このページは、守る会の過去のページです。新しいホームページはこちらをクリックして下さい。



 ホーム


守る会組織

 呼びかけ
入会の御案内 
会則

カルメギの記事

交流の広場
掲示板


お得な情報
3.03掲載
 

リンク Friendly Link

翻訳サイト


書籍
特別に紹介させていただきます
『隠された戦争』
(萩原遼 著)


「生命

人権」


目次

(購入方法)

ダウンロードは
右クリック

第一巻

第二巻

第三巻

第四巻

第五巻

第六巻

第七巻

サンプル2

(ショルテ女史)
 


御支援の
お願い

脱北者あしなが基金

脱北帰国者支援機構

  写真
chung
chubong

haengyong

yongbyon

naksaeng

アクロバット・リーダーのダウンロード


 

 

訴   状

 

2001年6月4日

東京地方裁判所民事部  御中

 

原告代理人

弁護士   藤   森   克   美

 

 大韓民国ソウル特別市龍山区普光洞117番地

     原 告     金      幸    一  

〒420−0862 静岡市浅間町1丁目1番地 (送達場所)

          上記原告代理人

             弁護士      藤   森   克   美

                   TEL 054−247−0411

                   FAX 054−247−0509

〒112−0000 東京都文京区富士見町2−14−15

             被 告     在日本朝鮮人総聯合会

          右代表者    中央委員会議長 徐 萬述

 

慰藉料請求事件

  訴訟物の価額     金5,500,000円

   貼用印紙額        金35,600円

 

         請 求 の 趣 旨    

 

一、被告は原告に対し、金550万円及び本訴状送達の日の翌日か

ら完済まで年五分の割合による金員を支払え。

 

二、訴訟費用は被告の負担とする。

との判決並びに第一項につき仮執行の宣言を求める。

 

         請 求 の 原 因     第一、本訴の目的

一、1959年12月に始まる朝鮮民主主義人民共和国(以下「北

朝鮮」と略す)への帰国事業によって、約93,000名の在日朝

鮮人(日本人配偶者含む)が帰国した。

 

 当時の日本は在日朝鮮人に対する差別や偏見が格段に強く、在日

朝鮮人の多くは日本で暮すことに困難を感じていた。そこへ、被告

在日本朝鮮人総聯合会(以下「朝鮮総聨」と略す)が「(朝鮮民主

主義人民共和国は)教育も医療も無料の社会主義祖国」「地上の楽

園」という猛烈なキャンペ−ンを繰り広げ、在日朝鮮人を「帰国」

へと組織した。

 

 このような情勢の中で日本政府は遂に在日朝鮮人の北朝鮮帰国を

認めることとなり、日本赤十字社が赤十字国際委員会の協力を得て

行なうことを59年2月13日閣議了解で決定した。「基本的人権

に基づく居住地選択の自由という国際通念に基づいて処理する」こ

とを原則とするものであった。次いで同年4月から日本赤十字社が

ジュネーブで北朝鮮赤十字と交渉を行い、その結果、8月13日に

カルカッタで両赤十字社の間に「在日朝鮮人の北朝鮮帰還に関する

協定」が署名された。この協定に基づいて、同年12月以降、在日

朝鮮人で北朝鮮へ帰国することを希望する者の北朝鮮帰国が実施さ

れた。

 

 日本人側で帰国事業に積極的に協力したのは在日朝鮮人帰国協力

会(会長=鳩山一郎、幹事長=帆足計、幹事=政党・労組代表・文

化人ら17名、各県に支部)であり、自民党も社会党も共産党も、

要するにあらゆる政党がこれを支持し、推進する立場にたった。窓

口になったのは日本赤十字社であり、すべては「人道上の問題」と

して推進されていった。

 

二、しかし、帰国者を待ち受けていたのは「楽園」ではなく、「牢

獄」にも似た現実であった。自由の拘束と経済的困窮は帰国者に限

ったことではなかったが、その中でも帰国者は徹底した監視・統制

・分断の下に置かれた。

 

 北朝鮮では出身階級・階層で国民(公民)を解放直後ころから

「出身成分」に分け、日本からの帰国者は非常に低い位置付けがな

されている。自由主義社会の空気を十分に吸った者、異質思想の持

ち主、思想的動揺者、不平不満分子、あげくのはては日本や韓国か

ら送り込まれたスパイとみなされているからである。日本に残り、

日本で生活したことが本人の罪でないにも拘らず、この差別と監視

は一生ついてまわり、密告や当局の判断で、いとも簡単に強制収容

所に送られるのが実態である。北朝鮮には12の強制収容所があっ

て、推定15万人以上が収容され、日本からの帰国者も多数含まれ

ており、人間の生活とは言えない状況に置かれていることが、この

間、北朝鮮から逃れてきた者の証言などを通じて明らかになってき

ている。

 

三、帰国者から悲鳴にも似た、助けを求める手紙が、日本にいる家

族・肉親に送られてくるようになった。表沙汰にすると帰国者に累

が及ぶので、日本に住む家族・肉親は秘密裏に懸命に対応した。ま

ったく連絡が途絶えて行方不明になった帰国者を求めて必死に探し

まわった挙句、その帰国者が処刑されていたことを知ったという痛

ましいケ−スもある。また、最近9年間だけでも、日本の家族の住

所を尋ねる約7,600通の手紙が日本赤十字社に届いている。

 

四、本訴は原告の辿った過酷な体験を通し、帰国事業の犯罪性を裁

判の場で糾弾し、今なお人質政策に加担している被告の責任を追及

するものである。

 

第二、被告の帰国事業一1、被告は1950年代の後半期以降北朝

鮮への帰国運動を積極的に展開した。

 

 2、被告の神奈川県川崎支部中留分会で開かれた「祖国を知る集

い」(1958年8月)で、この地域の朝鮮人住民が行なった集団

帰国決議と、その決意を込めた金日成に宛てた手紙は、帰国運動発

足の契機となった。

 

 その後、8月13日、東京での八・一五解放13周年記念在日朝

鮮人慶祝大会をはじめ各地の大会で、同様の決議と手紙が採択され

た。

 

 3、金日成は、北朝鮮創建10周年記念慶祝大会(1958年9

月8日)で、この問題に関する北朝鮮政府の立場を次のように明ら

かにした。

 

 「無権利と民族的差別と生活難にあえぐ在日同胞は、最近朝鮮民

主主義人民共和国に帰国する希望を表明してきました。

 

 朝鮮人民は、日本で生きる道を失い、祖国のふところに帰ろうと

するかれらの念願を熱烈に歓迎します。

 

 共和国政府は、在日同胞が祖国に帰り、新しい生活をいとなめる

ようすべての条件を保障するでありましょう。われわれはこれを民

族的義務と考えています」 4、この演説は在日朝鮮人の帰国運動

を強力に展開する決定的な契機となった。

 

 北朝鮮政府は1958年9月16日付、南日外務相声明で、帰国

者をいつでも受入れ帰国後の生活をすべて責任をもって保障すると

いう立場を再び表明し、10月16日には、帰国に要する旅費と船

舶を祖国がすべて負担し、輸送の準備と帰国者の安定した生活と職

業を保障すると表明するなど、帰国実現のための措置を次々にとっ

た。

 

二1、1959年8月に日本と北朝鮮の赤十字社の間で結ばれた

「在日朝鮮人帰還協定」に基づき、同年12月から、在日朝鮮人が

新潟港から帰国専用船で北朝鮮に集団永住帰国するようになった。

赤十字社の協定によったのは、日朝間に国交がなかったためであり、

乗船までの費用を日本政府が負担し、帰国船の配船と帰国後の生活

を北朝鮮政府が保障するというものであった。

 

 帰還協定は、何度も継続され、67年までの間に約89,000

人が帰国した(その内約6,600人の日本国籍者が含まれる。そ

の多くは日朝二重国籍者であるが、日本単独国籍の日本妻が約1,

600人余がいた)。「祖国への帰国」とは言うものの、実質は、

社会主義国・新天地への「移住」であった。

 

 2、この集団帰国の背景には、50年代の貧困と差別にあえぐ在

日朝鮮人社会の閉塞状況があり、北朝鮮政府の労働力補充政策が作

用した。帰国者には、日本での絶対的困窮と侮辱的な民族差別から

脱出したいという消極的な選択とともに、民族的愛国心から北朝鮮

の国家建設に参加したいという積極的な意志もあった。そのうえ、

社会主義への幻想に惑い、被告による「地上の楽園」宣伝に踊らさ

れて、最初の2年間に約75,000人が殺到するというブ−ムが

起きた。

 

 3、しかし帰国者の多くは、思想、言動、生活すべてが統制され

る北朝鮮の独裁体制社会に適応することが難しく、共和国社会の生

活水準の低さに幻滅した。さらに、日本からの帰国者は資本主義社

会の自由思想に染まっており、日本や韓国と人脈がつながっている

潜在的スパイ分子とみなされ、体制的不純者として要監視対象とさ

れた。

 

