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呉吉男著書 金民柱訳「恨・金日成―金日成よ、私の妻と子を返さぬまま、なぜ死んだ! 」ザ・マサダ(現在絶版)より 

└ 2017-04-05 09:25

第4章 仕掛けられた北朝鮮の罠

妻の病

勤務先の病院でB型肝炎に感染した淑子の体調は日増しに悪くなり、私は医者から妻を療養させるよう勧められた。しかし、それをそのまま伝えても妻は療養になど行かないと言うに決まっている。そこで私は口実を設けた。
「僕も疲れた。少し休みたいんだ。何も考えないで田舎にでもちょっと行ってこようよ」
「・・・・・・」
妻は何も言わなかったが、すでに私の心の内を読んでいるようだ。彼女の無言は嫌だということではない。ほんとうの夫婦は互いに目が合っただけで、相手の思っていることが分かるものである。私は妻が行きたいと思ってはいるものの、出費がかさむことに悩んでいるのが手に取るように分かった。
「金をたくさんかけなくとも、家族旅行はできるさ。さあ、あまり考えずに出かけよう」
淑子が体調を崩したのは肝炎に加え、交通事故のショックも大きかったようだ。彼女は最近運転中タクシーと衝突事故を起こしていた。
この事故のショックから立ち直っていないのに、淑子はお金を節約するため自分で運転すると言い張った。これでは元も子もないと思ったが、結局ウンと言わざるを得なかった。私は恥ずかしながら運転免許を持っていないのである。クルマ社会のドイツでは家族旅行の場合、家族の誰かがハンドルを握らなくてはならないが、私にはそれができないのだ。
アウトバーンを快調に飛ばして車は一路、西ドイツの最北端にあるフレンスブルクへ向かった。そこで海に面したコテージに二週間滞在することになっている。久しぶりの、と言いたいところだが、じつはこれは初めての家族旅行だった。そのため、ハンドルを握る淑子の表情はいつになく明るく、娘たちと他愛のないことを言っては、はしゃいでいた。
一時間ほどでフレンスブルクに到着した。予約してあったコテージは絵に描いたような、シックな木造の二階家で、窓辺に立つと眼前にはバルト海が一面に広がっていた。この景色を見て、私は何とかやり繰りをして妻を連れて来てよかったと思った。それほどまでに妻の体調は悪化していたのである。
B型肝炎は怖い病気である。淑子はキールの大学病院で患者たちの血液を浄化する仕事をしている際、それに感染したのだった。幸い、黄疸に苦しめられながらも何とか治癒したが、その後も後遺症に苦しまなければならなかった。
「関節が痛むわ!腰も痛い!」
と苦痛を訴える妻の声を聞くことは、私にとって拷問のようであった。永い間、淑子は書生暮らしの夫を支えるため、骨身を削って生活を支えてきた。私には、その無理がたまりにたまって一挙に噴き出しているように思えた。夫は博士になれたが、その博士をつくるために献身的に尽くした妻の健康が病魔に侵されていくのを見ることは、耐えがたいことだった。もうこれ以上苦労をかけられないと私は自分に言い聞かせた。

