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北韓人権 129号(下) 

└ 2008-12-26 10:49

広場 脱北青少年リ-ダ-シップキャンプ参加者POSCO見学慶州文化探訪

旅 行 が く れ た 贈 物                  

                     呉ソンファン                           <韓国外国語大学校中国語科4年> 

 浦項製鉄所見学は今回が二回目だ。ソウルから浦項までバスに乗って行くことは、
日常の多くの気掛かりを暫らく後に出来る、この上なく良い機会だったようだ。その上、北韓に同じ故郷を置いた仲間たちとの外出なので、より気分がときめいた。朝、出発5分前にバスに乗った。優等バスで席も広く、人もそれほど多くなく、きれいで、家族のような雰囲気すら感じた。毎回、会うたびに感じることだが、会うたびに新しい顔になるようだ。人はその人だが、日に日に変化する姿が感じられた。私の考えでは、それもここリ-ダ-スクラブに来るのは、自分なりに熱心に生活している仲間だけのようだ。皆が顔に自信感があふれて見え、夢と希望に膨らみ、笑顔でバスに乗る私を懐かしがった。

 道中に勉強しようと鞄に本を二冊も入れて来た。結局、一度も見なかった。しかし、録音ファイルは熱心に聴いた。初めてではないのに、何故か早く行きたい気持ちで中国語を聴いたが集中出来なかった。途中で休憩所に入って昼食を食べた。味噌鍋だが、味が都市で食べた食堂のものとは少し違うようだった。外に暫らく出て陽なたぼっこをしていたら、横に乞食の出で立ちをして飴を売っていた。母親と息子なのか、片方の男性はずいぶん若く見えた。私よりも幼く見える顔だが、そこに出て一緒に働く姿に、苦しかった去りし時間が暫らく掠めたようだった。結局、その二人組はそこで商売を畳んだ。何故そうしたのか。もしかしたら、私たちが横で騒いでいたので、若い心に恥ずかしくてそうしたのか? そのまま見ていたが、情感があって好ましく見えたのにという話だ。

 私たちは再びバスに乗った。食後の眠気が襲ってきて少し眠っていたところ、浦項に到着したといった。私たちは降りるとすぐに博物館に入っていった。暗い部屋で私たちは浦項製鉄所の歴史が収録された映像物を見た。解説者の声に訛りが交じっていたが、とても聞きやすかった。よく訓練されたアナウンサ-より数倍も聞き良かった。映像物が消えると前方180度が明るくなり製鉄所の全景が一目に迫ってきた。一つの都市と同じくらいの巨大な製鉄所の規模と煙突、鉄がぶつかって出る小さな騒音、自分の耳元で今し方鳴ったように躍動感が感じられた。工場見学についての紹介を聞いて私たちは再び展示館を訪れた。どのようにして、これだけ世界的な鉄鋼王国がこの小さな韓国に生まれたのかを聞くことが出来た。一つ一番驚いたのは数か月の徹夜作業を通じて作った工場が一朝にして泡となってしまったことだ。しかし彼らは屈しなかった。再びゼロから始めたそうだ。あの青い海に地面を作り水を抜き出して、本当に無から有を創造する韓国人の小さいながらも大きな力を見た。展示館を出ながら、私たちは映像物を最後に見た。振動が椅子まで感じる映像物を見ながら、感動、感動せざるを得なかった。内心考えた。“こんな椅子が映画館にもあったら本当に大迫力だろう”。

 ついにバスに乗って工場区内に向かった。遠くで見ながら、その規模についてある程度予想していたが想像外だった。果てしなく長く伸びた鉄、精鋼、送水管や、高く積まれた鉄鉱石の粉末、どこかにバスが停まって工場の建物の内部に入っていった。北韓のテレビニュ-スの場面で見たあのシ-ンを自分の目で見る時間だった。真赤な鉄板が機械の中に素早く出たり入ったりしていた。その熱気が今にも自分の全身を燃やすようで知らないうちに胸の中で喚声を何度も上げた。わ〜わ〜わ、撮影禁止という声も忘れ、最後に熱い鉄板を撮った。自分もあの鉄筋のように高熱を吹き出すそんな人間になりたくて、知らずにカメラのシャッタ-を押したのかも知れない。

 私たちは続いて工場労働者が暮らす住宅団地に向かった。案内員の話のように利潤だけを考える資本家が工場労働者の生活の便宜をまず考えたとういうが、アイロニ-で信じられなかった。実際、工場を建てる前に先ず託児所、幼稚園を作ったという北韓でも宣伝用に言う言葉のように思ったが、自分の目で直接来て見ながらも信じられなかった。これに加えて学生たちがほとんど奨学金で無料で学んでいるという事実に再度驚いた。
 案内員もこの団地内に住んでいて幸せだと優しい微笑みを浮かべながら、私たちと別れの挨拶をした。
 日が暮れ始めると、すぐに私たちは空腹をなだめるために海辺の刺身屋に向かった。一時間ほどして美味しい刺身と酒を飲みながら、久しぶりの海鮮の御馳走で旅行の一日を美味しく締め括った。驚いたことはこれだけではなかった。私たちが今晩泊まる所はあの高価なホテルだった。

 部屋で荷物を解いた私たちはカラオケに向かった。局長さんの北韓の人みたいにうたったあの歌で始まった。力あふれる歌、トロット、バラ-ド、思いっきり声を上げて、思いっきり笑い、思いっきり騒いで、この世に羨むものがないようだった。
歌おう、飲もう、叫ぼうのために。そして私たちは部屋に行った。
 仏国寺は実は二回目だ。しかし毎回行っても嫌にならない。仏国寺の正面で、その勇壮で秀麗なことに驚き、登っては多宝塔の精巧さに驚き、千年前のその姿を想像して見ながら、見られないことがとても残念だ。二番目のコ-ス石窟庵に到着した。観光客でごった返していた。石窟庵の寺の前に立って前に広がる全景を見た。あの地球の果てまでも見えるように無限大に広がったそこで翼の無い私の身体が恨めしくまで感じられた。
 果てしない私の人生の道、20代の死の敷居を越えてここまで飛んできた私の青年期は、こうして過ぎて行くのを私は受け入れざるを得なかった。少しでも後悔することがあれば、反省しなくてはならず、毎日、快活に暮らしながら、後悔せずに一日一日を素敵な絵を描いて行くことを、鬱蒼とした樹林を後にしながら心の中で決心した。

 北韓知識⑳

                        
北 韓 の ス ポ - ツ                               
        アドバイス下さった方:呉ソンファン(仮名)、2002年脱北        整理:呉ウンチャン、金ヒユンニュ-スレタ-リポ-タ-   

北韓女子サッカ-国家代表チ-ム


 メディアでのスポ-ツ      
 
 南韓のスポ-ツニュ-スとは異なり、北韓ではテレビで特にスポ-ツ番組を見せてくれない。ニュ-スを放送中に特別な情報がある時にだけ伝えられる。例を挙げれば、国際大会で一位になった時に放映される。或いは、もし競技に負けるような
場合には、その競技の情報は伝えられないそうだ。そしてスポ-ツ選手に接する多様な機会が存在しないために人気スタ-が特にいない。ただ北韓の有名な卓球選手として世界選手権大会で2年連続1位になり、長い間その名が伝えられることがあったが、このように‘1’位になってこそテレビでも放映され、これを通じて‘ああ、
そういう選手がいるのだ’と思うのである。
                          
 一般人が楽しむスポ-ツ                         

 男性の場合、普通、集まってスポ-ツをする時、一番は無条件サッカ-で、次は
バレ-ボ-ルだ。また、最近、平壌ではバトミントンも多く親しまれているそうだ。
バスケットボ-ルのような場合は、これまで人気が無かったが、96年に金正日の
指示で突然人気種目になり、特に背が高くなる運動という点で青少年の間で広まっているそうだ。
 サッカ-に対する人気は国際大会にも現われる。ワ-ルドカップのような場合には、誰がさせなくても町中の応援熱が大変だそうだ。外国とのサッカ-の試合が行なわれる日には観客席もいっぱいになるが、国内チ-ムの試合の観覧はそれほど活発でない方だろう。

 スポ-ツ選手になるには?

 初等学校の時から学校に体育活動をするグル-プがある。ここで上手く出来れば
高等学校を体育専門学校に進学するようになる。または中央体育学院という、人民学校から優秀な体育特技を持つ学生たちが入学する8年制初級体育専門教育機関が
ある。その後、各高等学校を卒業した体育特技者中から選抜して、高等体育専門学校に行き、卒業者は人民学校体育担当教員や各道代表選手団に配属され、選手生活を続けるようになる。ここで選手たちは市体育団から道体育団に、そして中央体育
団に段階別に進んで行く。

 ‘人民体育人’、‘体育英雄’

 ‘人民体育人’は66年10月から体育部門に授与する最高の栄誉称号だ。この
称号を得た運動選手には勲章1級が授与され、老後の年金も支給され、中央機関の
局長クラスに相当する社会的地位を付与されるようになる。また、体育英雄という
称号は92年から毎年優秀なスタ-10名を発表するが、柔道スタ-桂スンヒ選手は実に8回も最優秀選手に選ばれたそうだ。

インタビュ-     

 
前もって会ってみた夢多き大学新入生                           
急に寒くなった天候のために身体を自然に縮こまるある日の夕方、遅れてすみませんと言って入ってくるウンジュさんと出会った。3月になると西江大学校09学番
として大学新入生となるという彼女の笑顔が本当に明るく見えた。その安らかな微笑みのおかげで、インタビュ-をしている間も終始笑いながら語り合うことが出来たのだろうと思う。やりたいことがとても多くて悩むという彼女が数年後、どのような姿になっているか期待しながら終えたインタビュ-は以下の通りだ。

  インタビュ-整理:呉ウンチャン、金ヒユンニュ-スレタ-リポ-タ-

NKHR:北韓人権市民連合でインタ-ン活動をされていますが、どのような縁で
するようになったのですか?
金ウンジュ(以下 金):脱北をすると国政院で身元照会をしてハナ院にいきます。
私はそこで他の人たちより少し年令が上だったのですが、勉強をしたくて青少年グル-プに入りました。その時ちょうど北韓人権市民連合からボランティアがいらして青少年を対象に季節学校を行なうと言ったのです。ここに参加するかという問いすぐに首肯きました。当時、勉強をしたいという熱望が大きかったのです。その当時、季節学校を通じて多くを学び、中国語の時間には先生の横で補助教員として働いたりしながら、縁を結ぶようになったのです。そして今回に首試に合格して、学校には体験学習報告書を出して、北韓人権市民連合でインタ-ンをするようになりました。

NKHR:西江大学校に首試で合格されたことを聞きました。おめでとうございます。合格の感想をお話下さいませんか。
金:本当にとても嬉しいです。その間、年齢が上なのに無理して一般学校に進学して苦労が多かったです。実際、脱北青少年の中には代用学校に行く学生が多いです。
年齢のこともあり、授業についていくのも大変だというのが大概の理由です。私は
今23歳ですが高校3年。どれだけ勇気がいる選択だったか分かりますか? それでも勉強したいという熱意が強かったので、うまく適応でき、楽しく過ごすことが出来たのです。そして脱北後、中国で過ごした7〜8年の間に中国語を容易く駆使出来るようになったのですが、これを生かして中国語はきちんとマスタ-しようと思うようになったのです。それで、やりたい勉強がとても多かったのですが、西江大学校中語中文学科を選んだのです。

NKHR:ウンジュさんは将来どのようなことをなさりたいのですか?
金:実は、夢がしっかりと決まらなくて困っているのです。児童福祉、心理、社会福祉、通訳、中国語講師、弁護士等々、やりたいものが多いので、その中できちんと決められなくて現在悩んでいる最中です。大学校に入って、様々なことを全て体験しながら、徐々に決めていくつもりです。でも目標を決めなくてはならないでしょう?(笑)

NKHR:初めて南韓に来た時、どのように感じましたか?
金:私は国政院、ハナ院さえ出れば、自分の世界だと思い、ただ良かったです。政府で支援もしてくれ、努力した分だけ何かが出来て、得られるという事実がとても良いのです。しかし、親戚もなく、家の近所に出掛けても知り合い一人いない現実が馴染めず、寂しくなります。家の中さえも全てが整っているわけでもなく、物悲しくて更にそうなるみたいです。私たち家族が社会に初めて足を踏み出した時が正月頃だったが、皆、名節だといって大騒ぎしたが、私たち家族はあまりに寂しくて、家電製品を買って家を熱心に整えたことが思い出されます。しかし、最近は母も仕事に出て、私も学校に通って友人が出来たので寂しくないです。

NKHR:誰よりも脱北青少年の苦衷をよく知り、理解しているようですね。どのような点が困難なのでしょう。
金:率直にいって、多くの脱北青少年たちが彷徨っています。うまく行動する子もいますが、一般学校に適応出来ず、代用学校に行くとか、検定考試を準備する子も多いようです。コンピュ-タ-の前で暮らす子もいて、そんな話を聞くたびに胸がとても痛みます。時々でも会うたびに慰め、激励するが、それがどれほど力になるかは分かりません。苦労する最も大きな問題は環境の変化だと思います。大概の脱北青少年は規範と制度のもとに束縛されるということに不慣れなのです。困難な脱北過程で学んだことです。それで脱北青少年たちが、ある環境に適応して定着することを最も苦労するのです。そのため、南韓の子たちと共に規則的な日常生活にあわせられず、仲間外れになるのです。

