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 政治犯収容所で政治犯として生まれた私 (シン・ドンヒョク)
 
                         差出人: 三浦 小太郎

1 家族の生い立ち

  私は、1982年11月19日政治犯収容所で政治犯として生まれたシン・ドンヒョクと言います。
父 シン・キョンソプから聞いたところでは、父は、1946年平壌近郊の村で12人兄弟の11番目として生まれました。父が19歳の時の1955年、家族に大きな災難が襲いました。

  この災難が起きたのは、夕暮れ時でした。警察官が家の中に突然乗り込み、全ての家具を運び出した後、家族全員がトラックに乗せられ、1日がかりで国家保安省(SSA)が運営する第14政治犯収容所に連れて行かれました。
 この収容所に着いた瞬間から、家族は引き離され、獣のような扱いを受けることになりました。
父は、同じ区画に収容された弟と会える以外、他の兄弟の様子を知ることは全くありませんでした。
父は、収容所内で機械工として働くことを命じられ、一生懸命働いたことで、収容所内の女性チャン・ヒュキョンと結婚が許されるという恩恵を受け、この時から、夫婦となりました。
結婚後、両親は、5日間だけ一緒に生活をすることを許されましたが、その後は、引き離され、両親は会う事を許されませんでしたが、仕事を一生懸命し、大きな業績を残したたことを認められた場合に会うことを許されました。

 私には、数歳上の兄がいることを知っていましたが、兄についての記憶は殆どありません。兄は、1996年に処刑されましたが、それまでに兄と会ったのは、3〜4回しかありません。私と兄は、母と一緒に住んでいたと思いますが、小さい時のことであり、兄についての思い出は全くありません。

2 子供の頃
 私は、母と一緒に住むことが出来たのは、12歳までです。母は、農作業をさせられ、午前5時には働きに行き、家に戻るめは、午後11時でした。母は、いつも忙しく、私には、親子間の愛情というものの思い出は全くありません。
 母は、1300グラム(900グラム母、400グラム私)のトウモロコシ、3個の塩漬けのキャベツと小さいバケツ1杯の石炭を持ち帰っていました。母は、毎日午後9時半頃に仕事が終わりますが、その後、1時間半の思想学習がありました。

 実際、この学習の目的は、割り当てられた仕事を成し遂げなかったり、規則を破ったりする収容者を罰することにありました。この学習時間において、収容者は、お互いに罵りあったり、殴りあったりすることを強いられました。
 午後11時が消灯時間で、これ以降は、外に出ることを許されませんでした。これが収容所での収容者の日常です。

 私は、よちよち歩きの小さい頃、母に連れられて職場に行きましたが、忙しく働く母は、全く私の面倒を見てくれなかったことを、かすかに覚えています。今日、母を覚えていますが、母に対する特別な思いはありません。

 私は、収容所内の5年制の小学校に入りましたが、この学校は、読み書き、足し算、引き算以外は教えませんでした。

 この小学校に入学当初のことは覚えておりませんが、1クラス30数名で、各学年2〜3クラスあって、生徒数が400名以上いたことを覚えています。彼らは、収容所で生まれ、又は、小さい時に収容所に連れてこられているので、彼らがどこから来たかについては、関心がありませんでした。

 9歳の時のある日、いつも保安省の制服を身に着けている先生が、私たちの持ち物を調べ、女の子のポケットにあった5粒の小麦を見つけました。先生は、彼女を我々の前によく見えるように膝まづかせ、持っていた指揮棒で約1時間、気絶するまで強く叩きました。不思議なことに、彼女には、叩かれたことによる頭からの出血はありませんでしたが、いくつもの瘤がありました。私たちは、彼女を家まで運びましたが、その日の夜になる前に彼女が静かに死んだことを知らされました。
子供が叩かれ死んでも、これに対して誰も責任を取らされたり、罰を受けることはありません。保安省の制服を身につけた先生は、好きなことを何でも出来る権利を持っていました。第14政治犯収容所では、これは、かけ離れたことでも、例外的ことでもなく、日常茶飯事なことでありました。

 10歳の時、母と一緒に水田での仕事に行きました。子供は、母が行う田植えを手伝うことを命じられました。この田植えは、午前9時から始め、割り当てられた面積を絶対に終わらせなければならないという厳しいものでした。
 ある日、母は、非常に体がよわり、朝から顔色もよくなく、頭痛を訴えました。収容所の規則としてどのようなことがあっても、誰も仕事を逃れることは出来ませんでした。私は、母を助けるため一生懸命田植えをしましたが、早くは出来ず、非常にゆっくりとしたものでした。

