北韓知識⑱
北 韓 の 映 画
映画振興委員会が今年のアカデミ-映画賞韓国出品作として、脱北者の哀感をありのままに描き出し、全国民に多大な感動を贈った金テギュン監督の‘クロッシング’
を選定したなか、北韓はどのような内容の映画をどのように上映し、撮影するのか
について気になった。そこで今号のテ-マを北韓の映画にしてみた。
整理:李ヒョンス、李カラムニュ-スレタ-リポ-タ-
凱旋映画館の外観(出典:次のブログdazz2663)
映画人も労働者
北韓の全ての芸術団体が一定の機関に所属しているように、映画俳優や演出家を始めとした映画人たちは、映画撮影所に所属している。北韓の映画撮影所としては、芸術映画を主に制作している朝鮮芸術映画撮影所と4.25芸術映画撮影所が最も大きく、児童映画を制作する朝鮮科学教育撮影所傘下で、白頭山創作団、普天堡創作団、月尾島創作団等、別途の創作団が切り回していて、主要作品はこれら創作団を中心に制作されている。北韓の俳優は、南韓の俳優とは異なる待遇を受けている。もちろん功勲俳優や人民俳優になれば全ての待遇が異なるが、彼らを除く大部分の俳優たちは、一般労働者と同じく映画撮影所に出退勤をして、一日一日を何とか生活して行く労働者に過ぎない。
映画制作過程は?
各創作団は、朝鮮文学芸術総同盟で選抜されたシナリオを持って作業をするようになり、創作団別に撮影から編集、コンピュ-タ-グラフィックまで可能な制作設備を持っているそうだ。全ての制作費用は、党と国家から支援されるために、北韓の映画人たちは南韓の映画人より商業的な興行プレッシャ-のような負担が相対的に少ない。これは言い換えれば、北韓の映画産業は国家的事業であり、映画の宣伝煽動性を考慮する時、朝鮮労働党の文芸事業中の主要な部門であることは間違いない。
北韓の国際映画祭?
ただ、このように映画制作のみ活発に行なわれているのではなく、平壌で2〜3年周期で国際映画祭も開催されている。2008年に開かれる平壌国際映画祭は、9月17〜26日‘自主、平和、親善’をテ-マに長篇、ドキュメンタリ-、短篇等、部門別作品競合と共に特別映画上映と映画交流のための協議が行なわれるそうだ。
どこで上映されるのか?
平壌には大同門映画館、凱旋映画館等、比較的多く映画館がある。また、市・郡文化会館、工場・企業所、協同農場、少年会館、文化会館、移動映写台でも映画を観覧出来る。このように映画を上映出来るインフラが備わったところは、合わせて
約5000余ヵ所になるそうだ。
インタビュ- 心を分かつ人々/金ホジュン前国家人権委員会常任委員
北韓住民の人権向上のための努力、人権先進化国家を遂げる道
インタビュ-整理・写真:呉ウンチャン、金ヒユンニュ-スレタ-リポ-タ-
NKHR:今年3月、北韓人権市民連合顧問に推戴されましたが、市民連合とは
どのように縁を結ぶようになったのですか?
金ホジュン委員(以下 金):国家人権委員会(以下 人権委)で盧武鉉政権時代、当時野党だったハンナラ党の推薦で人権委員になりました。当時、盧武鉉政権
は、国連で北韓人権問題を扱うことに反対し、北韓人権に対して無視し、沈黙することで一貫しました。しかし、私は北韓人権問題を積極的に扱うべきだという立場
でした。人権委での任期が終わると、私と同じ考えをしていた北韓人権市民連合から連絡が来ました。
NKHR:特にどのような面で同じ考えをしていたのでしょうか?
金:脱北者支援事業に対して同じ考えでした。中国に来た脱北者たちを強制北送することに反対し、脱北者に国際法上の難民地位を付与して自由に彼らが暮らせるよう支援すべきだという立場を堅持しています。
NKHR:人権委では北韓人権に対して、どのような立場をとっているのですか?
金:盧武鉉政権では、国連で北韓人権問題を扱うことに反対しました。しかし、私は我が国の政府が金正日政権に対し、北韓人権について明白な立場を表明すべきだという立場でした。当時、人権委はいわゆる左派陣営が多数だったために、人権委が独自的に北韓に対する意見表明すべきだという意見が採択されませんでした。ただ、政府を相手に韓国にいる脱北者たちに対する意見表明することに狭められました。お陰で私は一人孤軍奮闘する委員として記事に多く登場したのです(笑)。
NKHR:では、我が国の政府が立場表明することが影響力をどれだけ及ぼせるでしょうか?
金:国際社会では既にこのように要求して来ました。ところが我が国の政府がそれに同調しなかったのです。私たちが公式的に立場表明をすれば、国際社会の立場
では大きな援軍を得られるのです。そして北韓人権に関するより大きな圧力になる
でしょう。一方では北韓人権問題を議論するのは内政干渉することだというが、人権は普遍的な問題であるため、主権よりも先立つものだと思います。人間の基本的な権利であるため、こうしたレベルで見てはいけないのです。
NKHR:北韓社会に接近するのが容易くないなか、北韓の人権実態をどのような経路で調査するのですか?
金:主に脱北者たちに会って北韓社会の人権実態について詳細に聞きます。そして北韓の法典を見れば、基本権を不当に侵害する条項があるのが分かります。その他にも国際人権団体や統一部、国政院のような国家機関でも情報を得られます。
NKHR:最近はどのようなことをされていますか?
金:中央アジアの高麗人について関心があり、高麗人に関する本を著述しています。韓半島からロシアへの移民の歴史は140年を越えます。沿海州に20万人住んでいたが、1937年に中央アジアに強制移住されました。その後、その地に根を下ろして暮らしていますが、母国語も多く忘れてしまい、文化も忘れてしまい、
アイデンティティの危機に直面しています。そこで、私は高麗人たちをどうすれば
韓民族ネットワ-クに一員として連結出来るかについて関心を持っています。
NKHR:略歴を見るとマスコミ界で長く働いていらっしゃいましたが、人権に
ついてどのように関心を持たれるようになったのでしょうか?
金:国連でどんな人々が人権委員として適格者か紹介した冊子があるが、主に弁護士、マスコミ人等が明示されています。マスコミと人権は、相当、密接した関係
があります。社会面で扱うほぼ全ての記事は人権と関連があります。ただ、マスコミ人としては、人権問題を新聞記事の‘事件’として扱えば、人権委員としては‘
人権そのもの’に人権を展望できます。
NKHR:ところで金委員の年代は北韓に対し否定的な視点を多く持っていらっしゃるのではないですか? 戦争も体験されたようですが、それについてお話頂ければ?
金:私の年代は生れつき戦争反対論者です。国土はもちろんのこと、経済、文化、
人間性までも破壊する戦争は二度と許すことが出来ないのが主たる思いです。そして、どんな場合でも平和統一を成すべきだと考えます。私たちは戦争を直接体験したため、共産主義の画一的で全体的であり権威的な性格が、反人権的で反人倫的だということをよく知っています。反面、民主主義は自分と相手が互いに異なることを認定する多元主義社会です。それゆえ、自由が芽生えるのであり、自由が保障されるのです。私たちはこうした社会に暮らしていることに感謝すべきでしょう。
NKHR:我が国の人権実態に簡単に評価して頂ければ?
金:世界的な基準で見れば、我が国も人権先進国に属します。ロシア、中国、日本、北韓等、東北アジアでのみ見ても、私たちは開放的であり、人権先進的です。
我が国は解放後、経済成長を通じて産業化、民主主義成長を通じて民主化を遂げました。産業化と民主化を同時に遂げた国は我が国の他にないでしょう。この民主化には人権の先進化も含まれます。もちろん、まだ改善すべき点が多いでしょう。我が社会には年令差別、男女差別が相変わらず存在します。価値観が引き続き変わっているために、人権問題は引き続き存在し、これに私たちは引き続き関心を持つべきでしょう。
NKHR:最後に、北韓人権市民連合はどのような方向に行くべきか、望む点を
お話下さい。
金:その間は、政権からの協助がなくて支障があったが、今は政府でも北韓人権
改善措置のために積極的に後援してくれます。それゆえ、北韓人権市民連合で北韓住民の人権向上のための事業をより積極的に展開すれば良いでしょう。そして北韓人権市民連合が行なっている事業がより多くの人々に知られれば良いでしょう。そうすれば、より多くの支援を得られ、多くの参与を引き出すことが出来ると思います。さらに多角化された事業を通じて北韓住民の人権向上のために努力し、会員も
増加し、引っ越し出来れば言うことはないでしょう(笑)。
手記
私 は ブ ロ - カ - だ っ た ④
ユサンジュン <脱北同胞、活動家、2000年韓国入国>
(写真出典:スポ-ツカン)
この手記は1998年4月北韓を脱出し、2000年韓国に入国した脱北同胞であり活動家であるユサンジュン氏が、中国で脱北同胞移住活動を始めたが、2007年8月中旬中国公安に捕まり、12月16日追放されるまでの生活を日記形式で作成したもので、本人の許可を得て本会のニュ-スレタ-に掲載する。
私が北韓民主化をテ-マとした歌を自分で編集して中国でダビングした後、脱北者たちに供給し、北韓でも供給したが、この時インスンは避難所で北韓民主化をテ-マとした歌のテ-プを一晩中聴いたと言った。今もインスンがテ-プの歌を聴きながら涙を流した姿が目にはっきりと焼き付いている。インスンだけではなかった。避難所にいた4名全ての女性が涙を流しながら、恐らく故郷を思っているのだろう。置いてきた父母兄弟姉妹と恋しい故郷に再び帰ろうとしても帰れない、この凄絶な姿で、彼女たちは金正日独裁に対する憎悪で涙を流したのだった。こうしてシリンホト看守所で最初の夜を脱北者の話で送るようになった。私は胸の中で静かに神を求めて祈った。“主よ、私はここにいます。この地の多くの生命が死に行っています。私たちを助けて下さい”。
私は眠ろうと寝返りをうったが、なかなか眠れなかった。私たちが出発した時から既に数日が経ち、その間私は一睡も出来なかった。全身に疲れが押し寄せてきたが眠れず、去りし日々が目の前にくっきりと通り過ぎた。嬉しく、楽しい日よりも淋しく悲しい。そして何によってなのか、いつも不安な日々の中で、それでも希望の光だった日々だった。
ハナ院を出て最初に会った浦項北部教会の韓ドンシク、趙ヨンジュ執事夫妻、彼らは本当に信実な神の人々であり、自分たちの信実さと謙遜、そして愛で私を神へと導いた。殆ど脅迫に近い執念で寂しい道を行く時も、いつも私のために祈って下さり、物心両面で助けて下さった宣教師夫妻、中国で私たち脱北者を自分の子供のように慈しみ愛して下さり、脱北者のためにどれほどか分からない涙を流されたB宣教師、自分が養育した脱北者が韓国に来ても信仰を守れるように、さらに見守って下さり、今は脱北青年の母になり、自分が母親のまねを出来るのかいつも気にしていらっしゃった。私が中国にいる時は、時も場所も構わずに電話して“食事しているか? どこにいるのか?”と聞き、近くにいるとこれから食事するから早く来て一緒に食べようと言った。或いはそんな情況になければ、自分が食事を作っておいて、来て食べて行けと言った。
脱北者たちに会うと、いつもおいしい食事を用意してくれ、私たち同士が市内で会うと河南市場内で一番安い食べ物を選んで食べた。私が予め避難所を作れなければ部屋を借りてくれて、私が脱北者に聖書の勉強をさせてほしいと言えば、いつでも全てのことを後に回しにして母親のように面白く神さまの御言葉を教えてくれた。これまで私が脱出させた脱北者のほぼ半数はB宣教師が神の御言葉を伝えてくださり、私たちが3国に向けて出発する前には必ずこの方がいらっしゃって、私たちが神さまの引導なさるなかで必ず勝利することを約束する祈りをして下さった。
私は歳月が経つにつれて祈りの威力を感じていった。ハナ院に入ってきた脱北者たちが、時々、私に電話で話すことが“先生、あの時、あの宣教師さまが祈って下さったことが、どれほど力になったか分かりません。ウチのオクミは国境線を越える時、宣教師さまの祈りを思いながら、それに力を得て歩いたといえます”。オクミの母親だけではなかった。マンオク小母さん、崔夫婦。彼らは、宣教師さまが祈って下さったことに力を得て、自分たちは必ず成功すると信じて出発し成功できたと言った。私はその方を師匠のように、姉のように、そして脱北者に対する愛を見ながら、自分が神との連結の縄を放せないと思う。私を同年代の仲間と呼ぶ社長さん。御高齢にも関わらず、中国で脱北者支援活動をされている。ある場所に脱北者がいると言えば、万事を差し置いて訪ねて行くと言い、脱北者たちに神の御言葉を伝える時は全てのことを忘れて、どれほど情熱的に行なうのか、私も不思議になるほどだ。紙にあれこれ絵をいっぱい描きながら面白く説明して、脱北者の便宜であれば、私が羨むほどに世話をしてくれた。
私が初めて社長に会ったのは、昨年一月中旬頃だった。私は延吉に到着して電話で“社長、私は誰それの紹介で社長を知りました○○○です。私は今どこそこにいます”と言うと、すぐに行くとおっしゃった。私は遠路を今いらっしゃるのは大変だと申し上げた。私も延吉まで来たが、列車に動く隙もなく人がぎっしり入っていて一晩中立って来たのだった。しかし、年配の社長が、自分は大丈夫だと言いながら、今日の夜中に出発して明日の昼にきっと会おうと言った。私はあまりに早く社長に自分の消息を知らせて社長に負担をかけたようで申し訳ない気持ちになり、一日中罪の意識のようなものを感じたのだった。
翌日の午前、社長が私に電話で何時に某所で会おうとおっしゃるので、私は前もってそこに行き、声を通じて社長の顔形と体型を想像して見たが、似た人はいないので再度社長に“自分は今どの位置にいてこういう服装をしているが、社長はどんな
