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NEWS :呉吉男氏の著書「恨・金日成」から(3)家族からの手紙とテープ 
└ 2011-11-19 07:02

第11章 希望と絶望のはざまで

必ず家族を救い出す

八七年七月一目。真夏の刺すような陽射しを浴びながら、私はハノーバー市ベンゼン通りにある独身者アパートヘ引っ越しをした。(中略)新居に移って三ヵ月が過ぎた頃、尹伊桑から電話がかかってきた。
「呉博士、明日の午後八時、ハノーバー音楽大学まで出てきなさい」
「分かりました。先生」
私は彼が来いと言ったらベルリンでもどこでも行かなければならなかった。それだけしか家族を救う方法はないのだ。
尹伊桑は九月にヨーロッパの著名な音楽家を連れて『尹伊桑音楽祭』を主催するため、平壌に行ってきたばかりであった。(中略)この大作曲家は、今を堪え忍んでいる北朝鮮の人々の気持ちを全く知らなかったし、見ようともしなかった。北朝鮮工作機関のおべっかにのせられた彼の目は、開いていても何も見えなくなっていたのだろう。(中略)

ついに待ちわびた尹伊桑が現れた。
ところが、近づいてきた彼は予想もしなかったことを言った。
「呉博士、今日は遅いから、明日の朝九時にルイゼンホーフ・ホテルに来なさい。これは向こうで預かった奥さんから君への手紙だ。これを読んでから明日話そう」
それだけ言うと彼は帰っていった。まさに取りつくしまもないという感じだ。
私は震える手で妻の手紙を握りしめながら、その後ろ姿を見送った。
それからどうやって家に帰ったのか、覚えていない。家に戻ると早速、妻の手紙を取り出した。
手が震え、手紙を開く前から涙が止まらない。

あなた
どうお過ごしですか?
体の具合はどうですか?
あなたが行かれてから、もう一年近くになります。
恵媛、圭媛にさぞ会いたいことでしょう。
あなたの様子が分からなくて、もどかしい日々を過ごしていたのですが、こちらから手紙を持っていってくれる人がいるというので、急いでこの文を書いています。たぶん、その人はベルリンの尹先生ではないかと思います。
新聞によれば、先生は偉大なる首領さま(金日成)との接見もなされ、音楽会も成功したとのことです。

私は音楽会に行ったり、先生にお目にかかることはできませんでした。
私たちは何事もなく、平穏無事に暮らしています。恵媛は一学年飛び級して中学生になったのですが、そこでも最優等生です。圭媛も三年生になり、ずいぶんと手が掛からなくなりました。家のことを手伝ってくれることもあるんですよ。私の健康は相変わらずで、今は職場に出ています。八月に、静かな郊外に引っ越ししました。
前に住んでいた中心街よりも、山河が美しく、気に入っています。当局が勧めてくれたんです。

最初は、私も早くこの国を出たいと思っていました。でも、いろいろと説教されました。自分の地を捨てて、何の面目があって生きていくことができるのか? あなたたちは民主化運動をしていたというが、それは自分だけが贅沢をしようと思ってしたことなのか? どこかよその国のためにしたことなのか? ここに住んでいる人々は統一を願い、戦後の復興建設という困難を乗り越えてきました。皆一緒に働き、皆一緒に暮らしていくのが悪いことなのか? それが厭で祖国を離れるというのは、人間として許されることなのか?
最初は、私たちの考えが全部正しいと思っていたのですが、いろいろと話を聞くと、納得できる点が多々あると思うようになりました。あなたが去ってから、私たちはどうなるのだろうと毎日不安に包まれていましたが、これといった事件もありませんでした。
あなたについて解明しなければならないことがあるというので、すべて事実どおりに話しました。

それからは不安もなくなり、最近では、私たちは祖国に対して何ということをしでかしてしまったのだろう? ほかの方法を考えもせずに何でそうしてしまったのだろう?と思うようになりました。余りにも事を急ぎすぎたと今は考えています。でも、あなたを恨んだりはしません。
誰でも道を誤るということはあるものです。あなたのお考え次第ですが、帰ってきてもいいのではないかと思います。
それでは、くれぐれもお体に気をつけて。


一九八七年一〇月一一日
ヘウォン・オンマ(恵媛の母)