 北朝鮮政府は、帰国者を「人質」「金づる」として利用し、日本

にいる親族に対し、金銭や物資の献納を強いている。また、北朝鮮

当局は、帰国者の日本への自由往来を認めていないので、新たな離

散家族状況が生まれた。被告は北朝鮮政府が帰国者約9万人を人質

に取ることを容認・加担し、北朝鮮政府のいいなりになったもので

ある。

 

 3年間の中断の後、71年から84年まで帰国事業は再開された

が、その後の帰国者は、共和国政府からの要求にもとづく、被告幹

部・有力商工人の子弟、技術者集団、学生青年グル−プの強制的な

送り込みや、政治的処分としての召喚といったもので、現在は帰国

事業の形式だけは残っているものの帰国者はほとんどいない。かわ

りに、家庭訪問のための短期訪問集団事業や、祖国研修事業が活発

に行なわれてきた。

 

第三、当事者一1、原告は1941年10月7日、愛知県岡崎市で

生まれた在日二世である。原告の父(金光浩、キム・クアンホ)の本籍は

現在の大韓民国の慶尚南道鎮海市徳山洞である。原告の父は留学の

ため日本に渡り明治大学で学び岡崎で結婚した。

 

 原告の母(辺敬媛、ビョン・キョンウォン)の実家は岡崎で紡績工場を経

営していて裕福な家庭であったが、解放後(日本敗戦後)船を買い

財産を積んで韓国に引き揚げた。

 

 2、原告は61年6月12日に、祖国が保障するという被告の言

葉を信じて大学進学を希望し北朝鮮へ帰国したが、実際は学校へ通

うこともできないままロシア国境近くの雄基にある機械工場の工員

として労働を強制された。そして原告は、日本で被告から聞かされ

た「地上の楽園」「躍進を続ける」という北朝鮮が、実際は衣食住

全てに貧しく、著しく不足していること、精神論だけが生産の要素

であり一般労働者に勤労意欲は全くなく、逮捕や収容所送りあるい

は処刑を怖れて保身と密告に怯える生活であること、帰国者は更に

厳しい監視下におかれ言動も統制されること、労働者や農民は長時

間の重労働を強いられ、病人であろうと高齢者であろうと労働のな

い者に食糧支給はなく、人々はただ命をつなぐわずかな食糧を得る

ためだけに働く囚人ないし奴隷生活の実態を知った。挙げ句北朝鮮

が世界に誇るという選挙が、鉛筆も置かず、党が決めた立候補者1

名を信任することしかできない仕組みであり、選挙とは名ばかりの

党の一方的命令であることを知るに至り、原告は、北朝鮮の独裁体

制下にある一般人民には基本的な人権さえ存在せず、「共産主義貴

族」だけが肥え太り、一般人民には明るい未来を希望することさえ

できない社会であることに絶望した。そして北朝鮮からの脱出を決

意し、62年11月25日、軍事境界線を突破し韓国への脱出に成

功した者である。

 

二1、被告は、活動目的を明らかにする綱領と、組織の構成・活動

原則・会員の権利義務を定めている規約を有する。

 

 2、被告の代表者は、中央委員会議長である韓徳銖(ハン・ドク

ス)が結成以来2001年2月21日に死亡するまでその地位につ

いていたが、同人死亡後は2001年5月26日の総会で中央委員

会議長に徐萬述が就任した。

 

 3、被告は法人ではないが、多数の構成員を有し、綱領規約に基

づいて組織として意思決定をし、代表者によって行動し、団体の独

立財産を有する、判例上の「権利能力なき社団」である。

 

第四、事実経過 別紙のとおり第五、被告の法的地位・性格一1、

被告の性格の一番目として、被告は前述のとおり在日同胞の権利を

守る大衆団体として結成された。在日同胞の民族問題、生活と権利

についての協助組織、あるいは外向けには差別撤廃のための運動体

としての役割を有している。被告の綱領は八条よりなっており、

「八大綱領」と云われているが、その三条は 「われわれは、在日

朝鮮同胞の居住、職業、財産および言論、出版、集会、結社、信仰

などすべての民主的民族権益と自由を擁護する」と規定する。

 

 2、従って、内向け即ち在日同胞に対し被告は構成員の「自由」

の擁護を責務とする団体と位置付けられる。

 

 構成員の立場からみると、被告は構成員の「自由」を侵害する勢

力(日本政府であれ、日本の社会勢力であれ、北朝鮮政府であれ何

であれ)から擁護する責務を負担している。

 

 3、「民主的自由」と謳っているのであるから、右「自由」には

人間存在の根源である帰国者たる構成員又はその家族の「生命・身

体の自由」を初めとして全ゆる基本的人権を享受する自由が当然の

ことながら含まれる。具体的には被告は帰国者たる構成員又はその

家族に対し、生命・身体の安全確保の責務・抑圧と隷属から人権を

擁護すべき責務を負うというべきである。

 

二1、被告の性格の二番目は被告の規約六条には「本会は、祖国統

一民主主義戦線に加盟する」と定めてあり、被告は結成のころより、

同戦線に加盟していた。

 

 2、祖国統一民主主義戦線とは、1949年6月25日から28

日まで平壌で開かれた会議によって結成された。1946年に南北

朝鮮のそれぞれの地域に別々に組織されていた民主主義民族統一戦

線を単一の組織に一本化したものである。これは1949年3月か

ら朝鮮戦争の準備の為に各方面に手を打ってい金日成が、戦争勃発

にあたってその手足に使うために南北両地域の大衆組織を一本化し

たものである。戦争準備のきわめて重要な一環である。

 

 この祖国戦線の結成大会で中央役員に日本から韓徳銖ただ一人が

抜擢された。

 

 3、同戦線は北朝鮮において、立法機構である最高人民会議の代

議員選出資格を認められている。

 

 4、1949年8月15日に平壌特別市・朝鮮民報社で印刷され、

祖国統一民主主義戦線中央常務委員会書記局によって発行された

『祖国統一民主主義戦線結成大会文献集』(朝鮮語版)によると、

中央委員の99人の名簿一覧があり、韓徳銖は81番目に位置して

いる。82番目は朝鮮民主主義人民共和国の副首相の洪命熹であり、

韓徳銖はそれより一つ上位である。

 

 5、被告においてはその内7名が、72年12月の選挙で代議員

として当選しており、以後も7名の選出がなされている。

 

 6、従って、被告幹部の実力は北朝鮮政府の中でも上位にあり、

発言力影響力を十分に有している。

 

三、被告は北朝鮮政府の駐日外交代表部である。

 北朝鮮は日本と国交がなく、日本に在外公館(大使館・領事館)

がない。したがって、北朝鮮は日本の政府や民間に対する正式の窓

口をもたないわけであるが、その窓口を実質的に代行しているのが

被告である。

 

 また、北朝鮮の海外公民(国民のこと)である在日朝鮮人に対し

て、北朝鮮政府に代わって領事事務をしているのも被告である。在

日朝鮮人が北朝鮮を訪問するとき、被告の許可が北朝鮮政府の入国

許可となる。それに被告の中央常任委員会が北朝鮮のパスポ−トを

発行している。もっとも、日本では未承認国のパスポ−トは正式の

旅券として認められないので、その北朝鮮パスポ−トは北朝鮮の入

出国時に使用する。

 

 このように被告の中央本部・地方本部が北朝鮮政府の大使館・領

事館の役目を果たしているのであるが、それはあくまでも事実上の

ことであって、被告の本部役員に外交官特権があるわけでもなく、

本部事務所が治外法権の場であるわけではないが、本国政府の出先

であり、本国政府に対してはそれなりの影響力を有している。

 

四、被告は、北朝鮮の在外経済部(在外商社)である。

 極端に閉鎖的な社会主義経済構造の北朝鮮にとって、資本主義社

会との経済交流のためのパイプとなり、西側の先進科学技術の導入

の窓口になっているのも被告である。

 

 また、さまざまな名目の献金を在日朝鮮人から吸い上げて北朝鮮

に送金し、北朝鮮の経済建設に必要な資材・機械などを身銭を切っ

て調達している。いまや瀕死の状態にある北朝鮮経済の『酸素マス

ク』であるとまで言われている。被告は、北朝鮮政府の資本主義世

界のなかの『出島』である。

 

第六、帰国者の地位一1、北朝鮮では「出身成分」分類、即ち北朝

鮮全人民を(一)金日成政権に忠実な核心階層、(二)監視対象=

動揺分子、(三)特別監視対象=敵対分子に分け、それを更に51

に分類し〔(一)の核心階層は13に、(二)監視対象は27に、

(三)特別監視階層は11に細分化されており、1980年には更

に(二)と(三)に13分類を追加し、成分分類は64となってい

る〕、動揺分子以下に分類された人々を徹底的に差別し抑圧する、

独特の恐怖システムを有している。父の出身成分は子や孫にも受け

継がれる。

 