服を着ていらしゃるのですか?”と聞いてみると社長がおっしゃるには“ここで一番良い男を探せばいいですよ”と答えたのだった。しばらく後、私たちはうまく出会うことができ、旧知の友人のように簡単に挨拶を交わし、再び場所を移してすぐにすべきことを議論した。時間の関係で長く話し合うことは出来ず、私はすぐにB宣教師について紹介し、B宣教師と席を同じくして、お二人が働いてきた過程を簡単に申し上げた。私とB宣教師はすぐに琿春に行かなくてならないので別れの挨拶をすると、社長が自分が送るとおっしゃりながら、乗用車で琿春まで私たちを乗せてくれて、私たちが用事を済ませるまで長い時間外で待って下さり、私たちを乗せて延吉まで無事に連れていって下さった。社長は御自身を北韓人だと思っていて、決断性があり、現実的で、目標指向的な明朗な方だった。社長は別れ際に、これから某地域を通過する時は無条件に自分に電話しろと。そして自身が列車の寝台を払ってくれ、私たちは同年代の友人だといった。
一度、遠くに行くことを考えたが、不安になって社長に乗車券を予約してほしいと頼むと、寝台切符を買っておいて私を待っていて、私が切符代を出すと、友だちが何の真似をすると叱責した。私たちは単に茶を飲む時にも、社長は現実分析と働く方式を聖書的に分析しながらもとても面白く話して下さった。特に生命と魂については分かりやすく安らかな物語スタイルで聞かせて下さった。その後には、私が社長にお手数を掛けるのが申し訳なくて切符の手配を依頼しなかったが、どんなに淋しいかったかとおっしゃるので、私がこれからは必ず出掛ける際は立ち寄って行きますと約束した。この方が養育した青年たちがモンゴルから直接電話をすると、本当に電話の音声で聞こえるこの方の声が、恐らく天地を全て得てもこれほど嬉しくないだろうほどだった。
後日、私は、この方が国家元首に会うよりも難しい立派な方であり、大きな事をされたことを知った。私は信実な良い方々に会って、様々なネットを作って、私たちが互いに協力して、より効率的に、より多くのことが出来るようになった。私の活動の特性上、悪党にも会い、天使にも会ったが、神が送って下さった信実な方々に会って、困難も知らずに、私が得た愛を知るようになり、生きる価値を感じながら、より大きな事を計画し、希望の夢を持てるようになった。真の愛は信頼を生み、能力があり、実践があった。
眠れなかった私は、今回、出発から冷静にもう一度考えて見た。北韓から出てくるようになった過程は7月末か? 8月初か? 北韓で実施した選挙に参加して出て来たのだ。選挙前に出れば、自分の家族が滅亡することを知ったので、親戚の方々や同僚たちに害が及ぶので、選挙が終わって3〜4日内に中国に入って来たのだから、今回の道中で必ず共に韓国に行けるよう助けて欲しいといった。私は遅くても8月4日までは中国に入らなければならず、そうしてこそ自分も安心して仕事が出来るので、そう知って置いてくれというと、選挙が終わったら無条件で脱北するといった。私は彼ら4名とウンシム夫婦を含めた7名を計画して、延吉を出発する時間は8月7日と釘を刺した。しかし、北韓側であれこれ変動が生じて、彼らは約束した日時に脱北出来ず、私は彼らに9月末までに脱北して、延辺地方の某避難所で待機せよと知らせた。私が彼らに9月までに来いと言ったのは、山東省青島に数名の脱北者が韓国に行こうと以前から支援を要請したのを9月に予定したので、青島の人々を3国に送り、北韓から出てきた人々は10月に脱出させようとしたのだった。
ウンシムとカルリャンは知り合いの執事たちを通じて、聖書も教えたといって保護して欲しいといい、ヨンオクは中国の夫と一緒にいるので出発する直前に連れて来るようにした。全てのことが思い通りにうまく行かず、私は出発日時を9日に変更し、一行全員に8月7日に出発すると通報し、某避難所に集結させた。いつもそうだったように、今回も出発日と時間は変更して知らせなかった。私は安全を維持するために常にいつ出発すると通報しておいては、2〜3日を繰り上げたり、遅らせたりしながら、まれに不意に出発したりした。協助公文発給のための人的事項も別途にメ-ルを作り、専用に使えるメ-ルを通じて暗号化して、万一ハッキングされた場合でも出発日と時間、方向を分からないようにした。協助公文発給のための人的事項も、出発する日の午前11時頃にメ-ルで作成して送り、銀行で金を下ろして準備し、夕食時間に順調に龍井を出発した。 <続く>
NKHR Newsletter
北 韓 人 権 127号(2008年10月号)
www.nkhumanrights.or.kr
社団法人 北韓人権市民連合
Citiens’Alliance for NorthKoreanHumanRights
110-090
ソウル 鍾路区橋北洞10-22 シムジビルディング3階
電話02-723-1672、2671 Fax02-723-1671
巻頭言
僑 胞 2 世 た ち の 脱 北 者 愛
去る9月10日、一人の端正な青年が北韓人権市民連合事務室を訪ねて来た。カナダ・トロントで弁護士として活動しながら、カナダに定着を希望する脱北者を支援していると自己紹介した。
カナダで生まれ、カナダ国籍を持っているが、両親が北韓地域の出身のため、脱北者問題に関心を持つようになったと語った。韓国語を流暢に駆使するのを見ると、
普段、両親とは韓国語で対話をしているようだった。
現在、カナダには2百名程の脱北者が滞留しているそうだ。北韓の食糧難がひどくなった1996年以降、脱北者たちは様々なル-トを通じてカナダに入国し始め、
昨年末現在170余名が難民申請をしたものと伝えられている。
主に僑胞2世出身の弁護士たちが脱北者たちの難民申請を手伝っているが、その
過程で脱北者たちが中国で経験した困難を知るようになり、昨年4月トロントで創立会員3名で‘ハンボイス’という人権団体を結成した。
‘ハン’は一つを意味したり、‘恨が宿る’の恨を意味し、‘ボイス’は英語で
‘声’を意味する。したがって‘ハンボイス’は脱北者たちの恨を解くために皆が一つの声で叫ぼうという意味である。3名で始まったが、1年6ヵ月経った今は高校生から定年退職者に至るまで4百余名に達する団体に成長した。我が北韓人権市民連合事務室を訪ねてきた青年は、ハンボイスで代表職を担当しているサイモン=パク弁護士だ。
‘北韓難民を助けることにカナダ人を乗り出すようにしよう’という標語のもと
在中脱北者の権利を擁護し、カナダ政府及びその他の外国機関に脱北者側に力添えするようロビ-活動を繰り広げながら、脱北者支援団体と協力することがハンボイスの目的だ。
そして2008年度の主要活動目標として、まず在中脱北者の人権を尊重することを中国政府に促す決議をカナダ議会が採択するようロビ-活動を展開すること、
次に国連難民高等弁務官室(UNHCR)が脱北者たちが集中している中国東北地方に接近出来るような措置を取ること、三番目にカナダが脱北難民に門戸を開放するような措置を取ること等を設定し、活動を繰り広げている。
サイモン=パク弁護士は、共同目標の達成のために、今後、我が北韓人権市民連合と緊密に協助することを約束する書信をカナダに帰った後に送ってきた。
海外僑胞2世たちが、このように脱北者問題に大きな関心を見せたことが我が民族の明るい未来を見るようで、心がこの上なく充足したのだった。
キ ャ ン ペ ー ン
▲9月1〜2日北韓人権市民連合とアジア人権センタ-職員が済州島で合同ワ-クショップを行い、今後の活動に対する議論を行なった。
▲9月9日と10日北韓人権市民連合の支援を得ている青少年のうち挫折している学生のために、李チャンホ諮問委員と金ヨンジャ事務局長、李ヨンソクチ-ムチ-ム長が介入、江華島で1泊しながら相談した。
▲10日カナダ・トロント“ハンボイス(HanVoice)”の代表であるSimonPark(朴テヒョン)弁護士が来訪、脱北者関連の対中国キャンペ-ンに関する議論を行い、24日にはデンマ-クRefugeesUnited代表たちが来訪し、北韓人権市民連合の活動等を紹介した。
▲9月21日L4サッカ-チ-ムが孫基禎公園で自己評価と親善試合を行い、2:2で引き分け、終了後、共に参加した李チャンホ諮問委員と夕食を共にし、胸中を語り合う場になった。
▲9月22日と24日、7団体135名が参加した脱北青少年教育支援民間団体
連帯主催ボランティアキャンプが陰城・花の町<コットンネ>で開催され、初日は教育、二日目はボランティア活動、三日目は感想のスケジュ-ルが組まれ、互いに
意志の疎通が出来る場になった。(7〜9頁)
▲9月26日から2泊3日間加平で脱北大学生リ-ダ-シップキャンプに参与した15名の脱北大学生と理事長、事務局長、朴ボムジン、金ソクウ顧問等、幹事たちが共に過ごし、統一後の脱北大学生たちの役割について熱を帯びた討論を行なった。
▲9月26日中国で追放の危機にある脱北者孔ヘギョン氏の面会のために金ハクミンキャンペ-ンチ-ム長と朴スジン調査研究チ-ム幹事が華城外国人保護所を訪問したが、孔ヘギョン氏は既に午前に仁川空港に移送されて会えず、最終担当者である張タジョン班長と最初から孔ヘギョン氏を担当した方の説明を聞いた。孔ヘギョン氏は中国旅券保有者で中国側から旅行許可証を発給されたことがあり、中国人
として身分確認された者とし、再度確認するために地方、中央国政院の合同審査を経たが、毎回中国人と判定されたそうである。今後、誤った判定によって追放される脱北同胞が生まれないようネットワ-クを構成して活動を展開すべきと思われる。
▲9月2〜3日合同ワ-クショップを終えて
2008年9月マスコミに登場した北韓人権市民連合
9.1 ・毎日経済|KBS韓民族放送、脱北青少年適応記ドキュメンタリ-放送
・RFA|〔ソウル通信〕“愛は旋律に乗って休戦ラインを越える”
9.2 ・MBC統一展望台|脱北青少年たちの夏期学校
・KBS|〔韓民族放送〕ひと夏21日間の希望日記
9.4 ・未来韓国新聞|韓中首脳脱北民問題言及、対北認識転換信号弾-北韓人権NGOの献身的努力結実
9.5 ・デイリ-眼|子供を育てた人は脱北孤児を無視するな
・東亜日報|<寄稿>脱北者人権に韓中小さいが意味ある進展
9.8 ・連合ニュ-ス/毎日経済|<脱北者社会10年>⑤南の傲慢と偏見
・連合ニュ-ス|<脱北者社会10年>④ブロ-カ-、‘必要悪’か
9.22・VOA|設問、“韓国内脱北者47%北韓で職業経験無し”
9.23・クッキ-ニュ-ス|告発に立つ、最後の話
9.26・東亜日報|孤独より更に苦しいのが北送の恐怖
活 動 報 告 国際指導者訪問交流プログラム-2
米国の難民定着支援制度の理解
金ハクミン
<北韓人権市民連合キャンペ-ンチ-ム長>
去る3月末から4月中旬まで、脱北同胞4名と“とても特別な米国旅行”を行なったのは、出発を約一ヵ月前にした国際指導者訪問プログラム(IVLP)の追加参加者選抜に余裕が生じたという連絡が来たためだった。これは、西江大学校学生李ミョンボク君を推薦して1年経った後だった。前述したように、IVLPは国務部が後援する様々な韓米交流プログラムの一つで、両国の共通の関心事及び利害関係があるテ-マを中心に、米国国家及び社会全般の関係者たちとの出会いを取り持つプログラムである。“NorthKoreaResettlement”が我が参加者たちの共通的なメインテ-マと選定され、北韓、人権、難民、移住/移民、定着支援と反人身売買全般についての関係者たちと会うようになり、その他に家庭訪問、文化体験等を通じて、多方面で米国を、少しは米国の立場から理解出来る機会が与えられたのだった。
3週間のIVLP米国訪問に共に参加し、人並み以上の思い出を積むようにしてくれた脱北同胞四名は、脱北女性人権連帯のカンスジン代表、成功的な統一を作って行く人々(成統作人)の金ヨンイル代表、(株)ロッテ七星の金グァンイル氏、
そして西江大学校コンピュ-タ-工学科学生李ミョンボク君だった。招請訪問で米国に行くというときめきもあったが、それも脱北同胞四名と共に出発する旅程のため、私の頭の中では引き続き“特別な米国旅行”という単純だが、実に意味深長なタイトルが旋回した。しかし、一方ではギリギリの日程消化と新しい人々との出会いに
対する期待が半分、そして難しく捻くれた説明出来ない負担感、淋しさ、馴染みなさ、心配等、複雑だという気持ち半分を抱いて出発した。
自由に対する信念で建国された移民たちの国家、米国の首都:ワシントンDC
3月29日土曜日午前、参加者五名だけでソウルを出発して、当日午後米国の首都ワシントンDCに到着した。3週間米国の東-北-西へ五都市を共に旅し、公式日程をよく遂行出来るよう案内、事前連絡、スケジュ-ル等を確認して下さり、通訳を担当して下さるボランティアの通訳さん二名が空港に暫らくの間、出迎えに待っていて下さった。飛行機が延着して、私たちが使用できる車両時間には制限があり、‘金剛山見物の前にまず食事’ということで、私たちは宿所に行く途中、韓食堂に入って昼食を取った。やはり、我が脱北同胞と私は、冷たい冷麺でなければユッケジャン、味噌鍋のような食事をしてこそ、飛行機に乗って揺すれた腹を鎮めることが出来るのだった。
3月末のワシントンDCはソウル同様春の陽気で、週末から始まる‘桜祭り’の
シ-ズンらしく、桃色、白色の桜の木が町のここそこを一層華やかにした。私たちの公式日程は、翌日の午前に予定されたワシントンDC観光を除き、旅の疲れを癒せる自由な週末を過ごして、月曜日から本格的に始まった。世界銀行と国際通貨基金ビルを通り過ぎ、宿所に到着して部屋を定められ、荷物も解く前に直ちに近所の
ホワイトハウスを含む町内見学のための散策に出た。土曜日の午後遅い時間、ホワイトハウス前の観光客を除き、通りは閑散としていて、私たちの暮らしの中に浸透した米国文化のせいかという思いがよぎると同時に、米国の初印象が本当に外国のようでないと思った。これはいずれも通りに人がいなかったせいだったようだ。一緒に行った脱北同胞四人とは、まだ、よそよそしくて、最初の自由時間を一緒に過ごせず、互いに馴染み、心を開くまでには、時間とビ-ル数缶が必要だった。自由時間に現地にいる友人たちに会ったにも関わらず、一緒に行った人々と親しくなるまで、とても淋しく、孤独だった。
翌日午前、ガイドの説明を聞きながらワシントンDCの主要観光地を回って見た。
代表的にホワイトハウス前を経て、米議事堂CapitolHillとジェファ-ソンメモリアル、リンカ-ン記念館と韓国戦争参戦勇士メモリアル等を見学した。
1800年に行政府、立法府、司法府の三権分立が明白になった米国の連邦政府が
