北朝鮮の記録 : 訪朝記者団の報告 (上) 

└ 2015-07-01 09:20

本稿は、1960年に新読書社から発行された「北朝鮮の記録 : 訪朝記者団の報告 」を紹介しています。帰国事業当時「38度線の北」同様、大きな影響を与えたと思われる訪朝記事です。現段階でのコメントはつけません、一つの歴史的資料としてお読みください。

北朝鮮の記録 : 訪朝記者団の報告(1960年 新読書社)

目次


近くて遠い国 ーまえがきにかえてー 共同通信社:村岡博人
「帰国者」が平壌に着いた    産經新聞社:坂本郁夫
政治のはなし 読売新聞社:嶋元謙郎
経済について 読売新聞社:秋元秀雄
重工業をめぐる話題 読売新聞社:秋元秀雄
住宅建設と市民生活 共同通信社:村岡博人
教育と福祉衛生 読売新聞社:嶋元謙郎
文化・芸術・スポーツ    共同通信社:村岡博人
農村を訪ねて 毎日新聞社:清水一郎
はだかの朝鮮人ーあとがきにかえて 読売新聞社:嶋元謙郎
 



  近くて遠い国
           ーまえがきにかえてー



                        共同通信社社会部:村岡博人


 われわれ日本人記者団七人を乗せた朝鮮民用航空の特別機が、瀋陽を出てから三十分も経った頃だったろうか、紺色の制服を着たスュチュワードの一人がそばにやってきた。腕時計を差しながら何か朝鮮語で語りかけている。言葉は通じないが時計を一時間進めろということのようだった。
「なるほど中国と朝鮮は一時間時差があるんだな」そう想い、時計の針を動かしながら見下ろした窓の外には、雪化粧した山岳地帯がどこまでも続いていた。日本を出て香港に着いた時一時間おくらせた時計をまた一時間進めるーーー「日本時間にもどったんだな」という感慨と共に、ここにくるまでの長い旅のことが映画のコマのように次々と頭に浮かんできた。やっとこさ朝鮮に入国したというのが率直な感じだった。
 在日朝鮮人の帰国が開始されると決まった時、日本の新聞、放送等あらゆる報道機関は朝鮮へ特派員を送ることを考えた。帰っていった人々がどのように迎えられ、どんな暮らしをすることになるのか、落ち着き先を見届けるのが主な目的だが、帰国船の往来が始まる前の雰囲気では、帰国を妨害する”韓国系”の朝鮮人が、航行の途中で何をやり出すか分からないという心配もあったからだ。
 そのため日頃から在日朝鮮人の帰国問題を取材してきた日本赤十字記者会のメンバーは、朝鮮赤十字会と交渉、帰国船を利用して日本と朝鮮の記者の相互交流をやろうという話をまとめていた。ところが日本政府はどうしても帰国船に乗ることを許さなかった。色々と交渉しているうちにとうとう第一次船は、一九五九年十二月十四日、新潟港から朝鮮の清津港に向けて船出して行ってしまった。それではという訳で、日本政府を口説き落とし中国行きの旅券と平壌までの往復の旅費、一ヶ月分の滞在費に相当する外貨をもらって、香港、北京経由朝鮮に入ったのがわれわれ五社七人の特派員、朝日新聞の入江徳郎、岡光真一、読売新聞の秋元秀雄、嶋元謙郎、毎日新聞の清水一郎、産經新聞の坂本郁夫、それに共同通信から私だった。
 朝鮮は、寒い、寒いという話をさんざん聞かされ、厚いオーバーを着込んでいったわれわれは、まず香港の飛行場で人々の好奇の目にさらされた。ここは冬でもオーバーいらず、背広姿であるき廻ってもちょっと汗ばむほどの暖かさだったのである。
 次になやまされたのは、しちめんどうくさい税関の手続き。とくに経済断交以来厳しくなったといわれる中国の税関では、「中国を二つに分けて書いている」という理由で、わざわざ東京から朝鮮へ持って行こうと重い思いをしてさげてきた「世界年鑑」を取り上げられる一幕もあった。「中国で使うんじゃない、日本の資料として朝鮮の人にあげるんだ。中国の国境を出て朝鮮に入る時には返してくれ」と頼んでみたが、鋭い目つきをした税関の人は急に日本語が分からなくなったかのように返事してくれなかった。
 冬だというのに夾竹桃の紅い花が咲く南の国境の町深 から、口がこわばってしゃべるのもおっくうになるくらい寒い瀋陽まで二日で飛ぶ、中国縦断の旅は決して楽なものではなかった。
 今になって考えてみれば、香港、北京、平壌という三つの都市を比較出来るという利点もあった。豪荘な邸宅と、イワシの缶詰を積み重ねたように天上の低い部屋に貧困者がぎっしりつまっている難民アパートが鋭い対照を見せている香港、公私合営の商店や古い屋並みも残っている北京、それと朝鮮の民主首都(朝鮮では南北の統一が出来るまでの仮の首都としてこう呼んでいる)平壌を三つ並べてみるとそれぞれの違いが一層はっきりした。しかし船で行っても三〇時間で行ける新潟清津間約千キロを、飛行機を使って四日間、約七千キロも廻り道させられ、時計の針をおくらせたり進めたりしなければならなかったことを考えると、不合理なことを強制された怒りが胸にわいたものだ。 

古くて新しい隣国

 近くて遠い国ーーそれはもう朝鮮の代名詞としてどこへ行っても通用する言葉になってきたようだ。この言葉の意味は単に近い隣りの国へ行くのに馬蹄型に遠回りして行かねばならないという地理的な交通上の問題だけをいっているものではない。
 ドイツ統一党ドレスデン市委員会の機関誌「ザクセン新聞」の記者ヴォルフガンク・フェル・ステル氏は、東ドイツから地球の円周の四分の一を廻ってはるばる朝鮮にやってきた時、「ドイツと朝鮮は遠くして近い。遠いという距離感格は地理上のことだけであって、政治、経済、文化の上ではそういう距離感を持っていない。二つの国は多くの点で非常によく似ている」といった。私が朝鮮で感じたのはこれと全く逆のことだった。日本人が近くて遠い国という場合、こうした政治、経済、文化の面での距離感もその内容をなしている。
 日本と朝鮮は古くから非常に密接なつながりがあった。往来をはじめたのは一世紀の末ごろといわれている。そして大和朝廷が日本をほぼ統一したころ、朝鮮にあった高句麗と百済、新羅の人たちが続々と海を渡ってやってきたらしい。これらき家人の持ってくるすぐれた大陸文化は、島国日本の人たちにとってどんなにか驚異であり貴重だったろう。こうした帰化人との協力で複雑な織物、武器ができ、国家、社会の制度などが進歩していった。近畿地方の古墳から発掘される遺物の中には、新羅の鏡や、高句麗の剣等と同じデザインのものがいくつも発見されている。東京都下調布市のはずれにハイキングコースで親しまれている深大寺という天台宗のお寺がある。この寺は約千三百年前、この辺りに住みついた高句麗の帰化人が仏の助けで日本娘と結ばれた、その感謝の印に建立したといわれている。近くの駐在所の住居簿には「高麗(こま)」の姓が沢山みられ、このロマンスのような古い日本と朝鮮のつながりを今に留めている。このような地名は日本地図を広げると全国に幾つもみられる。
 古代の日本語と朝鮮語には非常に似ていたらしい、現在でも朝鮮語と日本語は構文が同じで、敬語などもあり発音の似た単語もある。日本書紀などには朝鮮語の発音がそのまま漢文で記された箇所がかなりある。鹿児島県伊集院郡の苗代川部落のように、今でも氏神様のノリトを古代の朝鮮語で上げているところもある。「今日も一日、明日も一日、何を嘆き悲しむことがあろうか」というような意味だそうだ。
 これほど日本の朝鮮のつながりは深いにもかかわらず、現在朝鮮半島の北半部にある政治、経済、文化は日本のそれとひどくかけはなれたものとなっている。日本がアジアに於ける高度に発達した資本主義経済の国として、アメリカへの従属関係を深めているのに対して、朝鮮は社会主義政治の実験室といわれるほど徹底し、社会主義経済建設のために猛烈な勢(で進んでいる。勿論ソ連、中国をはじめとする社会主義諸国と深い友好関係を結んでいることはいうまでもない。
 どうも日本と朝鮮の文化は生まれは近いところのようだが、そこに開花している内容は、今ではだいぶ違ったものになってきているようだ。朝鮮が生まれかわったという意味では、”近くて遠い国”という言葉は、”古くて新しい隣国”と言い換えた方が適切かもしれない。その国、朝鮮民主主義人民共和国の政治や経済や文化がどんなものか、これからわれわれ訪朝記者団の報告を呼んでいただくことにしよう。

張本へのヤジ

 朝鮮から帰ってあちらこちらで書いたりしゃべったりしながら改めて驚き考えさせられたことが一つある。それは多くの日本人が遠いイギリスやアメリカ、あるいはフランスやドイツといったヨーロッパの国々のことをよく知っているわりに、お隣の朝鮮のことをほとんどなにも知らないという事実だった。
 一つには新聞記者の交換も出来ず、お互いに知る権利が奪われているという理由もあるだろう。しかし朝鮮戦争が終ってからここ五年間に日本から朝鮮を訪問した人の数は千人に近いと聞いている。どの人たちも色々と報告している筈なのに、全くといって良いほど現在の朝鮮については理解されていないようだ。
 こんなこともあった。昔日本が統治していた時代朝鮮に住んでいたという老人たちの集まりでのことだった。訪朝記者の一人があれこれと説明しても「私は清津の町なら道の隅まで知っている」 「X Xの工場は私たちが作ったんだからーーー」といった調子でみんな信じようとしなかった。ところが写真を出して色々としゃべっているうちに、一人の老人が「私は金策製鉄所の溶鉱炉を設計した者だが、これは私の設計したのと違う」といいだした。その御陰で他の人々もやっと説明を本気で聞きだしたというのである。
 この話は極端な例だといわれるかもしれない。だが、日本人が新しい朝鮮を知らされなかったというより、知ろうとしなかった。知りたがらなかったという事実をたんてきに物語ってはいないだろうか。それは何故か、この報告書を読まれる前にちょっと考えてみていただきたい。
 プロ野球の好きな人なら未だ覚えているかもしれない。日本の朝鮮の赤十字協定がカルカッタで調印され、在日朝鮮人に対する関心も大分高まってきた頃のことだった。プロ野球大毎対東映の二十四回戦が東京の駒沢球場で行われた。ちょうど東映の張本選手がバッターボックスに入ろうとした時、グラウンド一杯に響く大声でトゲトゲしいヤジを飛ばす人がいた。
 「張本、お前は朝鮮人じゃないか、朝鮮人は国へ帰れ」。張本選手はこれに微笑で応えてバッターボックスに立ち、四球で一塁にあるいた。それを追っかけるようにまたヤジが飛んだ。「皆さん一塁ランナーは朝鮮人です。俺は朝鮮人は嫌いなんだ。」大声で叫んでいるのは、三塁そばの内野指定席に座った白いワイシャツ姿の男だった。
「私は朝鮮人です。私は笑ってあの日本人の顔をみてやりました。なぜなら、わたしは朝鮮人として誇りを持ち、自負心をいだいているからです。東映に入団するとき、日本籍に入れといわれて断ったのもそのためです。私は微笑でこたえ、そして勝ったのです」。試合の終ったあとで張本選手はこう語っていた。
 この話は”朝鮮人”とか”朝鮮”という言葉に多くの日本人たちがいだいている特殊な感情を暗示してはいないだろうか。張本選手のような有名人で、朝鮮人であるとはっきりいっている人は少ない。日本の社会に溶け込んで生活している多数の朝鮮人、とくにスポーツ選手とか流行歌手とかいう人気商売で活躍している有名人たちのほとんどは、朝鮮人であることをひた隠しにしている。
 こんなこともあった。日本赤十字社の幹部で、在日朝鮮人帰還対策中央本部の仕事をしている人が、まだ帰国船の往来のはじまらない頃、新潟の日赤センターを視察したときのことだった。厚生省のお役人から帰国者用の寝具を前にして説明を聞いた。それは自衛隊で使った古毛布で隅には前の使用者の名前や所属を書いた布が縫い付けられたままになっていた。「在日朝鮮人総連合会の幹事が視察にきた時、この毛布をみて、長い間苦労してきたんだ、日本で過ごす最後の夜くらい、せめて暖かい布団にゆっくり寝かせてやろうといった気持ちになれないのだろうかと不満顔でした」
 この報告を聞いた日赤幹部は憤然とした表情でつぶやいた「何をぬかすか。朝鮮人がぜいたくをいうな」
 これはこの人一人の特殊な気持ちとして片付けられるものではないようだ。朝鮮人を対等な外国人として扱かおうとしている人たちの中にさえ、これに似たおかしな感情が無意識のうちに流れている。”朝鮮人”と呼ぶことに何か軽侮な響きを自分から感じ取ってしまい、そうした気後れから、”朝鮮の人”とか”朝鮮からきた方”といった表現をしているのがそれだ。ドイツ人とかイギリス人に対して ”ドイツの人” ”イギリスからきた方” といった呼び方をする人はそういないだろう。どこかで朝鮮人を差別しているからにちがいない。
 こんな話をさいしょにもちだしたのはほかでもない。多くの日本人が”外国”人としての朝鮮人を今でも特殊な色メガネでみているということをいいたかったからだ。そして故意に朝鮮のことを知ろうとしなかったのではないだろうか。
 
ぬぐいきれぬ偏見 

 社会科学者たちの調査や統計でも日本人の朝鮮人に対する偏見や差別感ははっきり裏付けることが出来る。
 国立数理統計研究所が発表した国民性の研究によると、日本人がすぐれた人種や民族と考えているのはドイツ人、アメリカ人、イギリス人の順。朝鮮人は反対に南洋の土人に次いで最も劣った民族とみられている。また泉靖一京大助教授が、東京都民を対象にいった調査でも、「醜さ」「不潔感」「ずるい」「腹黒い」などの理由で朝鮮人を”嫌い”とする人が圧倒的に多かった。
 このような朝鮮人に対する”さげすみ”が、いわれのないものであることもこの頃はたいていの人が知っている。いわれがないというより、長い間の植民支配の手段として、支配者から教え込まれてきたといった方がより正確かもしれないが、そうした優越感が誤ったものであるということに気付いている人は多くなったにもかかわらず、心の底から偏見や差別感をぬぐいきれないでいるというのが現状のようだ。
 このような偏見をもって、われわれの見てきたままの報告を読めば、それが一種の偏向をおかしているように見えるのも無理はない。「五社七人がそろって朝鮮のことを誉めるのはどういうわけだ」「御馳走になって洗脳されたんじゃないのか」「もう少し悪口も書いた方が君のためだぞ」。われわれの書いたりしゃべったりしている朝鮮の報告によせられるこうした批判は、そのまま読んだり聞いたりする側の偏見の裏がえしだといったらいいすぎだろうか。
 現に”韓国”政府の機関誌といわれている東亜日報なども東京一月二八日UPI発として「日本人記者の見た北韓実情」という記事を六段抜きの囲みで掲載しているが、その見出しは「徹底的に犠牲と成った大衆生活」「経済復興は前途遼遠」となっている。
 この引用の仕方がわれわれの報道しようとした真意を伝えておらず、言葉のはしはしを意地悪く利用しているといってしまえばそれまでだが、一方でベタボメだといわれる記事が他方では全く逆の意味で使われているというのが実態だ。事実は一つしかない。
 われわれの報告を信じ難いと思う人があるとすれば、それは日本の統治時代の朝鮮を頭にえがいて、それをそのまま新しい朝鮮に当てはめて考えようとしているからではないだろうか。偏見にとらわれた頭で現実をはかろうとすれば正確に反映出来ないのは明らかだ。
 その意味でこの報告が”近くて遠い国”を少しでも日本に近ずけ(”古くて新しい隣人”たちをより正しく理解するために役立てば幸いだ。


