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07/1/1午後5:53:13

題名:[hrnk]北韓人権市民連合参考情報

北韓人権市民連合の「生命と人権」41号に掲載された記事の翻訳です痛ましい話ですが、ご一読ください、三浦

証言 強 制 送 還 後 、 耀 徳 収 容 所 で の 3 年                    

        金ウンチョル              
・2006年3月入国、耀徳第15号管理所経験者・2000年7人脱北者強制送還事件生存者

 1999年11月10日、私を含めた脱北者7名が、中国でロシア国境を越えたところ、ロシア国境警備隊に捕まった。最初は、私たちを逮捕して3日目に中国に送り返すといった。そこで、私たちは“中国に送られたら、北韓に引き渡されるのは明白なので、国連と話したい”と言った。すると、ロシアでは、国連から来た人々に会えるようにしてくれた。一人当たり10分くらいづつインタビュ−をし、私たちは続けて、韓国に送ってくれと頼んだ。すると、彼らは“あなた方の要求を聞き入れた”と言いながら、写真を撮って帰っていった。記者会見をして3日が過ぎると、北韓大使がやってきた。ロシア人が私たちに、会うかと聞いたので断った。すると、紙に書けと言った。そして、私たちは、北韓大使と会えば、私たちは捕まり、殺されるのが明白なのだから、会いたくないと書いた。しかし、私たちの思い通りにならなかった。結局、北韓大使に会わざるを得ず、彼は“同志は、将軍の配慮に何故背いて祖国に反逆したのか?”と訊ねた。直接、会ってみると、とても恐ろしくなった。やはり、雰囲気が悪く流れているようだった。そして、じっくり考えてみると、どんなに国連の人々に会っても、北韓に送られるのではないかという思いになり、“では、北韓に戻ったらどうなるのか?”と聞いてみた。彼は“将軍の配慮で罪科によって処罰されるだろう”と言った。

 1999年12月30日、中国辺境外事課(調査課)から人がやってきて、ロシア軍人たちは、私たちを中国に引き渡した。中国から来た人々は、私たちにロシアにいた時、満足な待遇を受けたかと聞いたりもした。私たちが連れて行かれた所は、中国の密山という場所だった。殴られなかったが、僅かなパンとジャガ芋粥が与えられ、氷柱で洗面をしながら過ごした。その時、私たちは外事課の建物で調査を受け、夜には公安局の建物に護送され休んだが、2000年1月2日、いつものように公安局に護送される時、車が止まり、皆降りろと言った時、皆同時に逃亡した。後で知ったのだが、他の人々は3〜4時間後に皆捕まり、私だけが成功した。逃亡出来ないように、靴を奪われ裸足だったために、一歩踏み出すたびに転び続けながらも逃げ続けた。逃走を計画する前に、皆、成功したら、中国延吉教会で再会することにした。一人で逃亡しながら考えてみると、朝鮮族旅館や教会を訪ねて行けば、検問をしているようなので、裸足で降りしきる雪の中を2時間以上さまよい、密山のある村で肉を売る店を見つけ、とにかく入っていった。中国人店員が、私の状況をすぐに理解し、気の毒に思ったのか手を握って家に連れていき、湯で足を温めてくれ、食べ物もくれた。しばらくすると、話を聞いたのか、店の社長がやってきた。それで、私は朝鮮の地図を描き、教会を意味する十字架を描いた。すると、社長は私を病院に連れていった。十字架を病院と錯覚したようだった。

 逃亡当時の私の服装では検問を受けるだろうと思い、病院の隣のベットで寝ていた中国の乞食のような人と服を取り替えて寝た。翌日、朝から待っていてもその社長がもう来ないのではないか、だんだん不安になり病院からも逃げ出した。幸い、道で朝鮮語を少し理解する女性二人に会った。それでも、私が漢族の言葉(中国語)を知らず、言葉がよく通じないと、中国の金9元をくれた。バスに乗って市外に抜け出した。農村を訪ねようと思って無意識に歩いていたところ、遠くに大きな家が見えたので、助けを求めようと訪ねていったら寺だった。中国人のお婆さんがいたが、言葉が通じなかった。するとお婆さんは、朝鮮族一人を連れてきてくれた。一部始終を話して助けを求めてきたといったら、寺の幹部は会議中だが、少ししたらやってきて助けてくれるだろうと言った。その寺は、法輪功をする人々が隠れている場所のようだった。幹部たちがやってきて話をしたが、少しづつ金を集め、中国の金398元を私にくれた。百元は靴下に、残りは別のところに突っ込みながら、“ここも検査がとても厳しいので、どこに行っても絶対ここにいたことは、生涯言うな”と託した。

