北朝鮮の記録 訪朝記者団の報告(下) 

└ 2015-07-01 09:53

重工業をめぐる話題 読売新聞社:秋元秀雄

煙の出ない石炭 ーー特色ある製鉄技術ーー
 金属工業省が直接に管理している清津製鋼所と金策製鉄所、そして黄海製鉄所の三つが、北朝鮮の製鉄部門のカナメといえるだろう。だいたい北朝鮮の重工業は、威鏡道の北部海岸線と、馬息嶺につながる西海岸の中部平野に集まっているが、この三つの製鉄所も金策、清津が北部海岸線、黄海が中部平原にどっかりと腰を下ろしている。この地方こそ、かつて朝鮮で生活をしたことのある日本人技術者にとって、忘れることのできない郷愁の地である。
 朝鮮動乱のさなか、われわれは東京で、金策はどうなっただろうとか、黄海製鉄所は三十八度線に近いから、大分ひどくやられたのではないか、あるいはまた三菱系の会社にいる技術者は、清津製鋼所の回転ガマは、疎開してあるんだろうな、などと、わがことのように心配しているのを、よく耳にした。
 だが、実際に現地へやってきて、日本でこういう噂が絶えないというのはただ単に日本人のもっている郷愁がそういわせているのではない、ということをはっきり知ることができた。事実、日本の八幡製鉄所でも、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄といった大どころの製鉄会社の技術者たちは、みな、北朝鮮の三大製鉄所について、いろいろな資料をとりよせ、目を皿のようにしているのだ。 
 なぜだろう。日本の技術者はどうして欧米先進国の製鉄技術もさることながら、北朝鮮の製鉄に注目しているのか、それには深いワケがあったのだ。まずとりいそぎ三大製鉄のあらましを紹介してみよう。
 清津製鋼所は、動乱で戦前六基あった回転炉が、全部破かいされてしまったが、昭和二十九年から復旧作業にとりかかり、三十年に回転炉四本を、動かすことができるようになった。その後三十二年に一本、三十三年にもう一本なおし、今度いってみたら戦前のとおり六本の炉が回転をしていた。そして目下、二本増設する計画で土台の基礎工事を進めていたが、このうちの一本は三十五年度中に動き出す予定だといっていた。直径三・六メートル、長さ六十メートル、傾斜二度の炉は、七十秒ごとに一回転しながら、一日に八十トンから百トン近い”粒鉄”を生産している。さあ粒鉄というのが問題である。日本人に粒鉄といっても、一般の人は全然見当がつかないであろう。銑鉄とちがうし、鋼塊ともちがう。いわば朝鮮の製鉄を特色ずけるものとして、各国の製鉄技術者の注目の的になっている。くわしくはあとから登場するので、この隣りにある金策製鉄所に目を転じよう。、
 緩衝期ににぶつかり、目下工場の設備やら工員の数を第二次五ヶ年計画にそなえ、どのような規模にしたらよいか、幹部が集まって研究中なので、工場の敷地とか、工員の数は、ついに教えてもらえなかったが、千トン高炉が二基、景気よく煙をはいていた。また黄海製鉄所にいったとき、八百トン高炉が、これまた景気よく出銑している真最中であったが、金策と黄海のちがいは製品段階にある。つまり黄海の方は銑鉄から厚板、薄板、丸鋼、帯鋼、型鋼まで一年間に十三万トンほど一貫してつくる設備をもっているが、金策は高炉で銑鉄を流し出すだけ、あとはこの銑鉄を貨車に積んで、地方の鋳物工場へ送り出している。こういうちがいがあるわけだが、ここにまた注目されるような共通点が一つある。それは両方とも、銑鉄をつくるときコークスに鉄鉱石の粉鉱を十五%から二十%ぐらいまぜあわせてつくった「鉄コークス」というのをひとまずつくり、これで銑鉄をつくっていることである。これも日本ではやっていない方法だ。粒鉄といい鉄コークスといい、さきほどもいったように、これが北朝鮮の製鉄におおいに特色をもたせているのである。
 それなら朝鮮はどうして、こんな変わった鉄の作り方をしているのか。はっきりいうと石炭がないからだ。いやそんなことはあるまい。戦前、日本は朝鮮からレン炭や豆炭につかう石炭をたくさん輸入していたではないか。さんきんも韓国から豆炭を輸入しようとしたら、突然韓国が、日本には石炭をうらない、といい出して業者はずいぶんこまってしまった経験があるではないか。事実はそのとおりだが、石炭は石炭でも朝鮮の石炭は無煙炭といって、煙のでない石炭なのである。レン炭や豆炭用には、火をつけてぼんぼん煙が出たんでは困る。そのかわり石炭が燃えるとき、、そんなに大きなエネルギーを出さなくてもいい、とざっとこんな具合なのである。ところが炉の中で鉄鉱石をとかし、鉄分をとり出す石炭は、煙が出ても強い粘結力、エネルギーをもったものでなければならない。これが朝鮮の山にはないのだ。みんな中国からカイラン炭とか双鴨炭を買ってきてつかっている。
 黄海だけで月に五万トン以上のカイラン炭が大同江から運ばれてきていた。原料炭を全部、外国に頼らなければならない、というところに朝鮮の製鉄所のいちばん大きい悩みがあるのだ。逆に言えば”石炭の節減”これが製鉄技術者の第一目標になっている。そうした環境から生まれ出てきたのが、粒鉄であり鉄コークスなのだ。粒鉄とはどんなものか。先ずこれを説明しよう。どこの国でも鉄をつくる順序は大抵きまっている。高炉に鉄鉱石を入れる。そして粘結炭をもやしてつくったコークスを、この中に入れて溶剤を加えて火をつけると、下の蛇口からドロドロに溶けた鉄分が流れ出てくる。これが銑鉄だ。ところがこの銑鉄には、鉄のモロサのモトになる炭素分が、まだ三・四%から多いものは四・三%も含まれている。そこで銑鉄をもう一度製鋼炉に入れて、炭素分が一・五%ていどにおちるまでやきつくして、鋼のかたまりをつくるわけである。だが、朝鮮にはコークスをつくる粘結炭がない。そこで現場の労働者や技術者が集まって、よりより相談したあげく、回転炉の中にまず鉄鉱石をいれて、そこへこれならどこを掘っても出てくる無煙炭を吹き込んで、特殊な溶剤をいれてやくことにした。そして出てきたものが、ブツブツになった鉄のかたまり、いわゆる粒鉄である。チェコスロバキア、ポーランド、西ドイツ、ソ連などで試験的に、こまこれをまねてつくっているが、回転炉をとおるだけで粒鉄には炭素分が一・五%も入っていない。というデータがでている。
 鉄コークスも、コークスをそのままもやしたのでは勿体ないから、最初からこれに粉鉄をまぜあわせてから、もやす、日本でも全く事情が同じである。日本の製鉄技術者が、郷愁をこえて粒鉄や鉄コークスに目をつけているのは、じつはこうした理由がひそんでいたのである。
 
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金属を削るのに油は要らぬ
ーー機械工業の水準ーー
 正月を平壌のホテルでおくり、一月の中旬に東京へ帰ってきたが、あれから二ヶ月ばかりの真、私はずいぶんおおぜいの在日朝鮮人と話をしてきた。呼ばれて北朝鮮の話をしにいったこともあれば、わざわざ私をたずねてくる人もある。こうした機会を通じいろいろの質問を、いろいろの層の人からうけたが、その中で一番、関心をもたれているのが、祖国の機械はいったいどの程度のものであるか。”祖国の機械工業の水準”はどれくらいか、ということだった。これには私もきわめて意外の感をにうたれてしまった。自分の国の国産機械が、どのていどの実力をもっているか、これに無関心の者はいないだろう。しかし会う人ごとに、といっていいほどこの質問が出るとは、思ってもみなかったことである。ある在日公民は、「あなたは、ものによってはもう国際水準にある、などといったが、とうていそんなことは信じられない」と立場がいれかわったようなことを聞く人もいた。
 「ものによっては国際水準にある」このことはまぎれもない事実だ。成興市の郊外に、国立竜城機械工場を訪ねたときの話をしよう。この土地に戦前、日本の野口系の会社が、極めて小規模の機械工場をここにたてたが、すぐ終戦となり、その存在は当時朝鮮にいた日本人でも、あまり知らなかったほどの工場である。ところがここ二、三年のうちに、この工場の名はだんだん日本にも知られるようになってきた。どうしてであろう。
 ソ連や東欧諸国が全部無償で、素材から組みたてまでの一貫設備を、ここに建設してくれたからでもない。製鉄から鉱山関係、鉄道用、化学工業用からセメント用の機械にいたるまで、大型発電機を除いたら、なんでもつくっている、という万能工場であるという点でもない。ここの鋳物の素晴らしさと,朝鮮がほこる超硬切削工具の実力が、この工場でいかんなく発揮されている、という二つの事実が注目されているのだ。
 朝鮮には鋳物につかう優秀な砂があることは、古くから日本でも知られていた。しかし戦前は、これが十分に開発されないままほおっておかれたのである。それをこの工場の技術者が、みごと探し出し、いまここには黄海南道の夢金浦、成鏡南道の利原羅興などから、硝酸分八十%、アルミナ分のほとんどない理想的な鋳物用の砂が運こびこまれている。この結果、戦前一団式であったこの工場の鋳鋼法も、多段式にきりかわっていたし、鋳物工場の電気炉、溶解炉から流れ出る鋼塊で、コンプレッサーからタービン、機関車、貨車の車輪までどしどし鋳造できるようになったのである。
もうひとつの関心ーー
 それは豊富な特種資源にものをいわせ、北朝鮮はここ四、五年来、非常に硬質の切削工具をつくり出しているということだ。ところが、一部これは外国にも輸出されているので、日本の企業もこの工具を、すでに手に入れてつかっている者もおり、この関係から”朝鮮バイト”の名は、ようやくわが国でも、その名を知られ出したのである。竜城でつかっている高速旋盤はソ連製であったが、これにはめ込んであるバイト(切削工具)は国産バイトだ。これはどこの国でもそうだが、ふつう加工素材にバイトをかけて金属を削るときは、バイトの歯こぼれを防ぐため、切削面に上から油を注ぎかけるのが常識である。ところがよくここの現場で注意してみると、たいていのものは注油することなく、直接バイトをかけている。
 私は機械の止まるのをまって、そっとバイトの歯を調べてみたが、むろんなんともなっていない。これはおどろくべきことである。全炳漢支配人は、「製品はまだまだ国際的水準に達していない」とけんそんしていた、事実、現場で組立て中の八百馬力のエアーコンプレッサー、二百馬力巻き揚げ機、千五百馬力減速機、シャフトから各種圧延機などをみても、製品としてはまだ荒けずりの点はあるが、朝鮮人が自分の手で全く新しく開拓した鋳物と切削工具の水準は、十分国際的水準と認めてよいだろう。

国旗勲章”千九百人”
ーー脅威の復興、肥料工業ーー
 北朝鮮の工場で、これほど動乱でメチャクチャに破かいされた工場はないだろう。記者団がこの工場を訪ねたとき、事務所には全柄彩副支配人をはじめ金鋌雲副技師長、公務部長の任基宰さんから頸部調や硫安、硝安、運輸、硫酸部門の各責任者が、おおぜいでわれわれをまっていた。金柄彩さんの話によると、この工場には、労力英雄が副技師長の金鋌雲さんの他にももう一人いる。そして国家から業績を認められて国旗勲章をもらった労働者が千九百人もいる、という。そして彼等が、いかにして労力英雄になり、また勲章をもらったかという話になったら、全さんは特異このうえもないという楽しそうな顔でしゃべりまくっていた。
 ところが話が、三年間の戦争におよんだ途端、全さんは勿論、同席していた人たちはみな一瞬顔つきがかわってしまった。それはあまりにも、ひどかったからだ。動乱が開始された昭和二十五年の八月一日に、アメリカのB29が百機も、この工場の上空にあらわれ、四時間にわたって爆弾をおとした、と全さんがいったとき、副技師長以下、工場の人たちはみな大きくうなずいた。そしてその後三年間、毎日のように爆撃をうけ、しまいには艦砲射撃までうけた。小型爆弾は計算に入れず、大爆弾と艦砲射撃だけで、この工場は六平方メートルに一個の割で爆弾をあびたそうである。しかも二ヶ月間この地方は国連軍に占領され、それでも残っていた僅かの設備は、これで根こそぎ破かいされた。とにかく完ぷなきまでにやられたわけだ。それだけに生産再開まで、ずいぶん時間がかかったという。昭和三十年の八月になって、やっと硫安の生産が再開され、第一次五ヶ年計画をむかえ、ソ連の十億ルーブル無償援助の一部で、戦前はなかった硝安工場をふやしたり、いまでは過燐酸石灰を合わせ、化学肥料の生産高は、全国の七十%を占めるほど復旧したわけである。そして硝安工場へ行ってみたら、袋詰めにされた硝安には中国行きのスタンプがどしどしはられ、輸出の花形にのしあがろうとしていた。話を聞くまでもなく、現場をひとまわりしただけで、よくまあここまで復旧させた、ということはひと目でわかる。まだ工場の隅には、爆弾でやられたままの工場が、そのまま残っており、その右の方に新しくつくり直された硫安工場が、きわめて対象的に向かいあっている。これでは勲章をもらった労働者が千九百人いても、ちっとっもおかしくないわけだ。
 そして、成興市と興南史を結ぶ街道に、新設された化学工場の本格的な可動はあと一、二年ということだが、この化学工場とお互いに原料や製品を交流しあう時期がきたら、またひとつ大きく発展することだろう。すでに金鋌雲さんを中心に、ことしから熱源に石炭のガス化を実現しようとしており、これが軌道にのればアンモニャ系の肥料の生産は、またぐんとふえるはずである。

”特許料”を払います
ーー労働者の給与体系と労務管理ーー
 社会主義国家というのは、すべて平等が原則だから、いくらたくさん働らいたって、それほど働かない人と給料は同じだろう。こんな事を本当に思っている人もあるかもしれない。
 だが,北朝鮮の労働者は,一軒の労働者アパートに、給料のちがった労働者がたくさん同居している。アパートは原則として職場のすぐそばにたてられるので、同じアパートには、これまた原則として同じ職場の人間が住む傾向が強いわけである。それでいて隣りの部屋の人は、五十五円をもらっているが、その向かい側の人は百二十円も月給をもらっている。その隣りは、また九十五円もとっている。しかもこの人は、工場から先月ラジオを給与の一部として買ってもらった。いったいこれはどうしたわけだろう。、労働者の給与水準については、他の報告にもあるだろうから、ここでは給与体系について報告をすることにする。
 北朝鮮で、”あなたは月給いくらもらっていますか”と聞くと、かならず名目賃金はいくらいくらです、と答える。となるとそれ以外に収入があるような感じをうける。事実それはある。つまり名目賃金というのは、業種によってちがうが、大体五十円から六十円ていどと全国的にきめられており、どんなに能率の悪い人でも、これだけは最低線として保証されている。そのほかに「都給制」とよばれる日本の過勤料に似た制度があるのだ。政府は各現場ごとにその月の生産指示量を割当てるが、その現場が非常に能率よく仕事をして、このノルマを達成してしまうと、このあと超過して生産した分に対し、一定の率で奨励金が出るようになっている。しかし一定の率で無制限に計算していくと、月給のトータルが実際には二百円にも三百円にもなる人が出てくる。同じアパートに住んでいて、これではあまりに差がついて、いろいろとさしさわりも出てくるおそれもあるので、現金で支給する額は大体、百五、六十円で、頭を抑え、これを超過した分は、支配人が四半期ごとに計算したうえ、月給だけではとうてい買えそうにもないラジオとか時計とか,高級なオーバー生地、背広とかを買って支給する賞品制度を併用しているのである。清津製鋼所へいったとき、例の朴容泰支配人が、ちょうど第四・四半期(北朝鮮では一〜十二月を一年度としている)分の賞品として,六万円分(日本円で九百万円)の賞品を買い集めていた最中だった。だから朝鮮ではラジオをそなえ、日曜日など腕時計をはめて背広を着込んで家族連れで外出する労働者は、それこそ全く模範的な労働者であり、時計、ラジオは贅沢品というより、国家への忠誠のシンボルといえるわけである。
 さらに労働者には、もっと魅力的な収入の途が開かれている。生産性の向上や環境衛生の改善に役立つような発明をした者に、国が特許料を支払う制度が生きているのだ。社会主義国家と特許料、これはちょっと奇異な感をもつが、とにかく特許料が払われていることは事実である。朴支配人に、この話しを聞いたとき、私と同席していた清津の帰国公民迎接委員の許さん、また通訳の朴哲さんも、これはどうも初耳です、とばかり私と一緒に、じつに興味深く聞き耳をたてていたほどだ。
 朴支配人は『ちょうど昨日、政府から二百円のお特許料をもらった労働者が、この工場にいるから、その人の場合をお話ししましょう』といって、くわしくそのいきさつを語ってくれた。
 尹命満さんという三十八才の回転炉修理工が、その主人公であった。この労働英雄の卵は、かねてから回転炉のまわりにモヤモヤしているチリが気になって仕様がなかった。そしていろいろ青写真をかきながら研究した結果、ついに回転炉の集ジン装置を発明したのである。これまで回転炉から出るチリは、そのままサンドポンプで吸いあげて捨てていた。ところがこの中には鉄鉱石からでる鉄分や無煙炭の粉などが、まだたくさん含まれており、これがまたモヤモヤのもとになっている。そこで尹さんは、チリに水をかけて、ますこれがとび散らないようにして、さらにこれをチェーンコンベアでふたたび炉の中にもどすことを考えついたわけである。この考えが政府に建設的な創意として認められ、金属工業省は、この装置を早速二本の回転炉にとりつけることを命令し、一本につき百円、二本で二百円の賞金が、きのう尹さんの手もとに届けられた、という筋書きである、朴さんは、賞金といっていたが、立派に特許料といえよう、ただ資本主義の特許料と、ちょっとちがう点がある。資本主義国家の場合は、特許権というのは半永久的に個人所有が認められるが、朝鮮の場合はそうではない。現在、ある回転炉に、この装置がとりつけられた場合は、その炉が北朝鮮のどこにあっても尹さんに一本につき百円の金を払うが、今度政府が全く新しい工場を、どこか別のところに建設し、その回転炉に最初からこの装置をとりつける場合は、すでにその特許権は政府のものに帰属する、ここが根本的にちがうところである。

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住宅建設と市民生活 共同通信社:村岡博人

クレーンの街
 朝鮮の街を歩いていたる所で目についたのは建築用の資材を持ちあげるクレーンだった。
 平壌駅におりると、すぐ目の前の右手に出版センターを建設中のクレーンが立ちならび、駅前の人民軍通りを真すぐ大同江の方に向かってゆくと、スターリン通りとぶつかる右角で、建坪二万八千余平方メートル、高さ四十八メートルというオペラ劇場の建設工事が行われていた。戦争の被害が比較的少なく、朝鮮の京都とでもいえそうな町、古い名所古跡を多く残して居る開城でも労働者アパートをたてるためのクレーンがいくつもみかけられた。平野の真中の農村や北の港町の清津も例外ではなかった。仲間の一人が朝鮮名物はクレーンだといっていたが、朝鮮中クレーンの立っていないところはないといってよいかもしれない。
 
 いまさきまでもたっていた三階建の建物がアスファルト道路にぶっ倒れ
 なかばやきただれた街路樹は
 腰を折られて地べたにでんぐりかえり 太陽さえ黒い煙のむこうで
 血のように、どす赤く燃えている朝鮮!
 爆撃のために雀さえいなかった朝鮮!
 
