呉吉男著書 金民柱訳「恨・金日成―金日成よ、私の妻と子を返さぬまま、なぜ死んだ! 」ザ・マサダ(現在絶版)より 

└ 2017-04-05 09:25

第4章 仕掛けられた北朝鮮の罠

妻の病

勤務先の病院でB型肝炎に感染した淑子の体調は日増しに悪くなり、私は医者から妻を療養させるよう勧められた。しかし、それをそのまま伝えても妻は療養になど行かないと言うに決まっている。そこで私は口実を設けた。
「僕も疲れた。少し休みたいんだ。何も考えないで田舎にでもちょっと行ってこようよ」
「・・・・・・」
妻は何も言わなかったが、すでに私の心の内を読んでいるようだ。彼女の無言は嫌だということではない。ほんとうの夫婦は互いに目が合っただけで、相手の思っていることが分かるものである。私は妻が行きたいと思ってはいるものの、出費がかさむことに悩んでいるのが手に取るように分かった。
「金をたくさんかけなくとも、家族旅行はできるさ。さあ、あまり考えずに出かけよう」
淑子が体調を崩したのは肝炎に加え、交通事故のショックも大きかったようだ。彼女は最近運転中タクシーと衝突事故を起こしていた。
この事故のショックから立ち直っていないのに、淑子はお金を節約するため自分で運転すると言い張った。これでは元も子もないと思ったが、結局ウンと言わざるを得なかった。私は恥ずかしながら運転免許を持っていないのである。クルマ社会のドイツでは家族旅行の場合、家族の誰かがハンドルを握らなくてはならないが、私にはそれができないのだ。
アウトバーンを快調に飛ばして車は一路、西ドイツの最北端にあるフレンスブルクへ向かった。そこで海に面したコテージに二週間滞在することになっている。久しぶりの、と言いたいところだが、じつはこれは初めての家族旅行だった。そのため、ハンドルを握る淑子の表情はいつになく明るく、娘たちと他愛のないことを言っては、はしゃいでいた。
一時間ほどでフレンスブルクに到着した。予約してあったコテージは絵に描いたような、シックな木造の二階家で、窓辺に立つと眼前にはバルト海が一面に広がっていた。この景色を見て、私は何とかやり繰りをして妻を連れて来てよかったと思った。それほどまでに妻の体調は悪化していたのである。
B型肝炎は怖い病気である。淑子はキールの大学病院で患者たちの血液を浄化する仕事をしている際、それに感染したのだった。幸い、黄疸に苦しめられながらも何とか治癒したが、その後も後遺症に苦しまなければならなかった。
「関節が痛むわ!腰も痛い!」
と苦痛を訴える妻の声を聞くことは、私にとって拷問のようであった。永い間、淑子は書生暮らしの夫を支えるため、骨身を削って生活を支えてきた。私には、その無理がたまりにたまって一挙に噴き出しているように思えた。夫は博士になれたが、その博士をつくるために献身的に尽くした妻の健康が病魔に侵されていくのを見ることは、耐えがたいことだった。もうこれ以上苦労をかけられないと私は自分に言い聞かせた。

帰国に揺れる心

夕方、家族と海辺を散歩しながら、私は心のなかに固くしまっていた考えを妻に話した。
「もう韓国へ帰ろうと思うんだ。博士になったからどこかの大学に就職できるだろう。そうすればおまえにもう苦労をかけなくて済むしなぁ・・・・・・」
妻は無言であった。夕焼けが西の空に長い帯をつくり、水面を赤く染めていた。それに目をやりながら、妻が言った。
「でも、まだ少し早い気がするの。まずキールの世界経済研究所かキール大学の理論経済研究所に就職して学問的な蓄積をするほうがいいんじゃない。それに、今韓国では絞めつけが厳しいでしょう。あなたのそんな荒っぽい性格では、帰ってからのことが心配だわ。今はどうにか食べていけるし。もう少し様子をみてから決めたらどうかしら」
淑子の助言はいつも、私に力を与えてくれる。今度もそれに従うのが良いように思えた。
しかし、気持ちの整理はなかなかつかなかった。いったんは、まだここにいようと思うのだが、時間が経つと、また韓国へ帰りたいという気持ちが起こるのだ。私が韓国に帰りたいと思うようになったのは、単なるホームシックだけではない。己が得た知識を故国で役立てたいという強い欲求があったためだ。政治的後進国である韓国に帰ってこそ、自分の存在が認められるような気がしてならなかった。
私は故国にいる知人たちに、帰国したいという手紙を出し始めていた。妻もそれまでやめさせることはできなかった。
いつしか四三歳になっていた。博士になったとはいえ、当時、私はなかなかドイツでの就職口を見つけることができず、一カ月に二、三回セミナーに参加のためブレーメンへ出かける以外には、することがなかった。仕方なく家のなかに閉じこもって、読書に大部分の時間を費やすしかなかった。
釜山の兄から、帰国して一緒に住もうという切々たる手紙が届いたことも、望郷の念を刺激した。自分を犠牲にして私に高等教育を受けさせてくれた兄からの手紙に目を通しながら、私は溢れる涙をとめることができなかった。永いドイツ暮らしで兄の存在はすっかり遠いものになっていたが、久しぶりにその字を見ると、自分の帰るところは故国しかないという気持ちになった。
しかし私はそれでもふんぎりがつかずにいた。
帰りたいと思う一方で、故国・韓国には私に帰国を思い止まらせる要素がいくつかあった。
真っ先に挙げなくてはならないのは故国での就職問題だ。いろんな方面に打診したのだが、何の音沙汰もなかった。しかし、これについては楽観的だった。私の得た学位だと、高望みさえしなければ就職すること自体は難しくないように思えたからだ。
それよりも帰国を思い止まらせている最大の要因は、学生デモを規制する軍特殊部隊の過剰警備で多数の死傷者を出した一九八〇年の『光州事件』に象徴される軍事独裁政権の存在であった。故国では朴正煕暗殺事件後、全斗煥による独裁政権が誕生していた。
私はドイツのテレビに『光州事件』の残酷なシーンが映し出された時のことを忘れることができない。それを見て四歳にもならない恵媛が、「怖い」と叫びながら隣の部屋に逃げていってしまったのだ。
朴正煕は六一年にクーデターを起こし政権の座に就いたが、良民の血は流さなかった。しかし全斗煥のもとで光州ではおびただしい血が流されてしまったのである。民主統一という旗印のもとにに〝反維新運動〟をしてきた私が、このような政権に首が垂れて帰国するのかと思うと、情けなく思えてしかたなかった。むしろ光州事件を見ていて、私は政治亡命したことが正しかったという気になった。
それでも時がたつにつれ、帰国したいという思いは募っていった。それは韓国の独裁政権は政治的には冷酷な反面、科学や学問の研究に対しては熱心だったからだ。
それゆえに、私には帰国しても活躍の場があるように思えた。

政治活動仲間・宋斗律

しかしいざとなると帰国を決意できないでいるのはくだらない自尊心のためであった。今にして考えるとなぜその時、あんなに体面にこだわったのか、自分で自分が分からなくなる。私の自尊心など、大したものではなかった。ただ、周りの人々の眼を意識しすぎていただけのことだ。
この頃、昔一緒に闘った仲間は祖国に念書を提出して帰国していった。しかし私はそうしなかった。
俺は博士になったのだから、そっちから迎えに来いという気持ちだったのだ。これではどこからも声がかかるわけがない。それでも私は家で読書三昧の生活を続け、自分からは動こうとしなかった。じつのところ、私は誰に会って推薦をもらうとか、どこに行って自分の就職先を相談すればいいのか全く分からなかった。また、分かろうともしなかった。
そんなある日、『民建会』の会長をしていた宗斗律から電話がかかってきた。八五年八月の二週目のことだったと思う。彼は妻とふたりの息子を連れて近くにバカンスに来たので、すぐにでも会いたいと言った。
私は妻に運転してもらって、彼のいる保養地へ向かった。
宋斗律も車の運転ができなかった。生活能力に欠けているところは私と似ている。ただ私と運うのは、屈折のない人生を送ってきたので、性格が常に落ち着いていて鶴のように毅然としているところだ。しかし、よくよく観察してみると、この落ち着きはらった端正さにはどこか冷酷さがあった。彼の文章には鋭い刃物で何かをすぱっと切ったようなところがあった。
宋斗律が方々へよく保養に出かけることは西ドイツの韓国人社会ではよく知られていた。私たちは、久しぶりに夫婦同士で会い、楽しい時間を過ごした。彼は私よりふたつ年下であったが奥さんのほうは夫より二歳上で私とは同い年になる。久々に会って私たちはよく飲んだ。宋斗律と私の酒の量は似たようなものだった。しかし、決定的な違いは、私は酒が入ると饒舌になり、よく失言するのに対し、彼はどんなに飲んでもペースが乱れず、決して口を滑らせたりしなかった。
夜遅くまで私たちは酒を酌み交わし、私の帰国問題について重苦しい話をした。
私の心は右に左に大きく揺れた。彼がこう言えば、こうするほうがいいと思ったし、ああ言われればまた、それがいいように思えた。しかし彼は、結局こうすべきだというはっきりした助言はしなかった。
その夜、私たち夫婦はそこに泊まった。
翌日、今度は私たちが宋夫妻をこっちのコテージに招待した。妻と宋斗律の奥さんとは年も同じで、気の合う間柄だった。私たちは時間のたつのを忘れて酒を酌み交わしながら全斗煥の独裁を批判しあった。
翌日、宋斗律はほかの所へ寄ると言い残して我が家を去った。

ベルリンの金鍾漢

八月一五日、私の博士論文が出版された。もちろん自費出版である。私が学位をうけたブレーメン大学では論文を本にして出版し、大学に提出するきまりになっていた。出版に必要な費用は一五〇〇マルク。私はそれを『民建会』時代の友人、金鍾漢に借りて何とか本にすることができたのだった。しかし、ドイツ語の本ができたところで、就職には関係がない。そろそろ、焦ってきていた私は啓明大学の教務課長をしている白承均教授と韓神大の姜敦求教授、そして仁荷大学の李泳嬉教授に職を斡旋してほしいというお願いの手紙を出した。それでも心細かったので、友人の藩星完と釜山の兄にも同じ依頼をした。
間もなくして、彼らから連絡が届いた。
白承均教授からは慶北大学に就職を斡旋しておいたとの連絡が入り、また、兄は釜山女子大学にポストを準備したから早く帰国するようにと書いて寄こした。
教日後、大邱の白承均教授から電報が届いた。
「取り合えず電話をください」
とあり、彼の家の電話番号が記してあった。早速電話をかけた。
「呉さんの職場が慶北大学に決まりそうです。早く学位の写しを一通送ってください」
「送りますとも、すぐに。ありがとうございます。白先生」
私は心から彼に感謝した。妻とふたりの娘は、私の就職先が決まったと踊り上がらんばかりに喜んでくれた。しかし結局私は、彼に学位の写しを送らず終いになってしまった。時を同じくして、ある重大な出来事が私を待ち構えていたのだ。
八月末、私は西ベルリンヘ行った。目的は金鍾漢に会って学位論文を出版する際に借りた一五〇〇マルクを返すためと、旧友たちに会って帰国問題を相談するためだった。
私がキールにいた七年間に、家まで訪ねてくれた友人は宋斗律と金鍾漢だけであった。金鍾漢は慶尚南道・金海の出身で成均館大学を卒業してドイツに来ていた。
私と彼との出会いは七四年頃、反維新デモの時だった。会って間もなく私たちは親しくなり、その後、ずっと親しい関係が続いていた。
彼は西ベルリンで八百屋を経営していた。そのため彼の家を訪ねていくと、よく売れ残った野菜を持たせてくれた。また、我が家を訪ねてくる時にも、たくさんの新鮮な青物を持ってきてくれた。人はどう思うか知れないが、これは我が家には大きな助けとなったことは言うまでもない。
皮膚の色の違う異国の地で、そんな韓国人でないと持ち得ないような人情に私は感動し、金鍾漢という男をとことん信じるようになっていた。
借りた一五〇〇マルクを持って店に訪ねてゆくと、金鍾漢は私を連れ出し、贅沢な料理をたらふくご馳走してくれた。久しぶりにいいものを腹一杯食べることができた。
食事が終わると金鍾漢は自分の家に寄ってくれと誘った。そう言われなくとも私は最初からそのつもりでいた。

北の工作員との密会

「行きましょう」
暗闇が西ベルリンの市街地をゆっくりと覆い始めていた。
鬱蒼とした林のなかを走り抜けている時、唐突に金鍾漢が言った。
「ここで少し休憩してから行こう」
そう言って彼はベンツを止めた。さっさと車から降りると、金鍾漢は私にも降りるよう合図をした。何が何だか分からなかったが彼に従った。私が車を降りてドアを閉めると彼は私の耳元に顔を寄せ、押し殺した声で言った。
「呉先生、北から来た人と一度会ってみないか。何かの道が開けるかも知れないから」
「北から来た人だって?」
「驚くことないよ。北朝鮮のことだよ」
「北朝鮮から来た人に会えと言うのか・・・・・・」
「そうだよ。ともかく一回、会ってみろよ」
私は一瞬躊躇してから、小さく頷いた。
前にも話したように、私は彼を徹頭徹尾信じていた。すると彼は五〇マルク札を私の手のなかに押し込んできた。
「それじゃ、すぐその人がここに来るから、会ってから後でタクシーに乗って家のほうに来いよ。こっちは先に行ってるよ。俺がいるとなると大事な話もできないだろうし」
私は林のなかにひとり取り残された。べルリンの地理に慣れていない私は、今もそこがどの辺りなのか正確には覚えていない。ただ金鍾漢の家に行く途中にあった公園としか・・・・・・。
私は彼が行ってしまうと、胸が高鳴り、体が自然に震えてきた。たとえ外国に出て生活しているとはいえ、祖国の法律では北朝鮮の人間と会うことは許されないことだ。会うだけで罪になる。
その時、私の眼には幼い頃の記憶が浮かんできた。警察に引っ張っていかれて、血まみれになって帰ってきた母・・・・・・慶州の叔父の死・・・・・・。
心のなかで不安と好奇心が交錯していた。周囲を見回してみたが、人影はない。
しかし、誰かに見張られているような気がして落ち着かなかった。
まもなく遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。べンツだった。車は私の少し手前で止まり、ふたりの男が降り立った。どちらとも同じような色のサングラスをかけ、黒い洋服を着ている。彼らは真っ直ぐこちらへやって来ると、私を挟むようにしてベンチに座った。
「私は白書記官で、こちらは金参事官とだけ知っておいてください。呉先生のお話はよく聞いてております」
「呉吉男と申します」
「共和国へ来て働く気持ちはございませんか。我が共和国は呉博士のような方のために、常に門を広く開けております」
私は答えることができなかった。タバコを取り出して口にくわえたが、火をつける私の手は微かに震えていた。沈黙を嫌うかのように白書記官がまた尋ねてきた。
「財産がありますか。もし、財産があれば私どもが持ち出して上げてもよろしいです」
「財産はありません。私の財産は本だけです」
「それなら、その本を持ってくればいいでしょう。そして、その本でもっと多くのことを研究されて、共和国の経済発展に尽くしてください」
「・・・・・・。考えておきます」
「共和国は、科学研究をなさる方々を厚遇していますから、どうかよく考えてみてください」
暗い林のなかの公園には、私たちだけしかいなかった。私たち三人を見守っているのは、空に点々と輝く星と三日月、それに明かりを灯し続ける街路燈だけであった。
「われわれは帰ります。呉先生の正しい選択を期待しています」
白書記官が手を差し出した。彼の手を握った私の手には汗が滲んでいた。金参事官とも握手をした。エンジンのかかる音がして、車のライトが公園の暗闇を照らしだしたかと思うと、車は瞬く間に走り去った。

尹伊桑からの手紙

彼らが行ってからしばらくして、私は通りかかったタクシーを止め、逃げ込むように乗り込んだ。
金鍾漢の家に着くと、夫妻は私を温かく迎えてくれた。テーブルには食事がたくさん用意されていた。
「まず、一杯やろう」
私は金鍾漢が注いでくれた強いウイスキーを、水を飲むように流し込んだ。ボトルを半分ぐらい空けると、やっと緊張がほぐれてきた。これで、体は少し落ち着いた。しかし頭は冴えたままで、全く酔っていなかった。
食事のあとも、金鍾漢は公園でのことは聞いてこなかった。私をリラックスさせようと苦心している様子がうかがえる。私は早く横になりたかった。
金鍾漢の家に二泊したあとキールの我が家に着くと家族は私を笑顔で迎えてくれた。子供たちは三日ぶりに父の顔を見るのでまとわりついて離れない。しかし、こうした家庭のぬくもりも、私の気分を和ませてはくれなかった。
〝もうこうなったら韓国には戻れないだろう。南の安企部(韓国国家安全企画部)は私が北朝鮮の人間に接触したことを見逃すはずはない〟
1度そう思い始めると、帰国しようとしていた私の固い意志はぐらつき始めた。淑子が南に帰国することにそれほど積極的でなかったので、私はよけい帰国を断念する方向に傾いていった。
しかし帰国を完全に断念する気にもなれず、悩んでいる間に一〇日が過ぎた。
その日、私のもとに思わぬ人物から手紙が舞い込んできた。尹伊桑からである。
「あの尹伊桑氏が私に手紙を!」
私は超大物からの手紙に驚き半分、不安半分で開封した。なぜなら、尹伊桑は世界的な作曲家で、各国の人名事典に名が出るほどの著名人である一方で、北朝鮮に通じているということは、ドイツの韓国人社会では知らぬ者がなかった。
「・・・・・・苦労の末に学位を取得されたことをお慶び申し上げます・・・・・・これからは民族統一運動に、より積極的に立ち上がるときだと考えます。だから北朝鮮に行って、ここで学んだ知識を同胞のために役立てるべきです・・・・・・」
尹伊桑は手紙のなかで、北朝鮮に対する賛辞を並べ立てていた。手紙は短いものであったが、超大物が入北を積極的に勧めるに及んで、私はすぐにでも態度を決めなければならないところに立たされていることを知った。選択肢はふたつしかない。北へ行くか、でなければ睨まれるのを覚悟してでも帰国するか・・・・・・。
そして悩み抜いた末、私は北朝鮮こそユートピアだという結論に達した。
また、北も同じ民族であるから、全く異なる世界に行くのではないという気持ちもあった。
私がこのように北に対して憧れに近い考えを持つようになったのは、ブライデンシュタイン牧師の影響が大きい。私は、彼が北朝鮮を訪れて書いたいくつかの学術論文に大きく影響されていた。
また金鍾漢の言葉にも甘い響きがあった。
「・・・・・・北朝鮮では呉先生を経済学者として重用しようと、持っているんだよ」
窮乏している私にとって、その言葉は光明のように思えた。
しかし何といっても私の心を動かしたのは、尹伊桑の説得だった。
彼は再度、私に北へ行くことを勧めた。
「北朝鮮へ行きなさい。そこに行けば、呉博士は大事にされながら研究に励むことができる」

妻の涙の訴え

機会を見て、私は妻に自分の心中を打ち明けた。
「なあ淑子、俺は今、北朝鮮に行こうと思っているんだ。ここにいても仕方ないからな」
驚きのあまり妻の目が兎の目のように大きくなった。
「えっ、あなた。何を言うの!」
「なぜ驚くんだ。あそこも人が住むところだよ。同じ民族が往むところでもあるし」
「私は嫌ですよ。そんなに行きたければ、あなたひとりで行けばいいわ」
「行ってくるんじゃなく、住もうと言ってるんだ」
「あなた気でも狂ったの! あそこがどういう国だと思ってるの! テレビで見たら、あそこは全体主義で自由のかけらもない社会よ。そんなところで、どうやって暮らすのよ! 貧しいのは耐えられるけど、画一化した社会には住めないわ。子供のことも考えてよ」
「女のくせに、何も分かりもしないで頭ごなしにできないとは何事だい。それに尹伊桑先生のような方が、俺に嘘つくわけないだろう」
それを聞いて妻は泣きだした。私は泣く妻を叱ったり、宥めたりしながら説得に努めた。しかし、まるでそれが聞こえないかのように、淑子は肩を震わせて泣き続けた。予想されたこととはいえ、私は妻の強硬な反対に、どうやって説得しようか考えあぐね、泣きやむのを待った。しばらくして妻が泣き疲れて、顔を上げた。
「あなた、もう引くに引けなくなったんでしょう」
私は言葉もなく頷いた。淑子は私の心を読んでいたのだ。
「結局、私の知らないところで話が進んでいたのね。じゃ、こうしましょう。まずあなたが先に行きなさいよ。そして本当にそこであなたの学問を活かせるか、様子を見てきてよ。それから家族が行っても遅くはないでしょう」
淑子の言うことは理にかなっている。しかし、私は彼女も北朝鮮へ行けば救われるということを知ってほしかった。
「俺はもう四三だよ。いつまでも万年学生ではいられないよ。今、おまえは俺と床をともにすることさえできないほど体が悪くなっている。俺はいい地位についておまえを助けたいんだ。それに社会主義は俺が理想的とするイデオロギーだ。なあ、もう一度考え直してくれないか」
しかし、淑子は無言でうつむいたままだ。
私は引き続き妻を宥め、説得した。結局、妻は私の説得に押し切られた。
それでもなお、妻は納得していなかった。
「あなたがこの決断をしたことで、私たちはあとでひどい苦しみを味わうような気がするわ」
妻はそう言って再び声を上げて泣いた。私もその言葉を聞いて不安に思わぬではなかったが、家族の幸せを考えれば、北朝鮮に行くのが一番なのだと自分に言いきかせた。
妻の涙は止むどころか、嗚咽に変わっていた。それを前にして私は酒で気分を紛らすしかなかった。その夜、私は家中にある酒をあけてしまってから、やっと眠りにつくことができた。

運命の賽は投げられた

一〇月中旬、金鍾漢から電話がかかってきた。
「呉先生、私が往復の交通費を負担するから、ベルリンにちょっと来てくれないか」
「いいですとも」
この頃には北行きを決めていたので、私は金鍾漢からの電話が嬉しかった。
ベルリンヘ行って、彼を訪ねた。
「待っていたよ。まず一緒に行くところがあるんだ」
と言って彼は私を自分の車に乗せて走り出した。
車がどこへ向かっているのか皆目、見当がつかなかった。
「どこへ行くんですか」
「行けば分かるよ」
車が停まった。
「ここで待っていれば、迎えが来るから」
「迎えが・・・・・・?」
「呉先生も会ったことのある人だから、大丈夫だよ」
そう言い残して金鍾漢は車を急発進させ、姿を消した。
その二、三分後、どこに潜んでいたのか、白書記官が私のほうに近寄ってきた。
「あぁ・・・・・・!。」
「久しぶりですね。呉先生」
「・・・・・・」
「さあ、こっちの車に乗りなさい」
白書記官はそう言って車のなかから手招きしたので、私は吸い寄せられるように車に乗り込んだ。
十数分走ったあと、車はある中華料理店の前で止まった。
「食事でもしながら話しましょう」
私は黙ったまま、彼についてなかに入った。
食事をしながら白書記官が質問した。
「家族はどうなってますか」
私が答えると、彼はさらにいろんな事柄について微に入り細に入り質問しては、私の答えを小さい手帳に書き取った。質問は韓国にいる家族や私の研究テーマなど多岐にわたった。
そして最後に白書記官は満面に笑みを浮かべながら私に尋ねた。
「いつ頃、共和国へ入るつもりですか」
「一二月の初めが良さそうです。準備があるので、その程度の時間はかかるでしょう」
「いいでしょう。それでは、その前に金参事官に会いなさい」
「分かりました」
とうとう運命の賽は投げられたのである。


第5章 裏切られた期待

北朝鮮入り

八五年一一月二九日、私たちは西ドイツ・キールの家をあとにした。そしてハンブルクから空路、西ベルリンに入った。
ここから東ベルリンに入り、モスクワ経由で平壌入りすることになっている。
西ベルリンで私たちは金参事官や白書記官と落ち合い、白治完指導員に引き合わされた。この党対外連絡部に所属する工作員は私たちを北朝鮮入りさせるため、わざわざ平壌からやってきたのだった。そこで家族全員、写真以外はすべてでたらめな偽造パスポートを渡されたあと、東ベルリンに入った。落ち着いた先は北朝鮮大使館だった。
ここで私たちは一二日間足止めを食ったあと、モスクワに向かい、そこでも三泊してから、朝鮮民航機で平壌入りした。一九八五年一二月一三日のことである。
平壌郊外の順安飛行場に到着したのは午前九時だった。
タラップを降りると、そこにはオンボロなバスが待ち構えていた。空港ターミナルまで乗客を運ぶ構内バスだ。この、バスというより、走るクズ鉄と言ったほうがいいような代物を見て、北朝鮮の経済が停滞していることを感じずにはいられなかった。しかし、がっかりしていたわけではない。私はむしろ、経済がうまくいっていないからこそ、この国は私を必要としているのだと思った。
空港には党対外連絡部のお歴々が待ち構えていた。一三課(ドイツ担当)の雀課長のほか、白副課長、金指導員らである。
歓迎の挨拶を受けたあと、私たちは彼らとともに空港の前に停めてあったベンツに乗せられ、平壌市内へ向かった。
しばらくすると、平壌の市街地に入った。車は中心部を通り抜け、どんどん走り続けた。
どうもおかしいと思った。車はすでに市街地を通り越して、平壌の中心部からどんどん遠ざかっている。やがて車は山道に入った。平壌市内に向かっているのではないことは確かだ。
私たちをどこへ連れていくのだろうと不安になった。しかしそんな素振りを見せるわけにはいかない。淑子を横目で見ると、顔がこわばっている。私と同じ思いのようだ。行き先を聞きたかったが、じっと我慢した。軽率な行動をすれば命取りになるかも知れないと思ったからだ。
前方に検問所が見えてきた。すでに何らかの連絡を受けているのか、警備兵たちは直立不動で私たちの乗った車に向かって敬礼した。
右手に凍りついた川が見えた。大きい川なので大同江ではないだろうか。山道をぐるぐる回り、とうとう車は松林のなかに人目につかないように建つ山荘の前で止まった。
車から降りると、老婆と二〇代はじめとおぼしき美しい娘さんが私たちを出迎えてくれた。ふたりは私たちをなかへ案内した。
同行してきた崔課長が私に言った。
「呉先生たちはこれからしばらくこの家で導らすことになります」
私はなぜこんなところに往まなければならないのか尋ねたかったが、ぐっと言葉を呑み込んだ。口は災いのもとである。少し様子を見る必要があると思った。
娘さんが入ってきて、私たちを食堂へ案内した。行ってみるとテーブルには大変なご馳走が並べられていた。
崔課長は私の横で説明を加えながら、自分の手で料理を皿に取ってくれた。
淑子は子供たちにドイツ語で食べ物をひとつひとつ説明しながら食べさせなければならなかった。両親はともに韓国人でありながら子供たちが母国語をできないということが妙に恥ずかしかった。
食事が終わると、崔課長は私たち夫婦の部屋と子供たちの部屋、そして浴室、書斎などを家内してくれた。よく分からないが、ここは特別な建物のようだ。課長はここを山荘ではなく招侍所と呼んでいた。
「それではお疲れでしょうから、ゆっくり休んでください。私はこれで失礼しなければなりませんので」
「次はいついらっしゃいますか」
「すぐ、また来ますよ」
そう言って課長は金指導員だけ残して随行してきた一行とともに引き上げていった。