NKHR:脱北青少年が南韓社会に適応するためには、どうするべきでしょう。
金:脱北して韓国社会に入ったら、まず韓国社会について多くのことを教えることでしょう。しかし、実際に現場に出れば出来ないことが多いです。実践と理論は違うじゃないですか。そこで他のことより南韓の人々と会う機会を多く作ることが一番良いことでしょう。実際、脱北青少年だけのためのキャンプのようなものは多いけど、南北の青少年が一緒に行なうキャンプはほとんどないでしょう。しかし、私の経験上、継続して南韓の子たちに会ってこそ、早く適応するのが容易になるでしょう。直接会って互いに付き合い、ぶつかりながら理解して行き、間接的に誰かが教
えるだけなら、大して役に立たないでしょう。

NKHR:統一を準備する世代に、ぜひ伝えたい言葉があれば?
金:以前、学校で統一作文のために友人たちと統一について話し合ったことがあります。しかし、その時、一緒に話をした友人4人中、私を除いて皆統一を願っていないのです。皆がドイツの例を挙げながら、経済的に苦しくなることをとても負担
に思っているのです。それで私は北韓が持っている自然環境と様々な鉱物、資源等を話しながら、統一すれば良い点を声が擦れるほど話しました。話しながら、少し苦々しくなりました。実際、経済的な理由で統一を願わない人が南韓社会に多くいるのを知っています。しかし、準備された統一であれば、経済的な理由は、実際、
それほど大きな問題ではないと思います。そして本当に準備された統一のためには、
認識の変化がなければならないと思います。特に統一意識に対する教育が学校でも
行なわれなくてはならないのに、今の教育課程ではほとんどないようです。そして、
もし周囲に脱北青少年がいたら、まず近付いて下さい。皆がそうではありませんが、近付くことを照れくさがる人もいるでしょう。近付いて行くことはうまく出来なくても近付いてくるのは大変に好ましいのです。

NKHR:北韓人権市民連合メンバ-に一言お願いします。
金:まずとても感謝しています。実際、良い暮らしをしているといっても、誰かを助けることは容易くないことではないですか。しかし、このように素敵なことをされている方々がいらっしゃるということに本当に感謝します。社会的イメ-ジ改善によいお話をして下さり、多くの人々が分かるように宣伝、広報を多くして下さい。

手記

私 は ブ ロ - カ - だ っ た ⑥

                 ユサンジュン                               <脱北同胞、活動家、2000年韓国入国>


この手記は1998年4月北韓を脱出し、2000年韓国に入国した脱北同胞であり活動家であるユサンジュン氏が、中国で脱北同胞移住活動を始めたが、2007年8月中旬中国公安に捕まり、12月16日追放されるまでの生活を日記形式で作成したもので、本人の許可を得て本会のニュ-スレタ-に掲載する。

 東の空が青々と明るくなると、収監者たちが一人、二人起きてきて廊下で自分なりの素手体操をしていた。手を頭の上にのせて兎跳びをする者、胴体を思いっきりねじりながら夜の間に積まれた眠気を全て払い落とすように運動するのを見ると、長い間日常的にしてきたように身体に馴染んだ動作のようだ。遂に朝の起床ベルが鳴ると、眠っていたり、寝転んでいた収監者たちが軍隊のように素早い動作で起き上がり、寝具の整頓をし、片側では順番に洗面をしていた。寝具整頓と監房内の掃除が終わって少しすると看守が大きなバケツに薄粥を持ってきて、収監者の器に一カップくらいづつ分け与える。

 薄粥と言うだけあり文字通り米粒が2〜30粒程度入っているだけだ。私は自分の横に座っている蔵族(チベット人)のウィピョに粥を譲ってやった。ウィピョは広西自治区の人間で錫林浩特(シリンホト)に出稼ぎに来て、ある旅館で働くようになったが、自分が働いている旅館と周辺の送電所等三ヶ所の事務室の金庫を破って4000人民元を盗んだことが一日で発覚して警察に捕まり、現在は起訴中であるそうだ。私が属した監房内でウィピョは一番軽い犯罪者であり、性質が比較的温和で漢語(中国語)がよく出来ないため、仲間にうまく溶け込めず、私が別の監房に移る時、彼も一緒に移り、釈放されるまで一緒だった。私は釈放される前にウィピョに、もし自分が釈放されて再び中国に来たら君を訪ねるが、その時私を助けて脱北者をミャンマ-やベトナムに送って欲しいと言うと、ウィピョは自分の弟と仲間がベトナム密輸をしているのでうまく助けられるだろうと言った。

 監房の一日の日課はチュオバル(監房内の寝台の上に一列に並んで座って自分の過ちを悔い改める時間)で始まる。チュオバル時間になると私は一番後に座って神に祈りを捧げようとしたが、出入口が開いてリュウシャンジュインと大声で自分の名前を呼ぶ声がした。私は速やかに後を振り向くと調査局長蘇インジと看守所副所長、そして数名の軍人が出入口の前に立ち、私に出ろと言うのだった。私は軍人たちの後について調査室に行った。
 調査室といっても二坪余の室内に小さな机一つと腰掛け二つ、収監者用腰掛けが置かれているだけだった。収監者用腰掛けは、人が座れば両足を足枷で縛り、両手を肘掛にのせれば手首を縛ることができ、手首を縛った後、胸の下の部分を腰掛けで固定され、板型の帯で上半身を縛れるようになっていた。私が調査室に入って行くと、二人の警察官が私を収監者用腰掛けに座らせ、両足と手を縛ろうとしたが、蘇インジが何かを言うと、足は縛らず手首だけ大まかに縛り、胸の部分を固定した。

 蘇インジは最初に見た時のように顔に怒気が漂っていて、通訳する女性が私の前に来て、数枚の書類を渡しながら読んでみなさいと言った。私はざっと書類を見ると、外国人は拘留(拘束)されると弁護士を選任でき、自国語で調査に応じることができ、調査や通訳過程で間違いがあれば、弁護士を選任しない或いは通訳交替を要求でき、裁判を受ける権利がある等、簡単な中国の法律を中国語と韓国語で翻訳して書かれた紙だった。蘇インジは、私が弁護士を選任出来るのだから弁護士を専任しろと言った。私は、共産主義国家の法律体系が全て一律的で計画された中で構成されているので信頼できないため、弁護士を選任しないと答えた。これから調査が始まるようだ。

 蘇インジの最初の質問は、国の仕事をしているのか?だった。私は個人であり、韓国は3国にいる脱北者に対し、国家的レベルで支援したり、保護、3国への脱出をさせることはしない。脱北者支援と保護、3国脱出は個人や脱北者問題に関心がある団体で散発的に行なわれていることだと答えた。次は、私が蘇インジに会って最初に調査された時のように、私が利用した航空便と時間、旅館と列車の利用等について比較的具体的に訊ねた。続く質問は、ウンシムとヨンオク、カルリャンをどうして知り、どんな方法で何処で会ったのか? 彼らを韓国に連れて行こうと誘惑したのか?等、様々な質問を私があれこれ考える間もなく次々したのだった。

 調査は最初に捕まった時とは想像も出来ないほど執拗に質問し、疑いながら記録したことを数回繰り返しながら質問するのだった。調査過程で最も執拗に長時間根掘り葉掘り聞いたことが、ウンシムを知った経緯とウンシムを私のもとへ連れてきた女性が誰なのか?ということだった。私は和龍地方に用事があって出掛けたところ、私が韓国人であることを知ってある女性が知り合いに脱北者がいるが、幼いので気の毒だから助けて欲しいと言うので、私の連絡所を教え、ウンシムを知るようになり、私はその女性が誰なのか知りたくもなかった。私はその女性がウンシムを助けてくれた人だと思い、以後は彼女について知ることは全くない。私はその女性の電話番号や名前も知らず、ウンシムと一緒に延吉で会っただけだと言った。私が話しても彼らは全く信じていないようであり、数日をおいてウンシムの保護者について集中調査をした。朝早くから始まった調査は夜8時になって終わり、警察官が待機していたように私を監房に連れていった。

 私が監房内に入ると、収監者たちが聞き難い中国語であれこれ訊ねた。恐らく調査がどうなったのか等、彼らには気になることが多かったようだ。唯一、通訳出来る孔ヨンホが見えなかった。私が孔ヨンホが何処に行ったのか?と聞くと、今日は裁判の日なので法院に行ったが、まだ戻らないと言った。孔ヨンホは、タクシ-の運転士に1000人民元を渡して脱北者にモンゴル国境を越えさせ、運転士一人、一人、捕まったのが9人、孔ヨンホが誘って長春駅で二連浩特辺防隊軍人に捕まった脱北者出身の韓国人張ミスク等11人が裁判を受けなくてはならないため、裁判が長時間行なわれるようになった。就寝時間目前に孔ヨンホが入ってきた。孔ヨンホは自分が代わりに数年を判決受けたのだろうことを知っていたようだった。

 孔ヨンホは、韓国人がよい役割ばかりしてやって自分が刑を買うようになったと不満をぶちまけながら、寝床に入っても眠れないようだった。孔ヨンホは韓国人と一緒に、脱北者一人あたり400〜450韓国ウォンづつ貰ったりもして、脱北者たちを中蒙国境を越えさせる仕事をしたが、通話履歴追跡に掛かって安図県明月区ミンジュ村の自分の家で二連浩特辺防隊軍人たちに逮捕され、逮捕された当時、ヨンホの妻が出産後7日目になる日だった。孔ヨンホは2007年3月16日逮捕され、自分の罪をそそごうと、長春駅で脱北者出身韓国人張ミスクを誘因する時、辺防隊軍人の指示に従い、脱北者たちを引率して3国脱出を企てた張ミスクと脱北者6人を逮捕するのに貢献した。孔ヨンホは張ミスクを逮捕するのに協力した代価で立共罪が成立し、錫林浩特市中級人民法院で判決7年10ヵ月、孔ヨンホの兄孔グァンホは判決11年3ヵ月を受けた。私も寝床に横たわり心の中で静かに祈り始めた。

 “神さま、父よ。私は神の前で罪人であってもこの地の罪人ではありません。主よ、私たちを哀れに思い、救いの手を送って下さい”。人間は苦しい時であるほど本能的に神にすがるようだった。
 今日も間違いなく蘇インジと記録係、通訳と警察官一名が来て、私に出てこいと言った。私がゆっくりと出入口側に行くと、蘇インジは飯を食べたのかと聞いたので、食事をする気がなかったので食べなかったと答えた。蘇インジの表情は恨みがましく、私を捕まえて壁際に立てと言いながら、漢字でユサンジュンと書いてある札を持って写真撮影をしろと言った。撮影が終わった後、私たちは昨日調査を受けた部屋に行った。私が腰掛けに座ると、通訳が私の前に来て文書のような紙を持って下手な韓国語で“お前、ユンチャンを知っているか?”と訊ねた。私は最初、この女が誰を言っているのか考えたが、再び“お前、ファジャを知っている?”と訊ねた。私はどっちも知らないと答えた。金ユンチャンは知っていたが、ファジャという名前は、延吉にいる時、知り合った方がいたが、この方の名前をここに上げることは出来なかった。

 私は泰然とした表情で彼らを本当に知らない、私を信じられないのなら私の電話番号帳でファジャという名前と電話番号を探してみろと言った。私は机上のA4用紙に漢字で金ファジャ、1966年9月26日生、職業:無職、学歴:中退、住所欄に吉林省延吉市依蘭鎮と書かれているのを見た。依蘭鎮の次の文字は紙に妨げられて見えなかった。太め女性の名前がファジャだったのかという思いが瞬間に浮かび上がった。いつだったか金ユンチャンが、彼女が延吉宜蘭に住んでいると言ったことがあったが、私は彼女の名前と連絡所を知ろうともしなかった。
 通訳をする女性が苛立った声で“お前、金ユンチャン知ってる。お前、ファジャ知ってる”と言うと、私は絶対に知らないと答えると、椅子に斜めに座って眺めていた蘇インジが、お前が内蒙古に来て誰に会ったのかと聞いた。私は太った朝鮮族の女性と脱北者に見える一行二名と列車で会ったと言うと、蘇インジはお前がどうして朝鮮族とか脱北者であるとか分かるのか?と反問した。私は延辺に長く暮らし、経験的に彼らが脱北者であることが分かったと答えた。

 今度は、蘇インジが、お前が昨年(2006年)12月にどうやって二連浩特に来たのかと再度質問するのだった。私は2000年に韓国に行く時通った道で、脱北者を送ることが出来るだろうか確かめるために来たと答えた。この頃になると太め女性がかなり具体的に告発したことが分かった。太め女性と金ユンチャンは共に活動する人たちだ。私が浦項に住んでいた時、金ユンチャンは同じ町に住んでいて、その後、京畿道に引っ越してからは私はその存在を全く忘れていた。<続く>











北韓人権 129号(上) 

└ 2008-12-26 10:41

NKHR Newsletter

北  韓  人  権 2008年12月号 129号 

www.nkhumanrights.or.kr

社団法人 北韓人権市民連合
Citiens’Alliance for NorthKoreanHumanRights
110-090
ソウル 鍾路区橋北洞10-22  シムジビルディング3階
電話02-723-1672、2671 Fax02-723-1671 