 2、そして日本からの帰還者は(二)監視対象=動揺分子に分類

されており、常に監視の対象、密告の対象となっている。帰国者と

同じ監視対象27種類の中には、党の除名者(任務遂行中過ちを犯

し、党員資格を失ったもの)や、党の免職者、逮捕・投獄者家族や

経済事犯などの犯罪者レベル、及び知識人(八・一五以後外国に留

学した者またはそれ以前に高等教育を受けた者)や労働者(今は労

働者であるが八・一五前に中小企業者、商工業者、知識人であった

者)などが含まれている。

 

 しかし、被告の基本組織服務者は同じ帰国者でも監視対象から外

され、特権を得た。

 

二、戦慄すべきこの出身成分分類こそ、兵営国家、監獄国家と云わ

れる恐怖統治を端的に示している。

 

第七、請求の根拠一1、原告と被告との法律関係その一 帰国契約

 (一)被告は日本国内において北朝鮮への帰国運動を発起し、対

北朝鮮及び日本政府のみならず、全国の在日朝鮮人に対する帰国運

動を企画宣伝推進し、帰国希望者を登録し、在日朝鮮人に帰国のた

めの学習を行うなど、北朝鮮への帰国事業を行った当事者である。

 

 被告は本書面第五、被告の法的地位・性格に記載したとおり、被

告幹部の北朝鮮での地位は高く、北朝鮮の在日朝鮮人に対する領事

事務を行い、在日朝鮮人の人権を擁護するなど、組織力、実行力、

権限は強く、北朝鮮についての正確な情報を即時に調査報告できる

力量及び北朝鮮政府に対し帰国者の窮状を訴え改善する力量を備え

ているものである。

 

 (二)原告と被告との間には1961年4月ころ「帰国契約」と

言うべき契約関係(その法的性質は準委任契約)が成立した。被告

は北朝鮮への帰国事業を発案し、宣伝して帰国希望者を募り、直接

勧誘して帰国の意思決定をさせた当事者であるから、帰国契約の内

容(債務)は、被告は帰国希望者に対し北朝鮮の生活実態について

その政治的・経済的・社会的な環境全てに対する調査を行って事実

を把握し、これを帰国希望者らに正確に説明することであり、更に

被告が帰国希望者らに保障した帰国後生命・身体を脅かされる不安

がなく、抑圧や隷属もなく生活することができるよう擁護すること

である。

 

 2、原告と被告との法律関係その二 被告組織への参画契約  

(一)被告は在日朝鮮人をその構成員(会員)とし組織を形成して

いるものであり、構成員と被告との間には参画契約と言うべき契約

関係が成立している。また、原告の父である金光浩(キム・クアンホ)は

被告の構成員である。構成員は被告の決定に従い被告の目的遂行の

為に協力する義務を負い、被告は被告綱領三条に基づき、被告構成

員及びその家族について、「居住、職業、財産および言論、出版、

集会、結社、信仰などすべての民主的民族権益と自由を擁護する」

義務がある。これら義務は参画契約上の債務である。そして上記被

告の義務は「自由」を侵害する勢力全てに対し被告が負う義務(債

務)であり、北朝鮮政府であろうと例外ではない。

 

  (二)被告は帰国者数を確保するため、特に被告構成員及びそ

の家族らに対しては参画契約上の被告の地位を利用して構成員に強

い圧力をかけることで帰国せざるを得ない状況を作り上げ、構成員

及びその子弟らを積極的に帰国させたものであり、原告もまた被告

構成員たる原告の父の説得により単身帰国を決めたものである。

 

二、帰国契約又は参画契約における被告の調査・説明・保護(人権

擁護)の各義務違反 1、はじめに  (一)被告は日本国内にお

ける北朝鮮への帰国運動の発起者であり、全国の在日朝鮮人に対し

北朝鮮が「地上の楽園」であることを宣伝して帰国を勧誘し、希望

者を募り、帰国希望者を帰国に向けて教育したものであり、日本国

内における帰国事業について強大な主導権をもって企画推進しこれ

を実行してきたことは明白である。

 

 被告は在日朝鮮人にとって未知なる国である社会主義国家である

北朝鮮を紹介し、帰国を強引あるいは積極的に勧誘した。帰国希望

者は単身、あるいは家族とともに日本における生活の全てを捨てて

移住するものであるから(日本における財産、特に現金は協定によ

り持ち出しが制限されていた)、帰国勧誘にあたっては社会主義国

家である北朝鮮の政治体制、社会体制、経済体制、教育体制等生活

に直接関わりのある全ての事案に対し、正確かつ最新の情報を提供

しなければならない義務があり、これが出来るのは日本国内におい

てまさに被告だけであった。よって、被告には本債務として原告に

対し北朝鮮の正確な情報を調査し、これを原告に説明する義務、及

び帰国後の原告の生活に対しこれを保護する各義務があったもので

あり、日本における全ての生活を捨てて帰国するという重大事を決

意させる情報提供責任者である被告の責任は重い。

 

  (二)仮にしからずといえども、被告には帰国契約締結におけ

る信義則上の義務として、北朝鮮の正確な情報の調査義務、及びこ

れを正しく説明する義務、及び帰国した原告の基本的人権を擁護す

る保護義務があったものである。

 

  (三)仮に然らずとするも、被告は被告組織への参画契約上の

義務として、被告構成員及びその家族らに対し基本的人権の擁護義

務があったものであり、帰国させる構成員ないしその家族に対し北

朝鮮の実態に対する調査・説明義務及び帰国した原告を擁護する義

務があったものである。

 

 2、北朝鮮における帰国者及び一般労働者(人民)の実態につい

ての調査及び説明義務違反  (一)調査・説明義務違反 前記の

とおり被告は、帰国希望者を募り、帰国希望者に帰国契約を締結さ

せるに当たり、帰国希望者に対し北朝鮮のありのままの正確な情報

を調査し、帰国後の生活について説明する義務を負っていた。即ち、

一般労働者は奴隷的労働力として人権及び自由を著しく制限されて

いる事実、党の命令に従って働くだけの生活を強制されている事実

を正確に説明しなければならなかったものである。

 

 しかし被告は一人でも多くの在日朝鮮人を帰国させるために、北

朝鮮の正確な情報及び帰国者の実状を調査することなく、むしろ故

意に秘匿したものであり、調査義務違反及び説明義務違反は明らか

である。仮に被告に故意がなかったとしても、日本において北朝鮮

に関わる情報を正確に得ることができるのは被告しかなく、帰国者

の生命・自由すら脅かされる実態を調査せず安易な情報提供をもっ

て希望者を帰国させたことは、被告の重大な善管注意義務違反であ

る。

 

  (二)不実の告知 また、被告が在日朝鮮人に与えた北朝鮮の

情報は著しく偏り、実際に帰国した者にとっては虚偽と言える情報

ばかりであった。例えば一般の帰国者は絶対に居住できない平壌市

内の近代的アパートや家屋の写真を提示して、あたかも北朝鮮国内

全てが近代化され、帰国者が快適な住居にみな居住できるかのよう

に欺罔し、しかもごく一部の労働党員が特権として与えられた生活

水準をして、あたかも帰国者らに与えられる生活水準であるかのご

とく欺罔するものであった。被告が日本において原告ら帰国希望者

に与えた情報は、北朝鮮のごく一部の特権階級にとっては真実の情

報と言えるかもしれないが、帰国者が強制される一般労働者及び農

民らの生活とは全く関わりのないものであり、北朝鮮における帰国

者の真の生活情報は皆無であった。

 

 被告は北朝鮮における生活を「地上の楽園」と称し、在日朝鮮人

らにこれを誤信させたものであり、これは不実の告知である。

 

  (三)帰国者の地位及び立場についての重要事項の不告知  

  更に、帰国者が北朝鮮においては監視対象=動揺分子として密

告の対象とされていること、少しでも体制に不満をもったり日本で

の生活を口にしたと密告されれば、突然内務署員に拉致され消息を

絶たれ、強制収容所における監禁、拷問果ては処刑されてしまうよ

うな厳しい監視と迫害の下におかれるという重大な事実を、被告は

帰国希望者に対し一切告知していない。北朝鮮には出身成分で人間

を区分する制度が厳然として存在している事実、北朝鮮において唯

一人間らしい生活を営むことのできる特権階級たる労働党員に帰国

者はなれない事実(但し、87年以降の門戸開放政策により、党が

認めた帰国者にのみ党員への道が開かれた。しかし、監視対象であ

ることに変わりはない)、帰国者が監視対象として位置づけられ、

それが何を意味し、どのようなものであるかを知らせることは、帰

国者が北朝鮮で生存していくための最も重要な点であり、まさに生

死の問題であるが、被告は一切これを告知していない。被告は在日

朝鮮人をして北朝鮮の奴隷的労働力とするため、あるいは人質とし

て日本に残る在日朝鮮人から情報と資産を搾取するための帰国事業

でありながらこれを隠して帰国希望者を募った。重大な重要事項の

不告知である。

 