ある首都としての機能が反映された計画都市ワシントンDCには、米国建国の精神と国家のアイデンティティ確立、威厳を見せるという目的の側面のためなのか、殊更、米独立戦争将軍たち及び米連邦制の父たちの銅像と様々な記念館が立ち並んでいた。したがって米国の初訪問地として、ワシントンDCは、単に2次世界大戦後に世界最強の大国となった米国の政治、行政、国政関係の中心都市としての面貌を
見せてくれるだけでなく、旧大陸から独立し、その基礎精神を成す自由に対する強い信念をもとに新大陸に移住した移民たちによって建国された国であることを基本
前提として米国を理解すべきだという点を想起させてくれた。
人が替わっても制度が生きて回って行く米国:難民定着支援制度
3週間5都市訪問の中で、ワシントンDCでの日程が一番長く取られた。政府部署のうち国務部と保健厚生部、北韓人権法の発議者であるサム=ブラウンパク上院
議員室、学会ではジョンス=ホプキンス国際大学院SAISの米韓研究所とジョ-ジタウン・ロ-センタ-、北韓人権問題と関連した非政府機構としては米国北韓人権委員会、国際共和主義研究所、ディフェンスフォ-ラム財団を訪問及び関係者との面会、米国の難民制度一般に関して移住政策研究所、難民インタ-ナショナル、
米国難民協議会所属団体関係者と面会した。このように多くの人々と面会はしたが、
出発前や評価会でも言及されたように、深い議論が出来るほどに毎回時間が割り当てられなかった。全てのミ-ティングは同時通訳で行なわれ、五名の参加者と接見者が各自紹介をして、活動説明をすると、時間が一気に過ぎてしまうのだった。しかし、再度強調されたのは、家に戻って自分から機関と名前、そして顔を知るようになった人々との持続的な交流であり、他のセクタ-だが同じテ-マで一つのシステムを中心として回って行く論点のためか、大部分似たような説明と議論が繰り返された。
このようにワシントンDCでは、脱北難民女性が実際に居住している二番目の訪問都市シャルロッツビルや米全域を合わせて米国入国許可を得た難民の約2%が居住している四番目の訪問都市であるミネアポリスでのような州レベルの地域社会で
移住者、難民再定着制度がどのように適用され、有機的に運営されているのか、理解出来るよう、政府関係者だけでなく非政府機構関係者皆が一貫して、米国の難民
定着支援制度に関して説明し、皆に自然に反復学習になったようだ。
脱北難民たちの米国定着にも例外にならない米国の難民定着支援制度は、基本的に1951年の国際難民協約上の難民の法的定義を基本に制定された米国の1980年の難民法にしたがい、難民の米国入国手続きから定着にいたる全過程は、政府
(国務部、国土安全部と保健厚生部が関係部署)と民間が強固に協力する体制(“
public-private partnership”)になっている。まず、
米行政部の大統領は議会と議論して、移民と国籍法(Immigration and Nationality)に従い、毎会計年度に米国が収容定着支援可能な難民人口数に対する決断(presidential determination)を下す。例を挙げれば、FY2008年には総8万人が決定され、難民発生根源地の人道的危機程度、米国の国家利益反映によって、その数字は各大陸別に(アフリカ1万6千、東アジア2万、欧州と中央アジア3千、ラテンアメリカとカリビアン3千、極東と南アジア2万8千そしてその他の非指定地域1万人)分配される。この限度(天井‘ceiling’)は超過を控える最大限の数字と思われるもので、達成すべき最小限の数字ではないと付け加えた。移住政策研究所関係者が第3国で難民発生危機情況が発生時、対応出来る方法は三種類だと説明したことが思い出された。人道的援助提供、外交的介入そして難民の収容と再定着。そしてその中に少ない人口数がこれに該当するが、三種の方法のうち最も積極的で画期的な“radical”な方法がすなわち難民を収容して外国に再定着させることだと披瀝した。
地域別だけでなく米国の特別責任、危機、緊急程度によって優先順位が5〜6カテゴリ-に区分された後に、第3国からの米国亡命申請者は駐在国内の米国政府と契約を結んだ海外の手続き機関(OverseasProcessingEntities,OPE)を通じて難民可否審査を受ける。UNHCR、IOMのような国際機構及びInternationalResecueCommitteeのような米国の民間機関等がOPEに該当し、本国の政府部署-国土安全部等の様々な身分、保安確認と共に難民適格審査後、入国手続きを踏むようになる。そして到着後、再定着支援は直ちに米国政府と米国務部に登録された10ヵ所の民間ボランティア団体の協力を通じて行われ、州を始めとした固有定着地域によって支援の内容が少しづつ差異を見せているが、基本的な特徴は支援期間が普通6ヵ月を越えず、冷静なほど政府と民間全てが、しばしば“self-reliance(自立)”
に焦点を合わせ、必要な最小限の支援をすると強調する点だ。そして、受けるようになる支援は医療保健特典、初期425ドルの定着金と3〜4ヵ月分のレント費一部、そして食品を購入出来る‘フ-ドスタンプ’等であり、地域社会及びボランティアの活動で英語教育および職業教育を実施する。
こうした米国の全体的な難民定着支援制度の理解なく、2004年発効された北韓人権法を見る時は、北韓人権法ばかり見える。脱北難民たちは米国で特別待遇を受けるように思われやすく、北韓問題を扱う上で米国の戦略的な隠れた意図は何か、
国内ではその政治的な計算に対する疑惑と論争が増幅し、的外れの論点が必要以上に大きく聞こえたようだった。しかし、米国本土で相手側の立場で脱北難民問題を
眺めると、北韓の人権情況と難民問題は全世界を相手にする米国には氷山の一角に
過ぎなかった。むしろ米国社会は、全世界の別の外国から米国に亡命を申請する数十万の難民申請者と同じ制度の中で定着支援を受け、熾烈な努力をしなければならない徹底した競争社会であり、米国に定着を選択する脱北難民は、あの騒々しい北韓人権法の発効にも関わらず、8万人の限度のうち気の毒にも現在ようやく64名以外に過ぎない。その上、北韓人権法でようやく北韓の人権状況と難民問題が米各界各層の持続的な関心領域に入ってきたものという意義を知るようになり、それより私たちが関心を持つべき領域は米政府の初期定着段階後、米州韓人及び地域社会に対する脱北難民に対する関心と支援の必要性である。
ワシントンDCで米国難民制度を学び、理解して、私たち参加者たちは却って米国に来て難民世界の現実に直面して、少なからぬ重苦しさを感じ、この重苦しさは
米国の首都ワシントンDCを出て他の都市に行くに従いより深くなった。<続く>
活 動 報 告 2008脱北青少年教育支援民間団体連帯ボランティアキャンプ
陰城花の町で脱北青少年と共に行なったボランティア活動
教育訓練チ-ム
脱北青少年に教育を支援する民間団体、すなわち夢の玉、北韓人権市民連合、黎明学校、我が家、自由の場学校、空の夢学校-天安、一つの夢学校等7団体が集まり、2007年に“脱北青少年教育支援民間団体連帯”を結成した。2007年から三星均等機会奨学財団の後援で、2007年には四物遊戯<サムルノリ>、2008年には各学校別にバンド、民族遊戯、胎拳道等を各団体ごとに行い、北韓人権市民連合は昨年には民族遊戯、今年は胎拳道授業を夏期学校で行なった。こうした活動を1年に一回づつ連合キャンプを通じて、2007年には京畿道養平にて民族遊戯キャンプを、2008年には忠北陰城花の町<コットンネ>でボランティアキャンプを行なった。
2007年に行なわれた民族遊戯キャンプが自分たちだけだったことを補完して
今回実施した陰城花の町ボランティアキャンプは、脱北青少年たちがその間に受けたサ-ビスを社会に還元するという趣旨と、ボランティアを通して自分を振り返る機会にする意味で、脱北青少年100余名と指導教師30余名、全130余名が参加して9月22日から24日まで2泊3日で行なわれた。
このキャンプのために団体間で数回の会議を行いながら、各団体の特性を生かして任務が与えられ、市民連合は行事の進行はもちろんこと事前サ-ビス、保険契約、食堂の手配から名札制作等、手間の掛かることを担当した。担当者とボランティアは、夜遅くまで疲れを忘れて、ただ脱北青少年たちと一緒に行なうという楽しさで作業に臨んだ。
花の町に行く日、朝早く出勤して物品を整えたが、金ミリ幹事からの電話で、突然、車が渋滞した場所から30分以上動けなくて困っていると言いながら、バスから飛び降りて行くと言った。金ミリ幹事が到着すると同時に黎明学校の脱北青少年たちと合流し、運良く昼食時間前に陰城花の町に到着し、昼食に間に合ったのは幸いだった。陰城花の町に集まった各学校の青少年たちは、花の町の先生方の案内でボランティア活動時の留意事項及びスケジュ-ル全体についての指導を受けた後、グル-プ分けをして役割分担を熟知し、グル-プメンバ-間の関係を強めるレクレ-ションを行なった。また、ボランティア教育以外にも中絶及び出産についての教育を通じて生命の大切さを学び、棺の体験を通じて死というものを間接体験しながら、自分自身を振り返り、愛する時間もあった。
教育、体験の時間、夕食等に余念無く、こうして一日が過ぎて行き、二日目ついにボランティアを実践する日を迎えた。朝6時に起床し、7時に朝食を摂って、8時にグル-プ別にボランティア活動場所に移動した。認知症老人のための療養院と男女肢体障害者及び精神疾患者の療養院、子供たちのための活動だった。清掃から食事介助等の活動をしたが、初めて見る様子に馴染めず、気軽に近付くことが出来ず、もたついていたが、いつのまにか活動が終了する頃には、老人たちと脱北青少年たちが歌を歌いながら年長者の手をとって踊る暖かな姿を見ながら、胸がじんとするのを感じた。名残惜しいボランティア活動を終えた後、学生たちはその間の特別活動時間に学んだダンスを含んだ様々な特技を夜に行なわれる発表のために熱心に練習した。
遂に発表時間、この時、脱北青少年たちのおやつを両手いっぱいに持って来て下さったハナ院の高ギョンビン院長が、大勢集まった脱北青少年たちに、年末にハナ院で調和の広場をやろうと激励の言葉を掛けて下さった。最初に発表する生活共同体である夢の玉からピアノに合わせて合唱と手話1曲を披露したが、途中で音響設備の問題で一時空白が生じたが、学生たちは慌てず最後まで最善を尽くす姿を見せてくれて参加者から大きな拍手を得た。空の夢学校では民族遊戯とダンスを披露し、一つの夢学校ではブラスバンドと手話公演、黎明学校と自由の場学校からは民族遊戯と胎拳道及び護身術の模範演技、そして生活共同体我が家からはブラスバンドとジャズダンスが披露された。北韓人権市民連合は、同胞季節学校で毎日行なわれた胎拳道授業を盛り込んだ写真映像集を上映した。この日の最後を飾った発表としては、各団体の先生方のワンダ-ガ-ルスの“SoHot”で、様々な面白い仮面、衣裳とダンスで、学生たちにより近付ける時間だった。学生たちの発表を通じて学ぶ情熱を見ることができ、その学びを最善を尽くして披露しようとする姿に互いが共感し激励する拍手は私たちの心に長く残るだろう。
花の町を離れなければならない三日目の朝になった。学生たちのボランティア活動の様子を映像で見ながら、各グル-プ別に代表一人を選んで、感想を述べ合った。
一人の学生は自分がこの世で一番不幸だと思っていたが、自分より困っている人が大勢いること、そして自分も誰かの助けになるということに生きがいを感じたと言い、また一人の学生は思ったより多くの人々が困っている人に支援をしている事実に驚き、花の町の療養院にいらっしゃる方々がいつも笑顔でいる姿を通じて希望を捨てずに生きることを学んだと言った。ある学生はその間ボランティアを受けてばかりいてボランティアたちの時間や努力について知らなかったが、キャンプを通じて知るようになり、心から有り難くなったと言った。そしてボランティアは経済的に余裕がある人々だけがするものだと思っていたが、自分も出来るということが分かり、こうした機会が何回もあることを希望すると言った。
ボランティアキャンプを通じて、学生たちがボランティアが何であるかについてと自分もボランティア活動ができ、今後もボランティアをして社会に還元したいという考えを持つようになった機会になったことが分かった。日程を終えて納め会を行い、ロ-リングペ-パ-も作成して別れの準備をした後、各団体別にバスに乗ってソイル農園に移動し昼食を摂って、花の町での2泊3日のボランティアキャンプは幕を降ろした。
今回2008年度ボランティア連合キャンプを行いながら、昨年2007年の民族遊戯キャンプの時とは異なる点が幾つかあった。まず学生たちの反応だ。昨年連合キャンプを行なった時は、各団体別、学生同士、必要以上の競争心理によって種々の摩擦を生じたりもしたが、今回の連合キャンプでは他団体の学生たちと対話する時間も多く、ふざける姿もよく見られた。特に昨年のキャンプでサッカ-をした時は、自分が属している団体の学生でなければパスしなかったが、今回は違う団体の学生同士でもパスをしながら、互いに助け合い激励して行なったサッカ-では、昨年と違った学生たちの姿を見ることが出来た。
次に先生方の様子だ。昨年は先生方が属している団体の学生の面倒を見るのに余念がなかった有様とは異なり、今回のキャンプでは他団体の学生たちもまとめながら話をする姿を多く見られた。‘私たちの学生’という概念が自分の団体と学校所属の学生から連帯全体の学生に拡大されたと思われる。そして各団体及び学校の先生方も互いに対する交流の時間が多くなり‘ネットワ-ク’に最も重要な‘互いに対する信頼’を築く上で重要な時間になったように思える。
三番目に脱北青少年たちにボランティア活動に対する概念を持たせることが出来た点だ。すなわち脱北青少年たちにボランティア活動を頭でなく心で感じられるようにしたのである。脱北青少年たちがボランティアたちに多くする質問の中の一つが“何故ボランティアをなさるのか?”というものである。私たちはこうした問いに戸惑い、どんな意図から訊ねているのかについて様々なことを考えるようになった。しかし、脱北青少年たちは単に気になって聞いてみたということが後日分かった。考えてみれば、脱北青少年たちが疑問を持つのは当然かも知れない。北韓にはボランティアが存在せず、南韓では主に奉仕の対象者だったためだ。時間と費用を負担して自分たちに奉仕する理由が気になることもあるが、誰も彼らに理由を説明しなかった。今回のボランティアキャンプで脱北青少年たちは自ら質問の答えを見つけ、真のボランティアが何であるかについての意味も確立する機会になったと思う。