 趙基天氏は戦争中作った「朝鮮はたたかう」という詩の中で、むごたらしい破壊をえがき、この地から都市と村とを探すことは徒労だと呼びかけたが、朝鮮戦争は”ノコギリ戦争”といわれるほど戦線がいったりきたいりしたので、その被害もわれわれの想像をこえるものがあったようだ。平壌についていえば五十五万発の爆弾で原っぱにされた。、人口一人当たり一発の爆弾が落とされた勘定だ。それを短期間に復興し、このごろでは戦争直後に建てた応募住宅の建てなおしにまで着工しだしたのだから忙しいわけだ。
 一九五八年七月モスクワで国際建築家会議が開かれた時、ヨーロッパの代表がその建築の速度の早さを疑ったという話をきいたが、私も東京に帰って高層建築の立ちならんだ写真をひろげた時、何人かの人から「表通りは立派だけど裏はどうなんだ」という質問をうけた。表ばかりきれいでウラはゴミゴミしているとことの多い東京のことを考えれば無理のない質問かもしれないが、朝鮮の町には表も裏もなかった。町に出て地図を買いたいといった時、案内してくれた人に朝鮮ではまだ町野の様子がどんどん変わっている最中なんで地図を作っていないんですと説明されたこともあった。朝鮮人自身でさえ何ヶ月も町を離れていると様子が変わっているのにびっくりするそうだ。
 建築のテンポがとくに急激に高まったのは一九五七年、朝鮮労働党中央委員会の十月総会が、組立て式建築方法を広く採用するように呼びかけてからだった。日本ではやりの住宅公団アパートなどにくらべると若干、中の造作など作りが雑な感じもしたが、積み木細工でもやっているかのように、出来あがった壁をクレーンで積みあげていくスピードには驚いた。「地震がないのでつぶれる心配はない」とのことだったが、最近は一世帯分十四分で造れるということだった。勿論外側に色をぬったり、床をつるつるに磨くような余ゆうはまだない。
 われわれ訪朝記者団の案内役をつとめてくれた労働新聞国際部長の田仁さんは戦後三回家を変えたといっていた。一間から二間、いまは三間と台所付きの家にいるが、職業同盟(日本の労働組合に当る)では四間のアパートを提供してくれるといっているそうだ。「見にいったんですがね、陽当たりが悪いんで移るのをやめにしたんですよ、そのうちにもっといいのが出来るようになるだろうと思ってね」田さんはこういっていたが、事実住宅の室は年々向上しているようだった。
 「これは一九五七年」「これは五八年」「これは昨年建設されたものです」と説明された建物をみてゆくと、外側はほとんど変わりないが、一世帯あたりの部屋数が二つから三つにふえ、浴場施設が付属するといった調子で年ごとに住宅事情の好転してゆく様子が感じられた。

カラすぎる食物の由来?!
 例えば、一九六十年の平壌の住宅建設計画は面積にして六十七万余平方メートル、これによって東平壌の寺洞と建設中の第二大同橋を結ぶ区間に、巾八十メートルの東大院通りが生まれ、その両側に八階ないし十二階建の高層文化住宅が千三百世帯建設される。これには塔式住宅を配合して建物の美感をます予定だ。住宅ばかりではない。十四の技術学校と人民学校、機械大学をはじめとする四つの大学幼稚園、託児所のほか十ヵ所の浴場、一日一万着を洗える機械化された七ヵ所の洗濯所を新設するのも一九六十年の目標だ。
 朝鮮労働省は一九五九年十二月一日から四日間、中央委員会の拡大総会を開いて一九六十年の国民経済発展計画などを討議した。総会は金日成首相が提案した、一九六十年を「緩衝期」として来年から第二次五ヶ年計画にとりかかるための準備期間とする方針を採択した。そして緩衝期の中心課題は「これまでの、とくに一九五九年度の計画遂行において一部の経済部門に現れた緊張をとき、弱い環を強化して人民生活をいっそう向上させること」であると指摘した。今までは「最大限の増産と節約」というスローガンでがんばってきた。在日朝鮮人を迎え入れるだけの余力も出来たし、ここらで一息、「今年は勤労者の住宅と文化更生施設を大いに建設しよう。主食と副食物及び大衆消費品の生産をあらゆる方法で増大させ、その品種をいっそう多くし、製品の室をたかめることによって大衆が要求する各種の消費品を円満に供給しよう」というのが、一九六十年を迎えた朝鮮の目標だった。
 いわゆる三十八度線、軍事境界線をはさむ非武装地帯まで耕している平和里農業協同組合で、李福淳委員長も語っていた。「この村は戦争の終るのがおくれたのでまだワラぶき屋根の家があります。しかし今年の八月十五日にまたきてみて下さい。きっと全部がカワラぶきになっていますよ」彼の表情は確信にみちていた。
 金日成首相も帰国者を前にして語っていた。「ここにきて富者になったと考えてはいけない。しかし働いて食べて住んでゆくにはいい条件がある。第一に失業者はいない、飢えている人もいない、野菜や肉はまだ不足しているが党はこの問題の解決に力をそそいでいる。
 よく働きよく闘えばよく食うことが出来る。住宅にはいいものもあるし悪いものもある。、これまでは人々をほら穴から引上げるのが当面の任務だったが、今ではせまいながらもみんな住む家が出来た。この厳寒でもこごえ死ぬ人はいないーー」首相はそっちょくに「まだ野菜や肉類が不足している」といっていたが、われわれが(療法食食目)翁車の眼でみた限りでは、戦争直後の日本のように配給所に列を作るというような極端なものではなかった。日本でもまだ副食品まで配給制だったころラジオがよく「きょうの入荷はスケソウダラ○○貫..........:といったような放送をしていたのを覚えている人も多いと思う。私は朝鮮でそのことを思い出した。いたるところでこの魚、朝鮮名でいえばメンタイ(明太)にお目にかかったからだ。平壌では天びん棒の両側に何十尾もぶらさげてはこんでいる人を見かけたし、農業協同組合の食料品販売所でも山と積まれているのを見た。生のままでは食べきれないのだろう。威口の町では日の当たらない場所の板べいにぶらさげて干してあった。朝鮮では冬はほとんど雨が降らないし、盗んでゆく人もいないので夜も外に出しっぱなしにしておいて”凍干”させるということだった。味がよいわけではないので、ホテルの食卓ではメンタイの卵ーータラの子以外にはお目にかからなかったが、質よりまず量が要求されている現在の朝鮮では、どこの家庭でもたくさんたべているようだった。
 東京では朝鮮料理といえば焼肉ぐらいしか食べたことのなかったものにとって、本国での正月料理は色々と珍しいものが多かった。中国料理の水ぎょうざに似た「マンド」、もち米に干し柿、栗、ナツメ、松の実、蜂蜜などをまぜて赤飯のようにふかした「薬飯」など十数種類も食卓にならべられた時にはどれから手を出そうかとまよったほどだった。ただ困ったことには大部分がカラすぎた。最近は日本人でも愛用者の多い朝鮮漬「キムチ」(沈菜)にしても、ちょっと赤い所を口に入れると飛びあがるほどカラかった。
 病院を見学した時、心臓病の多いことをきいたので、「刺激物をとりすぎるためではないか」ときいてみたがはっきりした回答はなかった。「朝鮮人の食物がカライのは過去長い間圧迫されていた時代わずかな副食物でごはんをたべねばならなかったから自然辛いものをとるようになったのではないか、そのうちに肉や野菜がもっと豊富になればしょくせいかつも改善されてうくだろう」と案内係の朝鮮人記者の一人はいっていた。
 日本にいる時にも、貧困の中で腐った肉でもたべねばならなかった在日朝鮮人がいわゆるホルモン焼きを考案したということをきいていたが、過去の朝鮮と切りはなしては考えられない日本の責任を思い出される言葉だった。キムチは朝鮮では四季を通じて日常の食卓になくてならないものとされているのだろう。宴会や酒席にも必ずならんでいた。下痢のため病院に入院した仲間の一人は、「医者に刺激物はとらないように」と注意された直後、看護婦さんの運んできてくれた食ぜんにキムチがあったといいい、「あの程度のカラさは刺激のうちにはいらないのだろうかね」と笑っていた。それほどキムチは朝鮮人の食生活と切りはなせないもののようだった。

酒とタバコと
 工場見学をした時、「昼食は工員さんと一緒に食堂で」と希望したのだが、「お客様にそそうがあってはいけない」と白いテーブルクロスのかかった別室で御馳走されたのは残念だったが、そばやにいきたいという希望はかなえられた。暮れの一日、平南第一麺屋という”国営のおそば屋さん”へ行った。建物は古風な朝鮮式の二階建てだった。国営の商売になると売り上げが自分の収入に関係なくなるせいか、お客扱いがぶっきらぼうになることもあるようだが、「このそば屋は女給さんたちのサービスがよいことと、料理がうまいことで有名」という説明をききながら二階へ上がった。なるほど忘年会でもやっているのか、酒を飲み歌を歌っている人々など、どの部屋もお客さんが一ぱいのようで人気のほどがうかがわれた。黒いチマ(スカート)に桃色のチョゴリ(上衣)という制服姿の可愛いお嬢さん方が、おしぼりをもってきてくれるのも悪い気はしなかった。真ちゅうの器に銀のはしという昔風な食器を使うあたりも、なかなか工夫をこらしているようで、一番上に真赤にのっていたからしをはしでどけてから食べた平壌冷麺の味も忘れがたいものがあった。
 朝鮮語にソンジュ・フーミョン(先酒後麺)という言葉があるそうだ。われわれもここで大部酒をすすめられて飲んだ。”にんじん酒”といって、朝鮮人参のエキスをアルコールでうすめたような強い酒で、もちろん火をつけると燃えだした。日本お酒とちがってちょっとぐらい飲みすぎても頭が痛くなることはなかったが、われわれ記者団の中には酒に弱い者もいて、”不老長寿の薬だ”と無理にすすめられるのには大部困っていた。その中の一人がある宴会の席上でこういった。
 「われわれは東京にいる時、北朝鮮というところは自由のない生地獄だときかされていた。
 こちらにきてもう大部たったがどうみても生地獄とは思えなかった。しかし私はj今夜朝鮮に自由のないことを発見した。酒からの自由がない」、朝鮮人もまじえてこの皮肉たっぷりな挨拶にはヤンヤのかっさいが起こった。だが相手もさるものすぐ立ってやりかえしてきた、「日本人記者のいうことは本当だ、酒からの自由がなくていけない。その意味で乾杯しましょう」。もちろんこの機智にとんだ応答に宴席は再び大笑いとなった、酒からの自由を求めた仲間はこの日から宴席を途中でソットぬけ出すようになった。「朝鮮では酒の席からぬけるのに奥さんがこわいからなどといったら笑われて相手にされないけど、お客さんがシッポをまいてソッと逃げる分にはいっこう失礼にならないんですよ」と朝鮮人記者に教えられたからだった。朝鮮でも日本同様新聞記者はよく飲むらしく、私もアニ・アニ・ペクチャ(いやいや百杯)という言葉をおぼえるくらいすすめられて”にんじん酒”を飲んだ。酒はこのほかしょうが酒、こうりゃん酒、ぶどう酒など種類は豊富で、そう安くはなかったが百貨店にも山と積んで売っていた。もちろん自由販売で、夜などアパートの下の食堂でイッパイやっている労働者の姿をみかけたものだ。
 煙草についていえば二十本入り八十銭のモラン(ぼたん)から十五銭のズンサン(増産)まで九種類ほどあったが、中では三十五銭のコンソル(建設)というのが一番売れていたようだ。いずれも健康の問題を考えてニコチンでもぬいたのか”軽い”というのが同行記者の一致した感想だった。
 平安南道の立石農業協同組合で朴竜女さんに会った時、解放前地主の所に住み込んで働いていたという彼女は、当時のことを思い出し、「あのころは主人のお膳の上の山もりのごはんからのぼる湯気をみて、いつもうらやましく思っていたものでした。それがいまは自分のものになったんです。おぜんに向かうと死んだお母さんに食べさせたかったと思ってーー」と語りながら、目に涙をためていたが、今では北朝鮮だけで自給自足出来るだけの米がとれるようになり食生活もだんだんほうふになってきているようだった。

量では豊富になった衣料
 今年の一月国家計画委員会の中央統計局が発表したところによると、一九五九年度の穀物生産高は三百四十万トン、野菜の生産量は前年に比べて四十三万トン増加、果物も一一二パーセント、水産物は百九パーセント、醤油は一四八パーセント、野菜は一八六パーセントと増加しており食品の流通学が全体で一二八パーセントに増加していることからも食生活の充実ぶりがうかがわれた。
 衣料事情の面でも前年にくらべるとその好転ぶりはめざましいものがあるようだ。質のいいものを作るのはこれからだが、全体としてもう不足しないだけの量を揃えることは出来るようになったという印象をうけた。清津であった女性同盟の幹部の人は「昔はきたきり雀だったのが、最近はやっとみんな外出用、普段着、作業着と別々にもてるようになった」と語っていた。
 ちょっと関心をひかれたのは日本からの帰国者の方が町を歩いている朝鮮人婦人よりも派手な服装をしている人が多いことだった。自分からのものを節約してまで親切にしようとしている迎える側の人々に複雑な気持ちを与えるのではないかと考えたからだが、この予想は見事にはずされた。
 「日本の風俗がそうなっているかよく知らないけど服装や髪の形などは本人の自由です。私たちにはハイヒールより健康的な美しさを持つ靴があると思うし、パーマネントをかけても前髪だけはきれいになでつけておいた方が美しいと感じている人が多いんです。」しゃべっている様子に日本からきた人が派手な服装をしてけしからんというようなせまい考え方は、ほんの少しも感ずることは出来なかった。
 日本の社会での考え方、感じ方が朝鮮では通用しないということはよくあることだ。例えば帰国者が持っていった電気冷蔵庫や洗濯機についての考え方にしてもそうだった。帰国者は日本流に「まわりの人が使うようになるまで自分だけぜいたくをしないでしまっておこう」と考えるが、まわりの朝鮮人は「その考え方は間違っている」と指摘する。「電気器具で家庭労働を軽減するのはぜいたくではなくてわれわれの目標だ、低い方にあわせていないで使える人から使わなくては進歩しない」これが社会主義なのかもしれない。はじめはとまどう帰国者たちもすぐに電気洗濯機や冷蔵庫を使う方が正しいことに気づくだろうと感じさせられた。
 よく社会主義というと「自由がなくて息がつまりそうだ」という人がいるが、衣生活に関する限り朝鮮は中国以上に自由な感じだ。昔どおり黒い丸いカンムリを頭にのせ、まるで日本の大和朝廷時代の絵に出てくるような白装束をした老人がいるかと思うと、背広にソフトというスマートな青年もいる。中国のように工人服一色といった劃一的なところはすこしも感じられない。婦人の服装になるとさらに色彩が豊富になり、形も長いチマに短いチョゴリという朝鮮服から、セーター姿まで色とりどりで、これも中国風なズボン姿はあまりみかけなかった。
 清津紡績工場を見学した時、せっかく作業服が支給されているというのに、朝鮮服をきたまま働いている女工さんをみかけたが、案内してくれた朝鮮人記者は「女性というのは自分をきれいにみせたがるんでね、彼女等は朝鮮服の方が自分に似あうと信じているんですよ」といって説明してくれた。彼女らのおさげにした長い髪には赤い髪かざりタンギ(リボン)が結ばれていた。
 朝鮮の婦人服の歴史は古く高句麗の時代(紀元前三七ー紀元六八年)からいまのようなチマとチョゴリがあったようだが、最近は洋服のスカートのように丈のやや短い、ひだのある筒型のチマもはやっているようだった。これは軽快で、活動には便利で経済的だからだろうが、これからも民族衣裳のもつ伝統的な美しさを生かしながら社会主義的な生活様式にあわせた色々な変化が起こっていくことだろう。
 昨年の主な衣料の生産高は織物が一億五千八百万平方メートルで、前年の一四四パーセント、靴下類が千七百足で百五パーセント、肌着類が九百二十八万一千万で一二八パーセント、まだ豊富だとはいえないかもしれないが、全国の学生に夏服、大学および高等専門学校の学生にはオーバーも無料で支給されていた。
 
デパート風景
 おおみそかの日われわれ日本人記者団は駅前のデパートに入ってみた、が、衣料品売り場には人がたくさん集まっていた、とくに子供の晴れ着がどんどんと売れていた。、赤、黄、青といったはなやかな色のたてじまの「セクトン・チョゴリ」と赤いチマと一組で三十五円、。決して他の物価とくらべて安くはないが、まず子供にきれいな着物をきせてやろうという親心がさっせられた、朝鮮のお金は昨年二月幣価切下げっをやったので、現在は七・二円が一英ポンド(約千八円)にあたり、日本円に換算すると約百五十円だった。授業料は無料、病院の治療費も無料という国の物価と日本の物価をくらべるのはむずかしいっことだが、デパートでの値段表をならべてみると次のようになる。、工員さんの平均月給が五、六十円ぐらいと思ってみてもらえばだいたいの見当はつくだろう。
 子供のワンピース四円五十銭、子供用わた入上衣十五円、クツ下九十銭、順面二十八インチ巾一米四円、大人用の絹の上等な朝鮮服が六十円、背広上下七十二円。Yシャツ十円、それに一番人だかりしているところをのぞいたら子供用のメリヤスのズボンを二円五十銭で売っていた。
 社会主義の国ならばどこでも同じだろうが、朝鮮の物価を日本と比較してとくに注目されたのは生活必需品の値段がべらぼうに安いのにくらべて、ぜいたく品とくに装飾品などがとてつもなく高いということだった。例えば六畳、八畳と台所便所付ぐらいのアパートで家賃が光熱費、水道料を含めて夏は一円二十銭、冬は二円四十銭、お米が一キロ八銭というのに対して、ケース入りの朝鮮人形が二百円、大きな刺しゅうの額が二百五十円といった調子だった。、必需品に品物の種類ばかり多くするために単価があがり、消費者がそんをしているような日本のくらべれば平壌のデパートの売り場にならべられた品数ははるかに少なかったが、指輪(五円四十六銭)ブローチ(八円、二円二十銭)口紅(一円)クリーム(一円六十銭)などなどもならんでいた。バイオリン(九円)カナキン(六十円)など楽器や、サッカー靴(十八円)バレーボール(九円)軟式テニス・ラケット(二十円)などスポーツ用品がたくさんならんでいたのは、学校や職場でサークル活動がさかんなためだろう。
 駅前でパートは一階が食料品、二階がカバン、クツなど雑貨類、三階がオモチャ、人形、楽器、四階が衣類売場になっていた。平壌にはこのほかにもう二つのデパートがあるとのことで、制服をきた販売員は「商品種類は毎日のようにふえています。それに質も最近は目立ってよくなってきています」と確信を持って語っていた。
「百万円のミンクのオーバーを着ている人がいるかと思えば、石炭界の不況で何十万人の失業者が出て黒い羽根募金が行われる日本とはちがいます。そりゃ日本人が見れば朝鮮人の生活はまだ中の下、あるいは下の上かもしれません。しかし、朝鮮人はみんながその生活に満足し、みんなが生活水準を工場させようと祖力しているのです」。朝鮮人記者の一人はこういっていたが、ほんとうに朝鮮人はみな将来しあわせな生活がくることを知り確信しているため、現在の生活に満足しているようだった。
「朝鮮人の生活楽器向上していることはなによりも事実が証明している」。私は何人かの工場労働者や農民の家庭生活について色々ときいているうちにこう考えるようになっていた。
 例をあげよう。奇洞炭坑で働いている呂孝弼さんの家庭は七人家族で長男は中学に、次男は人民学校に、その下の二人の娘は幼稚園にそれぞれかよっていおり、いちばん下の男の子は託児所の世話になっている。かれが自分の父といっしょにこの炭坑で働くようになったのは一九三十年のはじめごろ、当時かれの父母と妹の四人が命をつないでゆくためには日に三キロの穀類が必要だった。そのためかれらは家庭総収入の九十パーセント以上を食費にあてていたが、それでも自分の顔のうつるようなうすい粟のおかゆをすすらねばならなかった。いまではどうだろうか、最近の家計等から計算したところ収入に対する支出の比率は次のようになっていた。
 米代 四・七パーセント、燃料代 二パーセント、住宅使用料その他 ○・七パーセント、服飾代その他 二三パーセント(これは市価に換算してのことで、実際は炭坑の副業農場から購入するのでもっと安い) 被服費 十五パーセント、それに家具代や文化用品代を十パーセント、合計してみても支出は収入の五十五・四パーセント、にしかなっていない。教育費や保険費はいらないし娯楽費をつかったとしても月収の二十ー三十パーセントは貯金出来る計算だ。
 平壌から南へ車で一時間ちょっとのところにある黄海製鉄所の製鋼工場につとめている秋祥秀さん(四十九)の場合は、奥さんと十三才になる息子と三人暮し、月収はこの工場の平均賃金六十五円より高く約百二十円、支出をみると家賃は水道料、電気気を含めて二円、米代は十五日分で一円二十銭だから月に二円四十銭、服飾費はお客さんがあった時などは五十円を越すこともあるが、平均して三十〜三十五円、本題など文化娯楽費が月に四円五十銭、この冬は町に出て子供のものなど五十円ほど買ったが、毎月平均に十円から五十円は貯金する。
 「主人はお酒も少し飲みます。しかし貯金は出来るし、ソ連製のラジオもあるし、ヤギも一匹飼っているので乳をしぼることも出来ます。昔は、お金持ちのことがうらやましくて仕方なかったけど、いまはこれ以上何が要求出来ましょうか。幸福そのものです。貯金は、戦争中に失った家具を買い入れることに使おうと思っています」ーーー奥さんは幸福そうな表情でこういっていた。