 3、帰国者に対する保護義務違反 また、北朝鮮へ帰国した帰国

者の基本的人権の侵害、果ては生存権の侵害に至るあらゆる権利侵

害に対し、被告は被告綱領3項による帰国者の権利を擁護する義務

があり、これを行使する力量を備えているにもかかわらず被告はこ

れを怠り、帰国者を恐怖と危険にさらし続けたものであり、被告に

は帰国者に対する重大な保護義務違反がある。

 

 北朝鮮では人民の基本的人権はもとよりあらゆる権利・自由が侵

害されている。思想、表現、学問の自由、居住、移転、職業選択の

自由、更に外国移住・国籍離脱の自由などは全くない。それどころ

か、婚姻や国内移動の自由も著しく制限され、労働者はひたすら命

令された職場で働きその日の食糧を得る(その日を生きる)ことに

のみ全精力を注がねばならない生活である。「地上の楽園」は「生

き地獄」であり、囚人や奴隷と何ら変わりない生活状況である。帰

国者はこの地獄から抜ける術はなく、原告のように奇跡的に脱出で

きた者は9万人を超える帰国者の中でわずか一握り程度である。そ

して、この僅かな人々による証言で北朝鮮における帰国者及び一般

人民の実態がようやく明らかとなっているのであるが、被告は当然

に北朝鮮国内における実態及び状況を即時に把握でき、北朝鮮にお

ける帰国者の悲惨な迫害生活を熟知していたものであるが、これを

黙殺し、帰国者らの権利を擁護する義務を怠ったものである。

 

三、被告の原告に対する債務不履行責任 1、帰国契約上又は参画

契約上の被告の債務としての原告に対する調査・説明義務違反 原

告は被告と帰国契約を締結したことから、被告主催の帰国者青年学

校に入所し、帰国のための教育を被告から受けた。原告はこの青年

学校で、被告によって朝鮮語、朝鮮の歴史、北朝鮮の現状に対する

教育を受け、北朝鮮政府は全ての国民一人ひとりの為の最大の配慮

をしており、全ての点(衣食住)で何の心配もない地上の楽園であ

ること、帰国すれば確実に大学へ進学できると誤信させられた。

 

 しかし被告には、二十歳前後の若年層を集めて教育を目的とする

同青年学校において、帰国後これら若い力が北朝鮮においてどのよ

うに期待されているか、即ち奴隷的労働力の核として実働している

事実、成分分類による監視対象として生活は厳しく監視されている

こと、職業選択の自由や居住の自由もなく、日本へ戻ることもでき

ないばかりか、北朝鮮国内の移動すら厳しい制限があることなどを

正しく説明し、将来ある原告ら若者に帰国を選択するか否かの最終

決定をさせる場とすべきであるのに、むしろ洗脳に近い一方的な情

報によって原告を欺罔したものである。被告の青年学校における教

育は、本件帰国契約の最終目的(原告の帰国の実現)に対する重要

な準備行為であり、被告は契約の主たる債務として原告に対し万全

の準備を為す(正確な調査に基づく説明義務及び重要事項を告知す

る)義務があったにもかかわらず、これを怠ったものである。

 

 2、帰国契約上又は参画契約上の被告の債務としての原告に対す

る保護義務違反 北朝鮮帰国後の原告の生活については、原告が受

けた様々な抑圧や権利の侵害、例えば大学はおろか職業選択の自由

がなく居住も命令に従うこと、日本から持参した物品の使用もまま

ならず、会話・話題が統制されたこと等に対し、被告は参画契約に

基づき、被告綱領三条により原告の権利(自由)を擁護する義務が

あった。しかし被告は、政治的にも経済的にも本国政府に働きかけ

て帰国者の人権擁護を遂行するだけの十分な力量を有していたにも

かかわらず、何の働きかけもしないまま推移した。

 

 また、原告と被告との契約関係(帰国契約)に基づき、帰国前に

被告が原告に約束した、人間らしく扱われ差別されない生活を送る

という約束、大学へ通うという約束の実現に助力すべき保護義務が

あるが、被告はこれを一切行っておらず、原告に対する保護義務違

反は明白である。

 

 3、信義則上の調査義務・説明義務・保護義務違反 原告は被告

幹部らから執拗に帰国を勧誘され、これを断り続けていたものであ

るが、被告は被告岡崎支部の委員であった原告の父をして、北朝鮮

が「地上の楽園」であること、「祖国は帰国者の生活を保証する」

こと、より具体的には一銭の金がなくとも教育を受けることができ、

息子である原告が学校に通い大学へ進学できると誤信させ、原告の

父をして原告にその旨説明させて原告に帰国を決意させたものであ

る。

 

 また、原告の帰国した61年6月は、既に帰国ブームが下火とな

り始め被告は帰国者数を揃えるためなりふりかまわず奔走していた

ものであり、被告の委員である原告の父にも被告幹部らはその地位

を利用して家族を帰国させるよう強い圧力をかけていた。

 

 被告は原告が北朝鮮に帰国さえすればよかったのであり、原告に

帰国を決意させるべく(被告との帰国契約を結ばせるべく)被告は

原告及び原告の父に対し、帰国後の原告の生活果ては生死に関わる

真の情報を与えることなく、学生としてその身分と生活が保障され

る、即ち清潔な住居と十分な食糧、衣料が与えられ、病気になって

も無料で治療が受けられ、何の心配もなく生活し勉強できる環境が

国によって保障されていると説明してこれを誤信させ、原告に帰国

を決意させたものであり、これは前記二項2記載の調査義務及び説

明義務を懈怠したものであり、不実の告知であり重要事項の不告知

である。

 

 原告は北朝鮮の実情を伝えられていれば絶対に帰国を決意しなか

ったのであり、被告が説明義務を尽くしていれば原告は被告との帰

国契約を締結することはなかった。よってこれら被告の調査義務及

び説明義務違反は信義則上の義務に違反するものである。また、被

告には同じく信義則上の義務として原告の保護義務も存する。しか

も生死に関わる問題であり、人の一生の問題を決定付けるような重

要な事項の説明義務違反並びに保護義務違反は損害賠償の原因とな

り得る。

 

 4、以上のとおり、被告には原告との「帰国契約」締結における

債務として、又は「参画契約」上の債務として原告の帰国に対し万

全の準備を整えさせるべく、未知なる社会主義国・北朝鮮における

帰国後の原告の生活にかかわる社会体制及び経済体制等、原告が北

朝鮮で生きるために必要な全ての正確な情報調査義務、説明義務を

有していたが、これを懈怠した。

 

 また被告は原告に対し、青年学校において北朝鮮の正確な情報及

び説明を与えることにより、原告の自由な意思決定をさせなければ

ならなかったものであるがこれを懈怠したものである。

 

 更に、被告には原告との「帰国契約」又は「参画契約」の本債務

として、原告が人間として生活するに最低限の人権擁護を行う保護

義務があったものであるが、被告はこれを懈怠した。

 

 よって、原告と被告間の「帰国契約」又は「参画契約」について、

被告には上記の通り契約上の本債務たる調査・説明・保護の各義務

があったが、被告はこれらに違反した債務不履行責任がある。

 

 又、しからずと言えども、被告の帰国者の生活実態に対する調査

義務・説明義務違反及び保護義務違反は人の生死に関わる問題であ

り、重大な信義則違反の債務不履行責任がある。

 

四、原告の損害 1、慰藉料 原告は被告の説明義務違反ないし重

要事項の不告知等の各行為により、北朝鮮は差別のない社会、生命

の自由、危険のない社会と誤信し、自らは大学へ通って勉強できる

と誤信して帰国した。

 

 ところが原告は大学へ通うことができなかったばかりか、職業及

び居住場所を命令されてこれに従わされ、行動・言論を統制されて

監視され、劣悪な生活環境の下、人としての最低限の権利も認めら

れないまま休みもなく奴隷同様に働かされた。その結果、体重は日

本での半分にまで落ち、北朝鮮でこのまま奴隷的な労働を強制され

て一生を終えるか、一か八かの逃亡に生死を賭けるかいずれかとい

う究極の選択をせざるを得ないところまで追いつめられ、言葉に尽

くせぬ肉体的・精神的苦痛を受けたものである。国外逃亡に成功す

る確率は限りなくゼロに近いものであり、失敗は即死を意味する過

酷な選択であるが、原告は日本に残る在日朝鮮人をこれ以上被告の

欺罔により帰国させてはならないという強い意志と精神力と強運で、

凍傷や左肘部骨折などの傷害を負い、見つかったら銃殺されるとい

う恐怖の中、辛うじて生きて軍事境界線を突破することが出来たも

のである。そして、左肘部、左肩に重い後遺障害を今なお遺してい

る。

 