帰国に揺れる心

夕方、家族と海辺を散歩しながら、私は心のなかに固くしまっていた考えを妻に話した。
「もう韓国へ帰ろうと思うんだ。博士になったからどこかの大学に就職できるだろう。そうすればおまえにもう苦労をかけなくて済むしなぁ・・・・・・」
妻は無言であった。夕焼けが西の空に長い帯をつくり、水面を赤く染めていた。それに目をやりながら、妻が言った。
「でも、まだ少し早い気がするの。まずキールの世界経済研究所かキール大学の理論経済研究所に就職して学問的な蓄積をするほうがいいんじゃない。それに、今韓国では絞めつけが厳しいでしょう。あなたのそんな荒っぽい性格では、帰ってからのことが心配だわ。今はどうにか食べていけるし。もう少し様子をみてから決めたらどうかしら」
淑子の助言はいつも、私に力を与えてくれる。今度もそれに従うのが良いように思えた。
しかし、気持ちの整理はなかなかつかなかった。いったんは、まだここにいようと思うのだが、時間が経つと、また韓国へ帰りたいという気持ちが起こるのだ。私が韓国に帰りたいと思うようになったのは、単なるホームシックだけではない。己が得た知識を故国で役立てたいという強い欲求があったためだ。政治的後進国である韓国に帰ってこそ、自分の存在が認められるような気がしてならなかった。
私は故国にいる知人たちに、帰国したいという手紙を出し始めていた。妻もそれまでやめさせることはできなかった。
いつしか四三歳になっていた。博士になったとはいえ、当時、私はなかなかドイツでの就職口を見つけることができず、一カ月に二、三回セミナーに参加のためブレーメンへ出かける以外には、することがなかった。仕方なく家のなかに閉じこもって、読書に大部分の時間を費やすしかなかった。
釜山の兄から、帰国して一緒に住もうという切々たる手紙が届いたことも、望郷の念を刺激した。自分を犠牲にして私に高等教育を受けさせてくれた兄からの手紙に目を通しながら、私は溢れる涙をとめることができなかった。永いドイツ暮らしで兄の存在はすっかり遠いものになっていたが、久しぶりにその字を見ると、自分の帰るところは故国しかないという気持ちになった。
しかし私はそれでもふんぎりがつかずにいた。
帰りたいと思う一方で、故国・韓国には私に帰国を思い止まらせる要素がいくつかあった。
真っ先に挙げなくてはならないのは故国での就職問題だ。いろんな方面に打診したのだが、何の音沙汰もなかった。しかし、これについては楽観的だった。私の得た学位だと、高望みさえしなければ就職すること自体は難しくないように思えたからだ。
それよりも帰国を思い止まらせている最大の要因は、学生デモを規制する軍特殊部隊の過剰警備で多数の死傷者を出した一九八〇年の『光州事件』に象徴される軍事独裁政権の存在であった。故国では朴正煕暗殺事件後、全斗煥による独裁政権が誕生していた。
私はドイツのテレビに『光州事件』の残酷なシーンが映し出された時のことを忘れることができない。それを見て四歳にもならない恵媛が、「怖い」と叫びながら隣の部屋に逃げていってしまったのだ。
朴正煕は六一年にクーデターを起こし政権の座に就いたが、良民の血は流さなかった。しかし全斗煥のもとで光州ではおびただしい血が流されてしまったのである。民主統一という旗印のもとにに〝反維新運動〟をしてきた私が、このような政権に首が垂れて帰国するのかと思うと、情けなく思えてしかたなかった。むしろ光州事件を見ていて、私は政治亡命したことが正しかったという気になった。
それでも時がたつにつれ、帰国したいという思いは募っていった。それは韓国の独裁政権は政治的には冷酷な反面、科学や学問の研究に対しては熱心だったからだ。
それゆえに、私には帰国しても活躍の場があるように思えた。

政治活動仲間・宋斗律

しかしいざとなると帰国を決意できないでいるのはくだらない自尊心のためであった。今にして考えるとなぜその時、あんなに体面にこだわったのか、自分で自分が分からなくなる。私の自尊心など、大したものではなかった。ただ、周りの人々の眼を意識しすぎていただけのことだ。
この頃、昔一緒に闘った仲間は祖国に念書を提出して帰国していった。しかし私はそうしなかった。
俺は博士になったのだから、そっちから迎えに来いという気持ちだったのだ。これではどこからも声がかかるわけがない。それでも私は家で読書三昧の生活を続け、自分からは動こうとしなかった。じつのところ、私は誰に会って推薦をもらうとか、どこに行って自分の就職先を相談すればいいのか全く分からなかった。また、分かろうともしなかった。
そんなある日、『民建会』の会長をしていた宗斗律から電話がかかってきた。八五年八月の二週目のことだったと思う。彼は妻とふたりの息子を連れて近くにバカンスに来たので、すぐにでも会いたいと言った。
私は妻に運転してもらって、彼のいる保養地へ向かった。
宋斗律も車の運転ができなかった。生活能力に欠けているところは私と似ている。ただ私と運うのは、屈折のない人生を送ってきたので、性格が常に落ち着いていて鶴のように毅然としているところだ。しかし、よくよく観察してみると、この落ち着きはらった端正さにはどこか冷酷さがあった。彼の文章には鋭い刃物で何かをすぱっと切ったようなところがあった。
宋斗律が方々へよく保養に出かけることは西ドイツの韓国人社会ではよく知られていた。私たちは、久しぶりに夫婦同士で会い、楽しい時間を過ごした。彼は私よりふたつ年下であったが奥さんのほうは夫より二歳上で私とは同い年になる。久々に会って私たちはよく飲んだ。宋斗律と私の酒の量は似たようなものだった。しかし、決定的な違いは、私は酒が入ると饒舌になり、よく失言するのに対し、彼はどんなに飲んでもペースが乱れず、決して口を滑らせたりしなかった。
夜遅くまで私たちは酒を酌み交わし、私の帰国問題について重苦しい話をした。
私の心は右に左に大きく揺れた。彼がこう言えば、こうするほうがいいと思ったし、ああ言われればまた、それがいいように思えた。しかし彼は、結局こうすべきだというはっきりした助言はしなかった。
その夜、私たち夫婦はそこに泊まった。
翌日、今度は私たちが宋夫妻をこっちのコテージに招待した。妻と宋斗律の奥さんとは年も同じで、気の合う間柄だった。私たちは時間のたつのを忘れて酒を酌み交わしながら全斗煥の独裁を批判しあった。
翌日、宋斗律はほかの所へ寄ると言い残して我が家を去った。