今後、連帯活動を通じて、学生間の交流をより活発にして、自分たちで目標を作って自分たちの夢を実現する訓練をすべきだと思われる。一方では、南北の青少年たちが共に行なうボランティアの機会を設け、互いを理解して社会に貢献する脱北青少年たちの良い姿を作って行くべきだろうと思われる。
活 動 報 告 2008ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-ト
美しい夢の饗宴に向かったひと夏の裏話
金ハクミン
<キャンペ-ンチ-ム長>
ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-トが終わった週末から、朝夕涼しくなり季節が
変わったようだった。5月初日の組織委員会会議以後、僅か三ヵ月ほど心を注いだ
ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-トは、本当に一夏の幸運の光に、多くの人々の汗で成し遂げられた音楽会として更に価値あるものだろう。そして様々な点で不十分で未熟だったにも関わらず、千名収容可能な仁村記念館の座席が埋まるほど多くの方々が来場され、昨年に比べ会場募金が7〜8倍以上になり、とても有り難く、特にコンサ-トを通じて脱北青少年たちに対する関心と愛情を持つようになったとおっしゃって下さった方々がいらっしゃり、どれほど感謝してよいのか分からないほどだ。
脱北青少年に対する愛で支え木になる
ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-トは‘基金造成のための’音楽会という点で一般の音楽会と異なっているが、更に特別なテ-マを持ってメッセ-ジを伝えようという音楽会だ。言うまでもなく、脱北者に対する愛と関心、そして支援を拡散させようという音楽会である。手ではっきりと掴めない北韓人権情況と脱北難民の問題を常時頭と胸に抱いて暮らしている事務局メンバ-にとって、脱北青少年たちに会って、彼らのために行なう活動は、むしろ私たちの運動に大きな力になってくれ、このことをするやりがいを胸に深く感じさせてくれる部分である。今回のコンサ-トを準備しながら再度確認した点は、事務局ファミリ-皆が共通的に脱北青少年たちに対する愛を抱いているという点であり、この愛が与える喜びを自分たちだけが知り、感じるには惜しいという点に同意したい。愛は分かつほど倍になると言うではないか。
北韓の人権状況と韓国の地を踏むまでの数年間の脱北難民たちの険しい旅程に問題意識を持っている人であれば、その同じ人々が実際に韓国社会に入って来た時、理解してちゃんと生活せよと放置するのではなく、うまく定着して更に生きる幸福を享受出来るようにすることに対しても関心を持たねばならないと考える。特に韓国社会で成長している脱北青少年たちのためには、幼い時、耐え忍ばなければならなかった困難と苦痛を踏みしめて立ち上がり、彼らが肯定的に希望を持ち、夢を育てられる環境を私たちの社会が作ってやらなくてはと思う。こうした意味から、無関心と疎外感に更に別の苦悩に直面するようになる脱北青少年たちが置かれた昨今の我が社会の現実に小さな変化を呼び起こすために、ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-トは音楽を通じて脱北青少年たちの問題に心の目を開くようにしようという場であるのだ。
障害者と健常者の境界まで取り払った
2008年ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-ト
こうした意味から脱北青少年たちに向けた愛を盛り込んだメッセ-ジがある音楽会にポピュラ-シンガ-を出して爆発させようと最初企画をした。‘開かれた音楽会’のスタイルを借りて、クラシックだけでなく人気歌手に交渉すれば、より多くの耳目を集められるではないかという期待感があったのである。そして追っ掛け廻るほどの熱意は見せなかったが、組織委員長を始めとした、その間市民連合を知ったPDたちと知人たちの積極的な支援と紹介で、歌手及びマネ-ジャ-の電話番号を教えてもらい、特に役に立たなかったが、多くの歌手たちのホ-ムペ-ジ、ミニペ-ジ、Eメ-ルに名前を書き込み、事情まで書き込んだのも生まれて初めてしたことだ。だが、時間及び金そして相変わらず本コンサ-トに対する共感不足で交渉が出来ず地団駄を踏んだ。結局、ビュ-ティフルマインド側で歌唱力が豊富な実力派新人歌手“羅オミ”と“キョル”と交渉して7月末頃になってようやく出演者全員が確定し、悩みは解消した。思いの外、交渉とプログラム確定が遅れたようで、協賛を得るのも容易でなく、果たして815音楽会が開催できるのか疑問を持ったのも一、二回ではなかった。
全てが平坦でばかりでなかった重苦しさと待つことの準備過程の中で、7月中旬から始まった毎週月曜日午後のハンドベルの練習時間は、ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-トを準備しながら、最も楽しく、力になった時間だった。しかし、こうしたものだと予想だにせず、これを嫌ったこともあった。
ハンドベル公演は‘清地<マルグムト>’という知的障害者女性の施設で1年余
りボランティアをした梨花女子大の蔡ジョンウォン氏のアイディアだった。このアイディアが出て、ビュ-ティフルマインド側からも肯定的に同意した時でさえも、
率直に言えば、我が脱北青少年たちが障害者と一緒に練習することに対する自分たち自身の認識や他人の視線に対して本当に憂慮したようだ。それで、清地で既に楽器と時間及び場所、そして最初に練習するハンドベル教育まで全て受け持ちましょうと答えて下さった時でさえも、もう一度考えて見ると拒絶(?!)した。こうして南韓青少年と脱北青少年だけでハンドベルの練習をしようと、あちこちの慈善ハンドベル演奏をするところへ連絡して教育まで頼んでみたが、様々な理由で来年の
ために練習しようという話で議論を終えて、ハンドベル練習アイディアは最初から
一度引っ込んでしまった。このアイディアを積極的に受け入れ、推し進めようとしない私にも障害者に対する偏見と無関心が赤裸々に現われたのだった。
しかし、再度、藁にでも縋る気持ちで、最初から快く応じて下さった清地の洪ウリ先生に再び連絡を取って欲しいと頼み、なかったことにした話を二回切り出したにも関わらず、再度、無駄な話もなく、楽譜を学んだこともない学生たちから、ハンドベルが何であるか首を傾げる我が青少年たちに忍耐心を持って教えて下さり、
楽器の使い方から、短くもない最も大切な時間まで提供してくださって練習をして下さった。
本当に、プロミュ-ジシャンたちの中で、場違いな演奏になるようで心配しなかったわけではなかった。しかし、知能指数に関係なく、偏見無く互いに意志を疎通させながら気持ちを合わせ、一人も外れてはならないメロディ-を作り出しつつ、8月15日の公演のために暑い夏、御足労をかけたドリ-ムプラスの青少年たちと彼らを暖かく迎えてくれた‘ハンドベルの先輩たち’清地メンバ-を見守った時間の中で自分自身も本当に楽しく幸福だったのを感じた。その練習時間を見守りながら、人生で私たち皆がこのように交わる時間を持てたのは、ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-トでなければ不可能だったと思った。最初のぎこちなさと気まずさは、8月15日公演の日になって皆一緒に観客の前に立たなければならない‘運命共同体’と感じたためなのか、すっかり無くなり、一緒に緊張を和らげようと笑う姿を少し離れたところからでも見ることが出来て満足だった。楽譜を読めなくても音楽や楽器を一度も満足に習わなくても、暑い夏、汗を流しながら練習して、素敵な演奏を聞かせてくれたドリ-ムプラスに、もう一度拍手を贈りたい。今回の公演の中で、ドリ-ムプラスの演奏を一番美しく、感銘深く聴いたという方々のお話を聞いたのが、個人的には、この夏の汗が光を発する評価だった。
あふれる感謝の心を載せた8月15日の感動
この紙面を借りて、うまく表現出来ず、気恥ずかしくて、挨拶を満足に出来なかった方々に感謝の言葉を贈りたい。公演が終わった8月15日夜、眠りに就くまで、その日どのようなことが、どのように繰り広げられたのか実感がわかなかった。空っぽの客席を前にして舞台に立つようになったら、演奏者たちに申し訳なくて、どうしようかという程に‘人々が来なかったらどうしよう’という心配は、良くない天気にも関わらず、入り口を開けずにロビ-を埋めた人々を見ながら、2階は開ける必要はないだろうと考えが間違えだったことに気付いた。‘脱北青少年支援基金造成のための’音楽会に多くの方々が御足労下さったことに深く感謝申し上げる。
企画、交渉、協賛から広報、印刷、ボランティア管理、仁村記念館施設使用等、本当に一から十まで手と心が届かないところがなく、几帳面に神経を使って下さり、物事を処理をして下さったビュ-ティフルマインド事務局の李ソンミン局長、元ウングォン企画室長、朴スジン広報室長、梨花女子大政治外交学科学生蔡ジョンウォンさん、高麗大学校李デロ先生。そして事務局の朴スジン幹事と黄スジンインタ-ン。様々な進行と意見調整の遅れ、不必要な試行錯誤にも関わらず、ストレスを減らして下さり、ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-トを実現させてくれた、この方々にそれぞれ申し訳なく、感謝をしている。
そして、その他に物心両面で支援と応援をして下さった徐チャンノク教授、金ヨンジャ事務局長、ペ-イルファン教授を始めとしたビュ-ティフルドリ-ムコンサ-ト組織委員会の方々にも心から感謝の言葉を贈る。そして素晴らしいステ-ジにして下さった演奏者の皆さま、映像撮影、編集、ナレ-ションを担当して下さった朴チュンモ監督、作家チョンソンイム氏、そしてボランティアたちに感謝する。そして最後に、心の余裕一つ無い準備過程中に、心の負担を減らせる時間を作って下さり、応援して下さった匿名の寄付者にも感謝を申し上げたい。
音楽会が終わった日の夜、緊張で一日中、白紙状態だった私の心は溢れる感謝の心で満たされた。その週末、不意の冷たい風は、ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-トのための季節が過ぎたことを実感させた。今回の音楽会を準備しながら、学んだ点は、仕事は出来るだけ気掛かりを減らして楽しく行ない、結局、仕事自体よりは一緒にする人々が、このことをしながらやりがいを感じ、楽しく出来ることが、重要だという点だった。脱北青少年に向けた熱い愛を分かつことは、音楽を通じて来年の一夏も続くだろう。
北韓知識⑰
北 韓 の 舞 踊
助言下さった方:金ヨンスン先生
整理:李ヒョンス、李カラムニュ-スレタ-リポ-タ-
▲(写真出典:ハンギョレ新聞)
北韓での舞踊芸術は、政治に従属しているために、自由に芸術家の主観世界が表現される南韓とは、その始めから違う。その上、決心さえすれば誰でも舞踊を専攻できる南韓とは異なり、北韓では出身成分、家族土台をもとに中央から選ばれた学生たちのみ舞踊を専攻出来るそうだ。
多様なジャンルの舞踊を消化しなくてはならない北韓の舞踊家
一旦専門舞踊手に抜擢されるとジプシ-舞踊からバレエ、民族舞踊まで全てを学べるそうだ。現代舞踊、古典舞踊、韓国舞踊の区別をはっきりしている韓国の舞踊界とは異なるシステムであるようだ。舞踊手一人が西洋の古典舞踊も韓国の伝統舞踊も消化するために、それに合わせた授業体系がよく整備されていて、学生たちも自負心を持って学ぶそうである。一定期間の教育を終えて舞踊専門家になれば、巡回公演、海外公演、定期公演等の公演を多く行なう。
集団体操で鍛練される北韓人民たち
北韓には群衆舞踊があるが、これは職場や学校で集団で踊る集団舞踊である。オンヘヤからトントダリまで約二十種を越える音楽で踊ることが出来るが、これも平壌でのみ活性化されているそうだ。2月16日には、歌と舞踊の競演大会を国家レベルで繰り広げるが、各現場の代表勤労者たちが出場して歌と舞踊で競演を展開する。特別な賞品はない。
北韓の舞踊家たちは満腹だ
北韓では舞踊を始めとした芸術文化がとても発展した。特に舞踊公演が行なわれる劇場施設は我が国の施設より遥かに良いそうだ。舞台が大きく、舞踊スト-リ-
によって舞台が移動する等、舞台技術がとても発達した。経済が困難になった現在は少し減ったが、かつて北韓の舞踊手たちは金を多く稼ぎ、満腹だったそうだ。我が国で芸術家を‘腹の減る職業’というのとだいぶ異なっている。有名舞踊手たちは、豪華な生活を楽しむことが出来るほど、海外で稼いでくる金は大変なものだった。しかし、満腹の北韓の舞踊手たちにも苦悩がある。北韓の作品には常に思想性が内在しているためだ。‘境界線の村で’、‘北韓兵士の舞踊’等、思想性が内在した作品以外出来ない点が北韓舞踊手たちの悩みである。
インタビュ- 心を分かつ人々/ビュ-ティフルマインド李ソンミン事務局長
確固たる使命で前進しながら作り出す感動
インタビュ-整理 李カラム、李ヒョンスニュ-スレタ-リポ-タ-
高麗大学校国際大学院と梨花女子大学校統一研究院が共催した8月15日ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-トは(社)北韓人権市民連合と(社)ビュ-ティフルマインドの共同主管で開催されました。今号ニュ-スレタ-の心を分かつ人々コ-ナ-
には公演を全体的に総括したビュ-ティフルマインドの李ソンミン事務局長をお招きしました。
NKHR:どのようなきっかけで脱北青少年基金造成のためのコンサ-トを行なうようになったのですか?