山中の招待所暮らし

山荘がある渓谷は景色が良かった。繁みを散歩しながら小高いところに立つと、私たちがいるような建物がかなりあるようだった。しかし山荘ごとに検問所があって、近くまで行けないようになっているらしい。平壌から来るベンツをときどき見かけることもあった。
遠くまで広がる雪に覆われた田畑は、私が幼い時に見た故郷の風景そっくりだった。手のひらぐらいの小さな田んぼ、そして凍りついた川・・・・・・。
ときどき川の向こうに、汽車が通るのが見えた。
私たちの世話をしてくれたふたりの女性のうち料理を受け待ったのは、六〇を過ぎたお婆さんのほうであった。彼女は熱心な党員で、話す時はいつも〝偉大なる首領様〟または〝父なる首領様〟という枕詞を付けた。心から金日成を敬慕しているようだ。
彼女は開城の貧しい家に生まれた。幼い時からよその家にやられ、子守りや炊事にこき使われながら大きくなったという。成人して結婚したが朝鮮戦争の時夫を失い、以来人民軍の将軍たちの食事係を担当してきた。その間に保育園の園長もしていたという。
彼女は金正日の指示で拉致され、北朝鮮に連れてこられた申相玉と崔銀姫夫妻がとても好きだと言った。申相玉は韓国を代表する映画監督、崔銀姫は大女優であったが、北に連れてこられたあとは金正日の期待を一身に背負って、レベルの高い映画づくりに精を出していた。お婆さんの話では、そのふたりを好まない人はいないようだ。
夫妻は北朝鮮の硬直した文化に瞬間的ではあったが、生気を吹き込んでいた。それにもかかわらず、申・崔夫妻はのちに北朝鮮を脱出してしまう。私がこのお婆さんから彼らの話を聞いた、すぐあとのことだ。
もうひとりの、二〇代前半の娘の名前は、金喜春であった。彼女は招侍所の警備をしている人民軍の青年と相思相愛の仲であった。恋愛中の人がみなそうであるように、この娘は満開の花のようだった。彼女は自分のほうから進んで恵媛や圭媛にハングル(朝鮮・韓国文字)を教えるなど、よく子供の面倒を見てくれた。それというのも、彼女が子供たちにハングルを教えている時、私と妻は接見室(応接室)で哲学と歴史の学習をさせられていたのだ。
哲学と歴史といっても、それはみな全日成と正日を礼賛する洗脳教育だった。当局が私たち一家をここに連れてきたのは、西側の垢に汚れた私たちの頭をじっくり洗脳するのが目的だったのだ。私と妻はそれを避けられないステップと割り切り、洗脳されようと努力した。
金喜春は私が本をたくさん待っていることを羨ましがっていた。この国ではなかなか欲しい本が手に入らないらしい。何か欲しい本があるかと尋ねると、
「兄が南朝鮮で出版されている『英韓辞典』を一冊欲しいというので、招侍所に出入りする欧米から来た先生たちにお願いしているのですが、いまだに手に入りません」
と言って彼女は顔を赤らめた。私は微笑みながら、持っていた民衆書館発行の英韓辞典をプレゼントした。
「これを、どうしましょう・・・・・・。こんなにありかたいものを・・・・・・。先生、本当にありがとうございます・・・・・・」
彼女が泣きださんばかりに感謝するのを見て、私は北にきちんとした英韓辞典がないことを知った。金正日は辞書もつくらずに、外国語の勉強を奨励していたのである。それでいて自分は日本などから輸入した高級紙で父親と自分を讃える本を作って悦に入っているのだ。

洗脳教育

いつしか八六年の正月がやってきた。北では陰暦で正月を祝う。
元旦は映画学習がない。私たちは月曜日から金曜日まで、毎日二時間ずつここの映画学習を受けさせられていた。教材は『朝鮮の星』を筆頭に、『廃墟の中から立ち上がった朝鮮』など愛国調のプロパガンダ映画ばかりだ。
しかし、普段の日なのに映画学習のない日もあった。招待所から出て平壌に行き、『金日成の聖地』を巡る日であった。見学ルートは金日成の生家のある万景台、歴史博物館、革命博物館、主体思想塔、凱旋門、革命列士陵、金日成の銅像、平壌産院、入民大学習堂、南朝鮮革命博物館などだ。
私は金日成の銅像に花を捧げ、深々と礼をしなければならなかった。
南朝鮮革命博物館に行った時、私は興味深い発見をした。『民主主義建設協議会(民建会)』主催で七五年か七六年にフランクフルトで開かれた独裁打倒デモに使用した横断幕が、ガラス箱のなかに保管されていたのだ。誰がドイツからここに待ってきたのだろうか。
また、万寿台の朝鮮革命博物館には全日成が中学校へ通う時に読んだという『資本論』がガラスケースのなかに展示されていた。私はそれを見て驚いた。
これは詐欺以外の何ものでもない。金日成が中学校へ通っていたのは一九二〇年代だが、その頃『資本論』がハングル訳されていただろうか。そんなことはあり得ない。日本語に訳されたものだったら信用したであろう。しかしガラスケースのなかにあるものはハングルで書かれていた。しかし私はそんな疑問などおくびにも出さず、同行してきた白指導員の視線を気にしながら、見るもの間くものに感嘆してみせた。
聖地めぐりの大部分は白指導員が担当したが、招侍所によく出入りするのは崔課長、白副課長、金指導員らであった。彼ら以外には、哲学と歴史の講義のため、ふたりの学者が定期的にやってきた。そのうち主体思想を担当した社会科学院の某教授は招侍所に来ることをことのほか喜んでいる様子だった。肉のスープに白いご飯を食べるという、そうめったにない機会に恵まれるからである。しかも、ときには外国の話を聞くこともできるのが刺激になるようだった。
彼は主体哲学の主命題は金日成が創始したのでなく、エンゲルスが書いた二編の論文をもとに作られていることを知らなかった。もちろん、〝自主性〟という言葉もエンゲルスの〝自由〟を入れ換えたに過ぎないことも知らなかった。
私は北の住民たちが主体思想という代用宗教によって思考を麻痺させられている現実を見るにつけ、『宗教は人民のアヘンである』というマルクスの言葉を実感せずにはいられなかった。
二月中旬、私は金正日の四四歳の誕生日に向けての祝賀文を書くよう指示された。こんなことに頭を使うのはバカバカしいので、私は招待所の木棚で見つけた本のなかにあった祝賀文に手を加え、家族の名を添えて提出した。内容は「祖国は私たちをその暖かい懐に抱いてくださいました。それに対して敬意と感謝の意を表します」というものであった。

現実を見つめる妻

二月中旬になっても、寒さは緩まなかった。ある日、ヒーターの前で本を読んでいると家内が不意に泣きだした。反射的に私は周囲をさっと見回した。幸いお婆さんも付添いの娘さんもいなかった。

「どうしたんだ、どこか痛いのか?」
そう尋ねると、妻は情けないという目つきで私を見つめながら声を低くして語りだした。
「あなた、まだ分からないの。私たちがここに連れてこられたのは、尹伊桑と金鍾漢の罠にはまったからなのよ。今考えると、あなたは自分の手で自分の眼を刺して見えなくし、私たちの眼まで刺してしまったんだわ」
「何がどうしたと言うんだ。今俺たちが飢えているとでも言うのかい。でなけりや、家もなくて、雑魚寝するほうがいいのかい」
「この人はほんとうに! 気でも狂ったんじやなくて。あの人たちのやり方を見なさいよ。あなたは社会主義者たちは誠実だと言うけど、どこが誠実なのよ! しっかりしてよ。ここの人々の様子をよくよくごらんなさいな。みんな口を閉ざしているでしょう。死にたくなかったら、くれぐれも言葉には気をつけてよ。あなたは酒が入れば、自分を素直に出しちゃうでしょ。あの人たちはそれを利用しようと待ち構えているのよ。この話はしまいと思ったけど、あえてするわ。今日、お婆さんと話をしていたら金鍾漢の話が出たの。お婆さんは、金鍾漢を知っていたわ。彼は奥さんとふたりの息子をつれて元山と松島海水浴場へ毎年のように来るんだって。ここにもたまに寄っていくようよ。私がキールにいた時、何と言ったか覚えている? 金鍾漢には気をつけなさいって何度も言ったでしょう。私たちの周りは信用できない人たちばかりなの。だからこれからは、お願いだから、言葉には気をつけて!」
はめられたのか・・・・・・。私は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。視界が急にボーッとして、そう高くない天井が、遠のくような感じがした。
その上、目眩がしてきた。しかし、私は何とか涙を出さないよう唇を強くかんだ。すべては私が原因なのである。だから、妻と一緒になって涙を見せながら、あからさまに後悔することはできなかった。
逆に私は開き直った。
「今さらどうするんだ。ここに来た以上ここで暮らさなくてはならないんだ。金鍾漢に罪はない。みんな俺の意志でしたことだ」
淑子の顔が蒼白になった。口がぶるぶる震えている。私は妻がどんな不平を言っても辛抱しようと思った。
淑子は目に涙を浮かべ、何か言おうとした。その瞬間、部屋のドアが関いて子供たちがやってきた。
「父さん!」
私は妻とのやりとりを聞かれたのではないかと心配になったが、ふたりの表情を見る限りそんなことはなさそうだ。子供たちはふたりで遊んでいてもつまらないので、こちらに入ってきたようだった。
「よし、よし、おりこうねぇ」
妻は子供らに寄り添って、鼻にかかった声で言った。

秘密工作員への誘い

ある日、白指導員と一緒に崔課長が訪ねてきた。
「じつは呉博士、キールにいる朴炳燮と接触したいのですが、手助けしてくださいませんか」
「私がですか? その人についてはよく知らないんだが・・・・・・」
関わりたくないので話をそらそうとすると、白指導員が冷やかな声で刺すように言った。
「外に出て党を助けなければ・・・・・・。そうすれば下山できます」
それを聞いて瞬間的に、この連中の手助けをするふりをしなければならないと思った。わずか二ヶ月の間に、私はある程度北朝鮮という国の本質を知るようになっていた。当局の連中は口先では呉博士、呉先生と敬意を表すように呼びながら、じつはこちらの喉元をつかんでいたのである。私はすでに工作機関の掌中に捕らわれていたのであった。
「そうすべきものなら、お引き受けしなければなりますまい」
そう言いながらも、腹のなかでは何がなんでも、彼らの掌中から抜け出さなければならないと思った。家族全員が難しいのなら、まず私ひとりでも、そして、それから、家族を救い出そう・・・・・・。
じつは、金鍾漢の紹介で、朴炳燮にはドイツで三度ほど会ったことがある。けれども、連中のほうが私よりも朴について、より多くのことを知っているようだった。
「とは言っても、私は朴炳燮の住所も電話番号も知りませんよ」
「それは、心配いりません。私たちが調べますから・・・・・・」
数日後一三課から連絡が来た。全斗煥・韓国大統領の西ドイツ訪問が発表されてから西ドイツとその周辺地域は警備が厳重になり、当分事業は遂行できないというのであった。

平壌への引っ越し

三月二〇日頃、私たち一家はようやく招待所から平壌へ移ることができた。
その朝、白指導員が何の前触れもなく招侍所にやってきた。やけに早い時間なので、私はもしかしたらと思い、彼の口元を凝視した。
「旅立ちの準備をしなさい」
「どこへ行くんですか」
私はタイミングを見計らって白指導員に聞いた。
「平壌へ行くことになります。行けば分かるのに、なんで聞くんですか」
彼はそれ以上話をするのが嫌な様子で、そっと背を向けた。
平壌の中心街から蒼光通りに近づくと前方に高層アパート群が現れた。ここが私たちの新居だという。すべて二〇階建てであると、白指導員が自慢気に言った。車はアパート群のなかに入ると、ひとつの棟の前で止まった。
待っていた七人の男がさっと近づいてきた。皆よれよれの服を着ている。そのなかから背の高い男が前に出て挨拶した。
「ようこそ、いらっしゃいました。私は呉先生のご家族の担当をする生活指導員です」
北朝鮮の人たちは、初対面の挨拶をする時自分の職種だけを話し、名前を言わないことが多い。はじめは戸感ったが、それを何度も経験するうちに、変には思わなくなった。
私たちの部屋は一二階にあった。ちょうど、エレベーターが故障中だったので、そこに行くのに階段を使うしかなかった。どうするのかと思っていると、
「部屋を見に上がりましょう」と白指導員が言った。
すると、私の答えも待たず、生活指導員ともうひとりの男が先に立って階段を昇りだした。
私は淑子や子供たちとともに彼らの後についていった。瞬く間にどんどん離されてゆく。息を切らしながらようやく一二階まで昇ると、汗が滝のように流れてきた。しかし、手伝いの人たちは、重い荷物を侍っているのに、汗ひとつかいていない。
「ここは共和国で一番良いアパートです。部屋が三つに台所がついています。ごらんなさい。衛生室(化粧室)があり、風呂も別にあります」
白指導員はそう言って目を輝かせた。たぶん彼は、こんな素晴らしいアパートで生活していないのだろう。
「これが入居証です。奥さん名義になってますよ」と言って白が妻に封筒を手渡した。
淑子は笑顔をつくってなかのものを取り出すと、さっと目を通した。
「あのう、名前が・・・・・・」
妻が、私の顔をうかがいながら入居証を白指導員に差し戻した。妻の名前が申淑子ではなく申淑姫になっていたのだ。
「ああ、それですか。共和国では〝子〟という文字は使いません。それは日本式の名前です。それで女らしく〝姫〟の字にしました。奥様は親愛なる指導者同志(金正日)の大きなご配慮に預かりました。これで私たちは帰らなければなりません。また明日来ます」
白治完指導員がそう言うと、生活指導員が男たちに指示を与えた。
「では、整理にかかってください」
白指導員と生活指導員が帰ったあと、男たちは部屋の整理や掃除にとりかかった。それを見て淑子が言った。
「あなた、あの人たちに一杯差し上げたいんだけど、招待所から待ってきたビールは四本しかないの。どうしましょう」
「買ってくるしかないだろう・・・・・・」
何も考えずにそう答えて私は外へ出た。アパートの前は平壌で一番の繁華街といわれる蒼光通りだから、何かしら手に入ると思ったのだ。しかしどの商店に入っても、酒どころか商品らしい商品さえない。
私は六〇北朝鮮ウォン待っていた。招侍所の床屋が二〇米ドルと換えてくれたものである。
しかし皮肉なことに、蒼光通りの商店ではドルは受け取るが、北朝鮮のウォンは使えないと言う。物がある店ではドルを出すように言われ、逆に朝鮮ウォンが使える店では物がなかった。
私はその時になって初めて、招待所の床屋とカネを交換したことを後悔した。聞いてみると、二〇ドルはヤミ相場で二千北朝鮮ウォンになると言う。うっかりあの男の口車に乗せられ、大損してしまったのだ。だからと言って今さら取り返しに行くわけにもいかない。
結局、あちこち歩き回ってやっとのことで、中国製の蛇酒を一本求めることができた。これで何とか面目が保てると思うと、思わずため息が出た。
翌日、生活指導員が米と副食を待ってきた。
「一週間分です。来週また待ってきます」
人民班の班長も訪ねてきて、不便があれば何でもおっしゃってくださいと愛想よく言った。たぶん、よく面倒を見るようにとの、中央の指示があるのだろう。この班長はしばしば訪ねてきて、困ったことがあれば手助けしますと大変な気の使いようだった。
この地区を担当する社会安全員(警察)もきた。
「用心してくださいよ。田舎から平壌へやってきて、空き巣や強盗をする者がこのところ急増しています。私的な物は、泥棒にあっても申告できませんから各々が注意するしかないのです」
安全員が低い声でこのように言ったので、私と淑子は思わず顔を見合わせてしまった。

北での〝異邦人〟

私は引っ越してから、自分なりに北朝鮮についてもっと知りたいと思い、平壌市内を歩き回った。
平壌駅から街はずれまで、足がくたびれるのをものともせず駆けめぐったが、予想に反して検問にあったり、安全員に制止されたりすることはなかった。また平壌最大の農民市場をぶらつきながら、そこにいる人間にあれこれ聞いてみたこともあった。しかし工場に入ることはできなかった。大きな工場の正門にはいつも軍服を着た兵士が番をしており、出入りする人間に目を光らせていた。
こんな経験もあった。ある日、平壌の中心部を歩いていると、人民学校(四年制の小学校)の児童たちが私の服装や挙動を変に思ったのか、あとをついてきた。
「ソ達人、ソ達人!」
と子供たちが叫ぶので振り返って怒った顔をすると、予供たちはワツと逃げ散った。しかし、歩きだすとまたついてくるのだ。子供たちの純真無垢な目から見れば私は異邦人と映ったようだ。

私はある日、道路をはさんで向かい側にあるアパートの前で懐かしい慶尚道訛りの会話を聞いた。ここは、日本からの帰国者たちが住むアパートだった。このアパートの人たちは慶尚道出身が多いらしく、会えばほとんどの人が私の育った土地の言葉を話すのである。このアパートは飛び抜けて立派な造りだった。それもそのはず、当初この建物は北朝鮮がフランスと合弁でホテルにしようとして建てたが、何らかの事情でフランス企業が工事の途中で撤収したため、完成後日本からの帰国者専用アパートとして使われているのだった。そうしたほうがホテルにするよりは金がかからないからだろう。
四月一五日がやってきた。この日は全日成の誕生日。北の住民たちにとって最大の祝日である。
この前日には、白飯と豚肉の配給があるので、めったに肉にありつくチャンスのない一般市民は、この日を心待ちにしていた。肉の配給といってもごくわずかで、スープにして家族で肉の味を思い出す程度のことしかできないのだが、それでも大変なご馳走だった。
この日は大人だけでなく、子供たちも菓子袋をプレゼントされる。
私も全日成の誕生日がくる数日前、恵媛と圭媛を連れて、菓子袋を受け取るために五月から通うことになっている近くの人民学校に行った。ただし、行けばすぐ貰えるのではない。私たちは校長と地区の党幹部の紋切り型の演説を聞いてから、菓子袋ふたつの配給を受けた。
四月一九日、私たちは日曜日の野遊会に招かれた。私と淑子は白指導員に言われて行ってみた。例によって、行くまでそれがどこの主催によるものか知らされていなかったが、そこにはたくさんの北朝鮮入りした人たちの顔があったので、私は対南工作機関に関係している組織の主催ではないかと思った。
白指導員にそれとなく聞いてみると、七宝山連絡所の野遊会であるという。この対南工作放送局の存在は関いたことがあった。
しかし、まさか自分がそこで働くことになろうとは夢にも思わなかった。


第6章 七宝山連絡所

悪化する妻の病

五月初旬、恵媛と圭媛が人民学校に入学した。姉のほうは九歳で、妹は六歳であった。
ふたりが学校へ通い始めて数日後、生活指導員が訪ねてきた。
「奥様、おめでとうございます。あなたは親愛なる指導者同志の大きなご配慮により、共和国で一番良い職場で働けることになりました。これから私がご案内します」
そうやぶからぼうに言われても、すぐウンと言えるものではない。淑子はまだ、完全に健康を回復していなかった。それに子供たちは学校に通い始めて間もない。母親としては、しっかり見守ってやりたいところだ。私は事情を理解してもらおうと思った。
「生活指導員同志、家内はまだ体調が思わしくないので、職場に出るのは無理です。考え直してくださいませんか。それよりまず、私の職場の問題を相談したいので、一三課の崔課長に会えるようにしてください」
「私は命令を受けて来ています。もう決まったことはひっくり返せないと思います。呉先生のことは、今度崔課長に会った時話してみます」
そう言って生活指導員は、半ば強制的に淑子をソ連製のボルガに乗せて行ってしまった。
どれほど悔しかったことか! 私は妻を守ることができず、去ってゆく車を歯ぎしりしながら見守るしかない情けない夫であった。
こんなことがあっていいのかと思っても、どうすることもできなかった。ただ淑子の新しい職場が体に負担のかからないところであることを祈るしかなかった。
ようやく夕方になって淑子は帰ってきた。顔からは血の気が失せている。部屋に入るやいなや淑子は声をあげて泣いた。
「何があったんだ」
泣き崩れている妻を見て、私は何か嫌な目にあったのだろうと思った。しかし、まさか拷問や厳しい取り調べを受けたわけではあるまい。考えあぐねていると淑子が口を開いた。
「どこへ連れていかれたと思うの? 七宝山連絡所ですよ。そこで私を対南工作放送要員に使おうというの。そう決まっているようで、いきなりテストされたわ。私だけじゃないわ。あなたも放送要員に使おうとしているみたいだったわ」
私は唖然とした。この私が子供だましのようなプロパガンダ放送の仕事などできるか!
「本当にそう言ってたのか。聞きちがえたのじゃないか。気でも狂わないかぎり、この俺を対南工作放送局で使ったりするものか?」
淑子はしばし無言で涙を目にいっぱいためながら、悔しそうな目で私を眺めていた。そして肩を震わせながら呟いた。
「あなたという人は、ほんとうに何も見えないのね。きっと心が広すぎるのよ。だけどどうするつもり? たぶんあなたも逃げられないわよ。もうこうなれば開き直って、じっとしていればいつか『災い転じて福となる』と思うしかないわ」
その言葉を聞いて、私は後頭部を鈍器で強く殴られたようなショックを受けた。
〝なんだ! この俺が放送要員になるだと! これじゃ話にならん〟私は胸のなかでそう叫ばずにはいられなかった。
翌日から淑子は弁当を持って出勤しだした。家を出るのは何と朝五時三〇分。疲れ切った顔で帰ってくるのは午後六時三〇分頃であった。
淑子は一日も休まず放送局へ出かけていった。その姿を見て私は彼女が一日一日命を削っているように思えた。
無理がたたって妻の健康は急速に悪化していった。その上、記憶力まで減退し始めた。見るに見かねて私は七宝山連絡所の党秘書を訪ねた。党中央へ妻が健康をそこねているので職場を休めるように、上申してもらうためであった。その際、かわりに私が連絡所へ出ても良いと申し出た。この願いは認められることになり、淑子は六月一五日付けで休職し、平壌医科大学付属病院へ通うようになった。できれば入院させたかったのだが、医師の指示は入院はせずに通院治療をするようにとのことであった。

再度の打診

妻が病院へ通っている間、子供たちの面倒は私が見なければならなくなった。こうした事情を連絡所の党書記に話すと、当面は午後から七宝山連絡所に出勤するだけでよいということになった。
初出勤の日、あまり暑いので半ズボン姿で出かけると職場の党書記に呼びだされた。
「呉先生、これからはパンツだけで来てはいけません。どうして知識人がそんな姿で外出できるのですか」
私は当惑して、今度からは気をつけます、と言ってその場をとりつくろった。党書記の部屋から帰ると、私の使う机へ案内された。
そこは三人部屋であった。私の横の人は『革命戦線』誌の記事を原稿用紙に写しているところだった。こちらが挨拶すると彼は名前は言わず、記者だと自己紹介した。
もうひとりのほうは珍しく自分の名前を言った。
「初めまして。私は金勝奎と申します。労働新聞の記者をしたあと、ここに来ました。金日成総合大学哲学科の出身です。呉先生の話はよく聞いております」
しかしよく見ると、彼は自己紹介とは違って、韓国で六〇年代に発刊された音楽百科事典を、ほとんどそのまま写し取る作業をしていた。
ここで彼らが書いている原稿は、『民衆のこだま』という対南偽装工作放送に使われると言う。韓国の反政府組織が行う地下放送であるかのように見せかけで行う放送のことだ。このふたりには共通点があった。それは暇さえあれば居眠りをしていたということだ。
全勝奎は韓国を呼ぶ時、〝半封建植民地〟と言ったが、放送用原稿にもそのように書いているようであった。
「南朝鮮は半封建植民地社会というより、資本主義的商品生産社会と言うべきでしょう」
と言うと彼は不思議な目で私を眺めた。その様子を見て、それ以上話をしてはならないと私は判断した。
数日が過ぎ、白指導員と金指導員が訪ねてきた。彼らは忘れかけていた朴炳燮の話をまた切り出した。
「コペンハーゲンに行って、キールから朴炳燮を呼び出してほしいんです。先生にとってもヨーロッパに行くことは悪い話ではないでしょう。聞くところによると、上の娘さんの目がとても悪いそうですね。東ベルリンで眼鏡をひとつあつらえたらいい」
ハイ、としか言えないことは分かっていた。しかし、人を騙してこんな国に連れてくることには抵抗があった。
「何日か時間をください」と言うと、
なぜか彼らは「そうしたほうがいいです」と言って帰っていった。
それから私はしばらく風邪をこじらせ、寝込んでしまった。ようやく熱が引いた頃、白副課長と白指導員が、入北してからしばらく住んだ招侍所の接待員であった金喜春を連れて見舞いに来てくれた。彼女は、しばらく見ない間にさらに美しさに磨きがかかっていた。妹のような金喜春に会うと、心がなごみ、体が軽くなった。私はその場で、デンマークヘ行って朴炳燮に会うと言った。ふたりは大喜びで私の手を握ってきた。
一方の手を白副課長が、他方を白指導員が・・・・・・。それを見て金喜春は美しい大きな目を輝かせて、満面に笑みを浮かべていた。あっさりウンと言ったのは、別に彼女の関心を引こうとしたためではない。どうせ、ウンと言うのなら、工作機関員に圧力をかけられながら言うより、金喜春の笑顔の前で言いたかっただけだ。