 田植えがゆっくりとしたものであったことで、監視の保安省将校は、母と私に対し怒り狂い、母に対し、他の収容者が昼食を食べていたあぜ道に膝まづかせ、両手をまっすぐ上げさせました。母を助けることも出来ず、ただ見ているだけでした。母は、1時間半後に仕事に戻るよう命じられました。母は、昼食を食べさせてもらえなかったうえ、罰をうけたことでさらに体が弱りました。それでも母は、気絶する午後3時まで一生懸命に働きました。その夜、母は、2時間膝まづいて座り、40数名の囚人から怠けているとしてひどく罵られました。

 私は、12歳で中学校に入学し、学校から外での仕事をさせられました。母と一緒に住むことは認められず、他の子供たちと一緒に住むことになりました。中学校は、実際のクラスと言ったものはありません。我々は、雑草刈、農作物の収穫、こやしの運搬などあるとあらゆることをさせられ、勉強をすることはなく、ただ働くことだけをさせられました。

3 発電所の建設作業
 1998年春から1999年秋まで、我々は、中規模の発電所の建設作業に動員されました。我々の年齢は、13歳〜16歳でした。この建設作業に動員されていた間に、私は、事故による多くの仲間の死を見ました。私は、公開処刑や死体をよく見ましたが、事故による子供の多くの死を実際に見るのは、初めてでした。時には、1日4〜5人の子供が死にました。ある時など、私は8人もの人が一度に事故で死亡するところを実際に見ました。
 この事故は、3人の鉛管工が高いセメントの壁の上で作業し、この3人を手伝うため、下ではモルタルを持って15歳の少女3名と少年2名が働き、私は、彼らにモルタルを運んでいました。私は、セメントの壁が崩れるのを見て「危ない」と叫びましたが、崩れ落ちました。それは、遅すぎました。8人は、何トンものモルタルの下敷きになりましたが、救出作業は、何も行われませんでした。保安将校は、何もなかったように我々に「仕事の手を休めずに仕事を続けろ」と叫びました。これは、なんら特段のケースでなく、政治犯収容所で多く起きているこの種ケースの一つです。

4 火あぶりによる拷問
 1996年4月6日午前8時頃、私は学校に着くと報告するよう求められました。この時、車が学校に来ていることを知っていました。
数人の人が車を降り、私のところに来て、何も言わずいきなり手錠を掛けたうえ目隠しをして車に乗せて見知らぬ場所へ連れて行きました。私は、エレベーターで下に降ろされ、目隠しを解かれて、灯りが一つだけ転倒した暗い部屋にいることが分かりました。

 何もないこの部屋では、私の前の机に男が一人座っていました。この男は、一枚の紙を渡し、読むようにいいました。この紙には、朝鮮戦争で韓国に協力し、韓国に逃れた父の二人の兄弟の名前が書いてありました。私は、これを見て、父と兄弟がこの収容所に連れて来られた意味が始めて分かりました。私は、この紙に署名し、指印をしました。
 ここは、地下にある秘密となっている拷問をする第14政治犯収容所第7室で、小さな電灯が一つだけ天井にあるだけで、他には何もない、小さく暗い部屋でした。その日の明け方、母と兄が収容所から逃げようとして捕まったが、これは、家族が共謀して行ったことであると言われました。

 これは、恐ろしく思いもよらぬ犯罪で、聞いた時には非常に驚きました。翌日、私は、ありとあらゆる拷問道具が備えられた部屋に連れて行かれました。私はこの部屋で裸にさせられ、両足に手錠を掛けられたうえ両腕をロープで縛られてから、両手、両足を天井から吊らされました。一人の男が誰が逃亡計画を考えたのか本当のことを自白しろと言いましたが、私は、何も知らないと言いました。不思議なことに、この時は、恐怖というものを感じませんでした。今でもあの時に恐怖を感じなかったことを不思議に思っています。
 私は、腰部に熱さを感じて悲鳴をあげ、本能的に火から逃れようとしました。拷問は、股の付け根近くを金属製留め金で止められて身もだえも出来ず、大声で叫びましたが、直ぐに意識を失いました。
 どのくらいの間無意識でいたかは分かりませんが、気がつくと大便と小便を垂れ流しの状態で体を揺すられていました。私は力を振り絞って起き上がろうとしましたが、腰部に非常な痛みを感じました。私の下腹部は、傷つき、出血していました。数日後、痛みはひどくなり、体も弱り、酷く悪臭をはなっていることから、警備員は、部屋に入ろうとしませんでした。警備員は、私を向いの老齢の人が一人いる部屋に移しました。彼は20年以上収容されていると話し、骨と皮だけの体にやせ細っていました。彼はこれ以上自分のことを話しませんでしたが、私が必要な時に黙って私を助けてくれたことは、決して忘れられません。