ベルリンの金鍾漢

八月一五日、私の博士論文が出版された。もちろん自費出版である。私が学位をうけたブレーメン大学では論文を本にして出版し、大学に提出するきまりになっていた。出版に必要な費用は一五〇〇マルク。私はそれを『民建会』時代の友人、金鍾漢に借りて何とか本にすることができたのだった。しかし、ドイツ語の本ができたところで、就職には関係がない。そろそろ、焦ってきていた私は啓明大学の教務課長をしている白承均教授と韓神大の姜敦求教授、そして仁荷大学の李泳嬉教授に職を斡旋してほしいというお願いの手紙を出した。それでも心細かったので、友人の藩星完と釜山の兄にも同じ依頼をした。
間もなくして、彼らから連絡が届いた。
白承均教授からは慶北大学に就職を斡旋しておいたとの連絡が入り、また、兄は釜山女子大学にポストを準備したから早く帰国するようにと書いて寄こした。
教日後、大邱の白承均教授から電報が届いた。
「取り合えず電話をください」
とあり、彼の家の電話番号が記してあった。早速電話をかけた。
「呉さんの職場が慶北大学に決まりそうです。早く学位の写しを一通送ってください」
「送りますとも、すぐに。ありがとうございます。白先生」
私は心から彼に感謝した。妻とふたりの娘は、私の就職先が決まったと踊り上がらんばかりに喜んでくれた。しかし結局私は、彼に学位の写しを送らず終いになってしまった。時を同じくして、ある重大な出来事が私を待ち構えていたのだ。
八月末、私は西ベルリンヘ行った。目的は金鍾漢に会って学位論文を出版する際に借りた一五〇〇マルクを返すためと、旧友たちに会って帰国問題を相談するためだった。
私がキールにいた七年間に、家まで訪ねてくれた友人は宋斗律と金鍾漢だけであった。金鍾漢は慶尚南道・金海の出身で成均館大学を卒業してドイツに来ていた。
私と彼との出会いは七四年頃、反維新デモの時だった。会って間もなく私たちは親しくなり、その後、ずっと親しい関係が続いていた。
彼は西ベルリンで八百屋を経営していた。そのため彼の家を訪ねていくと、よく売れ残った野菜を持たせてくれた。また、我が家を訪ねてくる時にも、たくさんの新鮮な青物を持ってきてくれた。人はどう思うか知れないが、これは我が家には大きな助けとなったことは言うまでもない。
皮膚の色の違う異国の地で、そんな韓国人でないと持ち得ないような人情に私は感動し、金鍾漢という男をとことん信じるようになっていた。
借りた一五〇〇マルクを持って店に訪ねてゆくと、金鍾漢は私を連れ出し、贅沢な料理をたらふくご馳走してくれた。久しぶりにいいものを腹一杯食べることができた。
食事が終わると金鍾漢は自分の家に寄ってくれと誘った。そう言われなくとも私は最初からそのつもりでいた。