家事労働から解放された婦人たち
 市民生活について語るとき、みすごすことの出来ないのは、家庭労働を共同かすることによって軽減し、婦人を家事から解放しているというであるいうことである、せんたく,食事、育児など一切を共同で処理することによって浮いた時間を婦人たちは生産や学習に使っていた。
 共稼ぎの若い夫婦にとってどこでも問題になるのは赤ん坊のことである。年老いた母親でもいればお守りをたのむのだがーーというわけで、老いも若きも男も女も働け働けという前に、まず託児所や幼稚園の建設を急いだ。だから都市でも農村でも働く人たちの集まっているところには必ず託児所があった。紡織工場のように女工さんの多いところではとくに施設が整備されていた。
 金策製鉄所の場合を例にとってみよう。この工場は託児所を三ヵ所にももっており、収容人員は千人、われわれのたずねたところは三十二室に約三百人の幼児をあずかっていた。保姆さんは五十人いた。保姆さんの資格をえるためには、中学を卒業したあと一年の専門教育をうけることになっており、保姆さんの養成所では各道(日本の県にあたる)ごとに一ついじょうあるとのことだった。
 託児所の部屋はどこでも朝鮮式にオンドルで暖められているので、子供たちは男も女も同じ色のベビー服を一枚きただけでおしりは出しっぱなし、所長の崔凰淑さんは「この方がずっと衛生的なのでーー」と説明してくれたが、こどもたちがおしりを丸出しにして遊び回っている姿は、床の下から暖めてくれるオンドル付の朝鮮の託児所でなければ見ることの出来ない風景だろう。室温は二十度、厚着をしていたわれわれはちょっと汗ばむくらいの暖かさだった。
 壁に時間表がはってあったが、それによると、一日の日課は午前七時半から子供の受付開始、八次半から十時までお化粧、十時から三十分間、授乳および間食、十時半から二時間昼寝、十二時半から三十分間自由時間、一時半から授乳、二時から自由時間、二時半から一時間半睡眠、四時から着替えで五時半おかえりとなていた。こうした一日あずけのほかに月曜から土曜までといった調子で、夜間もあずけっぱなしで親たちの都合のよい日に家につれて帰る制度もあった。八時間制の三交代で、一日中機械を動かしている工場の多い朝鮮では、こうでもしないと安心して働けないのだろう。託児所のあずかるのは生後三十三日から満四才まであとは幼稚園になる。
 平壌紡織工場で技師になるため勉強しているという若い夫婦にあった時、産児制限の話を持ち出してみたが、「託児施設がよく出来ているので、子供が出来たからといって仕事や勉強のじゃまになるなんていうことはありません。朝鮮では産児制限なんていうことはーー」と軽く話題をそらされてしまった。
 「託児所の子供たちはどこへいっても、アブジ、アブジ」(おとうさん、おとうさん)とひとなつっこくわれわれ訪問客のそばによってきた。子供たちの頭の上には「わが国のつぼみたちよ、グングンと大きくなって新しい朝鮮の大きな柱となろう」という金日成首相の言葉が大きく掲示されていた。託児所は工場や農業協同組合の経営しているものが多かったが、子供たちの衣、食、住は政府によっても保障されているのだった。
 家庭生活の中で育児についで共同化の進んでいるのが目についてのはせんたくだった。平壌の町に立ちならぶ高層アパートをみた時、表にも裏にもせんたく物一つ、ふとん一枚ほしてないことに気がつく。日本のアパート群、いわゆる団地で、腫れた日など窓と言う窓からなにか干し物が出ている風景をみなれてきたわれわれには、ここには人が住んでいるのだろうかといぶかしく感ずるくらい、変化のない壁と窓が続いていた。
 想像される一つの理由として、零下十数度までさがる寒さがあった。ぬれた物など表に出したら凍ってしまうのだろうかーーこの疑問にあるアパートの入口であった一人の婦人が答えてくれた。
「せんたくは下着まで全部共同のせんたく場に頼むんです。簡単なものなら朝、仕事にゆく時渡して、夕方帰る時には受け取れます。
 食事もお米を渡しておいて、アパートの下の共同食堂で家族そろって食べている人もいますよ」
 もちろん自分で、洗濯したい人は共同のせんたく場へ言って気のすむまでたたいてもかまわない(朝鮮のせんたくの仕方は太い棒でたたくようにする).
だがすこしぐらいの手数料を出しても期間の節約になるからたのむという人の方が自然に多くなっている。食事になるとまだ自分の家で作って、親子水入らずでたべたいと考えている人が多いようだが、若い人たちの間には労働日は協同食堂で食事をすまし、休日祭日だけ自分たちの家庭料理をたのしむという人もふえてきているとのことだった。農村の場合、まだ全部が平壌の町ほど共同化されているわけではなく、せんたくなど共同浴場とならんでたてられたせんたく場におかみさんたちが集まって、棒でたたきながらせんたくするときいた。しかしここでもチョゴリやチマの仕立てなど裁縫の仕事は共同化されていた。正月平安南道の立石農業組合を訪ねた時。村の中心部の丘の上に食料品販売所や床屋さんとならんで建てられた、”裁縫班”の仕事場では、「みんなが遊ぶ時に私たちは忙しいんですよ」と元日から若い娘さんが三人、懸命にミシンを踏んでいた。
「昔はめんどりが鳴くと国が滅ぶといって女をいやしめたもんじゃ、それがいまではーー」板門店の近く、軍事境界線のそばの非武装地帯でニンジン作りをやっている朴大竜老人は、こういって婦人の地位の向上を感慨深く語っていた。日本の国会にあたる最高人民会議に二十七人の女性が進出し、一万三千二百九十九人の女性が各級地方人民会議の代議員として活躍しているということは、こうした日常生活の共同化などによって時間を得た婦人の生活の充実に裏付けられて初めて可能になったことではないだろうか。
 平壌紡織工場であった二十九才の織布女工朱炳成さんは労働英雄であり,最高人民会議の代議院でもあった。労働英雄という労働者として最高の称号を与えられたのは、一人で三十五台の織機を受け持つ多機台運動の先駆者だったからで、国家基準は十二台、現在の平均は二十台ぐらいだとのことだった。楽浪区域選出の”議員さん”としての役務は、この地区の常務委員会に提起するのが仕事だといっていた。
 朱さんの月収は平均百二十円程度、昨年紡織工場の近くにある機械製造工場につとめている男性と結婚したが、夫の月収は五十円程度、「だんなさんを尻にひくようなこのはないですかねえ」と同行記者の一人がいったのには笑って答えなかったが、朝鮮人記者が、「ああいうようにえらい女性が多くなると家庭生活はどうなるんだろうな」とまじめくさった顔をしてみせたのにはこっちまで笑ってしまった。みんなが最低生活を保障されたうえで、「働きに応じてとる」という社会では、朱炳成さんのような例もそう珍しくないわけで、農村でも収穫が「家」に属さず働いた「人」にわけられるということが、女性の地位の向上に大きな意味をもっていた。「働きにおうじてとる」という制度はいわゆる家長制度にとどめをさし、封建的家族制度から女性を解放したのだった。
 いまでは女性が親の選んだ相手にいやいや嫁にいかされるというようなこともない。もちろん見合い結婚が全くなくなったわけではないが、労働を通じて性格なり生活態度をみてから相手をえらぶから職場での恋愛結婚が圧倒的に多い。
「私たちが最初に知りあったのは一昨年のことでした」整紡修理工の林成奉君(二十九)は奥さんの姜仁淑さん(二十六)との結婚についてこんなふうに話してくれた。「私が夜間紡織専門学校を出て現場で働いているところへ、彼女は大学出の技師としてやってきました。正直にいって顔はあまりきれいでないけど、知識も多く技術もすぐれているし同僚たちの信頼もあつめていました。私ははじめから彼女の高い品性に心をひかれていました。そのうち二人で映画をみにゆく機会がありました。『平和への道』という第で、主人公は愛国的な活撥な男でした。帰り道、映画の感想をのべあっていた時、彼女は”これから先あなたはどうするつもりですか”ときいてきた。私はこの質問にちょっとめんくらったけど、”すぐ自分はこの映画の主人公のように、大たんにものを考え、大たんに研究し、最短期間で技師になります”と答えました。彼女は”もしなれなかったら”と反問し、私は”職場で学習の条件は保障されているし、自分さえ努力すればきっとなれる”と決意を語りました。この夜がきっかけとなって二人はたびたびあうようになり、一緒に映画にいったりクラブにいったりするようになりました。結婚したのは昨年のはじめです。」
 男女の交際は仕事や学習の場を通じて行われるだけでなく、映画やダンスなどクラブ活動を舞台とすることが多いようだった。どこの工場や農村でもたいていクラブか民主宣伝室という集会場を持っている。若い連中はみんな仕事が終わるとここへきて歌ったり踊ったりする。映画は毎日やっており四日ないし五日ごとに変わる。月に一回もみないというような人はほとんどない。料金は何回みても月三十銭。最近では天然色映画「春香伝」や抗日パルチザンの奮闘ぶりを描いた「未来を愛する」というのが人気を集めていた。ダンスは大きな輪を作って踊る大衆舞踊だが、フォークダンスとちがって最後まで選んだ相手とはなれずに踊っていられる。ただし「朝鮮の女性ははにかみやが多いんだよ」と朝鮮人記者が説明してくれたが、日本式の社交ダンス?にはお目にかかれなかった。娯楽の種類からいえば、タマツキ台ありピンポン台ありという板門店休戦会談場の記者室が、私のみた中で一ばん完備した場所だったが、なにはなくても朝鮮人はよく踊り、よく歌うようだった。
 クラブの数は全国で三百。民主宣伝質は一五二千六百七十二ある。この他映画は七百五十五の常設館で見せるだけでなく、農村へは巡回映画帯が週に一度ぐらい、持ってまわっていた。
 
完備された休養施設
 日本では温泉にゆくのも一種の娯楽で、会社や村の団体旅行などで温泉にいって帰ってくると遊びつかれてくるような例も多いが、朝鮮の温泉場は徹底した休養所になっている。清津から汽車で四十五分ほど南へ行ったところに朱乙という町がある。日本の統治時代から温泉場としてしられたところだが、山あいの林の中を清流にそって上る道のあたりは奥伊豆の狩野川べりを思い出させる美しい景色だった。今ではここに温泉休憩所という国営の施設が建っている。ちょうどわれわれが訪れた時は冬の休所期間で増築工事をしているところだったが、所長さんの話では三月から十二月はじめまでの間に一万人以上の労働者が休養にやってくるということだった。冬の休所期間といえば冬こそ温泉場のかせぎ時だと考えている日本人には奇異に感ずることだろう。間違いではない。冬は屋外の運動が出来ず休養にきてもお湯に入って部屋でゴロゴロする以外にやることがないから積極的な休養にならないというのがその理由。朝鮮の休憩所に入所した人はみんな規則正しい生活をおくることになっている。
 日課をきめるのは入所者で構成している生活委員会、夏は朝六時、秋は七時に起床、きょうの午前中は登山、午後は歌やおどりの競演、あすは建物別対抗の運動会...............といった調子だ。お湯は豊富にあふれているが入浴の回数もきまっているし、昼寝も日課になっている。「夜八時間は寝ているし、はじめは寝付けないんですよ。だけど本でも読んでいるようなものなら、休憩所で働いているお嬢さんがやってきて”いけません。いまは睡眠をとるべきです”とおこられるんですよ」同行の朝鮮人記者はこういって笑っていた。
 客引きの番頭もいなければ厚化粧の女性陣もいないが、酒は自由販売だしおみやげもの屋もあった。ただし飲んで騒いでクダをまくような人をみかけることはないそうだ。
 朝鮮ではすべての労働者が終末のほかに一年に二十四日間ぐらいの休日を与えられ、外金剛、雲山、陽徳、松興、信川など全国の景勝地に作られている休養所に入ることになっている。温泉も勤労者の明日の生活のためにあるのだった。
 日常朝鮮人はまだ一般に入浴の回数が少ない。このほかまだ頭の上に物をのせて歩く、食物がカライ、冠婚葬祭を派手にやるといった古い習慣など、否定すべき習慣も全くなくなったわけではない。こういうものは一朝一夕で変わるものではないのだろう。
 教育文化相の李一郷さんは「否定すべき習慣の多くは、勤労者たちが歴史的に強要されてきた生活水準の低さに起因しているものが多い」とそっちょくに認めていた。「社会主義建設は自覚した大衆の問題が基本的に解決されたこれからは、徐々に生活習慣も変わってくるだろう」とも語っていた。
 頭に物をのせて歩くのは健康上よくない。だがこれは交通手段、運輸手段と関連して考えねばならないと言うのが李教育文化相の考え方だ。現在平壌市内のおもな交通機関はバスだけ、乗用車はガソリン節約で一般市民は特殊な場合、例えば病人が出たとか、結婚式場からおよめさんが帰るとかいったような時にか使わない。バスもこんでいて、人々は停留所に列を作って待っている。そういう時に重たい物をはこぶのに「頭に物をのせてはいけない」といっても無理なこと。「今年から自転車も大量生産段階に入ったし、交通事情が緩和されるのも間もないだろう。そうしたら自然人々も重いものを頭にのせてはこばなくてもよくなるだろう」というわけだ。
 結婚式にしても、昔は三里さきの道まで酔っぱらいを寝かせなければ盛大でないといわれたのが、このごろでは食堂などで簡単に行われるようになった。入浴の習慣にしても政府は現在週二回入るように勧告しているが、もっと沢山の共同浴場が出来て入りやすくなればみんな毎日でも入るだろう。なんでも頭から命令して強制的に変えさせることはかんたんだが、それをせず、まず条件をととのえ、下からの自発的意志によってゆこうというのが朝鮮式のやり方だ。
 第二次五ヶ年計画は朝鮮の社会主義建設にとって決定的な時期になるだろう。朝鮮人の市民生活の水準もその時には飛躍的に向上しているにちがいない。国営化。集団化という形式がととのったのに応じて、生活の奥深いところでも革命はすでに進行しているようだった。

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教育と福祉衛生 読売新聞社:嶋元謙郎

土曜日の学習
「毎週土曜日の午後にな学習があるんです。大臣級、次官級、局長級とそれぞれのクラスに別れていますが、各クラスに大学の教授が出むいて哲学と政治経済学を勉強する。それが、現在、いかにわが国に適用されているか、新しく政府や党で決定されたことをいかに解決するかなどについて、講義したり討議するのですが、なかなか大変ですよ。時には金日成首相自ら生徒になって一緒に勉強するんですから、教授もつらいし,われわれも頭が痛い。勉強して行かないと恥をかきますから。昨年十月までは、土曜日の午後になると、好きな魚釣りにいっていたのですがネ........」
 教育文化相の李一郷さんが、こういって頭をかきながら苦笑していた。朝鮮ではいま、上は首相、大臣から、下は一般人民に至る迄「学習運動」がもり上がっている。まず指導者層が率先して実行しているのだ。「土曜日は全然仕事にならん」と新聞記者がこぼすほど。土曜日になるとゴルフでソワソワして仕事に手のつかない日本の政治家、実業家に見せてやりたいくらいだった。
 この学習運動は名付けて「文化革命」。なにしろ朝鮮は近代史において百年の遅れがある。西欧諸国が産業革命を行って近代へと脱皮した時期に、朝鮮ではまだ封建制がしかれていた。産業革命を終えて飛躍的な発展をみせた時には日本の植民地化にあって、朝鮮の文化の発展は押さえられ、解放まで低い民族として残されてきた。この百年の遅れに追いつき、追い越すことが「文化革命」のネライである。
 突如としてこの問題が提起されたのではない。政治革命が終って国家機構が確立し、計画経済を行って生活のメドがつき、義務教育を或程度実施して大衆の文化水準を一定のところに高めることができたから、はじめて昨年十月にとりあげられたのである。
 国民生活が、不安で、衣食住にもこと欠くようでは、なにを説いても無駄だ。教育水準が低いときに、高尚な理論を教えても理解できない。いまや、一定の衣食住が充足されて、理解力も高まったから、先進国並みに引きあげようというわけだ。
 日常生活のなかでは、毎朝ヒゲを剃ろう、髪の手入れを怠るな、アカのついた下着を着るな、一週間に三度以上入浴しよう、ツメを切ろう..........というような、誰にでもわかることから、この革命は進められている。日本では社会党や日教組などで嫌われた道徳教育もこのなかに含まれている。「親には孝行をしましょう」「目上の人には礼儀をつくしましょう」といったたぐい。
 しかし、こういったことは、まだ文化革命の序の口である。本質は教育改革だ。ことしから朝鮮ではきゅうねんせいの完全義務教育制が○かれる。(印刷落ち)その九年制度の学校卒業生程度に、全人民の教育水準を引上げることが本当の目的なのである。