 タクシーに乗って密山市内に戻って来た。まず、散髪した後、100元程度で衣服を買って着て、食べ物も買って駅に行ったところ、私を捕まえに来たような中国公安が遠くに見えた。幸い、市場で買ったサングラスをかけたいたためか、私を見つけなかった。3元程度で牡丹江行き列車の切符を買った後、遠くで隠れて待った。出発時間が近づき、外にいた公安たちが駅内に入って行くような雰囲気だった。そして、本当に出発時間になると公安たちが駅前に机を置いて、人々を検査し始めた。しかし、とにかく密山から逃げ出したいために放棄出来なかった。そこで、塀を越えて、列車の化粧室に入り40分くらい隠れていた。出発して4時間後に牡丹江に到着し、汽車を乗り換えて延吉に入って行った。ロシアに渡る前に延吉教会で助けられた長老を訪ねていった。長老は、私たちがロシアで記者会見したのを見ながら、‘うまくいった。無事に韓国に送られるだろう’幸いだと思っていたが、私が逃亡したのを見てひどく驚いた。

 逃亡して3日の間、密山辺境隊で捕まらないと、密山公安30余名が延吉まで捕まえにきたことを知った。延吉にもはや留まれる状況ではなくなり、これ以上逃げて行くところも定かでないので、再び朝鮮に戻ることにした。静かに隠れて過ごせば分からないだろうと思った。和龍市徳華鎮を通って薄氷を這って豆満江を渡った。知っている家に入って一夜を過ごし、茂山に入った。すぐに家に行かず、知り合いの家を訪ねた。延吉教会で貰った500ウォンで米を少し買い与えたので、匿ってくれた。父への連絡を頼んだ。やってきた父に米を少し買ってあげて、数日その家に隠れていた。2000年1月16日、満月が明るく浮かんだ。再び中国に行かなくてはと決心して、最後に一度だけ家に行きたいという思いが切々とした。数日の間に中国から茂山まで私の情報が知られるようになろうとは思っても見なかった。しかし、家の中に入った瞬間、見えなかった安全員たちが瞬く間に押し寄せた。いつ公文書が渡ってきたのか、私の家に監視、待ち伏せが張り込んだのだった。拳銃で頭を殴られ、私が倒れると30分の間、息もつけないほどメチャクチャに殴った。靴紐で足を縛ったまま地面を引き摺って行った。

 連れて行かれた所は、茂山郡安全部だった。私は、保衛部扱い対象者だったので、安全部では大怪我はしなかった。しかし、茂山郡保衛部に移された時は違った。6カ月の間、太い角材をふくらはぎの裏側に挟んだまま、放熱板上に跪き、記憶出来ないほど多く打たれた。時間構わず毎日打たれたが、絶対、中国に行ったことは無いと言い張りながら十日程度は頑張った。しかし、すぐに中国公安から私の写真と書類等、調査した全ての資料が送られてきた。目の前で全て見せられたので、これ以上、言い張る術が無かった。‘中国に行ってキリスト教に会ったか?’‘全て言え!’ 私は教会に行ったことは最後まで言わなかった。ロシアに行き、記者会見をしたことは認めた。しかし、‘もう死ぬんだ’と思うようになり、だんだん全てのことを放棄するようになった。手足全て四方に縛られ、空中に吊るされたままにされると、自分という人間に対し全て放棄せざるを得なかった。紙を100枚ほど与えられ、無条件で埋めろと言った。言われるまま無条件に書けというのだが、したこと、しないこと問われるままに、こう書け、ああ書け、要求するままに全てやったと書いた。2カ月間、毎日、向かい合って取り調べ(調査)を受けた後は、拘留場で4カ月余、座して引き渡されるのを待った。拘留場だからといって、楽な場所ではなかった。警護員たちが執拗で放って置かず、続けて殴った。