巻頭言                         
2 0 0 8 年 を 送 り な が ら
                                                  北韓人権市民連合の活動は、一年中持続されているが、大きく分けると、①キャンペ-ン及び国際協力、②在外脱北者救護、③国内脱北者の社会適応支援になる。
 今年のキャンペ-ン及び国際協力の中で最も大きなイベントは、1月下旬英国ロンドンで行なわれた第8回北韓人権・難民問題国際会議だった。前職国務総理、前職次官、前現職国会議員、前現職大使、大学教授、研究員、NGO活動家等、13ヵ国から集まった140名が2日間、討論し、情報を交換した。人権団体以外に人道支援団体活動家も参加し、自分たちの立場を忌憚なく明らかにした場だった。
 6月には高麗大国際大学院、韓東大国際法律大学院と合同で、米国国際宗教の自由委員会代表団、国際拷問防止委員会中心の学術討論会を開催した。
 11月には、来年3月オ-ストラリア(豪州)メルボルンで行なわれる第9回北韓人権・難民問題国際会議の準備のために代表団が往来した。
 12月には北韓児童権代替報告書をスイス・ジュネ-ブにある国連児童権委員会に提出した。来年1月には同委員会が北韓政府が提出した児童権国家報告書を審査する予定だが、私たちの報告書は委員たちに十分な情報を提供するために英国政府の財政支援を得て作成したものだ。
 中国で現地活動家を通じて提供される在外脱北者支援は、絶え間なく続けられている。センタ-(隠れ家)は二ヶ所から三ヶ所に増加した。6月には金スンニョ母子が、中蒙国境を無事に越えて、モンゴル駐在韓国大使館の保護を受け、11月には10代の少女二名が中国から脱出、ベトナムを経て現在カンボジアで安全に保護されている。北韓内の孤児院二ヶ所に対する支援が新たに開始された。
 今年は、脱北青少年問題に対する社会的関心が高潮した年と記憶されるであろう。
 国会で脱北青少年教育に関する公聴会が開かれ、教育庁は脱北青少年のための各種プログラムに予算を配分した。こうした社会の雰囲気を反映したように脱北青少年支援基金のための私たちのビュ-ティフルドリ-ムコンサ-トは盛況の中で開催され、大した困難もなく二回の季節学校とリ-ダ-シップキャンプそして脱北青少年サッカ-チ-ムを運営できた。
 こうした成果は、会員、後援者、ボランティア皆さんの参加と激励があったゆえに収められたもので、深く謝意を表しつつ、新年にも変わらぬ声援をお願いしたい。

キ ャ ン ペ ー ン          
                  
 ▲11月1日(土)〜2日(日)、1泊2日間北韓人権市民連合のリ-ダ-シップキャンプ修了者15名が浦項POSCO産業現場見学と慶州仏国寺及び石窟庵文化探訪を行なった。脱北大学生リ-ダ-シップ教育の延長線上として、産業現場を直接訪問して我が国の産業に対する理解と文化遺産踏査の機会を得られたのは、金ソクウ顧問の周旋とPOSCO尹ソクマン社長の招請で実現した。11月最初の週末、朴ポムジン顧問、リ-ダ-シップキャンプ修了生及び大学受験生全15名、金ヨンジャ事務局長、李ヨンソクチ-ム長、金ハクミンチ-ム長等が参加した。(今号「広場」参照)
 ▲11月3日、全北大学校三星文化会館大劇場にて、脱北児童支援基金のためのソプラノ尹キョンヒ氏の聖歌独唱会が開催された。百済芸術大学校音楽科尹キョンヒ教授は、第10回北韓人権市民連合脱北同胞支援ボランティア修練会参加以後、脱北児童に力と勇気を与えようと、本会広報大使金チョルウン氏と意義のある場を設け、独唱の外にもボランティア修練会に共に参加した娘のカンミンジさんのフル-ト協奏と全州アンディオク教会ガブリエル聖歌団の合唱を交えた音楽会を開いた。今回の音楽会の収益金の一部100万ウォンが脱北青少年基金に寄付された。
 ▲11月14日、国内に入国した北韓離脱住民の支援要請で、中国公安に逮捕され、強制北送危機に置かれている家族の保護のための緊急介入促進文書を関係部署に転送した。
 ▲11月18日、25日に‘コンマンチュン’会社から寄贈された学用品を天安空の夢学校と黎明学校に送った。
 ▲11月22日、土曜学校学生とボランティアが果川国立現代美術館とソウル大公園動物園に‘一つになる外出’を実施した。
 ▲11月26日から11月28日まで、金ヨンジャ事務局長、ヨアンナ=ホサニャク国際協力チ-ム長、そして許マンホ理事が、2009年北韓人権難民問題国際会議事前準備集会のために、オ-ストラリアのキャンベラとメルボルンを訪問し、オ-ストラリア議会の人権小委員会、外交部韓国デスク関係者、国会議員マイケル
=デンビ等に会い、来年3月に予定されている国際会議の議論と準備を本格的に始めた。
 ▲11月28日、国連児童権利委員会宛に北韓児童情況に関する代替報告書が、
北韓人権市民連合とアジア人権センタ-の共同名義で提出された。国連児童権利協約の加入国である北韓の第3、4次統合定期報告書審査は、来年1月中旬に予定されているが、これに備えてこの一年余の間、北韓人権市民連合調査研究チ-ムで準備した児童権報告書を要約、ジュネ-ブの国連児童権利委員会宛に提出した。
 ▲12月2日陽川文化会館リ-ダ-スクラブにて、北韓人権市民連合送年の夕べイベントが行なわれた。市民連合のメンバ-である脱北同胞、会員、ボランティア約100余名が集まり、黎明学校風物同好会の四物遊戯、市民連合インタ-ンのフル-ト、ピアノ、チェロ演奏、そして金チョルウン氏と尹キョンヒ教授の独唱が行なわれ、音楽が盛り込まれた送年会が開かれた。

活 動 報 告  国際指導者訪問交流プログラム-4            

                         
華やかさと豊かさの中の貧困まで                 
   世界の都市ニュ-ヨ-クでの北韓人権問題              

                    金ハクミン         
                 <北韓人権市民連合キャンペ-ンチ-ム長>

 空を突くほどの高層ビルが密集するマンハッタンのように、私たち一行のニュ-ヨ-クの日程は詰まっていた。午後に到着して出発する日の午前を含めれば2泊3日だが、公式日程は中一日間に全て組まれていた。17年前、家族と共に米国を初めて訪れた時も幼くて人々がニュ-ヨ-クを口癖にする理由が全く分からず、今回は楽しむことも出来るだろうと思っていたところ、日程があまりに短くて、その魅力を全て見付けられずにきた。ソウルもそれなりの大都市だが、ニュ-ヨ-クの摩天楼等は目眩がするほどで、道路は狭い露地道のように感じられて車酔いがして気分が重く、田舎の人間が上京したように道に迷いそうで、散々だった。しかし、振り返って見れば、世の中の全ての人種、国籍の人々、多様の言語と文化、食事、華やかさと豊かさの中の貧困まで、その個性の多彩さは世界の都市ニュ-ヨ-クが存在する魅力の源泉になって、再び戻って行きたくなる魅力があるようだ。

 一日だったが、ニュ-ヨ-クでは集中的に北韓問題関係の人々と会うことが出来た。午前には1990年代中頃から北韓の食糧難に対処するため、北韓に人道的支援事業を始めたワ-ルドビジョンインタ-ナショナルの北韓事業担当の方と挨拶を交わした。Hsu博士は1980年代から北韓に通った方で、ワ-ルドビジョンでは既に10余年を越えて北韓各地域で実施された食糧及び救護、学校復元作業等に責任を持っていらっしゃった。そして簡単にワ-ルドビジョンの対北人道支援事業を説明され、その中で黄海北道都峙里の小学校復元作業現場の写真アルバムを見せて下さった。

 彼の説明と評価から脱北者四名と北韓人権NGOから来た人間に話せることは制限されている感じを受けざるを得なかった。先日、ロンドンで同じように対北人道支援事業を続けている国際児童団体関係者が人権問題ゆえに人道的支援事業が危うくなるといい、相手が北韓であるために敏感に注意深くならざるを得ないと悩む姿を垣間見られたことと同じ脈絡だった。しかし、脱北者が多くなく、北韓の人権情況に関する国際社会の共感帯が形成されていなかった当時、人道的支援事業さえ汲々として北韓の人権情況に関して目眩ましした時代は既に過去のことだった。人権エイドフォ-カスや人道的支援事業は、総体的に北韓情況が艱難で複雑なほど、各自注意深く、敏感な情況でも出来る、すべき役割分担として受け入れた。

 詰まった時間の関係上、午前のミ-ティングは引き続き国務部教育局ニュ-ヨ-ク事務室で行なわれるようになった。次に私たちを訪ねて下さった方々は、ワシントンで会った北韓人権NGO関係者とは初印象が違っていた。キリスト教韓人同胞社会人士が中心となって、同胞愛を中心にして脱北者救出と‘この地球上ただ一つの残悪無道な独裁者を崩壊させる世界平和運動’を推進するSaveNorthKoreanRefugees(SNKR)のヘンリ-=キム会長と徐ビョンソンニュ-ヨ-ク支部長だった。遠く故国から、そして北から来た脱北者たちを格別に歓迎して下さり、テナ-らしく声量ある声でSNKRの活動について、とても自信感あふれる声で説明した姿が浮かび上がる。ニュ-ヨ-クにある国連本部を相手にキャンペ-ン活動も繰り広げ、脱北難民救出事業をしていたところ中国で監獄生活をしたスティ-ブ=キム釈放のための署名運動、韓人音楽家たちが集まって聖歌と歌曲の夕べイベントを通じて脱北難民支援基金音楽会を行なう等、僑胞社会内でも並はずれた同胞愛を実践されている方々だと思われた。ワシントンの政界の雰囲気とは異なり、ニュ-ヨ-クのように商業的で資本主義的な世界金融の都市でこうした問題はどれくらいの比重で扱われるのか疑問が生じたりもし、決して容易くは見えなかった。短い出会いの時間だったが、すぐ前に全人道的支援事業を通じて北韓と縁のある方々と、米国社会の韓人僑胞1世代でありクリスチャンとして北韓の人権問題を扱う人々と、挨拶を交わした2つのミ-ティングは大きく対比された。

 ニュ-ヨ-クの一日だけでなく、3週間米国で実現した多くの出会いの中でも指折るほどに個人的に深い印象を残した方々の中には、ニュ-ヨ-クシティ-大学(City University of New York)ハンタ-カレッジの社会(福祉)事業学科マサ=ブレギン教授がいた。午前に北韓関連事業について国務部事務室で説明を聞いたのとは異なり、遠くなかったハンタ-カレッジを直接訪ねて行った。密集したビルの林の中で何処にもキャンパスらしい風景は全くない都心の中のビルだったが、このビルだけは鞄を肩に掛けて本をいっぱい抱えている若い学生たちで混雑していた。教授休憩室に案内され、丸いソファ-に座って、
明るく楽しく、距離感なく、親しく私たち五人を迎えて下さった。もちろん北韓専門家では全くなかったが、自意であれ他意であれ移民者として難民として、より具体的には内戦、戦争等、暴力事態から影響を受ける人々が、新しく社会に再適応しなくてはならない時に体験する社会心理学的統合過程についての専門家だった。私たちに話す機会を下さった後には、本人も幼い歳に2次世界大戦前から避難して米国に父母の手に引かれて来たという個人的な話で始まり、特に児童、青少年たちが難民として或いは移民者/移住者家族として体験する精神的な苦しみに対して問題意識を共感でき、皮膚に触れる話をして下さった。

 米国も絶対に完璧ではないが、二世紀前ヨ-ロッパ人の移民一色とはまた異なり、どうやって世界各国の人々が来て米国人というアイデンティティを堅固にして社会統合をなすのか? その秘訣は何か? 両親と共に米国に渡り初期に定着しながら、ブレギン教授の御両親は、娘が母国語を使いながら英語を使うと頬を打ち、不作法な行動をすると“この不作法な米国の子”と言いながら叱ったそうだ。アイデンティティの混乱と克服、その忍耐心が掛かる過程、これは成人になる今日の脱北青少年と将来真摯に話し合いたいことだ。

 ブレキン教授が北韓問題を直接言及されなくても十分に貴重な時間だった。相手が北韓であるからには、食糧や開発の問題、人権の問題が、私たちの願うままの改善のための接近可能性が遮断されたというほどに制限されているのなら、南北の人々の統合すなわち脱北者の韓国社会適応、そして南韓の人々の脱北者包容等、現在、私たちの社会の統合問題は、様々な方案が十分に議論され、考案出来る接近可能性がとても大きな分野である。いわば韓国入国に成功した脱北者と南韓の人々は、統一社会に備えた実験過程と準備段階を経るものと言えるが、社会統合のための政策と大々的な共感帯形成と拡散が必要だと考えを関連付けることが出来た。