手紙を読みながら、何度も頭をかきむしった。淑子は平穏無事に過ごしていると書いてきたが、真っ赤な嘘だ。当局に書かされているだけなのだ。“山河の美しい所„に引っ越しをしたということが何を意味するかも分かっている。でも最も私の心を重くしたのは、“あなたを恨んだりしない„と言っているところだ。それは呪いの言葉を聞くよりももっとつらかった。
私は手紙を抱きしめながら、一晩中、苦しみ悶えていた。声を上げて哭くことができれば、少しは胸が晴れるだろうが、涙が出てこなかった。悲しすぎると泣くこともできなくなるという話を聞いたことがあるが、この時の私がまさにそうだった。(中略)

約束の時間が近づいてきた。フロントに行って、尹伊桑の部屋番号を尋ねた。
「奥さんの手紙を読んで、どう思った?」
「妻は、私が平壌に帰ってきてもいいのではないかと思うと書いてきましたが、帰る面目もないし、帰ったところで意味のある仕事はできないと思います」
尹の言葉に私は率直に答えた。これは本心だった。
「呉博士、よく聞きなさい。奥さんは本当に立派な人だ。間違いを認めて、帰ってこいといっているではないか。それでもまだ君は分からないのか?」

「先生が私の入北を評価してくださっていたことは存じています。私は経済学者としてやりがいのある仕事をしようと、平壌に行きました。ところが、彼らに命じられたのは、七宝山連絡所で対南工作放送に従事するということでした。それだけではありません。次にはコペンハーゲンに行って、ふたりの南の留学生を北に誘い入れるよう命じられました。私は怖くなりました。もしこの仕事が人民のためになることなら私は逃げ出したりはしません。でも、とてもそうは思えません。それなのに彼らはしつこく、頑固でした。私は対南工作放送の仕事をするだけでも厭で厭でたまらなかったのに、さらにそんなことを命じられて息が詰まるようでした。

もう一度言いますが、工作員になれという命令を断ることはできなかったんです。その命令が下る前は何もかも捨て去り、ただ言われたとおりに北で生きていこうと思っていました。しかし、その命令だけには従うわけにはいきませんでした。私は自殺したいと思ったくらいです。
北の現状はひどいものです。恥ずかしいことですが、ドイツ語しか知らない恵媛が、あまりに切なくて、突然わんわん泣きながらアパートから飛び降りてしまいたいと言っていました。
恵媛はまだ一〇歳です。子供がそう思い詰めるほどあの国はすさみ、荒れ果てているのです。
私は、やっと食べていかれるだけの生活でもいいから、ただ学問することだけを願っていました。

しかし彼らは私を、対南工作要員として利用することしか考えていなかったのです。抗議にもならない抗議をしたこともありますが、何の役にも立ちませんでした。そらとぼけて、彼らはただ金正日のご意向だと繰り返すのみです。本当にあの国には愛想が尽きてしまいましたよ。
先生、前途有望なふたりの学者が私が行う工作の犠牲になることには耐えられませんでした。ふたりが南朝鮮の現政権に対し批判的な態度を取っていることは事実です。しかし、だからといって彼らが北朝鮮に対して無批判であるというわけでもないのです。それに彼らはまだ若く、ことの是非を十分にわきまえているとはいえません。私は、このままでは彼らが、自分のようになってしまうと思っていました。彼らが私に誘い込まれて、中央党第五課(北朝鮮の対南工作機関)と接触したとしましょう。あの恐ろしい安企部(韓国国家安全企画部)が、純粋なふたりの若者を放っておくと思いますか? もしかしたら、彼らはたった一度の過ちから、永遠に祖国に足を踏み入れることができなくなるかもしれません。

中央党の幹部たちは、南朝鮮のやつらを南朝鮮の者どもの手によって滅ぼさせるという悪辣な戦術を使っています。口では統一を念仏のように繰り返しながら、実際には卑劣な犯罪に手を染めているのです。
先生、八五年八月に入北を勧めてくれた先生が、もう一度私に入北を勧めるとおっしゃるのであれば、北朝鮮に行って人民のために経済学者として活動するという条件を保証してくださいますか?」
私はひと息にそこまで言うと、テーブルの上にあった水をがぶがぶと飲みほした。