 よって、原告は帰国契約(仮に然らずとするも参画契約)におけ

る被告の債務不履行により、上記の通り北朝鮮で人としての当然あ

るべき人権を著しく侵害され、575日に亘り言葉に尽くせない肉

体的・精神的抑圧、苦痛、損害を受けた。

 

 よって、原告が帰国後韓国に脱出するまでに受けた肉体的・精神

的苦痛に対する慰藉料として、その金額は500万円を下ることは

ない。

 

 2、弁護士費用   弁護士費用として慰藉料の1割に相当する

金50万円が相当である。

 

第八、結論 よって請求の趣旨記載の裁判を求める。

 

      証拠方法 追って提出する。

 

      添付書類 訴訟委任状        一通

(訴状 第四、事実経過 別紙部分)

 

第四、事実経過

 

一1、原告は1941年10月7日愛知県岡崎市で、父が金光浩

(キム・クアンホ)母が辺敬媛(ビョン・キョンウォン)の2人兄弟の長男として生

まれた。 2、原告の父の本籍は、現在の大韓民国である慶尚南道

鎮海市徳山洞であり、原告の父は留学のため日本に渡り、明治大学

で学び岡崎市で辺敬媛と結婚した。

 

   辺敬媛の実家は岡崎市で紡績工場を経営し裕福な家庭であっ

たが、解放後(日本敗戦後)船を買い財産を積んで韓国に引き揚げ

たもので、敬媛も大韓民国在日居留民団(民団)よりであった。

 

二1、解放後、原告の父は日本電信電話公社(現NTT)の下請けで

電話線ケーブルの架設工事を請け負い、常時工事人夫200人程度

を雇って現場ごとに移動する生活であったが、当時の在日同胞のな

かでは裕福な方であった。

 

 2、原告は解放後岡崎市の朝鮮学校から名古屋の朝鮮中・高級学

校に進学したが、社会主義イデオロギー優先の教育に反発し2年で

中退し、父の仕事を手伝った。

 

 3、1959年12月から帰国事業が始まり、被告の岡崎支部の

委員をしていた原告の父は帰国実現運動に積極的に参加し、「すば

らしい理想の祖国に帰国する」ことを希望していたが、当時原告の

父の事業は順調で手が放せない上母は帰国に反対していたこともあ

り、原告の父は当時18歳の原告だけ帰国させようとした。

 

 4、しかし原告はこれを拒んで家を出、名古屋の暴力団(名古屋

駅裏の朝鮮人部落を根拠地とする暴力団、組長は朝鮮総聯系の同胞)

で一年を過ごした。

 

   当時原告は民団にも出入りし、北朝鮮は「共産主義奴隷の国」

という宣伝教育を受けていた。61年2月頃朝鮮総聯岡崎支部の青

年団幹部が原告に帰国の勧誘に来たが、原告はこれを拒絶したため、

「総聯岡崎支部委員倉田伸之介(原告の父の日本名)の息子は反動

的である」とレッテルを貼られることとなった。

 

 5、これを知った原告の父は原告を諭し、家に戻った原告に、祖

国に帰れば誰もが皆一銭も金がなくても学校に通えるし、祖国のた

め、原告自身のために思う存分勉強ができるから北朝鮮へ帰れと言っ

た。

 

   原告は教育方針に反発したため朝鮮学校を中退したが、正規

の学校に行き勉強したいとの思いを募らせていた。祖国に帰れば学

校に行けるという父の言葉に、原告は単身北朝鮮への帰国を決意し

た。

 

三1、日本における帰国事業は59年に実現し、60年末までに約

52,000人の在日朝鮮人が北朝鮮へ帰国した。この成果は被告

にとっても予想以上のものであった。しかし、61年以降帰国希望

者の減少傾向は顕著となり、被告は被告及び北朝鮮の威信のために

帰国者を募ることが至上命令となった。北朝鮮側は日本のインフル

エンザの流行を口実に帰国船の配船を一時停止して時間を稼ぎ、そ

の間に被告の韓徳銖(ハン・ドクス)議長が61年早々から西日本一帯

を遊説し、北朝鮮のバラ色の生活を宣伝し、帰国を拒む同胞には恫

喝まがいの演説で帰国へと駆り立てた。そして被告中央本部でも

「60万同胞たちよ!統一の日が近づいている。共和国に帰国し、

7カ年経済建設計画に私も貴方も参加して祖国統一を早めよう!」

を中心スローガンに、各階層の在日朝鮮人に帰国を訴える20数項

目のスローガンを作った。そして川崎市での神奈川朝鮮人大会でス

ローガンの解説を行い、被告の全勢力をあげての帰国者集めを展開

し、年齢別、職業別、地域別の帰国推進集団が無数に組織された。

原告のような青年・学生の中でも帰国推進集団が組織され、「金銀

よりも貴い子女を持つ同胞よ!幼稚園から大学まで無料教育させて

くれる共和国に帰国し、心ゆくまで勉強させ宝のような働き手にし

よう!祖国統一を早めよう!」「愛する青年たちよ!希望のない地

で無駄に日々を送るのもそこまでにして、共和国に帰国して青春の

情熱全てを捧げ、学び、働き、国の柱になろう」といったスローガ

ンが青年層に向けて発せられ、被告の組織内部では帰国しない者は

逆賊のような雰囲気が生まれ、活動家は家族を先に帰国させること

で組織に忠誠を示さねばならない事態にまでなっていたのである。

 

 2、原告の父は被告岡崎支部の委員でありながら自分自身が帰国

できないことから被告の強い圧力を受け、被告の言を信じて原告を

説得し帰国させたのであるが、原告の父も被告に騙されて北朝鮮の

真実の姿を知らないまま原告に帰国を促しただけであり、実態は北

朝鮮と被告の威信の為に全国展開された帰国者狩りとも言うべき帰

国推進事業であり、全て被告の主導によるものであった。

 

四1、61年4月20日、原告は被告岡崎支部の斡旋で、名古屋鉄

道太田川駅近くの帰国者青年学校に入所し、帰国希望の同年代の男

女60名で帰国のための教育を受けた。

 

   被告の幹部5名が昼夜を問わず煽動的な話で帰国希望者に北

朝鮮が今いかに大躍進を遂げ発展し続けているかを語り、「祖国に

は失業者がいない」「祖国には貧富の差がない」「祖国の学校、教

育制度、国家制度は、国民一人一人のため最大の配慮を目的として

おり、全ての点で何の心配もない地上の楽園である」等と帰国希望

者らに申し向け、千里馬(チョンリマ・一日に千里を駆け抜ける駿馬)

の如きスピードで躍進する祖国の発展ぶりを描いた朝鮮画報を原告

らに見せた。

 

   原告は40日間の教育を終える際、被告幹部に「祖国に帰れ

ば確実に金日成大学に入れるのか」と質問したところ、被告幹部ら

は全員「間違いなく入れる」と保障し、原告は躍進を続ける北朝鮮

において将来を担う若者として、十分な教育を受けられると誤信し

た。

 

 2、61年6月5日、岡崎駅に第62次帰国船に乗船する岡崎市

出身者40名が集まり、名古屋駅で愛知県下から集まった帰国希望

者の数は400名になった。原告は名古屋駅から400名と共に新

潟へ移動し、6月6日に日赤新潟センターに到着した。

 

   帰国希望者らは新潟で、北朝鮮へ持っていくためのトランジ

スタ・ラジオ、カメラ、時計、化粧品、生地、電化製品などを買い

入れ、原告は大学ノート150冊、鉛筆10ダースを購入したが、

これが北朝鮮で原告の何日分かの食糧に変わるとは夢想だにしなかっ

た。

 

 3、日赤新潟センターでは被告幹部らが原告らの世話をし、暇を

みつけては帰国者たちに祖国の発展ぶりや人民の楽園という話をし

た。一抹の不安を抱えていた者も、センターでの3日間で全員が祖

国を信頼する雰囲気にのまれ、帰国を待ち望むようになった。

 

 4、61年6月9日、第62次帰国船「トボリスク」は931名

を乗せて新潟港から出港し、6月12日北朝鮮の清津(チョンジン)港

に到着した。

 

五1、原告ら帰国者は港から帰国者清津招待所へ大型バスで移動し

た。招待所は5階建ての近代的アパートであったが、原告が他の独

身者4名と入れられた部屋の天井はひび割れ、水滴が至る所につい

ていた。そして、壁のひび割れや隙間から南京虫がぞろぞろ這い出

して来た。大群で襲ってくる南京虫にいたたまれず部屋を出ても、

見張りが立っており、地理に不案内な者は外出しない方がよいと言っ

て外出を禁じられた。

 