李ソンミン事務局長(以下 李):二つの団体で理事職をされている徐チャンノク教授の紹介で北韓人権市民連合を知りました。そして自然に脱北者たちが北韓でどのように生活し、どのように南韓に渡ってきたのか知るようになって、自然にビュ-ティフルドリ-ムコンサ-トを企画するようになり、私たちが脱北青少年たちの‘ための’公演ではなく、彼らを直接舞台に立たせれば、彼らが適応しようと日陰でもがくレベルを越えて、逆に主人公になって感動を与えるレベルまで行けると思います。
NKHR:芸術を通じた慈善活動が、未だ我が国では定着しつつある中で、どのような点が一番難しく、またやりがいがあるのか気になります。
李:私たちは多くの人々が持っている善行の本能を映像を通じて、字幕を通じて、
甚だしくはポスタ-を通じて引き出そうとしているのです。そのために私は公演を準備するたびに、そのテ-マについて勉強する他ないのです。私が知るほど舞台に描き出せるのであり、描き出すほど寄付金が集まるのですから。寄付金があまり集まらなかったら、それは私の責任です(笑)。全ての過程が手に余る時も多いけれどこうした責任感を持って、結局、公演を行なってみれば、本当にやりがいがあり幸福です。
NKHR:その間なさった多くのコンサ-トの中で一番記憶に残るコンサ-トが
ありますか?
李:今年の4月、日本で行なわれたコンサ-トが最も記憶に残っています。ハ-トチェインバ-オ-ケストラ(初の視覚障害者オ-ケストラ)が一緒に行ったのですが、彼らは視覚障害者であるために無条件で曲を暗記しなくてはならないのです。従って一般オ-ケストラより2倍以上の努力と時間が必要です。声楽曲とオペラ曲を演奏しなくてはならないのですが、私はハ-トチェインバ-オ-ケストラが
それが出来るか半信半疑だったのです。ところが声楽を担当して下さったソプラノ
金インヘ先生が、これまで共演したオ-ケストラの中で一番うまく合ったと感嘆されながら、涙を流されたのです。その音楽的喜悦と成就感のために猛烈に努力して
‘成し遂げた’彼らが本当に尊敬に値します。
NKHR:ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-トを企画なさりながら最も記憶に残るエピソ-ドをお話頂けませんか?
李:ハンドベルチ-ムを企画して6週間で完成させ舞台に出したことです。清地
<マルグムト>洪ウリ先生が6週間で南韓青少年、脱北青少年、障害女性たちが出来るとおっしゃった時、実は心配が多かったのです。ところが、このように熱心にやろうという眼差しと意欲を持って成し遂げる姿を見て、本当に愛らしかったです。
‘情熱を持ち意地を持ってやれば出来ないことはない人間がすなわち脱北青少年たちなのだ’と感じました。
NKHR:非営利機関、慈善団体で働きたい人間が持たねばならない最も重要な
資質は何だとお考えですか?
李:まず確固たる使命感がなければならないでしょう。営利団体は互いに合わなければしなければいいのですが、非営利団体は‘それでもしなくてはならないこと’がとても難しいのです。しかし、こうした使命感がある人間は、たゆまずに進みながら推し進めるようで、こうするうちに自然に解決でき、塞いでも取り払うでしょう。また、こうした人々は誰にも止められないでしょう。次にプロフェッショナルな資質を‘持とうとする’人間です。一般的な営利団体、企業を説得して連れて来ようとすれば、文書一つ、期限でも全て緻密にしなくてはならず、彼らに‘ビジネス的にも’感動を与えなくてはなりません。
NKHR:‘死ぬ前に必ずこれだけはしたい’と思っていることや計画があればお話下さい。
李:私は死ぬまでこの仕事をしたいのです。自分が一番よく出来る仕事に遂に出会ったと思っているのです。さらに望むことがあるとすれば、今している多くのことについて‘先駆者’になりたいです。卓越した企画力と老練さで文化外交において多方面で‘高段者’になることが私のこれからのビジョンだと言いたいです。
NKHR:ビュ-ティフルマインドで活動されながら感じた点の中で近頃の大学生に伝えたい話がありますか?
李:近頃の大学生を見ると、困難なことを嫌い、また、こうしたことが当然のように言います。しかし、夢を叶える真理は昔も今も変わらないと思います。幸い、最近はボランティア文化が普遍化されているが、これは社会が彼らに敷いてくれた茣蓙だと思います。人々がそうしないのなら‘そうする’少数には、より容易く、より多くの機会が与えられるのだと思います。他人と異なり、世の中を逆流し、根性や根気、信念を育てれば、どんなに時代が変わろうが夢を成し遂げられます。
NKHR:ビュ-ティフルマインドの事務局長として、ビュ-ティフルマインドのビジョンをお話頂けませんか?
李:公演をして見ると、出演者が一様に‘ビュ-ティフルマインドで演奏をすれば自分が甦る’とおっしゃるのです。こうした方々と共に準備する舞台には、この公演のために勉強する私にも大きな影響を及ぼし、観客にも数倍の感動を与えたようです。私たちが企画する舞台が大きくても小さくても毎回舞台に立つ人、公演を聞く全ての人々が共によみがえる影響力ある演奏家になればと思っています。6月に始まった障害者音楽教育アカデミ-事業でも、その子供たちに、こうした目標を持ち、希望が持てるようにしたいです。とんでもない話かも知れませんが、我が団体が国際的なNGOになって、世界の多くの障害者たちを気掛かり無く立たせられる、そんな舞台に立ちたいビュ-ティフルマインドを持つ演奏者たちと共に活動する素敵な団体になれればよいでしょう。
手記
私 は ブ ロ - カ - だ っ た ③
ユサンジュン <脱北同胞、活動家、2000年韓国入国>
この手記は1998年4月北韓を脱出し、2000年韓国に入国した脱北同胞であり活動家であるユサンジュン氏が、中国で脱北同胞移住活動を始めたが、2007年8月中旬中国公安に捕まり、12月16日追放されるまでの生活を日記形式で作成したもので、本人の許可を得て本会のニュ-スレタ-に掲載する。
私はその内容を下手な中国語で説明してやり、通訳が来たら確認して見ろと言った。一次的なことは終わったのか、その時になって昼飯だと言って持ってきたが飯をワカメ汁に混ぜて大きな器によそって私の前に出しながら食べろと言った。私は食べる気が無く、仲間が昨日夕飯を食べず、朝も空腹なので、彼らに食事を供給してくれと言った。恐らく、韓国人が、最初に犬の餌のように飯を作って持ってきて食べろと言うので、意地悪をして食べないのだろうと判断したのか、今度はちゃんと飯と汁を別々に盛り付けて早く食べろと言った。私は有り難うと言って、今は食事をする気が全くないから、気にしないでくれと言った。
所持品検査をした若い将校が出て行き、今度は見習いのような女が入ってきたが、
彼女が通訳だった。質問は昨夜と全く同じで、韓国の何処に住んでいて、いつ中国に来て、どんな交通手段で中国に来たか等について一般的な質問をした後、軍人二人だけが残って皆どこかへ行ってしまった。私は一緒にいる将校たちに、彼らは死を避けて中国に来た難民であり、彼らは必ず私と一緒に韓国に行かねばならないと言った。もし彼らが私と一緒に韓国に行かれないのなら、自分も北韓で生まれ育ったのだから北韓に戻してくれと言った。この言葉を聞いた将校はとんでもないというように駄目だときっぱり言った。彼らの話す素振りを見て、かなり多くの脱北者を相手にしてきたようだと体感した。
時間がどれ程流れただろうか? 私は将校に、私のカバンの中に聖書が入っているので見せてくれないかと言うと、何も言わず聖書を持ってきてくれた。私はソファ-に座り、聖書を開き読もうとしたが、全く文字が目に入らなかった。列車やバスに乗って移動しながら、多くの時間を無駄に出来ないと思い、いつも小さな聖書を持って往来しながら目を通していた。聖書を読みたかったが、文字が目に入らないので読むことも出来ず、じっと座っていたところ、調査局長・蘇英吉が入ってきて将校に商店に行って何か買って来いと言った。今回は飲料二本とカップ麺を持ってきて食べろと言った。私は食べたくないので、脱北者たちに持っていって欲しいと言うと、今度は何か悪態をついた。蘇英吉は暫らく何か考えていたようだったが、ついてこいと言うのでついて行くと、カルリャンとヨンオク、ウンシム、皆いた。蘇英吉は通訳官に、確実ではないが彼らと数ヶ月拘留場で共に生活すれば韓国に行くことも出来ると言った。私はそれならよいと言いながら、必ず我が一行が全員韓国に共に行けるよう助けてほしいと懇願した。
私たちは再び手枷足枷を嵌められ車に乗って移送され、シリンホト市看守所に行くようになった。シリンホトは内蒙古自治区でもあまり知られていない小さな都市で、都市外郭に看守所があった。私は、本当に彼らが望む韓国に、共に韓国に行けることを願いながら、深く考えずに契約書にサインをして収監者服に着替えた。全員服を着替えて各自別の部屋に分けられ、いつか必ず良き日に巡り合って、私たち皆一緒に行かれることだけを願い願った。私は看守所2区域12号監房に配置された。監房には出入口があって鉄窓がある形式で二重門だったが、6名の収容能力を持っていた。
私が監房に入ると、頭を短く刈った収監者たちが出入口側に押し寄せ、何者?という好奇心で私を眺めていた。私が中国語で、自分は韓国人で中国語がよく出来ないので助けて欲しいと言うと、太った身体の者が韓国語で韓国から来たのかと聞いた。そして何でここに来るようになったのか?等、様々なことを質問するのだった。私は脱北者たちを蒙古に送ったところ捕まってここに来たと言うと、自分も脱北者たちを韓国に大勢送ったと言いながら、今、この看守所にも張ミスクという脱北者出身の韓国人がいると言うのだった。ではイムチョル、それから誰々を知っているか?韓国に行った脱北者で自分を知らない者はいないと言った。私は、イムチョルは知っていて、彼が依頼した脱北者たちを数回韓国に送った経験があると答えてやった。
2006年末頃、私に誰かが電話で、自分は脱北者を助けているが韓国に連れて行って欲しいと言うので、私は韓国に行って真面目に暮らして行くのなら手伝おう、しかし、私が連れて来た人々から数百万ウォンづつ金を取るのなら手伝わないと言うと、自分も脱北者支援をしていると言ったのだった。こうして1月に電話でのみ連結して、数名を蒙古に送り、2月には22歳の女の子がいるが領区から一人で出立したというので、私は娘には必ず保護者を付けて送れ、保護者なく一人の場合は自分は受け付けないと言うと、その時、イムチョルはソンスンを連れて延吉に来て私に会うことが出来た。私が見たソンスンは22歳の娘だったが背がとても低く破れた手提げカバンを持っていたので、私が80里歩かなくてはならないと言うと、自分は150里歩いたことがあると言った。背が低くても豪胆なのが気に入った。
実は40里さえ歩ければ良かったのだが、私は彼女の精神的準備状態がどうなのか知りたくて80里と言ったのだった。私はソンスンを連れて市場に行き、靴とカバンを買い与え、生活費を渡しながら食べたい物は自分で買って食生活をするようにして、今からは先生方が教える聖書の勉強を熱心にして、私たちが共に勝利する日まで常に祈ろうと言い聞かせた。ソンスンは避難所で立派な方の支援で聖書の勉強をするようになり、心の安定を得て、活気を帯び始めた。 <続く>
NKHR Newsletter
北 韓 人 権
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社団法人 北韓人権市民連合
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電話02-723-1672、2671 Fax02-723-167
巻頭言
う ち の 娘 ナ ン ヒ の 結 婚 式
去る8月23日、我が北韓人権市民連合の役職員とボランティアが大挙江南のある結婚式場に集まった。ナンヒの結婚式に出席、祝賀するためだった。
朴ポムジン顧問が媒酌を担当し、尹玄理事長と金ヨンジャ事務局長が新婦の両親の席に座った。また、李ヨンファンチーム長が式を進行し、李ヨンソクチーム長とヤンウンジュ前幹事が受付を担当して、黄ソンヨンボランティアOBが祝歌を歌った。そして式場の座席の半分以上が北韓人権市民連合と縁のある人々で埋められた。
このようにナンヒが私たち皆から愛されるのは、彼女が幼い年齢で、到底、話尽くせない困難を経たにも関わらず、挫折せず、気丈に生きて来ただけでなく、感謝することを知り、他人に配慮することを知り、正直で誠実なためである。
私たちがナンヒの存在を知ったのは2001年12月。北韓人権市民連合諮問委員である李ウォンウン関東大教授が、脱北者実態調査のために中国に出掛け、私たちの事務室に来て、ナンヒを助けてと訴えたのだった。延吉の或る朝鮮族の家に隠れているが、その家の主人の挙動を見て、何処かに売ろうとしているようだと言いながら、とても善良なナンヒを助ける方法はないのかとひどく心を痛めた。
即座に募金が開始された。脱北者支援に関心がある方々にEメールが発送され、電話で困難な状況を伝えた。ちょうど月給日で、幹事、インターンも多くない給料から幾らかづつ寄託したが、金ジェウクインターン(現ジェヒョン高教師)は給料
全額を寄託した。こうして集まった金で‘ナンヒ救出活動’が始まり、国境を越えて中国公安に捕まったが罰金を払って釈放されて無事にタイに入国することが出来た。
2002年5月韓国に入国し、調査が済んだ後、脱北者教育施設であるハナ院で私たちと対面した。この時、ナンヒはタイで買って来たと言いながら、ティッシュを何枚も重ねて包んだ蜂蜜瓶を私たち一行の前に差し出した。その間、少なからぬ脱北者を中国、ロシアで救出したが、こうしたことはこれまでなかった。
ハナ院での教育が終わった後、季節学校で学んだり、私たちの事務室でインターンとして働いたりもしたが、大学の社会福祉科に入学、去る2月に卒業した。そして最後の学期に見習いとして働いた福祉施設に卒業と同時に正規職員として採用された。
去る4月、金スンニョ氏母子救出のための募金の時、ナンヒは3百万ウォンを寄託したが、年配者でも難しいことをしたのを見ながら、私たちはナンヒを韓国に連れて来て本当に良かったと思わずにいられなかった。