人民学校(小学校) 四年
中学校 三年
技術学校 二年
高等技術学校 二年
大学 五年
(このほか高等技術学校から二ー三年制の専門学校がある)

 学校の数は大学三十七、専門学校四十六など全部で七千九百校。学生数は大学生三万六千人を含めて二百五十万人。
 幼稚園を別にすると、小学校から大学迄の修学年限は十六年で、日本の六・三・三・四制による十六年と同じである。しかしその内容は大いに違っている。
 お気づきの方もあとうが、日本に当てはめれば、中学三年生から高校卒業までの四年間が、朝鮮では技術学校、高等技術学校となっている。思想、常識などの一般課目のほかに、とくに技術、技能を習得させようというのだ。ここを卒業した人は、技手以上の技能資格者になる。”国民皆技術”である。つまり、文学を志す人も、経済、哲学などいわゆる社会科学を志すひとも、大学に進学したいものはみんなこの二つの技術学校を卒業しなければならない。「ぼくは数学は苦手だから」「物理がからきしだめだから」などといってはおられない。
 それまでは、といっても学制の変った昨年暮までだが、高級中学を卒業しても、すぐには大学を受験することができなかった。
P150
二年以上、工場や農村の生産部門で働いたあとでないと、志願資格がない。労働者と同じ体験をし、同じ生活を経験することによってインテリとして労働者階級から浮上らないように配慮したためと、技術を身につけさせることが目的だったが、こんどは実生活の経験が免除されたかわりに、四年間の技術の基礎教育となった次第、人工衛星の飛び交う科学時代に対応し、遅れをとるまいというネライだ。
 旧制度のときは中学校までの七年が完全義務教育だったが、ことしからは文化革命の趣旨に沿って技術学校までの九年間が義務。イギリス十年、日本九年だから、一応世界の中等教育の水準に達することになるが、ここで特筆されるべき点は、朝鮮ではあえて「完全」という言葉をつけて強調していることだ。
 日本の場合だと、義務教育は単に憲法によって義務づけられているにすぎない。従って北九州の炭坑地帯のように、石炭界が不景気になると学用品はおろか、教科書まで買えなくて学校にいけない児童生徒がでてくる。義務はあっても、それに対する裏付けがないのである。いわば掛け声だけだ。
 それに対して朝鮮は、教科書、ノート、鉛筆、クレヨンなどの学用品はもちろんのこと、通学に必要なカバン、靴、帽子、学生服、下着類まで、とにかく学校にいくための一切のものが、すべて国家から無料で支給されている。親たちが、なに一つ整えてやらなくても、学校にいける仕組みだ。だから朝鮮全国、ほとんどの児童生徒は、同じ帽子、同じ服、同じ靴をはいている。貧乏人ーー朝鮮には貧乏人はいないが、もしあったと仮定してもそこの子弟は心起きなくみんなと同じように学校にいって勉強できる。完全な教育の機会均等といっていいだろう。これが「完全義務教育」とわざわざ断っているゆえんである。
 九年完全義務教育制は、一応ことしから実施されるが、一度に全部が移行するのではない。学校の設備や生徒への支給品は間にあうが、いっせいに切替えるだけの教員数が不足しているのだという。ことしは、とりあえず全体の八十パーセントを九年制にし、二年後の一九六十二年までに百パーセントにする目標だ。義務教育年限の二年引上げによって生じる教員不足を解消するためには、教員の養成にやはり二年はかかるという。これが完成すれば、さらに高等技術学校の二年を加えて、十一年制の完全義務制を施行すると張りきっていた。
 この義務教育の延長と歩調を合わせて、一般人の教育水準を九年制卒業程度に高めるために、成人学校が開かれている。むしろ、文化革命は成人学校の方に重点がおかれているともいえる。
 各工場、農村、居住区などにある民主宣伝室というのがそれだ。毎日通う人もいるが、老人であろうが、主婦であろうが、すべての人が一年に二ヶ月は仕事と平行しながら学習しなければならないと規定されている。名前はいかめしいが、クラブを小さくして図書館の機能をかねたようなものだ。黄海製鉄所で見学した民主宣伝室には、まわり一面に朝鮮の歴史を分かり安く解説した重要年表が挿絵入りではってあるほか、マンガ入りの「道徳書」や「共産主義教養書」「衛生常識」「一般冶金学」「金属部門の技能者のために」などといった題の本が、両面にある本箱いっぱいに並べてあった。こどもたちが二年で終えるところを、三年から五年かかって習得しようという意気込みである。
 しかし、この成人教育だけで人民の文化水準が引上げられるものではない。それにはもう一つの大きな歯車が必要だ。朝鮮はむかしと全く一変している。広い道路、整然とした並木、両側に立ち並ぶ五、六階建の高層建築の列は、東洋というよりは、どこか西欧の都市にやってきたような感じだった。わずかに町の半分が焼け残った開城市にいって、昔ながらの建物を見たとき、やっと朝鮮にきたという実感慨がおこるほどの変貌ぶりだが、頭に物をのせたオモニ(お母さん)たちがバッコしている。近代国家に移り変わろうと意図していても、やはり古くからのロウ習は抜けきれないものとみえる。こうした悪癖をなくすことも、文化革命の重要な課題の一つだ。
 では、なぜいままでに改めなかったのか? 朝鮮の都市はどこもチリ一つないほど美しい。むかしの朝鮮人は、街中でペッペッと痰をはいたり、手バナを噛んだり,とにかく不潔の代名詞みたいなものだったが、いまではそんな朝鮮人にお目にかかろうとしても、全然見当たらない。そんな悪癖は、現在全く払拭されているのに、重いものを頭にのせて歩く習慣がなぜいまだに残っているのかは大いに疑問だった。それに対して政府の高官はこう答えた。
 「道路にタン壷や紙クズ箱を備えつけると、自然に放痰や手バナはやらなくなる。それでもやっておれば、みんなの迷惑する不潔な仕ぐさはやめようと注意することができる。こうして、街をキレイにしてきた。しかし、いますぐ頭にものを載せて歩くなとはいえない。なぜならば、頭にとってかわってものを運ぶ運送方法がたちおくれているからだ。自転車や手押車が少ない。これを解決しなくてはやめてしまえと強制することはできない。」いくら強制しても実行する人はいないだろう。
 まず環境を改善すること。まことに社会主義的な地について考え方だ。
 つまり、文化革命によって人民の文化水準を高めるためには、同時に国民の生活を引き上げなくてはならない。それには生活の合理化、そうして必然的な結果として,機械化が叫ばれるわけだ。このことを「技術革命」といっている。
 目的は全人民に一つ以上の技術を所有させることと、技術の神秘性の打破、いいかえれば技術は誰でも持つことができるという自信を植えつけること、の二つである。
 新教育制度で、技術学校、高等技術学校を新設したのも、このあらわれであるが、とくに大衆の技術習得のために、「科学知識普及協会」が組織されている。中央に本部をおき、各道、郡、市、里、洞にそれぞれ支部を設けて、機関誌や民主宣伝室を利用して啓蒙運動が行われていた。技能者には国家技術者審査会によって一級から七級迄の資格を決定し、すべての人が七級以上の技術をもたなければならないことになっている。
 「機械の子産運動」というのがある。一つの機械で、新しい機械をつくりだせ。つまり工作機械を製造する工場でなくても、機械をつくってみろ、というネライだ。威鏡北道にある朱乙亜麻工場はこの掛け声で高精能の万能旋盤やプレーナー、シェーバーをつくった。亜麻工場だから、もちろん専門の機械製作用の精密機械があるはずない。それでもなおかつ、みんなが工夫してつくり上げたのだ。平壌自動車修理工場ではトラックを生産した。そのトラックを見たが、お世辞にも上等とはいえない。しかし、自分たちの力で旋盤をつくった、トラックを生産したという自信が重要なのである。
 技術は神秘のヴェールを被った秘密のものでない。誰でもヴェールを取りはずせる。しっかりやんなさい。と指導しているわけだ。
 専門工場のスローガンは「先進技術で武装しろ」。後進国が飛躍的に発展するためには、この方法しかないのだそうだ。オートメーション化はこの至上命令ともいえる。建設部門においては、クレーンによるアパートの建設をよりスピードアップしろ、運輸の面では全鉄道線路の電化をしろ。
 農村では農業機械化だ。すでに水利化と電化が、ほとんど完成したので、ことしからは重労働は全部機械にしようとの合言葉だ。
 現在トラクターは全国の農村で七千台。これをことし中に四千台増やして一万一千台にする。内訳は国産三千台、輸入一千台。トラックは一千台のところを三千台増やして四千台。こちらはみんな国産品だ。脱穀機、除草機もつくる。こうしてとりあえずことし中に平安南道、黄海南道の九十パーセントを完全に機械化し、来年は平安北道と威鏡南道、再来年には残りのすべて、という計画だ。このため、農村では、いまトラクター、トラックの技術講習会のまっさかり。ほとんど毎日のようにいろいろな新聞に、どこどこの協同組合では、何人が技術をマスターしたと言う記事がでていたほどだ。
 このように朝鮮ではいま、文化革命と技術革命を両方の車輪にして、千里の駒の勢いで先進国に追いつこうとしている。

金日成大学の学生たち
 われわれは金日成綜合大学を見学した。その名が示すように、日本の東大と同じく、朝鮮では最高の名誉ある大学である。
 以前の建物は朝鮮戦争で完膚なきまでに破壊されたとかで、現在は四階建ての建物が二むねしかない。そのうえ、戦争直後につくられたので、建てつけがひどく無細工だ。しかし、ここで学んでいる学生たちは、生き生きとしていた。
 朝鮮には現在大学が三十七校あることは、先にもしるしたが、志願者が多いので、全員を入学させることはできない。日本と同じように入学試験が実施されており、やはり”狭き門”となっている、入学者は平均三人に一人、それが、物理数学学部の物理科、経済学部の政治経済科、哲学科、法学部の国際関係科などという憧れの学部は十人に一人の割合になるという。
 大学の試験期日は全国一斉に行われるから、合格しない人も多いわけだが、朝鮮では日本のように受験勉強の為の浪人は許されない。入学試験をおちると、全員工場か農村行き、ここで働きながら受験勉強をしなくてはならない。さらに翌年大学の試験を受けるには、そこの職場の推せんがいる。従って、仕事をサボッで勉強だけに熱中することもできない仕組みになっている、。金日成綜合大学の例では四年目にやっと合格した人があるという。
 現在同大学には物理数学、化学、地理、生物、歴史、経済、法学、語文(国文学)、外国文学の九学部があり、四千五百人の学生が学んでいる。講座の数は四十五、研究室十、実験室二十で、教職員は三百人いる。社会科学と自然科学の比率はちょうど半々。来年からは自然科学が少し増えるそうだ。各学部を通じての必須科目はロシア語、哲学、マルクス・レーニン主義、朝鮮労働党闘争史、政治経済学といったところ。
 学生の自治団体としては民主主義青年同盟がある。そのほかには寄宿舎委員会があって、寄宿舎を運営しているのだけ。
 学生は勉強熱心だ。というのは、朝鮮では落第が認められないからである。
 学生は次の指導者として全人民の税金によって教育されている。従って怠ける者は教育される資格がない。落第するような出来の悪いものは、別の職場で働いてもらおう。こういうのが根本思想なのである。もちろん日本の学生のように喫茶店通いする学生もある。しかし、入りびたったり、授業をほったらかしてまで喫茶店にいきはしない。そんなことをしていると,人民から批判される。人民が学生を育て上げる責任をもっているからで、批判をうけると退学になりかねない。
 そのうえ一つのクラスが、落第生を出してはならないという共同連帯責任のようなものをもっている。落第生がでると、そのクラスの成績に響いてくる。だから、遅れている学生や、講義がのみこめない学生がいると、放課後、全クラスで教えあう。それでもダメなものは退学処分になるだけだ。
 学生は人民に養われているのだから、学生結婚は全然ない。とにかく勉強することが学生の義務である。勉強につぐ勉強。これが学生の勤めだ。
 授業料は一銭もいらない、それどころか、ほとんどの学生が十五円(日本に直せば約二千二百円 朝鮮の平均賃金の二二パーセント)の奨学金ももらっている。奨学金のない学生は、政府、党機関の重要な地位にある人の子弟だけだ。身寄りのないもの、日本や韓国から引き揚げていった学生には二倍の三十円のほか、下着一切が支給されている。このほか、全学生に学生服とオーバーが配給。いうならば、大学で勉強するのに必要なものが全部至急されているうえに、お小遣いまでもらえるのだから、人民に養われているというのも当然だ。
 結婚を考えるヒマもなく勉強するのももっともなことである。のんびりした日本の学生には少々つらいかもしれないが、学生の本分を考えれば当り前のことかもしれない。

入院の体験 
 新しい年が明けたばかりの一月二日の朝のことだった。
 われわれ記者団の一人A記者が、体の具合が悪いといって、朝食に食堂に下りてこなかった。もともとA記者は,昨年夏に胃かいようを患っており、朝鮮に着てからも、アルコール類を一滴も飲まないほど気を使っていた。
 朝鮮人は宴会好きであり、酒隙である。
「マーニペッチャン(いやいや百杯)」
「ソンジュフーミョン(先酒後面)」「ターマシダ(底まで乾そう)」「ジュージョンイーバンソク(酒政十八則)」などという俚諺が数えきれないほどある、だから宴会は乾杯につぐ乾杯攻めだ。乾杯の盃を飲み干さないと、
「底を明けるまで」
といって、みんな立ったまま、その人が盃をほすのを待っている。酒に弱い、S、I、両記者は死ぬほどの思いだったようだが、そんな朝鮮人たちも、胃かいよう後間もないというA記者にだけは、決して勧めなかった。酒好きの彼のことである。強引にさされば、あるいは飲んだかもしれないが、病後とわかると決して無理強いしなかったところが面白い。
 余談はそれまでにしてA記者は、少し神経質すぎるほど身体には気を使っており、暮れの三十日にも平壌市にある赤十字病院に精密検査にいって「大丈夫」という保証をとってきたばかりの出来事だったから、われわれとしてもびっくりした。
 部屋にいくと、昨夜から一晩中下痢つづきで殆ど眠っていない。熱を計ってみつ三十八度六分あった。
「どうしたんだ?」
と聞くと
「どうも、急性胃炎だな、なにか食中毒をおこしたんだろう。東京でもよくやったから、一日ゆっくり寝ておれば直るよ」と当人は至極のんきなことをいっている。とkろが、案内役の労働新聞田国際部長が見舞いにきて、
「これは大変だ、すぐ医者に診てもらわんと大変なことになるですよ」
というのである。A記者は、そんな大げさはしないで欲しいと頼み込んだが、もちろん承知するはずはない。十分もしないうちに,お医者さんが看護婦をつれてとんできた。
 そのお医者さんは裾の長い白い診察着に、白帽子、白マスク、看護婦さんも同様の白ずくめだ。ちょうど手術室で手術をするような形々しい恰好である。ちょっとど胆をぬかれた。
 診察は日本と同じ。脈をはかり、検温して、病状をきいて、ーー内診。十五分ほどいろいろとA記者の身体をみていたが、眉をひそめて宣言した。
「入院する必要があります」
それは宣言というよりも宣告といった方がふさわしいような、重々しい声だった。当のA記者はあわてた。
「入院なんてとんでもない。東京でこんな症状になったことがよくあったんだから。」あわてたのはA記者よりもむしろわれわれ残りの記者だった。もし入院が長びこうものならば、A記者一人だけを残して帰ることはできない。全員が残るわけにはいかないから、誰か一人が代表となって看病せねばなるまい。帰国状況や一般印象記を打電したあとではあるが、早く帰って連載物を書きたいという意気はみんながもっている。誰が残るか、一同ハタと弱ったものである。
「なんとか入院しないですむうまい方法はありませんか」
としまいには哀願したが,白ずくめのお医者は断固として受けつけない。空しく平壌市内朝鮮赤十字に入院してしまった。
 帰国の予定日も間近に迫っていたので、残酷ではあるが、われわれはA記者にかまっていることができなかった。われわれにはまだ、取材したいところが、たくさん残っていたから。
 ところが翌三日の夕食後、われわれが平壌ホテルの三階ロビーで,夜の取材の打合せをしていたところへ、ひょこりA記者が帰ってきた。大した病気ではないという赤十字病院の診断を聞いていたものの、余りに早い退院だったから、びっくりした。日本では、「入院」といえば、最低五日か一週間ぐらいはかかる「重病」の場合に限られている。だから、われわれもA記者は少なくとも三日以上は入院するだろうと予想していた。それが入院後三十時間経つか経たないかのうちに退院してきたのだから驚いたのはもっともだ。
「誤診だったのか?」
とある記者が尋ねたが、そう疑ってみるのも無理はなかった。
 ところが、A記者の話を聞いて、朝鮮の医療に対する考え方を知り、「なるほど」とあらためて感心したものだ。

おごそかな診断
 A記者の話は次のようなものだ。
 はじめの診断も、赤十字病院の診断も、A記者が予想した通りの「急性胃炎」だった。だから来診したお医者さんの診断は誤診ではなかった。なぜ、それが分かっていながら入院させたのかというと、「どうして急性胃炎にかかったのか。胃が悪いのではないか、それとも他に故障があったのか」という原因を調べるためだったそうだ。
 
 A記者の経験談によると、入院するとまず風呂に入れられる。風呂から上がってくると、下着、パジャマ、ガウンなどが揃っていて、自分の持ち物を使うことは一切禁止されているという。病院は十二条くらいの一室に二つのベッド。ラジオ付き、魔法ビンと紅茶があって、これだけは自由に飲むことができる。
 診察は四人の医者。それぞれに診察して、その所見を討議しあって病名を診断する。日本のように一人の医者が診察して病名をきめるのとちがって、あくまで合議制だ。その点ではアメリカ、システムに似ているといえよう。
 合議が終っても病名は明らかにされない。A記者がしつこく聞くと、「まだ科学的に証明されていないから、教えるわけにいかない」とのこと。それからレントゲン検査、バリュームをのんでX線透視、検便、検尿、血液検査........。うんざりするような検査が次々に行われ、それらのデータが出揃ったところで、もう一度四人の医者の合議が行われ、やっと「急性胃炎」と診断されたという。
 「胃かいようの後の胃の回復は順調である。しかし、まだ完全には回復していないし、相当疲労している所見がみえる。こんどの場合は、疲労したところへ不純な食物が混ってきて消化しきれなかったためにおきた急性胃炎である。胃に異常は認められず、またその他の消化器官は正常である。従って胃の疲労をを回復させるため①アルコール類の飲用を止めること②刺激物、とくに辛いものを食べないこと③消化しやすい軟いものをとること...............」とおごそかに言渡されたそうだ。
 ここに朝鮮の特色があると思う。つまり、朝鮮では、単に 発熱をとりさり、下痢を止めることだけが、医者の務めではないのである。病人の身体はどうなのか。内臓器官はどういう状態にあるのか、ほかに欠かんはないのか、という点まで調べて、診断、処方するというやり方だ。、病気をすれば,必ず人間ドックに入れられる、と考えてよい。
 ものぐさな日本人ならば、”何でもない病気”をするたびに、一々入院させられていたのではたまらない。その度毎に,わざわざ精密検査ではやり切れないと思う。、面倒くさい、自分の身体は自分が一番よく知っていると、わめきたくなるに違いない。
 ところが、朝鮮では、何でもない病気でも、病気であることには変わりないという考え方だ。病気であるからには徹底的になおさなければならない。二度とかからないように精密検査をして治療しなくてはいかん。ついでに、何処か他のところも悪くなっていないか。全くわずらわしいほどである。親切すぎるともいえる。しかし、それが医者の義務であるというのだ。医者がわれわれの要求に一顧をも与えず、断固として入院を命じたのも、職務に忠実であったからにほかならない。
 日本で、入院とか、人間ドック入りというと、大へんだ。、まず金がかかる。勤めも休まなければいけない。それやこれやで、医者が入院をすすめても、おいそれと入院できないのが実情だ。入院するくらいなら、多少時間がかかっても自分で静かに療養したいということになる。
 ところが朝鮮では、やたらに入院する。するというよりさせられるという方が正しい。熟練した医者が不足しているからかというと、そうではない。何度も病気になると、診察した医者の職務怠慢になるからだ。そのうえ治療費、入院代一切がかからないから、気楽に入院となるわけ。