   食事も日本では口にしたこともない異臭がし、食べられない

者が殆どであったが、最終的には他に口にするものもなくなり、吐

き気を我慢して飲み込むような有様であった。招待所の建物は汚い

雨水が5階から4階、3階へと垂れ流され、エレベーターもなく、

水道も3階までしか上がっていなかった。招待所で過ごした数日間

は北朝鮮の貧しさを実感するに十分であり、原告ら帰国者は、北朝

鮮の実状が、日本で被告から聞かされていたものとは雲泥の差であ

ることを思い知り、出港時の膨れ上がった希望が早くも絶望と不安

に変わったのである。

 

 2、6月16日に招待所の3階事務所で、原告ら帰国者は審査を

受けたが、帰国者からの質問は一切受け付けない一方的な審査であっ

た。審査の席上神戸出身の60歳の老人に対し審査員は「祖国が欲

しいのはあなたみたいな老人ではなく労働力である。暖かな母の懐

のような祖国だとか、理想的な楽園だとか、そんな言葉はこそばゆ

 

い戯言に過ぎない」と言い放った。そして原告は、原告が帰国を決

意した「学校に通って勉強する」という目的は到底達せられず、北

朝鮮は若い人材を奴隷的労働力とするために在日朝鮮人を帰国させ

ようとし、被告はそのために甘言を用いて帰国希望者を募り帰国さ

せていたことを知った。

 

3、6月19日午前、原告は招待所の女性事務員から、原告の配置

が咸鏡北道(ハンギョンブクト)にある雄基総合機械工場に決まったこと

を知らされた。決定は数日後に発表される予定であったが、原告は

女性事務員に日本製の化粧石鹸を一つ渡すことで、事前に情報を入

手したのである。(北朝鮮では日本から持参した日用品が、些細な

物でも賄賂として有効に機能した。)この時、原告は雄基に金日成

大学があるのかなと思った。祖国が保障すると言った大学進学の夢

がかなわぬことを、原告はまだ気づいてはいなかった。

 

  同じ岡崎市出身の帰国者たち40名もまた、2〜3日中には原

告の配置と同様、日本で被告が約束した祖国の保障とは全く正反対

の決定が一方的に為されることを知り、緊急会議を開いた。この中

には2名の被告活動家がいたが、何の指導的役割も果たさなかった。

 

 4、岡崎市出身者の会議で、

   (1)岡崎市出身者は統一行動をする。

   (2)岡崎市出身者は皆、同じ職場に配置されなければなら

ない。

   (3)岡崎市出身者の職場は工場でなければならない。但し

場所は問わない。

   (4)それぞれ個人の希望は提示しない。

 

  という4項目が決定され、岡崎市出身の40名は上記4条件を

招待所幹部に通告した。しかし原告らが望んだ話合いの場は設けら

れることはなかった。

 

 5、6月21日、招待所に収容されていた帰国者らの配置が発表

され、原告ら岡崎市の40名は咸鏡北道に配置と言い渡された。4

0名は要求通り全員が同じ場所(工場)に配置されると喜んだ。

 

 6、翌22日、岡崎出身者の40名と他の地方出身者10名の5

0名が北行きの列車に乗せられた。しかし、列車内でも配置先の情

報は一切与えられないばかりか、岡崎出身者40名が同じ職場(工

場)に配置されるという期待はすぐに裏切られ、同列車の50名は

1〜3所帯ずつ次々と停車駅毎に強制的に列車を降ろされた。

 

 7、原告は50名の中で一番最後まで残され、雄基というソ連国

境近くの駅で他の3所帯と一緒に降ろされた。その後トラックで移

動し、途中3所帯は別に降ろされ、最後に原告一人が雄基総合機械

工場で降ろされた。原告は同工場のバラックのような建物の一室に

案内され、そこで、党委員長と民青委員長が原告を迎えたが、民青

委員長から原告は、原告が日本で見聞きしたこと、例えば日本の労

働者の生活状態や社会制度などは一切話さないことを誓うよう言わ

れた。日本から着てきた洋服は着るのがはばかられ、支給される作

業服のみを着用することとなった。被告は原告に、北朝鮮では洋服

も靴もみな支給されると言っていたが、実際は1着の作業服が支給

されただけであり、これを朝から晩まで毎日着るしかなかったので

ある。

 

   被告があれほど宣伝した「地上の楽園」「祖国が保障する生

活」とは、一方的に決定された職場に配置され命令通りに働くこと、

自分の服や持ち物すら自由に使用できない上、話も統制される牢獄

と同じ生活であった。

 

8、原告は61年7月1日から雄基総合機械工場の自動車修理部に

配属され、トラックやトラクターを修理する作業を命ぜられた。同

工場は従業員400名の雄基で最大の工場で、帰国者たちは同工場

に60名程が配置されている外、日用品工場に10名、建設事業所

に5名が配置されていた。六、雄基総合機械工場での生活

 

 1、雄基総合機械工場は雄基の中で最大の工場だったが、工具や

備品の不足は深刻だった。工員は足りない工具をよその工場へ一日

何回も借りに行かねばならないため、「自己の仕事は自己で」とい

うスローガンの下、自分の道具を自分で作る人が熟練工、労働英雄

の称号を得られる資格者となっていた。

 

 2、労働者の職能別階級(給料体系)は3級から8級であり、新

入工員は3級から始まる。帰国者は特別な優遇処置として4級から

始まったが、一時的な見せかけであり、素行や業績が悪ければ即降

格(減給)された。原告も61年の解放記念日に乱闘騒ぎを起こし

て、自動車修理部から重労働を伴う農機具修理工場に移されるとい

う降格処分を受けた。

 

 3、原告の工場には中央から「千里馬作業班」という称号を与え

られた作業班が2組あったが、同班の工員らは肺結核3名、肋膜炎

2名、栄養失調7名を出していた。その上同称号が与えられても給

料に変わりはなく、単に名誉を与えられるに過ぎなかった。そして

同班が達成した180%という作業量は、他の労働者に対する要求

労働量となった。

 

   62年7月から8月15日までの45日間は「朝鮮民族解放

記念戦闘」という千里馬運動、9月1日から37日間は第3期「最

高人民会議代議員選挙記念増産期間」として、毎日12時間労働を

休憩、休日なしで強制された。このような休日なしの延長労働は、

あらゆる口実の下で全国的に設定され強制された。

 

 4、北朝鮮の祝祭日は、元日と金日成の誕生日と8月15日の解

放記念日の3日だけである。また、千里馬運動中は日曜もなく、通

常の日曜も月に3回は労力動員と称する労働に回され、原告も山で

防空壕を掘らされた。雄基では全市民を動員して山という山に防空

壕を掘っていた。無論土曜の半日休みなどあるはずもなく、時間外

労働手当も代休も一切ない。

 

 5、労働の外に、毎月2、3回夜7時から2時間、夕食を食べず

に軍事訓練(ソ連製短機関銃と北朝鮮製の歩兵銃で武装、足りなけ

れば竹槍を持つ)があった。これが労農赤衛隊の訓練である。

 

   出勤は朝7時で、すぐに工場の党委員長による1日の生産計

画と責任量の超過達成の訓辞が1時間(これを会議と言う)、昼食

時には政治読報会という会議、作業後午後6時から8時までは職場

の会議があった。土曜日には1週間の総括があり、成績が悪ければ

夜11時までも居残り仕事をさせられる。週毎に職場別事業総括の

会議、月末と分期末に総括会議、その他不定期に開催される民主選

挙宣伝、70日間戦闘の政治的意義についての講習会等のほか、各

団体別(労働党や民主青年同盟、職業同盟や女性同盟、労農赤衛隊

など)の会議があり、これらの会議に加えて帰国者には週1回の帰

国者特別講習会と朝鮮語学習会への参加が強制された。

 

   労働と会議によって、睡眠時間以外の全てが束縛されると言っ

ても過言ではない生活であった。

 

七、農村

 

 1、第三者による唯一の情報源とした寺尾五郎著「38度線の北」

では、北朝鮮を「地上の楽園」と称していたが、天地ほどの差があ

る現実を見た帰国者らは、寺尾五郎が一体何を見て「地上の楽園」

と称したのかと怒りを覚えた。

 

 2、農村の労働は年齢によってその責任量(点数)が定められて

いる。70歳の高齢の老人が一般労働として田畑で雀追いなどをし

て1日0.25点、最高レベルの5級労働は一日600坪を刈取る

仕事量でありその点数は1.5点である。このようにして1年間の

点数を年末に総計して食糧分配の比率が決定されるのであり、たと

えどんな高齢者も病人も働かなければ食糧の配給を受けることは出

来ない仕組みであった。その上北朝鮮は慢性的な食糧不足であり、

分配食料は1年分を充足できない。不足食糧は闇市場から調達しな

ければならなかった。生産技術を精神論にのみ頼る北朝鮮では、農

村の収穫量は当然の事ながら一定しない上、技術向上を測る意欲は

農民に皆無であった。いくら働いても1年を充足する食糧さえ得ら

れないのであるから、農民に勤労意欲はなかったのである。

 