「資本主義社会で学んだ経済学など、我が社会主義では何の役にも立たないと、許錟が言っていた。しかし、呉博士のためには、今良い地位を探しているとも言っていた。それなのに、なぜ脱走という性急で軽率な行動に踏み切ってしまったんだ」
許錟は尹伊桑の面前で、北朝鮮では科学としての経済学が通用しないということを認めたわけだ。それは裏を返せば、私の提案を受け入れることができないという意味でもある。
「ならば先生。経済学者として活動するという条件を保証してくれないというのなら、私が北へ帰る代わりに、妻と子供たちをドイツに返してください。私はどんな処罰でも甘受する覚悟で北に帰ります」(中略)

私の提案には多分に悪意が含まれていた。尹伊桑がそれに気がつかないわけがない。彼は声を荒げて言った。
「ほざくな! おまえは何を言っているのか分かっているのか。もう聞きたくない。出ていけ!」
この男は私をもう一度北に送ろうとして私に会ったのであり、家族をドイツに返してくれるためではない。そのことを理解して私はさっと立ち上がった。
「いいでしょう。出ていきます」

席を立って部屋を出ていこうとする私を、尹伊桑が止めた。
「呉博士、少しだけ我慢しなさい。聞いたところによると、君は数学も得意で数理統計学にも精通しているということだが、それなら、こうしたらどうだろうか?」
「どういうことですか」
私はぶっきらぼうに答えた。
「コンピューターサイエンスを四、五年ここで学び、それから家族のもとに帰るようにしたらどうか。その間、祖国は家族を国賓待遇で預かってくれるはずだ」
私は自分の耳を疑った。この男は何も知らないのだ。無知というにも、度が過ぎている。何度も北朝鮮に足を踏み入れたのは、何のためであったのか。私に見えたことを、彼は何も見なかったとでもいうのか。

「この年になってから新しい勉強を一から始める自信はありませんが、無意味でない仕事を朝鮮でできるというのなら、こんなにうれしいことはありません。
しかし、それは不可能です。北に行った知識人たちがどういう扱いを受けているか考えて見てください。東ベルリン事件の鄭河龍の弟、鄭玄龍氏が七宝山連絡所の対南工作放送局にいます。そこでは張錫奎という仮名をつかっています。彼は京畿高等学校からソウル工大金属工学科に進んだ人物で、ヨーロッパに留学していた際に東ベルリン事件が起こり、このままでは祖国にも帰れないと思って、夫人の尹ヒャンヒと、ふたりで平壌に逃げてきたのだそうです。夫人もあそこでは韓ソンエという仮名を使っています。

先生が韓民連の議長をなさっていた時に、国際部長だった許弘植氏も対南工作放送の要員です。それだけではありませんよ。カナダで物理学か数学か、とにかく自然科学系の教授をしていた人が北に来ました。ところが、北が彼にさせた仕事は、工作員の英語教育でした。彼の娘は、金永南外交部長(外相)の英語通訳をしているそうです。
釜山大学で哲学の教授をしていた尹老彬も、チョン・ヨンホという名で対南工作放送で働いています。そのほかにも、例を挙げたらきりがありません。皆そのようなありさまなのに、私だけが例外だというようなことがあるでしょうか。

先生、どうか家族を返してください。そうすれば、目を噤んで、静かに暮らしていきます。もしそれができないのならば、さっき言ったように、私が北に行き、家族をドイツに帰すようにしてください」
尹伊桑は私の話を聞きながら、いかにも不愉快な顔をすると、もうたくさんだとばかりに叫んだ。

「私は人道的な次元でおまえを助けようとしてきた。しかしおまえは私の苦労を爪の先ほども分かろうとしない。もうおしまいだ。出ていけ! おまえは恩をあだでかえした。好きにするがいい。家族を返せば、家族と一緒に南朝鮮に行ってしまう危険性があるから、返すわけにはいかない。許錟も言っていたが、おまえは朝鮮の内部事情を盗み見し、連絡所の秘密をかぎつけてから逃げ出したんだ。おまえは米帝に雇われたスパイに違いない。そうでないことを立証するためには、家族がいる平壌に帰らなければだめだ。帰っても、おまえは共和国の公民ではないから、法による処罰は免れるはずだ。
もう一度忠告する。平壌に帰れ。帰らないのなら、家族は人質として捕まえておかざるを得ない。軽率な行動を取れば、家族がどんな目にあうか、心しておくことだ。もうこれ以上おまえの顔なぞ見たくもない。出ていけ! 人間が、最後に残しておかなければならないものは、良心なんだぞ!」