 朝鮮には健康保険料というのがない。ないのが当たり前で、一切の治療費、薬代はいらない。すべて国家が負担してくれる。
 東京都足立区から帰国した金泰治さんは、十二指腸かいようで平安南道中央病院に入院していたが
「私は日本に二十年住んでいたが、入院したのはこんどがはじめてだ。身体が弱って入院したいと思ったことは度々あったが、お金がなくてできなかった。帰国したときは、自分ではなんともないと思ったのだが、無理に入院させられたような次第だ。入院するために帰国したようで心苦しいが、こんなに大切にされて、タダだとは知らなかった。全くすばらしいの一言だ。しかし、それでも、ときどき夜中に目をさまして”入院費用はいくらかかるだろう”と考えてハッとすることがある」と苦笑しながら、礼賛していた。
 帰国者のなかで入院させられた人は多い。神経痛で入院したある人などは、
「これっぽっちのことで入院するなんてもったいない。」
と涙をこぼしていた。

若い医者たち
 A記者の退院後、われわれは平安南道中央病院を視察して、朝鮮の医療機構について詳しく調べるチャンスを得た。
 平安中央病院は平壌市の北にある鉄筋コンクリート五階建。まだできたばかりの真新しい病院だった。供雲梓という四十六才前後の中国の医学大学を卒業した人が院長で、医者七十五人、看護婦百二十人、従業員四百人。ベット数四百、最新設備を誇る病院だけに冷暖房つき、真赤なじゅうたんが廊下いっぱいにしきつめられ、病室は明るいクリーム色。一部屋平均四人で、枕元にはスタンド、ラジオのイヤホーン、電話つきという至れり尽くせりの設備で、手術室、レントゲン室、各種検査室、分娩室なども日本の一流病院と比べて勝るとも劣らないほどだった。とくにここには、蛍光燈とエレベーターがあった。われわれが朝鮮で蛍光燈とエレベーターをみたのは、あとにもさきにもこの病院だけだ。
 供院長の説明によると、朝鮮ではは日本の村や町にあたる里、洞に診療所。郡、市に病院、道に中央病院がある。このほか赤十字病院、大学病院、閣事業所、機関などにも病院があるが、原則は診療所ー病院ー中央病院というシステムで、個人の開業医は全然認めていない。
 病気をすると、まず診療所の医者がかけつける。そこで間に合わないときには郡、市の病院へ、さらに重患の場合は、中央病院に運ぶ。診療所といっても数人から十数人の医師がいる小型綜合病院だそうで、A記者を最初に診察したのはこの医者だった。この人たちは一地区を担当して、巡回している。この診療所制は徹底しているので、朝鮮にはほとんど無医村がないという。殆どと言うのは全里、洞の九十九点何パーセントまでで、まだ百パーセントに達していないためだ。
 このような機構になっているから、日本のように「ーー先生』と指名して、いわゆる”名医”にかかることはできない。しかし、中央病院や郡、市病院の先生たちは、随時下級病院に出張して治療や技術指導を行っている。また重病人は直接中央病院に運ばれるなど治療の”平等”に気を使っている。
 医者は若い。平南中央病院を例にとると、七十五人の医者の平均年令は四十才。そのうちの半数が二十七才から三十才までの開放後新しく医者になった人だという。お年寄りの中には、ふたりの日本医大を卒業した人をはじめ、九京城帝大医学部、京城医専、セブランス医専(京城にあった)などを卒業した日本系の医者もいるが、大部分はソ連、中国の医大を卒業した人。熟練者の揃っている平南病院でこういう数字なのだから、朝鮮全体では、三十才以下の医者が半分以上もいるのではないか、と思われた。実際A記者の入院した平壌赤十字病院のないかの医者も、主任医者を除いて、ほとんど三十才前の若い医者だった。朝鮮にそんなに医者がいるはずないと信じない人のために、付けくわえておく。

予防医学に重点
 朝鮮の医療政策は、治療よりも予防医学の方に重点を置いている。まず病気をしないことだ。
 平壌市外城区橋口洞のアパートに入ったる帰国者がこう語った。
 「うるさいと思うほど医者が訪ねてくるんですよ。食慾はありますか、便は快適ですか、セキはしませんか、と。いいえ、全く調子がよろしいといっても、ノドを調べたり、眼をみたり、まったく皇帝並みの扱いなんです。これは、われわれが帰国者だから特別扱いをしているのかと思って隣りの人にきいたら、この家もやっぱりそうなんです、
 一体、どういうわけで、こんなにしつこいのかと尋ねたら、診療所の医者は担当地区から病人を出すと減点されて月収に影響するというんです。だから、担当地区から病人がでないように、暇をみてはぐるぐると巡回しているんですネ」
 こんな制度があろうとは、実はわれわれは予想もしていなかった。朝鮮といえばむかしから文化が遅れている。とくに医学は遅れていて、天然痘やライ病が多いと思って居た。事実、解放食後や朝鮮戦争直後には、風土病や伝染病がまんえんして困ったそうだが、防疫事業や治療設備の拡大、保健幹部の養成、医療品の生産、供給を重点的に行って、現在の制度を実施できるまでに漕ぎつけたのだそうだ。、
 朝鮮ではまた医薬分業が確立されている。医者は診察して処方箋を書くだけ。薬はすべて薬剤師が調合するといった具合。従ってかつての日本の医学とは全然違っているわけだ。面白いことは漢方医が、独立の学科として医科大学や中央病院にあることだ。近代医学をとり入れながら、伝統の漢方医学も同時に発展させようというわけだがなかなか、アジア的なやり方だと思った。
 このように保健医学の面では非常に発達した制度をとっているが、これに伴う弊害もおきているという。それは、人民大衆が診療所を利用しすぎることと薬を無駄使いすることだ。
 なにしろ、一切無料だから、少し身体の具合が悪いとすぐ、診療所にいく。折角投薬しても、一、二回しかのまずにほったらかす。これは非常に無駄なことであると、政府幹部が考えこんでいた。
 われわれは医学については分からない。しかし医学が経験を必要とする分野であるのに朝鮮の医者が若いこと、日本よりも伝統楽器浅いこと、などから日本の水準にはまだ及びつかないと思われる。しかし、その水準はともかく、医療費無料、予防医学などといった朝鮮の制度は先進国をしのぐものといえるようだ。

至れり尽くせりの孤児の待遇
 社会主義国家だけに、社会福祉は行きとどいている。
 われわれは実際に養老院を見学しなかったが、此の国では男六十才以上、女五十五才以上は原則として労働禁止。栃木県から引揚げた五十五才の婦人が「日本でバタ屋として働いていたから、帰国してからも働きたいと申し出たところ、朝鮮では五十五才以上の女性が働くことはまかりならんと拒絶されました。まだまだ働けるのに」とこぼしていたが、余程、その人を必要としない限り、働かせない。
 その代わりに、いわゆる定年になるときの月給が,死ぬまで毎月支給されている。そういえば暖かい冬の日に、平壌の大同江河畔のベンチに腰かけて、日なたぼっこをしている老人たちの姿をよく見掛けた。
 孤児に対する待遇は至れり尽くせりだ。、
 三年前の朝鮮戦争を戦ってきたから、朝鮮には孤児が多く、初頭学院(人民学校まで)と遺子女学院(初等中学、高級中学クラス)とに収容している。
 われわれは国防省が管理している平壌近郊の万景台革命者遺子女学院を参観したが、ここは国防省の所管だけに、生徒たちは、かつての日本の幼年学校生とのような軍服じみた制服を着ていた。一目で孤児と分かるためだそうだ。
 この学院には約千人の孤児がおり、三十畳くらいの部屋に十二人が生活していた。孤児たちの衣食住や学用品はもちろん国家で無償給付。お小遣いも一ヶ月二ー三円支給されている。
 このような初等学院や遺子女学院は各道、郡、市などにあってそれぞれ教育省、通信省、各道などが管理しているので、全体の正確な事は分からなかったが、とにかく、革命や戦争の犠牲者だけでなく両親が病死したものも含めて、すべて孤児になった子どもが収容されているという。両親の許を離れて、兄弟だけで帰国した東京出身の朝鮮人子弟も、遺子女学院に入れられていた。
 どうして高校クラスまで一般の子どもと区別するのかというと、普通の学校に分散していれると、親のない子としてひがみやすくなることと、分かれていると面倒をみるのに不便だからだ。
 朝鮮には里親制度がない。よほど近い親戚でないと、孤児を引取って育てることはできない。全部、これらの学院に収容されるのである。
 だから、がくいんの生徒たちは大切にされる。服装が一目でそれと分かるようになっているのもそのためだし、大学に進学するときは最優先という恩典がある。孤児たちが生き生きとして朗らかなのも、こういった制度のおかげだろう。社会福祉は、社会主義国家の方が進んでいる。そう思わずにはいられなかった。

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文化・芸術・スポーツ 共同通信社:村岡博人

舞踊「はえあるわが祖国」

 かたときも忘れざりし
 あざやかな朝の国、
 松の木つねに青きたらちねの山川よ!
 夢にもうつつのごとたまらなく懐かしかったわが祖国、
 人民の意思でたてられた
 ああ、朝鮮民主主義人民共和国!
 
 舞台に向かって右手の幕前で”序詩”の朗読をしているのは”半島の舞姫”として日本にも知る人の多い舞踊家、崔承喜さん。それに人民俳優の黄徹氏と人民賞受賞者の功勤俳優金完羽氏だった。崔承喜さんは眼鏡をかけ、えんじ色のビロードのような朝鮮服に身をつつんでいた。戦争で片腕をなくしたという黄徹氏の上衣の右袖の先がポケットにつっこまれているのも印象的だった。

 逢いたかった同胞、兄弟
 ふたたびこんなにめぐり合い
 なんとうれしく幸福なことよ!
 だが、いかに忘れられよう
 われらのほこらしい革命の道程にひそむ
 過ぎし日の血のにじむ闘争の物語を、
 そもだれが
 帝国主義の鉄鎖でこの国の人民をしばりあげたか、
 愛する国土を奪われ
 北は豆満江、南は玄界灘をわたって
 散らぬ他国へ行かねばならなかった
 ああ、忘れられぬ怨みの歳月よ!
 いまなお涙のなかにいたましく聞えくる鉄鎖の音ーーー

 三百余人のオーケストラの伴奏で、一千数百人の歌う合唱組曲「祖国」が荘重にひびくなかに、、幕があがり、舞踊「暗黒の中で」がはじまる。舞台は日本帝国主義の支配下で、自由と光明を待ちわびた朝鮮人民の姿を描く。
 これは平壌の朝鮮人民軍体育館で日本〜の帰国者を歓迎して公演された音楽舞踊叙事詩「はえあるわが祖国」の開幕の様子だ。この詩は年代記的に朝鮮の歴史を歌ったもので、舞台は幕なしに転換していく。舞踊、合唱、管絃楽、詩など色々な特性をもった表現形式が有機的に統一されすばらしい芸術的アンサンブルをなしているのだ。朝鮮で開花発展した民族文化の集大成といってもいいだろう。最前列の席にすわってみていたわれわれもそのすばらしさにおしみなく拍手を送った。
「日本に持っていったら大変な人気だろう」
「いやこれなら世界中どこの劇場にもっていってもうけること間違いなしだ」
「残念ながら今の日本には個人的に秀れた芸術家はいるけど、こんな集団芸術といったようなものはとうてい出来ないね」
 感想こそ思い思いだったが、同行記者みんながこの作品を生んだ背景について、日本にないものを感じたという点では共通していた。
 この作品は多くの作曲家、舞踊家、指揮者、舞台芸術家などが集まって創作したもので、講演には学生や職場のサークルなどから三千人が参加していた。それはもう個人の力による創作ではなく、ここ十数年の間に朝鮮で蓄積された芸術の成果を集約的に表現したものだといった方が適切だった。われわれは朝鮮に入って何日もたたないうちに、この感動的な舞台をみせられたので、どうしてこうした作品が生まれ,洗練され調和のとれた演奏や舞踊が生まれるのかを、その後自然に心掛けて注意するようになっていた。この疑問に対する回答は工場や農村のサークル活動の中にみつけることが出来た。
 金日成広場にめんして立てられた政府機関の合同庁舎で、われわれは日本でいえば文部大臣にあたる李一郷教育文化相に会う機会があった。日本語の百科事典のおいてある”相室”で李さんは「もうすっかりわすれてしまった」といいながらも上手な日本語で話してくれた。その時聞いたことだが、現在朝鮮には音楽サークルが一万五千八百九十五あって参加人員は約五十九万人。舞踊サークルは一万四千七百十六あって参加者は約二十八万八千人、演劇サークルは一万八百九十九で十四万八千人が参加しておりこの他にも文学サークルその他があるとのことだった。人口約一千万人、東京都ほぼ同じくらいの人数に対してこれだけのサークルがあるということはちょっと日本では想像しにくいことかもしれない。朝鮮では芸術家が大衆的な基盤の上で育てられていた。正月に訪ねていった平安南道の立石農業協同組合で、あるいは平壌紡織工場で、われわれはたくさんの専門芸術家の卵に会った。彼等は技量がのびるに従って道立劇場に入り、さらに国立劇場に選ばれてゆく、中には専門学校、例えば舞踊学校、音楽学校といったところに入学を許され、専門芸術家になってゆく人もいた。
 あの三千人による音楽舞踊「はえあるわが祖国」がたった三回の合同練習で、すばらしく調和のとれたいきいきとしたものになっていいたのは、こうしたサークルで基盤の作られてた芸術家によるアンサンブルだったからにちがいない。部分品が標準化されている大きな機械のように、全国のサークルで育てられてきた若い朝鮮の芸術家たちは、一つの指揮棒を中心にまとまって、美しい演奏をきかせてくれ、流れるような舞踊をみせてくれたのだった。
 朝鮮の集団芸術のすばらしさがどこから生まれてくるかという疑問を解く一つの鍵は、芸術の大衆性ということだった。どこから連れてこようと同じような水準の音楽家、舞踊家がいくらでもみつかるということは集団芸術にとって大切なことにちがいない。

映画「春香伝」
 職場のサークルで創作活動が盛んだったこのも印象深いことだった。例えば平壌紡織工場でみせてもらった舞踊劇にこんなのがあった。第一景は、百貨店の売場、織物をあれこれ品定めしているお客さんが売り子に対して生地の質や色がよくないと訴える。ちょうどそばにいた二人の女工さんはいたたまれなくなって逃げ帰る。工場ではあれこれと議論がおこる。はじめはお互いに責任のなすりあいなどやっているが、最後にみんなで協力してやれば品質も向上出来るという確信をつかんで、みんな明るい表情で職場に向かうといったような筋書だった。
 一九六十年の朝鮮は第一次五ヶ年計画を短縮達成し、第二次五ヶ年計画にとりかかる前の準備期間、正式にいえば緩衝期だ。この期間の主な目標は人民生活の向上と農業の機械化、それにすべての工業部門で労働生産性をたかめ、施設の拡張によらないで生産の増加を獲得することだった。紡織工場のサークルがみせてくれた舞踊劇は、この緩衝期の目標をテーマとした創作劇だったのである。清津でみた金策製鉄所サークルの創作劇にしても立石農業協同組合で聞いた歌にしてもすべて生産と生活にむすびついたところで創作がおこなわれていることがはっきりわかった。
 一九五十六年四月、朝鮮労働党の第三回大会が開かれた頃には、金日成首相も中央委員会活動の総括報告の中で「社会主義リアリズムの方法に立脚し、自然主義や純粋芸術などには断乎として闘え」とうったえながらつぎのようにのべねばならなかった。
 「わが文学者、芸術家は、いまなお労働者たちの創造的労働や現実生活から遠くかけはなれている場合が少なくない。こうしたことは、かれらの創作活動にきわめて否定的な作用をおよぼしている。作家や芸術家たちがひんぱんに工場や農村を訪ねまわってはいるものの、多くの場合そこでくりひろげられている生活の本質を洞察しえず、ただ皮相的な現実にのみとらわれている。こうしたことはかれらがわれわれの社会発展の本質を知らず、またわが党の政策をはっきりと把握していないためなのである。文学者と芸術家たちがマルクス・レーニン主義によってしっかり武装し、人民大衆の生活のなかにもっと深く入り込んでいくならば、かれらはわれわれの社会の典型を正確にとらえることが出来るだろうし、したがって彼等の作品はわが人民の期待と要求をみたしうるであろう」
 いままでは職場の芸術家たちが、自分らの生活に取材して創作しているように、専門芸術家たちもこぞって農村や工場に出かけてゆき、労働者の現実生活にふれながら創作活動を行っている。国立舞踊学校の教授をつとめている人民俳優の崔承喜さんも、一九五九年の暮には南浦の製錬所やガラス工場に指導にいったと語っていた。生産生活と結びつかない文化を朝鮮でみつけることは出来ないといってもいいだろう。
 戦争が終わってからたった六年という短い期間に立派な民族文化が開花したことについて、作家同盟の委員長であり最高人民会議常任委員会の副委員長でもある作家の韓雪野さんはこんな説明をしてくれた。
「解放後十五年、しかもその間に戦争の大きな被害を受けながら、「はえあるわが祖国」のような立派な集団芸術が何故出来上がったか、歴史的にみなければわからないだろう。それは長い間外国人の支配下で窮乏にたえながら、人民自身が生活を描いた人民文化の伝統があったからこそ出来たことなのだ。例えば李朝時代のように政治的にすたれた時代でもすぐれた文化が残っている。貴族の文化など支配者の文化でなく人民の文化だったからだーー」
 もちろん朝鮮労働党と朝鮮民主主義人民共和国政府が戦時中でも芸術家をとくに保護したこともみのがせない事実だ。崔承喜さんのはなしだと、戦争中食料の少ないときでも、芸術家は歌ったり踊ったりするとお腹がすくだろうといって、公演のあるたびにおそばなど”おやつ”が特別に配給されたそうだ。
 モランボン(牡丹台)劇場で韓雪野産の原作になる”ヒョンジュ(きょうだい)”という演劇をみた時、もらったプログラムの拍子に「共産主義典型の創造は、われらの芸術の高尚な任務だ!」ということばが刷り込まれていた。このスローガンでもわかるように朝鮮では社会主義建設のために芸術家のはたす役割を非常に重視している。だからこそ優遇もするわけだ。しかしそうかといって宣伝臭の強い作品ばかりが生まれているわけではない。この芝居などはまだ登場人物が類型化され、善玉と悪玉が強調されすぎるようなきらいもあったが、一般にはそう教化宣伝のにおいの強いものばかりではなくなっているようだった。
 映画についていえば崔承喜さんの主演した「沙道物語」(一九五七年)のように侵略者を撃退する千七百年前のものがたりを舞踊化し、純愛のエピソードを織り込んだもの、古典の老女物語「沈清伝」(一九五八年)などにつづいて昨年は貞女物語「春香伝」が天然色フィルムで作られていた。南朝鮮でも映画化されているこの古典が、北朝鮮ではどのように解釈されているか興味深かったが、身分のちがう男女が李朝末期の封建制に抵抗してつらぬき通す純愛の物語として、鼻につくような社会主義の宣伝臭全くなかった。この映画について、われの案内役についてくれた朝鮮人記者の一人は、「もし南北朝線を統一するための自由選挙が行われることになり、お互いに選挙運動をやるようになったら、演説などやめてこの春香伝の映画だけもって廻ればいいという話があった」といっていた。昨年の夏この天然色映画春香伝が封切られた時、平壌の映画館の前には列が出来たという話もきいた。現在朝鮮には七百五十五の映画館があり、昨年は一人平均十三時間映画をみている。これらのことは最近の朝鮮の映画が高い娯楽性の中に社会主義的な教養性を持っているということを意味してはいないだろうか。
 李一郷教育文化相は芸を批判する三つの尺度として、世界観の問題、大衆に対する教養性、芸術的技巧の三つをあげていた。そしてサークルでは世界観の問題が一方的に強調されがちで、専門家になると技巧に重点がおかれて世界観の反映のしかたが問題になりやすいとそっちょくに語っていた。生産生活に結びついた芸術といってもそれは決してマルクス・レーニン主義の世界観をむき出しにしたものばかりではないのである。
 