   また、穀物の販売は国家統制であり、仮に余分の食糧があっ

たとしても政府収買事業所に売る以外方法はなく、この政府買い上

げ価格は驚くほど安価であった。

 

   しかし現実には、年末の収穫分配で配当された食糧は6ヶ月

で食べ尽くしてしまう程度の量であるため、残る6ヶ月分を得るた

め、帰国者らは持参したラジオや衣料など売れる物を全て政府収買

事業所で政府の一方的な価格で売るしかなく、売る物がなくなった

時は死を意味するに等しかった。

 

八、北朝鮮の実態

 

 1、糧票による食糧配給制度

 

   原告ら一般労働者は、自分と家族の一日分の食糧配給券(糧

票)は出勤と引き替えであった。欠勤すれば一日家族が餓え、勝手

な職場離脱は餓死を意味する。北朝鮮は労働可能な最低ラインの食

糧(主食)を配給することで、労働者を職場に縛り付け、食べるた

めだけに働かせ、労働者の一切の余分な欲求を抑えることができた。

北朝鮮では一家の主たる労働者で一日700グラム(子供は400

グラム、扶養家族の老人が300グラム等)とその量が決められて

おり、これを超える食糧は得られない。また、主食は雑穀(主にト

ウモロコシ)が9、米が1の割合で混ざったものであった。

 

   被告幹部は「共和国では毎年人口の3倍の人が食べられる食

糧を生産していて、今ではアルジェリアの人民にまで食糧を援助し

ている」「資本主義国である日本では、資本家の搾取によって労働

者は一日一食の飯も当たり前に食べられない」と宣伝していたが、

実態は日本では家畜の餌であるトウモロコシが主食である上、これ

すら満足に食べられない食糧事情であった。

 

   帰国者の売り食い(日用品を売って食糧に変える)の実態は、

農村に限った物ではなく、原告を含め一般労働者も全く同じである。

売り食いのできない北朝鮮国民の貧困たるや、想像を絶するものが

あり、物品を持たない帰国者も同じだった。帰国者の物品に対する

北朝鮮国民の羨望と妬みは、物品補給が途絶えた後の帰国者に対す

る差別と抑圧の元ともなった。先に帰国した者は、日本に残る親戚

に対し、売り食いのための日用品を帰国船で送ってくれるよう手紙

で訴え続け、帰国船が往来している間は北朝鮮政府も日本の物資を

得るために、帰国者の言動に対しある程度の目こぼしを許していた

が、65年以降は極端なテロルと経済の破綻の進行により、片っ端

から捕らえる「粛清」が支配し、帰国者の地位は重大な監視対象と

して極端に悪化し迫害が加えられ、飢餓も加わりその生活は凄惨を

極めるものとなった。

 

 2、労働党員(帰国者らは党員を「アパッチ」と蔑称をつけた)

による監視

 

   労働党員はいつ、いかなる場所でも非労働党員を検問できる

権利を持つ。原告が北朝鮮に居た61〜2年当時は、未だ帰国船に

よる帰国者への物資の補給が多く、党員はこれによる恩恵を受けて

いたため、帰国者の動向に対する監視は強かったが、帰国者にはあ

る程度の旅行の自由があるなどの特権もあり、帰国者に対する制裁

にもいくらかの目こぼしがあった。しかし、「出身成分」で「動揺

分子」に分類されている帰国者に対する党員の監視は一時も止まず、

労働党員が統制する秩序に少しでも乱れを生じさせると判断されれ

ば、直ちに内務署への連行あるいは署員へ密告され、収容所送りが

待っていた。監視は党員のみならず、非党員によっても行われ、労

働者同士の密告も多々あった。

 

   原告は北朝鮮で1度結婚したが3ヶ月で離婚した。その後1

9歳の織物職場の4級工の女性と恋愛関係になり結婚を考えたが、

原告らの結婚が党の会議にかけられた結果、原告の工場評定も政治

学習の成績も悪く発展性がないことを理由に、原告との結婚は満場

一致で否決された。但し、原告は父が日本で総連の幹部なのだから、

これから職場でも学習会でも模範的に行動すれば結婚を許可すると

いう条件付きであることを知らされた原告は、結婚までにも党が介

入し労働の手段に利用することにつくづく嫌気がさした。この事は

原告が脱走を決意する一因ともなった。

 

 3、北朝鮮の教育

 

   北朝鮮では、子供が生まれたらすぐ託児所(子供40人に保

母2人程度)に入れて組織的生活を始める。これは育児時間より労

働時間重視の政策による。幼稚園では、自分を育ててくれたのは父

母ではなく首領である金日成であると教え、人民学校(小学校)と

中学校では少年団の組織に入り団体生活と組織生活の教育訓練を本

格的に実施し、技術学校又は高等学校進学後は民主青年同盟に加盟

して政治的実戦訓練を行う。エリートコースを勝ち抜いた者は大学

進学が許され、社会教育と組織生活の成績で、北朝鮮での最高の勲

章であり栄誉である労働党員として世間に出られるか否かが決まる。

 

   託児所は、59年から一週間託児制度(月曜の朝に子供を預

け日曜に連れて帰る)を採用する工場が増えていた。北朝鮮では共

働きを奨励するが、夫の収入だけでは生活(「食べる」だけの最低

の生活)できず、妻も働かざるを得ないのが実態である。又は、妻

が党員といういわば特権階級でも、夜昼なく党の命によって働くこ

とになるので、子供は1週間預けっ放しが便利なのである。子供は

党によって育てられたと教えられるため、親子の情愛より党への忠

誠が優先し、親子間でも密告は絶えない。

 

 4、医療

 

   61年8月に原告は民家の火事現場で子供を助けようとして

崩れた天井の下敷きになって大火傷を負った。北朝鮮では医療費は

原則無料であり、被告幹部はさかんにこれを宣伝していたが、原告

が無料で受けた火傷治療は消毒薬を塗るだけのものであった。国立

病院と言っても5名程度の入院設備があるだけで、炎症を起こした

原告の火傷は更に通院加療が必要であったが、それでも消毒薬を塗

るだけの治療であった。

 

   61年当時は診断書が出れば仕事を休んでいる間給料の70

%が支給され、食糧の配給もあったため(診断書のない病欠は食糧

配給がない)、病院にはいつも長い行列ができて診断書を何とか入

手し一日でも仕事を休みたいという栄養失調の労働者で一杯であっ

た。しかし、70年以降には酒や煙草、漢方薬と引き替えでなけれ

ば診療を受けられず、貧乏人に医療は無きに等しい。

 

 5、一般労働者と労働党員の差

 

   原告の給料(5級工)は一ヶ月36ウォン96チョンであり、

原告の同僚は同じ給料で妻と子供2人、70歳を超える母の4人を

扶養しなければならなかった。当時革靴1足は30ウォン、毛布1

枚28ウォン、下着1着32ウォン等であり、労働者は下着すら着

替えることもできず、石鹸すら満足に使えない。マイナス30度の

厳冬期には、麻袋に綿を入れて刺し縫いした合わせ(ヌビオッ)が男

女ともに労働者の上着であり、オーバーを着ることが出来るのは党

員だけであった。衣服(作業服)が無料で支給されると言っても1

年に2度各1着だけであり、食糧(主食)が糧票によって配給され

ると言っても働いて初めて得られる最低限度の食糧であるため、一

般人民の貧困さは深刻であり、副食費で月給の3分の2を費消する

生活苦であった。(なお、65年以降は経済情勢の悪化等により、

左記生活レベルすら望めず、餓死と隣り合わせの生活となっていっ

た。)

 

   これに対し工場の支配人、技師長(いずれも労働党員)など

は原告の3倍の給料を得、かつ様々な生活品を配給される。これを

中央供給対象者と言い、1級から4級までの等級がある。彼らに特

別配給される品目は、例えば1年間に夏冬の高級洋服各1着、革靴

1足、1ヶ月に煙草30箱、豚肉10sなどである。その他にも食

糧は原則白米で配給量も多く、砂糖菓子や特別副食なども支給され

る。中央供給対象者は労働党員であり、帰国者は党員になれない。

これらの中央供給対象者のことを原告ら帰国者は「共産主義貴族」

と呼んだ。(但し80年代に入り、北朝鮮の政治経済情勢の極端な

悪化と身を守る事だけに腐心し労働意欲をなくした人民の閉塞状況

を打開する目的で、北朝鮮は87年に「門戸開放」政策を打ち出し、

強制追放者である政治的不純分子の中で核心的な位置にある者を入

党させる措置をとった。これにより、帰国者も党員になれ代議員に

なった者もいたが、捜査機関による監視の目は党員になっても全く

変わらず、近隣の家々によって常時監視されていた。また、代議員

になっても手当はない。)