 ニュ-ヨ-クでの公式日程は、世界的な国際人権NGOであるHumanRightsWatch(HRW)訪問で終了となった。公信力ある人権エイドフォ-カスの世界的な機構といえるHRWは、既に世界各地域の人権情況を鋭意注視しながら不断に人権情況を監視、報告する。北韓も例外ではなく、脱北難民と関連して、そして開城工団の労働権問題等を含み、数回北韓人権報告書も提出した。私たちがエンパイヤ-ステイトビルにあるニュ-ヨ-ク本部を訪問した4月には、在中脱北女性と中国人の間に生まれて無国籍者になるいわゆる‘黒孩子’問題を扱った報告書の刊行を前にしていた。絶え間なく新しい事案と関連人権侵害の問題点を
捕捉して事実と情況を把握、被害者、犠牲者の声を盛り込み、これを解決するための勧告案を提示する作業が行なわれているようだった。

 一人、一人個人の犠牲者の苦痛とその苦痛から終わることのない勇気ある声がこだまして、草の根NGOと世界的な市民社会の非政府機構が声を出せるようになるまでキャンペ-ンは不断に続けられなければならないだろう。

広場 脱北青少年リ-ダ-シップキャンプ参加者POSCO見学慶州文化探訪


苦 難 は 希 望 の 種            

                     金ウンジュ                            <教育訓練チ-ムインタ-ン> 

 11月1〜2日(1泊2日)POSCO尹ソクマン社長の招請と北韓人権市民連合の支援のもと、私たち脱北青少年15名は浦項製鉄(POSCO)を訪問した。
 11月1日早朝、胸をときめかせて徳寿宮前に集合した私たちは、朴ポムジン顧問と他に北韓人権市民連合の金ヨンジャ事務局長、李ヨンソク教育訓練チ-ム長、
金ハクミンキャンペ-ンチ-ム長等の同伴で、脱北青少年リ-ダ-シップ教育を目的に一台のバスに乗って浦項製鉄に向かった。

 脱北青少年のうち一部はリ-ダ-シップ教育を受けていて、既に会社に就職して社会生活をする人もいたが、私のように大学入学を目前にした学生もいた。バスに乗って浦項に行く間、各自の韓国定着生活について話し合いながら、社会定着に苦労したことや大学生活に必要な勉強に関連したこと、そして会社に就職して通う経験談を聞けた。
 4時間経って目的地に到着した私たちは、一番初めに浦項製鉄の歴史が盛り込まれた歴史館と広報館を訪問した。浦項製鉄の草創期から現在までの様子を映した写真とPOSCOを一目で見られる模型を参観しながら、困難な環境の中であらゆる苦難を切り抜けながら、現在のような成長を成し遂げたPOSCOの歴史について間接的ながら理解できた。

 次に私たちはバスに乗って案内員の説明を聞きながらPOSCO内部を参観し、直接、鋼鉄が作られる過程を目で見ることが出来た。強い熱気が感じられる厚く赤い鉄板は、数回の反復作業を通じて約20トンの長く薄い鉄板にして、約一ヵ月間熱を冷ました後、需要の場所に移されていた。私たちがよく言う鉄の塊は、思ったより高い価値を持っていた。どこでも見られる鉄、それがどれほど大きな価値を持っているのか考えても見なかった私としては、今回の経験を通じて鉄だけでなく私たちの周辺の全てのものが苦労して作られていて、またそれが持つ価値、それが無い時の生活を改めて考えることが出来た。

 こうして浦項製鉄訪問を終えて、私たちは夕食をとるために甘浦海岸に移動し、そこで美味しい刺身をたっぷり食べることが出来た。食事が終わった後、寝所を求めて慶州コ-ロンホテルに移動し、飲み物を飲みながらお喋りをし、カラオケで一つになって歌ったりもした。
 一日がこうして過ぎて行き、翌日、石窟庵と仏国寺参観が始まった。
 紅葉に染まった仏国寺は、新羅の趣きある姿を見せてくれて、澄んだ空気は私たちの心をすっきりさせてくれた。流れる薬水を飲みながら、自然の美しさも思い切り楽しめた。神秘の石窟庵、高い山頂にあるそこは多くの観光客で混雑し、下にはぱっと広がった慶州の秋の姿を一目で見ることが出来た。いつの間にか時間は流れ、1泊2日の旅程も帰り道だけが残り、名残惜しさを禁じ得なかった。

 浦項製鉄に行って、POSCOの苦しいながらも偉大な歴史を知るようになり、当時の韓国経済についてもある程度理解できた。苦難は克服せよという言葉は正しいようだった。その苦しみに、韓国人の強烈な意志と共に現在のPOSCOが存在し、韓国経済も発展出来た。脱北者として新たな社会に適応する上で多くの困難がある私たちだが、この苦しみに打ち勝ってこそ、より強い立派な人間になれるのだと考える。歴史が語っているように、現代が導いてくれるように、苦難は希望の種であり、より成熟した暮らしであるのだろう。










 















                  

北韓人権 128号(下) 

└ 2008-11-28 09:08

広場

青 少 年 統 一 意 識 調 査 

                     金スミン/金ジャウォン/呉ユジン                      <韓英外国語高等学校3年>  

 〔前略〕最後に脱北者について質問した。我が国には、現在、約15000名の脱北者がいる。脱北者たちは北韓から生死を往来する困難な道を通じて脱出して南韓に来た人々である。より良いところで生活するために辛苦して来た彼らが、南韓社会に人々の視線や文化の違いのために適応が上手く出来ない。我が国で苦労している彼らの人権に対して学生たちはどのように考えているか気になった。1年生の女子は大部分が同じ民族なので気にしないと答えたが、男子は文化の違い或いは言葉の違いのために異質感があると答えた。2年生女子の半分は、以前は異質感があったが、TVの娯楽番組で芸能人が北韓訛りを言うのに馴染んで、或いは脱北者の芸能活動やその他の影響によって、それほど気にしなくなったと答え、男子は異質感があるとか、よく分からないと答えた。3年生は男女大部分が同じ民族なので何も気にしないと答えた。私たちは同じ民族だが、理念ゆえに戦後互いに会えなくなっただけだ。そのため何も気にしないという回答者が多かった。北韓から来た人々も北韓弁を使い、北韓文化を持っているといっても、他の地方から来た人々と同じだという考えを持ち、異質感を持たず、暖かく接することの出来る能力を育てるべきだ。

 1年生の男女大部分が、我が社会が脱北者の人権についてあまりに無関心なので
彼らの人権が保障出来る社会的な制度が必要だと答えた。2年生女子の大部分は社会的関心を集め、社会的制度も必要だと答えたが、男子は彼らの人権を私たちが保障する必要はないとか、分からないと答えた学生もいた。3年生は男女大部分が社会的制度が必要であり、関心を集めることが重要だと答えた。脱北者の人権を保護すべきだと答えた人の中には‘人権を尊重されず出てきたのだから’、‘同じ民族なので’、‘異質感なく適応するのを助けなくては’、‘基本的な人権を持つ人々なので’、‘統一を早く進めるために’、‘もしかして南韓に責任があるので’、‘無条件に保護するのではないが、人としての人格を尊重されるよう支援すべき’、‘気の毒な人々なので’、‘南韓社会に適応するまでは十分な保護が必要なので’、‘同じ人間なので’等、多様な意見があった。これをもとに学生たちが、人間が享受すべき基本的な権利と人権について知っていることを確認でき、脱北者が統一に肯定的な影響を及ぼすと考えていることが分かった。

 最近、大韓民国政府が脱北者に対する補助費を減らし、彼らが南韓社会に適応出来ずホ-ムレスに転落してデモを起こしたという記事が出た。人間が享受する基本的な権利を享受出来ず、大韓民国に来たのに、ここでも生活が良くならないのは悲しい現実だ。制度的なレベルで多くの補助をすべきことも事実だが、実際に脱北者たちが南韓社会に上手く適応出来るよう支援するのが私たちの考えである。私たち自ら脱北者を自分たちと別個の異なる人間と考えず、同じ民族の同じ人権を享受する人間と考え、彼らの人権保障のために積極的に進まなくてはならない。人々が脱北者の人権について多くの関心を示すほど、彼らの生活はより良くなるだろう。

 北韓知識⑲

                        
北 韓 の 文 学 、 書 籍 に つ い て                 
        アドバイス下さった方:呉ソンファン(仮名)、2002年脱北 
        整理:呉ウンチャン、金ヒユンニュ-スレタ-リポ-タ-   

北韓の児童文学  中国から寄贈された本を見ている北韓住民


 北韓にも外国書籍が存在するのか?
 
 南韓の『アラビアンナイト』を北韓では朝鮮語翻訳で『千一夜物語』と呼ぶ。この他にも「シンデレラ」のような童話の本や、「シャ-ロック・ホ-ムズ」等の本も接することが出来る。しかし、基本的にソ連や東欧諸国で出版された書籍のみ接することが出来る。米国、日本、韓国、西欧等の書籍は見られず、特に資本主義に関連した書籍はない。最初から書籍が存在しないために禁忌視されようがない。
            
 主に見る本
                          
 北韓は南韓のように書籍に接することは容易でない。書店が多くなく、紙の質も
良くなく、規模も大きくない。子供の童話本もカラ-の挿絵よりは文章が多いほうだ。一度、金正日が韓国で伝えられている童話を全集にした伝来童話全集を全国の学校に配布したそうだ。
 北韓内にも‘恋愛小説’はあるが、南韓ほど興味津々な物語を展開しない。これは他の芸術作品も同様で、扇情的だったり、暴力的な語は扱えないためだ。ベストセラ-と呼ばれる本が存在するというよりは、学校で必ず読むべき金日成、金正日関連図書を多く読むそうだ。

 本は図書館で

 南韓のように本を別に売る書店は珍しいので、本を読むためには学校の図書館または地域にある地域図書館を利用する。しかし、規模が小さいので読者を全て収容出来ず、希望の本を借りるまでが容易でないそうだ。そのため、どんな本が人気があり、多く読まれているのかを見当つけるのも難しい。

 作家の道

 南韓では作家の層が多様だ。大学を出た人、主婦、学生等。皆が作家として登用されなくても、誰であれ簡単に文章を書き、本を出せる。反面、北韓で作家になるためには、まず大学を出なくてはならない。大学で関連専攻をした者だけが作家になれる。しかし、特別な場合には、金正日の生誕記念日に行なわれる公募に入選することもある。だが、作家に登用されるのではない。ただ、こうした経歴が蓄積されると大学に進学する時、助けにはなる。89年度には即興詩がとても上手な7歳の子供が話題になったりもしたそうだ。
 作家に対する待遇は、全ての芸術家と同様に良いようだ。その理由は、全ての芸術作品が国家と連結されているためだ。文学、映画、歌劇等が国家体制と思想を宣伝する道具として使われ、これを上手く表現し、讃揚する場合には、家も貰え、勲章も貰えるようになるそうだ。

インタビュ- 心を分かつ人々/徐チャンノク高麗大学校国際大学院院長    

 
北 韓 人 権 を 越 え て ア ジ ア 人 権 へ                   
高麗大学校国際大学院院長であり北韓人権市民連合理事、アジア人権センタ-副所長として活発に活動されている徐チャンノク教授にお会いした。高麗大学校国際大学院院長室に入って背の高さにまず驚き、柔和な笑顔に次に驚き、素敵な夢に三番目に驚いた。リポ-タ-たちの夢についても聞きながら、後日、グロ-バル舞台での再会を約束しながら終えたインタビュ-は以下の通りである。

  インタビュ-整理・写真:呉ウンチャン、金ヒユンニュ-スレタ-リポ-タ-

NKHR:2005年から北韓人権市民連合で理事として活動されてきましたが、市民連合とはどのようにして縁を結ぶようになられたのでしょうか?
徐チャンノク教授(以下 徐):2005年頃、偶然、北韓人権市民連合で主催する国際会議にパネラ-として参加するようになったのです。その時、衝撃に近い感じを経験したのです。スタッフとボランティアたちが何の代償なく、情熱一つだけで夜を明かして働く姿に深く感動したのです。普通、2億必要な国際会議がボランティアの純粋な情熱のおかげで7〜8000万ウォンの費用だけで行なえたという事実にも驚きました。その力がどこから出てくるのか気になって、彼らと夜明けまで解釈しながら、多く話し合いました。こうして見ると、自然にNGOに深く身を置くようになりました。しかし、大学時代から公的な領域について関心が強かったのは事実です。少なくても、それぐらいになれば、自分自身が私的領域に行くのか、公的領域に行くのか、考えなくてはならないでしょう。教授になるとは思っても見なかったけれど(笑)。

NKHR:以前、アジア人権センタ-とのインタビュ-で北韓人権市民連合が持つ限界について言及されていましたが、より具体的にお話下さい。
徐:人々が北韓人権についてはよく知らなかったのです。それで、北韓人権市民連合が国際社会にこれを知らせるためのキャンペ-ンと国際会議等を通じて多くの努力をしました。しかし、北韓の人権改善をもたらすために、それだけでは決して十分ではないのです。北韓社会は、相変わらず閉鎖的なために、国際社会の認識改善のみならず、北韓社会を賛同させるための積極的な措置が必要なのです。

NKHR:では北韓人権市民連合はどのような方向に行くべきでしょうか?
徐:例を挙げれば、ノルウェ-のラフト財団のような場合は中立を維持するところでしょう。もちろん、若干、リベラル指向があるといえますが。ところが一昨年ノルウェ-で開催された国際会議で、北韓社会をこの問題に参与させなくてはならないという主張が出ました。今は新しいアプロ-チ方法が必要だということです。北韓を敵にして、北韓を悪いという類の国際社会の雰囲気作りは、決してこの問題を解決するのに役立たないでしょう。今は文学と芸術のような政治的なものが排除された領域でのアプロ-チ方法を通じて、北韓社会をこの議論に参与させるべき時でしょう。しかし、問題はこうした運動を主導するのは、たいてい米国の保守団体だということです。保守性向をもつ団体では、こうした新しいアプロ-チ方法に対しては嫌うのです。