新聞・ラジオ
 平壌の町を歩いていて珍しく感じた風景の一つに新聞掲示板があった。バスの停留所ごとに四頁建ての新聞をひろげて両側がらガラスではさんだ大きなケースが眼の高さに立っているのである。朝鮮記者同盟の委員長玄弼勳氏の話では新聞用紙の不足から発行部数が需要に応じきれないため、こうしてみんなが読めるようにするということだった。農村では作業の間の休憩時間に集まって、一人が読むのをみんあが耳を傾けて聴いて居た。文化水準の向上にともなって新聞をはじめとする出版物や、ラジオに対する要求が日ましにたかまっているようだった。
 有力尚は朝鮮労働徳の機関誌「労働新聞」と、政府の機関誌「民主朝鮮」のふたつの全国紙、あとは平壌新聞とか威鏡北道日報といった地方新聞と、農民新聞、文学新聞、民主青年など各社会団体の機関誌だった。
 労働新聞の発行部数は三十万部ではいたつは全部逓信省が引受けている。
 党の機関誌だからその社説も権威があるわけで、朝鮮における唯一の通信社である朝鮮中央通信社もよくこれを飲用していた。地方新聞が一日おくれで労働新聞の社説を転載しているのも何回かみかけた。そこには日本人記者団が朝鮮から東京へ電報を打つ順番をきめるのに血眼になったり、自分だけきいたことは出来るだけかくそうとするような無益な競争はなかった。
 ちょうど平壌駅前にレンガ造りの出版センターを建設中で、一九六十年中にこれが完成すればドイツ製の輪転機を入れ新聞、通信、出版社がみんあここに集まるということだった。新聞社の印刷工場は新聞以外の雑誌、単行本まで印刷しており、例えばこれまで朝鮮最大の出版工場であった労働新聞出版印刷所では、一九五九年五十種の新聞雑誌のほか五百万部の単行本を印刷していた。
 新聞や雑誌、ラジオは国民の教養のためのテキストになるわけで、従って記者の地位も”人民の教養者”として非常に高く評価されていた。東欧の社会主義国から視察にきたジャーナリストの一人が、「朝鮮における記者の待遇はすばらしい、国にかえったらぜひ真似をさせるようにしよう」と感想をもらしていたという話もきいた。実際記者には住宅のほか毎年一着の夏服と一足の靴、二年に一着冬服とスプリングコート、三年に一着のオーバーなどが無料で支給されており、われわれを案内してくれた記者も朝鮮では目立って立派な服装をしていた。記者が優遇され尊敬されているということは、青年の中に記者を志望するものが多いことでもわかった。昨年も専門的に記者を養成する文学大学などは競争率が十五倍になったとのことだった。
 もちろん新聞やラジオが人民の教養のためのものだからといって、むずかしい政治論議やお説教めいた解説ばかりで埋めているわけではない。「平壌新聞」など地方紙には広告部があって、広告料をとってデパートや映画館、劇場などの”お知らせ”を掲載していたし、青年同盟の機関誌「民主青年」など「恋愛・結婚・家庭」をめぐる労働者が、長い間一緒に生活し、子供もある自分の奥さんのことをきらいになり、「気がきかない、背が低い、みにくい」などいろいろな理由をならべたてて離婚を申し出たのが発端で、さまざまな意見と批判がよせられ、またそれに対する反批判などがよせられたものだった。
 ラジオでも、夜仕事の終った時間や正月などにはダンス音楽を流していることが多かった。
 日本の統治から解放された直後には二百三十万人以上の文盲がいたという朝鮮では、その後盛んな成人教育の一九四九年には文盲がなくなったという話だったが、まだ読み書きの不自由な人は多いらしく、ラジオのはたす役割はそうとう重視されているようだった。政治的関心の高さにもよるのだろうが、一九六十年の午前零時から金日成首相の新年の挨拶が放送された時など、ホテルのウェイトレスまで仕事の手をとめ、何かメモをとりながらこれに聴き入っていた。まだ一家庭に一台というほど受信器は出まわっていないので、農村、工場などでは協同組合で有線放送施設を作っているところが多かった。
 朝鮮の文化について語るときぬかせないものに大衆舞踊がある。これは社会主義を建設している朝鮮人の生活から切りはなすことの出来ない休息の一形式になっていた。毎日仕事が終わると人々はクラブや舞踊場に集まって音楽と舞踊を楽しむのを日課の一つにしており、休日になると公演や遊園地に数十人から数百人もの男女があつまって大衆舞踊をおどる。
 われわれも清津の港で、招待所の前であるいは平壌駅前で、工場で、農村でーーいたるところで踊っているのをみ、仲間に入って踊ったりしたものが。普及している大衆舞踊は三十種ぐらいあってそれが次々とくりかえされる。

 オンヘヤ
 ヘヘヘ、オンヘヤ
 今年の麦作 
 豊年だ オンヘヤ
 君も僕も オンヘヤ
 麦打ちすまして オンヘヤ
 復旧建設に オンヘヤ
 競い立て  オンヘヤ
 ヘヘヘ  オンヘヤ

 昔から朝鮮人の間に伝わってきた、豊年祝歌オンヘヤのメロディは、、あちらこちらで聞かされた金日成将軍の歌とともに今でも忘れられないものとなっている。踊りの歌では”オンヘヤ”のほかに”フンラリ”、”勇進歌” ”千里馬トラクター” ”親善のワルツ” などがとくに人気があるようだった。
 メーデーや八・一五解放記念日のような祭日の夜には、平壌の金日成広場をはじめ全国各地で大規模な大衆舞踊会が開かれる。とりわけ金日成広場は無数のイルミネーションで飾られ、サーチライトの光と祝砲の放つ花火が夜空に花園をなすその下で、数万の群衆が夜のふけるまで踊り続けるとのこのだった。


体育・スポーツ
 舞踊や音楽と同じように大衆化され、社会主義建設のために不可欠な要素となっているのもに体育とスポーツがある。
 毎朝午前八時、朝の冷たい空気をふるわせて元気な声がホテルの部屋の窓から飛び込んでくる。
 「ハナ、ツー、セー」(一、二、三) ホテルの従業員たちの朝の体操の時間だ。窓から下を見下してみると、食堂で働いていた若い女性も、荷物をはこんでくれたボーイさんもみんな元気いっぱいに手足をのばしている。
 中国でも午前十時、通信社「新華社」を訪問した時、一斉に部屋を出てきた人々がなわとびや駆け足をやっているのをみた。ホテルから飛行場に通ずる道でまだ薄暗いうちから走っている若い男女をみかけたこともあった。
 社会主義の国はどこでも体育を奨励しているが朝鮮もその例外ではなく、体育が積極的な休養として生産や学習と結びついているところにその特色があった。
 朝鮮では内閣のもとに国家体育指導委員会が設けられ、その下部組織が全国各地に網の目のように広がって、体育の大衆化のために指導を続けている。政府は昨年、全国民が一日一時間以上体育運動をしなければならないという規定を作った。ホテルの窓から号令がきこえてきたのはその一つの現れだった。さまざまな職場で働いている人たちのために、体操も人民大層、生産大層、坐って仕事をする人のための体操、立って仕事をする人のための体操といったように考案されていた。しかしラジオの利用がまだ中国ほど十分には行われていないので、現在では「人民体力検定制度」が体育の大衆化のために最も主要な役割をになっていた。
 ソ連の「G・T・O」中国の「労衛制」にひってきするのが朝鮮の「人民体力検定制度」だ。一口にいえば戦争中の日本にもあった「体力章検定」のようなものだが、戦争のための”体力増強”を目的とした日本のそれと、社会主義建設のための労働人民の健康増進を目標とした朝鮮の体力検定制度では、目的において著しいちがいがあった。
 人民体力検定制度は内閣の決定にによって作られたもので、成年級一級、二級、少年級の三段階にわけてそれぞれ標準記録が決められている。現在行われているのは一九五七年に制定されたもので、成年級一級を例にとってみると、女子は十六才以上に十五才と二十五才以上三十才以下の二段階にわけており、男子は十六才から三十才、三十一才から三十五才、三十六才から四十才、四十一才から四十五才の四段階にわけて十四種目について標準記録が決められていた。
 例えば十六才以上三十才までの男子は人民保健体操とスキーで十キロメートルの疾走が出来るほか次の記録をもたねばならない。懸垂九回、百メートル十三秒八、千五百メートル五分二十秒、走巾跳四・五メートルまたは走高跳一・三五メートル、手投弾(七百キログラム)投げ三十八メートル、距離泳二百メートル、百メートル速泳二分二十秒、行軍(八キロ)六十分、円盤投げ二十二メートル、槍投げ二十八メートル、砲丸投げ八・三メートル。これを突破するのはちょっとした努力がいりそうだ。
 労働者も農民も働きながら練習するのだからこれらの種目を一ぺんにパスすることはなかなかむずかしい。だから今月は走る種目、来月は跳ぶ種目と言った調子で主目標をきめて一つ一つとっていく。工場単位、農村単位、学校単位に体力献呈小委員会というのがあって、ここで各個人の日常の成績をみており、標準記録を突破するようになると郡の委員会に報告してくれる。郡の体育指導委員は報告をうけると現場へ出向いていって審査する。少年級と成年級二級の場合は郡の体育指導委員が資格を与えることが出来るが、成年級一級の場合は道(日本の県にあたる)の体育指導委員会に審査を依頼する。
 成年一級の上にも無資格選手、三級選手、二級選手、一級選手、スポーツ名手、功勲体育人というランクが出来ている。スポーツ名手は一九五九年末まだ四十五人しかおらず、功勲体育人は制度だけで該当者はいなかった。名手をのぞいて資格が有効なのは二年間で、それ以上たつとまた献呈をうけかえねばならない。検定はいつでもうけられるようになっているが、年に四回、四、六、八、十学には「人民体力検定週間」というのがもうけられ、大衆的規模で検定を行う時がある。各種目別の選手大会と検定とも密接な関係がある。選手権大会に出場するのは射撃、通信狭義などの例外をのぞいてみんな成年級一級の合格者でなければならず、大会での成績がよければその場で名手の資格を与えられるようになっていた.
 大衆化の基礎のうえで優秀な選手がどんどんと育っていることは、舞踊や音楽家の場合と同様だ。
 陸上競技の一九五級年度最高記録表をみると男子千五百メートル三分五十七秒八。円盤投げ四十二・四六メートル、女子百メートル十二秒四、二百メートル二十四秒八などがめぼしいところ、もっぱらチーム・ゲームの方に重点がおかれているのかサッカー、バレーボールなどが世界的水準に達しているようだった。
 朝鮮にはオリンピック委員会に属する各種目別の委員会のほかに六つの体育協会があった。労働者の組織する「鋼鉄」、農民の「豊年」、学生の「千里駒」、人民軍の「二・八」、交通運輸部門に働く人達の粗詩句する「機関車」、それに日本n警官にあたる内務省員の組織する「稲妻」だった。これには一万二千余の初級体育団体がもうらされているとのことだった。
 国際試合も盛んでソ連をはじめとする社会主義国ばかりでなくフランス、アラブ連合、イラク、セイロン、インド、インドネシアなどととも親善試合をやっており、昨年一年だけで六十の外国チームを迎えたといっていた。
 朝鮮のスポーツといえばその昔ベルリン・オリンピック大会ノマラソンで優勝した孫選手を思い出すが、最近の様子について国家体育指導委員会の人は「南朝鮮の新聞によるとギャングの頭目になっているそうですよ」と顔をしかめて語っていた。
 この国には日本のようなプロスポーツはない。いくらすばらしい技量をもっていても日本の学生野球や実業団野球選手のように誘惑の手がのびるということもない。ここではスポーツと体育はみるものでなく、自分自身がやるものであり、明日の生産と結びついたものだった。
 
オリンピックについて
 アジアの先進的スポーツ国である日本について,朝鮮のスポーツ界はとくに関心をもっているようだった。
 四年後には東京でオリンピック大会が開かれることになっている。この大会のもつ意義としては、アジアで初めての大会ということがよく強調されている。その意味では日本が南北朝線の関係をいかに調整するかということは中国と台湾との関係をどうするかという問題とともに、大会の成否をきめるカギとして世界中の注目を集めている。これについて朝鮮オリンピック委員会の委員長を勤めている洪命熹副首相は、日本国民が帰国問題でみせたと同じような援助をよせることを希望していた。
 朝鮮チームのオリンピック大会参加について、国際オリンピック委員会(IOC)は中国の場合と異なった態度をとっている。中国の場合は二つのオリンピック委員会を認め、二つの代表団を参加させる方針だが、朝鮮については一九五七年のソフィア総会でも一九五九年のミュンヘン総会でも単一チームを構成して参加するよう勧告しているからだ。朝鮮のオリピック委員会はこの勧告にもとずいて、再三”韓国”側に会談を開くよう申入れ、場所として中立国香港まで提案したが、”韓国”側は応じなかった。これはもし単一チームを作る話し合いがまとまらなかった場合はさきに加盟している”韓国”だけが参加権を得ることになっているためで、なんとかかんとか理屈をつけて引延しをしているのだった。両方が統一チームを作ることに熱心だった東西ドイツの場合と事情がちがうわけだ。
 洪命熹委員長は、日本に希望することの第一として、IOCの方針を積極的に支持してほしいと述べていた。これは日本が次期大会の主催地であり、IOCでの大きな発言権をもっているばかりでなく、各種競技連盟でも重要な地位を占めているという評価にもとずくものだった。日本が南北朝線の代表を招いて単一チームを作るための会談を開く努力をするならば、会談の場所など一切の むずかしい条件をつけずに参加したいともいっていた。
 だから日本がローマ大会のサッカー予選で”韓国”だけを相手にしたことについては強い不満をもっており、洪委員長も「朝鮮が東京大会に参加するようになるためには、日本が南朝鮮だけを相手にすることをやめなければならない」とはっきり指摘していた。
 また「単一チーム構成の問題以前に日本が朝鮮チームの入国を認めることが必要だ。お互いの誤解をとくためにもまず手はじめとしてスポーツの相互交流をやろうじゃないですか」とも語り、「日本側が出入国を認める場合には直ぐにもサッカー、バレーボール、バスケットボールなどのチームを送る用意がある。日本側からがサッカー、バレーボール、バスケットボール、卓球、レスリング、ボクシングなど二十種目のチームを受入れることが出来る」と具体的な種目名まであげていた。
 スポーツに国境なしと常々いっている日本でありながら朝鮮とのスポーツ交流だけは行われたことがない。洪委員長も「今年はスポーツを含めた朝、日の文化交流をやりたいですね」といっていたが、国交が回復していないというだけの理由で、スポーツばかりか一切の文化交流まで禁じられている不合理な現状は出来るだけ近い将来に改めねばならないことだ。この問題については舞踊家、崔承喜さんもこんなふうにいっていた。
「私は日本にくるようにという交渉をもう五回ぐらい受けました。お国では私たちがいける状態が出来たのでしょうか。われわれの方はあらゆる国と文化交流を望んでいます。日本からみえた文化人とも三回ほど共同コミュニケを発表したことがありますが、かんじんの文化交流はまだ実現していません。しかし在日同胞の帰国がはじまって、この希望は現実的なものとなってきたと思います。帰国問題と同じように文化交流の問題も相互の努力できっと実現することでしょう」
 崔承喜さんといえば、連日警戒警報だ、防空演習だいうさわぎだった昭和十七年の春、帝劇に初出演、マチネーを加えて二十四回という世界舞踊界でも初めてといわれる長期独舞公演を行った時のことを思い出すオールドファンも多いことだろう。あの時「草笠童」「侍の子』などを踊った崔勝子ちゃん(超鮮名安聖姫さん、承喜さんの長女)も今では立派に成長し,平壌の舞踊学校で母親とともに創作活動を行っている。自分の生まれたところに一度きてみたいと思うのも人として自然な夢ではないだろうか。
 朝鮮と日本のスポーツや芸術の交流をはばんでいるものがなんであるかは非常に明白になっている。それは日本政府が”韓国”にいわれのない気がねをして、朝鮮人の入国を認めないから実現出来ないのだ。スポーツや芸術だけではない、あらゆるものにさきがけて行われるべきジャーナリストの交流さえはばまれているのが現状だ。この状態をあらためてほしいという気持ちは政治的な信条をこめてみんなが一致していることではないだろうか。
 崔承喜さんを十六才の時からわが子のように世話した舞踊家、石井漠さんは語っている。「ボリショイ・バレー団の公演に岸首相夫妻等をお招きした時のことだった。岸さんは急に思い出したように”崔承喜さんがくるとかいう話どうなってますか”と話しかけてきた。芸術に国境はないというけれど,岸さんでさえ、個人的にはこういう関心をもっているのになぜ呼べないんでしょう。私もあちらへよばれているしぜひ崔承喜の日本J公演も実現させた」みんなが力をあわせれば石井さんの願いがかなうのもそう遠い日のことではないかもしれない。

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農村を訪ねて 毎日新聞社:清水一郎

夢に見た幸福
 砂っぽこりの多い野や山。草木もロクに生えていない。転々と見える草葺き屋根の貧しい農家、壁は今にも崩れそうな泥の壁。米も麦も、そしてヒエ、アワさえも満足に穫れない。一体何と寒々としたところだろうーーこれがむかしの北朝鮮の農村の印象だったという。
 土の色はいまでも変わりはない。全体的に黄土がかった灰色の土地、ところによっては赤茶けた田畑が見渡す限り続く。肥沃な平野という感じはまずどこにも見受けられない。しかしいまの北朝鮮の農村にはカワラ葺きのしっかりした家がどんどん建っていた。壁は白壁かレンガ造り。田も畑もよく耕されているし灌漑の掘割りが方々に開かれていた。農民たちに会ってみたら口々に「働くのに張り合いを感ずる。幸福だ」との言葉だった。恐らくそれは真実の声だろう。全体として北朝鮮の農村は日本の豊かさにまだ及ばないが、ともかくいまの北朝鮮の農業はかつてない発展をみせていると感じた。貧しかった農民たちにとってそれは生まれてはじめての繁栄であり、夢に見た幸福がいま眼の前に実現されたところであろう。