 ある日、父親が面会に来て餅を置いていってくれたのだが、側で他の人々が少しだけくれとどんなに訴えても、警護員たちは与えないようにした。そして、少し見張っていない時、渡そうとしたところ、そのまま引っ掛かってしまった。警護員は、罰として頭を壁に続けて打付けろと言った。大声で打付けろと叱り付けたために、ガンガン音が響くほどに頭を壁に打ち付けた。額に血が噴き出始めると、皆、見ているところなのでそうしたのか、化粧室に連れていった。そして、化粧室の便器に続けて頭を打付けろと言った。あまりに腹立たしく、辛くて、歯を食い縛り、いっそ、こうやって死のうという思いで、狂ったように頭を打付けた。血がだらだら噴き出し血塗れになった。このことがあってから、だいぶ経った時、担当指導員がやってきて、何故そうなったのか訊ねた。事実のままに言っては、後が恐いのでそのまま何事もないと言い繕ったが、指導員が続けて聞くので、結局、話したところ、清通片(漢方薬)を磨り潰し塗ってくれた。少しづつ暑くなり始める6月からは、よりきつい罰を与えられた。罪囚たちで溢れた集結所で、刺すような暑さの中で毛布を被らせて、座ったり立ったりを繰り返さなくてはならないポンプを500回づつやらされると、人間がそれこそ犬になる。十分に乾いてなく、シラミがうようよし、埃が積もった毛布を被って汗をだらだら流しぼろぼろになると、これ以上、人間らしい面を探し出せなくなる。

 2000年6月30日、耀徳収容所(第15号管理所)に送られた。19歳の時だった。耀徳が何処かも全く知らず、永遠に出られないところに行くのかという程度にしか考えられなかった。私たち家族は、私が何処に送られたのか知る方法がなく、村では私が間諜嫌疑で保衛部に銃殺され、筵袋に入れて棄てられたという噂が流れたそうだ。耀徳収容所内には、ちょうど旧邑里地域に革命化区域が作られ、中央党系統、安全部、保衛部、検察側の人間も革命化教育を受けていた。初日、入って行ったところは、外来者収容所という場所だった。初めて来た人々は、調査過程で、身体の状態が非常に悪く、激しい労働で鍛練出来ない人々であるため、飯は与えられ、仕事の強度は一般基本中隊より少し軽い方だった。半月ほど過ぎて、管理所政治部長という人物が訪れ、談話することができ、その時に私が反逆罪で3年刑を受けたことを初めて聞いた。壮健な人々は、7〜10日目ぐらいで中隊に送られたが、私は幼く見てくれたのか、一ヵ月ほどそこにいて、基本中隊に送られた。

 配置された場所は、建設小隊2中隊3小隊だった。この時から、昼夜無く続けて働かなくてはならなかった。夏は午前4時30分起床。農場小隊支援、肥料を運び、耕作し、7時に幕舎に戻り、朝食を食べた。7時30分に基本建設をし、基礎を掘り、セメントを手で直接練って、保安所を新しく建てて拡張することが初の課題だった。私が建設小隊にいた3年の間、他にも鶏舎、山羊舎、牛舎、外来倉庫等、6棟の施設を作った。物資も無い状況で16人程度にしかならない小隊人員で多くのものを全て作らなくてはならなかったのだから、どれほど仕事を多くしたか。昼食は、午前に食堂から持ってきたもので、外で作って食べた。周辺の山菜を採って真鍮鉢に入れて食べたが、量を増やすためだった。5時間働いて30分休むのが基本で、作業能率を見て休むようにした。通常は、午後6〜7時まで働くが、能率が上がらないといって、よく夜間作業をさせれられた。夜間作業がある期間には、6人づつ3組、または8人づつ2組に分かれ、初めの組が午後5時から深夜1時まで、次の組が1時から明け方5〜6時まで、最後の組がまた交代する方式で働くために一日24時間絶え間無く作業は続けられるのである。殴打は保衛部や拘留場よりは相対的に少ないが無くはなかった。目端がきき、拳が少し強ければ殴られず、働く、働かないによって、一緒に働く他の罪囚が打たれたりする。つまらぬことを見たり、知ったりして、死ぬ場合も多く、罪囚の中にも先生のスパイが大勢いるために、失言をして引っ掛かれば、耀徳収容所内にもある別の拘留場に連れて行く。一食10グラム程度しか与えられないために、1カ月いても虚弱(栄養失調)になって死ぬか、生きても這うようになる。身長が170pになる人間も一旦ここに入れば、完全に子供になって這うようになり、普通3日もせずに死ぬ。