 一度、彼は私に食事の一部を渡した時、彼は、君は若いのでここで生きながらえるには、食べ物は大事であると言いました。彼の心遣いは、神の思し召しで、私は物を食べ始め、体も回復し始めました。彼と一緒にいた数ヵ月後のある日、とうとう私は、当局に呼び出されて場所を移されました。この時が、痩せ細った親切な老人との最後でした。私は、彼を忘れることはなく、両親以上の愛情を持っていました。両親からされたことない力をもらったのが彼でした。

 私が移された隣の部屋に父が膝まづいていました。父は私と同じ日に逮捕されたことを始めて知りました。父と私は、収容所で見たこと、起きたこと、自分たちがされたことなど知ったことの全ての秘密を守るという誓約書に署名、指印をしました。この日は、1996年11月29日でした。

5 母と兄の公開処刑
 父と私は、目隠しされて外に連れ出されました。この時、私は、太陽のない地下の部屋に7ヶ月間閉じ込められていました。警備員は、父と私を多くの人が集まっている公園のようなところに連れて来ました。私には、ここが年に数回の公開処刑をする場所であることが直ぐに分かりました。手首から手錠がはずされ、集まった人たちの最前列に座らされました。父と私は、処刑場所の近くに引きずりだされた男性と女性を見ました。より近くに引き出された二人が、母と兄であることが分かり非常に驚きました。

 兄は、非常に弱っているのが明らかで、痩せ細って骨だけの体になっていまいた。母は、体中腫れ上がっていて、目は炎症していました。訴状が大声で呼び上げられましたが、最後のいくつかの言葉、「母と兄は人民の敵であり、死刑にする」以外の言葉は覚えておりません。

 先に母が絞首刑となり、次に兄が銃殺されました。私はこの残忍な人殺しの目撃者にはなれませんでした。母と兄が殺される瞬間父を見ました、父は涙を頬から下に流し、目は地面を見据えていました。

 処刑の後、私は父から引き離されました。父は作業のため建設現場送られ、私は、学校に戻りました。ことは全て彼らがなすがままで、私は、反逆者の兄弟であり息子であると見られました。先生はさほどの理由もなしに、思うままに繰り返し私に罰を与え、常に差別の対象になりました。先生からトイレに行くことを許してもらえなかったことで、ズボンを履いたまま小便をもらしてしまいました。空腹でいる以外覚えていません。ある日、牛糞の小さな桶の中に3粒のトウモロコシを見つけ、これを拾い上げ、シャツの袖できれいにして食べました。なんとも悲惨なことと思われるかもしれませんが、私にとっては、幸運の日でした。

6 姪への強姦
 ある日のこと、姪は、警備員に監視されて丘の上に集められどんぐり拾いをしている収容者の一人でした。叔母とその妹は、有刺鉄線のフェンスに近寄った理由を聞かれるため、グループの人たちから離されました。

 姪は、当時21、22歳の可愛い娘でした。二人の警備員は、彼女を可愛がりはじめ、母親は、これを苦々しく思っていました。この二人の警備員は、母親を車のトランクに向き合わせて木の上に縛り上げてから、白昼の陽の光りのもと、姪を強姦しました。

 姪が強姦されたことで叔母は気絶し、気がつくと、姪は裸で地面に横たわり、苦しそうに呼吸をしていました。二人の警備員の姿はなく、姪は、意識が戻りませんでした。

 叔母は、大きな声で嘆き悲しみ、また、何が起きたか収容所内で会う人毎に話していました。これにより、結局、叔母の姿は見られなくなり、叔母に何が起きたか誰にも分かりませんでした。

 多分、父の家系は、完全にこの世から抹殺されると思われる。悲惨なことに、これは、父の家族の話ではなく、4万人から6万人と言われる収容者の運命は、思うがままにされています。

7 縫製工場での出来事
 私は、中学校を卒業すると縫製工場のミシンの修理工として働くことを命じられました。この工場には、2千500人の収容者が働き、内、2千人は、女性でした。彼女たちは、殆どが20歳代、30歳代、40歳代で多くが魅力的でした。

 彼女たちには、必要な作業服はなく、腕をさらけ出していることで保安将校に容易に覗かれました。7人の美人の収容者が選ばれて保安事務所の清掃をすることになりました。日常的に仕事で蹴られ、殴られたりしているが、この仕事をすることでこのようなことされないので、彼女たちの多くは、競ってこの仕事をしようとしました。これによる性的暴力は、日常の保安将校による暴力、激怒と同じことのように考えていた。