立石農業協同組合
1月2日、平安南道文徳群立石農業協同組合を訪れた.首都平壌市から百キロ近く奥地に入ったところにある。途中の道路は悪くない。若草色の車体をしたソ連製の乗用車”ボルガ”は時速六十キロから時には七十キロぐらいで跳ばす。遠藤には農村はいくらもあるのだが、北朝鮮側がわざわざここにわれわれを案内したのは、ここが典型的、模範的な農業協同組合だからということによる。
 正午近く、村に着いた。村長さんともいうべき同農業協同組合管理委員長、姜仁学さん(五十)はじめ数人がわれわれ待ちくたびれていた。朝方、見学日程の打合せやら交渉やらがひっかかり、出発が予定より一時間以上も遅れていたのである。さっそく組合の会議所に使われている細長い、あまり大きくない建物に集まってもらい、姜さんから組合に着いての説明をきくことにした。村から出席したのは姜さんのほか管理副委員長、梁昇鎬さん(三十五)、簿記長、金承銅さん(三十五)、勤労者学校教師、白容植さん(三十八)、農業第二作業班、崔応漢さん(三十四)、同第十一作業班、朴竜女さん(四十)、同第八作業班、崔栄子さん(二十)と、もう老年で非組合員になった金泰さん(六十一)の七人だった。
 立石農業協同組合がある付近一帯は、むかしからヨルトウサムチェルリ(十二、三千里)平野と呼ばれる平地である。、この組合は平地のほぼ中心部にあり、耕地面積は千五十町歩、組合員は千五百八人(男六百二十一人、女八百八十七人)いる。
 解放(一九四五年八月十五日)以前にはこの高地を三十七人の地主が所有していた。いずれも朝鮮人で日本人の地主はいなかった。そして解放前十五年の数字を平均すると、部落全体の世帯数は五百三十、人口は二千六百五十五人で耕地のほとんどが田であり、畑は十町歩ていどである。
 生産高は町歩当り六百五十キロ、収穫総計は年に四百八十トンであり、これを地主と小作人が半々に分けると小作人一世帯の平均取分は四百五十三キロで一人当り九十キロに過ぎなかった。当時、一年中自分の食糧だけで食べてゆけたのは、わずか四十一世帯だけである。このため小作人のうち七十三世帯が次々と部落を離れてゆかねばならなかった。多くは満州へ。そして一部はシベリア、日本へも行った。解放後、三十七人の地主は村を追われた。土地は小作人たちにい分配され、あたらしい 農村の建設が始まり、貧しかった者にしあわせがやってきた。
 ところが、一九五十年六月に始まった戦争でこの幸福もこわされた。
 五十二年五月中旬の夜、たった一回の猛爆撃でコッパミジンの大被害をこうむったのである。、すなわち、六百四十戸のうち四百五十五戸が破壊され、あるいは焼かれた。死者は実に七百四十五人、家畜のうち死んだ牛百六十五頭、死んだ豚三百二十頭、残った牛はたった二十五頭にすぎない。ニワトリ、アヒルなどの被害も数千羽に達する。前年の収穫物千七百八十トンのうち千五百二十トンを失なった。その後アメリカ軍による占領期間が三十六日あった。戦争を通じて学校、病院、倉庫をはじめ農機具などもあらかた焼失した。
 しかし農民は屈せずに働いた。残った牛の背に擬装をほどこしながら一坪の土地もほっておかないように耕した。夜は防空壕の穴ぐらしだった。そして一腔五十三年夏の停戦調印を迎えた。
 停戦後、北朝鮮政府は経済三ヶ年計画をたて戦災の復旧、新経済の建設に乗り出した。農業経済面では経済発展の諸条件考慮し、農業協同組合組織を農村に作ってゆく方針をとった。
 立石農業協同組合がはじめて組織されたのは一九五十四年十月のことである。発足当時参加したのは八十世帯、組合員の数にして百五十二人、組合の土地は百三十五町歩だった。その後組合に加わる者がどんどん出て、一九五七年には村の全世帯が参加、立石の協同組合化は完成した。
 一九五九年度のこの組合の収支計算書を公開してもらうと次のようである。
 まず、総生産高は七千七百九十五トンで町歩当たり八トン百六十キロになる。このうち十二パーセントを現物税として国家に納めた。そして
▽種子として残したもの(百五十八トン)
▽肥料購入に当てるもの(二百五十九トン)
▽共同蓄積(二千九百四十九トン)=百二十七万八千朝鮮円に相当する
を差し引いて残り三千五百十三トンを各世帯に分配した。一世帯当り平均分配量は四トン三百キロになる。
 このほか現金収入として組合には四十七万四千八百五十円がありM、一世帯当り三百五十円ずつ分配した。一労力当り百八十九円になる。
 協同組合の共同財産にはまた家畜、果樹園などがあり、その数量は次のようだ。
▽牛、四百九十二頭 ▽豚、九百八十五頭 ▽山羊、四十二頭 ▽ニワトリ四千五百七十五羽 ▽アヒル、七千さん百七十五羽 ▽ウサギ、四千七百五十羽 ▽三百五十待ち歩の水田でコイを養殖しており,親コイ八千百二十尾。
▽リンゴ園、二町歩四百五十本。町歩当り収穫量は二十トン百キロで一昨年から昨年にかけ一万二千本の苗を植えた。
 現有の農機械としてはトラック四台、トラクター十台があるが、このうちトラック一台、トラクター七台は三区年度購入したもの。
 感慨水利施設としては揚水機五台(百馬力二、五十馬力に、三十五馬力一)を備え、田畑全部はもちろん、住宅周辺にある個人持ちの菜田にまで渇水期に水を補給出来る。
 脱穀機は三十四台、大部分、組合自体で組み立てたもので、一日平均百四十カマス、最高五百カマスを脱穀する能力がある。
 住宅施設ではこの農村でもどんどん進められていた。現在ここの世帯数は八百十七、そして昨年一年間で住宅百に十七棟を新築、百四十七むねを改築してカワラぶきにした。このほか三階建校舎延四千九百七十三平方メートル、畜舎六百九十五平方メートル、食堂三百五十平方メートル、瓦工場千二百平方メートル(二台で一台一日四百枚を生産)あるいは幼稚園、託児所、共同浴場、理髪所、農機具修理所なども建設し、総計延面積一万四千七百平方メートル(住宅を含む)が新しくできた。
 ことしの目標はトラック荷台、トラクター六台を新規購入することである、昨年はトラクター十台で千町歩余の耕地を耕したので、一台当り百町歩を受持たねばならず忙しかった。こんど六台入れば、一台当り六十町歩に軽減されるから極めて楽になる。その結果、トラクターはトラックと協力し、肥料運搬の機械化を進められるので、農民の労力も軽減される。そのため目下四月末完成を目当てに、どこの水田、畑にもトラックが入れるよう、道路の整備を進めている。
 穀類一町歩当りの今年の収穫目標は十二トンだ。
 まだわずか残っているワラぶき屋根の住宅は全部カワラぶきにし、二階建て住宅も建設するが、住宅問題のいっさいは今年八月までに解決する。
 日用品のいっさいは今年八月の食器戸棚などは組合の家具工場で製作しており、二月末までには全家庭にこれらの家具がゆきわたる。
「豊かになった生活水準をもっと高めよう」というのが、協同組合の活動方針である。

一日のくらし
 以上が組合管理委員長、姜仁学さんの説明のあらましだった。姜さんは若くして小作争議に加わり警察に検挙、ごう問を受け、村を去り、土工、人夫などさまざまの辛酸をなめ、解放後、村に皈って協同組合組織の
指導的地位に立つようになった闘争経歴をもつ人だった。中肉中背、手も指もがっしりと太く、日に焼けた顔にはどちらかというと柔和な眼がいつも微笑みをたたえていた。
 若い崔応漢sだんに”ちかごろの一日”はどう過ごすのか、たずねてみた。
「朝八時半ごろ、作業場に集まります。組合で打つ鐘の音が合図です。そこで班長からその日の仕事について指示を受け、作業を始めます。蛭にはまだ鐘が鳴り、食堂へ行く成り家へ帰って昼食です。昼休みには演劇、音楽、舞踊なふぉのサークル研究会があり、再び作業につきます。作業は五十分働らいて十分から二十分休みまた五十分働らく。休み時間には新聞雑誌などの読報会が開かれます。
 その日の作業が終ると班ごとに集まって各人の作業の評価を受け、労働手帳に点数を記入してもらいます。一年間の合計点数に比例して収穫物や現金の配分が行われるもので、これを都給制といいます。
 作業評価が終ると労働手帳をもらって共同浴場へ行ったり家へ帰ったりする。夕食後は映画をみたりラジオをきいたりサークル活動をやります。
 この村には出力三百キロワットの有線放送施設があり、七百五十個のスピーカーが各家庭に配置され、中央放送の中継をききます。また各班の作業成績、個人の作業成績などが発表されるのもこのスピーカーです、。これ以外普通のラジオは百五十台くらい村にあります、サークルに参加している青年は約百人。十二人一組のバンドが二つあり、舞踊、合唱、演劇などで活躍します。ほかにスポーツサークルや女子のための料理サークルも開かれます。児童のためには児童教養室があり、課外勉強は主にここでやります。
 金泰さんはこの日集まった組合側の中で最年長だった。むかしといまと、生活はどう変わったかを話してもらった。
「むかし、この当りの村の小作人は一町歩耕して十カマスというのが普通だった。それがいまでは一町歩で二百カマスていどとれるようになった。作物は主にイネです。ほかにトウモロコシ、マメ、ムギなどもあります。
 解放前、お金持ちの地主がいて、毎日ごちそうを食べて過ごしていた。しかしほかの者は食べものすら満足になかった。いまではだれひとりひもじい思いをする人はいない、私の息子も一人は運転手として働き他の二人は大学と中学で勉強している。もともと六人のこどもがいたが、息子一人と娘二人を爆撃で失った。それでもこどもを大学にだしてやれるなど、むかしは想像もできなかったことだ。
 むかしといえば、灌漑の水路などももちろんなかった。日照り、かんばつが何より恐ろしかった。まだ覚えているが私が二十才の年だ。雨が全く降らず、何もとれなかった。乏しいお金でアワを買い、カユをすすって生命だけをつないだ。だから毎年、不安におびえて空ばかり見上げて暮らすのがわたしたちの生活だった。
 ところが今ではどうです。水路が縦に横に延びている。トラクターもある。水が自由になったからにはただ働きさえすればいい。働けば生産はあがる。楽しみだ。」
 苦しい生活の時代が長かったからだろう。六十才の金さんは年令よりも大分老けてみえた。
 冬の日足は短い。日が暮れないうち写真取材もしてしまわないと困ったことになるので、話の方はこの辺りで一応中断して村を案内してもらった。
 村のほぼ中央に食堂や市場、理髪所、洋服店などの施設がある。みんな公共の経営だ。そのそばに鐘があった。戦争のとき、アメリカの爆撃機が投下した不発弾をそのまま逆さ吊りにして作ったものだ。この鐘の音を合図に農村の作業が始まり作業が終る。組合副委員長の梁昇鎬さんが叩いてみせてくれたが、耳をつんざく大きな音がする。四キロ四方に響き渡るという。
 赤塗りのトラクター十台も並んでいた。最寄りの駅まで歩いて四十分。バスはきていないし、自転車やリヤカーはまだ普及していないので、トラックを往復させて利用するそうだ。市場をみる。衣類、柱時計、日用雑貨や荒物類、瀬戸物などが一ヵ所にまとまって売られている。十二月に入荷したという白木綿の布地に人気が集まり、おかみさんたちが群がっていた。
 魚屋、八百屋、肉屋はすぐ隣り。暇がないのでチラッとのぞいてすぐ次へ廻るのだが、平壌のデパートや頂点などの印象で想像していたよりもこの村の生活は豊からしい。品物の量も多く、恵まれているようだった。
 理髪所はもちろんイナカの床屋さんふう。三人の理髪師がハサミを動かしており、”いつもキレイに”と標語のポスターが張ってある。
洋服屋さんというのはクリーニング店といっしょで、もちろんプレスもやる。ミシンが六台に若い女の裁縫師が三、四人就業しており絹の朝鮮服などが縫われていた。
 住宅は一戸当り六畳くらいの居間二つの客間一つ、台所が別についている。カワラ屋根、白壁ぬりで平屋建て。一戸一戸かなりの空地を前後にとってキレイに並んでいる。軒には分配されたモミのカマスが高く積み上げられているが、盗難の心配はないという。北朝鮮ではこの点極めて安心で、われわれが物をうっかりどこかへ置き忘れても紛失してしまうことは全くなかったし、スリやカッパライの心配は全然しなくてすんだ。
 最近建てたばかりの共同浴場をみた。タイルなどというしゃれたものは使ってない。セメントで浴槽、洗い場などを塗り固めたままで見栄えはよくない。もちろん農民たちの手造りである。しかしモーターで水を汲みあげ、石炭がまでどんどん涌かし、午後六時から午前一時ころまでいつも入浴できるし婦人浴場の隣りには共同洗濯場まで設けてある。三十人から四十人の乳幼児を収容する託児所があった。村全体で同じようなものが六ヶ所に配置され、それぞれが幼稚園も付設されているそうだ。こどもの部屋はオンドルで暖められるようにしてあった。
 昨年新築した三階建ての学校があった。資材は国から補助してもらったが、あとは組合だけの力で建てたという。装飾の部分はまだ工事がすんでいなかったが、校長先生が待っていて校舎の中をみせてくれた。
 教室数は四十三、付属室が十。生徒数は人民学校六百十八人、初級中学校七百八十二人、農業学校四百三十二人でこの三つが同居している。教員は合計五十七人。
 正月なのに教室の一つでは十数人の生徒が一生けんめい勉強している。歴史研究サークルだという。正面の壁には金日成首相の額、周囲の壁には朝鮮独立闘争史などの年表たくさん張ってあった。
 田んぼへ出て灌漑の水路や水門をみせてもらう。巾四メートルぐらいの水路は真白に氷っている。金泰老人に水門のそばへ立ってもらって撮影。もう日は沈んでいた、。
 作業班の現場事務所などをのぞいて再び会議室へ戻り、中断された話を再開することにした。質問も答えも全部通訳が入るので、時間をとることおびただしい。
問「委員長の日課について?」
姜委員長「朝九時に事務所へ出る。そこで朝礼を行い、十三人の常務委員の視察分担をきめ、それぞれ作業現場へゆく。私は途中、住宅に寄って家庭に残る老人のこと、燃料、健康、家庭建設などの問題で一、二軒ずつ歩く。現場では一、二時間みなといっしょに働き、夕方再び常務委員が集まってその日の作業について意見を交換、だれだれは疲れているとか、どの班ではどういう問題を解決せねばならぬかを討議する。しそて作業計画を作り六時半ころ家に帰る。作業計画は常に三本立てで作ってある。つまり、一日、五日、一ヶ月の三種類である。」
問「協同組合の運営が軌道にのるまでには、いろいろ問題があったと思うが?」
姜委員長「五四年の組織当時、一日八時間労働ではとても間に合わなかった。国家の供給で五六年度からトラック、トラクターが入った。このころから組合員で借金をもつ者は一人もいなくなり、食糧も豊富になった。個人農の人もつぎつぎと組合に入ってきた。いまでは組合自体で農機具を生産するまでになった。」
問「三十七人の地主の消息は?」
姜委員長「知らない。他の地方に移り、それぞれ働いて行きている筈です。これはもと地主だった者はその土地に住んではならないことになったからで、希望に従い,行く先をきめ住宅も割当ててもらって分散しました。解放後は地主と小作人を分離する方が社会の進歩に役立つからです。この部落にも他の土地で地主だった人が移ってきましたが、また他所に行き、いまではおりません」
問「婦人の一日の生活は?」
朴竜女さん「男は一ヶ月二休日は五日ですが主婦は七日あります。そして作業所へ出るのも男より三十分遅れだし、夕方の終業は一時間早くていい。乳幼児のある母親はこのほか午前と午後に三十分ずつの授乳時間が与えられます。昼食時間に託児所からこどもを連れて家に帰りいっしょに食事します。」
崔栄子さん「合唱のサークルに所属しており作業の休み時間に練習します。映画や行事のない夜は基本練習にあてます。
 民主成年同盟の会議ではマルクス・レーニン主義や党文献などの学習のほか、党と政府の方針にそっていかに活動すべきか、また組合員の前に横たわる問題はいかに解決するかを討議します。
 たとえば十二月に開いた会議では自給肥料生産の問題をとりあげました。
 これは塔中央委員会で討議された三つの問題のうち、人民経済計画に関連するものであります。
 自給肥料というのは泥炭のことです。そして一人毎月三トン当りの泥炭採取を決議し実行しました。もちろん時間外労働です農村機械化が進んだので労働が楽です、むかしの三分の一も疲れない。
 泥炭は近くの低い山の間などにあり、三十センチも掘れば出てくるところもある。運ぶのはトラックだから三トンといっても問題は発見してトラックに積みこむだけです。これを田に埋めておけば自然に腐食していい肥料になるのです。水をよく吸うのでこの点でも助かります。十二月には六千五百トンを掘り出しました。肥料に使うことも出来ます。泥炭利用は解放後はじめたことです。
朴竜女さん「むかし朝鮮には”ニワトリのメスが鳴けば家が滅びる”というコトワザがあった。女を卑しくみて、いいたいこともいうなという意味です。女性にとって、当時では想像もできない生活条件がいま確立されました。
 私は若いころ、徐尚隣というところで農奴をしていた。、一生けんめい働いても、貰う食物はいつも冷たい残飯だけ。それを食べながらご主人の湯気の立つお膳がうらやましかった。そういう生活が今時分のものになったのです、倉庫には米がある。
いまお膳に向かうと一生の間働きつづけてきても暖かいご飯を食べられなかった母を思い出す。夕食後、家族といっしょに映画をみるとき、南朝鮮や日本へ行った親類のを思う。こういう幸福な生活は決して天から降ってきたものではない。自分たちの闘いとったものだ。国家の正しい農業政策の元で保障された生活だ。自分の幸福を思うたびに金日成首相を思い出す。」
崔応漢さん『日本のみなさんにとくに訴えたいのは,再び戦争をしてはならないということです。私は軍隊で前線にいたので生き残りましたが、帰ってみたら家は焼かれ家族五人は全部死んでだれもいませんでした。一番上の兄は占領期間中に米軍に虐殺され、妻は強姦され妊娠しました。米兵に連れられて行く途中、信川付近で爆撃で死んだそうです。両親も弟も爆撃でやられました。私は身も狂わんばかりでしたが、村の人たちから家もフトンももらい、その後再婚して女の子が一人います。歴史をふりかえってみても、私たちがアメリカ人に対してホッペタ一つなぐったことがあったでしょうか。それなのにこんな悲惨な目にあわされました、人類の間で再びこんな悲劇をくり返してはいけません。」
 村の人たちの話は尽きなかった。朝鮮人の対米憎悪がどんなに強いかを示す言葉は強烈だった、。戦争中、われわれが吹きこまれた”鬼畜米英”のスローガンを思い出させるに十分だった。
 朝鮮人の戦争体験は朝鮮人自身のものとして、われわれが口をさしはさむ余地は全くなかろう、しかしそれほどまでに激しい憎悪感を一つの民族に対して別の民族が抱いているということ、これを眼の前で見聞きするとき、どうにもやり場のない憂うつ感が沸き起こってきて仕方がなかった。
 この夜、われわれには平壌でもう一つの仕事が残っていた。メモを閉じて暇をおこうとするとさえぎられた。「食事の準備ができました。正月に訪れた客をそのまま返すわけにいきますか。食堂でサークルの演奏でも聞いてくつろいで下さい」と熱心に引きとめられる。
「それでは」ということになり、食事しながら二十人ばかりの青年男女の演奏や合唱を聞いた。一段落したところで、
「こんどは日本の歌を聞かせて下さい」
という注文、下手な歌にも拍手が沸いた。特産の人参酒はかなりまわっている。テーブルをめぐって踊りが始まる。姜委員長も金老人も崔さん、朴さんもみんな踊る。われわれも手をとって教えられ、踊りの輪に入れられた。思わぬところで思わぬ正月を過ごす羽目になったものだ。