尹伊桑の話を聞きながら、鳥肌が立つのを感じた。恐ろしい男だ。彼は、私を再入北させようという決然たる意志を見せたのだ。
あれほど待ち望んでいた一条の希望の光が消えていく……。
ホテルを出ながら、人生の終末を告げられたような絶望感と虚無感に包まれ、重い足を引きずって家路についた。(中略)

八八年一月一七日。
東ベルリンの北朝鮮大使館が、尹伊桑を通して連絡を取ってきた。連絡の内容は、八八年一月二八日午前一〇時に、オーストリアのウィーンにある北朝鮮大使館で、家族の問題を協議しようというものだった。(中略)

私は再三、援護局長に家族を返してくれと頼んだ。しかし相手は身辺を保証するから北に帰ろうと言うばかりで、私と彼らの主張は終始平行線をたどった。とはいえ、彼らを刺激したくなかったので、私はできるだけ穏便に話した。
「今さら何の面目があって帰れますか。家族と一緒にドイツで静かに暮らしていきますから、どうか家族を返してください」
「呉先生、身辺の保証は十分にしてあげますから、家族のいる祖国に帰りましょう」
いくら話してもきりがなかった。これでは家族を返してもらうのはほとんど不可能に思えてくる。それでもあきらめず私は援護局長と名乗る男に家族の安否を訊ねた。

「呉先生、ご家族は今、ヒョンジェ山のなかに住んでいます」
息が詰まった。山のなかに住んでいるとは……。私は恵媛と圭媛にあげようと思って買った手袋を差し出した。
「子供たちにこの手袋を渡してやってくださいませんか」
「呉先生との話が終わっていない状況で、このようなものを預かるわけにはいきません」
彼らは冷たく拒絶した。父親として子供たちに手袋ひとつ自由に贈ってやれないとは、心が凍るようだった。
「ヒョンジェ山というのはどこにあるのですか? 収容所ですか?」
「説明できません」
目の前が真っ暗になるような絶望感に包まれた。平壌で一一ヵ月過ごしたがヒョンジェ山というのは聞いたことがなかった。どんな所なのだろうか。政治犯やその家族を収容する所なのだろうか。それとも粛清された人々の家族を強制移住させる山奥の農場なのか?
どのようにして中華料理屋を出たのかは記憶にない。私は発狂寸前だった。(中略)


一〇月初旬のある日のことだった。早起きしたのだが、することもなくベッドでごろごろしていると、電話が鳴った。
「尹伊桑だが」
「先生、どうしたのですか?」
嬉しさ半分、恐ろしさ半分といった感じで尋ねた。
「今、ハノーバーに来ている。ルイゼンホーフ・ホテルにいるんだが、ちょっとコーヒーショップまで出てきなさい」
「分かりました」
顔を洗って、ホテルに駆けつけた。

「まず、奥さんからの手紙だ」
やにわに彼は淑子からの二度目の手紙を差し出した。何が書かれているのだろうか? もしかしたら、拷問されて、私に入北を催促する手紙を無理矢理書かされたのではないだろうか。
「力の及ぶ限り、呉博士の家族の送還に努力してみたが、送還はとうてい無理なようだ。呉博士が共和国に行くしか方法はない。奥さんと子供たちも君が帰ってくるのを首を長くして待っている。君の奥さんは本当に立派な人だ。共和国も、過去の過ちを反省して帰ってくれば、これまでのことは不問に付すと言っている。だから、妻子のことを考えて平壌に帰りなさい」
「私の答はこの前と同じです」

家族の送還が簡単に実現できるものではないことは十分承知していた。尹伊桑がもう一度入北を勧めに来るだろうことも予想していた。予想してはいたのだが、彼の知的良心を信じ、もしかしたらと一縷の望みを賭けてここに来たのだ。
しかし、これですべての希望は消え去った。これ以上、尹伊桑にもてあそばれるのはごめんだ。妻の手紙をポケットに入れて、私は決然と立ち上がった。
家に帰ってすぐ、震える手で封筒から手紙を取り出し、読んでみた。