 私のクラスメートのパク・ヨンチュンは、現在生きていれば25歳になります。彼女は、警備員の事務所の掃除をすることを命じられました。ある日、彼女が妊娠していることが分かりました。妊娠したことが分かれば、抹殺されることを知っていましたのでクラスメートの4人で彼女の妊娠が分からないよぅに隠しましたが、結局、妊娠していたことが知られ、彼女は、どこかへ連れて行かれました。その後、彼女に何が起きたかは分かりません。警備員事務所の掃除をする女性には、起こることであります。

 ある日、私はミシンを2階に上げるため運んでいたところ、腕の力がなくなり、ミシンを落としてしまいました。すると、この罰として中指を切断されました。

 2004年のある日の夜遅く、毎日の懲罰が終わると、4人の保安将校が姿を現し、どの部屋にしらみが多くいると聞いてきました。数名の収容者が我々の部屋に多くいると答えたところ、将校たちは、7人いる女性部屋と4人いる男性部屋にそれぞれバケツー杯の水を渡しました。

 この水は、牛乳のように白く、殺虫剤の臭いのするもので、彼らは、これで体を洗いましたが、直ぐには何も起こりませんでした。しかし、1週間もすると彼らの体中がただれだし、赤い発疹が出来、1ヶ月も経たないうちに、赤むけとなりました。

 彼らは、痛みで歩くのにさえ立ち上がれませんでした。彼らは死ぬことになるだろうと思っていたところ、トラックが来て彼らを乗せてどこかへ連れて行きました。もしあの時、私があの水で体を洗っていれば、今日私がここにいることはないであろうと思います。

 2004年のある日、朴という若い収容者は、縫製工場の私の仕事場での仕事を命じられ、私は、彼に機械の操作を教えました。彼と親しくなり、彼から聞く外の世界のことで目が大きく開きました。彼はこれまでにアジアの数ケ国を旅した経験があり、この旅で経験した外国の事を話してくれました。彼は私に機会を得て収容所から逃れる勇気と収容所の存在を世界に知らせる勇気を与えてくれました。

8 収容所からの脱出
 2005年1月2日、朴を含めた25名の男女は、私が引率して山へ薪集めに行きました。私は、目の前に有刺鉄線があるのに気づき、辺りを見ると他の人たちは、夢中で薪集めをしでいました。
 この時、一つのことが私の心を一瞬よぎって行きました。それは、母と兄が処刑され、経験した悪夢のような拷問でした。注意していると、朴と私は有刺鉄線に近寄っていました。撃ち殺されえることや電気が流れているとの恐怖はありませんでした。その時、ただ脱出することだけを考え、他のことは何も考えていませんでした。私は、有刺鉄線に向って走り出し、有刺鉄線を乗り越えようとした時、足裏を誰かに刺されたような激痛を感じました。私は、殆ど気を失いかけましたが、本能的に有刺鉄線を乗り越えるという気持ちが私を後押ししました。辺りを見ると有刺鉄線は、私の後ろにありましたが朴は、有刺鉄線の上で動けなくなっていました。あの絶望的とも思える瞬間、私には運のない朴を考える余裕さえなく、ただ、脱出できたとの喜びだけでした。収容所を逃れられたという感激は、言い表すことが出来ません。

 一目散に山を駆け下りていると両足が濡れているように感じ、見ると、有刺鉄線により出血していることが分かりました。私には、立ち止まっている時間はありませんでしたが、暫くすると、鍵の掛かっている家を見つけました。

 私は、食べ物を見つけるためにこの家に入り、食べ物を見つけました。見つけた米を持ってこの家から立ち去り、鉱山の村に行って持ち出した米を売り、この得た金は、中朝国境の警備員に賄賂として渡すためのものでした。

9 自由への道
 私は、政治犯収容所で生まれ、収容所を脱出して初めて北朝鮮社会を見ました。しかし、それは、2005年1月、凍った豆満江を奇跡的渡りことが出来、安全に中国へ辿り着くまでの20日間でありました。

 約1年間、国境近くの山里にある宿泊所で働き、中国元で金をもらいました。この金額は、90米ドルと等しいものでした。私は、鉄道とバスを使いいくつかの町に行った後、長春に行き、その後、北京に辿り着きました。

 私は、ある町の韓国料理店で韓国人男性に事情を話し、助けてもらうよう頼んだところ、この男性は、私を上海の韓国領事館に連れて来てくれました。韓国領事館で6ヶ月間を過ごした後、韓国に入国することが出来ました。(終わり)