韓国向け偽装宣伝放送『救国の声』

七宝山連絡所は牡丹峰のふもとにあった。ここでの私の名前は閔永勲教授であった。
とうとう一〇月になると、彼らは私をマイクの前に立たせた。
私に課せられた仕事は『民衆のこだま』という偽装放送の要員として、土曜日を除き毎日一三分間、『救国の声』を放送することだ。突き詰めれば南北統一について、主体思想を天まで高く崇め奉り、韓国の経済を米国や日本に従属する経済と批判するのが仕事であった。私の声が電波にのって韓国全域に響きわたることを考えると身の毛がよだつ思いだったが、命を失いたくないのでやらないわけにはいかなかった。
現在も依然として『救国の声』放送は聞こえてくるが、北朝鮮ではそれを引用してニュースを流すことがよくある。
〈韓民戦中央委員会、秘密核貯蔵庫建設関連声明〉
ソウルからの『救国の声』放送によると、韓国民族民主戦線中央委員会は、南朝鮮当局が、特定財閥の支援のもと、米軍の原子爆弾を貯蔵する秘密核兵器貯蔵庫計画を引き続き推進していることと関連して、これを糾弾する声明を発表しました。声明の内容は次の通りです。

〈韓国民族民主戦線中央委員会声明〉
去る五日、〝山のなかにトンネルを掘って米軍の原子爆弾を貯蔵する極秘工事を自分が直接監督した〟という、現代グループ鄭周永・前名誉会長の発言は、日増しに内外で大きな物議をかもしています。このたびの秘密核兵器貯蔵庫建設をめぐる鄭周永の発言は、逆賊・慮泰愚の核不在宣言の真実性に強い疑いを抱かせています。韓国からアメリカの核武器を全面撤収させることは、この地に生をおく我が民族の運命と直結する死活問題であります。(以下略)

『救国の声』は、あたかも韓国内の左翼勢力の地下放送であるかのように偽装していたため、主に韓国出身の人を起用していた。南の言葉を話す人間でないと不自然だったからだ。ここでは私のような新参者のほか、六九年末に拉致されたKAL機のスチュワーデス・成敬姫、鄭敬淑も働いていた。
私は彼女たちと何度もじっくり話をしてみようと思ったが、ついにそのチャンスはなかった。具体的な目的があったわけでもない。ただ、拉致されて以降彼女たちはずっと北で暮らしてきたのだから、言いたいことがたくさんあるだろうと思ったのである。また南の話に花を咲かせてみたいという気もした。
しかし、南のことを話題にするのはタブーであった。そのため、彼女たちと会っても、必要な話以外は周囲の耳を気にして、どうでもいい雑談をするしかなかった。彼女たちはどんなにか、南の話をしたかったろうか。私はそのことを彼女たちの目つきで察することができた。

妻への告白

一〇月下旬のある日、午後四時頃、隣の部屋にいる玄龍鶴局長が訪ねてきた。
彼は部屋へ入ってくるなりいきなり言った。 
「呉先生、ここの党書記のところに行ってください」
何ごとかと聞いても、彼も分からないという。
いぶかしく思いながら、党書記の部屋へ行くと、部屋には対南工作を担当する第五課の白副課長と金指導員、そして白治完指導員が来ていた。
「呉先生、準備してください。対外連線部長同志にお会いしなければなりません」
彼らは理由も告げずに、連絡所の外に停めてあったメルセデスべンツに私を乗り込ませた。
対外連絡部長に会ってどうしようというのだろう?
いぶかっているうちに車は停まった。着いたところは牡丹峰招侍所であった。
そこには、第五課の洪課長らが並んでいた。私は面喰らってしまった。彼らがなぜ並んで私を侍ちうけているのだろうか。しかしすぐ謎が解けた。彼らと挨拶を交わしていると、もう一台ベンツが現れた。窓が外からはなかを覗くことができないマジック・ウィンドウになっているので、一見して高級幹部用の車だと分かる。車から降りた人は、対外連絡部長・李賛善であった。彼らは雁首をそろえてこの人物を侍っていたのである。
「そこにお掛けください」
と洪課長が私に上席を指した。本当に部長より上席に座ってよいのかとまごついていると、左隣に部長が座った。私はそれを見て恐縮しながら主賓席に腰を下ろした。それを察した李部長は手振りでまあまあ、気にせずにという仕草をして私を安心させてくれた。ほかの四人は、私たちの前に洪課長、白副課長、白指導員、金指導員の順で座った。全員大きなメモ帳を手に持ってペンを走らせようと待ち構えている。
党の対外連絡部長は、対南工作を取り仕切る責任者であり、北における最重要ポストのひとつだ。私は不思議と緊張はしなかった。それより、超大物と並んで座るという栄誉を与えられ、体がポッと熱くなった。
李賛善は、人参茶と外国タバコを私に勧めた。一瞬手が出かかったが、思い止まった。形式にこだわるこの国では、こういう時のマナーがあると思ったのだ。さっと前に居座る連中たちを見回すと、みな目を大きく見開いて私にどうか控えてくれと哀願するような目つきをしている。どうやら私が李部長の前で堂々とタバコをくゆらすのではないかと、気が気ではないようだ。
「結構でございます」
私が辞退すると、連中の顔は安堵の色に変わった。
私は心のなかで連中をあざわらいながら、一本もらって吸うんだったと思った。
「呉先生、共和国に来て、初めの印象はどうですか」
李賛善はほぼ標準語に近い発音で話した。
「親愛なる指導者同志(金正日)が、働き手たちがみんな敗北主義におちいっていると指摘なさったように、革命的な熱情が薄れているような印象を受けました」
私の答えは少し生意気なものであったが、率直に述べたのだ。私が見るに、北朝鮮の経済は完全に活力を失い、ほとんど麻痺寸前の状態だった。人民には生気がなく、心身ともになえており、劣悪な生活環境のために、恐ろしいほどの苦難にあえいでいた。
北朝鮮では、金日成の教示や金正日の言葉を正確に引用すれば、どんなにやばいことでも、無難に通るということを、私は知っていた。それで金日成の言葉を引き合いに出し、私の思いを込めて話したのだ。
李賛善が私にやや顔を近づけてきた。
「今、南朝鮮では革命を目指す勢力が解放区だ何だと言いながら、いたずらに火焔瓶を投げるなど、あまりにも軽挙妄動に走る傾向にある。偉大なる首領・金日成同志は、南での革命勢力の弱体化を憂いていらっしやいます。放送だけでは、偉大な首領様の意志を伝えることができず、もどかしい限りです」
私はどう答えていいものかと慎重にかまえた。下手に言うと、とんでもないことになるという警戒心が舌を動かなくした。ヘマをするよりは沈黙のほうがましに決まっている。
すると李部長が続けた。
「だから、呉先生が偉大な首領様の教示を実践する党活動を少し手助けしてくださらなければなりません。事業の成功の可能性をどのように見ていますか?」
前に座ってメモを取っていた連中の顔色が変わっていくのが読み取れた。彼らは再び一斉に哀願するような目つきを私に送ってよこした。
「成功が半分、失敗が半分の確率ですけど、さらに挑戦して偉大な首領様(金日成)の教示が貫徹されるように努力します」
私がそのような模範回答を述べると、彼らは喜びを隠せない様子であった。もし、拒否していたなら彼らがこれまでひとつひとつ積み重ねてきた実績が一瞬のうちに消える可能性もあったのだ。だから、思わず笑みがこぼれたのも当然なのだ。
李賛善は腕時計にチラと目をやってから立ち上がった。私も時計を見た。彼に会ってから四五分が経過していた。
「五課長、呉先生をお送りしなさい」
李賛善が洪課長に命令した。洪課長は、気をつけの姿勢でその命令を受けた。そして、李賛善が立ち去ると、やけに丁重に私を車に案内した。

金日成・正日を讃える学習

帰り際、車のなかで白治完が私に耳打ちした。
「許錟同志(政治局員・対南工作、外交担当)が、呉先生と一度お会いしたいと言っていました。任務を成功裡に終えて帰国すれば、お会いできますよ。それと、もうひとつ大事なことがあります。いいですか。今度の任務は重要事項ですから、奥様にも必ず秘密にしなければなりませんよ。絶対に」
私は大きく領いて、白治完を安心させた。しかし、そんな約束を守るほど私は愚かではない。ただ、どうやって淑子に伝えようか迷った。
私は結局、その夜寝床で頭から布団をすっぽり被って淑子に、北を発つ日が近づいていることを告げた。盗聴が怖かったのでそうするしかなかったのだ。
それを聞いて淑子は〝不整脈が続いている〟と言ったきり、一度口を噤んだ。よほど苦しいらしい。今では肝炎だけでなく心筋梗塞まで併発していた。
「ここでは回復できそうもないわ。私の体は、この国と同じように思えるの。あまりにも血の巡りが悪いわ。動脈硬化が進んでいるし」
「外に出て行けば、何らかの門が開けるかも知れないよ・・・・・・」
〝外に出ていけば・・・・・・〟。偶然出た言葉であった。しかし、その瞬間から〝脱出〟という言葉はかた時も頭から離れなくなった。
淑子もそう思ったようだ。
「こうなったらあなたが外に出て、何としてでも私たちを助け出すしかないわ」と結論付けた。
しかし病身の妻にそう言われると、かえって私の気持ちは萎えた。
弁明でなく、私は淑子の生命を助けるためもあって北に来たのであった。彼女は肝炎を患い、一応回復したとはいえ、その後遺症は重かった。ここでは十分な医療を受けられるという話だった。
ところがどうだろう。十分な医療どころか、妻は無理やり働きに出され、病状を悪化させてしまった。
北に来たことが結局は妻の命を縮めることになってしまったのだ。
私はその夜、冷蔵庫にある酒を全部飲んでしまった。それでもなかなか酔えなかった。体は酔っても頭が冴えたままなのだ。こんな状態が夜明けまで続いた。
翌日は土曜日で、学習の日であった。私は平日と同じく、五時三〇分に家を出た。
七宝山連絡所の土曜日の日程は次のようであった。
六時三〇分〜七時○○分 朝の掃除 七時一〇分〜八時○○分 党会議に参加
しかし私は非党員であったから、三〇代初めの女性が班長をしている集会に参加してふたりの四〇代の未亡人とともに、金日成語録である『親愛なる指導者同志のお言葉』をもとにして自己批判をしなければならなかった。
これはほとんど宗教儀式のようなものであった。だから「私の不徳のいたすところです!すみませんでした」をうまく言えばよいのであった。
また、八時一〇分〜一二時○○分の間は金日成・金正日父子の徳性、偉大性、英明性について学習し、お言葉の書き取りをする時間。
一二時○○分〜一三時○○分の一時間は昼食と休憩。
一三時○○分〜一八時○○分までは、いわゆる労作学習という『全日成の朝鮮労働党建設の歴史的経験』を反復して学習する時間。副所長や局長が学習を指導するが、聞いているほうはみんな要領よく寝ていた。けしていびきをかいたりはしない。私は北の人々の抜け目のなさに舌をまいた。それこそ生活の偉大な知恵である。
終わるのは一八時三〇分。退勤して、高麗ホテルがくっきり見える蒼光通りの家に帰れば一九時三〇分か、二〇時になった。本を読んだり、TVを見て二二時○○分になれば眠りにつく。土曜日は、大の大人がやるにしては何か馬鹿げた味気ない一日だった。
こうした土曜学習のほか、私は日曜日の労働奉仕にも駆り立てられた。
一〇月二七日、日曜日。私は光復通りで行われた建設労働に〝志願〟した。性能の悪い拡声器がザーザーと聞きざわりな音を出すなかで私はセメントブロックを造った。
一一月二日、土曜日。
張 鍚奎副所長が私を呼び出した。この人物は韓国出身で、フランス留学中、同じく韓国出身の夫人とともに北朝鮮入りした経歴の持ち主で、本名は鄭玄龍という。副所長の部屋には、玄龍鶴もいた。
「呉先生を中央党に召還するそうです。地方工作視察を一ヵ月間するためだそうです。月曜日から七宝山連絡所へは来なくていいです」
私は、来るものが来た、早ければ月曜日には出発することになるかも知れないと思った。

第7章 北朝鮮の工作員教育

特別待遇

私は、七宝山連絡所では、まさにノーメンクラトゥーラ(赤い貴族)と言ってよい待遇を受けていた。
そのためかどうか分からないが、一般の職員が私に投げかける視線は冷たかった。彼らの目は、「こいつは何のために北にやってきたんだ? おまえの目と耳は塞がっているんじやないか? おまえはここが地上の楽園だとでも思っているのか」と言いたげだった。
彼らが私に向ける憎悪には、妬みが入り混じっていた。彼らは一年にせいぜい二、三度、金日成や正日の誕生日などに肉の配給を受けるに過ぎなかったが、私は少なくとも一週間に一度、多い時は二度、一キログラムの豚肉を配給されていた。その半分は脂身だったとはいえ、このような特権を享受できるのは、この国ではごくひと握りのエリートだけだ。
その上、工作員になることを了承すると、ほかのノーメンクラトゥーラよりもさらに優遇され、北朝鮮では工場長に出世して初めて配給されるフィルター付きのタバコまで配給されるようになった。
農民市場など、ヤミで密かに取り引きされているフィルター付きのタバコは一箱二〇ウォン(公定レートは一ウォン=約六〇円)といわれている。年金生活者が一ヶ月に受け取る金額が二〇ウォンなのだから、このタバコ一箱の値段は常識をはずれている。
この頃になると、急に冷え込みが厳しさを増す。もう暦は一一月に入っていた。
一一月三日、私は淑子や娘たちと水入らずの時間を過ごした。たぶんこの日が家族と過ごす最後の日になると思ったのだ。白治完は来週から別なところに私を移して準備にとりかかると言っていた。
淑子は夕食をすませると恵媛と圭媛が寝かしつけた。ふたりきりになると、妻は、私がドイツで博士の学位口頭試験を受けた時に仕立てた洋服を、タンスから取り出してカバンに詰めた。
「もうすぐお別れの時間だわ。外に出たら、何としても私たちを助け出して。もしそれができない時は、交通事故でみんな死んでしまったものと考えて。恵媛と圭媛はまだ小さいから、この社会に何とか適応することができるはず。あなたが逃げ出したからといって、私たちが殺されることはないでしょう。お酒を飲み過ぎないでね。あなたが私の言うことを聞かないで、私たちをこの国に連れて来たことは、もう仕方ないにしても、工作員になってほかの人をここに引っぱり込むようなことだけは止めて。だからお願い、もう一度言います。ここには帰ってこないで。私たちは死んでもかまわない。どうか、汚らわしいことだけはしないで。そんなことをするため博士になったのではないでしょう」
妻の言葉に胸が張り裂ける思いだったが、不思議に涙は出てこなかった。
淑子は強い女たった。私が彼女の立場だったらどうしただろう。とてもこのように毅然とした態度ではいられなかったに違いない。

密封教育始まる

一九八六年一一月四日 月曜日
予想したとおり、朝、迎えの車が来た。
今日だと思ってはいたが、私はわざと驚いたふりをした。運転手は平壌に移る前、私たち一家が住んだ招侍所によく来ていたおじさんだった。彼は朝鮮戦争の時、人民軍の兵士として韓国軍を南の端まで追い詰めた洛東江の戦線に行ったのが自慢の種で、根っからの労働党員だ。彼はまた、北朝鮮の実情にも精通しているようだったが、招侍所にいた時は私の質問に対しては何も答えてくれなかった。今度も同様で、口を縫いつけてしまったように、ただ黙って運転していた。しばらく走って車は〝三号庁舎〟と呼ばれる建物の前で停まった。記憶がはっきりしないが、そこは、たしか向こう側に金日成総合大学の校門が見えていたから、チョンソン洞あたりではなかったかと思う。
隣に座っていた白指導員が車から降りて、その建物のほうに消えていった。ここは中央党に直属する工作機関、情報機関が入っている建物であった。北朝鮮ではそうした機関のことを隠語で〝三号庁舎〟と呼んでいた。この周りのどこかに、いわゆる幹部用の生活用品供給所があると聞いたことがあった。
白治完は、しばらくして庁舎から出てくると、再び車に乗って運転手に何事か耳打ちした。
乗用車は平野を抜けて山道に入っていった。私たちが初めて平壌にやってきた時と同じ道を車は走っている。道端の子供たちが、高級車に乗ったわれわれにに手を挙げて敬礼をした。それはちょうど、ハイル・ヒットラーを叫びながら手を挙げるヒットラー・ユーゲントの団員を思い起こさせた。
正午少し前に、大同江の上流にある二階建ての大きな山荘に到着した。そこからは何ヵ月か前に私たち一家が住んでいた建物が見えた。
この招侍所は海外に出る工作員や、北で「革命人士」と持ち上げられている日本から来た朝鮮総連の活動家、欧米に居住している北の息のかかった「統一人士」たちが密封教育を受ける場所である。私もこれから、工作員になるための洗脳教育をここで受けることになる。
食事がすむと、早速、教育が始まった。
最初に、工作員の活動フィルムを見せられた。それが終わると夕刻、洪課長と名乗る人物と中央党(朝鮮労働党中央委員会)の金指導員がやってきた。
まず、私は彼らに言われるまま、金日成の御真影の前で、工作員としての宣誓をしなくてはならなかった。
「・・・・・・親愛なる指導者・金日成同志が命じられた任務を遂行することを誓います・・・・・・」
宣誓がすむと、翌日からこちらの精神状態にはお構いなく教育は続けられた。
まず北朝鮮におけるエ業の成果を教えこまれた。これは私の接触対象である朴炳燮と李文浩に北朝鮮の工業がいかに高いレベルにあるかを説明するためのものだ。説明だけでなく、私は実際に、大安重機械連合企業所、社会主義成果展示館などに連れていかれ、詳しい解説付きで〝著しい成果〟を学ばなければならなかった。
次に白指導員と金指導員は、そのふたりをコベンハーゲンにおびき寄せるためには、どのように話を侍っていけばよいか、その仮想シナリオを書くようにと指示した。
私はたいして頭を使わず、ただ彼らが望むように書き上げた。
「よろしい。合格です! ここらで少し休みましょう。健康であってこそ、任務を完遂することができるのですから」
この学習期間中、私は十分な栄養食を摂らされ、たっぷり休養することができた。
初めは密封教育に多少緊張していたが、休養を十分取ったおかげで、日が経つにつれ、すっかり落ち着きを取り戻すことができた。すると、家族の顔がしきりに浮かんでくるようになった。できることなら、すぐ家に飛んでいきたかった。妻や娘たちは、車でわずか一時間足らずのところに住んでいるのだ。
しかし、密封教育を受けている以上、ここを抜け出すわけにはいかない。何とも、もどかしい話だが、私にはもう家族と会う自由がなかった。

気がかりな家族

ある日、招待所の医師が健康診断にやってきた。さらにその数日後には、南山病院の医師が来て、私にブルガリア製の抗生物質を手渡し、服用するように命じた。また、仕立屋も来て、体の寸法を計っていた。
出発の日が近づいているのは明らかだった。
工作員教育のスケジュールは緩やかなものになった。しかし、まったく無くなったわけではない。相変わらず何度も『敵の手に落ちたら自殺せよ』といった空恐ろしい題名のフィルムを見せられた。
私が欧州に行って工作活動をする目的は北が求めている人間を連れてくることにある。
北の当局が求めているのは、韓国の言葉を話す対南工作放送の要員である。北に連れてくるのが難しい場合は、韓国国内に地下党を構築する要員を補充しようとしていた。
一一月八日の昼食時、白指導員が尋ねた。
「呉先生は今何を考えておられるのですか?」
この男は、人の心の奥底を鋭く見抜く目を侍っている。言葉に詰まればあらぬ疑いをかけられる恐れがあるので、すぐ答えた。
「子供たちに何とか会いたいと思っています。ここで食べている松茸や肉を、娘たちに食べさせてあげられればなあ、と」
「では、一度行ってきなさい」
全く予期せぬ答えが返ってきたので驚いたが、私は白の気が変わらないうちに出ようと、すぐに準備をして、彼らが回してくれた車に乗った。
車が我が家の前に着くと、同行してきた白は、私に松茸や招待所から持ってきたいろいろな食べ物が入っている包みを手渡した。
車を降りると私はエレベーターに飛び込み、一二階に上がった。二度と会うことはないと思っていた妻は、私を見るなり、声を失い、子供のように泣き始めた。母親が泣いているのにつられて、子供たちも泣き始めた。私は、「どうしたんだ」と明るく振るまおうとしたが、自分の心をごまかすことはできなかった。一瞬のうちに目は涙でいっぱいになり、頬を伝って下に落ちていった。
子供たちは病気だった。父親が居ない間に熱が出て、まだ治らないのだという。
病んで熱が下がらないにも関わらず、予供たちは久しぶりに帰ってきた父に無我夢中で抱きついていた。満面に笑みを浮かべながら、ドイツ話で話しかけてくる。
子供たちの話す流暢なドイツ語を聞いて私の心は暗くなった。朝鮮話を話せない子供たち・・・・・これからこの国で生きてゆけるだろうか・・・・・・。
「圭媛の熱がとても高かったので、ゆうべ平壌医科大学病院におぶって行ったんだけど・・・・・・」
「治療は受けられなかったのか?」
「なかなか許可がおりなくて・・・・・・でも我慢して待っていたら、やっと注射をしてくれたわ」
医者を呼びたくてもこの国ではほとんどの家に電話がない。我が家も例外ではなかった。しかしたとえ電話があっても往診に来てくれる医者などいないだろう。仕方なく淑子は、自分の体でさえやっと支えている状態なのに、圭媛を背負って病院に行ってきたのだ。
私は心のなかに冷たい風が吹き抜けるのを感じた。経済学博士が何だというのか。娘が病気の時に、何もしてやれない、情けない父親じゃないか・・・・・・。

カムフラージュ

一一月九日 土曜日
朝、白指導員が家にやってきた。
「呉先生。出発まであと何日も残っていないから、家で待機していてください。月曜日の朝、お迎えに上がりますから。ただ、今日のお昼、七宝山連絡所に行ってきなさい。向こうで、大安重機械連合企業所、社会主義成果展示館を見てきたと言うんです。そうすれば彼らは、呉同務がこれからは我が国の経済界で働くのだと思うはずだから」
私は言われたとおりにした。工作員としてヨーロッパに行くことは極秘にしておかなければならない。そのため、これから経済部門で働くようになったと、カムフラージュしなくてはならないのだ。
七宝山連絡所に行くと、私と同じ〝入北組〟の尹老彬が手を差し出し、握手を求めてきた。「呉博士おめでとう。希望どおり、経済部門で働けるようになったようですね」
私は黙って握手を交わした。しかし胸の奥では、こんな思いがとぐろを巻いていた。
〝馬鹿なことを言わないでくれ。おまえも俺も、頭は空っぽの缶カラのようなもの。早合点が過ぎたということだ。長い歴史の流れを観念の世界で短縮してしまった白痴というわけさ。ブランキ(テロ陰謀)集団の中ではすべてが絶望に変わる。社会主義は不可能だ。おまえが自らの思想と一致させようとしていた主体思想は、ひとりの狂人のたわごとなんだ。俺は今、もうひとりの呉吉男を引っ張ってくるために旅立とうとしているんだぜ。やつらは、おまえたちが疑うようなことがあってはいけないと、私が経済部門に席を移すかのように偽装しているんだ〟
重い気分をひきずりながら七宝山連絡所から帰り、白指導員に報告すると、彼は満足げに頷いてから、立ち去った。
それからの二昼夜は、蜜のように甘いものだった。時間がこれほど速く過ぎていくものだということを、私はその時初めて知った。わずかの言葉を交わしただけなのにもう夜になる。ふたりの娘をかわるがわる抱きしめ、妻の細い腰を一度抱きしめただけで、もう二晩が過ぎていた。

妻の強さ

八六年一一月一一日
玄関のベルがけたたましい音を立てた。
時計は七時三〇分を指している。窓の外はまだ暗い。
胸が高鳴り、汗が出てきた。今度こそ本当の別れだ!
私は少しだけドアを開け、
「少し待ってください」
と言って一方的にドアを閉めた。
私は別れを惜しむ時間が欲しかった。しかし、白にそう言うと、どうしてもへり下った態度を取らざるを得ない。多少、高飛車なやり方だったが彼らは私を必要としているから、この程度のことで私をどうこうするわけがない。
まだ高い熱が下がらない圭媛が傍に寄ってきた。
「フケパク (おんぶして)」
圭媛をおぶった。服を着ていても、熱のあるのが分かる。圭媛は玄関のベルの音を聞いて、何かを感じたようだった。
「アッパ (父さん)、どこに行くの?」
「うん、ちょっと会社の仕事で出かけるところがあるんだ。もう降りなさい。おねえちゃんもだっこしてあげなきゃね」
「分かったわ、アッパ」
圭媛をおろして、恵媛を抱いた。淑子は涙をこらえて私の傍に立っていた。顔が青ざめている。心筋梗塞を病む妻を残して旅立つことは身を切られる思いだ。しかも、彼女は私がこれからどこへ行き、そしてもう帰ってこないということを知っている。
ドイツ語で恵媛に話しかけた。
「アッパは一ヵ月ぐらい帰ってこられない。地方の工場を見て回らなければならないからね」
恵媛の唇が私の頬に触れた。その唇からは、高熱の時に発する強い匂いが漂ってきた額に手を当てると、びっくりするほど熱い。
「恵媛、すっかり良くなるまで学校に行っちゃだめだよ。それから、オンマがくれる薬をいやがらないで飲まなきやだめだぞ」
「分かったわ、アッパ。圭媛のとなりに寝かせて」
子供たちを寝かせてから、私は妻の手を引いて台所に入った。まず、二重になっている窓を音を立てて開けてみた。もしかしたら、その隙間に盗聴装置が仕掛けられているかもしれないと思ったからだ。ざっと見回したがそれらしきものはない。
迎えの車が来ているというのに私はまだ迷っていた。妻と子をここに残して自分ひとりだけ逃げだすわけにはいかないという思いが募って、喉が詰まりそうだった。思い切って私は淑子に言った。
「俺が行ってしまったら、おまえ、子供たちを連れてどうやって生きて行くんだ? やはり、俺だけ脱出するわけにはいかん。帰ってきたほうがいいだろう」
私は淑子の言うとおりにするつもりでいた。
その時、頬に激痛が走った。淑子が私の頬に平手打ちを喰わせたのだ。
「馬鹿なことは言わないで!」
「しかし、おまえ」
「・・・・・・」
妻は黙って私の胸ぐらをつかみ、激しく揺さぶった。目には青い光が走っている。私はその目を見ながら、揺さぶられるままになっていた。
「これでも分からないの?」
淑子はもはや子供たちの横で泣いていた女ではない。強い母、強い妻に戻っていた。淑子は私から手を離すと、
「もう子供たちの顔を見ないで、このまま行きなさい」と言い放った。
それに押されるように私はドアを開け、家をあとにしたのだった。