「帰国者」が平壌に着いた
産經新聞東京本社社会部:坂本郁夫 

その日の平壌

 その日、平壌の街は、快晴とはいえ、肌を刺すような北風が吹いていた。「今日の午あとに,第一次帰国同胞が平壌に着きます。市民の間に、大変な歓迎熱がありますが、寒いので、婦人こどもは出迎えを辞退するよう、呼びかけています」私たちは、通訳氏から、こんな”前触れ”を聞きながら朝食をすませた。
一九五九年十二月二十日
 前日,空路平壌入りして、一夜明けたばかりの私たちである。商船のこと等、皆目わからないだけに、単なるニュース予告と聞き流して、夢中で真っ赤なキムチを頬ばっていた。
 ところが、午前中のスケジュールである、祖国解放戦勝記念館見学に出かけようとして驚いた。まだ十時前だというのに、ホテル前の大通りには、色とりどりの増加を持った人たちが、あるいは無言で、あるいは歌を歌いながら、行列をつくって平壌駅の方へ歩いている。
「あの行列は何ですか?」
「帰国同胞歓迎の市民たちですよ」
「まだ三時間もありますよ」
「そうです。市民たちは、心から彼らの帰国を歓迎しているのです。家にじっとしていられないのです」
 いつまでも続く行列をみて、私たちは「こりゃあ大変なことだ」と、つぶやいた。
 記念館見学を終えて、そそくさと駆けつけた平壌駅前。そこで私たちは、思わず立ちすくんでしまった。
 どこから、こんなに、沢山の人たちが出てきたのだろうか。駅前の広場も,駅から帰還者の宿泊所になる大同橋ホテルまでの幅六十五メートル、長さ一・・六キロのスターリン通りの両側も、人また人。
 手に手に、造花やノボリや小旗を持った人たちは、「キムイルソン・マンセイ(金日成万歳)を叫んだり、「金日成将軍の歌」を歌ったりしている。駅前の広場は、大きな興奮で、どよめいているのだった。
 聞いてみると.一五万人の平壌市民が、”帰国同胞”を迎えるため、自発的に出かけて来ているのだという。
 朝鮮に来る前、私は、帰還第一船を送り出すために新潟に行かされていた。帰還列車が新潟の駅に着くたびに、駅前を埋めた朝鮮総連や帰還協力団体の人たちの、派手な歓迎風景、そして「マンセイ」の越えで送られて出ていった船....................。
 過去数年間にわたって、私は”引き揚げ記者”として、中国やソ連からの帰国邦人を興安丸や白山丸で迎えにいったこともあるし、舞鶴で、待ちわびる肉親たちと一緒に出迎えたこともあった。
 日本人の帰国は、敗戦による抑留の果ての帰国であったため、歓迎風景といえば、肉親との再会に”涙する”場面ばかりだった。ところが、新潟で見た、今度の帰還は、”涙”の見えない、”歓声”一本槍の場面ばかりだった.
 その”歓声”うずまく帰還風景に、いささかドギモをぬかれ、圧倒された私たちが、わずか一週間のあとに、この平壌での、新潟の規模を数十倍上回る、”歓迎風景”をみたのである。
 「ヤッテクレタ」  私は、思わず、こう唸って、立ちすくんでしまったのである。
 北風と、大群衆の歌う「キムイルソン・チャング」(金日成将軍の歌) が舞う中に、帰還者を乗せた特別寝台列車が、平壌一番ホームに入ってきた。二十日午後一時五十三分。歌声と歓声がひときわ高まった。
 清津から平壌までの二四時間近い、汽車の旅にも疲れも見せない帰還者たちが、窓から手をふり、小旗を出して、これに応える。
 駅ホームの中央に陣取った李一卿赤十字副社長、李周淵迎接委員会委員長た、政府高官の顔が、ほころびた。
 「案内人」と朝鮮文字で書いた腕章の女学生たちが、長いホームをいったりきたりして、帰還者たちを誘導する。
 一人、また一人、帰還者たちは、ホームを埋めた人垣きから、五色の紙吹雪の嵐をうけながら出口へと向かう。

 「梯団長」と書いた赤いタスキをかけた老人が、若い男の肩車にのせられてやってくる。レイをかけ、帽子も服も、小さな顔も、いっぱいに細かい紙吹雪を付けたこどもが、手を引かれてやってくる。
 拍手をして出迎える政府高官。
 「よく帰ってきたね」ーそう言わんばかりに、差し出す高官の手を、しっかり握り、思わず「マンセイ」と叫ぶ老人。
手拍子がとられ、狂気のように旗がいちふられる。帰還者も、その歓迎のウズにまき込まれて、思わず歌を歌い、拍手をする。
 やっとの思いで駅の外に出れば、今度は一五万人という、身動きの出来ないほどの人たちに囲まれる。バスに乗るが、バスは人に遮られ動けない。
 薄い絹の服を着た若い男女が、朝鮮古来の民族芸術などの踊りや歌を、バスの前で帰還者に披ろうするのである。
 太鼓が鳴り、笛がふかれ、弦楽器が鳴る。それにあわせて、ピンクやブルーの絹の衣裳が舞う。駅前広場は、それこそ、アリの入り込む隙もないくらい、ギッシリつまっているのである。「歌」、「踊り」、「マンセイ」の交錯。
 どのくらいたったのであろうか。その広く、大きな ”環” が少しずつ、バスの通る道を開けていった。僅か一・六キロ離れた大同橋ホテルに、バスの先頭が着いたのは、汽車が着いてから三時間もたったあとだった。
 「まったく、何かに憑かれているような騒ぎだね」
ーー昼飯を抜いたことも,ノドがかわいたことも忘れて、ただ、やみくもの歓迎風景に、モミクチャにされた私は、誰かに話しかけながらタイプをたたいた。

ーー帰国者の一人、盧敬子さん(二四)=川崎市浜町四-一=の話 
昭和薬科大学を辞めて平壌薬科大学に入るために来ました。もちろん生まれたのは日本で、両親と妹は日本に残っています。やはり感激と喜びで一杯です。元気にこれからやって行こうと思います。
ー日本人妻の山中鈴子さん(二六)=千葉市緑町=も「元気で着きました。これからのことは全部おまかせします。歓迎は涙が出るほど嬉しく、知らない国という不安は消え飛びました」と語った。
行数の関係もあるし、電報事情もあって見たり聞いたりしたことの全部を書くことは、もちろん出来ない相談だった。しかし、私たちは書くべきことは、みんな書いた。
 ローマ字の電報は、平壌ー上海ー東京と打電され、二一日付各紙の朝刊のトップを、賑やかに飾った。

「北朝鮮帰還者感激の平壌入り

 市民十五万が出迎え 手に手にバラの造花持ち」
という見出しで.........。
 ”何かに憑かれたような騒ぎ”という言葉を私は使った。
平壌の街中が、誰か、名指揮者のタクトで大交響楽団が、整然と、一大シンフォニーを奏でるように、秩序整然と「歓迎劇」を、”上演”しているからである。
 日本だったら絶対に、こんな風景には、おめにかかれない。東京といわずに、どこか小さな県庁の所在地くらいの都会を想像したって、小さな村を考えたって、出来そうにないことである。
 お国柄が違うといってしまえば、それまでだが.....................。
 しかし、なぜ、この国の人たちは、こんなに、憑かれたような騒ぎを続けて、帰還者を迎えるのだろうか。ーーこんな疑問が湧いて来るのは当然だ。
 田仁徹(へんはサンズイ)、林哲さんら、われわれを案内してくれた人たちは、この疑問に、こう答えてくれた。
「朝鮮が北朝鮮と南鮮(韓国)の二つにわかれてから十五年。北朝鮮はその間、国連軍を相手に戦った。一九五三年七月、朝鮮戦争が終わったときは、傷ついた国民と、全くの焼け野原だけが北半分に残されていた」
「それから六年余、北朝鮮は遅れをとりもどすのに必死だった。学生も、婦人も、労働者も、みんなが動員されて、祖国復旧に死力を尽くした。機械なんかはもちろんなかった。シャベルとモッコ、それだけだった」
「シャベルとモッコで焼け跡を掘りかえし、土を捨て、道をつくった。有り合わせの機械で、家を建てた。レンガ工場がないので、手でレンガを焼き、そのレンガを使ってレンガ工場を建て、住宅用のレンガをつくった。戦災で廃品同ようになった工場の機械を復旧させて、どしどし立派な機械をつくるようになった」
「一千万国民の血と汗の結晶が、今、目の前にある平壌です。もちろん、まだ日本をはじめ、先進国に遅れを取っている。しかし、、かつて、国もなく、貧乏のどん底に喘いでいた朝鮮から見れば大きな発展であり、喜びである」
「金日成首相同志(同志という言葉をよく使う)も言っているように、今の北朝鮮は、まだ”中農”ほど度の段階だ。しかし”貧農”からは足を洗った。貧しいながらも”中農”なのである。二年前だったら、おそらく、帰国同胞をうけ入れることは出来なかったろう。帰国同胞を引きとるだけの”実力”というか、”下地”が出来あがったのである。ー国を持った喜び。復興の喜びーその具体的な現実として行われた「帰還」。それだからこそ、国民の一人一人が、帰還者を歓迎し、国中が「帰国」一色に塗りつぶされたのである。憑かれたような騒ぎが持ちあがったのである。
 両親と離れ、はじめてみる故郷に、期待と不安を抱きながら、第一次帰還船に乗ってきた盧敬子さんとは、平壌駅前に並んだ帰国者輸送バスの中で逢った。
 バスの中で、東京のデパートの包み紙に包んだ荷ものを持ち、何かしょんぼりと、立っていた帽子を被った若い女性。
「お疲れになりました?」
「ええ船酔いしまして...........」
 歯切れの良い日本語が、彼女の口から、とび出した。私の日本語を聞いてか、元気をとり戻したようだった。
 父親が朝鮮総連の幹部であること、母も妹も川崎に残っていること。どうしても”祖国”に帰りたかったこと。薬剤師になることを志していること........などが、スラスラと語られた。
ーー清津に着いた日、零下一五度に下がった寒暖計をみると、思わず、両親や妹のところに、飛んで帰りたい気持ちになりました。たった一人で、見も、知りもしないところにきたんですもの。
ーーだけど、船から一歩上陸した途端、私の、そんなセンチメンタルな気持ちは、どこかへとんでいってしまいました。出迎えの人たちが五万人もいたでしょうか。雪の降る、冷たい戸外で、私たちを待っていてくれ、それこそ、抱きかかえるように、休憩所に連れていってくれました。
ーーあったかい紅茶と、ビスケット。外の寒さとは比べものにならないくらいのスチームの効いた部屋。朝鮮服を着た若い女の人たちが、手をとるようにして、何でもしてくれる。温かい紅茶を、大事に、ひと口ひと口すすって、私は、新しい”祖国”に住む覚悟をかためました。
ーー大の男が、”俺たちには,こんなに歓迎される理由がない””ほんとの親子だって、これほど温かく迎えてくれない”といって泣き出し、奥さん方は奥さん方で、”もったいないもったいない”と涙を流していました。
ーー清津に四日間いて、一九日の午あと三時半、私たちは汽車に乗りました。この間中、私たちはゴチソウぜめに合いました。毎日、食べ切れないほどの料理が出ました。日本にいる朝鮮人の生活というのは、一部の人を除いては、皆、いちように苦しいものです。食べたいと思っても、買えなかった肉や魚。それが毎日、もてあますほどつくのです。
ーー「こどもが、リンゴを食べたいといっても、日本では買ってやれなかった。ほんとにリンゴの夢を見たことも有ります。それが、帰還船に乗ってから、毎日着くのです。こどもが喜んで、リンゴを食べている姿をみて私は涙が出て、しょうがありませんでした」といった奥さんもありました。
ーー清津から平壌まで、二四時間近い汽車の旅でしたが、汽車がとまれば、駅毎に盛大な歓迎をうけ、湯茶の接待もうけました。ほんとに、どういったら良いか、わからないくらいの感激です。
ーー食べなれない辛いものも食べて、胃をこわしたら........というのでしょう。清津の食べものは、私たちに向くように辛みをへらしてくれていたということです。
ーー何だか、ジーンとなっちゃった。
敬子さんは、バスのシートの背に顔を伏せてしまった。
清津に向かう
 翌二十一日、私たちは、第一次帰還者の盧敬子さんら九七五人のきた道を辿って平壌を発って清津へ向かった。
 敬子さんたちが、口を揃えていう”大歓迎”を、この目でたしかめたかったからである。
 十六時間五十分の汽車の旅を終えて、降り立った清津には雪が舞っていた。
 早速、清津市迎接委員会を訪ね、金弘善委員長、金洛(サンズイに叡の右)委員らと逢った。
 金委員長等の話によると、帰還が決まってから、わずか四0日間で、五階建て一七四室、千人を修養出来る、アパート形式の”仮泊所”(招待所)をつくったという。
「朝鮮人の生活はオンドルとは切り離せません。だから、このアパートも、全部オンドルです」という。
 招待所には,食堂、病院はもちろん、図書室、娯楽室、銀行、日用品売店などがある。
 招待所には、百五十人の専任職員がいるが、このほか、帰還船が着く埠頭にはアルバイト学生の”案内人”が数百人いる。船が着く日は、学校は休み。職場は保安員だけを残して、市民の大半が出迎えに行く。人口二十万の清津の、四分の一、五万人が第一船を出迎えたという。

「第一船を迎えて.受入れ側である、貴方たちは帰還者をどう見るか」
ー私たち記者団は金委員長に、こんな質問をした。
「抱き合って泣いた人もあるし、二十年振りにくらいで逢った肉親の変わりように、驚いて声も出なかった人もある。”劇的”という他にはないだろう。帰ってきた人は、ほとんど泣いた」
「印象に残ったことといえば、三十年振りに、オンドルのある部屋に入った老人が、涙を流しながら、骨まであったまるような気がする。ほんとに、固かった骨もとける..........と何度もくりかえしたこと。日本で生まれたこどもたちが、祖国の土を、はじめて踏んで、祖国の水をのんだ、その姿ーーこの二つは、私の記憶から永久に消えないだろう」

 二十三日は、また、雪だった。零下十二度まで下がった寒暖計は、いっこうに、あがろうとしなかった。
 メリヤスのズボン下二枚に、毛のズボン下、長袖のシャツ三枚にワイシャツ、セーター、背広、オーバー、帽子には北京で買った耳隠し付き。自動車のシートに座れば、ちょっとやそっとでは立ちあがれないくらい、ダブダブに着込んだ私は、港へいった。
 真白な粉雪が、サラサラと音をたてて降り、”最高の寒さ”に唇も紫色になる。だが、その寒さの中で、頬を真っ赤に染めた人たちが、じっと船の到着するのを待っていた。おとなも、こどもも....................。
 中には、薄いチマ・チョコリ (朝鮮服) を着た朝鮮民族芸術サークルの男女もいる。真っ白な制服の看護婦もいる。
 思わず通訳の朴さんに
「あれで寒くないんですかね」
「いやァ、みんな慣れています。」という答え。思わず首を傾げてしまった。
 「八・・一五記念日とか、メーデーとか、国の、お祝いの日には、国が号令をかけなくても、市民たちは、自発的に町に集まり、お祝いをします。こんどだって、船がいつに着くとわかれば、みんなが、自発的に出て来て、こうして出迎えるのです。国には命令はありません」
「学校だけは休んで居ますが................。みてごらんなさい。みんな楽しそうに、歌を歌い、踊りを踊っているではありませんか。心から帰国同胞を待っているのです」
ーーその”自発的”な歓迎風景はーー船が着くまでは、埠頭の休憩所の前で、船が岸壁に着けば船の前で、帰還者が埠頭から六.二キロメートル離れた招待所に入る時は、招待所の前へ..........と移動して行く。
 招待所に、帰還者が全員入ってしまえば、今度は、その前でプカプカ、ドンドンと「キムイルソン・チャング」の大合唱。
 雪を真白に被りながら、手袋もしない小さな赤い手に、時々、息をプゥーと拭きかけながら、小太鼓を叩いていた、小学校一年生の女の子の姿が印象的だった。
 に授産日は、第二次帰還者が清津に着いた日。船の到着が午あと一時三五分だったが、清津の町や埠頭で、歓迎の騒ぎが繰り広げられたのは、午前九時から午あと、夜も暗くなるまで。
 抱き合った。泣き伏した。呆然とした。我を忘れて「マンセイ」「マンセイ」と大声で叫んだ。
ーー船到着から招待所までの光景は、この言葉で表現するだけで良いだろう。
ーー精力的な歓迎。
 平壌ー清津とみて歩いて感じたことである。朝鮮の人は、あの辛い唐辛子とニンニクが大好きだ。私たちが東京で食べる朝鮮料理なんて、本場のとくらべたら”朝鮮料理”ではないような気がする。

 その唐辛子とニンニクが、精力的な、力にあふれた体をつくる。子の国民がサッカーをもっとも愛好することでも、その”力”が分かる。
 その”力”が、国を持った喜びと復興の喜びの具体的な現れとしての”帰還”で、最高度に出される。
 雪も、寒さも吹き飛ばす”熱い歓迎”。
 ほんとに、”熱い歓迎”だけがあるのである。

 北朝鮮政府は、在日朝鮮人の帰還問題が、日本政府で検討されはじめ、藤山外相が、「近く帰還を実現させる」と、はじめて明らかにした一九五九年一月、早くも、その受入れ態勢をつくりはじめていた。
「貧乏のどん底にあり、職を求めて海外に散っていった人たちを、今、国の基礎が固まり、充分とはいえないまでも、国民のみんなが安楽に暮らせるようになった時に、 喜んで迎え入れ、われわれと同じように安楽な生活を享受させること.これは、同胞愛からほとばしる民族的義務ではないだろうか」これが、その理念であった。
 このため、政府には李周淵副首相を委員長とする帰国同胞迎接委員会が出来、帰還者うけ入れの一切を行うことになった。
 もちろん、この下部組織として、日本の県に当たる道をはじめ、市、郡にも、それぞれの迎接委員会が出来、受入れ対策が、各道、市、郡別に、それぞれきそわれた。
「いつでも帰ってらっしゃい」ーー一九五八年一年間で、平壌だけで二万三千世帯分の住宅が建った。このスピードでいつでも帰還者用の住宅が出来る。何人でも、直ぐにうけ入れられる態勢がつくられていたのである。
 金日成首相も、この帰還者受入れには、大変な気の使いようで、帰還者には、当座の生活安定のために、一人あたり二百円(日本円三万円相当)の補助金を出すことを指示した。
 二百円といえば、北朝鮮では、労働者の給料の四ヶ月分くらいに当たる大金。迎接委員会では、現金を与えるよりも、必要な日用品を取り揃えてやった方が、兎に角便利であるという見解をとり、現金は一人当たり二十円(日本円三千円)を補助金として出し、残りの金で、家具、日用品を買うことにした。
 この国は、社会主義国である。自由主義国の日本等とは、恐らく、総てが違う。第一、失業がない。国民の一人、一人が、もし、その人が働ける環境にあれば、必ず”職”がある。
 だから、帰還者も、例外無く、その能力、技術、知識を百パーセント発揮出来、生活楽器、九速に安定出来るように、配置される。
 住宅があって、日用品も揃い、職場もきまる。あとは、こどもの教育。
 教育については、これも、政府の方針で、日本で大学の学生だった者は、無試験で、該当学年の大学に編入される。
 今の、北朝鮮の学校制度では、大学に入るには、高級中学を卒業あと、一度、社会に出て、二年くらい、みっちり働き、”技術”を身につけてからでないと、大学は入学資格がないが、帰還学生には、これが適用されない。ひとつの組織で動く、この国にあっては、まさに破格の出来事だ。