あなた
昨年、尹先生に手紙を託してから、ちょうど一年が過ぎました。その間、つてがなくて手紙を送ることができませんでした。
お元気ですか?
子供たちと離れて寂しく暮らしているあなたのことがいつも気にかかっています。もちろん、あなたはあなたで私たちのことを心配していることでしょう。私たちは何事もなく無事に暮らしています。
私の健康状態も、悪くなってはいません。
職場生活をしながら子供たちを学校に通わせているので、いつも時間が足りません。でも、子供たちが私のことをいろいろと心配してくれるので、大丈夫です。恵媛はもうおとなのように何でも手伝ってくれます。
圭媛は、年齢よりもおとなびてきています。父親がいないと、そうなるのかもしれません。

今年初めに、海外同胞援護委員会にいる人があなたに会ったと言っていました。
その時の会談はうまくいかなかったようですね?
あなたに対していろいろと不満を述べていました。
互いに胸襟を開いて話し合おうと思っていたのに、あなたが連れてきた人たちが会合場所の周りをうろつき回って何か異様な雰囲気にしてしまったので、こちらの人たちは不快に思い、深い話はせずにうわべだけ二言三言交わして別れたと言っていました。
わざわざ会合の機会を作ったのに、なぜそんなことをしたのですか。
その話は本当のことなのでしょうか。

前に尹先生に託した手紙にも書いたとおり、私たちが最初に、深い考えもなく行動してしまったことは明らかに間違いであったと思っています。
三年ほどここに住んでみて、こちらの生活にも慣れてきました。
でも、やってしまったことをどうすればいいのでしょう。
私たちはあなたが帰ってくることを願っています。
あなたが帰ってくれば、すべてがうまくいくはずです。
国慶節を祝ったばかりのこちらは、秋の盛りです。
天気が1番いい季節です。都会より、今住んでいるところのほうがいいようです。慣れてくればそんなものでしょう。
何とかして、あなたのことを知らせてください。
手紙を送る住所;平壌市ヒョンジェ山区域ヒョン山里八班
一九八八年九月一五日
恵媛・オンマ

封筒には「朝鮮から」とだけ書かれてあった。
胸がじりじりと焼かれるようだった。この胸の痛みを誰が分かってくれるだろう。妻が自由な状況でこの手紙を書いたとはとても思えなかった。それだからこそ、よけい胸が痛んだ。(中略)

九〇年六月、圭媛の誕生日が近づいてきた。有り金全部をはたいて、ふたりの娘へのプレゼントを買った。(中略)子供たちへのプレゼントを小包で東ベルリンに送った。届かなくても仕方がないと思ったが、父親として心を込めた贈り物をしたかったのだ。
同じ月、無駄だと知りつつ、金正日あてに、家族と私の本を返してくれという嘆願書を書いて、東ベルリンの北朝鮮大使館に送った。たぶん、金正日の手には届かないだろう。しかし、じっとしているよりはましだ。家族を取り戻すために何かをしなければならないのだ。おぼれる者藁をも把むの心境だった。さらに、もう一通嘆願書を書いた。経済学者として、南でも北でも活動できない私に理解を示してくれと訴え、そのなかでも家族を返してくれと哀願した。

また一年が過ぎた。
九一年一一月二一日午前一一時、ハノーバー駅からベルリン行きの列車に乗った。北朝鮮対南工作機関の罠から、満身創痍となって逃げ出してから四年ニヵ月ぶりのベルリンである。(中略)東ベルリンに行くのは尹伊桑に会うためであった。尹伊桑夫妻は北朝鮮での静養を終え、帰ってきたところと聞き、私は性懲りもなく以前のような期待を抱いて列車に乗ったのである。(中略)八時を少々回り、尹伊桑が帰ってきた頃合いを見計らって電話をかけた。
「尹だが」
「呉吉男です。先生のお宅にうかがいたいのですが、いつ頃がよろしいでしょうか?」
「今日来なさい。できれば一〇時に。夕食はすませてきなさい」
「友人の家で食事をすませているので、あとでうかがいます」(中略)

ようやく一〇時になったのでベルを押した。
ドアを開けたのは尹伊桑の娘だった。「お入りください」という彼女の声は母親にそっくりである。
夫妻は食事中だった。「地下室に案内しなさい」と、尹伊桑が奥さんに言った。(中略)