蘇る妻の言葉

招侍所に戻ると、午後、もう一度フィルムを見せられた。例の、やつらに捕まったら自殺しろというやつだった。私はこれにはうんざりしていたので目を閉じ、前の晩に閉いた淑子の言葉を脳裏に蘇えらせた。
「・・・・・・誰でも今の地位よりもっと上に昇ろうとする限り間違いをしでかすことがあるわ。あなたが私たちをこんなところに無理矢理連れてきたことについては、許すことができるわ。その間違いがどんなに愚かであってもね。なぜならあなたが私の夫だからよ。でも、かわいい娘たちを犯罪者の娘にしてはいけない。純粋な人たちを陰謀のいけにえにするための手先になるなんて馬鹿なことをしてはいけないわ。
自由だとか平和だとか民族人団結だとか、もっともらしい看板を掲げていても、人の血となり肉となる貴重な物資を戦争準備のために無駄遣いしているから、ここの住民はみんな飢えて疲れ切っているのよ。社会主義なんて、何の内容もない抜け殼、風に揺れるボロ切れのような幻なのよ。無償教育制度、無償医療制度とうるさく騒ぐけれど、なかは空っぽじゃないの。薬もないのに、何か無償医療制度よ。
あなた、人民に配るボールペンひとつ、まともなものを見たことがあって? 社会保償制度が確立されていると宣伝しているけれども、死ぬほど働かされて定年を迎えて、支給されるのは月にたったの二〇ウォンなのよ。フィルターがついているタバコ一箱の値段だわ。こんな国がほかにどこにあって? こんな国で生きていくなら、子供だちと一緒に死んだほうがましだわ。
あなたひとりでもここを抜け出すことができるなら、私たちの分も生きてね。私は子供たちに、アボジは愚かだったけれども立派な人だったと言うことができるわ。あなた、人間は堂々と生きて、そして死んでいくものよ。罠にかかったままあちこち引きずり回されていてはいつまでたっても抜け出せないわ。しっかりして。ここを抜け出したら、三ヵ月以内に私たちを助け出して。それができない時は、交通事故でみんな死んだと思って、忘れてしまって。
汚らわしいことをしながら生きていっても意味はないわ。お酒を飲み過ぎないでね。馬鹿みたいに泣いてばかりいてはだめよ。私と恵媛、圭媛の死を無駄にしないでね。肉体はここで滅びても、私たちの心はあなたの心のなかで生き続けるわ。
百回嘘をつけば一回ぐらい騙されるだろうと、オウムのように同じことを繰り返す対南工作放送の要員をやるために、これまで夜も寝ないで勉強してきたんじゃないでしょう? そうでしょ?純粋な若者を騙してここに連れてきて、屈辱的な放送員をさせるようなことをしたら、それこそ重大な犯罪だわ。そんなことをすれば、死ぬまで悶々と悩み続けることになるのよ。絶対、犯罪に荷担してはだめ、逃げるのよ。
当局は私たちを殺したりはしないと思うわ。何の罪もないんだもの。それでも殺すというのなら、死んでやるわ。でも、こちらを殺せば、自分たちの体制が病んでいるということを知らせることになるから、やらないと思うわ。
ジュニのオンマ(宋斗律の妻)もミンジュンのオンマ(金鍾漢の妻)も抜け目のない女たちだわ。私もこれからは抜け目なくやらなければ。ドイツに住んでいる彼女たちに、毒のこもった呪いをかけてやりたいけど、それは我慢するわ。もう一度、お願いよ。純粋無垢な若者が、対南工作機関のいけにえにならなければそれでいいの。汚れた人生は無意味よ。あなた、それを忘れないでね。・・・・・・行ってらっしゃい」
私は目を閉じて、淑子の言葉を一語一句鮮明に思い返していた。洗脳フィルムに目をやりながらも、私は彼女の声を間くことができた。精神の力で。

残りわずか

一一月一二日、密封教育を受け始めてから、一一日が過ぎた。
朝九時、白指導員が薄笑いを浮かべながらやってきた。
「おはようございます。今日、呉先生の欧州への旅立ちを祝うため、副部長同志と副課長同志が招待所にいらっしやるそうです」
それだけ言うと白はすぐ教育にとりかかった。教材はまたあのフィルムだった。捕まれば死ねという超ワンパターンの洗脳フィルム。ほとほと嫌気がさす。
洗脳しようとして何度繰り返そうと、私は半生勉強を続けてきた学者。そういう人間にこのようなことをすれば、かえって疑問を植え付けることになるということを彼らは知らないのだろうか。この国ではあらゆる教育者が、人、を体制の歩く商品とするために、このような笑うに笑えぬ教育を繰り返し行っているのだろうか!
『自殺せよ。そして、偉大なる首領さまの胸で永遠の生を得よ』
毎日このような内容のフィルムを見せられるということは苦痛でしかない。早く終わってしまえ。でも、これも今日で最後だ!
昼食後、昼寝をしたあと招待所周辺を散歩した。私の足音に驚いて、キジがぱっと飛び上がった。あのように自由に飛んでいけたなら・・・・・・鳥たちが本当にうらやましかった。
その夜、八時を過ぎても副部長と副課長は到着しなかった。
「会議のため遅れるそうです。先に食事をすませておきましょう」
夕食をとりながら、私はひとりで中国産の五加皮酒を一本空けてしまった。この酒はかなりアルコール度が高いので、私は久しぶりに酔っぱらった。白指導員は副部長と副課長が来るためか、一口も酒を飲まなかった。
ふたりが来たのは午前一時頃だった。
白指導員はこの男を、朴己出氏(元進歩党党首・元韓国大統領候補)が、かつて日本に逃げ出し、病床で苦しんでいた時、日本に密入国して彼を北に拉致するための工作活動をした人物であると紹介してくれた。男は背が低く、幾分ヤブ睨みなのが特徴だ。
「こちらの呉先生は、かつての統社党党首金哲と親交のあった方で、数理経済学の分野に精通しています」
と、白が私を副部長に紹介した。
すると、副部長は二、三度領いてから口を開いた。
「われわれもスウリケイザイします」
全くのピントはずれな答えを聞いて白指導員が慌てて説明を加えた。
「数学的方法を利用して経済関係を補足する学問です」
副部長がおやっというような表情をしたので私は間髪を入れず丁寧に挨拶をした。これ以上副部長に恥をかかせてはまずいと思ったのだ。
私はすでに五加皮酒を一本空けていたので、完全に酔っていたが、まだ飲み足りなかった。気分的に、とことん飲まずにはいられないのだ。しかし、彼らは金日成の禁酒令のため、ビールをコップ一杯ほどしか飲まなかった。私はそれを知りつつ、もう一本五加皮酒を注文して、ひとりで飲み続けた。彼らが私を必要としているということがはっきりしているからだ。思ったとおり、彼らは私をぞんざいには扱わず、酒をくれといえば酒を出し、大声を上げても止めようとはしなかった。
それどころか、誇大妄想狂の指導者・金正日が直々に下した指令を受けて敵地に赴く私に、彼らはおべっかを使い始めた。このおべっかを肴に私は倒れるまで飲み続けた。
目が覚めると午前一一時だった。副部長と副課長は朝のうちに帰ったのか姿が見えない。
私は急に怖くなってきた。酒に酔って何か余計なことを口走りはしなかっただろうか。昨夜の記憶は途中で途切れている。しかし、すぐ気を取り直した。もし何か喋っていたところで、今となってはどうしようもないのだ。そう思って私はまた布団を被ると、一時間ほどごろごろして、昼食時に起き出した。どうしたわけか、こんなふうにだらしない行動をしても、誰も干渉しようとはしない。
昼食を食べている時、その理由が分かった。白指導員がこう言ってきた。
「呉先生、一五時ちょうどに平壌に向けて出発します」
あと二時間ほどしか残っていない。
驚いたが、私は箸が震えるのを見られないようにしながら、笑って答えた。
「いつ出発か、いつ出発かと思っていましたが、とうとう出発ですね」
私は食べ物を噛みながら、歯をむきだしにして笑った。


第8章 北からの脱出

 妻を残し平壌をあとに

一四時、招侍所を出発した。
車が平壌の空の玄関口・順安飛行場に到着すると、洪課長と白副課長が私を待ち構えていた。貴賓待合質に入ると、そこには、北のエリートたちがひしめいていた。閉鎖された社会で、海外に出る特権を与えられた者たちだ。党官僚と金日成体制の神政官たち、さらに人民軍の将軍も何人か見えた。私と同じ飛行機に乗る連中は皆貴賓であり、わざわざこのような貴賓室など作る必要はないように思える。
私を飛行機に案内してくれたのは、崔義雄少将(課長)と洪課長だった。
ふたりは私を最優先して搭乗させ、いい席を取ってくれた。それに続いて白副課長と彼の部下もぞろぞろと飛行政に乗りこんできた。
「欧州への旅立ちを心よりお慶び申し上げます」
と、白副課長が言った。私は答える代わりにっこりと笑顔を作ったが、心のなかでは別の言語が渦巻いていた。
〝欧州への旅立ちなどとほざくな。これで私は解放される。おまえたちは俺を体制のロボットとして人さらいの市場に送り出そうとしている。だから、何を迷うことがあろう。しかし、妻とふたりの娘たちは・・・・・・〟
私は北に来るまでは北朝鮮がこのようなありさまであるとは思ってもみなかった。しかし、この目に映った北朝鮮は、金日成がデッチあげた主体思想一色であった。そこには経済理論や科学的思考が入り込む余地は全くない。まさに、北朝鮮は国全体が似非宗教の狂信集団だったのである。
私は愚かだった。北に行きさえずれば最高の待遇を受け、経済の分野で自分の学問を完成させることができると信じきっていた。しかし、その期待はものの見事に砕け散ってしまった。私はこの国で韓国の反体制組織が行っている地下放送を偽装した『救国の声』という、才ウムのように同じことを繰り返す秘密放送局の要員となり、さらには対内工作員にされようとしている。これほどの屈辱があろうか。私がこんな犯罪に引きずり込まれようとは・・・・・・。
飛行機が動き始めた。隣にはヒルのような白指導員が座っている。その横にはフランス語を通訳する若い外交官がいた。
「もう飛んでいるんですね」
私はそう言いながら、白から目をそらせた。この男のいつも何かを探しているような視線がいやだったからだ。
一緒にデンマークに行くでしょうと言っていた金指導員の姿は見えなかった。そのかわり、後ろの席には洪課長が座っていた。この男はなかなか美男でエリート然としている。マルクス・レーニン学院の出身だそうである。
朝鮮民航機は、八時間ほどシベリア上空を飛び、暗闇に包まれたモスクワのシェレメーチェヴォ第二空港に到着した。
私と白治完だけが乗り換えのため空港内に残り、あとの連中はここの北朝鮮大使館に向かった。
薄暗い空港待合室で二時間も所在なく過ごすのは苦痛だった。
とても喉が渇いた。バーや売店でコーラやビールが売られているのを見ると、よけいに口のなかが渇いた。白治完の顔色をうかがったが、貴重な外貨を無駄遣いする考えは毛頭ないようだった。彼は今回一万二千ドルの現金を待ってきたらしい。しかし、どこまでも金正日の忠実な飼い犬であるこの男は、外貨を一銭でも無駄に使わないでおこうとしているようだった。
私にその金が任されているなら、迷うことなく冷たいビールで喉を潤しているところなのだが・・・・・・。
私もじつは三五ドル待っているのだが、それを使うわけにはいかなかった。もし使えば、白にそれをどこから手に入れたかと問い詰められ、最悪の場合には、脱出する機会が失われるかもしれない。また、その金は自由を取り戻すために、大切に使われるべきものでもあった。
やっと搭乗時間となった。ふたりともいい加減待ちくたびれていたので、すぐ飛行機(東独国営インターフルーク航空)に乗った。機内には乗客が三人しかいなかったが、あとからふたり乗り込んできたので、結局、搭乗客は私たちを入れて七人。機内は乗客が少ないせいか、温度がかなり低かった。その上、飛行時間が二時間しかないので、飲みものや食事のサービスもないという。
私の横には、若いドイツ人が座っていた。話しかけてみると、ウラル地方でボランティア活動をして帰国するFDJのメンバーであると自己紹介した。FDJは東独版の共産青年同盟である。私がその若者と話をしている間、白治完はうずくまって寝ていた。
彼は私を頭から信じ込んでいた。それも当然だ。平壌には家族が人質として捕らえられているのだから。
東ベルリンの飛行場に着くと、白が目を覚ました。寝ている間に私が掛けてやったオーバーを見て白は恐縮した。
「これはこれは、何と言っていいか・・・・・・私が呉先生のオーバーを掛けて寝ているとは・・・・・・呉先生も寒かったでしょうに・・・・・・」
彼は何度もありがとうを繰り返した。情が移ってしまったのか? 一瞬、私は彼が弟のように感じられた。しかし、その感情も束の間のことだった。
出迎えにきていたのは駐東独大使館の金参事官だった。
「お疲れになったでしょう?」
彼とは約一年ぶりの再会である。私たちは挨拶もそこそこに、外に出た。金の運転するメルセデスベンツに乗ると、なかは別世界に来たように暖かく、飛行機のなかで冷え切っていた体が、少しずつほぐれていった。
白治完は私が楽に座れるように気をつかっていた。これからは当分私が主役なのでその気持は分からぬではない。しかし、彼には悪いが、そうしたからといって私の計画を変更するわけにはいかなかった。人民を欺し、貧困に追いやる似非社会主義を容認するわけにはいかない。私はどうしても脱出しなければならないのだ。
金参事官が運転をしながら話しかけてきた。
「金鍾漢先生が呉先生の消息を尋ねてきたので、共和国で何の心配もなくりっぱに暮らしていると伝えておきました」
それを聞いた瞬間、思わず顔がカッと熱くなった。
〝あの野郎め!西ドイツに帰ったら、犬畜生にも劣る行いをやめろと言ってやる〟
その言葉は、くいしばった歯の間を抜けることなく、そのまま私の体のなかに呑み込まれていった。
その表情がおかしかったのか、白が言った。
「寒いところから急に暖かい車のなかに入ったから、呉先生も元気が出てきましたね」
私はそれにただ、ニヤッと笑って答えた。
ほかの車の姿がほとんど見えない道を、ベンツは快調に突っ走った。見えるものといえば車の前の闇を貫くフロント・ライトの光だけだ。
しばらくすると、検問所にぶつかった。警察官が車を止めたが、車のなかをちょっと覗き込んだだけで、行けと合図した。警察官は金参事官の顔を知っているようだった。あるいは、車のナンバーを見て、北朝鮮大使館の車だと分かったのかもしれない。

東ベルリンの工作拠点

車はアパートがずらりと並んでいる地区に着いた。
私たちは金参事官の案内でエレベーターに乗って六階にのぼった。
出迎えてくれたのは初老の男と女だった。男は六〇前後、女は五〇代半ばといったところで、見たところ、夫婦のようだった。
そこは、北朝鮮の欧米における最大の工作拠点であった。
金参事官は私たちを初老の男に引き渡して帰っていった。
「どうぞお入りください。夕食の準備ができています」
女に案内されて食堂に入ると、私は思わず足を止め、目を見張ってしまった。山海の珍味が大きなテーブルいっぱいに用意されていたからだ。私は空腹が極限に達していたので白と一緒にがつがつと食べ始めた。ビールも注がれるままにみんな飲み干した。しかしビールに酔い、ごちそうに舌づつみを打ったのも束の間、長旅の疲れと時差で次第に体がだるくなり、睡魔が襲ってきた。
部屋に家内されると、私はなかの様子を見る間もなくそのまま倒れるように眠り込んだ。
この部屋は普段書斎兼応接室として使われており、フロアの隅のほうに位置していた。そのため、居間に出るには白治完の部屋を通らなければならない。つまり、彼はいながらにして私を監視できるというわけだ。
ひと眠りして目を覚ますと、体が変調をきたしていた。扁桃腺が腫れて、熱がかなりある。
脱出しなければならないのに、病気にかかるとは・・・・・・。
恵媛と圭媛が患っていた百日咳のように咳がひっきりなしに襲ってくる。私が寝込んでしまうと、彼らは慌ててブルガリア製の抗生物質を飲ませ続けた。しかし熱はなかなか下がらない。
すると彼らは朝鮮人参錠も併せて飲ませた。朝鮮人参のエキスであるこの錠剤は、北朝鮮ではドルや外貨交換算を持って楽園商店にでも行かない限り手に入らないものだった。それ以外では招侍所でしか見かけられない特別な薬だ。
彼らはこの貴重な薬を私に服用させてでも、一日でも早く治そうとしていた。
ところが熱はいっこうに下がる気配がない。私は不安になった。病気のために計画を変えるわけにはいかない。無理にでも食事を摂って、体力をつける必要があった。
食べなけりゃ治らんぞ。死んだ母の声が耳元に響く。そうだ。早くよくなって脱出しなければ!
白指導員と初老の夫婦は熱心に看病してくれた。
しかし熱は下がらず、気がつくと流れ落ちる汗のため、シーツから腐ったような臭いが漂い始めていた。
私は医者を呼んで欲しいというようなことをほのめかした。
「そうしたいのはやまやまなのだが、ここの存在が知られる恐れがあるので・・・・・・」
と白治完は言葉尻を濁し、眉間に皺を寄せながら私を見つめた。今度の工作は私なしでは進められないから、彼も心配しているようだった。
ベッドに横になっていると、窓の間から石炭の煤煙がしみこんできて、咳が絶え間なく出た。これが、そうでなくても弱り切った私の体を苫しめた。
一時は半ば昏睡状態になったものの、寝込んでから四日目になると、熱は下がった。私はやっと起き出して、熱い湯で体を洗うことができた。北朝鮮から持ってきた歯ブラシで歯を磨くと、歯茎から血が流れ出した。北朝鮮の歯ブラシは毛が強く靴ブラシに近い。
「車先生(白治完の偽名)、病気のせいか歯を磨くと口のなかが痛むので、葉ブラシをひとつ買ってきてください」
私がそう頼むと、外貨をおのれの肉体の一部のように思っている白治完も仕方なく歯ブラシを買ってきてくれた。
カレンダーを見ると一一月一七日、日曜日だった。時間はそろそろ午後四時になるところだ。
窓の外に東ベルリンの市街地が見える。遠くに東ベルリンから西ベルリンに通じる電車が見えた。しかし、どうやって西ベルリンに行くのかは分からない。
「ちょっと散歩をしてきたいのですが」
部屋でテレビを見ている白に言った。
「そうしなさい。だんだんよくなってきているようだね」
彼は私が元気になってきているのが嬉しいらしく、すぐ承諾した。初老の男の姿は、そこにはなかった。
この男は毎日外出し、夕食時には帰ってくるのだった。いろいろ話を聞いてみると、彼は人民軍の将軍という前歴の持ち主たった。
私はひとりで一時間以上近くを散歩した。そして戻りながら、その工作拠点の住所を確認した。レーニン通り一七五番地。同じビルの中に、西ドイツ『シュピーゲル』誌の東ベルリン支局があることも確認した。

金日成死亡か?

翌一一月一八日。
テレビを見ていると、突然ARD(東独国営テレビ)が金日成が死亡した可能性があるというニュースを流した。初老の夫婦と白治完はドイツ語が分からないので通訳してやると、おかしなことに、三人とも全く驚いた様子を見せない。
「事実ではないはずです」
白がそう言うので「なぜですか」と聞き返すと、こんな答えが返ってきた。
「呉吉男先生は人民武力部長(国防相)呉振宇同志の交通事故の話を知っていますか?」
「ええ、聞いたことがあります。確か、一〇月二八日のことではなかったですか。光復通り建設現場に投入された人民軍を督励するため濃い霧のなかを走っていて、電信柱にぶつかったのではなかったですか?」
「そうです。大きな事故でした。その時も外国のニュースは呉振宇同志が死亡したと伝えていました。今回の首領様の死亡のニュースもその類でしょう」
それ以上続ける言葉がなかった。彼らはニュースさえも信じないのだ。そう言う私も百パーセント、ニュースを正しいと思っているわけではないが。
尹伊桑が西ベルリンの自宅からニュースの真偽を確認する電話をかけてきた。私は尹伊桑が工作拠点の電話番号まで知っていることに驚いた。電話を受けたのは初老の男だった。本国から何の連絡も受けていないようだったが、男はきっぱりと金日成の死亡を否定した。
結局、彼らが正しく、ニュースが間違っていた。翌一一月一九日、ARDニュースは死亡した可能性があると伝えた金日成がモンゴルの人民革命党書記長・バトムンフを順安飛行場に出迎える場面を放送した。私はあきれかえってしまった。北朝鮮が得意とする情報撹乱戦術は、自分たちが神のようにあがめている金日成の死までも材料にするのだ。
私はかなり頭が混乱していた。全日成が無事だとは・・・・・・。
白治完に散歩に行きたいと言うと、今度も白は快く承諾してくれた。
アジトから東ベルリンの中心部にあるアレキサンダー広場までゆっくり歩いた。しかし、ただ漠然と歩いていたわけではない。
道の両側に並ぶ建物をじっくりと観察し、自分が東ベルリンのどのあたりにいるのかをさぐりながら歩いた。しばらく行くとレーニンの銅像があった。
私は大きな通りから、ずっと奥のほうにのびている路地を見ると、そっちのほうに駆け出したい衝動にかられた。しかし、勇気がなかった。白治完の魔の手に再び捕らえられたら・・・・・・。
その日の午後、昼寝をしながらひどく汗をかいたようだ。目が覚めると枕がかなり濡れていた。
起き出して、部屋の窓から西ベルリンヘ通じる電車を眺めると、第二の故郷・西ドイツが急に懐かしくなった。あれに乗ることができたなら、いや、そこに放り出してくれさえしたら、私は自由の地に行けるのに・・・・・・。
時計に目を落とすと、午後三時だった。白指導員は眠りこけている。女も外出しているのか、姿が見えない。
私は服を着て、そっとアパートを抜け出した。

冷や汗

私はその建物の二階にある、『シュピーゲル』の支局に行って助けを求めようと思った。同誌は西ドイツを代表する権威あるニュース雑誌だ。
用心しながら二階に下りていき、支局のドアの前でいったん立ち止まって四方を見た。監視している人間はいない。私は震える手で事務室のベルを押した。
しかし、何度押しても応答はない。仕方なくドアを叩いていると、ずっと奥の部屋のドアが開いた。
出てきたのはドイツ人の女性だった。
女が私を見ながら訝し気な顔で言った。
「どなたです? その事務所には誰もいませんよ」
私は何か言い訳めいたことを言おうとしたが、緊張のあまり舌が動かなかった。女はうさん臭そうな目で私をジロジロと見つめている。内心ではかなり慌てていたのだが、私は何でもないかのように笑ってゆっくりと階段を下りた。チラッと振り向くと、女はしばらくそこに立っていたが、やがてドアを閉める音がした。 
ふうっ。思わずため息が出た。一瞬、ここは北朝鮮の工作拠点であるから、雑誌の支局という看板も偽装なのかもしれないと思った。背中を冷や汗が流れ落ちてゆくのが分かる。
建物を出た。しかし、行くところなどない。
束の間、これからどうしようか迷った。しかし、どう考えてもここで逃げ出すのはバカげていると悟った。方向が分からなかったし、分かったとしても私には身分証明書がなかった。逃げ出したところで東ドイツの警察にすぐに捕まってしまう。捕まれば警察は私をここに引っ張ってくるだろう。
店に入って何か買い物でもしながらいろいろと尋ねてみようとも思ったが、そうもいかない。三五ドル持ってはいたが、西側のようには使えない。ここは東ドイツだ。東ドイツも北朝鮮も、同じ体制下にある閉鎖された社会だ。
天気が悪いせいか、あるいは病気が完全に治っていないためか、まだ寒気がした。
暗闇が東ベルリンの陰欝な通りにおりてくる頃、私はやりきれないほどの惨めな気分で白指導員の待つレーニン通り一七五番地に向かった。
歩きながら、つぶやき続けた。
〝そうだ。脱出の機会はいくらでもある。俺に勇気が足りないだけなんだ。いつか完璧な機会を捕らえて逃げ出す〟
エレベーターに乗って上にあがると、ドアは閉まっていた。私はベルを押し、ドアを叩いた。こうなったからには、堂々と行動するほうが怪まれなくて済む。
ドアが開くと、ヒルのような白治完が下着姿のまま、禿頭を突き出してきた。一発殴りつけてやりたい衝動にかられたが、我慢した。白は目を見開いて私をじっと上から下へ見つめている。私が声もかけないでひとりで出ていき、何事もなく帰ってきたことに驚いているようだった。咄嗟に口から言い訳がすらすら出てきた。
「石炭の煤煙がひどいので、外の空気にあたりに出たんです。車先生は疲れて眠っていたので、起こそうかとも思ったのですがそのまま外に出ました。ところが、外の空気もひどいもんです。ここに比べれば、平壌の空気は本当に最高です」
そう言うと、とたんに強ばっていた白の表情がゆるんだ。私の説明に満足したようだった。「すみませんねえ。私が道室内をして差しあげなければならないのに・・・・・・」
白はそう言ってから、抗生物質と人参錠をくれた。
それを飲んで一時間ほど寝た。相変わらず汗が全身から吹き出している。その上、脱出を試みて失敗したことで、体はさらに重かった。
夕食の時、初老の男と白治完はあれこれと私に料理を勧めながらビールを注いでくれた。昼間の事件のため、いろいろと気を使っているようだ。
夕食を終えて、テレビを見ながら通訳をしてやると、彼らは喜んだ。
ふたりとも私を信頼しきっているように見える。しかし安心は禁物。もし必要とあらばこの連中は私をどうにでも料理してしまうことは明らかだ。
部屋に帰ってから、脱出したあとに連絡を取るため、西ドイツにいる尹伊桑と宋斗律、そして金吉淳の電話番号を一所懸命暗記した。寝ようと思って横になったが、気持ちが張りつめ、目が冴えた。それでも寝なければならないと思って目を閉じても、眠れなかった。夜通しタバコを吸い、何度か水を飲んだりしているうち、ようやく明け方になって眠りにつくことができた。