 中学生(高級、初級とも)、小学生については、語学の関係もあって、日本の学生より、一年下げて編入される。つまり、日本で高三だったものは、朝鮮の高級中学二年に編入される。
 もちろん、独身大学生用に、大学の寄宿舎は、空けてある。手抜かりはない。
 帰還者が、新潟で船に乗れば、あとは、ベルトコンベア式に、スムースに、ことがはこび、新潟出発後一0〜一五日くらいで、北朝鮮に安住の地が出来る仕組みだ。
張さんの話
張姞洛さんは、夫の崔元喜さんとともに、一家七人で、第一次帰還船で帰って来た。夫の崔さんは、茨城県古河市で、朝鮮総連茨城西南支部長をつとめていた人。
「日本にいたときは、とても惨めでした。お祭りの夜に、娘に一枚の着ものも買ってやれず、一銭の小遣いも持たせなかった事は,今でも悲しい想い出です。夫も、いつも熱心に仕事し、上の人ともよくやっていましたが、その勤め先が潰れたりすると、今度は、次の仕事に不安が来る。戦争中はある工場の課長まで努めましたが、戦あとは、苦しくなる一方。ついに、組織の仕事をする他無くなりました。大きくなったこどもの就職の事も考え、帰る事にしたのです」
 張さんは、帰還の事情を、こう話した。
 その張さん一家だが、二0日、平壌の大同橋ホテルに、ひとまず、落ち着いてから、僅か四日間で、夫の崔さんの仕事をはじめ、こどもたちの学校も、全部きままった。
 政府の迎接委員会の人が、本人の希望を聞き、政府の計画とにらみ合わせて、仕事をきめてくれるのである。
 崔さんは、日本にいた時、苦学して日大法学部を卒業した経歴があるので、委員会の人は、
「裁判所に勤めたらどうだろうか」といったそうだ。
 崔さんは、
「とんでもない。私には、堅苦しいところはむきません」と答えたという。
 結局、崔さんは、簿記を習ったことがあるというので、平壌精密機械工場の経理をやることになった。
 長男正竜君(二一)は、日本にいたとき、芝浦工大土木科三年に在学、東都大学野球リーグ戦では、四番を打って、一塁を守って、ちょっと有名だった。”永山正竜君”。正竜君は、金策工業大学に編入された。
 長女英子さん(一八)は音楽大学へ、次男栄司君(一五)は、高級中学、次女成子ちゃん(一一)は、初級中学、三男正守君(九つ)は、小学校にあたる人民学校へ。
 住宅には、平壌市外城区橋口洞十四亜アパート七十四班。三間で浴室付きのアパートが与えられた。引っ越しは二五日。新潟を発ったのが一四日だから、一一日目に、新居におちついたことになる。

 大同橋ホテルから、アパートに来て、ほんとに驚くことばかりですーー張さんは、こう語る。
「家に入ってみたら、テーブルや箪笥はもちろん、七人分の椅子、茶碗、湯のみ、手拭いが全部、キチンと置いてあるではありませんか」
「そして、台所には、一ヶ月分のお米と、肉、魚、野菜、調味料が置いてあり、お豆腐やキムチまである。ちょっとみて下さい。あのお豆腐まだ残っているんですよ。食べ切れなくて........」
「引っ越したら、直ぐ、隣組組織の”女性同盟”の人が来てくれて、荷ものをほどくのや、掃除を、色々手伝ってくれました。ここはオンドル式に出来ているでしょ。お米の炊き方や、オンドルの火のつけ方を、どうしようかと思っていたんです。そんな心配なんか、どっかへいってしまいました」
「馴れるまでオンドルをたいてあげましょうーーといって、女性同盟の人が、毎日、あさに来てくれるのです。見よう見真似で、私も、大分、うまくなりました。同盟の人たちは、それこそ、喜んでくれました」
「ええ、もう大丈夫です。夫は十五の時、朝鮮を離れ、日本に行きましたし、私も、こどものころに日本に移りました。だから、来る前は、やはり、ちょっと不安はありました。しかし、それも、もう解消しました。これからは、一家七人、生まれ変わったつもりでやっていきます。
「日本の、私たちの知っていた人たちは,みな親切でした。ただ、朝鮮人ということで、常に仕事(就職)に対する不安がありました。こどもを野球選手にしたのも、就職ということを考え、不良学生にならないで、明るく生きて行けるようにと考えたうえでのことでした。でも、いまとなってみれば、そんな心配もいりません.............」
 黒いチマ・チョゴリを着た張さんは、一二月二七日、新居を訪れた私に、こう明るく話してくれたのである。
 張さん一家とともに第一次船で帰った九七五人の人たちは、どのように配置されたか。委員会に聞いてみた。
 独身学生所帯を除く二四二世帯の内、一六七世帯は工場に、五世帯が農村に配置された。工場に配置された者の中には、普通工員でない技師、技術者や、専務を執る管理部門系統も含まれる。
 残り七0世帯は、社会団体、文化団体などに配置された。写真技術者は写真報道社、芸術関係者は芸術団体へ。医者は保険機関へ。その他、国家機関といわれるお役所や、職業同盟、女性同盟など、社会団体へ..........。
 もちろん学生は希望通り、学校へ入れられ、大学生二四人のほとんどは、金日成大額に編入された。
 平壌に落ち着いたのは九六世帯。残りは平安南道、平安北道に配置された。
 委員会の話では、日本で個人企業をしていた人は、その人の能力や希望によって工場等に配置、部、課長、技師になって働いてもらう。第一船の人たちの中には、自分の仕事を選ぶことが出来ない人がいたが、この人たちには、まず各地を見学旅行させ、そのうえで、仕事を選んでもらうようにしたという。
 国家の計画と、個人の希望ーーその二つによって、帰還者は、北朝鮮到着後f、一0〜一五日で、各地に散ってゆく。

ある日本人妻
 本川玉代さん(三三)は、東京都世田谷区上馬二-四六から日本橋の商事会社に勤める夫、玉末守さん(三七)とともに、第二次船で帰った”日本人妻”だ。
 おからばかり一ヶ月も食べたこともあるし、メリケン粉だけの日が二ヶ月も続いたこともがある。日本ではそれほど苦しかった。
 川越にいる七十二歳の老母は、
「あんたは、夫を好きになって結婚した。国籍が違っても、好きな人と結婚するのは当たり前。どんなに苦しくても、夫と別れたりしてはダメだ。立派な国際結婚なのだ」と、常に玉代さんを激励していたという。
 ”朝鮮に行ける日が来る”ーー新聞が伝えたのは、一九五九年の一月だった。
 玉代さんは、是が非でも、北朝鮮に行こうと、夫に話した。夫の玉さんは、
「折角、立派な勤め先があるのに。もう少し経って、よう子をみてから..........」と消極的だった。朝鮮人である夫が消極的で、日本人である妻が積極的に「帰還」をしたいと願った。
 はたからみれば妙な、取り合わせだった。しかし、玉代さんは、その日から、一生懸命朝鮮語の勉強にはげんだ。
 週二時間ずつ二回の勉強ーーその熱意に動かされたのか、夫の玉さんも一緒に帰るといい出した。
「字は読めるんですが、話が通じないので...........」
玉代さんは、私に逢った時、こう漏らしていたが、今では、もう立派に会話も出来るようになっただろう。

 玉代さんの話ではないが、帰還が実現するまでには、かなりの曲折があった。
 六0万人を越える在日朝鮮人のうち、一九五九年一月現在、北朝鮮に帰還を希望するものは一一万七千人(朝鮮総連調べ)に達していた。
 これより先、一九五八年九月八日、金日成北朝鮮首相は、在日朝鮮人の要望に応え、「在日同胞の帰国を歓迎する.新しい生活が出来るように、総ての条件を保証する」と演説、九月一六日には、南日外相が、帰還船希望者引き渡しに関する日本政府宛の声明を発表。一0月一六日には、金一副首相が、旅費負担と配船の準備があるという談話を明らかにした。
 日本国内でも、このような動きを反映して、「在日朝鮮人帰国協力会」が発足、朝鮮総連とともに、帰還実現に積極的に動き出した。
 政府は、このような背景の中に、北朝鮮問題を検討した結果、日韓会談が、いつになっても再開されそうもないこと、帰還希望者を、いつまでもとめておくことは、居住地、帰還先選択の自由に反することーーなどの理由から、人道問題として早急に配置するという方針を決め、二月一三日、閣議了解で、「帰還」を決定した。
 そして、韓国への影響もあるため。厳正中立な立場にある赤十字国際委員会に、その仲介をとってもらうことにし、直ちに日赤本社を通じて、その要請を行った。
 人道を旗印とする赤十字にバトンが渡ってから、日赤は、島津会長を中心に、全社を挙げて、帰還問題ととり組んだ。
 四月一三日から、スイスのジュネーブで開かれた日朝赤十字会談は、ある意味では難航した。
 北朝鮮側が、まず、赤十字国際委の介入は不必要であると、日本案に反対したからである。
 日本側としては、韓国からの横ヤリを防ぐため、公正な第三者である国際委の「介入」を必要条件とした。つまり、国際委が、その帰還が本人の自由意志であるか、どうかをたしかめないことには、韓国に対し、納得のゆく説明が出来ないからであった。
 四月一三日から六月二四日まで、会談を重ねること十八回、やっと、日朝赤十字の間で合意が成立した。そして、協定が出来あがり、国際委の承認を待って、調印することに話し合いがついた。
 日本側は葛西副社長、北朝鮮側は李一卿副社長を団長とする両代表団は、お互いに、よく話し合った。
 もちろん、「人道」と「政治」は、紙一重でその間のかね合いも、むずかしかった。島津社長が、ともすれば、”政治的”に動こうとする政府に、ダメ押しの陳情をするため、岸首相や、藤山外相に「直訴」したこともあった。
 妥結した朝、記者団とともに徹夜し、日赤食堂でつくった味噌汁をすすりながら、島津社長がいった言葉ーー
「やっと肩の荷がおりた感じだョ。戦争中は交換船でフィリピンの米軍捕虜たちに援護もの資を配り、戦あとは国際委の代表と一緒に国内の捕虜収容所を回って捕虜送還をした。昭和二十八年には、一月に中国、十月にソ連にいって邦人引き上げ協定をつくった。どれも割合に上手くことが運び、今度ほどのことはなかった。今度が一番大変だった」
ーーほんとに実感がこもっていて、忘れる事が出来ない。
 私は、この交渉の間、初めから終わりまで、ずっと日赤をみてきた。日赤がどんなことを考え、どのようにつとめて来たか、恐らくほとんど全部を知っている。
 だから、この島津さんの言葉が、忘れられないのかも知れない。日赤は、とことんまで、全力を出して、帰還実現に努力した。
 私は、北朝鮮を去る、案内役の前夜、田さんをつかまえて、大いに、この点を強調した。、
 誤解があってはならないからだ。
 田さんも、ジュネーブに、労働新聞特派員として出かけた、ベテラン記者。
「日赤と、北朝鮮赤十字の、言わば民間外交が結実したのです。現に、帰還者が続々帰って来ているのではありませんか。人道万歳です」
田さんは、こう言っていた。
 
 日朝赤十字で話し合いが着いたものの、今度は国際委がいっこうに腰をあげなかった。自由主義陣営から、社会主義国への帰国という点もあったろうし、韓国、米国とのかね合いもあったろう。
 しかし結局は、国際委も、「人道」の名において、乗り出しを決定し、八月一三日、インドのカルカッタで、日朝両代表による調印が行われた。
 やがて、国際委代表が来日し、九月三日は、帰還の手引きともいう「帰還案内」が、日赤から発表された。そして九月二一日から、一斉に受付開始を予定した。
 ところが、帰還者世話人の立場にある朝鮮総連では、「帰還案内」のうち、「意思確認」「面会、外出禁止」など三項目は、人権無視であるとして反対、申請拒否という闘争に出て、混乱した。
 実際のところ、日赤自体、この三点については、初めから、これほど強くしようとは考えておらず、むしろ国際委の助言によって”完璧なもの”が出きたことに、苦慮さえしていた。
 一時は帰国棚上げ論も出たが、政府、日赤、朝連と、あっせんの役を買って出た衆院外務委員会委員を中心とする国際議員団との間で話し合いが着き、一0月二八日、ようやく解決した。
 一一月四日、機関申請は再開された。開店休業を続けていた窓口は、四五日振りに活気を呈した。初日だけで三,八六三人が、申請した。
 この日をどんなに待ち望んでいたことだろう。どの窓口も、喜びに溢れた帰還希望者でいっぱいだった。ーーー
振り返れば長い、長い間でしたーーーー本川玉代さんは、平壌の大同ホテルで、こう、つぶやいた。
「いつかは、夫の国に来ると思っていたのですが..........」
その玉代さんは、大みそかの夜、金日成首相招待の新年迎えの宴会に招かれた。
 その日、玉代さんはホテルの流し場でこどもの靴下を洗っていた。
「奥さん、ちょっと集まって下さい」
誰かが、呼びにきたので、行ってみると、ホテルにいる第二次帰還者の内、一三人が大みそかの金日成首相招待宴に呼ばれたというのである。
 日本人としては、玉代さんが、たった一人の代表だ。

「一九六0年を迎える新年宴会に、同志を招待する
 一九五九年一二月三一日二三時 内閣庁舎    内閣」

 玉代さんは、朝鮮文字で書かれたインビテーション・カードを握ってはなさなかった。
その夜、玉代さんは、まだ落ち着き先が決まらないので、荷ものをほどく事も出来ず、新潟以来、ずっと来ているピンクの手編みのセーターに茶色のスラックス姿で宴会に出かけた。
 豪華なシャンデリアに輝く一室で、政府、党幹部とともに、金首相招宴に臨んだ彼女ーー
 金首相がつかつかと、そばに来て、
「乾杯しましょう」と言った。
隣りにいた議員さんが通訳してくれた。

 玉代さんは、ブドウ酒をグッと飲み干した。甘いも、辛いも分からなかった。ただ、心臓がドキドキして、顔がほてっただけだという。
「全く、夢みたいだ。死ぬまで、このインンビテーションカードは離しません。だが、このブドウ酒とともに、今までの苦労も、皆、吹き飛んでしまいました。あとは、私の体の半分に流れている日本人の血に、恥ずかしくないよう、朝鮮の人に笑われないように頑張ります」
 私は玉代さんの幸福を祈って別れた。
ーー帰還者の一人、一人が、私の逢った限りでは、みんな幸せそうだった。
 北朝鮮帰還を実現に移したことは、これら帰国した人にとって、よかったことだ。
 帰還実現に努力した日赤の島津社長らに、是非一度、このっ光景をみせてあげたい。
 島津さんは、きっと、帰還者の一人、一人と、手をとりあい、抱きあって、ともに喜ぶことだろう。
 人道の花が、みごとに実ったーー
 この玉代さんに逢った日、私は、こんな原稿を,夢中でタイプしていた。

ある運転手君との会話
 東京に帰って、二三日たった、ある日、乗っていたタクシーの運転手君に話しかけられた。たまたま私と同僚が話していた、朝鮮の話を、「悪いとは思いながら聞いたんですが.........」:という前置きで、彼は、こういった。
「私は朝鮮人です。三月に向こうに帰ろうと思っているものです。北朝鮮に新聞記者の人たちが行って、色々報道してくれたおかげで、よく事情がわかりました。ぢかし、一つだけ得心の行かないことがあります。良い点だけが強調されて、悪い点がほとんど書かれていないのです。日本の人から見れば、まだまだ遅れている点が多いでしょう。そんな点を,私たちは知り、そして帰りたいのです。行ってから、がっかりするよりも、ここはこういう国だということを、予め頭に入れておきたいのです。」
 私自身は、この点も新聞に書いたつもりだった。だが、この運転手君の質問に、改めて答えなくてはならなかった。朝鮮総連の都内のある区の委員をしているという彼は、喜んで、私の話を聞いてくれた。