キ ャ ン ペ ー ン
▲7月31日北韓離脱住民李ソンヘ氏、蔡オッキ氏、朴ソンニョ氏等3名が、第3国での滞留期間が10年を越えたという理由で、北韓離脱住民として定着支援を
受けられずにいるなか、10日間のハンガ-ストライキを行なっているが、彼女たちに対する適切な処遇を促進する嘆願書と文書を統一部長官宛に発送した。
▲8月1日中国-ビルマ国境地帯で逮捕、景洪辺防隊で脱北難民11人が調査中
という情報を提供され、これに対する外交通商部の緊急介入要請文を発送した。
▲8月4日韓国外国語大学校夏季学期“国際法と人権”授業時間に金ハクミンキャンペ-ンチ-ム長が、市民連合の活動紹介と北韓人権問題に関する実施し、12日と19日には李ヨンファン調査研究チ-ム長が、軍浦市ボランティアセンタ-で
中学生計150余名に、28日には統一教育院実用管理能力向上課程で“国際人権
と難民定着事例”のテ-マで講義した。
▲8月15日脱北青少年支援基金造成のための“2008ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-ト”が高麗大仁村記念館にて、高麗大李ギス総長を始めとした多くの方々が参席するなか開催され、大盛況を呈した。各新聞報道資料を始めとしてOBS“文化戦争”コ-ナ-にはドリ-ムトリオが出演し、8月21日には音楽会の中継実況が、8月25日にはKBS第1TV南北の窓で2008ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-トが放映された。(7〜10頁)
▲脱北青少年のための同胞季節学校が、釜山では8月9日、ソウルでは8月15日にそれぞれ修了式を行なった。釜山では14名の学生が、ソウルでは15名の学生が参加して教育を受けた。釜山で初めて実施した季節学校を通して、地方での脱北青少年支援に対するインフラ構築の至急性を痛感した。(3〜6頁)
▲8月21日L4サッカ-チ-ムが中央放送オンエア-スチ-ムと孫基禎公園にて親善試合を行ない、5:5の伯仲したゲ-ムを展開した。晴れた午後、サッカ-に興じた後、中央放送関係者の方々は、L4サッカ-チ-ムと応援した市民連合事務局職員全員を夕食に招待した。
▲8月22日と23日、“脱北青少年教育支援のための法制度補完方案”をテ-マに民間団体ワ-クショップが、統一部教育院で行なわれた。金ヨンジャ事務局長、
李ヨンファン調査研究チ-ム長、李ヨンソク教育訓練チ-ム長、金ミリ教育訓練チ-ム幹事が参与した。8月23日には脱北青年クリスチャン連合主催で第1回脱北大学生政策セミナ-が行なわれ、李ヨンファン調査研究チ-ム長が討論に参席した。
▲8月29日午前7時、2008年第2回緊急理事会が開かれた。上半期事業報告と米国務省北韓プログラム支援書提出当否と関連した案件が議論された。
2008年8月マスコミに登場した北韓人権市民連合
8.4 ・MBC統一展望台|脱北青少年の夏期学校
8.11・ハンギョレ新聞|15日、脱北青少年支援のためのドリ-ムコンサ-ト
・市民運動連合新聞|15日、脱北青少年支援のためのドリ-ムコンサ-ト
・KBS第1ラジオ|〔チョンヨンシルの文化フォ-カス-月曜招待席〕
・脱北青少年のための“ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-ト”を開催する
・チェリストペ-イルファン、ピアニスト金チョルウン
8.12・クリスチャントゥデ-|光復節、脱北青少年のための“ビュ-ティフル
・ドリ-ムコンサ-ト”高麗大仁村記念館にて午後4時から
・連合ニュ-ス|脱北青少年を支援する愛の旋律“ビュ-ティフルドリ-
・ムコンサ-ト”高麗大仁村記念館にて開催
8.13・毎日経済新聞|“脱北青少年を支援する愛の旋律‘ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-ト’”
・ニュ-スワイオ-|“脱北青少年のための8.15ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-ト”
・連合ニュ-ス|〔掲示板〕脱北青少年慈善基金コンサ-ト
・韓国大学新聞|“高麗大にて脱北青少年慈善コンサ-ト、光復節迎えて
・‘8.15ドリ-ムコンサ-ト’開催”
8.14・ハンギョレ新聞|〔お知らせ〕
・中央日報|〔客間〕15日、‘ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-ト’
・東亜日報|〔人の中に〕‘高麗大国際大学院’ほか
・CNBニュ-ス|“脱北青少年のための8.15ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-ト開催”
・アジア経済新聞|“新人歌手キョル、脱北青少年たちに‘夢を撃つ’”
・中央日報ジョインスドトコム|“脱北青少年支援のための‘光復節記念
・’ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-ト”
・VOA|脱北青少年支援のための‘ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-ト ・’
・市民運動連合新聞|〔NGO現場を訪ねて〕‘人権の松明’…北韓人権市民連合
8.15・ハンギョレ新聞|〔お知らせ〕
・デイリ-NK、デイリ-眼|脱北青少年のための‘ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-ト’開催、脱 北ピアニスト、脱北青少年たちが作り出す希望の合奏’ 8.16・東亜日報|〔人の中に〕10代-脱北青少年-障害者が手に手を取って
・、社会的偏見を越えた‘和合のアンサンブル’
・クリスチャントゥデ-|脱北青少年たちが歌う‘鵝鳥の夢’
8.18・VOA|〔こんにちわ、ソウルです〕脱北青少年支援のための美しい夢の音楽会BeautifulDreamConcert
8.21・OBS京仁TV|ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-ト2008
8.22・VOA|韓国にて詐欺に遭う脱北者対策作り急がれる
8.25・VOA|京畿道、脱北者公務員採用に
・KBS第1TV|南北の窓“統一を開く歩み:南側に響き渡る統一のハ-モニ-”
8.28・ヘラルド経済|“予見出来なかったこと…飛び火しそうだ”焦燥心、衝撃に陥った国内脱北者社会
活 動 報 告 脱北青少年のための釜山季節学校
地方での脱北青少年に対する学習支援の必要性痛感
李ヨンソク
<教育訓練チ-ム長>
2008年7月、脱北青少年のための同胞季節学校は、ソウルと釜山で同時に行われた。釜山の季節学校は、北韓人権市民連合と釜山YMCAの共催で7月28日から8月9日まで12泊13日間行われ、地方での開催は今回が初めてだった。運営面では、釜山YMCAでプログラムを準備し、北韓人権市民連合が進行を担当した。
参加学生は、釜山をはじめとした慶尚道地域の脱北青少年14名とボランティア12名、担当者1名が参加し、家族的な雰囲気で始まった。脱北青少年たちの年齢分布が8歳から25歳まで多様で、授業班分けの基準を決める上で難しさがあった。
また施設面でもソウルの季節学校と差異点が多かった。学校施設を主に利用するソウルの季節学校は学習空間と宿泊及び食事の空間が全て分離されているが、釜山の季節学校は学習空間と宿食空間の区別がなかった。昼には机を出して勉強し、夕方には机を片付けて睡眠を取るという方式で生活する他なく、参加者たちの個人的な休息空間等を提供できなかった。そして、釜山の季節学校運営は、ソウルの季節学校の学校システムよりはグループホームのシステムを多く活用した。
学校システムが、学生たちの学習能力向上に焦点を置いているとすれば、グループホームシステムは学生たちの心理安定に焦点を合わせていることを意味する。一つの家で一緒に生活する家族的な雰囲気で運営し、ボランティアと参加学生たちの関係が兄弟姉妹のようになっていった。
ボランティア運営面もソウルの季節学校とは異なっていた。ソウルの季節学校では、学生たちの学習に関する会議が大部分であり、次の日程についての確認をする方法で会議が進行されるが、釜山の季節学校では、運営に関する会議は30分以内に縮小され、ボランティアのための相談及び教育等で構成されている。これは夜の会議時間が単なる会議の時間ではなく、ボランティアたちのストレスを解消し、学びを共有する時間にして、自己開発時間という感じを与えたためだった。
こうした方法を選んだ理由は、ソウルの季節学校では担当授業時間外に、暫くの間、休むことの出来る時間と空間があったが、釜山は朝の起床を始まりに同じ空間で皆が一緒に過ごさなくてはならないので、ボランティアたちに多くのストレスと困難があるだろうとの判断のためだ。
今回、釜山の季節学校を進行しながら、地方に居住する脱北青少年たちの苦悩を直接皮膚で感じることが出来た。年代別に見ると、10歳未満の子供たちは放課後、ほとんど家で一人で過ごすことが大部分で、家に遊んでくれる人も、食事を用意してくれる人もなく、消化器系統の疾病を多く訴えた。
中高生たちは、メンタリングを通じて学習支援を受けてはいるが、文化探訪、ミュージカル観覧等の文化的な支援は皆無で、何より20歳以上の脱北青少年たちは、学習に関する支援を全く受けていないことが分かった。特に彼らは、一般学校入学の機会を逸し、検定考試予備校等に通わなくてはならないが、学費、交通費等の負担で持続的な学習を維持出来ずにいた。
20歳以上の公教育に編入出来ない脱北青少年たちにも学習支援に関するプログラムが緊急に作られ、大韓民国どこに暮らそうが脱北青少年たちが学習から疎外されず、彼らの夢を育てながら暮らせるようになることを願う。
活 動 報 告 脱北青少年のための第15回同胞季節学校
二度の入学式を行なった夏の季節学校
金ミリ
<教育訓練チ-ム幹事>
2008年7月29日、ソウル江西区にあるキリスト大学校にて‘脱北青少年のための第15回同胞季節学校’が始まった。総16名の学生が入学し、健康上の理由で退所した一名を除いた15名の学生が修了した。また、ボランティア8名、正
教師9名が季節学校に参与した。
今回の第15回同胞季節学校は、寄宿舎使用期間の関係で予定日より一週間程度
早く始まった。こうした理由で8月の検定考試日を基準に、7名が先に来て季節学校を行い、検定考試試験後9名の学生が追加入所して、始まって一週間が過ぎた後に全員が集まることが出来た。
今回の季節学校では、英語、数学、国語、歴史、科学、民主市民教育、メディア、
発表授業そして特別活動が行なわれたが、ボランティアたちが主に行なう英語と数学は授業時間を充分に確保し、基礎学習能力を高めることに重点を置いた。また、
実験を主に行なった科学の時間に牛の目を解剖し、様々な溶液を使って色が変わる実験も行い、水草でびっくりボ-ルも作りながら、科学理論を直接身体で学び、感じられたのか、満足度が最も高く現われた。しかし、初めて導入したメディア授業は、メディアの属性を学び、あふれ出るメディアの情報の中から正しい情報を選び出そうという目標で実施したが、学生たちの積極的な参与にも関わらず、用語自体に難しさを感じ、授業の理解度が落ちているのが見えた。
参加学生たちの特性を生かせる特別活動は、歌唱班とダンス班そしてブックア-ト班で行なわれた。歌唱班の場合、南韓青少年たちと一緒に歌える歌謡を習った。
ダンス班は最新流行のダンスを習ったが、ウェ-ブ動作等、授業中に覚えられなかった学生たちが宿所で練習をする姿を見ながら、ダンス班学生たちの熱意と意気込みが窺えた。ブックア-ト班の場合、専門家の先生が直接材料を準備され、作品が作れる時間だった。静的な活動なので男子学生たちが退屈するだろうという予想とは
異なり、毎回、手帳、ノ-ト、額縁、キ-ホルダ-等、多様な作品を作ろうと男子学生たちも積極的に参与した。また、今回の季節学校では、胎拳道を正規の授業にして欲しいという14回季節学校の学生たちの意見によって、毎日、朝の運動として胎拳道の授業を行なったところ、満足度は高かったが、朝からの激しい運動によって午前の授業に支障が出るのが分かった。
8月9日から1泊2日開催された週末キャンプは、ジェヒョン高校学生と養平ユ-スホステルで行なわれた。初めて会う間柄でぎこちなかったが、共同体遊戯とミニ体育大会を通して協同心が生まれ、涼しい小川のほとりで水遊びを通じて互いに対する警戒が解け、南と北が一つになる場面を見ながら、鼻先がツンとするのを感じた。何よりジェヒョン高校学生の多数が、脱北青少年は自分たちとは違うと思って参加したが、脱北青少年が自分たちと違わないことを知って帰っていったという話を担当の先生を通じて聞き、今後、南北青少年たちと一緒に行なうプログラムが活性化することを願う気持ちになった。
脱北青少年支援基金造成のための“ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-ト”に季節
学校学生たちも参加し、最後の出演者全員が登場するフィナ-レで一緒に‘鵝鳥の、夢’を歌う特別な機会もあった。
8月16日修了式一時間前、その間特別活動の時間で学んだ技量を見せる発表会
が行なわれた。歌唱班学生たちの歌とダンス班学生たちのダンスを見ながら、互いに笑い騒ぎながら、3週間の季節学校をふりかえる時間になった。発表会が終わった後、引き続き修了式が行なわれた。修了証授与と学生たちの長所を称賛する特別賞が贈られた。そして尹玄理事長の訓話と閉会辞を最後に3週間の全ての日程が終了した。
今回の同胞季節学校の特徴は、代用学校に通う学生の比率より一般学校に通う学生の比率が高まり、学習レベルもこれまでより高くなったことが分かった。そして学生たちが同胞季節学校に引き続いて参与する理由は、基礎学習能力を高めることもあるが、同時に心の交流を望んでいることを改めて確認した。