NKHR:こうした新しいアプロ-チ方法には、どのようなものがあるといえるでしょうか?
徐:より具体的にお話すれば、保守だけ固まるのではなく、皆が一緒にやって行くことです。我が国を例に挙げれば、ろうそくデモに出てきた人々を全員賛同させれば、恐らくより大きな力量を発揮できるでしょう。すなわち、このために北韓人権市民連合からアジア人権センタ-が出て来たのです。保守、親米等の政治的指向が少しでもあれば、運動を進めるにおいて政治的限界にぶつかるようになるでしょう。しかし‘人権’という普遍的価値を持って進めれば、政治的な制約と限界から自由になれます。代理関心が少なくなるという問題はありますが。それでも、私たちの究極的な目標は人権なのです。北韓の人々をより良く生活させようということなのです。ところが北韓人権という単語自体が政治的な脈絡で利用されることは胸の痛む現実です。我が国や国際ネットワ-クでもリベラルと保守の葛藤と限界を克服するのが本当に重要な論点となっているのです。

NKHR:北韓社会の参与をどのように誘導出来るでしょうか?
徐:ラフト財団で話したことは、北韓の当局者と政府官僚たちも共に議論しようということです。もちろん、反対の声も高く、これに対し憂慮する立場もあります。
容易いこととは思いません。もちろん、進めることは難しく、進められたとしても
様々な難関があるが、北韓社会と人権に関する対話が皆無だったのだから、対話が
始まることだけでも、既に半分の役割は果たせたものと思います。

NKHR:対話をするようになれば、改善される点が多く生じるのではないでしょうか?
徐:しかし、金正日政権の構造下では、困難が多いでしょう。他国の人権改善辞令を調べてみるとその国のNGOに浸透して人権改善を遂行するのです。我が国の民主化も米国、日本等の勢力と連携して、その力を拡張させることが出来たということです。ところが、北韓内にNGO団体が自生するのは不可能です。

NKHR:新しいアプロ-チ方法について力説されていますが、その方法についてもっと具体的にお話下さい。
徐:我が国の80年代は、民主化を遂行するための闘争の時期でした。しかし、21世紀の韓国で、そして人権活動は、もはや闘争の方式で前進出来ないでしょう。国際会議を通じて声明書が発表される等の方式は、もう古いのです。21世紀の新しい運動力は、最近起こったろうそく集会のように、祝祭のように楽しく、自分たちの意見を表出する場として現われるものです。そして、それが私たちが果たすべき課題であり、任務です。北韓人権市民連合で主導したコンサ-トとキャンペ-ンは、こうした脈絡から理解してみる時、対象を理解し、参与を誘導する新しいアプロ-チ方法を上手く見せてくれた例といえるでしょう。

NKHR:世界市民社会のためのNGOの新しいアプロ-チ方式と関連して、一言お願いします。
徐:人権のためには、世界市民化の役割がとても重要です。だが、アジア地域には市民社会の発達が未だ微々たる状態です。しかし、韓国は他のアジア諸国と比べて見る時、相当発達した水準と言えるでしょう。経済成長と民主化を同視して成し遂げた国として、外国ではとても尊重されています。そして、私たちがアジアの中心からこうした運動を主導して行くべき使命を持っています。現在、アジアの各国の中に、散発的に存在している力量を一つのネットワ-クにして、より効果的な成果があればと思います。

手記

私 は ブ ロ - カ - だ っ た ⑤

                 ユサンジュン                               <脱北同胞、活動家、2000年韓国入国>

(写真出典:スポ-ツカン)

この手記は1998年4月北韓を脱出し、2000年韓国に入国した脱北同胞であり活動家であるユサンジュン氏が、中国で脱北同胞移住活動を始めたが、2007年8月中旬中国公安に捕まり、12月16日追放されるまでの生活を日記形式で作成したもので、本人の許可を得て本会のニュ-スレタ-に掲載する。

 全てが順調に行きそうだったが、林東に行くバスが通遼を少し離れて故障が発生したようだ。バス後部の蓋を開け、スパナでねじを外して緩め、Vベルトをとった。合わせるのを見て、列車時間に間に合わす、私はウンシムに“タクシ-を捕まえろ、行き先はカイルで料金は150元払うと言え”と言い、私もタクシ-を捕まえるために道端に出た。内モンゴル地域の都市外郭地なので行き交うタクシ-も少なく、空車を見つけてもカイルに行きたいというと、運転士たちは行けないと言った。通遼からカイルまで150元の料金なら少なからぬ金額だが、運転士たちは行こうとしなかった。

 私が列車時間に遅れそうなので気が急いて落ち着かずにいたところ、バスの修理が終わったと言った。車の修理には少なくても40分以上かかるのだった。急いでいる私たちの気持ちを無視したまま、バスはのろのろと舗装されていない道路を走った。私はずっと時計を見ながら、列車時間に間に合うだろうか? もう少し早く走って10〜15分の時間さえあれば列車に乗れるだろうにと思った。

 私たちが乗ったバスは、遂にカイルに到着した。私は列車に乗り遅れたと思って次の列車時間を確認して切符を得るために、ヨンオクとカルリャンはバス停近くに待たせ、自分とウンシムは三輪車に乗って駅に向かった。ウンシムは青島に住んだ経験があって中国語も大丈夫で、表情が明るく、一緒に行くのによかった。私たちが駅近くに行った時は既に列車は出発していた。私たちはゆっくりと駅に入り、次の列車の時間を確認して切符を買い、再び来た道を戻っていった。約束の場所でカルリャンとヨンオクが焦燥した気持ちで私たちを待っていたように、嬉しそうに笑顔でうまくいったかと聞きながら近付いてきた。

 私とウンシムが一組、ヨンオクとカルリャンが一組の二組に分かれて、私たちは周辺の広場と産業通りを回りながら時間を過ごし、列車内で飲む水と軽食を買って、三輪車で駅前に向かって出発した。駅前に到着して待合室に入ると、他の時に比べて平穏な雰囲気だった。出入口で手荷物を検査する役務員の姿もなく、待合室を巡回する警察官も見えなかった。私たち一行は、改札口近くに座っていて、私はヨンオクに手荷物をすぐに調べろと言っている時に、ヨンオクの近くに座っていた一人の青年が私を直視しているようだった。私も彼を見ると、18歳になるかならないかの青年で、端正さが漢族らしからぬようだった。今日は駅内に人が少なく、ガランとした感じだった。暫らくして私たちが改札口を抜けてホ-ムに出たところ、数名の身なりが目を引いた。

 待合室で見た端正な青年とその前に歩いている太った女性はズボンを膝が出るようにはいていたが、一目で他所から来た人間と分かった。彼らと少し離れて、背が低く弱々しそうに見える女性が黒い小さなリックを背負って、太った女と青年について行くのが一目で分かった。彼女が背負っているリックは延辺で学生たちが背負って通学するもののように見えた。私がいつも利用する駅なので、列車が停まる位置に行ったが、今度は青年と太め女性が私たちの方を見ていたが、リックを背負った女性も私たちの方に振り向いたのだった。

 ウンシムとヨンオクが“先生、あの人たち脱北者です”と言ったのである。私が見たところでも彼らは明らかに脱北者だった。中国人たちは自分と関係ないことについて知らせず、関心もなかった。ところが彼らは立ちふるまいもおかしく、順番に私たちの方を振り向くのである。
 恐らく端正な青年が太った女性に、私たちが朝鮮語を話していると言ったようで、彼の目に私たちの行動がどこか疑わしがっているようだった。私たちが列車に乗ってすぐに席を取ったが、後から列車に乗った太め女性が私と目が合うやいなやにっと笑うと、振り返り一行を後に押すようにして、私たちと少し離れた場所に席を取って座った。私は瞬間に、あの女性が2006年12月25日に二連浩特であったことのある女性だと分かった。私たちは窓側に席を取って座り、私は、今列車でこういう場合にはこうする等、車内で注意すべきことを教えて太った女性の方へ行った。

 その女性たちは私たちと二間向こうの窓側に席を取って座っていたが、皆、顔には不安な様子が窺えた。しかし、そこに私が突然現われると、青年の目が大きく開いて私を見つめ、病んでいるように見える女性は私を横目で見て、顔を窓側に向けて手で頭を支えて知らんぷりした。太め女性は既に私を知っているというように少し頭を下げて挨拶しながら笑った。私は女性の隣の席にためらわず座って、どうやって来たのか? この先どの列車便を使うのか? 等を聞いてみた。
 女性は、列車が朝に着いたら、すぐにバスに乗って二連に行くつもりだと言うので、私はバスで行ったら事が失敗するので、必ず車を乗り換えて行くように教えてやった。太め女性は前に座っている脱北者を落ち着かせて、自分を信じさせようとそうするのか、自分に人々を連れて行ってもよいという延辺州公安局長の紹介状があり、二連浩特の辺防隊隊長が自分の友人だ、それで自分たちは行って取り締まられても何事も無いと大口を叩いた。

 私は、脱北者を落ち着かせて自分を信じさせようと、そのように出来もしない嘘を言う太め女性が憎くたらしく、その言葉をそのまま信じてついて来た脱北者が哀れで気の毒に思えた。私は太め女性に気を付けて上手くやれと拶をした後、自分の一行のところに戻ってきた。太め女性は二連についてついて何も知らない。ただ、私が彼女のリ-ダ-になる者に教えたことにそのまま従い、金を節約して簡単にやればよいという風に動いたようだ。太め女性に対する良くない噂を聞いたことがあったが、こんなどうしようもない嘘で大口を叩く女だとは思わなかった。

 私が朝食を買って一行に食べさせなくてはならないから行くというと、自分たち一行は食事をしないと言った。私だけ一人列車のカウンタ-に行って注文して食事を持って来て、私たち一行に食事を供給した。何故か太め女性に会ってから不安な
気持ちになり、気分が良くなかった。列車が集寧に到着すると、太め女性は自分の
一行を率いてバス停留場に行き、私はいつも利用する兄弟コンピュ-タ-室に一行を連れていった。
 兄弟コンピュ-タ-室は、内モンゴル地域では珍しく良く設えられていて、利用客は多く見えなかった。私はコンピュ-タ-二台を申請して、一台に二人づつ座らせてコンピュ-タ-を利用させた。10時までここで時間を過ごして、昼食としてパンと菓子、バナナ、飲料だけ少し買ってバスに乗れば良いのである。
 今からは言葉一つにも注意しなくてはならず、喋らないのが一番良い。バスでは目的地を告げ、切符を買うことは私が現地人のように話せた。私は一行に、今からは特に注意しなくてはならないと強調し、私たちがここまで来たように、互いに助け合いながら上手くやろうと言った。睡眠も満足に取れずに走りに走った私たちは国境都市二連浩特にまで行くことが出来た。私はどんなに考えてみても、これといった欠点がなかったので、誰かが私たちを告発したのだ。私たちを知っているのは、太め女性であり、彼女だけが私たちが乗った列車と時間を知っていた。 <続く>

北韓人権 128号(上) 

└ 2008-11-28 08:46

NKHR Newsletter

北  韓  人  権 128号(2008年11月号) 

www.nkhumanrights.or.kr

社団法人 北韓人権市民連合
Citiens’Alliance for NorthKoreanHumanRights
110-090
ソウル 鍾路区橋北洞10-22  シムジビルディング3階
電話02-723-1672、2671 Fax02-723-1671 

巻頭言
                         
二 人 の 女 子 高 生 の 脱 北 者 愛 の 実 践                                    
                    ▲尹玄理事長と共に二人の女子高生

 10月18日、江南のあるビルの会議室で‘脱北青少年に対する理解と後援のための交流の場’というイベントが行なわれた。韓英外国語高等学校1〜3年生30名を対象に実施した青少年統一意識調査の結果を発表し、絵画を展示・販売するイベントだった。成人、高校生30余名が参席した小じんまりとしたものだった。
 しかし、驚いたことは、このイベントが韓英外国語高等学校3年に在学中の二人の女子高生によって企画されたという事実である。発表を担当したのは金ジャウォンさんで、絵画は金スミンさんが描いた。絵画の売り上げと賛助金115万ウォンが集まり、北韓人権市民連合の脱北青少年支援基金口座に振り込まれた。
 発表に先立って、金ジャウォンさんは、何故こうしたイベントを企画したかについて説明した。金さんの祖父は黄海道信川が故郷で、解放後、自身の母親、伯母を連れて越南したが、その時、父親と叔父は故郷にそのまま残るようになった。そのため金さんはいわゆる失郷民3世代になる。
 祖父と一緒に暮らした関係で金さんは黄海道信川に関する話を多く聞き、祖父が残してきた家族を恋しがる姿を目にしていた。
 4月に金スミンさんと一緒に開城観光に出掛けたが、遠い所だと思っていた開城が、バスで一時間30分しかかからない近い場所で、黄海道信川が開城から僅か一時間の距離だという事実にとても驚いた。そして開城の空、山、樹木等、周辺の風景が全て馴染みあることに再度驚いたそうだ。
 北韓について、もっと多く知らなくてはという思いで、二人の女子高生は、7月北韓人権市民連合が主催する‘脱北同胞支援ボランティア修練会’に参加した。脱北青少年たちと2泊3日を共に過ごしながら、北韓の実情と脱北同胞の困難な事情を生々しく知ることが出来た。そして‘自分と関係ない人’‘飢えから逃れるために韓国に来た人’から‘自分が認め愛すべき人’‘韓国社会に適応出来るよう支援すべき人’へ、脱北同胞に対する認識が変わるようになった。
 青少年統一意識調査中、脱北同胞に対する韓英外国語高等学校の学生たちの認識も肯定的だった。‘人権を尊重されず去った人’‘同じ民族なので’‘統一を早く成し遂げるために’政府と国民そして自分たちが脱北同胞を支援しなくてはならないのである。
 脱北同胞に対する我が社会の無関心が指摘されている中で、このように脱北同胞愛を実践している若者たちが私たちの周囲にいるということは、この上なく喜ばしいことではないか。