 日本人の目から見たら、北朝鮮は、まだ、たしかに日本の水準には至っていない。
 金日成首相が、われわれ記者団と逢ったとき、「朝鮮は、やっと”中農”ほど度になったばかりだ。これから、みんなで建設して、そして富んでからセイタクをする」と言った。
 国内のどこを見ても、「建設」一本槍である。”千里馬運動”という生産運動が展開され、一九六0年は、緩衝期という調整の年、総てを一九六一年からの第二次五ヵ年計画にかけている。
 第二次五ヵ年計画を終えれば........。それまでは国民の消費生活は、最低線の保証に留められている、未来に希望があろうというものだ。
 現在はーー 
 衣、食、住、は基本的に保証されている.「基本的」というのは、最低線保証のことだ。
 一般労働者の平均給与五0円。そのうち家賃は水道、電気料込みで一円、米代一五日分一円二0銭(三人家族)。副食費三0〜三五円という支出である。学校、病院は無論タダ。社会主義国だけに福祉面は発達している。しかし、われわれ日本人から見たら、このような生活内容では、息苦しさが残る。いわゆる”消費面”が全くないからだ。
 ガソリンをソ連からの輸入に仰ぐ北朝鮮では、ガソリンは血の一滴だ。お役所の自動車も所有台数の半分以上(例えば教育文化省では八台中五台は動いていない)が動いていないし、タクシー等はもちろんない。ライターも見かけない。東京の自動車洪水等、この国では、”お話”としてしか聞かれないだろう
 自動車は月産三千台、リヤカーも量産されていない。お隣の中国では、今や自転車ブーム。ある大臣は「自転車は、近く月産三万台に増やす。運搬機関が発達しなくては、なんとも仕ようがない」とわれわれに言った。
 平壌市内の帰還者落ち着き先を回っていた時、あるアパートの前に、新品の電気冷蔵庫と電気洗濯機が、荷造りしたまま置いてあった。
 北海道の釧路からきたという夫婦は、われわれの好い取材対象になった、。

ーーこれは両方とも新品ですね。
「ええ、住んでいた家を売って、買って来ました」
ーーこれから荷をほどくのですか。
「まア。この冷蔵庫と洗濯機は当分しまっておきます。なぜかといえば、このアパートで、これを持っているのは私たちだけなのです。招待所の人は、どんどん使っていいと言ってましたし、電気関係のお役所に頼めば、コンセントをつけてくれたり、、電気をくれるといってましたが、みんなが苦労して復興に努力しているのに、自分たちだけが、これを使う気持ちには、とてもなれません。アパートの人が、みんな持つようになったら、出して使います」
 通訳の田さん、朴さんが口をはさんだ。
「あなた、なぜ使わないんです。使っていいんです。招待所でも、そういったでしょう。我が国は、社会主義国です。しかし個人の所有物にまで干渉はしません。個人が個人からサクシュすることーー女中を置いたりすることは禁じますが、個人の所有物には何の制限も加えません。車を持って来た人にはガソリンを配給してあげるし、電気製品を持って来た人には電気をあげましょう。使っていいんです」
 しかし、材料の関係から蛍光灯、ラジオの国産がむずかしく、電気洗濯機、冷蔵庫も、まだ試作の段階という。この国の事情を、恐らく知っている、この帰還者の夫婦は、果たして、電気製品を使えるだろうか。



「せっかくそう言うんだから、使おうや」と考えるのは、われわれ日本人。
 通訳氏の説明は、たしかに理くつにあっているが、絶対主義の社会主義国では、そんなワガママが許されるかどうか。
 われわれ記者団の中でも、この電気製品を巡って、「使える」「使えない」の論争がまき起こったが、私は後者に手をあげる。
 北朝鮮滞在中、幾度となく見た、あの、組織的な大衆動員による”大歓迎風景”。その”組織”の中に、新しい一員として入った帰還者は、やがて、もっとも早い機会に、みんなの力で同化され、第二次五ヵ年計画の貫徹のために働く、千里馬運動の一員になってしまうーー大歓迎風景をみていて、私はこう感じた。
「アパートの人たちの洗濯を一手に引きうけたら..........」ーー記者団は、こんな言葉を残して夫婦のもとを去った。
 苦労して過ごした日本での生活の末、やっと手に入れた新品の電気製品が、もの置から出されて、陽の目をみる日の、早く来ることを祈りながら.........。

「北朝鮮に行けば、職がある。日本にいる時より、ずっと楽になる」
こんな気持ちで来られたのでは困る。新しい北朝鮮に住むには、それだけの覚悟はいる。車が縦横に走り、電気製品が普及し、ダンスホール、キャバレー、バーと夜の歓楽街のある日本とは、自らちがう。遊ぶ施設、ゼイタク品はない。ただ”建設”あるのみの社会。
 末来を楽しみに生きる国---それが北朝鮮という国だ。

 こどもだってそうだ。アメリカのスポーツである野球はない。こどもを連れて来る人は、日本の漫画本や玩具は、船に乗る前に、こどもから離し、こどもを、一日も早く,北朝鮮に馴れさせるために、北朝鮮の本を見せ、北朝鮮の遊びを覚えさせなければならない。親として、こどもには、是非、こうやってやりたい。
ーーある主婦は、しみじみといっていた。

 朝鮮人の運転手君は、こんな、私の話を黙って聞いていた。
「よく分かりました。みんなが知りたがっていることなので、早速、この話しをしてやりましょう」
「私だって、今、毎月四万円から五万円の収入があります。一応、家具も揃っているし、それほど苦しい生活はしていません。向こうに帰れば、今より苦しく、厳しい生活をしなければならなくなるでしょう。それでも私は帰るつもりです」
「私が、帰ることに、ふんぎりを付けたのは、こどもが可哀想だからです。日本にいて大学を出ても、朝鮮人なので、良いところでは雇ってくれません。せっかく育てても、こんな惨めな目にあわせてしまう。親として、しのびないのです。出来るなら、生まれ、育った”日本”を、いつまでも,”第二の故郷”として、美しい想い出の中に残し、いつか、日本に”里帰り”する日があるように、こどもたちが悲哀にぶつからない前に、帰りたいのです」
 ある高名な評論家は、ラジオの座談会が終ったあと、私たちに、こう言ったことがある。
「戦争中なら、一億総決起とか何とかいって、国民を一線に揃えさせることが出来るが、平和な時に、千里馬運動なsどのかけ声で、国民を動員出来るなんて、大した国だ。私はそこに頭を下げる。だけど、その国に住みたいかと聞かれたら、ノーという。いってみたいかと言われたら、イエスと答える」
 日本人の社会主義国北朝鮮に対する、代表的な観方だろう。
 生活環境から来る、一つの息苦しさ、圧迫感ーー自由に育ったわれわれには、到底耐えられないものがある。
「しかし、帰った人たちが、みな、未来に希望が湧き、苦しさが未来の繁栄につながる建設の一課ほどとして消化されてゆくのなら、いいではないか。日本人と朝鮮人との間にはものの考え方に、色々違う面があるだろう。帰った人たちが、喜んでくれさえすれば、私たちのやった仕事が、赤十字の精神に則った人道主義としての輝かしい業績になるだろう」
と、島津日赤社長はいう。
 帰る人も、受け入れ側も、双方が喜びの中に続けられる帰還。
日本海エキスプレス(九行)という愛称をうけた二隻の帰還船は、人道の使途として、今日も日本海の荒波を蹴立てて、ピストン輸送をいっている。
 日本海エキスプレスの平安な航海を祈ろう。

北朝鮮帰還が実現するまでの経緯
▽一九五八年九月八日=金日成首相、「在日同胞の帰国を歓迎する」と演説。
▽同九月十六日=南日外相、帰国希望社を引き渡して欲しいと日本政府宛の声明を発表。
▽同十月十六日=金一副首相、配船準備ある旨を語る。
▽同十一月十七日=東京に「在日朝鮮人帰国協力会」誕生
▽一九五九年一月二十九日=藤山外相、参院本会議で「在日朝鮮人の北朝鮮帰還は近く計画を発表出来る」と声明。
▽同二月二日=岸首相、衆院予算委員会で「送還を行う」と発現。
▽同二月十三日=人道問題として赤十字国際委員会介入のもの、帰還を行う旨の閣議了解が行われた。また、この日、国際委も自由意志による帰還なら歓迎すると発表。
▽同四月十三日=日朝赤十字第一回会談ジュネーブで開催。北朝鮮はソ連船を使用。諸手続は朝鮮総連を窓口にして行いたいと主張。
▽同四月十五日=第二回会談、北朝鮮側、帰還者希望者の意思確認を拒否。
▽同四月十七日=第三回会談。北朝鮮側、国際委介入に反対、日赤は朝鮮総連名簿尊重を拒否した。
▽同四月二十日=第四回会談。意思確認等につき、日赤側、文書で説明。
▽同四月二十二日=第五回会談。意思確認問題で合意成立。
▽同四月二十四日=第六回会談。北朝鮮側、限られた範囲での国際委介入に同意。北朝鮮側の帰還計画案を提示す。
▽同四月二十四日=第九回(原文まま、第七回か第八回と思われる。第七回、第八回について記述無し、P-一八)会談。
日赤「実務に国際委介入」「朝連名簿は認めない」など十七項目を回答。
▽同五月二日=第九回会談。日赤、「苦情処理委員会」設置を含んだ協定草案を提出。
▽同五月四日=第十回会談。北朝鮮側「苦情処理」は混乱を招くと反対。
▽同五月六日=第十一回会談。日赤、更に整理した協定草案を提出。朝連名簿不採用、北朝鮮代表の入国を拒否。
▽同五月二十日=第十三回会談(十二回について記述無し)。日赤、最終案を提示。
▽同五月二十五日=第十四回会談。「苦情処理」「国際委介入」で、日本側最終案を拒否すると北朝鮮側が主張。
▽同五月二十六日=両主席会談。北朝鮮側、日本案を変えねば決裂、二十九日までに回答せよと主張。
▽同五月二十八日=北朝鮮側、国際委介入の用語「指導」を「観察」にして欲しいと非公式に申し入れる。
▽同六月一日=第十五回会談。ー日本側最終案を提示。
▽同六月四日=第十六回会談。北朝鮮側日本修正案に不満示す。
▽同六月九日=政府、日赤は北朝鮮側の主張を容れ、苦情処理で新提案を準備。
▽同六月十日=第十七回会談。日本側「苦情処理」を撤回。事実上妥結す。
▽同六月二十四日=第十八回会談。在日朝鮮人の帰還に関する協定(付属書を含む)及び共同コミュニケの草案完成。国際委の承認を待って調印することに決まる。
▽同六月二十九日=国際委、「帰還問題は再検討の要がある」と言明。
▽同七月六日=国際委、介入決定は更に時間が掛かるとして承認を延期。
▽同七月七、九日=北朝鮮、日本両赤十字代表団一旦帰国。
▽同七月二十一日=ハーター米国務長官、ボアシェ国際委員長と会談、米側の意向を伝えたと言われる。
▽同七月二十四日=日赤、国際委の承認をうけ、北朝鮮赤十字宛、カルカッタで協定調印を行いたい旨打電。
▽同八月十三日=カルカッタで日朝両赤十字代表の手により帰還協定に調印さる。
▽同八月二十三日=赤十字国際委マルセル・ジュノー副委員長、「介入」のため来日。
▽同九月三日=日赤、ジュノー氏の助言により「帰還案内」を発表。
▽同九月二十一日=機関申請受付開始。朝鮮総連、「案内」に不満として、新逝去期等奏者を展開、各窓口混乱す。
▽同十月十日=北朝鮮赤十字、帰還案内は協定違反だと日赤に抗議。
▽同十月十三日=日赤、第一船は十一月十一日新潟に入港するよう要請
▽同十月十九日=北朝鮮側、業務はかどり次第配船すると日赤に返電を打つ。
▽同十月二十日=日赤、十一月十二日第一船新潟出航を断念。新潟日赤センター開所。
▽同十月二十二日=衆院外務委員会岩本伸行、帆足計、穂積七郎代議士ら、日赤、朝連の間の斡旋に乗り出す。
▽同十月二十七日=政府、「帰還案内」を「実務細則」で緩和することに決定。
▽同十月二十八日=朝鮮総連、斡旋を了解。反対闘争取りやめを決定。
▽同十月二十九日=米国務省、帰還問題で日本を全面支持する。韓国の自重をを望むと、はじめて公式見解を発表。
▽同十月三十一日=日赤、国際委の了解を得て、帰還案内の緩和を指示。
▽同十一月四日=全国三千六百五十五カ所の日赤窓口で申請を再開。
▽同十一月十六日=帰国祝賀大会に民団、右翼千人が押しかけ、混乱、七人が逮捕される。(東京池袋)
▽同十二月十四日=第一船、新潟を出港。年内三回配船。