工作員の裏をかく

一一月二〇日。
白治完と私は午前中、西ドイツのテレビを見て過ごした。東西両ドイツはすでに、互いに電波を交換しているので東ベルリンでは西のテレビを見ることができた。
「呉先生に東学祭(五月民衆祭)のビデオを見せてあげなければ」
白治完はそう言いながら画像をビデオに切り換えた。
この行事には、鄭奎明、金吉淳、呉大石などが出ていた。東学祭が終わると、次は西ドイツに往む韓国人の反政府団体が行ったいくつかの行事が収録されているビデオが始まった。
後日、西ドイツに脱出してからこの話をすると、「北に流したのは全部あの金光浩の仕業だ。殺してもあき足らない奴・・・・・・」と侮しがる人もいた。
その日の午後になって、白治完が言った。
「明日、チェコのプラハに行くかもしれません。あちらはここより安全です」
白治完は安全ということを何度も強調した。私は妙な考えにとりつかれた。東ベルリンでは彼らにとって安全でないということは、こちらにとって有利なことではないのか・・・・・・。
しかし、私には選択権がない。脱出するまで、彼らの言うがままに行動しなければならないのだ。
「朴炳燮(西ドイツ・キール往往)と李文浩(西ドイツ・ゲッチンゲン在住)をプラハに連れてくることができますか?」
と尋ねると、白治完はそれには答えず、私を睨み付けた。慌てて私は言葉を継いだ。
「車先生の計画がそうなら、そうしましょう」
冷たい沈黙がしばらくふたりの間に流れた。私はその場から抜け出したいと思い、「ちょっと横になって休みたいんですが・・・・・・」と切り出した。
白治完が頷いた。私はさっと立ち上がり、自分の部屋に入ると、倒れるようにベッドに横になった。
汗のせいで服が潰れている。
四時間後、白治完が私を起こしにきた。
「身辺の安全を期すため、ここから汽車でロストーク(旧東ドイツの港湾都市)に向かい、そこで船に乗り換えて、コペンハーゲンに入るのがいいでしょう」
さっきの話とは違っていた。行き先がまたコペンハーゲンに戻ったので私はホッとした。
「それはいいですね。外貨も節約できますし」
不言に思われないようにすばやく答えた。彼は勘が鋭いので必要以上に緊張することが多い。夕食の時、初老の男が洪課長と金課長を連れて入ってきた。洪課長は、モスクワで金と合流したという。モスクワの大使館勤務なのだろうか?
私は笑顔を作って彼らを歓迎した。
「呉先生に挨拶をしようと思って訪ねてきました。お体のほうはどうですか?」
「あ、よくなってきています」
「先生の入国ビザは一〇日です。その間に事をやり遂げなければなりません」
「・・・・・・」
私は気ぜわしくスプーンを動かした。食べること、それは生きるということだ。食べなければ健康を回復することはできない。健康を回復すれば、自由を取り戻すことができる。そう思い詰めながら、食べ物を飲み込んだ。
白治完は私に部屋に帰るように命じ、そのあと三人で何時間か密談していた。この連中が何を話し合おうと、私にはどうでもよかった。ただひとつ、私の神経は脱出することに集中していた。どうすれば脱出できるのか? どのような方法がいいのか? 昼が有利なのか、それとも夜か?
八時。洪課長が金課長と一緒に部屋に入ってきた。
「呉先生、それでは明日またお会いしましょう」
ふたりが出ていくと、白治完が入ってきた。
「明日のため、ゆっくりと休んでください」
白が出ていくと、私は本箱をまさぐって薄い紙を何枚か取り出した。本箱には金日成の革命理論関係の本がぎっしりと詰まっている。私は紙を特ってベッドに横になると、まず息を殺して白治完の部屋の様子を耳で探った。もう寝てしまったのか、何の音もしない。しばらくそうしてから、私は紙に英語とドイツ語で短い文を書いた。

このパスポートは本物ではない。私の名はオ・キルナムである。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が発行したパスポートは、私の錯誤により、朝鮮民主主義人民共和国の工作員の手に落ちた。ドイツでの私の最後の居住地はBertha Von Suttner Str. 13000 kronshagen だ。
私は妻シン・スクチヤと、ふたりの娘、オ・ヘウォンとオ・ギュウォンを彼らの手から救い出すために、ドイツ連邦共和国に帰ることを望んでいる。ドイツ大使館や関係当局と連絡を取ってもらいたい。

書いては直し、直しては書くのを何度も繰り返した。また、紙ができるだけ小さくなるように苦心した。やっと書き終えたときには思わず、フーッとため息が出た。

しかしこれはまだ第一幕の始まりに過ぎない。早く体を休めなくては・・・・・・。そう思って私は、紙を片づけてからすぐベッドに横になり、目を閉じた。しかしできるだけ早く寝なくてはと思えば思うほど、目が冴えた。心臓の動悸が耳に響き、背中から、脇の下から、そして内股から、さらには手の甲からも汗が吹き出してきた。
その夜は、寝たり起きたりを何度となく繰り返しているうちに夜が明けた。

 機会到来

一一月二一日。
朝食のとき白治完が計画がまた修正されたと言った。じつに気まぐれだ。こいつらの秘密工作とはこんなものなのか・・・・・・。
「呉先生の健康が優れないので、一四時発の飛行機でコペンハーゲンに行くことにしました」
「すみません。私のために貴重な外貨を使うことになって・・・・・・」
そう言うと、白は満足げに頷いた。
「分かっていただければいいんです。どうぞ、食事をおあがりください」
その日、洪課長と金課長は食事の時に現れた。
さあ、出発だ。私は覚悟を決めた。
車はいつものメルセデスベンツ。私は前に乗り、洪課長と金課長、白治完は後に乗った。車は空港に向けて走りだした。みな無言で咳ひとつしようとしない。
この連中は世間知らずなふたりの韓国人留学生を密かに入北させるために触覚をそばだて、私は脱出の機会をねらって触覚をそばだてている。しかし、誰も胸の内はおくびにも出したりはしないのだ。
運転をした初老の男と洪課長、金課長は空港で私たちを見送るとそのまま帰っていった。
私は白のあとについて待合室に入り、離発着を知らせる掲示板を見ながら、微かに震えていた。
白治完も不安を感じるのか、うろうろしていたが、唐突にこんな言葉をかけてきた。
「ビールでも一杯どうですか」
私は首を左右に振った。おまえとはすぐ別れ別れになる。それなのに、面と向かって酒など飲めるものか。そんな思いが脳裏を駆けめぐった。
白が落ち首かない様子だったので、私は逆に、彼を刺激する質問をしてみた。
「私は帰国してからもずっと対内工作放送の仕事をしなければならないのですか?」
意表を突かれ、白が慌てるのが分かった。表情の変化がはっきりと見えた。だが、それ以上彼を苦るしめたりはしなかった。この男にそんなことが分かるはずがない。白治完も犠牲者のひとりに過ぎないのだ。
一四時三〇分。飛行機が離陸した。私は座席に座っていたが、ベルトを外してもよいという
放送を聞いて、化粧室に行った。ドアを閉めて、昨夜書いておいた助けを求めるメモを靴下のなかから取り出し、何度も読み返した。もっと詳しく言いておけば良かったとも思ったが、もう時間がない。これで大丈夫だと自分に言いきかせ、洋服の内ポケットにしまった。心臓が激しく鼓動している。内ポケットから手を出してみると、じっとりと濡れていた。
水道の水で火照った頬を何度も洗った。冷たい水で頬を洗うと、いくらか落ちつくことができた。ハンカチで顔を丁寧に拭いてから、何食わぬ顔で白治完の横の席に戻った。
飛行機はわずか四五分。すぐにコペンハーゲン空港に到着した。ここは私にとって思い出深い場所だ。そう、一六年前、留学のため西ドイツに向かう途中、ふたりの韓国人の女の子の手を引いて降り立った空港なのだ。彼女たちは、生きていれば、一八歳の美しい娘になっているはずだ。
出□の付近に私たちを持っている男がいた。男は白治完にここの大使であると自己紹介をした。
大使と白が入国審査を終えて先に進んでいる間に、私は急いでパスポートと救援を求める紙片をパスポートコントロールに押し込んだ。そして冒頭で述べたとおり、彼らの保護を受けて西ドイツに帰ることができたのだった。
西ドイツに帰るとすぐ私はミュンヘンで取り調べを受けることになった。
西ドイツ政府内務省の係官は、私にかつて西ドイツに亡命した当時、私と妻が所持していた大韓民国のパスポートを机の上に置いた。そのほかにも、私たち夫婦に関する書類をいくつか見せられた。
「身元照会は終わりました。ごくろうさまでした」
涙が頻を静かに流れ落ちた。
「奥さんとふたりの娘さんは、やむをえず、失踪として処理しました。また、呉吉男氏が持っていた我がドイツ連邦共和国の亡命旅券は紛失として処理しました」
脱出に成功。しかし、自由を回復した喜びも束の間、妻とふたりの娘のことを思って私は嗚咽した。
「うう・・・・・・」
「肩を震わせて嗚咽する私の肩を彼がおさえた。」
「奥さんと娘さんのことは、私たちも今すぐどうすることもできません。失踪とするしかないのです。しかし、可能な限りあらゆる措置をとるつもりですから、落ち着いてください」


第9章 虚しい家族救出活動

友の冷たい言葉

一二月一八日。早くも、脱出からひと月が過ぎていた。
尹伊桑に電話をかけてみた。
「とても北で暮らすことはできないので、逃げてきました。どうか、家族をこちらに呼び寄せることができるように助けてください。お願いします」
尹伊桑は、私が内務省から電話していると思ったのか、何も言わずに電話を切った。続いて、宋斗律に電話した。彼は、北で対南工作を担当する最高幹部の寵愛を受けていたので、助けようと思えば妻と子を助け出せる人物であると私は信じていた。しかし、やはり冷たい言葉が帰ってくるだけだった。
妻の健康を気遣ってくれた金吉淳博士にも電話をかけた。彼は、統一祭で尹伊桑の参謀のようなことをしていたが、北朝鮮一辺倒ではなく、何回も尹伊桑に「韓国に帰らなければいけませんよ」と忠告して、大作曲家の怒りをかっていた。しかし、彼の態度も同じだった。私はさらにブライデンシュタインにも、私を北に送ってくれた恩(?)のある金鍾漢にも電話をかけた。
しかし、ふたりには電話が通じなかった。
翌一二月一九日。ドイツ連邦内務省の係官に小さな写真スタジオに連れていかれ、正面と側面の写真を撮られた。どういうことなのか不審に思ったが、とくに何も聞かなかった。
しかし翌日にはその目的が分かった。新しいパスポートを作るためだったのである。
係官は再発行した亡命旅券を持ってくると、私にひとつのメモを手渡した。
「私はここにいます。何かあったら、ここに電話してください。できる限りのことはします。ご家族の問題は、国際赤十字社を通して解決するのが最善だと思います。赤十字社の人に一度相談してみてはどうでしょう。ご家族を救出する件について、力になれなくて申し訳なく思っています」
そして、彼は北朝鮮と西ドイツの間にはそれほど親しい関係がないのだと説明した。
そのあと、彼はレストランで昼食をおごってくれた。私は世話をかけついでに、もうひとつ頼み事をした。
「申し訳ないのですが、ドルトムント行きの飛行機の切符を用意してもらえないでしょうか。そこに友人がいるので、会いに行こうと思っています」
「分かりました。すぐ手配しましょう」
その日の午後三時、ミュンヘンからドルトムントに向かう飛行機に乗った。ゲアハルト・ブライデンシュタインに会うためである。彼に会えば、何とかしてくれるだろうという期待があった。私が、残りの人生をかけてやらなければならないことはただひとつ、家族の救出であった。
四時には彼の家につくことができた。青白く痩せ衰えた私をブライデンシュタイン牧師夫妻は暖かく迎えてくれた。しかし、彼らの笑顔はどこかぎごちなく、不安が読み取れた。私か北朝鮮を脱出したことを快く思っていないのだろうか。
私はそれを彼に尋ねたかった。なぜかといえば、ブライデンシュタイン牧師は、私に北朝鮮行きを直接勧めはしなかったが、それとなくそのような雰囲気を漂わせていたのは事実だからだ。しかし、いざ顔と顔を合わせてみると、そんな気にはなれなかった。今さらそんなことを尋ねて何になろう。私がここに来たのは、家族を取り戻すためなのだ。
化粧室で顔を鏡に映してみて、自分のやつれ果てた姿に驚いた。唇は上も下も腫れ上がり、荒れ果てている。目は充血し、髪の毛は脂気を失ってぼさぼさだ。こうなってしまったのは、取り調べを受けて疲れたからではない。心労のためだ。


旧友、ブライデンシュタイン牧師

私がブライデンシュタイン牧師と知り合ったのは、彼がソウルの延世大学神学大学院で客員教授として社会倫理を講義していた時だった。六九年の末のことである。
ソウル市内のあるマッコリ(麹を原料とする大衆酒)屋で私たちは初めて会った。仁川産業宣教のスンヒョック牧師、アメリカ人のオーグル牧師と一緒だった。それから、七〇年一〇月に私がドイツに留学するまで、彼とは三、四回会う機会があった。
私たちの因縁は、ただ会って酒を飲むというようなことで終わったのではない。私は彼の講演原稿を韓国語に翻訳したこともあった。それは、韓国労総とフリードリッヒ・エバート財団が共同主催した「労働組合指導者のための教育セミナー」での講演原稿だった。
彼の講演の主題は、社会正義と労働運動と民主社会主義を柱にしたものだった。
当時彼は、社会主義的生産関係が現実の人間社会において可能であるという妄想を抱いていた。それは私も同様だった。ふたりとも、その頃はマルクス経済学について基礎的な知識すら持っておらず、科学的というよりはユートピア的な幻想にとりつかれていた。
私がブライデンシュタイン牧師について多くを語るのは、彼が私に及ぼした影響があまりにも大きかったからだ。彼に会うことによって、私が人生の軌道を大きく変えたことは否定できない。
彼は七〇年代はじめ韓国に在住し大学の講壇や教会の説教壇で、科学的立場からではなくユートピア的な観点から、当時の韓国社会の問題点を暴きたて、めった斬りにしていた。外国人であったので、われわれが口にすることをはばかっていた政策批判もためらうことなく行った。そのため、多くの若者が彼に感動した。
そんな彼を軍事政権が快く思うはずがない。彼は国外に追放された。その後、私たちは七二年の夏、ドイツで再会した。
古色蒼然たる大学都市、チュービンゲンでのことである。まったくの偶然であったが、私たちは抱き合い、再会を喜んだ。
「こんなところで会えるとは」
私か震える声でそう言うと、彼が笞えた。
「娘の熱帯病検診のためにチュービンゲン大学病院を訪ねてきたところなんだ。ここでヘール(英語のミスターにあたる言葉)呉に会えるとは、これも何かの因縁というものだろう」
彼は韓国を追われてから、それに対する反発心からか、マルクス経済学でなく、マルクス主義経済学を研究し始めた。研究のモデルとしたのは北朝鮮の社会主義である。
ブライデンシュタインは北朝鮮の研究に没頭し、フォルクスワーゲン財団の奨学金を受けて米国や日本に行って二年間研究したのち、とうとう実際に北朝鮮に足を踏み入れたのだった。滞在期間はわずか二週間であったが、彼は北朝鮮から、ウソを真実であるかのようなオブラートに包んだ広報用資料をたくさん持ち帰ってきた。牧師は北から帰ると、『アジアンフォーラム』という雑誌に北朝鮮型社会主義モデルについての論文を二編発表した。この純粋な心の持ち主は北のブランキ(テロ陰謀)主義者どもの奸計にまんまと乗せられていたのである。


家族救出活動の開始

ブライデンシュタイン夫妻の家は、一戸建ての二階家だった。
奥さんのレナテは自分が使っていた寝室を私に提供してくれた。牧師は毎月の収入もまずまずで、それ以外にも莫大な財産を相続していたので、毎日あくせく働く必要はなかったが、働く女性の多いドイツ社会の例にもれず、レナテは養老院で看護婦をしていた。
私の話は夕食をとりながら始まり、夜中まで続いた。
私たち一家が帰国後招待所に連れていかれたことから、韓国向けの対南工作放送局の仕事をさせられたこと、そしてドイツに来た留学生を北に引きずり込むための手先となってコペンハーゲンまで来て、そこで脱出したことまで、丁寧に説明した。
ブライデンシュタイン牧師は話を聞くと、ドイツ人が韓国の軍事政権に反対して作った団体「コレア・コミティ(韓国連帯委員会)」議長である前オスナーブルック大学総長のプロイデンベルク教授に電話をして、私の妻と娘の送還について相談した。
しばらく話して彼は電話を切った。
「プロイデンベルク教授が何とかしてみると言っているので、待ってみよう」
彼は朴政権時代、東ベルリン・スパイ団事件で拘禁され、ソウルに連行されて死刑判決を受けた尹伊桑を西ドイツに帰還させる上で大きな働きをした人物であった。だから、彼が動けば家族をドイツに送還させることも可能だと私は信じた。彼はドイツにおける市民運動の中核的存在であり、ドイツ連邦議会法務委員長とも親交があるという。
その上、ブライデンシュタイン牧師は当時『緑の党』の代表委員会のメンバーであった。そんなふたりが声を上げれば、ドイツ連邦政府も黙っているわけにはいかない。私はどんな手を使っても家族を一日も早くドイツに取り戻したかった。
私は牧師に土下座でもしたい気持ちだった。
「ドクトル呉、北朝鮮当局とワイフに手紙を書きなさい。ああ、この世こんなことがあるうとは」
彼は北朝鮮のやり方に憤慨していた。北を社会主義のユートピアと信じてきたので、裏切られたという気持ちなのだろう。怒りの矛先は私にも向けられた。
「なぜ、北朝鮮行きを決心する前に私に知らせてくれなかったんだ?」
私は下を向くしかなかった。言うべき言葉がない。彼はつけ加えた。
「明日か明後日。そうだ。二二日に北朝鮮大使と面談してみよう」
「牧師だけが頼りなのです。今、ほかに信じられる人はいません」
やっとの思いでそれだけを言うと、額から汗が流れてきた。
牧師はコレア・コミティの総務と会計も担当していたので、自分が東ベルリンに行くつもりだと、コミティの議長であるプロイデンベルクに電話で伝え、便宜をはかってもらおうとしていた。


抗議と謝罪の手紙

一二月二一日午前。
私は対外連絡部長、李賛善に対し、私と妻に非人道的な行為を強要したことに激しく抗議する手紙を書いた。
午後、金吉淳博士から電話がかかってきた。博士はいつも、他人の困難を引き受けて解決してやりながら、自分自身は五〇歳を過ぎてまだ結婚もしていないという人物で、「俺の命の根っこ(性器)はもう全然元気がないから、ペンチでひっこぬきたいほどだ」と、ため息をつきながら冗談を言うような人物だった。彼は周囲から尊敬される高邁な人格の持ち主だが、今では回復不能なほど健康を害していた。七七年六月、ボンで聞かれた韓国問題緊急会議の時、尹伊桑にこき使われたのが原因だった。
金吉淳博士はドイツに滞在中、オッフェンバッハでKOFO(韓国学術院)の運営を任されていた。彼はKOFOの運営資金は尹伊桑個人が出しているものと信じていたが、実際は北の対南工作機構の資金で運営されていた。
ブライデンシュタイン牧師の家にいることを金博士はどのようにして知ったのかは分からないが、訪ねてきて、ギリシャ料理屋に連れていってくれた。これは大変勇気のいることだ。私は北朝鮮を脱出してきた人間だが、だからといって、韓国人の知人を訪ねることもできなかった。私は彼らにとっても裏切り者なのだ。そのため皆、被害にあうことを恐れ、私には背を向けるに決まっていた。ところが、金吉淳博士は別だった。
彼の前で私は泣き続けた。
泣きながら自問自答していた。民主が何で、統一が何だというのか? 何の罪もない私と家族が、彼らの魔の手にもてあそばれているのが分かっているのか……。
涙を拭いた。目の前にいる金博士は私の思いは分かるというように頷いている。照れ隠しに私は無理に笑ってみせた。彼も笑った。お互い、寂しい笑いであった。
その夜、金吉淳博士と別れてから、私はまっすぐブライデンシュタイン牧師の家に帰った。ドアを開けてなかに入る前、私はしばし立ち止まった。暗闇が牧師の家を包み、まるで私を追い出そうとしているように感じられたのだ。しかし、勇気を出して牧師の家に入っていった。
その晩、むしょうに淑子が恋しくなり、手紙を書いた。
愛する妻、と書き姶めたのだが、あとが続かなかった。タイプライターで文を書くのに慣れきってしまっていたためかもしれない。牧師の家にはハングルのタイプライターはなかった。
私は書いた手紙の内容を詳しくは覚えているほうではないが、今でもこの手紙の大体の内容を思い出すことはできる。
私が平壌の家を出た八六年一一月一一日の朝、妻も子供たちも病んでいたので、まず皆の健康について尋ねた。そして、このような悲惨な状態に追い込んだのは私であると肝に銘じ、自分は無事ドイツに脱出することができたので、これからドイツ連邦政府と関係要路を通して家族の帰還のために全力を尽くすつもりだ、と書いた。
そのあと、北朝鮮当局に対しても、謝罪の手紙を書いた。
私はマルクス経済学を現代ブルジョア経済学の始まりから学んできた。だから、自分は言ってみればまやかしのマルクス主義者に過ぎない。そんな私がどうして偉大なる主体思想に従って思考し行動することができよう。それゆえ、こそこそと逃げ出すしかなかった。だから、理解と寛容をもって、脱出という背信行為を許し、妻とふたりの娘を西ドイツに返して欲しい。そのあかつきには、祖国統一の日まで、西ドイツで静かに暮らすことを誓う。
そんなことを、丁重な言葉遣いで書き綴った。


尹伊桑からの伝言

一二月二二日午後八時。私は昨夜書いたばかりの手紙二通を、東ベルリンで北朝鮮大使に会ったら渡してもらうため、ブライデンシュタイン牧師に託した。
「これは明日、向こうに渡すから、今日はゆっくり休みなさい」
「あなただけが頼りです」
私は何度も礼を述べてから、自分の部屋に戻った。
眠ろうとしても眠れるはずがなかった。頭のなかが真っ白になったようだった。ときどき、この手紙がかえって家族にマイナスになるのではないかという不安にもかられて私は悶々としていた。
眠れないというのは最大の苦痛である。その上、病気が全快したとはいえない状態が続いていた。
その夜と次の日、私は部屋のなかをぐるぐると回りながら、牧師が北朝鮮大使に会って、すべてがうまくいくことを祈り続けた。いつの間にか私は牧師が淑子と娘たちを連れて帰ってくるような錯覚にとらわれ、ドアが開く音がするたびに、部屋を飛び出す始末だった。
ブライデンシュタイン牧師は、夕刻帰ってきた。
「面談はうまくいきましたか?」
子供のように興奮して尋ねた。
「あ、東ベルリンには行かなかった」
「はい?」
わけが分からなかった。東ベルリンに行って北朝鮮大使に会ってくると言ったのは、彼なのに。
「北朝鮮大使に会う前に、まず宋斗律氏に会って相談するのがいいと思ったんだ。ところが、彼とは電話が通じなかったんで、尹伊桑氏に電話をしたんだ。彼には会ってきたよ」
「尹伊桑氏は何と言っていました?」
私は性急に尋ねた。尹伊桑がその気になれば、私の家族を肋けることなど造作もないはずだ。「尹氏が言うには、北朝鮮の東ドイツ大使には何の力も無い。また、外国人が民族内部の問題に深く関与することを、主体思想で武装した北の人間は嫌うと言うんだ。だから私が動けば、家族の問題を解決する上で逆効果になる。だから、むしろドクトル呉にもう一度北当局への謝罪文を書くようにと尹氏は言っていた。それから、彼はまだあなたが南側(韓国)当局の手に陥っていないということをあなた自身から北朝鮮の工作責任者に電話で伝えるようにとも言った。これが尹伊桑氏からドクトル呉に渡してくれと預かったものだ」
牧師は電話番号が書かれた紙片と、封筒をひとつ私に手渡した。紙片に書かれた電話番号は、〇〇三七二―二二九四〇四〇一だった。封筒には尹伊桑の手紙と西ドイツ貨幣で五〇〇マルクが入っていた。
親愛なる呉吉男氏へ
家族と呉博士に連帯の情を表明し、家族の問題が解決することを希望し、またそうなることを確信します。

わずかな誠意で。
尹伊桑

牧師の話は続いた。
「尹伊桑氏は、あなたに北を刺激する発言や行動を慎むようにと言っていた。そうすれば、北朝鮮の党指導部はこれまで外国に示してきたジェスチャーから考えて、今回も円満に解決することができるはずだと楽観的な見方をしていたよ」
牧師はそう言いながら私を慰め、北朝鮮を旅行した時に、スパイとして疑われた話をしてくれた。彼の話を聞いてから、私は口を開いた。
「そうです。北の共産党(労働党)指導部は外部から文化、思想、科学などの理性の光が北朝鮮社会の内部に入ってくることに神経を尖らせています。自分たちの体制にひびが入ることを恐れているからです。彼らは、外部から入ってくるものは、良いものであろうと悪いものであろうとすべて遮断するつもりです。そうしておいて、人々の生活がけだもののように劣悪なものになろうと、われわれのやり方で生きていこうと北朝鮮の住民をおだてあげているのです。もちろん、おだての背後には銃と剣による威嚇があります。とても理解できないでしょうけど、それが事実なのです」
牧師は目を大きく見開いたが、反論しようとはしなかった。
しかし、そう言う私も少し前までは牧師と同じように何も知らずにいたのだ。北朝鮮をじかに見て、やっとその実態が分かり、今ごろになって当たり前のことを何か大発見でもしたかのように騒ぎたてているのだ。
「ドクトル呉、どちらにしても、家族を取り戻すためには尹伊桑氏の言うとおりにするのが一番だろう」
私も同じ意見だった。
「謝罪文を書きます」
[クリスマスの翌日には、妻の母の病気見舞いにミュンヘンに行かなければならないので、それまでに書いておきなさい。私が郵便で送るか、そうでなければドクトル呉が直接送ればいい]
そう言うと、牧師は東ドイツにある北朝鮮大使館の住所を書いてくれた。