キ ャ ン ペ ー ン          
                  
 ▲10月4〜5日、京畿道安城市金剛農場にて1泊2日で同胞季節学校同窓会が
実施された。夏と冬の季節学校以後、各自の日常の場に戻っていった脱北青少年学生20名と全ビョンホン、イムビョンウ、柳デリムの正教師3名、朴ボムジン顧問が参加し、安城男寺党岩棚祝祭を観覧し、サバイバル体験等を行なった。

 ▲10月13日、米国巡回公演を終えて帰国したピアニスト金チョルウン氏が、米国での募金1000ドルを脱北青少年支援基金に伝達した。北韓人権市民連合の広報大使金チョルウン氏は、10月2日米国マンハッタン音楽院、6日ワシントンDC国務部、そして8日ボストン大学で巡回公演を行なった。伝達された基金は巡回公演中、米州中央日報張ドソン記者と在米同胞韓ソンウン氏の連携で、ワシントンDC韓人監理教会で開催された脱北青少年のための演奏会を通じて募ったものである。

 ▲10月20日、北韓人権市民連合研究理事である許マンホ慶北大政外科教授と
金ヨンジャ事務局長が、タイチュラロンコン大学国際関係学科が“北韓の人道的情況”というテ-マで主催した国際学術会議に参加した(活動報告3頁参照)。
      
 ▲在中脱北難民ための来る厳しい冬の服送りキャンペ-ンにより、衣類が寄贈され、10月13日一次として成人衣類47点、児童衣類121点、帽子、靴下を始めとしたその他の物品44点が中国で活動している方に伝達された。

 ▲10月6〜29日、在中脱北青少年2名のための募金が行なわれ、総額3,804,190ウォンが寄せられた。韓国行きを待機できる第3国に彼らが安全に移住出来たという報せを伝達された。

 ▲10月27日、国連北韓人権特別報告官ウィティット=ムンタボ-ン教授が来韓して行なわれたNGO懇談会に金ハクミンキャンペ-ンチ-ム長、李ヨンファン調査研究チ-ム長と朴スジン幹事が参席し、10月31日プレスセンタ-で開かれた記者会見に金ヨンジャ事務局長が参観した。
 ▲10月31日、諸ソンホ人権大使と共に行なったNGO集団会に金ヨンジャ事務局長、李ヨンファン調査研究チ-ム長、朴スジン幹事が参席した。

2008年10月マスコミに登場した北韓人権市民連合
9.30 ・京郷新聞|親与メディア団体、相次ぐ出帆…、李政府‘前衛隊’論難
10.27・ウィ-クリ-朝鮮マガジン|2027号〔社会〕脱北大学生、彼らの夢と悩み
10.31・DailyNK|民間機構‘北韓人権財団’絶対必要
10/11号 ソウル大マガジン|通巻第93号〔特集〕脱北者は永遠の‘2等国民’-無責任な定着支援の中で国民として堂々と立つ場を失う

活 動 報 告              

                         
タイ・チュラロンコーン大学にて開催された北韓人権国際学術会議に参加して  
                               
2008年10月20日(10:00〜19:00)タイ・バンコクにあるチュラロンコーン大学(ChulalongkornUniversity)政治学部国際関係学科で“北韓の人道的状況(Humanitarian Situation in NorthKorea)”というテーマで国際学術会議を主催した。東南アジア各国の中でも中国を逃れた脱北難民が大挙経由するタイは、北韓難民問題において、外交的、社会的に注目すべき国家である。タイの各大学の教授と北韓人権問題の専門家として活躍中のタイ人権委員会の弁護士(少数民族・無戸籍・移住労働者・失郷民小委員会)と日本、韓国から発表及び討論者が参加し、約50余名が聴衆として参席した。小規模ながら真摯で熱を帯びた討論が続いたバンコクの国際学術会議に、韓国からは北韓人権市民連合研究理事である慶北大学校政治外交学科許マンホ教授と北韓人権市民連合金ヨンジャ事務局長が参加した。

                           金ヨンジャ                            <北韓人権市民連合事務局長>

 19日夜、飛行機で仁川を出発し、機内で許マンホ教授と落ち合い、20日深夜1時頃にバンコクに無事着き、明け方3時ごろにやっとホテルに到着した。簡単に旅装を解いて寝床に入った。
 20日早朝からセミナーに参加するため、大急ぎで、朝食もそこそこにホテルを出てチュラロンコーン大学に到着したが、まだ午前9時にならなかった。チュラロンコーン大学のスラット教授と挨拶を交わし、日本から来られた真鍋貞樹博士(東洋英和女子大学)、川嶋高峰博士(明治大学)と名刺交換をして、つづいてタイのワリントン=ウーウォン教授(タマサート大学教養学科)、海老原智治教授(チェンマイ大学)、チャイヤティップ=カチュラ教授(チェンマイ大学)、プロムラク=サッピチャイモンコル弁護士(タイ人権委員会委員、弁護士)と挨拶を交わした。

特にチェンマイ大学の海老原教授は、去る9月にタイで初めて開催された北韓人権関連の国際会議を組織された方なので、その熱意が全身から感じられたりもした。参加された方の中には英語で刊行された“北韓の政治犯収容所でどんなことが行われているのか(Are They Telling Us the Truth?)”をタイ語に翻訳された方もいらっしゃり挨拶を交わすことが出来た。
 午前10時から始まり、午後7時まで行われた今回の国際学術会議は、講義式セミナーで進められ、タイで拉北された女性の写真と事情を記したものを屏風に仕立てて往来する人々が皆見られるようロビーに展示した。タイ語になっていて読めなかったが、写真等を見ながら、その内容を推測出来た。

 第一セクションに先立ち、チュラロンコーン大学SuratHorachaikul教授は、2007年9月タイで初めて北韓人権関連の国際会議が開催された時、参加して関心を持つようになり、2008年1月第1回国際学術会議を開催し、その時は脱北者3名を招請して証言を聞く場を設け、これ以上沈黙してはいけないと思ったと語った。そして2009年1月にも活動家を中心とした国際学術会議をタマサート大学とチェンマイ大学、チュラロンコーン大学共同で開催する予定だと語りながら、こうした北韓人権関連の国際会議を中国では好まないだろうが、これは私たちが介意しないことであり、会議は続けられるものだというスラット教授の素晴らしい一言に感動した参席者たちは拍手を贈った。

 第一セッションは“政治犯と脱北難民に対する人権侵害(Human Rights Violation on Political Prisoners and North Korean Refugees)”というテーマで、タイ・チュラロンコーン大学SuratHorachaikul教授の司会で行われ、最初のパネリストである許マンホ教授は、準備して来た論文を40分ほど提議し、50分にわたる質疑応答を通じて敷衍説明をした。特に北韓住民たちが北韓を脱出せざるを得ない“push effects”として“成分”という階級差別政策とその派生効果として現れる経済的、社会的、文化的権利の体系的侵害と、脱北者たちが北に送還されて受ける処罰として拷問とその他非人道的処遇、そして政治犯収容所での各種人権蹂躙について詳細に紹介した。北韓の政治犯収容所について参加者たちのより深い理解と情報の信憑性を提供するために、歴史的、政治社会的背景の説明と旧ソ連、中国、ベトナム等の場合と比較説明をし、この政治犯収容所こそ非効率的な北韓の独裁体制が維持出来る圧制道具であるという点を強調した。

 二番目のパネラ-である日本・明治大学の川嶋高峰教授は“大量脱北(The Exodus from North Korea)”というテーマで1990年初から脱北の歴史を説明しながら、2002年脱北者たちの中国大使館侵入等が脱出の転換点だという点、2002年以後の反構造化時代(the semistructured period)”を迎えている点について発表した。

 最初のセッションで提起された注目すべき質問は以下の通りである。まず北韓内に金正日に対する住民たちの自発的同意(voluntary consent)が実在しているが、これはどのように説明すればよいのか? 次に北韓当局が国内的に情報統制していて、住民に対する管理が徹底しているにも関わらず脱北者が増えていて、女性脱北者の比重が高まっている事実は北韓当局が現在の状況を利用しているのではないか?
 これに対し許マンホ教授は、社会主義体制が樹立する前に市民社会経験が部分的にでもあったヨーロッパとそうでないアジア共産主義社会間の差異と、政治犯収容所の役割で説明した。そして二番目の質問に対しては、不正腐敗によって北韓政府当局の北韓住民に対する統制がそれほど効果的ではなく、最近の間諜事件によってこうした誤解があるが、これはどこまでもごく少数の部分的な側面に過ぎず、こうした誤解がややもすれば脱北者全体に対する認識を歪曲し、彼らをさらに困難にする点を強調した。

 熱を帯びた議論が時間が経つのも忘れ、12時を軽く越え1時になってようやく昼食をとれるようになった。校内に用意された昼食は、タイ式にカレーとビーフン、焼き魚等で、とても美味しくいただいた。昼食時間が短くて参加者たちと話す時間がなく、すぐにセミナー室に向かった。

 第二セッションは“拉北者に対する人権侵害(The Human Rights Violation on the Abductees)”というテーマで、タイ・チュラロンコーン大学SuratHorachaikul教授の司会で進められた。最初のパネラ-である許マンホ教授は、6.25戦争中そして戦後に北韓当局によって恣行された南韓民間人及び軍人に対する拉北・抑留について、歴史的資料と北韓の戦争政策及び世界社会主義革命のための“3大革命力量強化路線”で説明した。

 二番目のパネラ-である東洋英和女子大学・真鍋貞樹博士は“北韓の汎世界的拉致(World Abduction by North Korea)”というテーマで、世界12カ国から北韓に拉致された人々の数、拉致過程、介入人物等について1時間にわたって詳細に説明した。真鍋貞樹博士は、日本人が100名以上拉北されたものと推測した。

 第二のセッションで注目すべき質問は、北韓当局が何故女性を多く拉致したのか、何故拉致した外国人同士結婚させて子供を生ませたのか、彼らの子供たちを間諜やその他特殊目的に活用しようとしたのではないか等だった。

 これに対し、パネラ-の回答は以下の通りである。一般的に拉致被害者は子供、女性のような抵抗力が弱い人々ゆえに、拉北被害者の中に女性が多いが、日本人、韓国人拉北者の場合、女性に局限されなかった。少数国籍者の場合、就職を餌に縁故がない女性を選んだために、女性が多かった。しかし、彼女たちの場合、何故女性を選んだのかは、今のところ分からない。ただ、特殊な目的に適合したためと推定される。外国人同士結婚させたのは、被拉者の身上秘密を北韓住民に知られないようにし、被拉者管理を容易にするためと思われる。子供を儲けることで脱出を企てないようにしたと推定されるが、これはどこまでも推測であり実証的な主張ではない。これまで被拉者の子供たちをある目的、特に間諜として派遣した事例については明確になったものはない。

 こうしてセッションは終わり、言葉で説明しなくても、脱北した動機と家族たちの哀切な事情を一目で見られる映画“クロッシング”が上映された。ある人は溜め息を、ある人は涙を、ある人は残忍な場面を見るに忍びずにうなだれている等、英語字幕でも全ては理解出来なかったが、言語の制約のない映像で見られる脱北過程の苦しみがそのまま伝わってきて、全て感じられるために、もはや何も言えないようだった。
 最後にチェンマイ大学の海老原教授が北韓の構造すなわち何故脱北するほかなかったのかについて説明をしてくれた。北韓社会は、無料治療だが実際は行われず、全て本人が闇市場で薬品を購入して病院に行かなくてはならないという話と、その金が無く、脱北して中国公安に追われながらも、家族を生かすために金を稼がなくてならない実情だという話と共に、国際学術会議は閉会した。今回の会議は、司会者が進行しながら、発表者が1時間程度自分の考えを十分に発表し、聴衆が自由に質問する時間を設けた。パネリストたちが充分に自分たちの考えを伝えることの出来る良い進行方式だと思われ、私たちも時間に追われないこうしたセミナーを行うのもよいだろう。

 今回の会議は派手な照明でも垂れ幕でもない、文字をプリントして壁に貼り付けて作った誠意のこもった垂れ幕と、多くの人々が参加しなかったがその熱気だけは通常の学術会議より熱さを感じた。こうした会議が世界各地で開催されれば、北韓人権問題は自然に解決されるものと思われ、今後、こうした熱気あふれる会議に参加し、世界の人々と北韓人権問題を解決して行くことを期待したい。