こうしたことをもとにして、次の16回季節学校からは、カウンセリングシステムを構築しなくてはと思った。学生たちに接して来た事務局幹事たちが専門的なカウンセリング技術を学んで、季節学校で心の安息が出来るよう継続したカウンセリングをすべきであろうと思われた。そして、季節学校内で学生たちの学習に助けになるよう授業資料草案を作る必要がある。その間蓄積されたデ-タ-で授業マニュアルを作り、ホランティアや正教師たちが授業を準備する上で支援をするようにして、さらに学生たちにもレベルに合う教材が作られて、より体系化された同胞季節学校になるよう努力すべきであろう。
活 動 報 告 第10回脱北同胞支援ボランティア修練会
愛することを学び、学ぶことを愛する学びの10年
李ヨンソク/洪ヨンジョン
<教育訓練チ-ム長/インタ-ン>
“愛することを学び、学ぶことを愛そう”という標語のもと1999年7月、第1回脱北同胞支援ボランティア修練会を始めてから今年で10周年を迎えた。その間、毎回100余名づつ約1000名の修練生を排出し、修練会を経た多くのボランティアが韓国に入国した脱北同胞と関連する政府機関や国際機構、或いは団体で活動し、活動中だ。私自身も、北韓人権市民連合と縁を結ぶ契機になったのも第3回ボランティア修練会に参加したことから始まり、現在、市民連合で教育訓練チ-ム長を担当し、ボランティア修練会の進行をしながら、毎年新しい参加者たちに多くのことを伝えたい気持ちが他のどのプログラムよりも先立っているようだ。
今回の第10回ボランティア修練会は、2008年7月9日から11日までソウル江北区水逾洞にある統一教育院で行なわれ、女性50名、男性30名、全80余名中25名が高校生の参加者で、次第に年齢が下がっていることを感じられた。また、軍人、大学教授、宗教人等、多様な分野で活動中の人々も参加し、この全ての方々と共に過ごした時間を整理しながら、今後の計画を立ててみようと思う。
初日
7月9日水曜日、正午を少し回った頃、こざっぱりとした桃色の制服に着替えた
参加者たちでいっぱいになった大講堂で、尹玄理事長は人権という問題を南北分断という特殊な情況の中でどのように実践して行くべきかを‘愛することを学び、学ぶことを愛そう’という標語で説明した。すなわち、私たちは脱北同胞と共に生きる方法を学ばなくてはならないということだ。開会式が終わり、参加者たちは講壇の前に集まって記念写真を撮り、肩をぶつけながら一緒に狭いカメラのレンズの中を見ていると、いつのまにか講壇の前には暖かな雰囲気が漂った。続いて北韓についての理解を助けるためのジオグラフィで上映した“北韓を行く”を見ながら、私たちは北韓に入って行けないが、衝撃的な北韓住民の生活を少しは感じながら画面の中に没頭した。
尹玄理事長の最初の講義は、我が国の人権運動の歴史を照明、人権運動家としての長い年輪を感じられた。様々なエピソ-ドを交えた世界の人権の歴史と共に、特に南北分断という特殊な情況で、南韓と北韓の人権問題がどのように扱われてきたかを説明してくれた。また、北韓の人権を語ることが政治的な発言として映る現実を嘆嗟しながら、人権は理念より上位の概念であることを強調した。最後に北韓人権運動の意義に言及した後、頭ばかり大きくて手の小さな人間ではなく、明晰な頭脳と熱い心を持ったボランティアになろうという誓いの言葉で講義を締め括った。
二番目の講義は、許マンホ教授の学者としての情熱と人権運動家としての熱い心を感じられる価値ある内容だった。北韓は人権蹂躙の百貨店と表現しながら、人身売買と飢餓、嬰児殺害が恣行され、集会・結社の自由と信仰の自由が保障されていない北韓内の情況について説明した。こうした人権蹂躙の実態を解決するために、現在の情況では北韓の人権問題をアジア全体の問題の中で議論することがより有利で、そのためにまだアジアには存在しない地域人権保護メカニズムが形成される必要があると強調した。
初日の最後のプログラムは映画クロッシングの鑑賞で、夕食後、皆、近所の映画館に向かった。移動が少し面倒だったが、逆に映画館までの道程が参加者間の結束力を高める促進剤になったりもした。映画クロッシングは、或る人の涙とため息、辛い記憶でもあるが、結局、皆の胸をしっとりと濡らすことで未来のボランティアたちの心の地面を踏み固める契機となった。
二日目
この日の最初のプログラムは、市民連合プログラム中の国際会議、土曜学校、季節学校、事務局業務支援等の分野で経験があるボランティアとの出会いと討論の時間だった。参加者たちは現場でのみ経験出来る体験談を聞き、質問をしたが、与えられた時間が足りないほど反応が良かった。
三回目の講義を担当した李ミギョン教授は爽やかな熱講だった。主に我が国最大の国政課題である統一を成し遂げるために歴史的にどのような努力があったのか、また統一を遂げるためには北韓に対する深い理解が必要だが、北韓は現在どんな情況であるか等について聞くことができ、特に北韓教育の目標が、積極的に労働する人間、金日成思想で武装された人間、社会的利益を追求する人間、革命的楽観主義を通じた知徳体を持つ共産主義的新人間タイプ、すなわち主体型の人間を作ることだという事実は衝撃的でもあった。
特別講演:脱北同胞講演
修練会で最高の講義は脱北同胞特別講演だ。大多数の参加者たちが脱北同胞に会った経験がないため、旺盛な期待感を見せながら、講義が始まるのを待っていた。笑顔で静かに講義を始めた金ギョンオク氏は、まず自身について紹介したいと語り始め、北韓で英語教師として在職し、中国に脱出し韓国に入国して6ヵ月になるが、まだ家族は北韓に残っていると明らかにした。また、現在、信仰生活をしているが、北韓には神はなく、金日成が神だという事実も教えてくれた。次に北韓の教育制度について語ったが、韓国のそれとはかなり異なっていて、教育内容も主体思想に合致していて、教師の発言権もひどく制限されている事実を説明した。金ギョンオク氏は、豪放な笑い声で聴衆を圧倒ながら講義を行なったが、中国で無戸籍で暮らしながらした苦労話をする時は声が震え、公然と彼女の辛い過去を暴いているようで申し訳ない思いにすらなった。しかし、こうした傷にも関わらず肯定的に今を生きて行こうと努力する意志が窺えて、皆、粛然としてしまった。質疑応答時間が遥かに過ぎてしまっても途切れることない質問は、夕食時間まで続き、脱北同胞に対する参加者たちの熱い関心と熱意を感じられた。
四番目は、在外脱北同胞の実情と脱北過程に関する金サンホン北韓人権センタ-理事長の講義だった。韓国社会全般に及ぶ脱北同胞に対する無関心に残念さを表わしながら講義を始め、関心の問題だけでなく理解の問題を指摘しながら、脱北者皆が空腹でやってきたと決め付けてしまっているこれらについて多くの誤解があると語った。また中国内に難民収容所を建てることが中国にも利益になることであると明らかにしながら、韓国政府が中国政府に提案することを、また北韓が国際協約を守ることを望むと語った。脱北同胞を支援することに余生を捧げてきた金サンホン理事長の願いに近い勧告の言葉は静かな反響を呼び起こした。
脱北大学生との出会い
次はグル-プ別に行なわれる‘脱北大学生との出会い’の時間だった。この日、各グル-プに配置された脱北大学生の中には修練会参加者兼進行要員だった人もいたが、一部はこの時まで自分が脱北者であることを明かさなかった。これは、脱北者自らが望んだことでもあったが、一方では彼らが私たちとそれほど変わらず、またいつも私たちの側にいるという事実を極大化して、参加者に体験してもらうための装置ともいえた。グル-プの中に脱北者がいた事実が明かされると、にわかに落ち着かなくなり、誰が脱北者であるか分かると人々は驚きを禁じ得ず、彼らが私たちと特に異ならないという事実を改めて教えてくれた。また、彼らが経験した辛い脱北過程、そして最初にこの地に来た時、最も必要だったもの等を質疑応答する間、参加者たちは最も身近に脱北者たちと交感し、彼らを理解する機会を得られた。
五番目の講義で金ヨンス教授は、南北間の異質性が次第に広がるばかりのこの時期に、真の統一のためには互いに対する深い理解が必要であると力説し、文化が分かれば全てのことが分かるので、地理と用語に到るまで北韓に関する該博な知識を持つ必要があると強調した。現在はインタ-ネットが発達して、家にいても北韓のニュ-スを視聴出来る時代なので、私たちが北韓の文化を更によく理解し、彼らと心が通じ、結局、このことが統一をもたらすことを願うと語った。参加者の中で最も人気が高かった金ヨンス教授の講義は、機知と笑いがあふれていたが、決して軽いばかりで無かったのは、北韓に対して誰よりも多くの関心と知識を持ち、気に掛けながら脱北者を支援してこられた教授の情熱が込められているためだ。
役割劇
夕食後、各グル-プは涼しい野外の藤棚下のベンチ、宿所のロビ-等々に集まって役割劇の準備に熱を上げた。他のグル-プより上手くやろうという気持ちに妙な競争心さえ感じられるほどに真剣に悩み、準備する間に夜は更けて行き、遂に講堂に集まった参加者たちは一つ、二つ、その結果を見せてくれた。実際の経験をもとにしたとでもいうように、リアルな演技を展開し、脱北者たちの苦しかった昔日を振り返って見たグル-プもあり、これまで行なわなかったが実際に適応できる方法で行なった斬新なアイデアで武装した役割劇もあった。コントというスタイルでアプロ-チするには、あまりに重い素材をそれなりの風刺と諧謔の美に昇華させた役割劇を見ながら、脱北者たちに向けた参加者たちの真摯な思いを感じられた。
修練会最後の晩、短い期間に親しくなった参加者たちは夜を徹しながら、翌日の
別れを最大限、引き延ばそうとしているようだった。人権から宗教にいたるまで真剣に討論に臨む人々、楽しくゲ-ムに興じる人々、そして仲良くお喋りをする人々…。このように個性満々な個々の人々が、皆、脱北同胞を支援しようという気持ちで個々に集まっているという事実だけでも心温まることこの上もない夜だった。
三日目
午前9時からはQチャンネルで制作された脱北青少年たちの南韓社会定着過程とアイテンティティを描いた“私たちは何者なのか”を見ながら、何が彼らを苦しめているのか理解する時間だった。続いて六番目の講義に先立ち、南韓住民と脱北住民間の葛藤を描いた映像を視聴し、その後、金ヨンジャ事務局長が長い歳月を直接国内の脱北同胞と揉まれながら働いてきた深い理解をもとに、脱北同胞が初めてこの地に入って来た時、ぶつかる問題と彼らを支援するためにボランティアが担当すべきことについて説明し、彼らの新たな出発が挫折しないように力を貸してくれることを訴えた。
講義が終わって再びグル-プ別に分かれた参加者たちは、今まで聞いて、学び、
感じたことを一つにまとめるボランティアプログラムを啓発するために鉢巻きをしめた。遂にグル-プ別の発表時間、斬新なアイデアがあふれ出るなか、講壇に立って自信を持って発表する参加者の姿に、初日の好奇心よりは脱北者たちの必要を考え、それを満たすアイデアを提示して実行する時、現実的な困難も考慮しながら、参加者たちは脱北同胞に対する理解程度がかなり深まったことを改めて発見したりもした。
全ての日程が終わり、参加者たちの修了証授与式の後、尹玄理事長の簡単な閉会
辞を聞くことで全てが終わり、参加者たちは残ってロ-リングペ-パ-を書き、写真を撮りながら、別れを惜しんだ。一つ、二つ持ってきた荷物を手に統一教育院を去りながら、第10回脱北同胞支援ボランティア修練会も2泊3日間の幕を下ろした。
次の修練会を計画しながら
2泊3日の修練会に参加した方々と意見を交わしながら次回の修練会を展望すれば、参加者たちは修練会全プログラムで満足度がとても高かった。特に脱北同胞との対話、視聴覚資料を利用した講義は参加者の理解度を高め、良い評価を引き出すことができ、また修練会スタッフ中脱北大学生が共に活動する姿を通して、脱北同胞に対して自分たちと変わらず、私たちの周辺に常にいるという考え等、認識に変化を多くもたらしたという意見を聞くことが出来た。しかし、北韓の現実についてまだ基礎知識が無い参加者たちには、北韓人権に関する講義はまだ消化するのが難しいようだ。
また、参加者たちの提案事項としては、脱北同胞との対話を増やすことと活動家
たちの話を聞きたい、或いは脱北同胞を支援する団体やハナ院等を訪問して脱北同胞と会う機会を望む意見等があった。
今後の修練会では、10年間行なってきたプログラムに変化を与えなくてはならないようだ。プログラム変更の理由として、まず初期には脱北同胞のためのボランティア教育が殆どなかったが、現在は各地域の福祉館及び他の民間団体で市民連合と似た内容で多く実施されていること、聞く授業スタイルを越えて直接参与する活動的な内容が含まれた教育が行なわれることが望まれているため等だ。従って次の修練会では、北韓文化の理解と活動家たちとの対話、参加者たちの討論を通じて直接参加出来るプログラム開発が必要で、このように変えて行くべきであろうと思われる。だが、今回の第10回脱北同胞支援ボランティア修練会が開催された7月初の特に暑かった夏の熱気と共に燃えた私たちの2泊3日の情熱だけは長く続くことを望み、今回の修練会に参加された全ての方々に熱い拍手を贈りたい。
インタビュ- 心を分かつ人々/障害女性自活センタ-‘清地<マルグムト>’社会福祉士洪ウリさん
疎外される人のいない皆が幸福な生活を享受することを望みながら
洪ウリさんは、8月15日に行なわれる2008ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-トのドリ-ムプラスの指揮者であり、障害女性自活センタ-‘清地<マルグムト>’で社会福祉士として働いていらっしゃいます。そこで7月29日刺すような暑さのなか、熱心に準備しているドリ-ムプラスの洪ウリさんにニュ-スレタ-チ-ムがお会いしました。
インタビュ-整理・写真:李カラム、李ヒョンスニュ-スレタ-リポ-タ-
NKHR:初めに清地について簡単に御紹介下さい。
洪ウリ(以下 洪):清地は家庭または社会から精神的、文化的な恩恵を受けられない15〜25歳の精神肢体障害女性たちの生活、作業、学びの空間です。私たちは障害者と非障害者が共に暮らして行く社会こそ、真の人間のための生活の姿だと信じ、これを実践するために20年間懸命に駆けてきました。
NKHR:北韓人権市民連合とどのように縁を結ぶようになられたのですか?