政治のはなし
                            読売新聞社:嶋元謙郎

『官僚主義について』
 実をいうと、われわれは朝鮮の「政治」についても報告をしなければならない。しかし、朝鮮の最高主権機関は最高人民会議であり、その構成は労働者、事務員、インテリなど二五0人(内女子二七人)からなり、................。と政治形態について説明してもそれ程意味がない。
 それよりも一体朝鮮政府は、具体的にどのような政策をとり、人民たちはどのように受取っているかという方が、遥かに興味深い。いうならば、政府と人民の”社会主義的なものの考え方”と”受け止め方”だ。ここのしるすいろいろな話はわれわれの感じ取った民衆の中の”政治”の一端である。
 中国の北京から飛行機で朝鮮の臨時首都平壌に入ってまず目を奪われることは、町行く人たちの服装がバラエテーに富んでいることである。というのは、中国では男も女も、例の工人服という詰襟の洋服を着ていた。勿論真冬という条件が重なっていたからでもあろうが、ともかくわれわれの通過した広州、武漢、北京、瀋陽の各都市は、町全体が紺と草色に塗りつぶされていたといって良い。人民外交学生のお偉方も、新聞、通信社の幹部も、宝石商の店員も、飛行場の事務員、タクシーの運転手に至る迄、みんながみんな工人服を着ている。色彩が乏しいと、とかく人間は暗い気持ちに陥りがちなものである。何か息苦しい、そんな感じに囚われて、中国を通過する三日間というものは憂鬱ですらあった。
 それが平壌では、背広を着ている者もあり、作業服あり、工人服あり。特に女性は、白、赤、黄、緑、様々な色のチョゴリ、チマと呼ぶ朝鮮服を着ている人や、ワンピース、ツーピース、更には毛皮のオーバーを羽織っている人など様々。何かホッと開放されたようで、旅愁を慰めるに充分だった。勿論、着ている布地はお世辞にも上質とはいえないし、消費文化が百花繚乱と咲き誇っている日本に比べると、色彩や種類もまだまだお粗末であり、貧弱ですらある。しかし、同じ社会主義国家で、しかも隣り合った中国と朝鮮で、このような開きがあるのは一体何故だろうか?
 ここで中国と朝鮮の消費物資の比較をしようというのではない。消費物資の豊富なことでは、中国の方が朝鮮より遥かに豊かである。われわれが感じたのは、服装の点に於いて中国が画一的なのに比べ,朝鮮は個人個人の好みに任せていることだ。つまり、朝鮮の社会主義的な考え方、というものは、非常に巾が広く、かつ柔軟性に富んでいるのではないか,という点である。
 服装ばかりではない。われわれは元日に朝鮮作家同盟委員長の韓雪野氏、副委員長の李北嶋氏らと懇談したが、その席上で、先ず話題になった日本人作家は、なんと湯浅克衛氏であった。湯浅克衛氏といっても戦後は余り精力的な創作活動をしておられないから、ピンと来る人は日本人の中にも少ないかもしれないが、戦前は「鴨緑江」「オモニたち」など、朝鮮を舞台にした一連の小説を書いていた作家である。朝鮮で生まれ、朝鮮で育った人であるから、朝鮮を愛するという点では人後に落ちなくても、いわゆる左翼系の作家ではない。というよりも、むしろ左翼の公式論でいうならば、”反動作家”のレッテルをはられそうな作風だ。
 最近の活躍ぶりや家族のことを色々尋ねた挙げ句、帰りぎわに「ぜひ、朝鮮に招待したいから、私のところに連絡して下さるように伝えて欲しい」
と依頼されたときには、正直なところ面食らってしまった。左翼作家ならばともかく、”反動作家”をも招きたいとは。「え?」ともう一度念を押した程だった。清濁合わせ飲むというのか、何といおうか、その肝の大きさ、度量のあることにはびっくりした。
 帰国後この話をある朝鮮関係の団体に伝えたら、飛び上がって驚いた。この団体では湯浅克衛氏をハナにもひっかけていなかったからである。慌てて住所を調べて連絡を取っていたが、朝鮮側の巾の広い考え方に比べ、日本にある朝鮮関係の団体の考え方は、何か自分で自分を狭くしているかたくなな感じではないだろうか? これからの親善友好運動に一考を要すると思う。
 この朝鮮の柔軟な考え方は、映画、演劇、オペラなどの娯楽面にもよく現れている。
 われわれは朝鮮で、オペラ「栄えある祖国」「沈青伝」、映画「春香伝」、演劇「兄弟」などを鑑賞したが、そのいずれもが、社会主義の宣伝臭が少ないという点にびっくりした。
 実はわれわれとしては、朝鮮という国を、建国の歴史が浅く、社会主義陣営に於いても後進国であるとみていた。従って社会主義を人民に徹底させるために、あらゆる機会を捕らえて、特に映画、演劇などの娯楽を通して教育し、啓蒙しているのではないか、という風に考えていた。しかし、そういった宣伝臭は、各工場にある言わば素人の芸術サークルに見られるだけで、玄人の演ずるオペラ、映画、演劇には、ほとんど抵抗を感じなかった。
 例えば「沈青伝」は、昔ながらの物語が忠実に神話的な雰囲気の中で進められ、社会主義的な解釈や表現などは一言半句もでてこない。古典ばかりではない。朝鮮戦争の孤児の問題を取り扱った韓雪野原作の「兄弟」にしても、戦争の悲劇や、逞しい祖国愛の精神を盛り上げる場面はあっても、ついぞ社会主義的なお説教はでてこない。だから観衆が素直に芸術の中に溶け込んで行くのであろう。あるシーンではすすり泣きが館内を圧し、ある場面ではドッという爆笑が湧いていた。
 在日朝鮮人の帰国問題で活躍された朝鮮赤十字会の李一卿委員長は、教育文化相を兼ねているが、その話によると、余りに啓蒙性が強かったり、現実を歪曲していると、人民にそっぽを向かれるのだそうだ。つまり、朝鮮の芸術は、あくまで人民のものであり、人民と共に進むように批判をうける。
 われわれが朝鮮に滞在中、丁度「一人の青年の歩いた道」という題名の映画が上映中だったが、これがさっぱり不評判で、観客の入りが少ないとり教育文化相がこぼしていた。「高など中学を卒業した一学生が、大学に進学するのをやめて、祖国建設のために工場で働く」といったテーマに恋愛を盛り込んだメロドラマだが、「それでは大学に行くのが間違っているのか.工場で働くだけが能ではないだろう」という声が高まって、正月興行だというのに散々の不成績。朝鮮の映画や演劇などは,全部独立採算制だから、お客が不入りだと、それを作ったプロダクションは損をする。日本換算九百万の制作費がかかったんだそうだが、こんな不入りではどうしようもないと李教育文化相が嘆いていた。つまり、良い映画、大衆に喜ばれる映画でないと採算がとれない。人民大衆がその審判官になっているわけだ。これでも判るように、朝鮮では上からの押しつけよりも、下からの人民の批判が重視されているようだった。
 こういった人民からの批判は、特に国家機関に働く、いわゆる官僚に向けられている。というのは、朝鮮にも「官僚主義」という言葉が実際に存在し、生きている。民主主義の精神からすれば、総ての”官僚”は、人民の”公僕”でなければならないし、また人民の税金食わせて貰っているのだから”公僕”であるのが当然なはずだが、この至極明快な原則が充分徹底していないことは,われわれは日本でイヤというほど味わっている。もっとも日本は、民主国家の仲間入りをしてからまだやっと十五年しか経っていないから、多くを望む方がどだい無理な話かもしれない。一体、いつになったら、われわれは真の国家の主権者としての権利を行使出来るのか、日本の官僚のあり方、やり方をみていると甚だ心細い限り。歴代の内閣や各官庁でいく度となく「官僚主義の打破」が叫ばれながら、いまだかって完全に実行されたことはない。いうならばお先真っ暗という状態だが、この点朝鮮ではうまい方法をとっている。
 「人民からの不平不満の投書に対しては、これに明確に答えなければいけない」という官僚に対する義務づけがそれだ。このことを「官僚主義反対闘争運動」という強い言葉で表現している。
 一例をあげると昨年の大学入試シーズンのとき、朝鮮には現在、金日成総合大学はじめ大学が三十七校ある。日本では人口九千万人に対し、国立大学九十九校、朝鮮では人口一千万人に対して三十七校だから、朝鮮の方が幾らかゆとりのある比率になっているが、それでも、やはり入学試験となると受験生は頭が痛い。平均三人に一人。金日成大学の物理学部や経済学部の哲学科、政治経済科などという憧れの学科は十人に一人くらいの狭き門となる。そこでいきおい学生たちは、どの大学を受験したらよいか大いに頭を悩ますわけで、シーズン近くなると、進学相談の問い合わせが、教育文化省に一日二百通前後届くという。
 これを管理するのは数人の視学である。一人一人に対して適切な助言や指導を行うことに服務規程で決められているが、何分一日二〜四十通の回答を出さなければならない。その他にも視学としての勤めもある。つい面倒臭くなるのが人情というもので、ある視学が、判で押したような、決まりきった回答をだした。勿論その学生は、担当の高級中学の先生とも話し合いをした挙げ句、思い余って教育文化省に相談を持ちかけた程だから、こんな通り一遍の回答で満足するはずはない。また相談の問い合わせを出す。同じような内容の回答。そこでこの学生が怒って、それ迄のいきさつをしたためた抗議文を出した。
 このような人民の不平不満は、投書係を通じて担当者の手許に送られるから、投書係が見逃すはずがない。たちまち「官僚主義の典型」として槍玉に挙げられたという。
「一体その人は今どうなっていますか?」
 われわれは興味深く李教育文化相に質問した。ソ連のベリア、マレンコフ、モロトフを引き合いに出す迄もなく、社会主義国家に於いては、一度批判されて失脚すると消されるか、左遷されるか。とにかく二度と浮かび上がって来ないというのが、われわれの通念だったからだ。ところが李教育文化相は、そんなわれわれの興味を知るや知らずや、こともなげに答えた。
 「視学として人民に奉仕する義務を怠っていたのだから、視学を罷免されるのは当たり前だ。その人に能力が無かったことが明らかにされた以上は、職場を変わって貰うより他に方法はない。今はやはりこの省の別の職場に格下げされていますよ」
「官僚主義反対闘争運動」は、このように、”必罰”の形で強硬に進められている。社会主義というものが、総ての点に於いて”計画性”を内包している限り、「官僚主義」を完全に払拭することは非常に困難なことであろうし、事実「左翼官僚主義」という新語が生まれていることから推しても、根絶やしするのは不可能かもしれないが、こういった制度を採ることによって、一応の是正は出来るであろう。中々良い制度である。日本も少し見習ったら良いがーーと官僚国ニッポンに住むわれわれはうらやましい気がした。
崔承喜が断頭台へ?
 ところで、ここで読者の皆さんは、朝鮮では批判された人物が、寛大な処遇を受けられていることに、不審の念を抱かれるに違いない。日本人の持っている社会主義国家への最大の恐れは、社会主義体制下では国家や政府、党の指導路線からはずれたり、あるいは批判をうけた場合には、必ず刑務所にぶち込まれるのではなかろうか、ということである。従って一度ヤリ玉に上げられたものは、再び舞台には登場してこないと思いこんでいる。いわゆる「反民族的」「反国家的」のレッテルを押されれば、永久に消え去ってしまうというわけだ。
 実は、われわれが朝鮮に着いて三日目の一二月二0日、平壌の国立体育館で行われた「帰国同胞歓迎大会」に、崔承喜が黄徹氏らと共に、芸術家を代表して真っ先に舞台に登場した時には、アッと息をのんだ。朝鮮舞踊の代名詞にもなっている程の世界的舞踊家が挨拶を述べることは、当然すぎる程当然な話なのであるが、それには次のようなイキサツがあったからだ。
 われわれが朝鮮を訪問する直前、つまり帰国問題が大詰めにさしかかっていた三十四年夏から秋に掛けて、日本では、日本人に馴染みの深い崔承喜が、朝鮮政府から批判をうけて消えてしまったというウワサがパッとひろまっていた。
 ウワサは主として韓国系の新聞、雑誌を通じて流れた。それによると、教育文化省の次官をしていた夫の安漠氏が、独善主義、芸術偏重傾向を指摘されて失格し、それに伴って崔承喜は「人民芸術家」の称号をハク奪され、夫共々断頭台の露と消えてしまった、というのである。そういえば安漠氏が批判されたことは朝鮮からの報道で確認されていたうえに当時の朝鮮からの出版物には、崔承喜の近況を報じたニュースも、また踊っている崔承喜の写真もなかった。朝鮮通と言われる人ですら、崔承喜の消息を知らなかった程である。だから、われわれが日本を出発するとき
「朝鮮人の中で日本人に最も親しまれ、馴染み深いのは崔承喜だ。彼女だけには必ずインタビューするように」と部長から命ぜられたときには、ハタと弱ったものである。一体生きているのかどうか。若し生きていたとしても、果たしてインタビュー出来るものか?実は全く自信がなかった。
 それ程気をもませていた崔承喜が、真黒のビロードのチョゴリ、チマに身を固め、昔ながらの美しい双頬をほころばせて「麗しい朝の国...........母なる我が祖国に限りない光栄を捧げる」とプロローグの詩を朗読した時には、全くホッとした気持ちだった。
 その上プロローグが終ると、この夜臨席した金日成首相の直ぐ隣りの席に座を占めて、最後迄観劇していた。偉大な芸術家は消されていなかった。それどころか「人民芸術家」としての最高の地位を厳として誇っていたのである。お嬢さんの安聖姫も、この夜のプリマバレリーナとして主役を演じていた。
 後日、崔承喜とインタビューした時にわれわれは夫安漠をも含めた家族のことを質問した。
 「夫は前の職場に居りますし、娘は貴方方がご覧になった通り、長男は十五才で音楽学校でピアノの勉強をしています」
 淡々と語る言葉には、少しも暗いカゲがなかった。後で労働新聞の記者に聞いたところによると、次官は辞めてしまったが、格下げとなってやはり前と同じ教育文化省に勤めていると崔承喜の話を裏書きしていた。
 これは非常に興味深い問題だった。そこでわれわれは、朝鮮ではいわゆる政治犯をどう扱っているのか?また朝鮮の留置場、刑務所も見学したいと案内役の朝鮮記者同盟に申し入れた。政治犯については、ここ数年というものは、ほとんどない。あったとしても先ず人民から批判を受けて反省していくから、司直の手に掛かるような極悪なものはない、という説明であり、留置所や刑務所の見学は遂に実現することが出来なかった。この点、非常に飽き足らなかったし、帰国してからも返す返す残念に思っている。ただ、朝鮮では刑務所とは言わずに、人民教化所と称していた。これは単に犯罪者を処罰するのではなく、犯罪者を再教育するのを主な目的としているからだが、
「中国のように各房にはカギがないのか」という質問に対しては
「残念ながらまだある」
 ということだった。われわれは実際に見学することができなくて物足らなく思ったが、スケジュールの関係もあり、断念せざるを得なかった。
 しかし、われわれは、政治犯や人民教化所を見学しなかったけれども、その処置が寛大であろうとは想像できる。
 平壌には「スターリン通り」というのがあり、スターリンの胸像や肖像がも、あちこちに残っている。「スターリン通り」というのは「金日成広場」につながる平壌のメインストリートである。スターリンの死後、スターリン批判が現れて、社会亜主義国の中で通りや建物からスターリンの名称や肖像画が次々に消えていったことも思い合わせると、いまだに堂々と名前や肖像を残しているこの国のやり方は一種異様ですらある。ボウヨウとしているのか、自信があるのか、ともかく、こういったところに朝鮮の社会主義的なものの考え方があるのではないだろうか。

スローガンについて

 朝鮮でも、やはり中国と同じように大通りや大きな建物には,垂れ幕や引き幕のスローガンが掲げられている。都市といわず、工場といわず農村といわず、どんな片田舎にいっても必ずスローガンがある。
 「金日成将軍万歳!」「金日成を首班とする労働党万歳!」「鉄と機械は工業の王ようである!」「生活環境をより文化的に衛生的に改善しよう!」「継続躍進、継続前進」「千里の駒に乗って闘おう」「花の莟(子どもたちのこと)は新しい朝鮮の大きな柱」そのほか「在日朝鮮同胞の帰国を熱烈に歓迎する」などなど。
 とにかく、朝鮮人はスローガンがお好きである。とくに「金日成将軍万歳!」「金日成を首班とする労働党万歳!」のスローガンの多いことは、われわれ資本主義社会から訪ねたものにとっては、ときに目障りですらあった。皮肉なものの見方をする人は、
「それ見給え。強力なスローガンを掲げて人民を引っ張っていかないと、大衆がついていかないんだ。これこそ共産主義の政治理念であり、独裁政治のあらわれだ」
 と我が意を得たようにいうかもしれない。そういえば戦時中の日本も、「欲しがりません勝つ迄は」とか「勝ってカブトの緒を締めよ」いうスローガンが合い言葉にされていた。
 しかし、この両者の場合には、根本的な違いがあると思う。日本のスローガンは国民の目をごまかして侵略戦争にかりたてるための志気の鼓舞である、だが、朝鮮のそれは、戦争目的ではなく自らの生活を向上させようとする合葉である。といった理屈があるに違いないが、そういった難しい理論は抜きにして、いかに朝鮮人が「金日成を首班とする労働党」の下で結集されているかについて事実をもって答えたい
 朝鮮では、労働者、学生、農民、新聞記者、運転手、その誰をつかまえてもいい、「いまの暮らしは胴ですか」と質問すると、きまってこう答える。
 「いまだって。いまのことをお話ししても無駄でしょう、来年はもっと立派になりますよ.目に見えて分かっているんだから』と。
 日本では来年のことをいうと、鬼が笑うという。実際、来年のわれわれは、何着の洋服をつくることができるのか、テレビを買えるかどうか、家の前の道は舗装できるだろうか、下水は甘美するだろうか、公営住宅に入ることができるか、そのどれをとっても皆目検討がつかない。本当に日本では、確実な将来というものが、なにひとつ保証されていないのである。それどころか、来年には失業するかもしれないという不安を持っている人もいる。
 ところが朝鮮人は、一人残らず来年のことを確信し、かつ断言する。
 その根拠はなにか? 政府の公約したことが、これまで公約通りに実現されてきたという信頼感である。
 五年前までは食物も少なかったし,防空壕を改造した穴ぐらに住んでいた。四年前には戦後九造したバラックに入り、暖かいフトンにくるまって寝ることが出きた。三年前には小ざっぱりした服装を整えられたし、酒でもビールでも果物でも、自由に好きなだけ買えた。二年前には二間続きのアパートに入って.......。だから来年は」
 これは平壌市の文化アパートに住んでいるある建設技術者の懐柔である。つまり、生活の一つ一つが、年々歳々目に見えてよくなっているという裏付けがあるのだ。、単なる希望的観測や虚ろな妄信ではない。
 朝鮮戦争直後、ソ連の十億ルーブルをはじめとする社会主義諸国の無償援助資金の使い方をめぐって、朝鮮の政府や労働党の内部で,大モメにもめた事件があったそうだ。
「三年間という長い機関を闘い抜いてきたから朝鮮人は疲労こんぱいしている。なにわともわれ、まずめしを食わし、衣服をきせて元気をつけてから再建に乗り出しても遅くない」という朴憲永を中心とした一派と、「いまは苦しいけれども祖国再建の土台をつくることが、将来の朝鮮を繁栄させる道だ」と主張する金日成将軍を先頭とする一派の争いだった。
 結局、金日成将軍の路線が、再建の基本方針として打ちたてられたわけだが、苦難の一、二年を経たあと、国民生活が加速的に向上してゆくにつれ、今更ながら金日成しょうぐんの素晴らしい予見を、あらためて見直しているといってもよい。廃墟のなかから、僅か五、六年の短期間のうちに、金日成将軍の言葉を借りれば「中農の地位までになった」事実は、将軍と労働党に対しての信頼をいやがうえにも高めたことだろう。

 三十八度線に接した寒村平和里で、四十六才になる婦人が語った。
「難しいことはわかりませんが、日本の植民地時代、李承晩統治時代、いまの金日成将軍時代と三つの異なった時代に生きてきたわたしにとってとにかくいまの生活が、これまでの暮らしのなかで一番いいんです。こんな生活ができるように指導してくれた方に感謝するのは当然でしょう」と。
 ”反動的”な意地悪な言い方をすれば、共産主義とか、社会主義とか、そんな理論はどうでもいいんである。要は着実に生活が向上し、明日への確信がもてる政治に、大衆はついていく。
 日本の自民党であってもいい。失業の不安をなくし、月給を二倍に引き上げてただみたいな家賃の住宅に住めるならば、何億という選挙資金をかけなくても、ひとりでに政権がころがりこんでくるに違いない。そうなれば日本でも、「岸首相を首班とする自民党万歳!」というスローガンが、いたるところにかかげられるだとう。
 われわれも「来年は必ずこうなります」と希望をもって断言できる国民になりたいものだ。