韓国に自首さえしなければ

一二月二三日。
公衆電話のボックスに入って尹伊桑が書いてくれた北朝鮮工作機関の拠点に電話をかけた。牧師の家の電話を使わなかったのは、迷惑がかかるといけないと思ったからだ。それに、外で電話するほうが気兼ねなく話ができる。
東ドイツヘの電話は全くつながらなかった。何度ダイヤルを回しても、ツー、ツー、ツーという音しか聞こえない。私は東ドイツの通信事情が混乱していることなどつゆ知らず、およそ一時間、電話ボックスのなかで悪戦苦闘した。でも結局通じなかった。
どうしてもつながらないので西ベルリンに住む尹伊桑に電話をすることにした。
「もしもし……」
尹伊桑の声が出た。
「あの、呉吉男です。先生が書いてくれた電話番号が合っているかどうか確かめたくて電話しました」
尹伊桑は電話番号を言った。紙片に書きつけられた番号と同じだった。
「先生、送っていただいたお金、どうもありがとうございました。また、電話します」
「うまくやりなさい」
彼は短くそれだけ言うと電話を切った。その瞬間、背筋に寒気が走り、鳥肌が立った。
もう一度東ドイツに電話をかけたが、相変わらず通じなかった。一時間ほどダイヤルを回し続けて、やっと東ベルリンの工作拠点とつながった。
「もしもし」
声から判断すると、工作拠点にいたあの老人でも、金参事官でもなかった。
昼間なので、電話機はひっきりなしに硬貨を飲み込んでいく。ためらっている時間はなかった。
「もしもし。私は呉京賢という名前の外交官旅券でコペンハーゲンに来て、ドイツに帰ってきた呉吉男です。はい。呉吉男。私はまだ南朝鮮当局とは接触していません」
嘘ではなかった。私はその時まで韓国当局とはまったく連絡を取っていなかった。
電話を受けた工作員は言った。
「そこはどこだ? 今いる場所の住所と電話番号を教えてくれ」
「それは……」
私はためらった。ブライデンシュタイン牧師を巻き込みたくなかったからだ。彼の家の住所と電話番号を言えば、多かれ少なかれ彼を巻き込むことになってしまう。
私が言いよどんでいると、相手はこう言ってきた。
「南朝鮮当局に自首さえしなければ、家族の問題は心配することはない」
それを聞いて、希望で目の前が急に明るくなった。韓国当局に自首さえしなければ、家族は無事に帰ってくると言うのだ……。
硬貨をすべて飲み込んで公衆電話は沈黙した。
電話に出た男の言葉を聞き、涙があふれそうだった。
その男が言った“家族の問題は心配することはない„という部分が救世主の言葉のように頭のなかでこだました。それに加え、尹伊桑の「私の言うとおりにすれば、家族は無事に帰ってくるはずだ」という言葉もじつに心強かった。


手のひらを返した金鍾漢

一二月二四日午後。
公衆電話のボックスに入って西ベルリンの金鍾漢に電話をかけた。どれほど電話したかったことか。彼は私の北朝鮮行きに、誰よりも深くかかわった男である。
彼の電話番号を一気に回した。私の脳裏には、彼の顔、話し振り、そして電話番号が鮮明に刻印されている。
電話は通じなかった。私が逃げたことを知って、引っ越ししたのか? そうでなければ、私を避けるために電話番号を変えたか……。
何度ダイヤルを回しても無駄だった。もしやと思い、電話帳をひっくり返してみると、金鍾漢の電話番号が出てきた。私が記憶している番号は、(〇三〇)八二二六七六七だったが、電話帳には(〇三〇)八二四六七六七と出ていた。住所も変わっていた。もう一度ダイヤルを回すと、金鍾漢の妻が出た。彼女は私の声を聞いて非常に慌てた様子だった。
「金兄は家にいますか? いるのならちょっと代わってください」
[いません。でも、すぐに帰ってくるはずです]
「いつ頃かけなおせばいいですか?」
「一、二時間後にかけてください」
仕方なく電話を切って、ブライデンシュタイン牧師の家に帰った。頭のなかをさまざまな思いが駆けめぐった。令鍾漢には何と言えばいいだろうか。事実のまま話すのがいいのか、それとも少しブラフを利かせて脅かしたほうがいいのか……。
二時間ほど過ぎた頃、私はもう一度家を出た。そして公衆電話の前で何度も深呼吸をしてから、硬貨を入れ、ダイヤルを回した。
[もしもし]
「おう!」
彼の驚く声が耳に飛びこんできた。
「金兄、落ちついて聞いてくれ。私は堪えきれずに逃げてきた。西ドイツ当局には、金兄が私と家族を北に送ったと話してある。西ドイツ当局が取り調べに来るはずだ。でも、だからといって北に逃げるようなまねはしないでくれ。どんなことになっても、北に逃げてはだめだ。金兄、私も金兄のために動くから、金兄も私を助けてくれ。お願いだから、妻と娘たちがドイツに帰ってこられるようにしてくれ。金兄、金兄は北の実力者たちと親しいんだろう。私は知っているんだ。どうか妻と娘たちを助けてくれ。家族を助けてくれれば、金兄を怨んだりしない。
なぜ、なぜ、よりによって私を選んだんだ? 金兄。誓えと言うなら誓う。家族が帰ってきたら、クロンスハーゲンに帰って静かに暮らすつもりだ。金兄、金兄。どうか私の家族を返してくれ」
前後の脈略もなく、哀願し続けた。しかし、耳に飛び込んできたのは、かつての彼の声ではなかった。
「犬畜生め。俺が犬畜生のクソ餓鬼どもと何の関係があるってんだ。そんなことをほざくんじゃない!」
電話は一方的に切れた。
この電話で私はようやく気づいた。金鍾漢は私のことを思って北に送ったのではなかったのだ。ただ自分のことだけを考えていたのだ。
彼が、売れ残ったと言って野菜を持ってきてくれた時、私と淑子はどれほど感謝したことだろう。異国の地で、私たちへの彼の愛は兄弟以上だと感動したものだ。しかし、本心はそうではなかった。彼は北の指令で、計画どおり、私たちの面倒を見るふりをしていただけなのだ。
私は泣きながら受話器を置いた。
私の心はズタズタに引き裂かれ、揺れ動いていた。最も信頼していた友人に裏切られたという思いは、とても言葉にはできない力で私を苦しめた。友情にもイデオロギーがあったとは……。そして、自分が信奉するイデオロギーを私が捨てたからといって、使い古した靴のように見捨てるとは……。
涙が頬を伝って流れ落ちた。視野が揺れ、妻と娘たちの顔がまた浮かび上がった。おまえ、恵媛や、圭媛や。アッパ(父さん)はどうすればいいんだ?
まだすべてが終わったわけではないと悲壮な気持ちになって、ブライデンシュタイン牧師の家に帰った。道ばたを転げまわる紙屑のほうが私よりもずっとましだと考えながら……。


募る家族への思い

一二月二四日、クリスマスイブ。
牧師の息子たちがクリスマスを父母と過ごすために帰ってきた。ここでのクリスマスは、韓国での秋夕や正月のようなものだ。
夜が深まるにつれ、家族の宴は盛り上がっていった。窓の外がすっかり暗くなってくると、家族がそれぞれの楽器を持って集まってきた。父親であるゲアハルト・ブライデンシュタインは指揮を、レナテはピアノ、長男はフルート、次男はクラリネットを手にしている。ごちそうも山のようにある。
音楽とごちそう、それに幸福が溢れるような雰囲気……。しかし、どれも私の傷ついた心を慰めることはできなかった。
何もいらない。ただ、私は妻と娘たちの顔を見たいのだ。
音楽が響くなか、幸福な家族に囲まれていても、私は孤独だった。
一夜明け、クリスマスの日がやってきた。私は牧師の家族と離れ、自分の部屋にこもって一日中、手紙を書いた。北の対外連絡部長、李チャンソンに送る謝罪文である。尹伊桑の指示どおりにしたのだ。礼を失しないようにしながらも、自分の思いをすべて伝えようと、何度も書き直した。
どうしても対南工作放送で働くことができなかった理由を、穏やかな表現で詳細に書き綴った。
私は李チャンソンに、妻がドイツで治療を受けられるよう、ふたりの娘と一緒に出国させてくれさえすれば北朝鮮で見聞きしたことは一切忘れ去り、ひと言も洩らさないと確約した。本心からそうするつもりだった。
妻にも手紙を書いた。西ドイツに無事帰ってきたことを知らせ、近いうちに必ず再会することができるはずだと強調した。このようにしたのは尹伊桑が五〇〇マルクと一緒に寄こした手紙にそのような指示があったからだ。
私は手紙を抱いて寝た。夢に、愛する妻とふたりの娘が現れ、四人で抱き合い、泣き続けた。泣きつかれて目を開けると、すでに外が明るくなっていた。
一二月二六日、ブライデンシュタイン牧師は、私の手紙を持って妻の母を見舞うため、ミュンヘンに向かった。彼の子供たちはすでに家を出たあとだった。レナテも勤務先の養老院に行ったので、大きな邸宅にぽつんと残されたのは、私と一匹の猫だけだった。
牧師がミュンヘンに発ってから二日が過ぎた。
私はこれ以上この家にいてはだめだと考えていた。平和な家庭が、私のために混乱に巻き込まれる恐れがある。しかし、出ていくにしても、どこに行けばいいのか。
午後、牧師が帰ってきた。彼は帰ってくると、私ではなく、まずレナテに話しかけた。
「レナテ、お母さんの容態は良くないようだよ」
「そうなの」
それだけだった。私は目で牧師に尋ねた。
「あ、ドクトル呉の手紙は郵便局から送った」
「こちらの住所を書いたのですか?」
私が聞いた。
「いや、郵便局止めで送ったから、ここの住所は教えなかった」
皆、自分の逃げ道だけは確保している。しかし、家族を北に残したままの私には逃げ道などなかった。


第10章どん底の暮らし

根なし草

一二月二八日。
「もう充分休んだので、キールに帰ろうかと思います」
予想はしていたが、牧師もレナテもあえて止めようとはしなかった。今の私を誰が行くなと止めてくれるというのか。ドイツに二〇年近く滞在して私は初めて異邦人の悲しみを味わいながら駅に向かった。
駅に出て、ふと朴大原のことを思い出した。この人物は北朝鮮を訪問したことさえある人物ではあるが、太公望よろしく歳月に釣り糸を垂れる高潔でゆったりとした品格の持ち主だ。そのため周りの人たちからは親しみを込めて朴道士と呼ばれていた。彼なら私を冷たく見放すようなことはしないような気がした。
ケルンに住む彼に電話をかけてみた。
「呉兄、北に行って、逃げ帰ってきたんだって」
彼はすでに私の事件について知っていた。
「うちに来なさい」
「はい」
彼の家を訪ねると、しばらくして、金吉淳博士がやってきた。たぶん、私が電話をかけたあとで朴道士が彼に連絡したのだろう。金博士の顔色は見る影もなかった。肝炎を患っているのだという。しかし金博士は、いつもの明るさで、肝炎にかかるとおならがひっきりなしに出るんだと言いながら、何度も放屁を繰り返して私たちを笑わせた。
皆、四〇代半ばであった。朴道士が最年長で、私が最年少だった。
金博士が私をこつんとこづきながら言った。
「おまえは欲が深すぎる。だから煩脳の苦海にのたうつ運命から逃れられないんだ」
すると朴道士がつけ加えた。
「呉博士、そんなになんでもかんでも食いついたりしないで、優雅な鶴のように生きろよ」
私は笑った。こちらの苦しみを知って慰めてくれる彼らに気持が有難かった。
朴道士は、ちょっと見には、あれも良いしこれも良いといったような、骨のない清風名月のような人物にも見えるが、ありとあらゆる哲学書を渉猟した知識人であった。ところが、不思議なことに彼の目は、北朝鮮を見る時には完全に曇ってしまうのだった。
私は彼の誤った認識が正されることを期待しながら、北に関する、知るうる限りのことを話して聞かせた。彼の奥さんが従姉妹同士の関係にある七宝山連絡所の兪成根の話もした。
朴道士はずっと聞いていたが、それについては何も言わず話題を変えた。
「それで、ここに来てどうするつもりなんだ?」
「ケルン市に住もうかと思ってね」
「そうか。なら、生計をどうするか考えねばな」
しかし、金吉淳博士の考えは違っていた。
「クロンシュハーゲンのようなニーダーザクセン州の小都市で暮らすのがいいんじゃないか。あそこはいいところだよ。家賃も安いし、生活費も少なくてすむ。すぐに家を借りる金がないのなら、教会が運営する独身者宿泊所を訪ねていけば、お金の節約にもなる。家族と一緒に住むわけじゃないんだから、すぐに家が必要というわけでもないかろう」
彼の話はあまりに冷たいと思ったが、すぐに考え直した。私が彼の立場なら、どうしてやることができるだろうと考えてみた。立場が逆なら、私はどうすることもできず、同じことを言ったに違いない。誰を怨むことができよう。みな、私が馬鹿な選択をしたからこうなったのだから‥‥。
午後八時頃、南民戦事件に関係してフランスに亡命し、今はタクシーの運転手をしている洪某から朴道士に電話がかかってきた。パリに遊びに来いという電話のようだった。朴道士の快活な受け答え‥‥。ここも長居する場所ではないようだ。
「そろそろ、行きます」
私が立ち上がると、金吉淳博士も立ち上がった。
「そうか。じゃあ、行こう」
外に出ると、金博士が冷たい口調で言った。
「呉兄。これからは韓国人の居る場所には姿を見せるな。お互いのためだ。呉兄を暖かく迎えてくれる人は、ドイツにはひとりもいやしない。心して聞けよ。誰も呉兄が訪ねてくることを望んではいないんだ。汽車に乗ってキール方面に向かい、途中のハノーバーで降りるんだ。そして、何とか生きる道を探せ。女房と子供たちのことは忘れろ。期待が大きければ失望も大きいからな。子供たちはまだ幼いから、向こうの環境にも適応して生きていけるだろう。俺の話を冷酷だと思うなよ。北が家族を返してくれると思っているのか? とんでもない。家族と一緒に暮らそうというような夢は捨てろ。このままあちこちうろつきまわったところで、呉兄が傷つくだけだ。私の言いたいことは分かるだろう?」
「……」
私は彼を睨み付けた。この男は私を慰めようとしているのか、苦しめようとしているのか分からない。でもこの男がどう言おうと、私は家族を取り戻すためにすべてをかけるつもりだった。
私たちはケルン市のボン駅で別れた。
「近いうちにまた会おう」
彼が言うと、私はただ頷くだけだった。


冷たい雨降るハノーバー

彼が去ったあと、私はハノーバーヘの切符を買った。彼に言われたとおり、ハノーバーで降りるつもりだった。しかしそれからどうするのかという具体的な計画は何もなかった。
正午、ハノーバーに到着した。外は冷たい雨が降りしきっている。
一二月の雨はじつに寂しい。濡れるのを覚悟で雨に打たれながら歩いていると悪寒が襲ってきたので、すぐ駅に引き返し雨が上がるのを待つことにした。
行くあてなどなかった。駅の構内で夜を明かそうかとも思ったが、駅舎のなかで寝ることは禁止されている。仕方がないので、あちらの椅子に座っては、またこちらの椅子に移動するのを繰り返した。
一時間が過ぎた。体が鉛のように重い。周りを見回すと、駅構内で緑十字協会が運営するバーンホフ・ミッション(旅行者援助室)の看板が目に入った。三〇代前半と思われる清楚な感じのドイツ女性が窓口にいたので、近づいて声をかけた。
「あの、お願いがあります。キールに行く途中、ハノーバーで降りたのですが、寝るところがありません。待合室で寝かせてもらえればと思うのですが……」
「いいですよ」
彼女は優しく答えてくれた。
私が待合室の椅子に座っていると、彼女はお茶を持ってきてくれた。
「どこかお悪いんですか?」
「いえ、大丈夫です」
「少々お待ちください。今、部屋を用意しますから」
しばらくして、彼女が案内してくれたところは、ベッドがふたつある清潔な部屋だった。白いシーツがまぶしい。このシーツにくるまって横になれたら、どんなに柔らかで、気持ちいいだろうか……。
「ここでお休みください」
彼女の声はどこか遠いところから響いてくるように聞こえた。
「あ、はい。ど、どうもありがとうございます」
彼女が出ていくと、私は雨に濡れた服を脱いでベッドにもぐり込んだ。シーツにくるまれると、柔らかな感触が疲れ果てた体をなでてくれる。しかし、肉体の疲労とは逆に、精神はぴんと張りつめていた。
これからどうすればいいのか、私は悩んだ。
金吉淳博士が言ったように教会が運営する独身者用宿泊施設に行くか、それともキールに帰るべきか。
キールに帰ったとて、どうするというあてはない。僑胞たちは私を避けるはずだから職もなく浮浪者のように街をさまようしかない。韓国への帰国も不可能だった。北に密入国して対南工作放送の要員までやった私を、誰が受け入れてくれよう。
朝になり、ドアを開けたり閉めたりする音が聞こえてきた。目を開けて、壁の大きな時計を見ると六時だった。起き出して服を着ていると、昨夜案内してくれた女性がほほえみを浮かべて近づいてきた。
「ゆっくりとお休みになれましたか?」
「あ、はい。おかげさまで……」
この思いがけない恵みもこれ以上は望むことはできない。そう思いながらも、私は言葉尻を濁した。どこへ行こうか?
「スープを召し上がります?」
相手の優しい言葉に、黙って頷いた。
「待合室においでください」
待合室に入ると、何人かがスープを飲んでいる。私は、目の前に置かれたスープを一息に飲み干した。暖かな液体が胃にしみわたると、疲れ切った体が少し落ちついてくるようだった。
「もう一杯いただけますか?」
卑屈にならないように努めながら、側にいた女性に尋ねた。
「どうぞ」
彼女が皿を置くや否や、私はスプーンを皿のなかに入れ瞬く間に空けてしまった。


住む場所を求めて

八時にバーンホフ・ミッションを出た。
相変わらず雨が降り続き、やみそうにない。まず市住宅斡旋仲介課を訪ねることにした。雨に濡れて歩きながら、ここに住んでみよう、家族もいないキールに帰るより、ここのほうが良いかもしれないと心を決めた。
住宅斡旋仲介課はショッピングセンターを彷彿とさせた。たくさんの人々が私と同じ用件で集まり、順番を待っている。
三時間待ってやっと番が回ってきた。担当職員に旅行証明書を呈示して、
「一間の部屋を探しています」と言った。
担当職員は私の亡命旅券を注意深く読んでから返して寄こした。その顔は、さも面倒くさそうだ。
「ミュンヘンに帰ったほうがいいんじゃないですか。発行官庁がミュンヘンですから、そちらに住めばいいでしょう」
「ここに住みたいんです」
「ミュンヘンに帰りなさいと言っているではありませんか」
何度かこちらの事情を説明したが、相手は取り合ってくれない。もう押し問答を続ける気力もなかった。
帰ろうとしたらひどく目眩がして、もどしそうになった。それだけではない。足が張り、目を開けているのもつらくなった。足を踏ん張って何とか歩こうとすると、今度は手がしびれ、痙攣が走った。
とうとう私は人目もはばからずその場に座り込んでしまった。かろうじて意識はあったのでまず足を壁のほうに伸ばした。壁に足をつけて力めば、少しは良くなるような気がしたからだ。
廊下で順番を待っていた人たちが心配顔で近寄ってきた。
「どこか悪いんですか? 助けがいりますか?」
私は首を振った。
「ときどき痙攣が起こるんですが、こうしていれば落ち着いてきます」
目を閉じて休むと少しずつ元気が出てきた。しばらくそうやって横になっていると、落ち着いたので私はズボンを払って立ち上がった。
そこを出てから冷たい雨が降りしきる中を歩いて市庁広場に出た。雨の滴が顔を容赦なく打つ。前髪が雨に濡れてだらりと垂れてきた。住むところを探してあちこち訪ね回ったが、私を受け入れてくれるところはどこにもなかった。
もうどうしようもない。金吉淳博士の言うとおり、教会がやっている宿泊所に行く以外……。
歩いている人に、教会が運営する独身者宿泊所はどこかと聞き、三人目でやっとその場所が分かった。
行ってみると、そこはこの世のはきだめのようなところだった。入り口に酔っぱらいやら乞食やらが何をするでもなく群れている。それを見て私はやりきれなくなった。
呉吉男、おまえは経済学博士だ。乞食と一緒に住むために博士になったのか? 引き返せ、引き返せ。心のなかで、ひとつの自我がもうひとつの自我に向かって叫び続けた。入り口でぐずぐずしていたが、私はいつの間にか引き返していた。財布は空っぽで、すぐに金が手に入る見込みもなかったが、どうしてもそのなかに入ることはできなかった。
雨はまだ、降り続いていた。鉛色の空がズタズタになった私の心をさらに重いものにした。何の考えもなしに歩いていると、やがて鉛色の空がだんだん白くなっていくような気がした。それが最後であった。


人生の落伍者が暮らす施設

きつい消毒薬の匂いが鼻についた。こじあけるようにして重い目蓋を開いた。天井は白く、かなり高い。ここはどこだろうか? 驚いて起き上がろうとしたが、まるで肩に錘でも乗せられているように、身動きひとつできない。
「気がつきましたか?」
女の声だった。それも、ドイツ語だ。
「こ、ここはどこですか?」
声のするほうに振り返って尋ねた。目の前に背が高く、目の大きなドイツ人の看護婦が立っている。彼女は微笑みながら私を見おろしていた。
「ここは病院です」
「私が、な、なんで病院に……?」
「覚えていらっしゃらないと思いますが、道端に倒れていたところを、救急車で運ばれてきたんです。気がついて良かったわ。身元を確認しなければいけませんね」
私はポケットをひっくり返してパスポートを取り出し、彼女に手渡した。
「行くところがないのですか?」
看護婦がメモを取りながら聞いた。
「はい」
「それでは、独身者宿泊所に行きますか?」
私は目を閉じて頷いた。あの、人間のはきだめに入るしかないのか……。そう思うと知らぬ間に、涙があふれてきた。
呉吉男、おまえはもう博士でもなんでもない。おまえはただ、人生の敗残者にすぎない。その上、卑怯で愚かな人間だ。
「身元確認がすみましたので、シャウンブルク通り三番地の独身者宿泊所まで送ってさしあげます」
「そこは、どんなところなのですか?」
質問したところでどうしようもないことを知りながらも、聞いてみた。看護婦は相変わらずほほえみを浮かべながら質問に笞えてくれた。
「プロテスタントの慈善団体が運営する、生活に困っている人たちを保護する施設です。まずそこに入って、それからもっと良いところに移るようにすればいいでしょう。でも、もう少し元気になるまで、この病院にいたほうがいいですね」
目を閉じた。どうかゆっくり回復しますように……。粗暴な連中が群がる宿泊所よりは、病院にいるほうがずっと安全に思えた。
しかしそんな願いも虚しく三日後には、シャウンブルク通り三番地に移らなければならなかった。
そこに移った当日、隣の部屋に住んでいた男が拳銃自殺をするという事件が起きた。
この男は、強盗の容疑で、警察の追及を受けていたという。結局、警察の包囲網が独身者宿泊所に及んだため、男は諦めて銃で自分の喉を撃ち抜き、窓から飛び降りたのだった。私は事件を目撃して、ぶるぶると震えた。こんなところで、どうして生活していくことができようか……。
独身者宿泊所で生活する人々は、大部分が人生の落伍者であった。大なり小なり過ちを犯し、自らを社会的に廃棄処分にした人々である。さもなければ、私のように他人によって廃棄処分された人々だ。
生きる屍のように無為な時間が過ぎていった。外に出ようという気にもならない。与えられた食物を喉に流し込み、ベッドにだらしなく横になって豚のように眠りこける毎日……。
そんな私にも、訪ねてきてくれる人があった。一月のある真夜中、ベルリンから李鍾秀が米とキムチ、電気釜などを持ってやってきたのだ。
さらに、李鍾秀が去って間もなく、シン・イナと李文浩も訪ねてきてくれた。李文浩は私が接触するよう指示されていたふたりのうちのひとりだ。
私はまず家族を連れて北に行った経緯と、北で見聞きしたすべてを話したあと心から諭した。「反政府活動に巻き込まれるようなことは絶対にするな。一所懸命勉強しろ。勉強をするだけでも、人生は短すぎる」
そして迷った末に、李文浩に打ち明けることにした。
「じつは、私がコペンハーゲンに出てきたのは、君と朴炳燮を、北の責任工作員である自治完と接触させるためだったんだ」
李文浩は目を大きく見開き、あまりのショックに茫然としている。それを見て私は、白治完が工作資金として一万二千ドルを用意し、その金でふたりを北に連れ去ろうと計画していたことまでは話すことはできなかった。
「博士から呼び出しがあったなら、私はコペンハーゲンに行っていたでしょう」
李文浩の言葉に、私は、自分が犯していたかもしれない罪の大きさを知った。
「ふたりには本当に悪いことをした。しかし、女房にそれだけはやめてと言われて、罪を犯すようなことはしなかったんだ」
ふたりを窮地に追い込もうとした点について、涙を流しながら心から詫びた。
「博士、分かりました。もうそれくらいにしてください。今は、ご家族の心配をしなければならない身でしょう」
李文浩が、こちらの気か弱くなっているのを知ってか、力強い声で言ってくれた。
「ご家族の問題はいい方向で解決されると思います。彼ら(北朝鮮)はわれわれに、良い面だけを見せようと躍起になっています。そうしなければ、あの国に協力する人間など作り出せるわけがないからです」
李文浩は私を慰めるためにそう言っているのだと思ったが、その気配りが嬉しかった。