洪:蔡ジョンウォンさん(梨花女子大通翻訳大学院所属)の紹介で知りました。3年前にボランティアをして下さったのですが、今回よい趣旨のコンサ-トが行なわれるので、一緒にハンドベルを演奏してくれませんかとおっしゃったのです。最初は私たちだけでするつもりでしたが、ダメになり残念でしたが、南韓、脱北青少年たちも一緒にすることで再度プログラムが企画されました。
NKHR:現在、清地ではどのようなことをされていますか?
洪:常勤社会福祉士として働いています。私はリハビリチ-ムに属していますが、何しろセンタ-で多くのことをしているので、人手が足りないチ-ムがあれば皆で手伝います。そして、ここにいらっしゃる社会福祉士の先生方は、リハビリセンタ-のグル-プを一つづつ担当して教育しています。私はハンドベルグル-プである‘ベルクァイア-’で指揮をしています。
NKHR:今回のイベント以前にも清地はハンドベル演奏をしてきたのですか?
洪:はい、先程申したように‘ベルクァイア-’という名前で96年から活動をしてきました。活動を始めた時には、国内でハンドベルを専門に演奏するグル-プが少なかったので公演に多く出演しました。今も出演依頼は来るのですが、実力のある一般人グル-プが多いので以前よりもだいぶ減りました。そのため技量を一生懸命磨いています。
NKHR:コンサ-トではどのような曲を演奏されますか?
洪:映画サウンドオブミュ-ジックでマリラ先生が歌う‘MyFavoriteSong’、大長今(チャングムの誓い)のOSTだった‘いらっしゃい’、そして最後に‘OverTheRainbow’を演奏します。全3曲になります。そして最後に出演者全員が出て‘鵝鳥の夢’を歌う時、私たちはハンドベルで拍子をとります。
NKHR:曲の選定はどのようにされたのですか?
洪:私たちは毎週月曜日に2時間づつハンドベルの練習をしているので、演奏できる曲がリストアップされています。数えたことはありませんが15曲くらいになるでしょう。その中からビュ-ティフルドリ-ムコンサ-トに合う曲を私が先ず選定して金ハクミンチ-ム長に送り、北韓人権市民連合でも数曲を選び一致した曲から最終選定しました。
NKHR:ドリ-ムプラスの三主体(清地演奏者、脱北青少年、南韓青少年)を率いる指揮者として難しい点はありませんでしたか?
洪:清地演奏者は私と長い間呼吸を合わせたために特に困難な点はありませんでしたが、脱北青少年、南韓青少年に対しては率直に言って容易くありませんでした。例を挙げれば、私たち‘ベルクァイア-’では、ハンドベル同士がぶつかった音がすると、それがどれほどハンドベルを損傷するか知っているために互いに注意しあって気をつけています。しかしハンドベルを初めて習う人々はそうした気遣いが若干不足しているため、私もどうしていいのか分かりません。ただ簡単に注意をしているが、本人たちにハンドベルを愛する気持ちが増してくれば自然に解決する問題だと思います。
NKHR:今後、北韓人権市民連合ではどのような活動をすべきですか?
洪:私はまだこの分野については大して悩んだことがないのですが、今、私たちが演奏しているように、多様な人々が集まって音楽という共通分母をもってたゆまず演奏していけば良いでしょう。ビュ-ティフルドリ-ムコンサ-トのために一時的に集まったけれど、こうした出会いがずっと引き続いていけば、ベルクァイア-がそうであるように、新しいグル-プが結成されることでしょう。
NKHR:社会福祉士としての将来の夢を聞かせて頂けませんか?
洪:社会福祉が追求する理念が実現されることです。あまりに大きな話ですか?
(笑)。人間が人間らしい暮らしを追求出来るようにすること、疎外される人がなく、皆が良く暮らすことの出来る社会を作るのが社会福祉の理念です。北韓人権市民連合も人権運動をされているので御存じかと思いますが、今の世の中はこの理念と逆行しているではありませんか。貧富の格差が次第に広がっていることだけでもそうでしょう。南韓に苦労してやってきた脱北者たちを疎外させるもの、韓国に来た外国人勤労者を疎外させるものも全て同じことです。いずれにしろ、この社会で疎外される人は一人もなく、皆、幸福な人生を生きて行ければ良いでしょう(笑)。
手記
私 は ブ ロ - カ - だ っ た ②
ユサンジュン <脱北同胞、活動家、2000年韓国入国>
この手記は1998年4月北韓を脱出し、2000年韓国に入国した脱北同胞であり活動家であるユサンジュン氏が、中国で脱北同胞移住活動を始めたが、2007年8月中旬中国公安に捕まり、12月16日追放されるまでの生活を日記形式で作成したもので、本人の許可を得て本会のニュ-スレタ-に掲載する。
逮捕される瞬間は当惑したが落ち着いてきて、監房に入ると、自分にどうしてこんなことが起きたのか?、本当に堪えきれない欝憤が込み上げてきて耐えられなかった。早く理性を取り戻さねばならない。今ようやく始まったばかりなのだ。これからどうなるのだろうか? 私の身体にはモンゴルに送るモンゴル語で書かれた紹介状と2枚のテレフォンカ-ド、電話番号帳があった。テレフォンカ-ドには中国そして北韓と交信した電話番号が記録されていて、これが軍人に渡れば多くの方々が被害を被るようになる。
私はテレフォンカ-ドを千切って便器の中に投げ入れ、電話番号帳から重要な電話番号が書かれたものを剥ぎ取って丸めた後、モンゴルの紹介状と一緒に便器に放り込み水を流した。
私たちが捕まった時、手提げ鞄と携帯電話だけ奪われ、残りは身に付けていたために本当に幸いだった。私は暫らく伏して“主よ、私はここにいます。私は罪人だが助けて下さい”。本当に切々と求め、又、求めながら叫んだ。祈って立ち上がると室内を歩き回ったが、少しも落ち着きを取り戻せなかった。窓外のあの遠い南の空をぼんやりと眺めた。砂漠の夜空はこんなに美しいはずがなかった。とても明るい星々が、どれほどきれいで清らかで、美しく見えるのか、本当に美しさの幻想世界のようだった。
私は胸の中で叫んだ。“主よ、私はここにいます”。いつも祈り、苦しい時に身を委ね求める私の神だった。私は脱北者たちに言った。自分は宣教師ではない。だが、苦しい時求めて頼り、共に神を信じて必ず勝利しようと……。
脱北者の3国脱出は問題もない。少しすれば、新たな道が開かれれば、その時は
より安全に、そしてより多くの脱北者たちを脱出させることが出来る。しかし財政が問題だ。今は財政的余裕もなく、一人当たり平均30万ウォン程度回収しても、いくらでも仕事が出来る。もう一つの問題は北韓だ。思いのままに行くことも出来ず、かといって金で買収する方法は嫌で、また人為的にするのも嫌だ。全てのことが順調に行けば、団結できる意志がある人間を探し育てるのだ。
今やっと始まり、全てのことが輪郭が現われ活動できるようになったが、ここにだけ数年の労力を注いだ。北韓、北韓ばかり考え、あまりに多くの労力を注いだことが一瞬に崩れるのがあまりに惜しく、恨めしかった。
ウンシムの泣き声のようなものが聞こえた。私は警備兵に誰が泣いているのか尋ねると横目で睨みながら通り過ぎた。少しづつ泣き声は大きくなったが、慟哭に変わってしまった。たぶんウンシムの泣き声だろう。どうしてそうでなかろうか。ウンシムは19歳で山東省青島に売られたが逃げ出して延辺に来たが、警察に捕まって北送され、こうした経験があるため、本当に北送といえば死ぬよりも恐がっていた。ああ、自分は死ぬほどの罪を犯したのだ。これが何事だというのか? こうして夜は過ぎて行き、夜が明けてウンシムの声が聞こえてきた。たぶん将校の監視下で廊下の掃除をしているのだろう。暫らく後、廊下掃除が終わったのか窓の外で庭を掃くウンシムの姿が見えた。
私は将校に、自分が掃除をするからウンシムを入れてくれと言うと、責任者が出てきて許可した。私は掃除をしながら庭を見ると、幅10メ-タ-、長さ25〜30メ-タ-くらいになっていて、3メ-タ-の高さに25ミリの鉄筋を網状にして塞ぎ、何ものであれそこを抜け出ることが出来ないようになっていた。
私の横の房にはカルリャンと18歳くらいに見える若者がいて、その次の房にはヨンオクと30代前半に見える女性がいたが、ひどく弱っていて顔が蒼白なのが何かの病気で苦しんでいるようだった。朝になると私を調査した将校を始めとした多くの将校がやってきて、私と私たち一行だけを別に呼び出し、私とカルリャンには
手には手錠を足には足枷を、そして手錠と足枷を鎖で繋いだのだった。たぶん獣でもこのように縛ることはないだろう。ウンシムとヨンオクの手に鎖がぶら下った手錠が掛けられていた。
この収監所には他の脱北者たちと朝鮮族もいたが、私の一行だけ別に呼び出され、どこかに連れて行かれようとしているので、赤みがかった顔のヨンオクは青黒くならず、息も満足に出来ないように感じられた。主よ、私は罪人です。私は内心このように許しを請いながら車に乗った。ヨンオクとウンシムがすぐ前に、彼らを少しでも慰労出来ればどれほど感謝するだろうか? 私の横と前には若い将校が座り、責任者のような将校は、車内で一切話をするなと注意した。少しすると、車は徐々に路地道を抜け出し、いつも見てきた通りを縫って南側に走り始めた。町の外に正規看守所があるが、そこに行かなければ集寧か呼和浩特に行くのだろう。その後のことは分からない。
私たちを乗せた車は町の外にある看守所には見向きもせずに走って行き、遂に方向を変えたようだった。東に東に既に数時間を休まずに走った。私たちを乗せたバスは昼食時間もなく息を切らして走って来たのがシリンクォロモン辺防公安総隊(辺防隊司令部格)だった。総隊は広い敷地に幾つかの付属建物で構成されていて、定員数も揃っていて規模のあるように感じられた。私たちが総隊本館前に到着すると大勢の将校たちが建物玄関前で屯していたが、私たち一行一人に将校3人づつ付き、周辺の付属建物の方にそれぞれ散らばって行ったのだった。
私は彼らがどこに行くのか? また彼らとの出会いが最後であるように感じられて恐ろしくすらなった。続いて数名の将校が私を囲んで玄関の中に入って行き、ある一室に入っていった。室内は広々としていて二つの両手机をつけたものとソファがあり、ソファの側には下に鉄箱が掛けられた机があった。向かい側には普通の机が一つ置かれていて、その上にコンピュ-タ-と書類のような冊子が数冊置いてあった。机の側のハンガ-には男女警官の制服が帽子と一緒に掛けられていて、装飾から見て階級の高い者の服のように思われた。
私を護送してきた責任者と5名の将校が私を囲んで何かを話しあっていたようだが、若い将校一人が使い捨てのビニ-ル手袋をはめて私の服を一枚一枚脱がせて検査を始めた。外衣はもちろん下着とベルト、裁縫用ブラシまで隈無く脱がせて見た後、靴の中敷きを剥がして調べ手で擦ってみて、靴底もしつこく調べながら検査をした。所持品全ての検査が終わった後、化粧紙一枚と紹介状を私の前に持ってきて、何と書いてあるのかと聞いた。
化粧紙は、私が夜眠れず‘私は罪人です。私を許して下さい、希望を失わず最後まで生きて、私たちは再び会おう’と書いたものを、今日の昼間車でウンシムが声をたてずに泣き続けているので、私が文章が書かれた化粧紙をウンシムにあげたのを軍人たちが奪って持ってきたものだ。紹介状にはモンゴル語で“私たちは難民です。私たちを保護し大韓民国大使館に送って下さい”という文章が書かれていた。以前は全員に紹介状を一通づつ渡したが、今は一グル-プに一通づつ渡す。それも確実な意志を持っていて抜け出す通路を確実に習得し責任感のある者に渡しながら、グル-プを率いるようにして、携帯電話も通話キ-だけ押せば互いに通じるようにして渡されたものだった。
今回はヨンオクに紹介状を渡しながら、どんな場合でも紹介状が中国軍人の手に渡ってはいけないので、食べて無くすか、或いは丸めて捨ててしまえと言った。他のグル-プで女性責任者に紹介状を渡せば、それを細かく畳んで胸や腰に隠すようだが、今回はヨンオクが紹介状をどのように処理するのか見られなかった。それが今、軍人の手に渡り、私の前に来たのだった。 <続く>
北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会:本会は1959年から1984年までの帰国事業で北朝鮮に帰った在日朝鮮人(日本人配偶者等を含む)の生命と人権を守り、自由往来を実現し、被拘束者を解放し、犠牲者の名誉を回復することを目的とする。またその他の北朝鮮の人権問題にも重大な関心を向ける。