私有財産について

「朝鮮では私有財産が認められている」こういっても、大方の人はわれわれの言をを信じないかもしれない。
「社会主義国家でそんなバカなことが」
というだろう。実際、ある座談会で記者がこう話したところ、第六次船で帰国するという中年の朝鮮人がびっくりしたほどだから、無理もない。われわれも朝鮮にいってこの目で確かめるまでは、半信半疑だったのだから。
「私有財産とは何か?」
などというしち面倒くさい理論は別にして、実のところ朝鮮では、土地はもちろんのこと、起業所、商店、事業所などは、ほとんど私有ないし、私営を認めていない、農村については農業のところで詳しく説明するが、農村で私有が認められているのはアヒル、ニワトリ、山羊などの小家畜と、ホミ(手くわ)などの小さな農具。それにわずかばかりの菜園だけで、農地はもちろん、農業機械、農機具、牛馬などは農業協同組合の所有になっている。また商店、事業所にしても、すべて国営か協同組合経営。中国のような「公私合営」という半官半民の商店もなくて、ちょうど日本のタバコボックスのような六角形の駄菓子屋まで、すべて公営だ。
「では、やはり私有財産はないではないか」
と早合点なさるかもしれないが、ちょっと次の話を聞いて頂きたい。
 三十八度線のすぐ南にある開城市は、朝鮮で戦渦をまぬかれた唯一の都市である。戦渦をまぬかれたといっても、米国が日本の京都を爆撃しなかったように、高麗の王建が築きあげた千五百年前の古都を後世に残そうという人間としての良心から、破壊しなかったのではない。たまたま朝鮮戦争の停戦会議開始と同時に、中立地帯に指定されたから、ほかの都市のように廃墟にならずに、市街の半分が焼け残ったに過ぎないが、ともかくこの開城市には、むかしながらの、朝鮮の歴史をとどめる家、邸がたち並んでいる。高麗文化を極めた首都だけにいわゆるヤンバン(両班)と呼ばれる富豪の家も数多く残っているが、これらの家がすべて元からの所有者のものだ。戦時中家人が疎開して無人の町と化したときには、政府や人民軍が使用していたそうだが、平和の鐘とともに持主に返してしまったという。
 鋲を打ちつけた大きな木の扉の門構えの邸は、内庭を中心に、部屋数二、三十室は下らない。そこにただ一家族だけが住んでいる人も、数えればきりがないという。停戦直後の、極度に住宅が不足したときにも、これらの邸は強制接収しなかったとか。
 ただここで問題になるのは、一家族だけで住むのをいさぎよしとしないで、アパート式に部屋を貸す場合だ。このときは市の人民委員会に申し出て、規定の部屋代だけを受取る仕組みになっている。規定額以上をとることは、もちろん許されない。
 懸命な方は、もうおわかりのことと思うが、自分自身だけが使い、享受するための私有財産は認められている。ただこの私有財産を生産手段として使用し、利益をあげることが禁止されているのである、つまり、金儲けをするということは、だれかが損をしていることだ。難しい表現をするならば、搾取されている。この人民間における搾取は絶対に認められないという思想だ。
 もう一つ例をあげると、第一次、第二次船でパーマネントのセット一式や乗用車を持って帰国した朝鮮人がある。この人たちは、自分たちは日本にいて祖国建国のときも、また朝鮮戦争やどれにつづく復興建設にもなにひとつ役立たなかったから、せめて日本から持ってきたものを国家に寄付したいという純粋な気持ちからだったが、その態度が厳しく批判された。
「あなた方の持ち帰ったものは、あなた方の私有財産であって、国家のものではない」ご自由にお使いなさい、というわけだ。ただし使用にあたっては三つの方法しかない。
 まず第一に、その私有財産を使って、パーマネント屋を開業する。開業するといっても朝鮮では市営企業はないから、国営パーマネント屋をつくって、そこの管理人となる。もちろん管理人の給料はほかの髪結師よりはるかに高い。
 第二の方法は、国家がパーマネント一式を賃借りする。これだと給料のほかに、毎月使用料が入ってくる。
 三番目は、国家がパーマネント一式を買いあげるやり方だ。
 どれでもよろしい。あなたの希望する方法でお使いなさい。と指示していた。
 乗用車にしてもそうである。ただ、日本の”白タク”のように、こっそりお客を乗せて小遣い稼ぎをしてはならないわけだ。実に合理的にできているといえよう。
三十八度線について
 朝鮮半島を東西に貫く三十八度線についても報告しなければならない。
 軍事分界線を中心に、南北それぞれ二キロ、合計四キロの巾が非武装地帯となっている。この人ため的な境界線が、朝鮮民族の悲劇、ひいては世界の悲劇、平和の悲劇である。
 開城から自動車で約三十分。そこの非武装地帯入り口でバスに乗りかえて十分ほど走ったところに、川をはさんで南側に米軍のMP、北側に朝鮮人民軍の管理する関所がある。ここの踏切を開けてもらって入ったところが、”板門店”という名で有名な直径九百十四メートルの中立地帯である。朝鮮人民軍と韓国国軍が管理しているのではなく、人民軍と米軍が共同管理しているのだ。
 二人一組の両軍の兵隊がパトロールしていたが、話しひとつしない。もう六年も、こういう単調な情勢のなかにあって、ただ一つ取り残されたような冷たい対立。
 ここでは双方の新聞記者は自由に歩きまわり、取材できる原則になっているそうだが、いまだに南北朝線の新聞記者すらも、話し合いをしたことがないという。それというのも、朝鮮側の新聞記者が大手を振って歩いているのに、韓国側の記者は、一室に閉じ込められて自由に歩けないのだ。軍事停戦委員会のテーブルのうえにマイクが備えつけてあったが、そのテーブルをたどっていくと、韓国の記者控え室につながっていた。取材の自由を守り、かつ北側との接触を禁じるという妙な論理からだと、案内人が説明した。
 板門店から三十八度線にまたがる平和里という寒村まで、われわれは丘のうえから、また車のなかから、つぶさに軍事分界線周辺を眺めたが、北の方が軍事分界線のところまで、余すところなく耕されているのに比べ、南の方は荒涼とした原野になっていた。評論家の寺尾吾郎氏が訪ねた三十三年の秋には青々とした畑と赤茶気た荒地とが、対照的にはっきりそれと識別できたそうだが、われわれの訪れたのは十二月三十日。真冬なので青と茶色の区別はできなかったが、積雪をおこして起耕した北側と、雪一色におおわれている南側と、単調な色彩の下で一別できただけに、一層、寒々としたものを感じた。
 北の方は軍事分界線のところまで農夫が仕事にいっているのだから、南にいこうと思えばいつでも行ける。軍事分界線を一歩踏みこえて両手をあげれば、たちどころに南からお迎えがくるに違いない。それにもかかわらず野放しにしているのは、南へ逃げてゆくものはないという自信のあらわれなのだろう。
 それにひきかえ南の方は非武装地帯は韓国人立ち入り禁止筑になっているとかで、人ッ子一人見当たらなかった。多分、北に行くのをおそれているのかもしれない。
 朝鮮では三十八度線をこえて南から北にゆくことを「義挙入北」といい、韓国は韓国でこの反対を「義挙越南」というそうだ。どちらが多いか、韓国軍人が飛行機で「義挙入北」したことや中部朝鮮で一部隊が大挙「入北」した新聞報道から察すると、「入北」の方がはるかに多いのではないか、という気がする。
 韓国の李承晩大統領は「北進統一」を唱えているが、朝鮮では「平和統一」が合言葉になっている。同じ「統一」を目指すにしても、南と北ではその方法が「武力」と「平和」というようにまるで違っているのだ。その相違は何だろうか?

 ことしは朝鮮では、第二次五ヵ年計画に入る前の緩衝期に入っているが、来年からの第二次五ヵ年計画の合言葉がふるっている。
「朝鮮の北半分だけで、前朝鮮の経済をまかなえるだけの生産を行おう。食料も重工業も軽工業も。さらには社会保障までも、北朝鮮だけでできるようにしよう。そうすれば、民族の悲願である朝鮮統一は,自然と達成される」
 つまり、人口一千万の北朝鮮のひとたちが、二倍の人口のある南朝鮮の人たちまで養おうといっているのである。戦争なんか馬鹿馬鹿しい。主義思想などというのも一般人民には納得し難い。だから、経済建設で勝負をきめようというわけだ。どえらい自信である。
 日本人のなかにも、朝鮮側が韓国に対し、人の往来を自由にしよう、郵便物を交換しよう、南北の交通を再開しようと、提案したことを知っている人もいるが、多くの場合、多分朝鮮の宣伝だろうぐらいにしか考えていない。実はわれわれも日本では百パーセント信じかねていたのだが、実際に朝鮮にいって、物資の出回っている状況や、自信に満ちた態度をみて、「成程」と関心せざるをえなかった。
 「南北が同じ人数をそれぞれ交換して、自由に見学されればいいんですよ。どちらが住みよいか、暮らしやすいかは一目で分かることだから。それを南が、拒否している事実はそれだけ自信のない証拠でしょう」
 労働新聞の田仁徹国際部長はこう語っていた。それだ。朝鮮は、満々たる自信を持っている.この自信が、やがて朝鮮を統一する重要な要素になるのではないか、とわれわれは感じた。
 朝鮮には、軍人と警官が目立って少ない。これは意外なことだった。だから、われわれは、軍人と警官の写真をとるのに少なからぬ苦労をした。車で通っていて軍人や警官をみつけると、あわてて車を止めて写真をとらなければならない。ぼんやりしていると写真をとりはぐれる。それほど少ないのである。
 一体どうして少ないのか。とわれわれは質問した。田仁徹部長が明確に答えてくれた。
「軍人が少ないのは、万一戦争が起こった場合、われわれは侵略を防ぐ自信を持っている。超戦争のとき、われわれは世界最強のアメリカ軍と戦って、祖国を立派に防衛した、そのときには全人民が立ち上がる。いまは平和なときだから、なにもわれわれの税金で、無駄なものを養っておくひつようがありますか?それよりも生産の面で祖国再建に力を尽くした方がいいではないですか」
 まことに至極もっともな話だ。しかし原爆線の経験はないから、そのときはと質問したところ
「原爆戦争になったら仕方ないです。朝鮮人が死ぬだけでなく、全人類が滅びるのだから」と。
 警官については当たり前のことを聞くな、というような顔で説明した。
「犯罪が少ないんだから、少なくなるのが当然だ。交通巡査だけで足りるから、女子警官で十分ですよ」
 そういえば、警官のなかには婦人警官が目立っていた。
 犯罪については李一郷大臣が統計を示してくれたが、それによると朝鮮全土で一年に十数件にすぎないようだ。一千万人のうちの十数件。まことにウソのような話である。
 日本では警官に税金泥棒というと憤慨するが、朝鮮では大っぴらに「税金を食う奴」という言葉が使われている。軍人と警官。こんな無駄飯食いを養っておくのは、もったいないというわけだ。ここにも、朝鮮の平和を願う祈りがよく現れていた。


経済について
                             読売新聞社:秋元秀雄


三年前と今日の朝鮮

 ついこのあいだ、金日成大学を卒業したばかり、という感じの金河燦さん、国家計画委員会の総合計画局員といういかめしい肩書きにも似ず、じゃんじゃんと”偉大なる社会主義建設の勝利”を語りつづけている。
「我が国における社会主義建設が革命的向上をなしているのは、社会発展の客観的要求からくるものであります。その物質的、精神的基礎は何か、労働者の熱誠と創造力、そして党と政府の適切な処置.....」。
 あと二日,一九六0年を迎える。という一二月三0日の午さがり、宿舎平壌ホテルの三階の会議室で、私はこの人と向かいあっていた。むずかしい化学方ほど式を日本語でスラスラと説明するほどの腕前を持つ。通訳の朴哲さんと三人で。
 「党が最初に打った政策は、一九五六年一二月の中央委員会会議で示されました。経済部門の指導方法を決定的に改善すること、とくに増産と節約のスローガンを打ちたて、あらゆる予備を動員させることにした。この決定にもとずいて金日成首相同志は、直接、各地の工場、農村に出向き、労働者、農民と予備の動員、生産性の工場に着いて話し合ったのです。かくて労働者の創造力は.............」
 話はかぎりなく続けられていく。要するに金さんの説明によると,一九五七(昭和三十二)年にたてられた第一次五ヵ年計画は、わずか二年半で達成してしまい、いま北朝鮮は、六十年度(三十六年度)から繰り挙げて開始される第二次五ヵ年計画の準備をととのえる”緩衝期”を迎えている。というのである。とにかくずいぶん時間がかかった。人民経済発展の概括からは始まって、第一次五ヵ年計画の推移、そしてその結果えられた人民の物質文化の向上。
 たとえば人民学校から大学にいたるまで、生産教育につながる夜間大学まで含めると、全国に学生は二百五十万人もいる。だから国民のうち四人に一人は学校へかよっている計算になる、ところまで説明を聞くのに、いうに三時間半の時間がかかってしまったのだ、なんともいき詰まるような思いで、私も背中にびっしょり汗をかいている。聞き終わって、金さんとニッコリ顔を見合わす、金さんも頬玉の汗を浮かべていた。通訳の朴さんも、大変な《重労働》に苦笑しながら。
「一服入れましょうか」
という。緊張に張りつめた室内が、やっとほぐれて、私たちは熱い紅茶をだまって飲みはじめた。閉めきった部屋の寒暖計は摂氏二十四度にもあがっている。煙草をひとくち大きく吸い込んだままソファーにもたれて、私はフト外をふりかえってみた。三日寒さが続けば、つづいて四日暖かいという三寒四温型の大陸性の気候は、丁度四温に入っている。とはいえ、今年の平壌は例年よりもとても暖かいようだ。窓ごしにみえる大同江に張りつめた氷も、四、五日前からずんずんととけ出している。いつしか私は三年前の北朝鮮を、もうろうとした頭の中で思い出していた。
 昭和三十一年の十月、北京で、戦後はじめて日本商品見本市が開かれたとき、亡くなった大阪商船の相談役の村田省蔵さんが、この見本市の葬祭をしていたので、私は社命をうけ、村田さんのおともをして中国へやってきた。十月六日から北京西部の中ソ友好開館でフタをあけた見本市は、予定どおりの会期を終え、つぎの開城上海に移るまで、半月ほど暇ができたので、にわかに思いたって一人で、北朝鮮を訪ねたことがある。中国の国家通信新華社の呉学文、丁拓両記者(戦後二度、日本に着ている)に見送られ、前門の旧北京駅を発車した平壌雪の国際列車、。ひろびろとした広軌道の客室ーー四人一組のコンパートに、北京での公用出張を終え平壌に帰る一人の朝鮮人と同席した。ーーこんなことが走馬灯の画のように思い出されてきたのだ........
年恰好からみれば、この朝鮮人は日本語がわかるはず、とおもいながらも、いきなりこの人に日本語ではなしかける勇気がなかった。飛行機の上から遠く地平線までみえる広大な河北の平原を、汽車はだまって走りつづけている。夜中の午前二時、瀋陽(昔の奉天)にて医者した。汽車はこれから一挙に南下、鴨緑江をはさむ国教の町、安東へ向かうわけだ。初めてみる朝鮮、あの動乱にあけた北朝鮮、新しい仕事に向かう興奮で寝られぬまま、私は安東で予想される出国手続の準備などをはじめていた。同質の朝鮮人は私があけ閉めするトランクの物音に、フト目をさまし、ニッコリ笑ってまた眠りこんでしまった。夜が白々ろあけはじめたころ、この人はむっくりベットから起きあがり、ベット・ランプをたよりに旅行日記をつけていた私に、突然大きな声で”お早う”と日本語で話しかけてきた。逆に私の方がすっかりはにかんでしまい、蚊のなくような声で”お早う”と返すのが、精一杯。
 ベットにどっかりと坐りなおし、「朝鮮は初めてですか、あなた読売新聞の型ですね」と話しかけてくる。
 「私も子供のとき、東京にいたことがあります。戦争で東京はどうなりましたか、下町に住んでいましたが、聞くところによると本所、深川あたりは、ひどくやられたそうですね.........」
 やっと落ちつきをとりもどした私は、彼に戦時中の東京の模ようを話してやるとともに、こんど一人で朝鮮を訪ねることになったいきさつを、ひとおとおり説明してやった。この人の名は金茎善さん、平壌市の体育指導委員会に勤めている公務員である。安東の生還で一時間ばかり停車したとき、金さんは私に
「これから鴨緑江をこえ、いよいよ朝鮮に入るわけですが、なにかお聞きしたいことがありますか」と新設にたずねてくれた。そこで私は
「お国の事情は、平壌についてからゆっくりうかがうつもりですが、ただ一つ心配のタネがあります、朝鮮人の対日感情です。半世紀にわたって日本は圧政をしてきましたから」さっきからこの人に、聞きたいと思っていたことを、思い切ってきり出してみたのだ。ところが金さんは、”ああ”どのことならと軽く返事をしたまま、しばらく考えこんでから
「なにも心配はいりません、あなたが新義州(安東の対岸、朝鮮の国境)の町に入り、そこから四時間、平壌に着くまで汽車の窓から町や村をみれば、すべて分かります」とナゾのようなことをいう。しかたがない、いわれたとおりにしよう。
 新義州のホームには朝鮮対外文化連絡協会から通訳の金正翼君が出迎えにきていた。あとは同室の金さんのいうとおり、汽車の窓から走りゆく朝鮮の村々を、私はくいいるように眺めてみた。
”すごい”、こうとしか形容できない。停戦が成立して三年もたっているのに、線路の両側には、三メートルおきぐらいに爆弾の跡が、大きく残されており、橋という橋は原形をとどめないほど、破かいされている。おそらくいまみている山河も、大分形が変わってしまったのだろう、そして田や畑、小高い丘には、赤さびた戦車がみまなおお腹を無地だしにひっくりかえっている。あの戦争が、いかに厳しくむごたらしいものであったか、私ははっきりみてとったわけだ、フィルムを何本も詰めかえながら、夢中で走り行く動乱の”ツメ跡”をカメラにおさめていた。
”すべてが分かりますよ”と金さんのいった意味が、なんとなく分かりかけてきたような気がする。それでもきいてみた。
「金さん、いくら朝鮮んがあたらしく生まれかわった、といってもひところは対日感情は悪かったでしょう」
 彼はだまってうなずく。
「しかしこの戦争があまりにむごたらしかったので、対日感情は、すべて対米悪感情にすりかわってしまったのかもしれない、つまり三十五年間にわたる日本時代の悪い記憶が、わずか三年の戦争で、すっかりホコ先をかえてしまった。こう考えるのは日本人のご都合主義でしょうか」と問いかけてみた。金さんは
「いやとにかくあの戦争はひどすきました。そしてはっきりいえることは、対日感情は極めていいということです」
ーーこんなやりとりまでが三年前の朝鮮の印象とともに、静かに思い出されてきたのだ。フトわれにかえって、私は窓の方へ歩いていった。三年前同じこのホテルの窓からみた大同江の岸辺には、川上から船で運ばれてきた赤いレンガが山と積まれていた。そしてレンガは、どしどし労働者住宅の建設現場に運ばれ、レンガを舟から下ろす労働者の叫び声が、このホテルの部屋まで聞こえていた。平壌の町がひと目で見渡せるモランボン(牡丹台)にあがってみても、労働者住宅、政府庁舎はまだらに建設が九がれていた、それでもまだ半分以上も空き地だった。清津へ行っても威興、開城を旅行しても、空き地だらけ、市民の生活も、やっと”食”だけが最低線を保証された、というのが三年前のいつもかわらぬ北朝鮮の姿であったのだ、そしていま窓から見下ろす大同江の岸辺には、敷石をはりつめた美しいプロムナードが遠く大同紋、練光亭までつづいている。