北の工作員との密会

「行きましょう」
暗闇が西ベルリンの市街地をゆっくりと覆い始めていた。
鬱蒼とした林のなかを走り抜けている時、唐突に金鍾漢が言った。
「ここで少し休憩してから行こう」
そう言って彼はベンツを止めた。さっさと車から降りると、金鍾漢は私にも降りるよう合図をした。何が何だか分からなかったが彼に従った。私が車を降りてドアを閉めると彼は私の耳元に顔を寄せ、押し殺した声で言った。
「呉先生、北から来た人と一度会ってみないか。何かの道が開けるかも知れないから」
「北から来た人だって?」
「驚くことないよ。北朝鮮のことだよ」
「北朝鮮から来た人に会えと言うのか・・・・・・」
「そうだよ。ともかく一回、会ってみろよ」
私は一瞬躊躇してから、小さく頷いた。
前にも話したように、私は彼を徹頭徹尾信じていた。すると彼は五〇マルク札を私の手のなかに押し込んできた。
「それじゃ、すぐその人がここに来るから、会ってから後でタクシーに乗って家のほうに来いよ。こっちは先に行ってるよ。俺がいるとなると大事な話もできないだろうし」
私は林のなかにひとり取り残された。べルリンの地理に慣れていない私は、今もそこがどの辺りなのか正確には覚えていない。ただ金鍾漢の家に行く途中にあった公園としか・・・・・・。
私は彼が行ってしまうと、胸が高鳴り、体が自然に震えてきた。たとえ外国に出て生活しているとはいえ、祖国の法律では北朝鮮の人間と会うことは許されないことだ。会うだけで罪になる。
その時、私の眼には幼い頃の記憶が浮かんできた。警察に引っ張っていかれて、血まみれになって帰ってきた母・・・・・・慶州の叔父の死・・・・・・。
心のなかで不安と好奇心が交錯していた。周囲を見回してみたが、人影はない。
しかし、誰かに見張られているような気がして落ち着かなかった。
まもなく遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。べンツだった。車は私の少し手前で止まり、ふたりの男が降り立った。どちらとも同じような色のサングラスをかけ、黒い洋服を着ている。彼らは真っ直ぐこちらへやって来ると、私を挟むようにしてベンチに座った。
「私は白書記官で、こちらは金参事官とだけ知っておいてください。呉先生のお話はよく聞いてております」
「呉吉男と申します」
「共和国へ来て働く気持ちはございませんか。我が共和国は呉博士のような方のために、常に門を広く開けております」
私は答えることができなかった。タバコを取り出して口にくわえたが、火をつける私の手は微かに震えていた。沈黙を嫌うかのように白書記官がまた尋ねてきた。
「財産がありますか。もし、財産があれば私どもが持ち出して上げてもよろしいです」
「財産はありません。私の財産は本だけです」
「それなら、その本を持ってくればいいでしょう。そして、その本でもっと多くのことを研究されて、共和国の経済発展に尽くしてください」
「・・・・・・。考えておきます」
「共和国は、科学研究をなさる方々を厚遇していますから、どうかよく考えてみてください」
暗い林のなかの公園には、私たちだけしかいなかった。私たち三人を見守っているのは、空に点々と輝く星と三日月、それに明かりを灯し続ける街路燈だけであった。
「われわれは帰ります。呉先生の正しい選択を期待しています」
白書記官が手を差し出した。彼の手を握った私の手には汗が滲んでいた。金参事官とも握手をした。エンジンのかかる音がして、車のライトが公園の暗闇を照らしだしたかと思うと、車は瞬く間に走り去った。