板門店の農林
 農村をみた経験はもう一回ある。
 十二月三十日、板門店の軍事境界線(いわゆる三十八度線)を見学した帰り、平和里農業協同組合に立寄った。板門店のすぐ近く、耕地や住宅の一部は非武装地帯内にふくまれているとかで、もともと韓国側であったのが、停戦協定後は北朝鮮側になった村である。地理的には三十八度線より南にある。
 ます管理院長の説明をきいた。それによると、組合員は七百五十四世帯、三千六百人で水田五百町歩、畑二百五十町歩をもつ。作物は稲を中心とした穀物で、人参栽培を副業とする村である。
 最初に組合を組織したのは一九五四年で、それまで一町歩当りよくみて二トンだった収穫が四トンにあがった。しかし分配は,提供した労力のほか、出した土地の割合をふくめて行う”第二形態”をとった。五六年に全戸が参加した時には配分は”第三形態”すなわち労力のみに応じた分配に転換した。
 協同化完成後、生活水準は高まり、五十六年にまず電気が入った。同時に有線放送設備もできた。それまで防空壕暮らしだった農民も五七年には草ぶき屋根の臨時住宅ながら全部家をもつようになった、しかしこれも六十年八月十五日までに全部カワラ屋根の文化住宅に建てかえることになっている。
 最近ではミシンが二百五十台は入り、収穫は町歩当り五トンになった。五九年度、一戸当り平均三トンの穀物と現金三百円を分配した。付属商店をはじめ診療所、共同浴場、学校を建設した。村からソ連留学生も一人出した。
 停戦後に植えた人参が六十年から収穫期に入るので、こんどは一戸当り現金九百円(日本金一万三千五百円)穀物四トンを分配できるだろう。
 以上が管理委員長の話しだった。
 平和里農協には作業班が三十二班あり、一班平均五十人で構成する。農産二十五班と人参、養蚕、果物、牧場、機械、野菜、建設が各一班である。班の労力者は満十七才から六十才(女は五十五才)までで、老人は付帯能力として数える。
 作業計画とともに標準作業量が班構成についても総会で決定し、不公平のないようにする。洪純芬 さんは二十七才の女性。二年前から養蚕作業班長をやっている。
「農産二十五班のうち七班までが女の班長です。みんな会議でもよく意見を延べるし女性の地位が高まりました。共和国になってとくに感ずるのは、人間に対し差別をつけないという点です。
 浴場ができ、最少限度週一回はだれでも入浴するようになりました。洗濯や裁縫も協同でする準備をしているし、映画もみます。サークルの文化活動が盛んで生活水準は眼にみえて工場してきました。自分の仕事にみな誇りをもっています。」
 と語った。
 平和里は北朝鮮のなかではどちらかというと立ち遅れた農村だという。なるほど戦後の臨時住宅だといういまの農民の家は泥造りに草屋根だ。それに屋根そのものが低い、というより家全体が小さく貧相だ。
 しかしそこに働く人々、少なくとも新しい平和里農村の指導的立場にある男女はいずれもさかんな意気に燃えていた。それも中味もなしにただ大言壮語するという精神主義者たち、ハッタリ屋たちではなかった。しっかりと数字をつかみ、目標をたて、着実に計画を実行してゆくタイプだと見受けられた。彼らの進む道程には、あるいはつまづきもあろう、計画の誤りを露呈することがないでもなかろう。しかし国全体が完全な社会主義、共産主義化を目指して居地目線にかけてゆく、この大きな流れのなかでは、つまづきも誤りも大した問題ではなさそうだ。少なくとも北朝鮮という国がいわば上り坂にあるといえるここ当分の間は、そう断言できよう。農村を通じてみても北朝鮮は激しい若さを関させる新興国であった。








(注) 共同経営の第一形態は、作業だけを協同でおこなう固定的労力相互扶助班であり、第二形態は、土地を統合し、共同経営を運営するが、労働と土地によって配分を行う半社会主義形態であり、第三形態は、土地とその他の基本的生産手段を統合し労働によってのみ分配を行う完全な社会主義形態である。
     





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はだかの朝鮮人ーあとがきにかえてー 読売新聞社:嶋元謙郎

 われわれ紅潮記者団一行七人が、平壌飛行場に降りたったのは十二月十八日。同じ卑怯状から飛びたったのが一月五日だから、朝鮮には正味十九日間滞在していたわけである。
 わずか十九日間で朝鮮の全貌が分かるはずはなし、語る資格もない。しかしわれわれは朝鮮滞在中にこの目で見、この耳で聞き、このハダで感じた記録を、率直にありのままにこの冊子のなかで書きしるそうとこころみた。それが戦後はじめて正式に朝鮮を訪れた記者団として当然の義務であると思ったからである。
 わずかな滞在期間ではあったが、われわれはなるべく広く深く朝鮮を知ろうと、文字通り夜を日についで、視察し、取材を行った。元日の日まで、通訳や案内役のシリをたたいて取材したほどのどん欲さで、われわれ一行のある記者などは二年分の仕事をやったと悲鳴をあげたほど。それでも、帰ってみると、視察しそびれたり、聞きのがしてきたことがたくさんあった。だからこの記録も決して完全無欠なものではない。しかし、その不足を補うため、朝鮮で発行している文献を利用することはさしひかえた。というのは、それらの文献を信用するかしないかの問題ではなく、われわれが見、聞き、感じた以外のことであるからだ。
 その点、これはあくまでもわれわれのメモによる記録である。ハッタリや誇張ないのはいうまでもない。

ある韓国人記者
 なぜ、われわれが、このようにこだわるのかといえば、一部の心なき人たちから、洗脳されてきたのだろうとか、宣伝に迷わせたのだ、というような中傷がなされているからである。それに答えるために、次の話をしよう。
 われわれが香港から日航機で帰るとき、途中立ち寄った台北から、韓国の商人三人と新聞記者二人と隣り合わせて坐った。たまたまわれわれが朝鮮の「ピョンヤン(平壌)」という煙草を吸っていたことから、お互いにそれと分かって話しあったが、
「北朝鮮はどうなっていますか?」
と聞くから、
「お話しするよりも写真をごらんなさい」と、われわれの写してきた写真を披露した。商人たちは
「解放前の平壌は知っているが、これでは全く見当がつかない。同じ土地つづきのところに住んでいて、こんなに立派になっているとは知らなかった。すばらしい」
と感嘆していたが、韓国の記者諸君はウソだといって信用しようとしない。適当につくった写真だというのだ。こちらも同じ新聞記者だからインチキ写真呼ばわりされたのではハラの虫が承知しない。それではフィルムをお目にかけようというこよになった。ところが、その記者たちはあわてて断った。
「フィルムは見たくない。」というのである。
フィルムを見れば、その写真がつくったインチキのものであるか、あるいはありのままの姿をとらえたものであるかは一目でわかる。もちろんわれわれのフィルムは、修正や誇飾のないそのものズバリであるから現在の朝鮮の躍進ぶりが”真実である”と認めないわけにはいかなくなる。それがイヤなのだそうだ。真実を探り、報道するのが新聞記者の勉めであるからには、この記者たちは新聞記者としての使命を捨てたともいえよう。批判精神に富んだ新聞記者ですらこうなのである。われわれは彼等の頑固さを悲しむと同時に、真実から目をそむけようという人が、いかに多いかを知った。
 韓国系の人だけではない。日本人のなかにもいる。しかも、それがかつての朝鮮に住み、朝鮮で働いていた人に多いのである。その人たちのために、わたしは一言語らなければならない。

清潔、勤勉、親切な朝鮮人
「朝鮮民族というのは、こんなに立派な人種だったのか」
 朝鮮にいったわれわれ一行は、異口同音にこういって驚いたものである。それまで朝鮮人に対する蔑視感情があったわけではない。日本人より以上にすばらしいかもしれないという感嘆と垂えんの声だったのである。
 私にいわせれば、「現在朝鮮に住んでいる朝鮮人と、むかしの朝鮮人とは、全く人種がかわっている。」とさえいえる。
 実は私は三才のときから中学を卒業するまで、十五年間を朝鮮で育った。いまの私の年令からいえば、ちょうど人生の半分を朝鮮で送ってきたことになる。いうなわば朝鮮は私にとって第二の故郷だ。
 だから、私は朝鮮人については、こどものころからつき合って詳しく知っていたつもりである。その私が、目を見はったほどの変わりようなのだ。
 いまでも朝鮮人といえば、不潔で、怠け者で、手ぐせが悪く、乱暴で粗野だ.......などと、ハシにも棒にもかかわない遵守であると思って居る日本人がいる。ところが実際に朝鮮で会った人たちは、清潔で、勤勉で、親切で、おとなしい。いわばまるで正反対の人ばかりである。
 一例をあげれば、私が平壌について翌日、該当で煙草の吸殻を捨てたところ、たまたま通りかかった中年の婦人が「アイゴウ(ああ)!」といってその吸い殻を拾ってタモトに入れた。吸殻を拾って吸うほど煙草に困っているのではさらさらない、吸殻を歩道の両側のクズ入れに捨てるために拾ったのである。日本での週間とはいえ全く私は穴があれば入りたいほどの恥ずかしい思いをした。
 朝鮮では日本のように、くわえ煙草で歩いている人は一人もいない。煙草を衰退人は、両側の歩道に約数百メートルおきに置いてある高さ五十センチほどの白いセメントづくりの灰皿兼ゴミ箱のまわりで吸っている。また、むかしは街頭でよく手バナをかんだり、タンをはいたものであるが、ついぞお目にかからなかった。中国では街角に「放啖罰千金」とか「不放啖文明化」などというポスターが貼ってあって、タンをはくのをやめる運動を行っていたが、朝鮮ではそんなポスターは全然見かけない。それほど清潔になっているのである。たまにくわえ煙草で歩いていたり、放啖している人を見掛けるが、いかんながらこれは全部日本から帰国したばかりの朝鮮人である。日本にいる朝鮮人だけでなく,われわれ日本人も見習ってよい点だろう。
 朝鮮人は勤勉だ。工場や農村では、一日の労働が終わっても,なおクラブや民主宣伝室で、勉強したり、実習している人が多い。少しでも技術を向上させるためだそうだが、こんな熱心さもかつてはなかったことだ。朝鮮が朝鮮戦争の廃墟のなかから、わずか六年の間に不死鳥のように立ち上がった原因の一つは、こういった朝鮮人の勤勉さであろう。
 とにかく、朝鮮人はすべての点で変わっていた。その原因は何だろうか?
 日本人が知っている朝鮮人とは,日本の植民地下にあった時代の朝鮮人であり、日本という”異国”に住んでいた朝鮮人だ。差別と屈辱と搾取にあえいでいる姿である。つまり、ゆがめられていた朝鮮人観にすぎない。真の、ハダカの朝鮮人ではなかったわけだ。
 朝鮮に住む朝鮮人は、母なる祖国を持ち、民族としての誇りと自信にみちた朝鮮人である。これが本来の姿なのだ。われわれははじめて朝鮮人の本当の姿、ハダカの朝鮮人を知ったといえよう。人種が変わったと思うのも当然だ。愛する祖国を持ったということが、こんなにも人間の性格をかえるものが、私はつくづくと感じいったことだった。
 「まず、朝鮮人観を改めなさい。さもないと朝鮮に対する評価を誤るから。」私は声を大にしてこう叫びたい。
 
すばらしい親日感情 
 われわれが朝鮮を訪問して一番嬉しかったことは、朝鮮全土にわたって対日感情がすばらしく好いことだった。それは「好い」というよりも、親日感でもちきりであり、友好親善の気運が爆発していたといえよう。
 金日成首相をはじめとする政府、労働者、言論界はもちろんのこと、どんな片田舎にいっても、じいさん、ばあさんまでが日本人だとわかるとよってきて握手を求めた。
「在日朝鮮人軒国が実現したのは、日本の国民が人道的な立場に立って協力に帰国問題について協力してくれたからだ。こんな立派な日本人と、ぜひ親善を深めたい」
というのである。
 実はわれわれは、かって日本人が朝鮮を植民地として搾取してきたという引け目を負っている。どんなにひどいことをしてきたか、無茶なことをやってきたか、についても知っている。いわば”低姿勢”で訪問したのであるが、われわれの杞憂はすぐに吹き飛んでしまった。日本人の傷跡には触れない。暗い過去をむしかえして日本人をせめようとしない。過去は過去、今後は今後、とはっきり区別しているのである。かえってわれわれの方が、過去の日本のやり方を反省せざるを得ないような有様だった。
 この事実は、朝鮮人たちがいかに熱烈に同胞の帰国を待ちわびて板かということを物語るもので、帰国朝鮮人が増えれば増えるほど、親日感情が加速度的に高まっていくことが想像される。
 また帰国した朝鮮人で、日本のことを悪くいう人は一人もいなかった。われわれは赤十字のマークの入った新聞記者章をつけていたが、街を歩いていると帰国朝鮮人が向こうから飛んできて、嬉しそうに話しかける。ホテルにもよく訪ねてきたりした。その人たちは、差別と貧困の生活にあえいでいた日本時代の苦しさは、ほとんど忘れてしまって、帰国に際しての日本人の歓送や賜物などのあたたかい思い出しか残していない。楽しい「思い出を語って」いるのである。近所の人に話のも、この思い出だ。だから、この人たちによっても、一層の親善のタネはまかれようというわけだ。
 こんな親日感情に富んでいる国を隣国としてもっている日本人は幸福である。互いに往来して仲良くしたい、という気持ちになるのは当たり前だ、。とこRが、現在の日本政府は、「仲良くしよう」とさしのべている朝鮮の手を、邪険にふりはらっている状態だ。
 日本政府の対朝鮮関係は、対中国関係よりも一段ときびしい。
 たとえば、われわれが、在日朝鮮人の帰国受入れ状況を報道するために、朝鮮対外文化連絡協会の招きで朝鮮に出かけるということが、はっきりわかっていながら、政府はパスポートの行き先に「朝鮮民主主義人民共和国」と明示するのを拒んで、通過国にすぎない「中華人民共和国」と記入したくらいだ。当時国会でパスポートに「ヴェトナム人民共和国」と記入したことが、北ベトナムを商人している証拠ではないかと問題になっていたためでもあるが、われわれは行先が迷うかわせめて「朝鮮(北半分)」ろか「北朝鮮」と書いてくれと要求しても、「朝鮮」という字を書くことだけはかんべんしてくれという始末。それほど政府は「朝鮮」に触れることを恐れているのである。まるでライ病患者のような扱いだ。
 
日朝の文化交流
 日本政府はこれまで北朝鮮からの朝鮮人の入国を、ただの一度も許可したことがない。
 ”半島の舞姫”として日本人にもたくさんのファンをもつ崔承喜さんを、日本に招こうという運動は数年前からおきている。崔承喜さんも初舞台を飾った日本での公演を、一生の楽しみにしており、これまでに日本の招聘団と前後三回にわたって契約書を交わしたが、いぅれも日本政府の入局拒否でフイ。同じく国交を回復していない中国からは、京劇などの文化人が来日したことを考えると、一段と朝鮮は差別待遇されているといってよい。
 そればかりではない、朝鮮が熱心に要望していた東京オリンピック大会にも参加を認められず、また東京で開かれたオリンピックサッカー審判の講習会にも、代表が香港まできておりながら日本のビザが下りずにむなしく帰ったという事実もある。「重要なことは参加することである」というオリンピック精神や、スポーツに国境はないというスポーツマンシップの鉄則も日本政府にはいれられなかった。
 さらにこんどの帰国船による日朝新聞記者団の相互交換も、政府が朝鮮記者団の日本での取材の自由を認めないために、いまだに実現されない状態だ。
 人間の交流だけでなく、文化品の持ち込みや貿易までもしぶっている。昨年十一月の読売新聞社の後援で東京で開かれた「今日の朝鮮店」の出品物は、十ヶ月間東京の倉庫に眠ったのちにやっと許可されたものだし、貿易にしても直接日本に輸入することはできない仕組みになっている。
 朝鮮との貿易は三十年十月の次官会議で「不許可の方針」が立てられ、現在でも効力を発揮している。ところが朝鮮の地下資源、とくに茂山の鉄鉱石は純度の高いことで日本の鉄鋼界にとってすいえんの的だ。これを輸入するためには一たん香港まで運び、香港の商社から買付たという口実で日本にもってきている。三角ルートを経てくるから、当然値段も高いが、業界では争って飼っている現状だ。結局三十四年十二月十七日に通産省は、輸出する場合は朝鮮に直接送ってもよいとタガをゆるめたが、それもほんの一部品目だけ。重機械類や金額のはる品物の輸出は、禁止されているか、あるいはいぜんとして香港経由である。
 朝鮮にとっても日本から買いたいものはたくさんある。昨年六百億円に上る火力発電装置を日本に引き合いにだしたほか、毎年タイヤ、機械、自動車、織物、雑貨などを欲しがっている。しかし、これも日本政府の不許可のためご破算になり、ここ一年の間に、イギリスや西ドイツと高額な取引をしている有様だ。朝鮮という目の前の大きな至上を荒らされるのだから日本の業者にとっては、”頭痛のタネ”。国際市場の「朝鮮行き」のバスに乗りおくれるなとあせっている。
 もうお分かりのように現在の日朝関係は、朝鮮が積極的に文化、スポーツ胃、経済の交流を望んでいるのを、日本側が拒絶しているといった状態である。もちろん日本としては朝鮮半島が朝鮮民族による単一国家として統一され、その国と国交を結ぶことが最も望ましいに違いないが、現状は雪どけにあるいまの世界情勢をもってしても、三十八度線で南北に二分されている韓国と朝鮮との早急な平和統一はむずかしい。しかしそれだからといって、統一されるまで今日の状態を続けるというのは能のない話ではないだろうか。
 日本政府の不許可の理由の一つは、韓国関係をおもんばかってのことである。釜山に緑流されている日本人漁船員を一日も早く日本に迎えるために、日韓会談をなんとかまとめようというハラもあるだろう。、もちろんわれわれも,日本人漁船員が早く釈放されて故国に帰ってくることを望んでいる。




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