千里馬(チョンリマ)経済の登場

最初の復興発展三ヵ年計画
 自動車で平壌から約二時間、黄海北道松林市にある黄海製鉄所を訪ねたとき、私はここの副支配人の李芳根さんに、きわめて無礼な質問をあびせかけてしまった。
「副支配人さん、この製鉄所のげんりょうの手当のことなんですが、石灰石の山が三キロメートル離れている、というのはいいとしても、ここで使う鉄鋼関の山は百キロメートルも離れている。どうしてもっと鉄鉱石の山のそばに製鉄所をたてなかったのですが」
 李さんは、
「戦争でこの製鉄所も、ひどくやられました。だからここを復旧させるとき、実はそうしたことも考えたのですが、何しろここには高炉のど代がまだ残っていましたから」
と笑いながら答えてくれた。どうせ新しくたて直すなら、ちゃんと原料供給という立地条件を考えてたてればよいのにーーハラの中でこう反ぷくしてみたが、私はこのとき、ハッとあることに気がつき、そしてこれはえらいことを聞いてしまった、といまさらながらにくやみいってしまったのである。此の製鉄所ばかりでない。清津にある清津製鋼所、金策製鉄所、興南の化学肥料工場、またこのあいだ見学してきたばかりの威興の竜城機械工場、みんなひとつの共通点をもっている。それは例外なくみな海岸線にそってたてられているということだ。しかもいずれもがかって日本が建設に手をつけた工場である。日本人はどうして立地条件を無視して海岸に工場をたてたのだろうか。その答えははっきりしている。朝鮮から原料ーーしかし現をほり出し、これを朝鮮の工場で半製品にかえて日本に運びこみ、完成品に仕上げるには、半製品工場は海辺にあった方がずっと便利だからである。それでいまでも北朝鮮の重工業基地は、東海岸と西海岸の南部に集中している。朝鮮人が最初から計画をたて、自分の手でつくった重工業なら、決して海岸にばかり工場をたてなかったはずだ。セメント工場は、石灰石の山の上に、製鉄所は鉄鉱石の山のフモトに、当時世界の話題をさらった鴨緑江の水豊発電も、もっと朝鮮の使いやすい場所にダムをつくったはずである。破かいまぬがれた黄海製鉄所の第一、第二高炉の土台も、もうした考えで日本人がつくったものである。それを臆面もなく私は、どうして鉄工石の山の傍に工場をたてなかったのか、などと質問をしてしまったわけだ。帰えりの自動車の中でも、このことがくやまれてならなかった。と同時に、改めて朝鮮の経済と産業について昔をふりかえって考えざるをえなくなったのである。
 解放前、つまり日本時代の朝鮮の経済を朝鮮人はこういう表現で説明する。「長い間、朝鮮を植民地として支配してきた日本は、朝鮮をいつまでもたちおくれた農業国にとどめておき、食料と原料供給基地として、また商品販売市場として、日本本土の経済に完全に従属させた。日本は朝鮮で原料を略奪し、本土に半製品を供給させるためにの若干の工業と、軍需工場を建設しただけで、朝鮮に必要な機械設備や、軽工業清貧の大部分は、全的に日本本土経済に依存するようにした。民族資本の発展は極度に抑圧され、技術水準はたちおくれ、民族技術者の成長もはなはだしく制限された。」この終果、たとえば機械工場は東海岸にあったが、朝鮮人はそのころベアリングの作り方を知らなかった、というのである。かつて朝鮮で工業を経営した日本人、いまわれわれの周囲には、こういう人たちがたくさんいるが、朝鮮人のいう原料の略奪、民族資本の抑圧について、意義は唱えても、この事実、つまり結果的に日本人が、朝鮮の産業を地理的にたいへん偏ぱなものにしてしまった、というこkとは認めざるをえないのではないだろうか。
 三年にわたる激しい動乱からたちあがって、朝鮮の産業経済を復興させようとしたとき、朝鮮人は、まずこうしたハンデキャップを背負ったまま出発せざるをえなかったのだ。停戦が成立した昭和二十八年の六月に開かれた労働党中央委員会の第六次全員会議で、まず焼跡の整理をしよう、破かいした工場のたて直しを急ごう、そして打ち出された最初の三ヵ年計画、正式には「戦後人民経済復旧発展三ヵ年計画」も、じつはたいへん困難な計画であった。戦争の被害について国家計画委員会は破かいされた企業所の数は八千七百余棟、灰じんに帰した住宅は六十余万戸、その総面積は二千八百万平方メートルに達した、また五千余ヵ所の学校、一千余ヵ所の病院、診療所、二百六十ヵ所あまりの映画館や劇場が、地上から姿を消してしまった。損害程度を金で換算すると日本円で六千三百億円にもなる。と説明していた。戦争というもう一つのハンデキャップを背負い、”重工業を優先的に発展させながら、同時に軽工業と農業を発展させる”という難事業に向かったわけである。建設がはじまるやいなやソ連から十億ルーブル、中国から八億元(旧人民券)の援助がとどいた。そしてこの三ヵ年、計画も予定より四ヵ月早く完成したという。最終粘土の昭和三十一年末現在の工業総生産額は、計画がすべりだした二十八年に比べ二・八倍にふえたし、農業の分野においても平南かんがい工事(かんがい面積四万町歩)をはじめ、大規模なかんがいや河川の修理工事が実を結び、穀物の生産高も、日本時代の最高水準より八%も上回った。という報告が出されている。私が前に北朝鮮を訪ねたのは、丁度この三ヵ年計画が終った三十一年の十一月であった。

話題をよんだ第一次五ヵ年計画 

 焼あとの整理、教場敷地の整地も終え、本格的な住宅や重工業の建設準備がととのったので、朝鮮はいよいよ第一次五ヵ年計画を昭和三十二年度からとりかかることになった。計画のあらましは、三十一年に開かれた労働党の第三次全国大会に提案され、計画の終る昭和三十六年までに、工業の生産額を三十二年の二・六倍に、農業のみのりを二倍に、そして労働者の所得を一・五倍に引き上げて、国民の衣食住の悩みを根本的に解決する、という方針がきめられたのである。そして各部門ごとに、例えば重工業のうち鉄はいくら、セメントはどのくらい、綿布はなんメートルなどと細かい生産指示計画が現場に示された。
 私はこの細かい計画数量を、その後中国をへて日本に帰ってきてから知ったのだが、指示量をみてびっくりしてしまった。それはたしかに、この計画どおりにことが運べば、昭和三十三年を迎えると、人口一人当たり電力は八百二十キロワット・アワー、石炭は七百三十九キログラム、銑鉄は四十二キログラム、鋼鉄は三十九キログラム、化学肥料は四十九キログラム、セメントは三十四キログラムにも生産があがり、肥料やセメントなどは完全に日本の実績を越えてしまうことはよくわかる。だが、あの朝鮮ーー三ヵ年計画をやっとやり終えたばかりの北朝鮮が、一挙にこういう水準まで、力を引きあげることができるだろうか。
 たとえやりとげたとしても必ずどこかに無理がおこるに違いない、という気持ちを強くした。さっそく私は、東京にいる貿易会社の中堅幹部や、経済団体の研究熱心なひとたち数人で構成している中国、朝鮮問題の研究会で、私の率直な意見をつけて五ヵ年計画の概要を討議してみた。この研究討議は五、六回つづけられたが、程度のちがいああっても、みな結局は私の最初の居んそうどおり、”五ヵ年計画はあまりにもぼう大でありすぎる”という点で一致したのである。その後の三十三年の春、この研究会のメンバーからD通商社のI君、T商会のS君の二人が、相ついで北朝鮮に出かけていった。我々はこの二人が三ヵ月ばかりたって帰国するや、さっそく、”五ヵ年計画”の現段階について、話を聞く会を開いたが、二人の印象では、とにかく計画は予定どおり、いや部門によっては予定以上に建設が進んでいるというのだ。
 信じられない。表面的には進んでいるようにみえるが、どこかに、この計画にズサンな点があるのではないだろうか。こういう議論を会うごとに一年ばかりつづけているうちに、昨年の夏、S君は、突然商用ができて、あたふたと二度目の訪朝に羽田をとびたっていった。
五ヵ年計画と向かいあう
 四ヶ月ばかりさきに出かけたS君を追うようにして、私も十二月十二日の夜中、羽田を飛び立った。六日間もかかってやっと北京の新僑飯店(新僑ホテル)にたどりつくことができた。明日は平壌か、よしまっさきにたしかめたいのは、五ヶ年計画だ、これをはっきりたしかめない以上、いまの朝鮮問題はなにもわからない。
 在日朝鮮人の祖国帰還、この大ニュースが日本の新聞にはじめてのったとき、私の頭の中にはみるみるうちに深い”疑念”のかたまりがひろがっていった。在日朝鮮人総連合会は、帰国希望者は数十万人といっている。よしこれが半分としても十五万人から十七万人もの在日公民が朝鮮に帰えっていく。受け入れて住まわせる住宅はできたのだろうか。また帰国希望者は青年層に多いときいている。もう大学はそんなにできあがったのだろうか。新聞や雑誌が、あらゆる角度から「帰国問題」を論議しているなかで、私はひとり”現実”を気にやんでいた。そしてこの疑問は、あしたはいよいよ朝鮮と言う北京までたどりついても一向に去らなかったわけである。ホテルのロビーで煙草を買っていたとき突然うしろから”おーい”と肩をたたかれた。真黒に雪やけしたような懐かしいS君が突ったっている。私と入れ違いに日本へ帰る途中だという。
「五ヶ年計画はどんなだ。四ヶ月もいたからはっきりつかんだろう」
さっそく部屋につれもどして開口一番こう聞いてみた。
「まあとにかく、ここまできた以上、俺からはなにもいうことはない。現地でたっぷり研究してみろよ」
 こころ憎いまで落ちつきはらっている。
 それから十日ばかりたって、私は平壌のホテルで金河燦さんと向かいあってすわっていたのである。私の質問『社会主義建設のテンポがひじょうに早いことはよく分かったが、いくらなんでも五ヶ年でやろうと考えた計画が、二年半で完成したなんて、どうしても信じられない。ぶしつけな質問で恐縮だが、これは計画そのものが、最初から過小でありすぎたか、あるいはどこかズサンな点があったのではないですか。はっきり納得させてもらいたい』ーー朴さんの通訳が進むにつれ、金さんの顔は”待ってました、恐らくそうくるだろうと思っていた”といわんばかりに大きくうなずいて、五ヶ年計画の”奇跡”を熱情こめて話し出したのである。
工作機械の”子生み運動”
「これははじめとてもむずかしい任務だと思いました。あなたがいうまでもなく一九五六年当時の朝鮮に、この計画を五ヶ年以内に完成せよ、と命令するのはきわめて困難であることは知っていた。しかも最初の三ヶ年計画のときはソ連はじめ社会主義兄弟国家から、物質的な援助がかなりあったが、こんどは全く自分の力でやる以外にない。しかしすでに達成した成果にもとづいて、また労働者の熟誠と創造力は、この難かんを見事のりこえたのです........」
 例の調子で、この若い愛国者は、資本主義の国からやってきた新聞記者をなんとか説得しようと、大きくヒザをのり出してきた。
 大声をはりあげながた政治闘争にあけくれる日本の労働者をみなれているわれわれは、ただひたむきに心血をそそぐ北朝鮮の”労働者の熱誠”を理解するのはむずかしい。現場で直接こうした労働者と接してみるとすなおに理解できることであるが、これが五ヶ年計画の奇跡をうんだのだ、といってもこれをすなおに理解できる日本人は少ないだろう。
 だからここでは五ヶ年計画は、いかに指導されてきたか、この経過をたどってみた方がよいと考える。まず最初に労働党が手をくだしたのは”経済予備の総動員”と、これにつながる”生産性の向上”である。わかりやすくいうと、各工場現場にある余力をまず探し出せ、そしてこれを有効に活用することを考えて、労働者一人当りの生産能率を、大いに高めよ、という意味だ。私が三年前に朝鮮を去った直後、つまり昭和三十一年十二月に、平壌で労働党の中央委員会全員会議が開かれ、ここで五ヶ年計画が翌年から開始されるにあたり、現場の指導方法を決定的に改善する手だてが検討された。この結果五ヶ年計画の内容を大きく特徴ずける”予備の総動員”がきめられ、ただちに金日成首相ならびに党、政府幹部の地方視察がはじまったわけである。
 いったい、予備の動員というのは、具体的にどんなことをしたのだろうか。
 帰国第二船を出迎えに清津へいったとき、私は前に一度訪ねたことのある清津製鋼所を、おとずれてみたが、顔見知りの労力英雄の称号をもつ支配人、朴容泰さんが、こんな話をしてくれた。
ーーここの製鋼所は、普通の製鋼所と違って無煙炭と鉄鉱石を回転炉で溶かしながら、粒鉄を作る(このことはのちに重工業の項でくわしく報告する)ので、非常に熱管理が大切である。ところが現場では、炉の中へ原料を送り込む段階で、だいぶ熱源のロスをやっていた。昭和二十九年以来、三十一年、三十二年と毎年のようにこの現場に金日成首相がやってきて、その都度現場の労働者と熱管理の議論をしたあげく、問題のロスをはっきり指摘され、いまでは効率がぐんとハネあがったという。ーー
「これは本当なのです...........」
 こういって朴さんは私を回転炉の方へ連れていってくれた。もちろんこのときも、一人の現場労働者が、このロスを改善するため現場の中から予備を動員した創意を生み出し、これが生産性の向上に極めて役立った、ともいっていた。
 レンガ積みの労働者住宅の建設が、これまた労働者の着想から生まれた創意ーーレンガ積みブロックで、ぐんと前進したのも、この頃である。五ヶ年計画の予定によると、昭和三十三年度中に平壌だけで七千世帯の労働者アパートが建つことになっていた。これを今日では、どこの建設現場でもさいようしているレンガのブロック積みに切りかえたため、二万世帯分の住宅が年度末をまたないで完成したという。労働者の創意工夫の奨励が鳴物入りで全国に拡ろまっていったのだ。
 清津からの帰りみち興南の肥料工場に、全炳彩副支配人をたずねていった。たしか硝安向上でアンモニヤ酸化の白金触媒をみていたとき、金雲副技師長が揚酸ポンプのわきにおいてあった旋盤を指差して、
「この旋盤は、ここの工場でつくったのですよ」
と教えてくれた。
「えっ、肥料工場で旋盤を組みたてた。材料は?」
「材料はこの工場のあちこちにある、つまり予備をかき集めたのです」
どうも額面どおりには受けとれない、というような顔をしていたら、金さんは、いま全国にひろがる”工作機械の子生み運動”の話をしてくれた。
 朝鮮には工作機械がとても足りない。昨年あたりから懸命に国産化をはかっているが、それでも足りないので、一分チェコスロヴァキア、東ドイツなどから輸入もしている。、そして一台の旋盤でも研磨盤でも、工場に送られてくると、その現場がたとえ家具の工場であろうと、紡織工場であろうと、さっそくその工作機械と、同じ工作機械を現場の余備をかき集めて必ず一台組みたてることにしている。そしてできた機会はmすぐに他の現場に送ってやる。するとこれをうけとった現場でも、また一台同じ機会を組みたてる。つまりつぎからつぎへと工作機械が子供を生んでいく予というのである。
 そしてレンガブロックの採用も、子供を生む工作機械も、これらは最初の計画には、全然入っていなかったことである。いわれるとおり第一次五ヶ年計画は、たしかにぼう大な計画であった。しかし計画がすべり出すと、予想もしていなかった労働者の革新的な創意がつぎからつぎhrとあらわれ、これがいつのまにか五ヶ券計画推進の軸になった。だから建設は千里の駒にのったように、九ピッチで進み、五ヶ年計画を二年半で超過達成する、という”奇跡”が誕生した、と朝鮮人は信じているのである。