迷惑な報道

八七年一月五日。近くの公衆電話から、東ベルリンの北朝鮮大使館に電話をかけた。電話に出たのは、レーニン通り一七五番地の工作拠点にいたあの元将軍だという老人であった。
「私は、呉京賢、いや、呉吉男です」
すると、相手はいかにも嬉しげに尋ねてきた。
「体の具合が悪かっかようですが、今はどうですか?」
「すっかり良くなりました。ところで……」
「あ、家族のことですね。心配しないでください。すべてうまく解決するはずですから」
彼の言葉を聞いて、私は飛び上がらんばかりに喜んだ。西ドイツで家族と再会し、ここでもう一度一緒に暮らすことができるなら、私はなんだってできる。掃除夫になったって構わない。
電話を切ったあともしばらくの間は、天にも昇る気持ちだった。
李文浩の話によれば、尹伊桑の妻、李水子が、私の家族のために何度か北朝鮮大使館を訪ねてくれたらしい。また、金吉淳博士も尹伊桑に会って口添えしてくれたと聞いた。
そんな話を伝え聞いて、遅くとも復活祭の頃には淑子や娘たちと再会するためコペンハーゲンに行けるのではないかと思い始めていた。
ところが、妙なことになってしまった。
欧米のマスコミが、私の脱出事件を大々的に取り上げ北朝鮮の体制を猛烈に非難し始めたのだ。韓国の日刊紙にも詳しく報道された。
こうなっては、北朝鮮の上層幹部が腹を立て妻と娘を返してくれなくなるのではないかと心配になった。
ただ、ひとつ救いだったのは同じ時期に金萬鉄一家の脱出事件(日本の福井県に漂着)が発生したことだ。韓国のマスコミは私の事件を大きく報道していたが、すぐあとにその事件が発生したので、注目はそちらに移った。これで少し助かったと思った。
マスコミが騒ぎ続ければ、それだけ妻と娘との再会が難しくなるに違いないのだ。
欧米や韓国のマスコミが私の事件をどうやって知ったのか、いろいろと考えてみた。
思い当たる節があった。私と自治完を迎えに来た北朝鮮大使は、コペンハーゲン空港で私が失踪すると、デンマーク外務省に呉京賢を返せとねじこんだに違いない。それに対し、デンマーク外務省は呉京賢などは知らぬ、呉吉男ではないのかと反問したのではないか。そして、すったもんだの末、大騒ぎになったに違いない。
結局、デンマーク外務省は事件をマスコミに流すことによって、北朝鮮大使を窮地に追い込んだのだ。これは結果的に私にとって極めて迷惑なことになったが、どうしようもなかった。
この年、北朝鮮外交官や幹部級工作員の亡命事件が続発し、北朝鮮の威信は大きく失墜していた。これは私が最も恐れたことだ。こうなれば北朝鮮は態度を硬化させ、おとなしく妻と娘を返してくれないのではないか? 私は心配でいても立ってもいられなかった。
結局、北朝鮮大使館宛にもう一度手紙を書いた。私の気持ちに反して脱出劇が世界中で報道され、物議を醸してしまったことに対する謝罪の手紙だ。同時に私は家族を出国させてくれるよう善処して欲しいと訴えた。
その手紙を送ってからしばらく私は、虚脱状態でぼんやりと毎日を送った。


再度の北行きを勧める尹伊桑

いつのまにか三月になっていた。
日当たりの良いところでは、芝が緑の芽を出している。もう春だ。
春は、希望と同じ意味で使われる言葉ではなかったか。しかし、私はいまだ冬に閉ざされている。悪臭の漂う部屋。そして、アルコール中毒者たち……。
陽射しが暖かくなったので窓辺でひなたぼっこをしていると、ふと淑子の顔が浮かび、声が聞こえてきた。
「……誰でも今の地位よりもっと上にのぼろうとする限り間違いをしでかすことがあるわ。あなたが私たちをこんなところに無理矢理連れてきたことについてなら、許すことができるわ。たとえそれがどんなに愚かなことでもね。それはあなたが私の夫だからよ。でも、かわいい娘たちを犯罪者の娘にしてはいけない。純粋な人たちを陰謀のいけにえにするなんて、そんな役割を引き受けるような馬鹿なことをしてはいけない」
そうだ、おまえ。私はおまえの言うとおり奴らの共犯者にはならなかったよ。
淑子の声を聞いて、また勇気がわいてきた。私は尹伊桑に、どうか妻とふたりの娘を助けて欲しいと嘆願する手紙を書いた。
四月の初旬頃、尹伊桑から電話がかかってきた。
「ハノーバーに行く予定があるので、そこで会おう」
ルイゼンホーフ・ホテルで会おうと言うのだ。
約束の日に、指定されたホテルに駆け込むと、夫人の李水子も一緒だった。
「東ベルリンにある工作拠点の責任者に会って、呉博士が書いた謝罪の手紙を読んだ。よく書いたな。しかし、これからどうなるかは分からん。なにしろ呉博士のために、東ベルリンの工作拠点の責任者が平壌に召還されたからな」
「では、妻と娘は永遠に出てこられないのですか?」
目の前が暗くなるのを感じながら尋ねた。
「共和国では、君の家族を西ドイツに返すと、そのまま南朝鮮に行ってしまうのではないかと心配している。それに君は、七宝山連絡所の秘密を知っている。だから家族を人質として捕まえておく以外に方法はないと考えているようだ。こうなってしまっては、家族を西ドイツに返す問題は、金日成首領ひとりでは決定できないはずだ。それにしても、なんでそんなに軽々しい行動を取ったのだ? もう少し我慢していれば、いい職場に行かれたものを。いつまでも君を対南工作放送要員として使うつもりはなかったと聞いているぞ」
私は頭を垂れ、目を閉じた。妻と娘は帰ってくることができない。できない。できない…… 帰ってこないのなら、私は……。
李水子の声に、我にかえった。
「呉先生、虎に噛みつかれても、心さえしっかりしていれば助かると言うでしょう。気を取り直さなきゃだめよ。平壌にいる家族のことは忘れて、再婚なさいな。再婚して、幸せに暮らせばいいじゃないの」
尹伊桑が大声を上げた。
「何を言っているんだ。馬鹿なことを言うんじゃないよ!」
そして、私に向き直ると囁くように言った。
「呉博士、天が落ちてきても、抜け道はあるものだ。暗いトンネルのなかを這っているとしても、進んでいけば明るい光に出合うはずだ。だから、こうしてはどうかな。共和国では、君の罪を寛容をもって許す意向があると聞いてきた。家族のことを思って、もう一度平壌に帰りなさい」
「……」
「共和国にいる時、人々は私のことをどう言っておった?」
「あまりの噂を聞いたことはありません。でも、愛国者だと言っていました」
「私は共産主義者ではないが、社会主義者ではある」
彼は親指を立てて、つけ加えた。
「私はこの人を尊敬している」
彼が立てた親指は金日成であると判断した。
尹伊桑夫妻と別れてホテルを出た。足が震える。耳元には、いつまでも尹伊桑の言葉が残っていた。
-家族のことを思って、もう一度平壌に帰りなさい。
あとで聞いたことだが、尹伊桑と李水子はその足でボーフムに向かい、私の家族の問題を協議するために、ブライデンシュタイン牧師ともうひとりの人物と会談している。ブライデンシュタインも、妻と子供たちを返せば、私が韓国に行ってしまうと考えたようだ。だから、家族を人質としておさえておかなければならないと言ったらしい。いったい、彼らは誰の味方だったのか?
体調が思わしくなく二週間入院した。退院してみると、もう四月下旬だった。
外は、春の盛りであった。花が咲き、木々が水を吸い上げ、緑の葉をつける季節となった。
ブライデンシュタイン牧師から手紙が来た。ひとりで生きることを考えてみろと書いてある。同じような内容の手紙がほかからも何通か続いて届いた。
私が再婚して安定した生活をすれば、彼らは安心するのだろう。しかし、それはあり得ないことだ。誰が再婚などするものか! 俺は必ず女房と子供を救い出してみせるぞ!・ どちらが勝つか、勝負してみようじゃないか!
しかし、いくら気持ちを奮い立たせても私の体のほうは少しずつ衰弱していった。


第11章 希望と絶望のはざまで

必ず家族を救い出す

八七年七月一目。真夏の刺すような陽射しを浴びながら、私はハノーバー市ベンゼン通りにある独身者アパートヘ引っ越しをした。これで何とかこの世のはきだめから抜け出すことができた。これまでのところは実際は浮浪者収容所だったと言ってよい。私に新しい独身者アパートを斡旋してくれたのは、社会的に困窮する人を救済する相談所だった。
引っ越しを終えてから何日もたたないうちに、また内務省の係官が訪ねてきた。
彼は私の生活状況を見て言った。
「韓国政府があなたを援助する用意があると言っている。援助を受けますか?」
北にいる家族の送還問題を放棄したわけではないので、私は承諾も拒否もできなかった。
「考えてみます」
曖昧模糊とした答えを口にしながら、私は笑うしかなかった。
「もう一度来ますから、よく考えておいてください」
彼に、こちらの電話番号を書いて渡した。
新居に移って三ヵ月が過ぎた頃、尹伊桑から電話がかかってきた。
「呉博士、明日の午後八時、ハノーバー音楽大学まで出てきなさい」
「分かりました。先生」
私は彼が来いと言ったらベルリンでもどこでも行かなければならなかった。それだけしか家族を救う方法はないのだ。
尹伊桑は九月にヨーロッパの著名な音楽家を連れて『尹伊桑音楽祭』を主催するため、平壌に行ってきたばかりであった。
彼は七〇歳を記念して、北朝鮮政府の肝いりでいくつかの音楽会を開き、北朝鮮の労働新聞とテレビは、尹を偉大な音楽家という枕詞をつけて最大の賛辞を送った。
北は間違いなく世界的な大作曲家・尹伊桑を対南工作に利用していた。それを知らないのは、当の尹伊桑本人だけだった。
彼は世界中を飛び回り、平壌に行く前には西ドイツ政府から何とかいう功労大勲章まで授与されていた。
この大作曲家は、今を堪え忍んでいる北朝鮮の人々の気持ちを全く知らなかったし、見ようともしなかった。北朝鮮工作機関のおべっかにのせられた彼の目は、開いていても何も見えなくなっていたのだろう。
礼儀を失しないように、私はいい服を引っぱり出し、頭髪も丁寧に整えた。尹伊桑はハノーバー音楽大学で教授として後進の指導にあたっていたことがある。東ベルリン事件で三年間韓国で服役し、ドイツに帰ってきてからのことだ。
彼はここで音楽会を開くことになっていた。
約束の時間より一時間早く、ハノーバー音楽大学に到着した。
私は彼の音楽にはまったく興味がない。関心事はただひとつ。尹伊桑が北に残っている家族についての何か良い知らせを持ってきてくれるかどうかである。それを思うと心が震えた。
尹伊桑が出てきた。暗かったが、遠くから彼を見つけ、駆けていった。
「先生、お元気ですか」
彼は疲れているように見えた。健康を害しているような表情だ。ドイツと平壌の間を往復した長旅のせいだろうか?
「なかに入って演奏会を楽しみなさい。終わってから会おう」
「分かりました」
一二マルク(当時のレートで約一千円)を払って入場券を買った。私が一週間生活することができる金額だ。
音楽大学のコンサート・ホールは客席が六百ほどで、それほど広くはなかったが、ほとんど人で埋まっていた。
場内が静まり、演奏が始まった。
最初から退屈でうんざりする音楽に、私は音楽会が早く終わることだけを考えていた。
ようやく演奏会が終わると、重病で寝込んでいたのが全快したような気分になった。
拍手のなかを尹伊桑が舞台に上がり、指揮者の手を挙げた。雷鳴のような喝采がわきおこった。続いて尹伊桑はバイオリン奏者の手を挙げると、また拍手が起こる。尹伊桑が動くたびに、拍手がわき上がった。私もつられて手を叩いていた。
ドイツに来て勉強を始めた頃、教授が何か冗談を言ったので、学生たちが机を叩きながら大騒ぎをしたことがある。私はその冗談を理解することができなかったが、一緒に大笑いして机を叩いた。その時と同じだった。
長い拍手が止み、聴衆がホールの外に出ると、私も彼らと一緒に外に出た。あとは尹伊桑と会うという仕事だけが残っていた。ここに来た目的はそれなのだ。
途中でプログラムを貰って、読んでみた。尹伊桑の略歴が書いてあった。“KCIA(韓国中央情報部)に拉致され、拷問された自由の闘士。東洋の音を西洋の楽器で演奏する異能„。称賛は限りなかった。
私も彼が世界的な大作曲家としての地位を築いていることは認める。誰もこのことは否定できない。ただ、私は彼の荒唐無稽な傲慢さと、金日成の手先になっているという点を、容認できないのだ。
しかし、それと同時に自由の闘士・尹伊桑が私の家族の問題も解決してくれる唯一の人物と信じ切っていた。
私はこういう時が来ると思い、北朝鮮にいた時に対南工作機関で活動していたという事実を韓国側にもらしたりはしなかった。また、韓国当局からの援助の申し出も断っていた。それもこれも尹伊桑が、こうした私の姿勢を高く評価してくれるものと、信じていたからだ。それだけではない。妻と子供たちを返してくれるなら、私は彼に土下座するぐらいはもちろんのこと、犬のように這い回れと言われればそのとおりにする覚悟だった。


尹伊桑から渡された妻の手紙

尹伊桑を待ちながら、私ははやる心を抑えようと懸命だった。喉がむしょうに乾く。しかし、待てど暮らせど彼は姿を現さない。
ホールのロビーに聴衆はもうひとりもいなかった。私は外に出てホールの入り口でひとり立ち続けた。
ついに待ちわびた尹伊桑が現れた。
ところが、近づいてきた彼は予想もしなかったことを言った。
「呉博士、今日は遅いから、明日の朝九時にルイゼンホーフ・ホテルに来なさい。これは向こうで預かった奥さんから君への手紙だ。これを読んでから明日話そう」
それだけ言うと彼は帰っていった。まさに取りつくしまもないという感じだ。
私は震える手で妻の手紙を握りしめながら、その後ろ姿を見送った。
それからどうやって家に帰ったのか、覚えていない。家に戻ると早速、妻の手紙を取り出した。
手が震え、手紙を開く前から涙が止まらない。
あなた
どうお過ごしですか?
体の具合はどうですか?
あなたが行かれてから、もう一年近くになります。
恵媛、圭媛にさぞ会いたいことでしょう。
あなたの様子が分からなくて、もどかしい日々を過ごしていたのですが、こちらから手紙を持っていってくれる人がいるというので、急いでこの文を書いています。たぶん、その人はベルリンの尹先生ではないかと思います。
新聞によれば、先生は偉大なる首領さま(金日成)との接見もなされ、音楽会も成功したとのことです。
私は音楽会に行ったり、先生にお目にかかることはできませんでした。
私たちは何事もなく、平穏無事に暮らしています。恵媛は一学年飛び級して中学生になったのですが、そこでも最優等生です。圭媛も三年生になり、ずいぶんと手が掛からなくなりました。家のことを手伝ってくれることもあるんですよ。私の健康は相変わらずで、今は職場に出ています。八月に、静かな郊外に引っ越ししました。
前に住んでいた中心街よりも、山河が美しく、気に入っています。当局が勧めてくれたんです。
最初は、私も早くこの国を出たいと思っていました。でも、いろいろと説教されました。自分の地を捨てて、何の面目があって生きていくことができるのか? あなたたちは民主化運動をしていたというが、それは自分だけが贅沢をしようと思ってしたことなのか? どこかよその国のためにしたことなのか? ここに住んでいる人々は統一を願い、戦後の復興建設という困難を乗り越えてきました。皆一緒に働き、皆一緒に暮らしていくのが悪いことなのか? それが厭で祖国を離れるというのは、人間として許されることなのか?
最初は、私たちの考えが全部正しいと思っていたのですが、いろいろと話を聞くと、納得できる点が多々あると思うようになりました。あなたが去ってから、私たちはどうなるのだろうと毎日不安に包まれていましたが、これといった事件もありませんでした。
あなたについて解明しなければならないことがあるというので、すべて事実どおりに話しました。
それからは不安もなくなり、最近では、私たちは祖国に対して何ということをしでかしてしまったのだろう? ほかの方法を考えもせずに何でそうしてしまったのだろう?と思うようになりました。余りにも事を急ぎすぎたと今は考えています。でも、あなたを恨んだりはしません。
誰でも道を誤るということはあるものです。あなたのお考え次第ですが、帰ってきてもいいのではないかと思います。
それでは、くれぐれもお体に気をつけて。


一九八七年一〇月一一日
ヘウォン・オンマ(恵媛の母)


手紙を読みながら、何度も頭をかきむしった。淑子は平穏無事に過ごしていると書いてきたが、真っ赤な嘘だ。当局に書かされているだけなのだ。“山河の美しい所„に引っ越しをしたということが何を意味するかも分かっている。でも最も私の心を重くしたのは、“あなたを恨んだりしない„と言っているところだ。それは呪いの言葉を聞くよりももっとつらかった。
私は手紙を抱きしめながら、一晩中、苦しみ悶えていた。声を上げて哭くことができれば、少しは胸が晴れるだろうが、涙が出てこなかった。悲しすぎると泣くこともできなくなるという話を聞いたことがあるが、この時の私がまさにそうだった。


人質にされた妻と子

翌朝、私は起きるとすぐにルイゼンホーフ・ホテルに向かった。約束の時間にはまだ間があったので、ホテルの周りを回りながらタバコを吸い続けた。淑子は、“帰ってきてもいいのではないか„と書いてきた。これは北当局の強要によるものか、あるいは事実そう思っているのか? 私はずっと考え続けた。
約束の時間が近づいてきた。フロントに行って、尹伊桑の部屋番号を尋ねた。
「奥さんの手紙を読んで、どう思った?」
「妻は、私が平壌に帰ってきてもいいのではないかと思うと書いてきましたが、帰る面目もないし、帰ったところで意味のある仕事はできないと思います」
尹の言葉に私は率直に答えた。これは本心だった。
「呉博士、よく聞きなさい。奥さんは本当に立派な人だ。間違いを認めて、帰ってこいといっているではないか。それでもまだ君は分からないのか?」
「先生が私の入北を評価してくださっていたことは存じています。私は経済学者としてやりがいのある仕事をしようと、平壌に行きました。ところが、彼らに命じられたのは、七宝山連絡所で対南工作放送に従事するということでした。それだけではありません。次にはコペンハーゲンに行って、ふたりの南の留学生を北に誘い入れるよう命じられました。私は怖くなりました。もしこの仕事が人民のためになることなら私は逃げ出したりはしません。でも、とてもそうは思えません。それなのに彼らはしつこく、頑固でした。私は対南工作放送の仕事をするだけでも厭で厭でたまらなかったのに、さらにそんなことを命じられて息が詰まるようでした。
もう一度言いますが、工作員になれという命令を断ることはできなかったんです。その命令が下る前は何もかも捨て去り、ただ言われたとおりに北で生きていこうと思っていました。しかし、その命令だけには従うわけにはいきませんでした。私は自殺したいと思ったくらいです。
北の現状はひどいものです。恥ずかしいことですが、ドイツ語しか知らない恵媛が、あまりに切なくて、突然わんわん泣きながらアパートから飛び降りてしまいたいと言っていました。
恵媛はまだ一〇歳です。子供がそう思い詰めるほどあの国はすさみ、荒れ果てているのです。
私は、やっと食べていかれるだけの生活でもいいから、ただ学問することだけを願っていました。
しかし彼らは私を、対南工作要員として利用することしか考えていなかったのです。抗議にもならない抗議をしたこともありますが、何の役にも立ちませんでした。そらとぼけて、彼らはただ金正日のご意向だと繰り返すのみです。本当にあの国には愛想が尽きてしまいましたよ。
先生、前途有望なふたりの学者が私が行う工作の犠牲になることには耐えられませんでした。ふたりが南朝鮮の現政権に対し批判的な態度を取っていることは事実です。しかし、だからといって彼らが北朝鮮に対して無批判であるというわけでもないのです。それに彼らはまだ若く、ことの是非を十分にわきまえているとはいえません。私は、このままでは彼らが、自分のようになってしまうと思っていました。彼らが私に誘い込まれて、中央党第五課(北朝鮮の対南工作機関)と接触したとしましょう。あの恐ろしい安企部(韓国国家安全企画部)が、純粋なふたりの若者を放っておくと思いますか? もしかしたら、彼らはたった一度の過ちから、永遠に祖国に足を踏み入れることができなくなるかもしれません。
中央党の幹部たちは、南朝鮮のやつらを南朝鮮の者どもの手によって滅ぼさせるという悪辣な戦術を使っています。口では統一を念仏のように繰り返しながら、実際には卑劣な犯罪に手を染めているのです。
先生、八五年八月に入北を勧めてくれた先生が、もう一度私に入北を勧めるとおっしゃるのであれば、北朝鮮に行って人民のために経済学者として活動するという条件を保証してくださいますか?」
私はひと息にそこまで言うと、テーブルの上にあった水をがぶがぶと飲みほした。
「資本主義社会で学んだ経済学など、我が社会主義では何の役にも立たないと、許錟が言っていた。しかし、呉博士のためには、今良い地位を探しているとも言っていた。それなのに、なぜ脱走という性急で軽率な行動に踏み切ってしまったんだ」
許錟は尹伊桑の面前で、北朝鮮では科学としての経済学が通用しないということを認めたわけだ。それは裏を返せば、私の提案を受け入れることができないという意味でもある。
「ならば先生。経済学者として活動するという条件を保証してくれないというのなら、私が北へ帰る代わりに、妻と子供たちをドイツに返してください。私はどんな処罰でも甘受する覚悟で北に帰ります」


信じ難い現実

私の提案には多分に悪意が含まれていた。尹伊桑がそれに気がつかないわけがない。彼は声を荒げて言った。
「ほざくな! おまえは何を言っているのか分かっているのか。もう聞きたくない。出ていけ!」
この男は私をもう一度北に送ろうとして私に会ったのであり、家族をドイツに返してくれるためではない。そのことを理解して私はさっと立ち上がった。
「いいでしょう。出ていきます」
席を立って部屋を出ていこうとする私を、尹伊桑が止めた。
「呉博士、少しだけ我慢しなさい。聞いたところによると、君は数学も得意で数理統計学にも精通しているということだが、それなら、こうしたらどうだろうか?」
「どういうことですか」
私はぶっきらぼうに答えた。
「コンピューターサイエンスを四、五年ここで学び、それから家族のもとに帰るようにしたらどうか。その間、祖国は家族を国賓待遇で預かってくれるはずだ」
私は自分の耳を疑った。この男は何も知らないのだ。無知というにも、度が過ぎている。何度も北朝鮮に足を踏み入れたのは、何のためであったのか。私に見えたことを、彼は何も見なかったとでもいうのか。
「この年になってから新しい勉強を一から始める自信はありませんが、無意味でない仕事を朝鮮でできるというのなら、こんなにうれしいことはありません。
しかし、それは不可能です。北に行った知識人たちがどういう扱いを受けているか考えて見てください。東ベルリン事件の鄭河龍の弟、鄭玄龍氏が七宝山連絡所の対南工作放送局にいます。そこでは張錫奎という仮名をつかっています。彼は京畿高等学校からソウル工大金属工学科に進んだ人物で、ヨーロッパに留学していた際に東ベルリン事件が起こり、このままでは祖国にも帰れないと思って、夫人の尹ヒャンヒと、ふたりで平壌に逃げてきたのだそうです。夫人もあそこでは韓ソンエという仮名を使っています。
先生が韓民連の議長をなさっていた時に、国際部長だった許弘植氏も対南工作放送の要員です。それだけではありませんよ。カナダで物理学か数学か、とにかく自然科学系の教授をしていた人が北に来ました。ところが、北が彼にさせた仕事は、工作員の英語教育でした。彼の娘は、金永南外交部長(外相)の英語通訳をしているそうです。
釜山大学で哲学の教授をしていた尹老彬も、チョン・ヨンホという名で対南工作放送で働いています。そのほかにも、例を挙げたらきりがありません。皆そのようなありさまなのに、私だけが例外だというようなことがあるでしょうか。
先生、どうか家族を返してください。そうすれば、目を噤んで、静かに暮らしていきます。もしそれができないのならば、さっき言ったように、私が北に行き、家族をドイツに帰すようにしてください」
尹伊桑は私の話を聞きながら、いかにも不愉快な顔をすると、もうたくさんだとばかりに叫んだ。
「私は人道的な次元でおまえを助けようとしてきた。しかしおまえは私の苦労を爪の先ほども分かろうとしない。もうおしまいだ。出ていけ! おまえは恩をあだでかえした。好きにするがいい。家族を返せば、家族と一緒に南朝鮮に行ってしまう危険性があるから、返すわけにはいかない。許錟も言っていたが、おまえは朝鮮の内部事情を盗み見し、連絡所の秘密をかぎつけてから逃げ出したんだ。おまえは米帝に雇われたスパイに違いない。そうでないことを立証するためには、家族がいる平壌に帰らなければだめだ。帰っても、おまえは共和国の公民ではないから、法による処罰は免れるはずだ。
もう一度忠告する。平壌に帰れ。帰らないのなら、家族は人質として捕まえておかざるを得ない。軽率な行動を取れば、家族がどんな目にあうか、心しておくことだ。もうこれ以上おまえの顔なぞ見たくもない。出ていけ! 人間が、最後に残しておかなければならないものは、良心なんだぞ!」
尹伊桑の話を聞きながら、鳥肌が立つのを感じた。恐ろしい男だ。彼は、私を再入北させようという決然たる意志を見せたのだ。
あれほど待ち望んでいた一条の希望の光が消えていく……。
ホテルを出ながら、人生の終末を告げられたような絶望感と虚無感に包まれ、重い足を引きずって家路についた。