尹伊桑からの手紙

彼らが行ってからしばらくして、私は通りかかったタクシーを止め、逃げ込むように乗り込んだ。
金鍾漢の家に着くと、夫妻は私を温かく迎えてくれた。テーブルには食事がたくさん用意されていた。
「まず、一杯やろう」
私は金鍾漢が注いでくれた強いウイスキーを、水を飲むように流し込んだ。ボトルを半分ぐらい空けると、やっと緊張がほぐれてきた。これで、体は少し落ち着いた。しかし頭は冴えたままで、全く酔っていなかった。
食事のあとも、金鍾漢は公園でのことは聞いてこなかった。私をリラックスさせようと苦心している様子がうかがえる。私は早く横になりたかった。
金鍾漢の家に二泊したあとキールの我が家に着くと家族は私を笑顔で迎えてくれた。子供たちは三日ぶりに父の顔を見るのでまとわりついて離れない。しかし、こうした家庭のぬくもりも、私の気分を和ませてはくれなかった。
〝もうこうなったら韓国には戻れないだろう。南の安企部(韓国国家安全企画部)は私が北朝鮮の人間に接触したことを見逃すはずはない〟
1度そう思い始めると、帰国しようとしていた私の固い意志はぐらつき始めた。淑子が南に帰国することにそれほど積極的でなかったので、私はよけい帰国を断念する方向に傾いていった。
しかし帰国を完全に断念する気にもなれず、悩んでいる間に一〇日が過ぎた。
その日、私のもとに思わぬ人物から手紙が舞い込んできた。尹伊桑からである。
「あの尹伊桑氏が私に手紙を!」
私は超大物からの手紙に驚き半分、不安半分で開封した。なぜなら、尹伊桑は世界的な作曲家で、各国の人名事典に名が出るほどの著名人である一方で、北朝鮮に通じているということは、ドイツの韓国人社会では知らぬ者がなかった。
「・・・・・・苦労の末に学位を取得されたことをお慶び申し上げます・・・・・・これからは民族統一運動に、より積極的に立ち上がるときだと考えます。だから北朝鮮に行って、ここで学んだ知識を同胞のために役立てるべきです・・・・・・」
尹伊桑は手紙のなかで、北朝鮮に対する賛辞を並べ立てていた。手紙は短いものであったが、超大物が入北を積極的に勧めるに及んで、私はすぐにでも態度を決めなければならないところに立たされていることを知った。選択肢はふたつしかない。北へ行くか、でなければ睨まれるのを覚悟してでも帰国するか・・・・・・。
そして悩み抜いた末、私は北朝鮮こそユートピアだという結論に達した。
また、北も同じ民族であるから、全く異なる世界に行くのではないという気持ちもあった。
私がこのように北に対して憧れに近い考えを持つようになったのは、ブライデンシュタイン牧師の影響が大きい。私は、彼が北朝鮮を訪れて書いたいくつかの学術論文に大きく影響されていた。
また金鍾漢の言葉にも甘い響きがあった。
「・・・・・・北朝鮮では呉先生を経済学者として重用しようと、持っているんだよ」
窮乏している私にとって、その言葉は光明のように思えた。
しかし何といっても私の心を動かしたのは、尹伊桑の説得だった。
彼は再度、私に北へ行くことを勧めた。
「北朝鮮へ行きなさい。そこに行けば、呉博士は大事にされながら研究に励むことができる」

妻の涙の訴え

機会を見て、私は妻に自分の心中を打ち明けた。
「なあ淑子、俺は今、北朝鮮に行こうと思っているんだ。ここにいても仕方ないからな」
驚きのあまり妻の目が兎の目のように大きくなった。
「えっ、あなた。何を言うの!」
「なぜ驚くんだ。あそこも人が住むところだよ。同じ民族が往むところでもあるし」
「私は嫌ですよ。そんなに行きたければ、あなたひとりで行けばいいわ」
「行ってくるんじゃなく、住もうと言ってるんだ」
「あなた気でも狂ったの! あそこがどういう国だと思ってるの! テレビで見たら、あそこは全体主義で自由のかけらもない社会よ。そんなところで、どうやって暮らすのよ! 貧しいのは耐えられるけど、画一化した社会には住めないわ。子供のことも考えてよ」
「女のくせに、何も分かりもしないで頭ごなしにできないとは何事だい。それに尹伊桑先生のような方が、俺に嘘つくわけないだろう」
それを聞いて妻は泣きだした。私は泣く妻を叱ったり、宥めたりしながら説得に努めた。しかし、まるでそれが聞こえないかのように、淑子は肩を震わせて泣き続けた。予想されたこととはいえ、私は妻の強硬な反対に、どうやって説得しようか考えあぐね、泣きやむのを待った。しばらくして妻が泣き疲れて、顔を上げた。
「あなた、もう引くに引けなくなったんでしょう」
私は言葉もなく頷いた。淑子は私の心を読んでいたのだ。
「結局、私の知らないところで話が進んでいたのね。じゃ、こうしましょう。まずあなたが先に行きなさいよ。そして本当にそこであなたの学問を活かせるか、様子を見てきてよ。それから家族が行っても遅くはないでしょう」
淑子の言うことは理にかなっている。しかし、私は彼女も北朝鮮へ行けば救われるということを知ってほしかった。
「俺はもう四三だよ。いつまでも万年学生ではいられないよ。今、おまえは俺と床をともにすることさえできないほど体が悪くなっている。俺はいい地位についておまえを助けたいんだ。それに社会主義は俺が理想的とするイデオロギーだ。なあ、もう一度考え直してくれないか」
しかし、淑子は無言でうつむいたままだ。
私は引き続き妻を宥め、説得した。結局、妻は私の説得に押し切られた。
それでもなお、妻は納得していなかった。
「あなたがこの決断をしたことで、私たちはあとでひどい苦しみを味わうような気がするわ」
妻はそう言って再び声を上げて泣いた。私もその言葉を聞いて不安に思わぬではなかったが、家族の幸せを考えれば、北朝鮮に行くのが一番なのだと自分に言いきかせた。
妻の涙は止むどころか、嗚咽に変わっていた。それを前にして私は酒で気分を紛らすしかなかった。その夜、私は家中にある酒をあけてしまってから、やっと眠りにつくことができた。