活 動 報 告  国際指導者訪問交流プログラム-3            

                         
自立と自信を通じた人生に対する希望探し              
   米国バ-ジニア州シャルロットビルを通して見た地域レベルの難民定着支援

                    金ハクミン         
                 <北韓人権市民連合キャンペ-ンチ-ム長>

 国務部で一日の日程を終えた後、感想を聞きながら、韓国と日本対民外交担当者
は、韓国に定着した脱北者たちを初めて参与させたこうした交流プログラムが率直にいって可能なのかは分からないが、将来、北韓の人々を対象に行なったらどうだろうかと意見を求めた。そして最近発表された米国の統計資料によれば、民間交流レベルで米国に留学している北韓国籍出身者たちは約200名と集計されたそうだ。北-米間民間交流が皆無ではなく、米国国務部レベルでもこうした交流の可能性を開き、考慮している点が“ソフトパワ-”も重視しながら、徹底的に対策をたて、準備している米国の一面として映し出している。
 
 ギリシャ・ロ-マ式の白い大理石の建物とフォトマック川岸、桜のために、さらに綺麗に整頓された印象を与える米国の首都ワシントンDCで全日程の3分の1を
消化して、土曜日午前、約二時間余の日程を全て費やす車はバ-ジニア州シャルロットビル(Charlottesville)に向かった。人口4万人を少し越える小都市シャルロットビルは、ワシントンDCで既に確認した米国3代大統領ト-マス=ジェファ-ソンの故郷であり、教育者でもあった彼が1819年設立したバ-ジニア大学を中心に、学期中には約2万名の学生がごった返す小さく静かな学園
都市だった。

 慌ただしい日程を送ったので安らかに休める週末日程を試みたが、宿所はとても静かな-車なしではどこにも行かれない高速道路脇に孤立しているが、週末は辛抱出来るよう配慮したのか、5分の距離にフ-ドコ-トを備えた大型ショッピングモ-ルがあった。昼食を簡単に済ませると、私たち皆は四方に散らばりウィンド-ショッピングだけでなく、異常なほど無関心な店員から自由にあれこれ着て見たりもしながら、“モ-ル”の面白さに数時間も陥ってしまい、夕食時間近くになって約束をしたように自然に一ヶ所に集まり宿所に戻った(プログラム最初に参加者全員には3週間のフォ-ディエム、宿食、交通費の名目でトラベラ-ズチェック約5千ドルが与えられた。一度に貰った金なので3週間適切に一日の小遣いと食事のために計画的に使わなくてはならず、ほぼ8〜90%は宿食になったが、それでも望めばつましい“ショッピング”も味わうことが出来たようだ)。

 翌日日曜日も自由時間だったが、午前中にシャルロットビルの観光地であるト-マス=ジェファ-ソンの私邸の丘の上の家、“モンティチェロ”広場が予定されていた。青々とした丘の上に霧が立ち篭め、小雨が降る天気は、歴史上の人物の足跡
をたどるのに相応しかった。昔日に生きた姿を最大限に保存して、家の構造、家具や所蔵品、見慣れた(?)肖像画(例えばベンジャミン=フランクリンと親友なので彼の肖像画が掛かっていた)等を見学するおもしろさがたくさんあった。このように私邸が大きな観光地になったのは、歴代大統領の家としてだけでなく、自ら設計して本人の哲学と人生、趣味が溢れているためのようだ。最も印象的だったのは、壁に寝台を作り付け、足元に掛け時計をつけたことだった。これはジェファ-ソンが勤勉で寝ていながらも時計を必ず見なければならないといって、空間の浪費を嫌い、空間を効率的に使おうと、このように設計したそうだ(室内撮影は禁止されていて説明が足りないかも知れない)。翌日、私たちはモンティチェロがあるこの丘の上から見下ろせる場所にジェファ-ソンが設立したバ-ジニア大学を見学し、このような人材養成の産室で米国の移民法と反人身売買法が実際事例にどのように適用されているのか、教授の指導のもと、法と大学学生が低賃金移民者のために支援をして法律サ-ビスを提供する移民法クリニック(UniversityLawClinic)セッションを参観した。

 ワシントンDCの中央部署と関連民間機構のコンソシアムで構成された協議会等で米国の難民定着支援制度の全体的な大枠を学んだとすれば、シャルロットビルでは難民出身だった世界的科学者アルバ-ト=アインシュタインの要請で生まれた国際救護委員会(InternationalRescueCommittee,ICR)という米国最大の非営利難民定着支援機構の支部を通じて、地域社会レベルで難民たちがどのように定着支援を受けるか理解する機会が与えられた。全体的に再度米国の難民制度について復習する時間だったが、より具体的に難民出身だが最終的には米国人として定着する人々に近付いて見守りながら、一人の人間として彼らが経験した過程と特徴についてノウハウと経験を聞ける時間で有益だった。

 私たちを迎えてくれた、長い間米国務部関連部署で公職者として働いていたシャルロットビル支部のディレクタ-は、強い生命力を持つ生存者(survivor)である難民たちに一番重要なものは、自立と自足を通じて生きることに対する希望を吹き込むことだと言及した。見知らぬ人々と長い間相手をしながら、身を切る親切さと細やかさが感じたにも関わらず、ドイツやノルウェ-の福祉制度が人々を怠けさせるようにし、統合を遅らせる問題も引き起こすという指摘をする時だけは冷徹に見えた。新しい場所に定着する移民者や難民が一般的に経験する過程は、新しい環境が与える機会に対する期待と極端な欠乏からの解放を体験する“ハネム-ン”期間、現実はそのように生易しくないと皮膚でぶつかりながら感じる憂欝、怒り、不安の過程、そしてこんな現実を受け入れ、結局は新たな誓いで再起するようになる4段階であり、図式的で単純ではあるが、誰も代わってやれないことだった。しかし、育った故郷、生きることへの挑戦と愛する家族と友人を失った人々の喪失感を理解し、これを克服出来るよう扶けることが定着支援過程中で最も重要だと再度認知させてくれたりもした。

 性急に一般化させてはならないが、米国の自由主義は極端に冷徹なほどに徹底的に個人主義的であり、競争主義社会に感じられた。言語障壁もあり、各自の出身国での様々な事情のために教育を満足に受けられなかったり、熟練技術が不足した難民出身者の大部分は、ホテル等各宿泊施設でメイドとして働いたり、食堂で働き始め、誠実で正直な人々だけが、また新たな仕事を求めたり、技術を身に付けて米国社会に暮らして成功的に定着して行くそうである。制度が備わっていても完璧でない点は、地域的な差異から始まる誤解と葛藤であり、これは各事例別に難民定着支援制度ではなく社会全般的に、或いはそれぞれの専門分野で解決を模索すべき課題だった。多くの精神的、身体的外傷を被った人々を相手にしながら、ディレクタ-は迎え入れる全ての難民と人々の経験に個人的に没頭して受け入れるのも不可能であり、このようにして支援することは出来ないと忠告もしてくれた。

 実はシャルロットビル難民定着支援を担当しているIRC支部を通じて、その地に定着した脱北女性に会えないだろうかととても期待した。‘ヨンスク’氏に韓国からお客が来たと参席を要請したりもしたが、彼女は多くの人に会うのをひどくためらったそうで、彼女の意見を尊重して面会を強要しなかったそうだ。幸い‘ヨンスク’は英語の勉強も誠実に行い、勤勉で適応が特に早いそうで、シャルロットビルに来てどのくらいになるか正確に覚えていないが、ニュ-ヨ-クに行く準備をしているそうだ。韓国の留学生たちもいるにはいる所だが、薄曇りの天気でさらに物寂しいほど静かで小さなシャルロットビルでの暮らしは、遠く北韓から来た‘ヨンスク’には、ことさら寂しくないだろうか? どうして違うだろうか? 大きな名残惜しさが心の片側を占めたシャルロットビル訪問だったが、多様な経験を個人的に親しみ分かち合ってくれたIRCでのミ-ティングは多く学ぶ時間だった。






     
     









北韓人権 127号(下) 

└ 2008-10-24 11:22

 北韓知識⑱

                        
北 韓 の 映 画                      


映画振興委員会が今年のアカデミ-映画賞韓国出品作として、脱北者の哀感をありのままに描き出し、全国民に多大な感動を贈った金テギュン監督の‘クロッシング’
を選定したなか、北韓はどのような内容の映画をどのように上映し、撮影するのか
について気になった。そこで今号のテ-マを北韓の映画にしてみた。

整理:李ヒョンス、李カラムニュ-スレタ-リポ-タ-

凱旋映画館の外観(出典:次のブログdazz2663)
                            
                         
 映画人も労働者

 北韓の全ての芸術団体が一定の機関に所属しているように、映画俳優や演出家を始めとした映画人たちは、映画撮影所に所属している。北韓の映画撮影所としては、芸術映画を主に制作している朝鮮芸術映画撮影所と4.25芸術映画撮影所が最も大きく、児童映画を制作する朝鮮科学教育撮影所傘下で、白頭山創作団、普天堡創作団、月尾島創作団等、別途の創作団が切り回していて、主要作品はこれら創作団を中心に制作されている。北韓の俳優は、南韓の俳優とは異なる待遇を受けている。もちろん功勲俳優や人民俳優になれば全ての待遇が異なるが、彼らを除く大部分の俳優たちは、一般労働者と同じく映画撮影所に出退勤をして、一日一日を何とか生活して行く労働者に過ぎない。

 映画制作過程は?

 各創作団は、朝鮮文学芸術総同盟で選抜されたシナリオを持って作業をするようになり、創作団別に撮影から編集、コンピュ-タ-グラフィックまで可能な制作設備を持っているそうだ。全ての制作費用は、党と国家から支援されるために、北韓の映画人たちは南韓の映画人より商業的な興行プレッシャ-のような負担が相対的に少ない。これは言い換えれば、北韓の映画産業は国家的事業であり、映画の宣伝煽動性を考慮する時、朝鮮労働党の文芸事業中の主要な部門であることは間違いない。
 
 北韓の国際映画祭?

 ただ、このように映画制作のみ活発に行なわれているのではなく、平壌で2〜3年周期で国際映画祭も開催されている。2008年に開かれる平壌国際映画祭は、9月17〜26日‘自主、平和、親善’をテ-マに長篇、ドキュメンタリ-、短篇等、部門別作品競合と共に特別映画上映と映画交流のための協議が行なわれるそうだ。

 どこで上映されるのか?

 平壌には大同門映画館、凱旋映画館等、比較的多く映画館がある。また、市・郡文化会館、工場・企業所、協同農場、少年会館、文化会館、移動映写台でも映画を観覧出来る。このように映画を上映出来るインフラが備わったところは、合わせて
約5000余ヵ所になるそうだ。

インタビュ- 心を分かつ人々/金ホジュン前国家人権委員会常任委員     

 
北韓住民の人権向上のための努力、人権先進化国家を遂げる道         

  インタビュ-整理・写真:呉ウンチャン、金ヒユンニュ-スレタ-リポ-タ-                 
 NKHR:今年3月、北韓人権市民連合顧問に推戴されましたが、市民連合とは
どのように縁を結ぶようになったのですか?
 金ホジュン委員(以下 金):国家人権委員会(以下 人権委)で盧武鉉政権時代、当時野党だったハンナラ党の推薦で人権委員になりました。当時、盧武鉉政権
は、国連で北韓人権問題を扱うことに反対し、北韓人権に対して無視し、沈黙することで一貫しました。しかし、私は北韓人権問題を積極的に扱うべきだという立場
でした。人権委での任期が終わると、私と同じ考えをしていた北韓人権市民連合から連絡が来ました。

NKHR:特にどのような面で同じ考えをしていたのでしょうか?
金:脱北者支援事業に対して同じ考えでした。中国に来た脱北者たちを強制北送することに反対し、脱北者に国際法上の難民地位を付与して自由に彼らが暮らせるよう支援すべきだという立場を堅持しています。

NKHR:人権委では北韓人権に対して、どのような立場をとっているのですか?
金:盧武鉉政権では、国連で北韓人権問題を扱うことに反対しました。しかし、私は我が国の政府が金正日政権に対し、北韓人権について明白な立場を表明すべきだという立場でした。当時、人権委はいわゆる左派陣営が多数だったために、人権委が独自的に北韓に対する意見表明すべきだという意見が採択されませんでした。ただ、政府を相手に韓国にいる脱北者たちに対する意見表明することに狭められました。お陰で私は一人孤軍奮闘する委員として記事に多く登場したのです(笑)。

 NKHR:では、我が国の政府が立場表明することが影響力をどれだけ及ぼせるでしょうか?
 金:国際社会では既にこのように要求して来ました。ところが我が国の政府がそれに同調しなかったのです。私たちが公式的に立場表明をすれば、国際社会の立場
では大きな援軍を得られるのです。そして北韓人権に関するより大きな圧力になる
でしょう。一方では北韓人権問題を議論するのは内政干渉することだというが、人権は普遍的な問題であるため、主権よりも先立つものだと思います。人間の基本的な権利であるため、こうしたレベルで見てはいけないのです。

 NKHR:北韓社会に接近するのが容易くないなか、北韓の人権実態をどのような経路で調査するのですか?
 金:主に脱北者たちに会って北韓社会の人権実態について詳細に聞きます。そして北韓の法典を見れば、基本権を不当に侵害する条項があるのが分かります。その他にも国際人権団体や統一部、国政院のような国家機関でも情報を得られます。