北朝鮮大使館からの接触

八八年一月一七日。
東ベルリンの北朝鮮大使館が、尹伊桑を通して連絡を取ってきた。連絡の内容は、八八年一月二八日午前一〇時に、オーストリアのウィーンにある北朝鮮大使館で、家族の問題を協議しようというものだった。彼らが私を拉致しようとしてそんな提案をしたのではないかと疑ったが、一応承諾した。
私は万一の事態に備えて、金吉淳博士と呉石根、ブライデンシュタイン牧師など親しい人たちにそのことを知らせた。
フランクフルトにあるオーストリア領事館で、入国ビザを取得したあと、二八日午前八時頃、私は呉石根と一緒にウィーンに向かった。
北朝鮮大使館では白治完と、海外同胞委員会援護局長という男が私たちを迎えてくれた。
彼らは私と呉石根を中華料理屋に案内した。私は再三、援護局長に家族を返してくれと頼んだ。しかし相手は身辺を保証するから北に帰ろうと言うばかりで、私と彼らの主張は終始平行線をたどった。とはいえ、彼らを刺激したくなかったので、私はできるだけ穏便に話した。
「今さら何の面目があって帰れますか。家族と一緒にドイツで静かに暮らしていきますから、どうか家族を返してください」
「呉先生、身辺の保証は十分にしてあげますから、家族のいる祖国に帰りましょう」
いくら話してもきりがなかった。これでは家族を返してもらうのはほとんど不可能に思えてくる。それでもあきらめず私は援護局長と名乗る男に家族の安否を訊ねた。
「呉先生、ご家族は今、ヒョンジェ山のなかに住んでいます」
息が詰まった。山のなかに住んでいるとは……。私は恵媛と圭媛にあげようと思って買った手袋を差し出した。
「子供たちにこの手袋を渡してやってくださいませんか」
「呉先生との話が終わっていない状況で、このようなものを預かるわけにはいきません」
彼らは冷たく拒絶した。父親として子供たちに手袋ひとつ自由に贈ってやれないとは、心が凍るようだった。
「ヒョンジェ山というのはどこにあるのですか? 収容所ですか?」
「説明できません」
目の前が真っ暗になるような絶望感に包まれた。平壌で一一ヵ月過ごしたがヒョンジェ山というのは聞いたことがなかった。どんな所なのだろうか。政治犯やその家族を収容する所なのだろうか。それとも粛清された人々の家族を強制移住させる山奥の農場なのか?
どのようにして中華料理屋を出たのかは記憶にない。私は発狂寸前だった。
北の連中と別れたあと呉石根が静かに、
「ウィーンに来たついでに、頭を冷やすのも兼ねて、観光でもしていこう」と誘ってきた。
彼にすまないと思い、頷いた。
しかし名所旧跡を回っていても、私の目に入るものなど何もなかった。頭のなかにあるのは妻と子供たちのことだけ。このままでは一生会えないという思いが募り、私は再び北へ行くことを真剣に考えていた。私が帰れば、妻と子供たちは助かる。しかし……。
答えの出ない問いを考え続けた。いつまでも、いつまでも。
結局、何の成果もないままドイツに帰るしかなかった。
私は呉石根の家にいたが、間もなくどうやって知ったのか、尹伊桑がその家に電話をかけてきた。
「呉博士、共和国は絶対にお前の家族を外には出さない。私の言ったことをもう一度よく考えてみろ」
「考えることなど何もありません」
私が電話に向かって叫ぶと、尹伊桑は何も言わずに電話を切った。


妻からの二度目の手紙

一〇月初旬のある日のことだった。早起きしたのだが、することもなくベッドでごろごろしていると、電話が鳴った。
「尹伊桑だが」
「先生、どうしたのですか?」
嬉しさ半分、恐ろしさ半分といった感じで尋ねた。
「今、ハノーバーに来ている。ルイゼンホーフ・ホテルにいるんだが、ちょっとコーヒーショップまで出てきなさい」
「分かりました」
顔を洗って、ホテルに駆けつけた。
「まず、奥さんからの手紙だ」
やにわに彼は淑子からの二度目の手紙を差し出した。何が書かれているのだろうか? もしかしたら、拷問されて、私に入北を催促する手紙を無理矢理書かされたのではないだろうか。
「力の及ぶ限り、呉博士の家族の送還に努力してみたが、送還はとうてい無理なようだ。呉博士が共和国に行くしか方法はない。奥さんと子供たちも君が帰ってくるのを首を長くして待っている。君の奥さんは本当に立派な人だ。共和国も、過去の過ちを反省して帰ってくれば、これまでのことは不問に付すと言っている。だから、妻子のことを考えて平壌に帰りなさい」
「私の答はこの前と同じです」
家族の送還が簡単に実現できるものではないことは十分承知していた。尹伊桑がもう一度入北を勧めに来るだろうことも予想していた。予想してはいたのだが、彼の知的良心を信じ、もしかしたらと一縷の望みを賭けてここに来たのだ。
しかし、これですべての希望は消え去った。これ以上、尹伊桑にもてあそばれるのはごめんだ。妻の手紙をポケットに入れて、私は決然と立ち上がった。
家に帰ってすぐ、震える手で封筒から手紙を取り出し、読んでみた。
あなた
昨年、尹先生に手紙を託してから、ちょうど一年が過ぎました。その間、つてがなくて手紙を送ることができませんでした。
お元気ですか?
子供たちと離れて寂しく暮らしているあなたのことがいつも気にかかっています。もちろん、あなたはあなたで私たちのことを心配していることでしょう。私たちは何事もなく無事に暮らしています。
私の健康状態も、悪くなってはいません。
職場生活をしながら子供たちを学校に通わせているので、いつも時間が足りません。でも、子供たちが私のことをいろいろと心配してくれるので、大丈夫です。恵媛はもうおとなのように何でも手伝ってくれます。
圭媛は、年齢よりもおとなびてきています。父親がいないと、そうなるのかもしれません。
今年初めに、海外同胞援護委員会にいる人があなたに会ったと言っていました。
その時の会談はうまくいかなかったようですね?
あなたに対していろいろと不満を述べていました。
互いに胸襟を開いて話し合おうと思っていたのに、あなたが連れてきた人たちが会合場所の周りをうろつき回って何か異様な雰囲気にしてしまったので、こちらの人たちは不快に思い、深い話はせずにうわべだけ二言三言交わして別れたと言っていました。
わざわざ会合の機会を作ったのに、なぜそんなことをしたのですか。
その話は本当のことなのでしょうか。
前に尹先生に託した手紙にも書いたとおり、私たちが最初に、深い考えもなく行動してしまったことは明らかに間違いであったと思っています。
三年ほどここに住んでみて、こちらの生活にも慣れてきました。
でも、やってしまったことをどうすればいいのでしょう。
私たちはあなたが帰ってくることを願っています。
あなたが帰ってくれば、すべてがうまくいくはずです。
国慶節を祝ったばかりのこちらは、秋の盛りです。
天気が1番いい季節です。都会より、今住んでいるところのほうがいいようです。慣れてくればそんなものでしょう。
何とかして、あなたのことを知らせてください。
手紙を送る住所;平壌市ヒョンジェ山区域ヒョン山里八班
一九八八年九月一五日
恵媛・オンマ

封筒には「朝鮮から」とだけ書かれてあった。
胸がじりじりと焼かれるようだった。この胸の痛みを誰が分かってくれるだろう。妻が自由な状況でこの手紙を書いたとはとても思えなかった。それだからこそ、よけい胸が痛んだ。

おぼれる者、藁をも把む

苦しみの時間がいつもと同じように流れていた。
いつの間にか一年が過ぎ、八九年の夏になっていた。
姉の娘であるふたりの姪が訪ねてきた。
「叔母さんや恵媛や圭媛はどこに行ったの?」
「四年前に交通事故で死んでしまったんだよ」
私は何の得にもならない嘘をついた。胸を鋭い剃刀で切られるような痛みが走る。
姪たちが怪訝な顔をしているので、さっと話題を変えた。
「そんなことはいいから、おまえたちも少し観光をすればいい」
そう言って私はふたりを連れて、ローレライ見物に出掛けることにした。

それからまた一年が過ぎ、姪たちがリュックサックを背負って再び訪ねてきてくれた。それまでの私はまさに独りぼっちだった。一週間に一度はかかってきていた金吉淳からの電話がどれほど慰めになっていたか分からないが、その彼も三月に帰国してしまった。呉石根も中国の延辺(吉林省の朝鮮族自治州)に行ってしまい、まさに、私は洛東江のような大河に捨てられたたった一羽のあひるの子といった状態だった。
九〇年六月、圭媛の誕生日が近づいてきた。有り金全部をはたいて、ふたりの娘へのプレゼントを買った。靴八足、手袋、靴下、パンティ、歯ブラシ等々。買いながら私は、店員に見られないように泣いていた。
子供たちへのプレゼントを小包で東ベルリンに送った。届かなくても仕方がないと思ったが、父親として心を込めた贈り物をしたかったのだ。
同じ月、無駄だと知りつつ、金正日あてに、家族と私の本を返してくれという嘆願書を書いて、東ベルリンの北朝鮮大使館に送った。たぶん、金正日の手には届かないだろう。しかし、じっとしているよりはましだ。家族を取り戻すために何かをしなければならないのだ。おぼれる者藁をも把むの心境だった。さらに、もう一通嘆願書を書いた。経済学者として、南でも北でも活動できない私に理解を示してくれと訴え、そのなかでも家族を返してくれと哀願した。
また一年が過ぎた。
九一年一一月二一日午前一一時、ハノーバー駅からベルリン行きの列車に乗った。北朝鮮対南工作機関の罠から、満身創痍となって逃げ出してから四年ニヵ月ぶりのベルリンである。
北朝鮮を脱出してから、私は一定の職に就くことができず、ドイツの社会保償制度にすがって何とか生きてゆくことができた。ハノーバー社会福祉局から支給されるお金で独身者アパートの家賃、電気代、水道代、掃除費、服代や靴代などを支払うと、残るのは四三二マルク(当時のレートで約三万五千円)。乞食とほとんど変わらない生活であった。
ベルリンまでの往復の列車の切符を買うと、残った現金は六マルクだけだった。私は自らを苦しめ、社会から徹底して廃棄処分されるようにしむけていた。だから、私の生活には〝絶望〟という言葉は必要なかった。すでにそれを通り越してしまっていたからだ。
すでに東西ドイツがひとつに統一されていたのでビザを貰う必要はなかった。パスポートの検査もなくなっていた。
それだけではない。月日は流れ、多くのものが変わっていった。変わらないのは、私というどうしようもない存在と、帰ることのない家族だけであった。

一縷の望み

東ベルリンに行くのは尹伊桑に会うためであった。尹伊桑夫妻は北朝鮮での静養を終え、帰ってきたところと聞き、私は性懲りもなく以前のような期待を抱いて列車に乗ったのである。そう思い立ったのは、東欧での共産主義の崩壊を見て、北朝鮮も考えを改めるのではないかと考えたからだ。今、世界中で北朝鮮だけがその体制を支えきることなど到底不可能だろう。
東ドイツが崩壊した今となっては、北朝鮮は統合ドイツと外交関係を結ばなくてはなるまい。私は旧西ドイツに亡命した人間だ。だから、北朝鮮が尹伊桑を通して私に手を差し延べてくれるかもしれないとも考えたし、また、そう信じていた。
車窓を旧東ベルリンの市街地が流れていく。街は、分断されていた祖国の半分を訪れる旧西ドイツからの観光客でいっぱいだった。五年前、私が東ドイツの北朝鮮大使館にいた頃は、これはどの活力はみなぎっていなかった。尹伊桑もこの街のように変わっているに違いない。彼に良心があるのなら、北朝鮮で休養している間にきっと私の妻と子供たちに会っているはずだ。
同情心のかけらでもあるならば、哀れな私の家族の近況を直接その目で確かめ、対策を考えているに違いない。
プラットホームには、竹馬の友である藩星完教授か迎えにきていた。一三年ぶりの再会である。まだ四九歳なのに彼は既に完全な白髪で、父親についてきた小学校一年の息子が孫のように見える。
街を暗闇が包み始める頃、彼のアパートに着いた。彼の奥さんが暖かく迎えてくれたので、目頭が潤んできた。最後に人間らしい扱いを受けたのはいつのことか思い出せなかった。
すでに夕食が用意されていた。キムチの匂いがたまらない。韓国の女性が漬けたキムチは、何年ぶりだろうか。その匂いを嗅いだら、もう我慢ができず、私はテーブルの上にある食べ物をひとつ残らず平らげた。
その日の午後六時、ベルリンでは『汎民連(祖国統一汎民族連盟)欧州本部』の大会が開かれていた。この組織は、北の対南工作機関と関係の深い組織で、尹伊桑はその象徴的存在だった。その集会には、黄晢暎、林民植、宋斗律などが参加していた。皆、北の対南工作機関から信任と信頼を受け、金日成との〝接見〟を済ませた人たちだった。
彼らが集会場に集まっていた頃、私はそこには参加せず藩教授の家にいた。彼らが何をしゃべり散らそうと私には関係がないからだ。
八時を少々回り、尹伊桑が帰ってきた頃合いを見計らって電話をかけた。
「尹だが」
「呉吉男です。先生のお宅にうかがいたいのですが、いつ頃がよろしいでしょうか?」
「今日来なさい。できれば一〇時に。夕食はすませてきなさい」
「友人の家で食事をすませているので、あとでうかがいます」
私は以前、尹伊奈に、「妻とふたりの娘をドイツに返してくれるなら、私は北に行きどんな処罰でも甘受します」と言ったのを思い出した。これを聞いて彼は火のように怒りだしたものだが、今日は絶対にそうなってはまずい。怒らせれば不利になることはあっても、得になることは何もない。あの気難しい人間をどうすれば動かすことができるのか・・・・・・。

虚しい会話

尹伊奈の家の前に立って時計を見ると、一〇時まであと二〇分ある。私は門の前を行ったり来たりして時間を潰した。べルを押さなかったのはカントの言葉を思い出したからだ。
〝約束の時間より前に訪ねては、こちらの品格を損ねてしまう〟
生きるため道端に捨てた自尊心ではあるが、尹伊桑の前だけではそんなふうになりたくはなかった。
ようやく一〇時になったのでベルを押した。
ドアを開けたのは尹伊桑の娘だった。「お入りください」という彼女の声は母親にそっくりである。
夫妻は食事中だった。「地下室に案内しなさい」と、尹伊桑が奥さんに言った。
彼女は黙って立ち上がると、私を楽器がおかれている地下の部屋に案内し、冷たい態度で椅子に座るように言った。明らかに私の訪問を迷惑がっている様子だ。
尹伊桑はドイツの人名事典にも大きく取り上げられている有名人であるばかりでなく、作曲家として世界的に名が通っている。だが、夫がいくら大作曲家だからといって、夫人が皇后のように振る舞うことは許されるべきではない。しかし、夫人の李水子にはこんな常識が欠落していた。この女の評判は、いわば身内である対南工作機関の要員の間でも最悪で、傲慢な女と陰口を叩かれていた。
「平壌は楽しかったですか?」
挨拶を兼ねて尋ねてみた。
「満足しましたわ。帰ってから幾日も経っていませんのよ」
「北の経済事情はどうでしたか? 少しは良くなりましたか?」
私は、東欧は崩壊したが北はいつ倒れるのか、というニュアンスを込めて質問したのだった。
朝鮮は自立経済ですのよ。東欧の現実社会主義とは違って、びくともしませんわ」
それを聞いて私は皮肉っぼく笑ってみせたかったが、ぐっと我慢した。しかし、腹のなかでは毒づいていた。〝大音楽家である亭主も、経済については何も知らないのに、おまえが何をぬかすか〟
李水子は前と違って、北朝鮮をかなり露骨に擁護するようになっていた。
北朝鮮の経済がこれ以上ひどくならないことを無理矢理願っているようにさえ見えた。なぜそんな願いを持つようになったのだろうか。まさか、主体思想を心から信じているからではあるまい。
尹伊桑は北の思想だけを信奉しているにもかかわらず、自分は以前から東ドイツではなく、資本主義国家の西ドイツに住んでいる。それも金持ちが住む高級住宅街に、だ。これは大きな矛盾ではないか。
その時だった。尹伊桑が地下室に下りてきた。糖尿病のせいか顔色が悪い。
私は丁寧にお辞儀をした。しかし彼はそれを受けようとしなかった。ただ怒ったような顔で部屋のなかを行ったり来たりしているのだ。なぜ彼がそうするのか、わけが分からず、不安になってきた。彼は家まで来いと言ったのではないか。だから払は来たのだ。何が気に食わないのだろうか。

妻と娘の肉声

沈黙が部屋を支配していた。一〇分ほど、私たちは同じ部屋のなかにいながらお互いに目を合わせなかった。
ついに彼が口を開いた。
「おまえの行いは何だ?」
「はい?」
「妻もなくそうやって暮らして、どうするつもりなんだ? だからもう一度平壌に行けと言ったではないか」
また始まった。この頑固な老人は前に言ったことをそのまま繰り返すつもりなのか。
「叱っていただき、ありがとうございます」
「酒を飲み歩いて、国の面汚しになっているではないか」
宋斗律が、私が酒に溺れていると告げ口したのだろうか。飲もうと思っても金がなくて飲めないという言葉が喉元まで出かかった。しかし、ぐっとこらえた。ここは我慢しなければ家族に不利になる。
「社会福祉の金を貰ってやっと生きて行く人間の屑のような生活に何の意味があるというんだ? そんなことをするために逃げ出してきたのか?」
全身の毛が逆立つような感覚が、背筋から首筋に走った。
「対南工作放送の仕事をするより、そして留学生ふたりを罠にかけるより、意味があります」
私の右側に座っていた李水子が軽蔑したように横目でこちらを睨んだ。まるで罪人を見る目だ。彼らに対して、私がどんな罪を犯したというのか。この地下室から飛び出していきたいという衝動にかられていると尹伊桑が叫んだ。
「分かった。出て行け」
私は即座に立ち上がった。すると間髪を入れず尹伊桑が再び大声を上げた。
「座れ」
私は一瞬その場に立ち尽くしたあと、何事も家族のためだ、と歯を食いしばって座った。下を向いて、顔を見られないようにしながら・・・・・・。
それと同時に尹伊桑が引き出しをあけ、濃い黄色をした封筒を出した。そしてなかからカセットテープを取り出すと、テープレコーダーに示し込んで、スイッチを入れた。
テープレコーダーからは、妻の声と愛するふたりの娘の声が流れてくるではないか。

私たちが別れてから、一五二〇日目になる今日、九一年一月一一日、誕生日のプレゼントが届いたの。九〇年九月一九日にハノーバーから送ってくれた手紙を見た時は、まさかプレゼントが本当に届くとは思ってもみなかったから、どれほど嬉しかったことか。
前に、健康が優れないという話を聞いたんですが、今はどうなの?
さて、何から話したらいいのでしょう。
いつ会えるか分からないし、今度いつあなたに手紙を出すことができるかまったく予測できません・・・・・・子供たちはあなたのことを思いながら、元気に暮らしています。
昨年の八月一五日、汎民族大会が聞かれた時に、鄭奎明博士、それからパリにいらっしやる李ヒセ先生をはじめとして、多くの方々が祖国統一のために努力されている様子をテレビで見ながら、あなたに対する信頼をまた新たにしました。
体はどこにあろうとも、祖国統一のために献身奮闘することが、祖国を愛するものの進む道です。またあなたの愛する恵媛、圭媛との再会を実現する道でもあるのです。あなたはこのことをよく分かっていらっしゃるのですから、私はいつの日かあなたと会えることを露ほども疑ってはいません。
必ず会えると信じて、健康に注意してくださいね。私たちのことにはあまり神経を使わないでください。生活は心配ありません。
永遠に愛するあなた、あなたの社会的な成功と健康を心から祈っています。

九一年一月一一日

アッパ (お父さん)! 恵媛ですよ。
何日か前、アッパと一緒に誕生日のお祝いをする夢を見たの。アッパが誕生日のプレゼントを贈ってくれたから、そんな夢を見たんだわ。私は今中学校四年生、一四歳になったの(北朝鮮では中学校は六年制)。卒業したら、大学に行きたいとは思っているけど、行けるかどうかは分からない。
オンマはいつも、アッパがいないんだからなおさら、日頃の行いや道徳についてクラスの模範にならなければいけないって言うんだけれど、私はそれを聞くたびに悲しくなるの。祖国にも偉大な我々のお父さん(金日成のこと)がいらっしゃいますが、私はほんとのお父さんのことをいつも考えています!
お父さん、いつまでも元気でね!
あんまり久しぶりにアッパって言ったから、涙が出てきちゃったわ。

九一年一月一一日

アッパー! 私は圭媛よ!
もう中学校二年生になったの。今年一三歳よ。
アッパ!会いたいわ。
アッパば知らないでしょう。私は早く大きくなって、お母さんの手伝いをしなくちゃと思っているのよ。でも、もう水汲みもできるし、火を焚くことだってできるわ。
病気にもかからないし、元気にしているわ。アッパが向こうに行ってからも、私の背はあんまり伸びていないの。
会いたいわ。アッパ!
アッパに会えたなら、何をプレゼントしようかな。
アッパ、さようなら!

九一年一月一一日

心臓を錐でえぐられる思いだった。妻と子供たちの声がいつまでも消えずに耳元から離れない。これはあらゆる肉体的拷問より、残酷な仕打ちだった。私は北の対南工作機関の、卑劣で恐ろしい手法に全身が震えた。しかし何とか最後の気力をふり絞って、胸の奥くからこみあげてくる涙を押し止めた。

消えた望み

「もう泣く力も残っていません。涙はとうに涸れ果ててしまいました」
尹伊桑は私が涙をぽろぽろ流すものと思っていたようだ。しかし泣かないのを見て、怒ったように黒白の写真六枚を私の鼻先につきつけた。
「見ろ。おまえの妻と子だ」
淑子、恵媛、圭媛の三人が写っていた。どうやら雪深い山のなかで撮ったもののようだ。三人が着ている服、履いている靴は、みんなドイツから持っていったものだった。私はどぎまぎして、思わず口走ってしまった。
「なんてみすぼらしい・・・・・・」
すると夫人が吐き出すように言った。
「父親よりましよ」
尹伊桑も妻の言葉に付け加えた。
「千倍もましだ」
一瞬私は、尹伊桑夫婦が善意から若い私を叱りつけているのではないかと思った。いや、そうであることを心のなかで願った。自らの目を自らの手で潰し、妻と子供たちの目までも潰してしまっただらしない男に、人生の先輩として叱りつけているのならば、まだ希望はある。しかし、尹伊桑の次の言葉が、私の期待を粉々に砕いてしまった。
「おまえは助けてやる価値もない男だ。おまえには失望した。出て行け」
私はもう一度立ちあがった。堂々と振る舞わなければと努めたが、足がぶるぶる震えていた。
「座れ」
尹伊桑は再び座るように命じた。彼の際限のない気まぐれに歯ぎしりしながらも、その言葉には抗しきれなかった。また、椅子に腰をおろしたが目は終始、尹伊桑を睨みつけていた。
「家族が生きてられるのは誰のおかげだと思ってるんだ? 私の言うことを聞かず、もう一度軽率な行動をとったら、家族をこのままにしておかないぞ。なんであちこち出歩いては共和国の悪口を言って回っているんだ。家族を殺されなければ分からないのか? 録音された奥さんの言葉を聞いただろ。 何と言っていた? 統一運動に励めと言っていなかったか? そうしてこそ問題も解決するというものだ。なぜ前向きな論文を書き、新開や学術雑誌に発表しようとしないんだ。そうせずに、統一運動を誹謗中傷して歩けば家族が死ぬことになるんだぞ」「私が統一運動を誹謗して歩いているなどと、誰が言っているのですか? 私がいつ北の悪口を言いましたか? もしも私がそんなことを言ったとしても、馬鹿にされるだけです。好きこのんで北に行き、いくらもしないで逃げてきたわけですからね。
前にも言いましたが、私と家族を交換するという条件でなら、平壌に行きます。ブライデンシュタインも北にいる家族のもとに帰って、一緒に強制収容所で生活すれば、三人の力とひとりの力を合わせる以上の、何百倍もの力になると言いました。しかし、断りました。
ブライデンシュタインは金日成が築いた北朝鮮の体制を、自分の反帝思想、社会主義に対する憧憬のおかげで誤って評価しています。彼は私を何度も勇気のない人間と非難し、さらに、こんな勇気のない者にはどうすればいいのか分からないと言いましたよ。彼のこの言葉を聞いて、私みたいな卑怯者は家畜のように屠殺してしまうべきだと答えました。馬鹿げた自虐趣味とお思いになるかも知れませんが、これは私の偽らざる心境です。今まで先生のお力で家族を生かしでおいでくださったことには感謝します。でも、たった今、家族を殺されなければ分からないのかとおっしゃったことに対してはもっと感謝します。家族も、尹先生の思いのままに抹殺してください。こんなに苦しめられながら、生きていかなければならないのなら、むしろ死んでしまったほうが幸せでしょう?」
ずっと我慢して、腹のなかに貯めていた思いを吐き出してしまった。しかし、明らかに失言だった。覆水盆に返らず。もう取り消すことはできない。
「この忙しいのに、私がそんな豚も食わぬようなたわごとを聞くためにおまえを呼んだと思っているのか」
それまで黙って座っていた李水子が、とうとう夫の肩を持とうと口を開いた。
「いいこと、呉博士。ブライデンシュタイン牧師は本当に立派な方ですわ。あなたにそんな失礼なことを言うことが許されて?」
彼らの意図がはっきり分かった以上、もう彼らの顔を見たくもなかった。この夫婦とはもう何を話しても無駄なのだ。とにかく一刻でも早くこの家を出たかった。
「それはそのとおりです。先ほどのは私の失言でした」
すると尹伊桑も少し声を和らげで言った。
「呉博士、今度入北する時は、拉致されたというような印象を残してはいけない。ドイツ当局に、自分の意志で北朝鮮に帰るのだということを確実に伝えておくように」
「そうします」
妻と子供たちの肉声が録音されているテープと写真が入った封筒をつかみ、私は立ち上がった。
「今日は帰ってゆっくり休みます」
「そうしなさい。決心したからには、いろいろ整理して行かなくてはな」
私は靴を履くのももどかしく、恐ろしい悪霊の家を飛び出した。漆黒の闇に沈む西ベルリンの金持ち村を一刻も早く抜け出すため、前も見ずに駆けた。そして大通りに出た時、悪霊の沼からどうにか逃げ出せたと思って私は道端にへたりこんだ。

それからも、尹伊桑は私にたびたび電話をかけてきたり、人を寄こして北へ帰るように説得した。しかし、私はこれ以上彼におもねり、懇願するのはやめようと決心した。そう決心した時、私は無念さがこみあげてきて涙が止まらなかった。こうなっては、家族を救うために何をすればいいかは明らかだ。我が祖国・韓国に帰り、過去の罪の償いをした上で、祖国の力で家族を取り戻す以外に方法はない。
真っ先に一肌抜いでくれたのは李三悦教授だった。彼は呉吉男を救ってくれと韓国大使館の公使や参事官に働きかけてくれた。それ以外にも、多くの人たちが私を祖国に返すために努力してくれた。ひとりひとりの名を挙げることは控えるが、とにかく私のために尽力してくれたすべての人に感謝している。彼らに祝福のあらんことを!






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