 

 6、帰国者の出す日本への手紙

 

   帰国者は日本から持参した日用品を売って食糧を得る売り食

いで命をつないでいたのであり、日本に残る親族宛に手紙を書いて

日用品を送るよう懇願していた。しかし、原告が日本の母宛に60

通も出した手紙のうち、母に届いたのは2通だけであった。

 

   北朝鮮の帰国者から日本へ送られる手紙は1日千通とも言わ

れ、全てを検閲することは不可能である。よって無作為抽出の検閲

を行い、不適切なものがあればその日の手紙は全部廃棄されたと考

えられていた。なぜなら、北朝鮮を礼讃した手紙も届かなかったか

らである。また、身内に害が及ぶのを怖れ、帰国者たちは悲惨な事

実を手紙に書くことはなく、検閲にかからないような型にはまった

手紙で日用品を送るよう懇願した。そして日本における親族らは、

帰国者に累が及ばないよう秘密裏に対応し続けたのである。

 

7、党委員長

 

   党委員長の権力は絶対であり、職場長、支配人から3級工に

至るまで、その任免権は党委員長にある。党委員長は日に5〜6回

工場内を巡視し、党委員長に命ぜられた私服の安全員は抜き打ちで

工場内を視察し、労働者の怠業を監視した。その他労働党員は全て

非党員の監視者であり、原告は一日12時間の労働時間中7回便所

に行ったことが怠業として朝の会議で糾弾されたこともあった。

 

   また、北朝鮮では職場でも人民学校でも自己批判会という同

志裁判が行われ、素行の悪い者、責任量を達成できない者などが全

員の前で壇上に挙げられ、群衆裁判が為される。集団リンチのよう

な様相であり、原告も党員たちから反動分子であると糾弾され、自

己批判を要求された。自己批判会では、党委員長が判決を下す。

 

 8、身分証明書

 

  (一) 原告は北朝鮮で以下の証明書を持たされ管理された。

このほかにも北朝鮮には数えられないほどの証明書が発行され管理

と束縛、抑制の手段として使われる。

 

  (二) 公民証 原告が雄基に到着して最初に交付された証明

書。18歳以上の男女に常に携帯が義務付けられ、顔写真、本籍地、

出生地、家族構成、移動先住所、職業変更欄、結婚関係欄、前科関

係欄、特別記録欄などが記載され、内務署員の検閲は必ず公民証を

調査する。18歳未満は出生証。

 

  (三) 労働手帳 労働者が携帯を義務付けられる。労働年数、

労働等級、職場の移動、賞罰などが記載される労働履歴書であり、

職能も同手帳に記載がなければ認められない。

 

  (四) 職業同盟証 職業同盟という労働者の休暇や休養など

の社会保障のためと称する組織が発行するもの。但し職業同盟は日

本でいう労働組合のような労働者の権利を守る組織ではなく、強制

労働を支える組織であり、費用として労働者の給料から毎月数%が

天引きされる。

 

  (五) 民主青年同盟員証 17歳以上28歳までの男女青年

が持つ。民主青年同盟は労働党の後備隊で、党の政策貫徹の先鋭的

役割を担うものであり、若者を労働に動員するものである。

 

  (六) 旅行証明書 旅行時に必要。原告が北朝鮮に居た時は、

帰国者には特別に旅行の自由という特権が与えられたが後にはこれ

もなくなった。

 

  (七) 衛生証明書 予防注射を受けたという証明で、旅行の

際はこれがなければ切符は買えない。

 

 9、北朝鮮の投票率100%の選挙は以下の通りである。

 

   1962年10月8日に朝鮮民主主義人民共和国最高人民会

議第三期代議員選挙が行われ、原告は初めて選挙を経験した。

 

   10月7日午後6時、工場の退勤時間に党委員長の命令で全

員の退勤が禁止され、午後7時に工場工員全員(400名)は党委

員長の指示に従って投票場へ移動した。投票場には既に有権者が集

まっており、午後8時に郡党委員長、人民委員会委員長、民主青年

同盟委員長ら幹部が壇上に座り、選挙演説が2時間あった後、有権

者全員の点呼が午後10時に始まった。孫に背負われた高齢者や担

架に乗せられ呻き声をあげる病人に至るまで全有権者が集合してい

た。有権者は投票用紙を持ち、一人の立候補者に対し信任の場合は

そのまま、不信任の場合は箱の上にある鉛筆で反対の意思表示をす

ることになっていた。午後11時投票が始まり、一列に並んだ有権

者らは1個の投票箱に投票用紙を投じたが、原告が投票箱の前に立っ

た午後11時40分、投票箱の上に鉛筆はなく原告は信任の投票を

行うほかなかった。仮に鉛筆があったとしても党幹部らが監視する

整然とした1列の行列の中では、反対の印をつける時間もなければ

そのような勇気も出ない。夜が明けた10月8日午前5時に投票は

終了したが、後で発表された投票開始時刻は10月8日の午前6時

で、10月9日午前9時に全国の選挙結果が発表されたが、全国3

83の選挙区で383名が立候補し、その全員が名誉の当選をし、

投票率100%、信任投票100%である。

 

九、脱出

 

 1、被告が喧伝した「地上の楽園」である北朝鮮での生活は、党

及び隣人や職場の仲間による厳しい監視の下、生涯を党の命令通り

に休みもなく労働するだけの奴隷生活の強制であった。恋愛や結婚

にまで党の管理が及び、挙げ句選挙すら党の命令に従う単なる形式

に過ぎず、不平不満を口にするだけで逮捕・強制収容所送りの恐怖、

果ては生命の保障もないことを知った原告は、北朝鮮の将来に何の

期待も持てなくなった。そして原告は考え抜いた挙げ句、北朝鮮か

らの脱走を決意した。脱走に失敗すれば、即殺されるか又は強制収

容所送りであったが、原告はこのまま貧困と餓えと監視の中で奴隷

として労働を強制される生活を続けることを潔しとしなかった。

 

 2、原告はまず平壌へ行くことにし、1962年10月17日原

告は雄基駅から清津まで列車で移動し、更に近くの朱乙(チュウル)温

泉へ行った。同地で労働党員の検問にあったが切り抜けた後、原告

は平壌に入った。朝鮮画報で見た平壌の近代的高層アパートの裏は、

日本の工事現場や炭坑にあるバラックそのものであることを知り、

改めて北朝鮮の貧しさと被告が魅せられた朝鮮画報の欺罔を実感し

た。

 

   原告は一ヶ月ほど平壌で過ごす内、脱走希望者が五名となっ

たが最終的に原告と他のもう一人の計二名が脱走を決行した。

 

   11月19日平壌から平康行きの列車に乗り、検問の際原告

は車両から出て連結器部分に隠れたが、もう一人はそのまま車両に

残ったため人民軍兵士に連行された。原告はこれを見て列車の屋根

に登り、雪と寒さの中2時間を耐え、洗浦駅で列車を飛び降りた。

 

   洗浦から軍事境界線までは約70里(約28q)ほどだが、

山や渓谷が連なる険しい地形を原告は夜だけ徒歩で移動し、20日

には崖から転落して左肘部を骨折し、23日には持っていた食糧は

全てなくなった。しかし、25日に遂に軍事境界線の鉄条網を破っ

て韓国への脱出に成功したものである。

 

   帰国した当時原告は19歳8ヵ月で85sあった体重が、韓

国に逃亡したときには41sまでやせ細っていた。

 

   左肘部の骨折によって、後遺症(90度程度しか曲がらない、

伸ばしても120度程度にしか伸ばせない、力が入らない、重いも

のはもてない、手の指の末梢が冷たい、左肩痛が今もある、左肘部

に今なおステンレスが入っている)が遺っている。

 

一〇、  原告は、在日朝鮮人らに北朝鮮の実態を知らせ、絶対に

帰国してはならないことを伝える使命に燃えていたため、韓国にた

どり着いて1年経ち傷も治り体力も回復した原告は、日本へ渡航し

ようとした。しかし、原告の北朝鮮脱出を知った岡崎市の被告関係

者は、原告を裏切り者として「日本に来たら殺す」と公言し、原告

の母(’77年死)は反動分子の母親と罵られ、被告によって1年

は外出もままならない生活を強いられた(原告の父は既に他界して

いた)。日本政府は日本での原告の身辺の安全は保障できないとし、

韓国政府もこれを楯に原告の日本行きを受け付けなかった。

 

  しかし原告は諦めず、日本への密航を企てたが、原告が行方不

明になると韓国警察は原告を全国に指名手配してこれを阻んだ。そ

れでも原告は在日同胞の北朝鮮への帰国を阻止するために日本へ渡

ろうとし、警察による阻止は3回にも及び、95年5月に東京来訪

実現まで日本への渡航は成らなかった。

 

  HOME  PAGEに戻る