

歩いて、センギリョンという所にまで来て貨物貨車に乗って清津・輸城に行きましたが、そこでチョル兄さんに会いました。(中国に共に行った清津生まれの18歳)

チョル兄さんは自分一人で中国に7回も行ってきたし、中国に親戚や知人がたくさんいる、自分が連れていってあげると言いました。

市場でヨンスと喧嘩したのですがヨンスが勝って、ヨンスから先にチョル兄さんに友だちになろうといったので、私たち3人は友だちになりました。

チョル兄さんが南陽橋頭で待って中国入る石炭貨車につこうと言いました。

私とヨンスは泳げないので、豆満江の深いところにはまったら死ぬ、といって、精鉱が中国にたくさん入るが、間もなく精鉱貨車が南陽駅に入ってくれば、そこに穴を

掘って隠れれば良い、先ず穏城に行こうと言いました。お金を作るには大きい市場に行って一仕事しなければなりません。チョルとヨンスは盗みで飛び回りました。

穏城チュウォン市場そばの橋の下で寝ながら、3日間市場でスリをやって3万ウォンにもなりました。精鉱貨車が入ってくれば検査員にお金を与えて私たちが掘って入ったところは鉄の串で刺さないように約束するのだそうです。

 

 

先に南陽郡党学校の裏山に上がって中国側を見ました。

下に降りて行くと結核病院か肝炎病院だかがありましたが、そこには人がたくさん通っているので、私たちは危険でも崖の端の木に寄りかかってその日の夜そこで寝ま

したが、ヨンスがその木をけった拍子に下に落ちました。

その下には鉄道が通り、軍隊の潜伏哨所もあったのですが、あっ!と大声を上げてヨンスが落ちると四方から懐中電灯が駆け付けて騒がしくなりました。

チョル兄さんは私の口を塞ぎながら、はやく抜け出なければならないと言って私を引っ張って反対側の山へと逃げました。

私は泣きながらヨンスを探せぬまま逃げなければなりませんでした。深い山の中で私はヨンスを呼んでは泣きました。

無念にも父、母、姉を管理所で奪われ、ヨンスがいなければ私も死んでいただろう。これまでヨンスのおかげで生き残ったのに、今は私の実の兄とも言えるヨンスさえ死んでしまった。

かわいそうなヨンスはこうして豆満江を目前に死んだのです。

その次の日からヨンスが死んだ周辺の土地の膨らんだところや墓地をほじくって見ましたが、ヨンスの死体は見つけられませんでした。

そのようにして4日が過ぎ、チョル兄さんと私は中国に入る精鉱貨車に隠れて、10月5日中国のアンドという所に到着しました。アンドにいるチョル兄さんの親戚はお金350元をくれましたが、家には入れませんでした。

そこからバスに乗せられましたが、牡丹江に行くバスだといいます。

チョル兄と私は牡丹江に7日の日到着し、またバスに乗ってチョル兄さんの知人の助けで天津に行きました。

北京では危険だから天津で汽車に乗るかバスに乗れ、そして遠い所の内側に入れと、チョル兄さんの知人が教えてくれました。

朝鮮人の食堂でご飯を食べて出たところを、こうして韓国から来た記者のおじさんに出会いました。

今でも目の前から父、母、姉、ヨンスの姿が消えません。

私は今、白米に肉を腹いっぱい食べています。食べながらいつも思っています。

私は大きくなったら必ず復讐します。

まだ私は幼くてよく分かりませんが、中国に来て南朝鮮の映画もたくさん見ましたし、南朝鮮の人も見ました。

記者のおじさんやここの有難い人たちに会いながら、たくさんのことを知りました。

私は大きくなったら、必ず死んだ父、母、姉、ヨンスの復讐をします。

記者のおじさんが手紙を書けと言います、今書いているこの手紙が南朝鮮の人々に伝えられるというのですが、父、母、姉のことが思い出されて涙しかでてきません。

私を助けてください。

ご恩は忘れずに必ずお返しします。