書評 ユン大日「『北』の公安警察」(講談社) 

└ 2008-07-01 08:11

評者:三浦小太郎

北朝鮮の金正日独裁政権による、拉致事件や麻薬売買などの国家犯罪、政治犯強制収容所に象徴される民衆抑圧、失政による餓死者続出などが、様々な情報や証言により明らかになった。そして、これらの情報がもたらされればされるほど、何故北朝鮮で反体制運動が起きないのかという疑問が人々の心に浮かばざるを得ない。
元国家安全保衛部員であり、現在は韓国で脱北同志会副会長を務めるユン大日氏の本書は、保衛部による北朝鮮全土に張り巡らされた監視・抑圧体制の恐ろしさを明らかにすることによって、この問に残酷な答を与えている。
金正日体制とは「政治、経済、軍事、さらには住民の思想までもが労働党の支配、統制、監視を受け(中略)その労働党を金正日は完全に掌握している。労働党の権力=金正日の権力なのである」(58頁)
金正日体制という完全な全体主義体制の本質はこの発言に尽きている。この体制を維持するために重要なのが、国内の党・軍幹部から民衆にいたる全てを、恐怖によって支配する管理システムであり、その実行部隊が「『北』の公安警察=国家安全保衛部」なのだ。
本書第5章では、この保衛部の歴史、現在の機構体系、各部署の役割、そして彼らがあげた血生臭い『成果』の数々、党幹部の粛清、クーデターの未然の発覚、そして民衆への監視体制の有様から、拉致事件や麻薬ビジネスの担当部署とその実態に至るまでが克明に綴られ、北朝鮮独裁体制の犯罪性が一目でわかる概説書となっている。特に興味深いのは、国家安全保衛部が時代と共に幹部の残虐な粛清を伴いながら次第に強化される過程だ。
金正日が事実上後継者に任命されたと思しい1973年に、国家政治保衛部(国家安全保衛部の前身)は独自の情報機関として独立し、金日成、金正日の直属機関として絶大な権限を得る。著者はこの時期から、特に日本からの北朝鮮帰国者たちに対し、徹底的な監視が行われ、体制に不満を持つと思われる人々の処刑や収容所送りが相次いだと述べる。勿論、組織的な反体制運動などは存在しない。罪状「マルパンドン」(発言による反動行為)として罪に問われたのは、一言金父子の世襲に疑問を漏らし、北朝鮮の生活の貧しさと不自由さに不満を呟いただけの人々だ。この帰国者、日本人妻たちの受難は第五章につぶさに物語られているが、中には日本の家族からの多額の仕送りで出世し『不良帰国者』よろしく、北朝鮮の著名な映画女優を愛人にした、崔ジョンギのような人物も紹介されている。あまりにも残酷な運命がこの女優には待ち受けていたが、その仔細は是非本書を直接当たられたい(百四十一頁)。そして、殆どが社会の底辺の生活を強いられている日本人妻たちの境遇は今更ながら胸をえぐるものがある。
そして、金正日はさらなる国家保衛部の強化を目指し、1992年、国家安全保衛部と名称を改め、国境封鎖部署と対外反探偵局を新設する。94年7月以降は、金日成の死に伴う社会不安を払拭するため、さらに民衆の監視が徹底されてゆく。著者によれば、金日成死後直後は反体制ビラや落書きなどが現れ、民心が明らかに離れてゆくのが感じられたという。しかし、この危機は保衛部の情報をもとに軍部をも動員した弾圧によって乗り切られた。現在、この保衛部の活動は、中国警察機構と連記しての脱北者拘束でも大きな力を示している。全体主義体制の強固さ、そしてその恐ろしさが著者の冷静な文脈から客観的な事実を通じて浮かび上がってくる。
私が本書を読みながら、しばしば思い起こしたのが、ハンナ・アレントの著作『イェルサレムのアイヒマン』である。アドルフ=アイヒマンはナチス・ドイツの国家保安本部でユダヤ人担当課を受け持ち、戦後イスラエルで裁判にかけられ、大量虐殺の罪を問われて有罪となった。アレントはアイヒマンを、ユダヤ人への憎悪に駆られた人物ではなく、ひたすらナチスの人種差別法と職務に従って黙々と事務的にユダヤ人迫害を行った平凡な人物であったことに注目し、全体主義体制下での『悪の陳腐さについて』思考を巡らせたのである。
北朝鮮の保衛部も、おそらく同一の精神構造に支配されている。金正日個人は目前で幹部の妻を夫に銃殺させるほどの残虐な人物だが(本書170頁)、ユン氏ら多くの保衛部員は、全く合法的に、日々の職務として苛酷な民衆抑圧を行っている。それ以外に彼らの選択肢はなく、民衆は恐怖によって精神を閉ざされ、そして保衛部員は自らの良心を眠らせることによって荒廃してゆく。この体制の本当の恐ろしさはこのモラルの崩壊にある。
しかし同時に、本書は、必ずあの独裁政権は人間の良心の前に敗北するという確かな希望の灯火を示している。著者は脱北者の摘発に携わりながら、様々な矛盾に悩み続けていた。何より辛かったのは豆満江を渡り切れず、溺死した脱北者の遺体を処理しなければならないことだった。そして、著者は逮捕・粛清される直前、家族に知らせる余裕もなく次男と共に韓国に亡命する。しかし、北朝鮮に残る家族の身に危険が及ぶので、自分の亡命の事実を隠してほしいという願いは叶えられず、韓国政府は著者の亡命を発表、残された家族は収容所に送られてしまう。
そして、著者はアメリカに証言者として招かれた二〇〇二年、韓国政府の意向に反し、初めて太陽政策への批判を述べた。そして、今は脱北同志会の活動を通じ、北朝鮮独裁体制の民主的改革、民衆の救援を訴え、その視点からの韓国政府への批判的提言を行っている。著者は南北両国の体制いずれからも精神的に自立し、良心の赴くままに勇気を持って行動している。全体主義体制に真に対峙できるのは、このような一個人の道徳的な力である。この告発に耳を傾けず、北朝鮮独裁体制の犯罪を黙認することは、隣国の全体主義体制の共犯者として、私たち自身のモラルをも堕落させることに繋がるだろう。


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