沈黙が部屋を支配していた。一〇分ほど、私たちは同じ部屋のなかにいながらお互いに目を合わせなかった。
ついに彼が口を開いた。
「おまえの行いは何だ?」
「はい?」
「妻もなくそうやって暮らして、どうするつもりなんだ? だからもう一度平壌に行けと言ったではないか」(中略)「社会福祉の金を貰ってやっと生きて行く人間の屑のような生活に何の意味があるというんだ? そんなことをするために逃げ出してきたのか?」
全身の毛が逆立つような感覚が、背筋から首筋に走った。
「対南工作放送の仕事をするより、そして留学生ふたりを罠にかけるより、意味があります」(中略)

尹伊桑が引き出しをあけ、濃い黄色をした封筒を出した。そしてなかからカセットテープを取り出すと、テープレコーダーに示し込んで、スイッチを入れた。
テープレコーダーからは、妻の声と愛するふたりの娘の声が流れてくるではないか。

私たちが別れてから、一五二〇日目になる今日、九一年一月一一日、誕生日のプレゼントが届いたの。九〇年九月一九日にハノーバーから送ってくれた手紙を見た時は、まさかプレゼントが本当に届くとは思ってもみなかったから、どれほど嬉しかったことか。

前に、健康が優れないという話を聞いたんですが、今はどうなの?
さて、何から話したらいいのでしょう。
いつ会えるか分からないし、今度いつあなたに手紙を出すことができるかまったく予測できません・・・・・・子供たちはあなたのことを思いながら、元気に暮らしています。
昨年の八月一五日、汎民族大会が聞かれた時に、鄭奎明博士、それからパリにいらっしやる李ヒセ先生をはじめとして、多くの方々が祖国統一のために努力されている様子をテレビで見ながら、あなたに対する信頼をまた新たにしました。
体はどこにあろうとも、祖国統一のために献身奮闘することが、祖国を愛するものの進む道です。またあなたの愛する恵媛、圭媛との再会を実現する道でもあるのです。あなたはこのことをよく分かっていらっしゃるのですから、私はいつの日かあなたと会えることを露ほども疑ってはいません。
必ず会えると信じて、健康に注意してくださいね。私たちのことにはあまり神経を使わないでください。生活は心配ありません。
永遠に愛するあなた、あなたの社会的な成功と健康を心から祈っています。

九一年一月一一日

アッパ (お父さん)! 恵媛ですよ。
何日か前、アッパと一緒に誕生日のお祝いをする夢を見たの。アッパが誕生日のプレゼントを贈ってくれたから、そんな夢を見たんだわ。私は今中学校四年生、一四歳になったの(北朝鮮では中学校は六年制)。卒業したら、大学に行きたいとは思っているけど、行けるかどうかは分からない。
オンマはいつも、アッパがいないんだからなおさら、日頃の行いや道徳についてクラスの模範にならなければいけないって言うんだけれど、私はそれを聞くたびに悲しくなるの。祖国にも偉大な我々のお父さん(金日成のこと)がいらっしゃいますが、私はほんとのお父さんのことをいつも考えています!
お父さん、いつまでも元気でね!
あんまり久しぶりにアッパって言ったから、涙が出てきちゃったわ。

九一年一月一一日

アッパー! 私は圭媛よ!
もう中学校二年生になったの。今年一三歳よ。
アッパ!会いたいわ。
アッパば知らないでしょう。私は早く大きくなって、お母さんの手伝いをしなくちゃと思っているのよ。でも、もう水汲みもできるし、火を焚くことだってできるわ。
病気にもかからないし、元気にしているわ。アッパが向こうに行ってからも、私の背はあんまり伸びていないの。
会いたいわ。アッパ!
アッパに会えたなら、何をプレゼントしようかな。
アッパ、さようなら!