 人が死ねば、基本的に建設小隊が死体を処理する。埋葬をするため、それでも良い方といえるが、板で簡単に棺を組んで死体をそのまま入れようとすれば、横から早くしろと急き立てるなかで、何であろうと手当たり次第つかんで釘を打つ。牛車に乗せて運ぶのだが、石に躓くと棺が割れて隙間が出来て死体が外に飛び出てくる。私は主に牛車を引く方だったが、棺の外に飛び出た死体に視線が行けば、無条件に生き残らなければということ以外何も考えなかった。埋める場所は‘墓の谷’と呼ばれたが、主に夜に死体を埋めに行くために、大雑把に掘って急いで埋めて、闇に紛れてトウモロコシでも取って皮をむしって焼いて食べたりした。

 私を含めてロシアに一緒に入って行き、耀徳に連れて来られた5名の中の方ヨンシルという女性は、本当に気の毒に死んだ。一緒に捕まった方ヨンシルの夫・許ヨンイルという男性は、何処にこんな男がいるのかと思うほど良い人間だった。他の男であれば、妻がどうのといっている間に、自分の生命が往来する状況では知らん顔するだろうに、名節に出た少しの肉でさえも食べずに、隠して持っていって食べさせ、作業が終わって戻ると、すぐに駆けて行き、一時間づつ女の側にいって身体を洗ってやったりした。最後には、しもの世話までし、誠心誠意面倒を見たが、これほどしたのに方ヨンシルは終に不幸に死んだ。生死苦楽を共にした私たちが、彼女を埋葬したが本当に悲しかった。

 2003年7月、刑期を終えて遂に耀徳収容所から出る時、誓約書を書いて拇印を押した。‘外に出て、ここの秘密を流布した時は死刑に処される’という内容だった。出る時は、途中で食べる物を持って出たが、該当区域の保衛部に連れて行かれた。保衛部で書類を確認処理し、軍団労働部に行き、書類手続きをして新しい職場を得た。私は茂山郡新谷〈セコル〉農場に配置された。働いている間は常に監視された。班長は何も言わなくても24時間私を見ていた。村人たちも‘中国へ行く兆候があったり、行動が怪しかったら即時通報せよ’と教育されていた。それでも同じ村の人々なので、普段は私を遠ざけたりしなかった。むしろ銃殺されたと思ったのに、どうして生きて戻って来たのか心配して尋ねた人々もいた。誓約書を書いたために話すことも出来ず、ただ何処そこへ行って働いて来たと言い繕った。出来ることなら、口を縫っている方がよかった。それで、兄と姉は今でも私が何をしていたのか知らない。後日、中国に再び脱出して双子の弟に会った時に初めて聞かせたのだが、こうして話した後も誰かが聞いていて捕まえに来るのではないかと怖くなり、内心不安で、二度と誰にも話さないと誓ったりもした。

 2004年8月頃、生活があまりにも苦しいので、家族は食べて生きるためにといって、中国で少しでも金を得ようと再度中国に渡って行った。ところが運が無いのか、また捕まってしまった。二度目なので今度は15年刑だと思い、親戚たちが山羊一匹を丸ごと与え、家に隠しておいた30万ウォンを賄賂として渡したので、そのお陰で釈放された。ところが、その時、賄賂を受け取った中央党書記二人が、最後まで黙って秘密を守ってくれればよかったのに、中央党の検閲を受けた時、賄賂を授受したことが引っ掛かって、私も捕まってしまった。中国に行こうとしたのでは絶対無いと言い張って、いったん茂山郡鍛練隊に送られた。2004年10月から6カ月程度いたが、2005年4月に逃亡した。山に登って50日間、山中に穴蔵を作って隠れていた。韓国に先に来ていた弟が中国に出ていたが、終に連絡がついた。弟は中国の金2000ウォンを北韓にいる兄に送ってくれ、兄が私を探し、再び1000ウォンを送ってくれた。私は山羊と30万ウォンの賄賂で、私を助けてくれた親戚たちに金を返済し、中国で再び金を稼いで朝鮮に戻るつもりだった。戻って来たら死ぬと皆止めた。中国に来て会った弟が、韓国へ行こうと説得し続けた。何れにしろ、生きられるのは韓国に来る道だけだった。私は、2006年3月16日韓国に到着した。