緩衝期とはなにか?
ーー工業と農業の不均衡ーー

 五年でやろうと思っていたことが、二年半でできてしまった。あとは一体どうするのだろうか、こういう疑問をもつのは当然だ。つぎの第二次五ヶ年計画のすべり出しを早める以外になかろう。しかしいくら実施の時期をくりあげるといっても、第二次計画には第二陣としての準備が必要だ。だからせいぜいくりあげたとしても一年がいいところ。昭和三十七年からはじめる予定を三十六年に、つまり来年にするのが精一杯である。とすればそれまでの一年半に、じっくり第一次計画の反省と第二次の準備を固めよう。そしてこの機関を”緩衝期”と名付け、それぞれに任務を与えることにした。これがいま北朝鮮のどこの工場にもかかげられている「緩衝期の任務を達成しよう」というスローガンの由来である。
 計画のくりあげ達成、ということ自体、資本主義の国では、それこそメッタになりことなので、つぎの段階へ進むため、クッションの時期をもうける、などというのは、どうもわれわれにはピンとこなかった。
 だが、ここで私の関心をひいたのは緩衝期の任務の中に特筆されている、「工業と農業の不均衡是正」の問題である。ひとくちにいうと、重工業の発展を優先的に進めてきた結果、第一次計画のしめくくりをしてみたら工業が農業とり、ぐんと進みすぎていた。このままにしておくと農村んで一番大切な、濃厚機械化などが計画どおりにいかない心配がある。だから進みすぎをため、おくれをとりもどす、アンバランスの是正がぜひとも必要である。これは緩衝期の重要な仕事であるというのだ。
 工業と農業の不均衡、これは北朝鮮だけでなく隣りの中国でも、ソ連でも社会主義国家には、程度の差こそあれ、共通した悩みになっているようだ。ただ穀倉地帯が南半分にあるため、農村の水利化、電化をとりあげ、食料自給に”とどめ”をさすという意味で、農村の機械化をやらざるをえない北朝鮮にとっては、ただ単に国際的に共通な悩みなどと、のんきなことはいってられない。すでに農村機械化の基本方針として、政府は昭和三十五年度中に平壌周辺と黄海南道、平安南道の農村を完全機械化する。その他の地方は、これを追っかけて、一、二年内に畜力を機械にかえる。と打ち出している。
 そうかといって農村が発展充実するまで、つまり機械化がうけいれられるようになるまで、工業の建設を休むというわけにもいかない。
 農業と工業の関連は、社会主義計画経済にあっては、より密接なつながりをもっている。たとえば紡績鋼業を発展させるためには、どうしても原料の綿花が豊富にいる。農業がこれまでのような手法で営まれておれば、結局、紡績工業への計画的な原料供給が、おくれをとることになる。なた食品か鉱工業を発展させるためには、十分な肉と野菜が必要である。これは畜産業の発展と不可分の関係にあり、飼料の確保が根本である。この面からどうしても、農村の機械化が大きくクローズアップしてくるわけだ。逆に見れば,農耕機械の農村への供給が、間に合っていない、ともみることができる。とすれば同じ機械工業の中でも、濃厚機械と一般機械との間に不均衡が存在していることになる。だからひとくちに不均衡といっても、内容はとても複雑である。
 これをどう解決するか、北朝鮮経済の最大の課題といえよう。

国営企業の採算ーー財政収入と支出ーー
サービス満天、国営そば屋

 西平壌を盛モランボン(牡丹峯)にそって左へ折れたところに「国営平壌第一めん屋(オク)」と言う国政のそば屋さんが一軒ある。夕方になると、冷めんや朝鮮料理をサカナに、酒によった労働者や公務員たちの、楽しい歌声が流れてくる。前にいったときは、この家の先の方に箕林閣という大きな国営のそば屋があったが、今度きてみると、これを上回る立派な国営そば屋ができていたのだ。
 国政なので、支配人以下、従業員はみな国から月給をもらっており、店の再三も、この程度に客が回転していたらさぞ楽だろう、と言う想像がつく。真白な作業服に、白い帽子を被った女の従業員がいい。こちらから頼んだ酒や料理を手ぎわよく運んでくれるが、このお嬢さんたちは、めっぽうあいそうがいい。なにを聞いても親切に教えてくれる。それでいて非常にういういしさが残っている。日本人記者団に一番人気の集まったのは、この店だ。ここの従業員たちは、生活の心配がない。またわけもなくクビになる心配もない、とすればあいそうよくしていた方が、とどのつまり自分も楽しいにちがいないわけである。オンドルのきいた二階の部屋で冷めんをたべながら、私はフトこん なことを考えていた。
 一万人の労働者が一日に三十万平方メートルのキレ地、一万枚のメリヤスのシャツなどを縫っている平壌紡織工場も国営。いちにちの労働を終え、友達や家族が楽しく、しかも料金をぼられる心配もなく冷めんをたべられる第一めん屋も、そして箕林閣も国営である。
 開放直後、北朝鮮には若干の私企業が存在していた。それがあの動乱で、すっかり灰にされてしまったため、たとえ設備や見せの一部が残ったものも、再び自分たちだけの力で私企業を起こすことができなくなってしまった。だからいま北朝鮮では、国のどこかに、工場がたっても、商店がポツンと店開きをしても、みな国営である。
 北朝鮮は”社会主義の事件室”とよくいわれる。建設にあけくれる朝鮮人にとっては、実験室だなんて冗談じゃない、こちらは少くも真剣なんだ、というかもしれないが、こうした面からみると北朝鮮の社会主義建設は、全く青写真どおり進めてゆける強みをもっていることはまちがいない。とにかく地上に、なにがたっても国営だ。
 国営企業というのは、一体どんな仕組みで国とつながっているのだろうか。

月給を下げられた社長さん

 金属工業省の清津製鋼所の社長室で、北朝鮮では支配人室というーー。朴容泰支配人と張鐘九技師長と私は三年前におとずれた、この工場の印象を話しあっていた。
 そのころ朴支配人は、まだ現場の一労働者であった。第一次五ヶ年計画をくりあげ達成するのに、朴さんはおどろくべきエネルギーと創意を、政府から与えられた”増産と節約”の至上命令にそそぎこんだ。そしてある時期、彼はこの工場の全労働者をひきずって計画目標の達成に努力をかたむけた張技師長は、朴さんの功績をたたえてこういう。昭和三十三年九月、労働英雄の称号をもらった朴さんは、全労働者に押されてこの工場の支配人になったのである。それまでただニコニコ笑いながら自分の話をきいていた朴さんは、すかさず『そして現場にいたとき百五十円近くとっていた月給は、とたんに支配人の月給百二十円におとされたのです』とチャチャを入れたのでドッと
大笑いになった。
 だが、これは笑いごとではない。労働者より社長の方が手取りが少ない。これはまあわかるような気がする。たとえ月給が下がっても朴さんには支配人という新しい生きがいもあろう。それにしても支配人の月給とか、労働者の月給、これは一体だれが、どんな基準できめるのだろう。働きすぎて体が弱れば、どの工場にも栄養食をたんと食べさせ、ゆっくり九用をとらせる夜間休養所、などという贅沢な設備までもっている。国営企業というのは、そんなに儲かるものなのか、清津製鋼所のやりくりを朴さんと張さんにきいてみた。
 まず年度の終わりになると、工場の幹部が集まって、翌年の生産計画をたてる。ここまでは資本主義の私企業と同じである。工場の設備や労働者の能力などを考え、生産計画がきまると、これをただちに金属工業省へ送りとどけ、工業省はこれを調査研究したうえ、さらに国家計画医委員会と合同で、検討する。
 この間、朴さんや張さんは政府によばれてこまごまと計画案を説明するわけだが、これでよし、となると、国からその計画を達成するに必要な運転資金と設備資金が下りてくる。そしてこの資金で茂山(モサン)からいくらでも鉄鉱石を、どのくらい買え、出来た粒鉄は、どこの鋳物工場へ一トンいくらで売れ、鉄鉱石をとかす粘結炭は、中国の開らん、双鴨から、これだけ回してやる、などという詳細な生産指示書が与えられるという。そのうえ指示された製品の販売価格には、ちゃんと敵性利じゅんが含まれているので、工場はもちろん、政府の方でも四半期ごとに計算をしてみると、この工場にいくら利じゅんがたまったか、あらかしめわかるようになっている。もちろん利じゅんは支配人や労働者の月給、その他生産に必要な経費を全部払ったうえでの利じゅんだ。
 さあ、その利じゅんはどうなるか、資本主義の国なら、さしずめ企業の内部保留とか、下部の配当金とか、いろいろ使い途があるが、そこは国営企業、まず財政省がその大部分を徴収する。園の「小鈴」は一定の率がきめられてあって、工場に「起業所基金」として積立てが認められる。そしてこの基金は、支配人の考えひとつで、労働者に時計とかラジオなどの賞品(重工業の項でくわしくのべる)を買ってやったり、夜間休養所のような校正設備のもと手に使えるようになっている。
 結局、ノルマを達成し、それ異常の実績をあげれば、それだけ政府の徴収金もふえるし、その分だけ又労働者の実質賃金もふえる、という仕組みになっているわけだ。
 しかもどこの工場も五ヶ年計画で与えられた生産量は、みな達成してしまい、その後もどしどし生産をつづけているので、いま財政省には全国の国営企業から、わんさと金が集まっている。こんな計算も成り立つわけである。平壌の戻ってさっそく財政省の予算局員、徐東寛さんにあって、国営企業からの”あがり”をきいてみたら、ことし政府は全体で二十三億二千五百万円八朝鮮円一円は日本円百五十円)のしゅうにゅうをみこんであいるが、このうち九五・三%は、こうした社会主義経理体系から入ってくる。という驚くべきふところ具合を教えてくれた。九五・三%というと政府が予定している前支出、住宅の建設から工場の拡張費、帰国者を迎える費用など二十二億八千百万円の大部分にあたるわけだ。ーーだから朴さん、たとえあなた月給が下がっても、もってメイすべきであろう。
無駄のない支払い
 北朝鮮の百五十一円で、中国の百五十円が交換されている。だから中国円と朝鮮の円は、ほぼ同じ値打ちに扱われている。その中国円で、私が昭和三十一年の十二月上海へいったとき毎月七百円も、手取りのある工場の経理さん(日本でいう社長さん)にたくさん出会った。
 経理の月給としては百五十円ていどであり、これで十分に暮らしがなりたつのに、っこの人たちは月給のほか政府から、下部の配当金が何百円と入ってくるのだ。社会主義国家と配当、これは一見ムジュンした話のようであるが、中国政府は上海を中心に根強く生きてきた。買弁手金亜資本主義を、社会主義的に改造するため、その過渡的手段として「公私合営」という企業の経営形態の看板が大きくかかげられている。
 公私合営とはなにか、ひとつ具体的に説明しよう。ここn革命前に民営の煙草工場があったとする。そこの経営者が政府に公私合営を申し入れると、さっそく政府のお役人がやってきて、この工場の資産を評価査定をする。そして、今後、この工場は国家のものとして組み込まれ、運転資金から設備資金まで全部、国が面倒をみることになるわけだが、この新しく生まれ変わった公の工場の経営に、それまでいた工場主は政府の評価した”私”の資産をもって参加し、依然として社長の肩書きをもって残るばかりでなく、毎月政府から資産に見合った「定息」つまり利益の配当をうけるわけである。だから煙草の工場や綿布の工場、マッチの工場などを三つも四つも持っていた社長さんは、新中国で七百円から八百円もの月収をえているのである。
 納得づくの革命を原則としている以上、中国としても、これは止むをえない措置ではあるが、社会主義のあるべき姿、という点からみると、これら旧資本家たちへの定息の配当は、きわめて無駄な支出ではないだろうか。この制度も近く中国では、旧資本家たちの自発的な意志として廃止される、ときいている。これはあの広い中国のことだからそう等の金額に達するにちがいない。
 北朝鮮にはこれがないのである。さきほどもこの点にふれたが、北朝鮮はすべてが国営だ、。旧資本家や地主に社会主義経理の中から配当を払う必要がないのである。
 社会主義計画経済の立場からいえば、これは大きな特徴であり、北朝鮮経済の最大の強味ともいえるだろう。
兵隊とおまわりさんが見当たらない 
 また強みはもう一つある、。どこの国でも予算に大きな比重を占める兵隊と巡査の”かかり”が、北朝鮮には非常に少ないのである。
 私は二度目の訪朝なので、北朝鮮のどこを旅行しても、逆に私の方が朝鮮人から”三年前とどこが違っていますか”と聞かれることが多い。その度に私は、『兵隊と巡査の数がずいぶん少なくなりましたね』と答えてやった。北京を飛びたった飛行機が、平壌に舞い下り、自動車で東平壌をつきぬけて大同橋を渡り、ホテルに着くまでのわずか、二十分の間、つまり私の第一印象がきざまれるコースだが、まっさきに私は,兵隊と巡査ーー北朝鮮では内務員というーーが、目立って少なくなったことに気がついた。
 地方へ旅行するにつれ、このことはますますはっきりした。前にきたときは、まだ中国の人民志願軍が北朝鮮に駐留していたせいもあるが、南の軍事境界線附近には、兵隊がわんさといた。どこの駅を汽車が通っても守備隊の兵隊がホームにたっていたし、橋という橋には、必ず番兵が着剣して警備していた。
 町を歩いても街角には、巡査が附近に目を光らせていた。
 今度はそれがない。しばらくいるうちに他の日本人記者団もそれに気がつき、車で町を走っていても、どこかで巡査をみかけると、車の窓からカメラを出して、さも珍しいものをみつけた、といわんばわりにパチパチ写真をとり出す始末である。私は黄海製鉄所の帰えり途に動向の民主朝鮮(政府機関紙)の韓竜泳記者に、『ずい分少ないね』と聞いてみた。韓君は顔を窓の外に向けたまま『兵隊と巡査の数の多いのは、民主国家とはいえないね』と、ポッツリひとこと返事しただけ。そんなこのは分かっている。ーー私はそのときハラの中で「朝鮮人は、もう戦争も内乱も絶対に起きない、とほんとうに信じこんでいるのだろうか、」という疑念がわいてきた。平壌にかえりつくや、冷の財務省の徐東寛さんいあってみた。いったい政府は兵隊と巡査の費用に、朝鮮でいう民族保衛費と行政費にどのくらい予算を計上しているのだろう。それをまずたしかめてみる必要がある。二人で国の財政支出の検討がはじまったわけだ。まず目につくのは経済部門や社会、文化方面への支出である、。これは教育とか社会保険、科学振興費などが含まれているが、全体の八九・四%を占めている。昭和三十一年にきて調べたときは八七%であったはず。その後建設の規模はぐんとふくらんだし、学校の数もふえてきている。とすれば何か減ったものがなければならない。やはり民族保衛費と内務費をいれた行政費だ、三年前に支出全体の五・九%を占めていた保衛費は、昭和三十四年には二・八%に、行政費は六・一%が四と、両方ともおおむね半分にへっているのだ。

二つの革命と金

 ほかの報告にもあると思うが、いま北朝鮮には、どこの職場へいっても、どんな山深い農村へいっても”文化革命”と”技術革命”という二つの革命のいぶきがふきまくっている。第一次五ヶ年計画は、北朝鮮政府の言をまつまでもなく、たしかに国民の衣食住を、根本的に解決した。このことは三年前と今日の朝鮮とを、実際に見比べてはっきりいえる。またこれによって朝鮮人は、想像もつかないほど自信をもったことも事実である。つぎの段階に対し、朝鮮人はいったい何を考えているのだろう。金日成首相にいわせると、社会主義のより高い段階、共産主義社会の入り口に、立とうとしているわけだが、われわれが今日の朝鮮をみて感ずることは、とにかく停戦以来のわずか六年間で、よく、この段階まで国力をひきあげた。ということだ。このエネルギーを支えている物質的な力は、なんといっても重工業である。そして重工業の中心は、いずれもかつて日本人が手がけたものであり、今日朝鮮人は、これを日本時代以上の水準に引きあげたばかりでなく、完全に生まれかわった朝鮮人の重工業として、打ちたてることに成功した。こういうことははっきり感ずる。
 第二次五ヶ年計画でねらうもの、つまり朝鮮の産業立地条件に完璧にマッチした、本格的な重工業を建設し、これに第一次五ヶ年計画で復興させた現在の重工業をむすびつけることに成功したら、これまた金日成首相の”人口一人当たりの生産量はアジア第一”というアッピールは別としても、朝鮮の国力を、われわれは全く無視できなくなるだろう。だから技術への神秘性を打破せよ、技術というものは神秘なものでなく、これは克服され自分の身につけるものである。という技術革命と、この精神生活を支える力を養う文化革命とは、いまこそ北朝鮮にとって、いちばん、大切な心構えでといえるあろう。兵隊と巡査が多いのは民主国家ではない、と韓君はいみじくも答えたが、これと戦争の可能性は別のものであるはずだ。こrうぇについては私はひとつの考え方をもっている。朝鮮人は、世界の中で、近代戦争を経験した唯一の民族といえる。そしてあの三年にわたる動乱で朝鮮人は、いろいろのことを学んだにちがいない。あるいはこういうことを学んだのではないだろうか。
 近代戦争というものは、いくら朝鮮が予算の十%も二十%もかけて兵力を増強しても、いざ開戦となれば、ひとたまりもない。それほど規模も大きく、残忍なものである。不幸にして戦争がおきたら、そこには彼らのいう兄弟国家の友誼がある。朝鮮動乱の停戦お朝鮮人からみればひとつの友誼のあらわれであった。いずれ開戦ともなれば、友誼を信じよう。そのかわり、少なくとも平時においては、できるだけ人間を建設にふりむけ、最初の三ヶ年計画にあらわれたような兄弟国家への負担を、一日も早く軽くしよう。ーーこう考えて民族保衛費と行政費をへらしたとすれば、われわれは兵隊と巡査の少ない朝鮮を、額面と居り信じられるような気がする。とにかくこうした強い政治の力というものが、私のような旅行者の生活の中にも感じられるのである。
 またあれだけ豊富に金が産出していながら、私が町で金をみたのは、ただの一回。平壌の臥山洞に新設された「工業および農業展覧館」の展示場に”重要輸出品”のレッテルをはって並べられているのをみただけ。あとは町を行く婦人の装身具には勿論、工芸品にも金粉すら使っているのをみたことがない。そしてちょうど、昭和三十五年°の日本の朝鮮との貿易量を具体的にとりきめるため、平壌にきていた日本の貿易団体のA君に、朝鮮国際貿易促進委員会のある幹部は、『代金は金でお払いしても結構です』と真顔で答えたという。ここにもはっきり政治が感じられるし、また心憎いまでの能率の良さも感ずる、朝鮮の経済は、ここしばらくは文化革命と技術革命の二つの車輪に、強い政治力に引っぱられながら、第二次五ヶ年計画に向かって進んでいくだろう。


訪朝記者団,訪朝記者団 編




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