 NKHR:最近はどのようなことをされていますか?
 金:中央アジアの高麗人について関心があり、高麗人に関する本を著述しています。韓半島からロシアへの移民の歴史は140年を越えます。沿海州に20万人住んでいたが、1937年に中央アジアに強制移住されました。その後、その地に根を下ろして暮らしていますが、母国語も多く忘れてしまい、文化も忘れてしまい、
アイデンティティの危機に直面しています。そこで、私は高麗人たちをどうすれば
韓民族ネットワ-クに一員として連結出来るかについて関心を持っています。

 NKHR:略歴を見るとマスコミ界で長く働いていらっしゃいましたが、人権に
ついてどのように関心を持たれるようになったのでしょうか?
 金:国連でどんな人々が人権委員として適格者か紹介した冊子があるが、主に弁護士、マスコミ人等が明示されています。マスコミと人権は、相当、密接した関係
があります。社会面で扱うほぼ全ての記事は人権と関連があります。ただ、マスコミ人としては、人権問題を新聞記事の‘事件’として扱えば、人権委員としては‘
人権そのもの’に人権を展望できます。

 NKHR:ところで金委員の年代は北韓に対し否定的な視点を多く持っていらっしゃるのではないですか? 戦争も体験されたようですが、それについてお話頂ければ?
 金:私の年代は生れつき戦争反対論者です。国土はもちろんのこと、経済、文化、
人間性までも破壊する戦争は二度と許すことが出来ないのが主たる思いです。そして、どんな場合でも平和統一を成すべきだと考えます。私たちは戦争を直接体験したため、共産主義の画一的で全体的であり権威的な性格が、反人権的で反人倫的だということをよく知っています。反面、民主主義は自分と相手が互いに異なることを認定する多元主義社会です。それゆえ、自由が芽生えるのであり、自由が保障されるのです。私たちはこうした社会に暮らしていることに感謝すべきでしょう。

 NKHR:我が国の人権実態に簡単に評価して頂ければ?
 金:世界的な基準で見れば、我が国も人権先進国に属します。ロシア、中国、日本、北韓等、東北アジアでのみ見ても、私たちは開放的であり、人権先進的です。
我が国は解放後、経済成長を通じて産業化、民主主義成長を通じて民主化を遂げました。産業化と民主化を同時に遂げた国は我が国の他にないでしょう。この民主化には人権の先進化も含まれます。もちろん、まだ改善すべき点が多いでしょう。我が社会には年令差別、男女差別が相変わらず存在します。価値観が引き続き変わっているために、人権問題は引き続き存在し、これに私たちは引き続き関心を持つべきでしょう。

 NKHR:最後に、北韓人権市民連合はどのような方向に行くべきか、望む点を
お話下さい。
 金:その間は、政権からの協助がなくて支障があったが、今は政府でも北韓人権
改善措置のために積極的に後援してくれます。それゆえ、北韓人権市民連合で北韓住民の人権向上のための事業をより積極的に展開すれば良いでしょう。そして北韓人権市民連合が行なっている事業がより多くの人々に知られれば良いでしょう。そうすれば、より多くの支援を得られ、多くの参与を引き出すことが出来ると思います。さらに多角化された事業を通じて北韓住民の人権向上のために努力し、会員も
増加し、引っ越し出来れば言うことはないでしょう(笑)。

手記

私 は ブ ロ - カ - だ っ た ④

                 ユサンジュン                               <脱北同胞、活動家、2000年韓国入国>

(写真出典:スポ-ツカン)

この手記は1998年4月北韓を脱出し、2000年韓国に入国した脱北同胞であり活動家であるユサンジュン氏が、中国で脱北同胞移住活動を始めたが、2007年8月中旬中国公安に捕まり、12月16日追放されるまでの生活を日記形式で作成したもので、本人の許可を得て本会のニュ-スレタ-に掲載する。

 私が北韓民主化をテ-マとした歌を自分で編集して中国でダビングした後、脱北者たちに供給し、北韓でも供給したが、この時インスンは避難所で北韓民主化をテ-マとした歌のテ-プを一晩中聴いたと言った。今もインスンがテ-プの歌を聴きながら涙を流した姿が目にはっきりと焼き付いている。インスンだけではなかった。避難所にいた4名全ての女性が涙を流しながら、恐らく故郷を思っているのだろう。置いてきた父母兄弟姉妹と恋しい故郷に再び帰ろうとしても帰れない、この凄絶な姿で、彼女たちは金正日独裁に対する憎悪で涙を流したのだった。こうしてシリンホト看守所で最初の夜を脱北者の話で送るようになった。私は胸の中で静かに神を求めて祈った。“主よ、私はここにいます。この地の多くの生命が死に行っています。私たちを助けて下さい”。

 私は眠ろうと寝返りをうったが、なかなか眠れなかった。私たちが出発した時から既に数日が経ち、その間私は一睡も出来なかった。全身に疲れが押し寄せてきたが眠れず、去りし日々が目の前にくっきりと通り過ぎた。嬉しく、楽しい日よりも淋しく悲しい。そして何によってなのか、いつも不安な日々の中で、それでも希望の光だった日々だった。
 ハナ院を出て最初に会った浦項北部教会の韓ドンシク、趙ヨンジュ執事夫妻、彼らは本当に信実な神の人々であり、自分たちの信実さと謙遜、そして愛で私を神へと導いた。殆ど脅迫に近い執念で寂しい道を行く時も、いつも私のために祈って下さり、物心両面で助けて下さった宣教師夫妻、中国で私たち脱北者を自分の子供のように慈しみ愛して下さり、脱北者のためにどれほどか分からない涙を流されたB宣教師、自分が養育した脱北者が韓国に来ても信仰を守れるように、さらに見守って下さり、今は脱北青年の母になり、自分が母親のまねを出来るのかいつも気にしていらっしゃった。私が中国にいる時は、時も場所も構わずに電話して“食事しているか? どこにいるのか?”と聞き、近くにいるとこれから食事するから早く来て一緒に食べようと言った。或いはそんな情況になければ、自分が食事を作っておいて、来て食べて行けと言った。

脱北者たちに会うと、いつもおいしい食事を用意してくれ、私たち同士が市内で会うと河南市場内で一番安い食べ物を選んで食べた。私が予め避難所を作れなければ部屋を借りてくれて、私が脱北者に聖書の勉強をさせてほしいと言えば、いつでも全てのことを後に回しにして母親のように面白く神さまの御言葉を教えてくれた。これまで私が脱出させた脱北者のほぼ半数はB宣教師が神の御言葉を伝えてくださり、私たちが3国に向けて出発する前には必ずこの方がいらっしゃって、私たちが神さまの引導なさるなかで必ず勝利することを約束する祈りをして下さった。

 私は歳月が経つにつれて祈りの威力を感じていった。ハナ院に入ってきた脱北者たちが、時々、私に電話で話すことが“先生、あの時、あの宣教師さまが祈って下さったことが、どれほど力になったか分かりません。ウチのオクミは国境線を越える時、宣教師さまの祈りを思いながら、それに力を得て歩いたといえます”。オクミの母親だけではなかった。マンオク小母さん、崔夫婦。彼らは、宣教師さまが祈って下さったことに力を得て、自分たちは必ず成功すると信じて出発し成功できたと言った。私はその方を師匠のように、姉のように、そして脱北者に対する愛を見ながら、自分が神との連結の縄を放せないと思う。私を同年代の仲間と呼ぶ社長さん。御高齢にも関わらず、中国で脱北者支援活動をされている。ある場所に脱北者がいると言えば、万事を差し置いて訪ねて行くと言い、脱北者たちに神の御言葉を伝える時は全てのことを忘れて、どれほど情熱的に行なうのか、私も不思議になるほどだ。紙にあれこれ絵をいっぱい描きながら面白く説明して、脱北者の便宜であれば、私が羨むほどに世話をしてくれた。

 私が初めて社長に会ったのは、昨年一月中旬頃だった。私は延吉に到着して電話で“社長、私は誰それの紹介で社長を知りました○○○です。私は今どこそこにいます”と言うと、すぐに行くとおっしゃった。私は遠路を今いらっしゃるのは大変だと申し上げた。私も延吉まで来たが、列車に動く隙もなく人がぎっしり入っていて一晩中立って来たのだった。しかし、年配の社長が、自分は大丈夫だと言いながら、今日の夜中に出発して明日の昼にきっと会おうと言った。私はあまりに早く社長に自分の消息を知らせて社長に負担をかけたようで申し訳ない気持ちになり、一日中罪の意識のようなものを感じたのだった。

 翌日の午前、社長が私に電話で何時に某所で会おうとおっしゃるので、私は前もってそこに行き、声を通じて社長の顔形と体型を想像して見たが、似た人はいないので再度社長に“自分は今どの位置にいてこういう服装をしているが、社長はどんな
服を着ていらしゃるのですか?”と聞いてみると社長がおっしゃるには“ここで一番良い男を探せばいいですよ”と答えたのだった。しばらく後、私たちはうまく出会うことができ、旧知の友人のように簡単に挨拶を交わし、再び場所を移してすぐにすべきことを議論した。時間の関係で長く話し合うことは出来ず、私はすぐにB宣教師について紹介し、B宣教師と席を同じくして、お二人が働いてきた過程を簡単に申し上げた。私とB宣教師はすぐに琿春に行かなくてならないので別れの挨拶をすると、社長が自分が送るとおっしゃりながら、乗用車で琿春まで私たちを乗せてくれて、私たちが用事を済ませるまで長い時間外で待って下さり、私たちを乗せて延吉まで無事に連れていって下さった。社長は御自身を北韓人だと思っていて、決断性があり、現実的で、目標指向的な明朗な方だった。社長は別れ際に、これから某地域を通過する時は無条件に自分に電話しろと。そして自身が列車の寝台を払ってくれ、私たちは同年代の友人だといった。

 一度、遠くに行くことを考えたが、不安になって社長に乗車券を予約してほしいと頼むと、寝台切符を買っておいて私を待っていて、私が切符代を出すと、友だちが何の真似をすると叱責した。私たちは単に茶を飲む時にも、社長は現実分析と働く方式を聖書的に分析しながらもとても面白く話して下さった。特に生命と魂については分かりやすく安らかな物語スタイルで聞かせて下さった。その後には、私が社長にお手数を掛けるのが申し訳なくて切符の手配を依頼しなかったが、どんなに淋しいかったかとおっしゃるので、私がこれからは必ず出掛ける際は立ち寄って行きますと約束した。この方が養育した青年たちがモンゴルから直接電話をすると、本当に電話の音声で聞こえるこの方の声が、恐らく天地を全て得てもこれほど嬉しくないだろうほどだった。

後日、私は、この方が国家元首に会うよりも難しい立派な方であり、大きな事をされたことを知った。私は信実な良い方々に会って、様々なネットを作って、私たちが互いに協力して、より効率的に、より多くのことが出来るようになった。私の活動の特性上、悪党にも会い、天使にも会ったが、神が送って下さった信実な方々に会って、困難も知らずに、私が得た愛を知るようになり、生きる価値を感じながら、より大きな事を計画し、希望の夢を持てるようになった。真の愛は信頼を生み、能力があり、実践があった。

 眠れなかった私は、今回、出発から冷静にもう一度考えて見た。北韓から出てくるようになった過程は7月末か? 8月初か? 北韓で実施した選挙に参加して出て来たのだ。選挙前に出れば、自分の家族が滅亡することを知ったので、親戚の方々や同僚たちに害が及ぶので、選挙が終わって3〜4日内に中国に入って来たのだから、今回の道中で必ず共に韓国に行けるよう助けて欲しいといった。私は遅くても8月4日までは中国に入らなければならず、そうしてこそ自分も安心して仕事が出来るので、そう知って置いてくれというと、選挙が終わったら無条件で脱北するといった。私は彼ら4名とウンシム夫婦を含めた7名を計画して、延吉を出発する時間は8月7日と釘を刺した。しかし、北韓側であれこれ変動が生じて、彼らは約束した日時に脱北出来ず、私は彼らに9月末までに脱北して、延辺地方の某避難所で待機せよと知らせた。私が彼らに9月までに来いと言ったのは、山東省青島に数名の脱北者が韓国に行こうと以前から支援を要請したのを9月に予定したので、青島の人々を3国に送り、北韓から出てきた人々は10月に脱出させようとしたのだった。

 ウンシムとカルリャンは知り合いの執事たちを通じて、聖書も教えたといって保護して欲しいといい、ヨンオクは中国の夫と一緒にいるので出発する直前に連れて来るようにした。全てのことが思い通りにうまく行かず、私は出発日時を9日に変更し、一行全員に8月7日に出発すると通報し、某避難所に集結させた。いつもそうだったように、今回も出発日と時間は変更して知らせなかった。私は安全を維持するために常にいつ出発すると通報しておいては、2〜3日を繰り上げたり、遅らせたりしながら、まれに不意に出発したりした。協助公文発給のための人的事項も別途にメ-ルを作り、専用に使えるメ-ルを通じて暗号化して、万一ハッキングされた場合でも出発日と時間、方向を分からないようにした。協助公文発給のための人的事項も、出発する日の午前11時頃にメ-ルで作成して送り、銀行で金を下ろして準備し、夕食時間に順調に龍井を出発した。        <続く>









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