九一年一月一一日

心臓を錐でえぐられる思いだった。妻と子供たちの声がいつまでも消えずに耳元から離れない。これはあらゆる肉体的拷問より、残酷な仕打ちだった。私は北の対南工作機関の、卑劣で恐ろしい手法に全身が震えた。(中略)尹伊桑は私が涙をぽろぽろ流すものと思っていたようだ。しかし泣かないのを見て、怒ったように黒白の写真六枚を私の鼻先につきつけた。
「見ろ。おまえの妻と子だ」
淑子、恵媛、圭媛の三人が写っていた。どうやら雪深い山のなかで撮ったもののようだ。三人が着ている服、履いている靴は、みんなドイツから持っていったものだった。(中略)

「家族が生きてられるのは誰のおかげだと思ってるんだ? 私の言うことを聞かず、もう一度軽率な行動をとったら、家族をこのままにしておかないぞ。なんであちこち出歩いては共和国の悪口を言って回っているんだ。家族を殺されなければ分からないのか? 録音された奥さんの言葉を聞いただろ。 何と言っていた? 統一運動に励めと言っていなかったか? そうしてこそ問題も解決するというものだ。なぜ前向きな論文を書き、新開や学術雑誌に発表しようとしないんだ。そうせずに、統一運動を誹謗中傷して歩けば家族が死ぬことになるんだぞ」

「私が統一運動を誹謗して歩いているなどと、誰が言っているのですか? 私がいつ北の悪口を言いましたか? もしも私がそんなことを言ったとしても、馬鹿にされるだけです。好きこのんで北に行き、いくらもしないで逃げてきたわけですからね。
前にも言いましたが、私と家族を交換するという条件でなら、平壌に行きます。ブライデンシュタインも北にいる家族のもとに帰って、一緒に強制収容所で生活すれば、三人の力とひとりの力を合わせる以上の、何百倍もの力になると言いました。しかし、断りました。

ブライデンシュタインは金日成が築いた北朝鮮の体制を、自分の反帝思想、社会主義に対する憧憬のおかげで誤って評価しています。彼は私を何度も勇気のない人間と非難し、さらに、こんな勇気のない者にはどうすればいいのか分からないと言いましたよ。彼のこの言葉を聞いて、私みたいな卑怯者は家畜のように屠殺してしまうべきだと答えました。馬鹿げた自虐趣味とお思いになるかも知れませんが、これは私の偽らざる心境です。今まで先生のお力で家族を生かしでおいでくださったことには感謝します。でも、たった今、家族を殺されなければ分からないのかとおっしゃったことに対してはもっと感謝します。家族も、尹先生の思いのままに抹殺してください。こんなに苦しめられながら、生きていかなければならないのなら、むしろ死んでしまったほうが幸せでしょう?」
ずっと我慢して、腹のなかに貯めていた思いを吐き出してしまった。しかし、明らかに失言だった。覆水盆に返らず。もう取り消すことはできない。
「この忙しいのに、私がそんな豚も食わぬようなたわごとを聞くためにおまえを呼んだと思っているのか」(中略)

妻と子供たちの肉声が録音されているテープと写真が入った封筒をつかみ、私は立ち上がった。(中略)それからも、尹伊桑は私にたびたび電話をかけてきたり、人を寄こして北へ帰るように説得した。しかし、私はこれ以上彼におもねり、懇願するのはやめようと決心した。そう決心した時、私は無念さがこみあげてきて涙が止まらなかった。こうなっては、家族を救うために何をすればいいかは明らかだ。我が祖国・韓国に帰り、過去の罪の償いをした上で、祖国の力で家族を取り戻す以外に方法はない。
真っ先に一肌抜いでくれたのは李三悦教授だった。彼は呉吉男を救ってくれと韓国大使館の公使や参事官に働きかけてくれた。それ以外にも、多くの人たちが私を祖国に返すために努力してくれた。ひとりひとりの名を挙げることは控えるが、とにかく私のために尽力してくれたすべての人に感謝している。彼らに祝福のあらんことを!(終)

これに関してはコメントはつけません。ただ、このような手紙は北朝鮮から、日本の帰国者家族にもしばしば送られてきますし、守る会を結成した在日コリアンの一人、金民柱さん(この本の訳者)も、家族を収容所で殺され、さらに生き残った家族からは悲痛な手紙(北朝鮮を批判する運動などせず、お金を送ってほしい)という手紙が届いたことのみを書いておきます。
今、韓国では呉吉男氏家族救援の運動が展開されています。氏の妻と子供に何の罪もありません。多くの方々が、この一家のことを知っていただきたく、長い引用になりましたが、3回に分けて呉氏の著書を紹介させていただきました(三浦)






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