運命の賽は投げられた

一〇月中旬、金鍾漢から電話がかかってきた。
「呉先生、私が往復の交通費を負担するから、ベルリンにちょっと来てくれないか」
「いいですとも」
この頃には北行きを決めていたので、私は金鍾漢からの電話が嬉しかった。
ベルリンヘ行って、彼を訪ねた。
「待っていたよ。まず一緒に行くところがあるんだ」
と言って彼は私を自分の車に乗せて走り出した。
車がどこへ向かっているのか皆目、見当がつかなかった。
「どこへ行くんですか」
「行けば分かるよ」
車が停まった。
「ここで待っていれば、迎えが来るから」
「迎えが・・・・・・?」
「呉先生も会ったことのある人だから、大丈夫だよ」
そう言い残して金鍾漢は車を急発進させ、姿を消した。
その二、三分後、どこに潜んでいたのか、白書記官が私のほうに近寄ってきた。
「あぁ・・・・・・!。」
「久しぶりですね。呉先生」
「・・・・・・」
「さあ、こっちの車に乗りなさい」
白書記官はそう言って車のなかから手招きしたので、私は吸い寄せられるように車に乗り込んだ。
十数分走ったあと、車はある中華料理店の前で止まった。
「食事でもしながら話しましょう」
私は黙ったまま、彼についてなかに入った。
食事をしながら白書記官が質問した。
「家族はどうなってますか」
私が答えると、彼はさらにいろんな事柄について微に入り細に入り質問しては、私の答えを小さい手帳に書き取った。質問は韓国にいる家族や私の研究テーマなど多岐にわたった。
そして最後に白書記官は満面に笑みを浮かべながら私に尋ねた。
「いつ頃、共和国へ入るつもりですか」
「一二月の初めが良さそうです。準備があるので、その程度の時間はかかるでしょう」
「いいでしょう。それでは、その前に金参事官に会いなさい」
「分かりました」
とうとう運命の賽は投げられたのである。


第5章 裏切られた期待

北朝鮮入り

八五年一一月二九日、私たちは西ドイツ・キールの家をあとにした。そしてハンブルクから空路、西ベルリンに入った。
ここから東ベルリンに入り、モスクワ経由で平壌入りすることになっている。
西ベルリンで私たちは金参事官や白書記官と落ち合い、白治完指導員に引き合わされた。この党対外連絡部に所属する工作員は私たちを北朝鮮入りさせるため、わざわざ平壌からやってきたのだった。そこで家族全員、写真以外はすべてでたらめな偽造パスポートを渡されたあと、東ベルリンに入った。落ち着いた先は北朝鮮大使館だった。
ここで私たちは一二日間足止めを食ったあと、モスクワに向かい、そこでも三泊してから、朝鮮民航機で平壌入りした。一九八五年一二月一三日のことである。
平壌郊外の順安飛行場に到着したのは午前九時だった。
タラップを降りると、そこにはオンボロなバスが待ち構えていた。空港ターミナルまで乗客を運ぶ構内バスだ。この、バスというより、走るクズ鉄と言ったほうがいいような代物を見て、北朝鮮の経済が停滞していることを感じずにはいられなかった。しかし、がっかりしていたわけではない。私はむしろ、経済がうまくいっていないからこそ、この国は私を必要としているのだと思った。
空港には党対外連絡部のお歴々が待ち構えていた。一三課(ドイツ担当)の雀課長のほか、白副課長、金指導員らである。
歓迎の挨拶を受けたあと、私たちは彼らとともに空港の前に停めてあったベンツに乗せられ、平壌市内へ向かった。
しばらくすると、平壌の市街地に入った。車は中心部を通り抜け、どんどん走り続けた。
どうもおかしいと思った。車はすでに市街地を通り越して、平壌の中心部からどんどん遠ざかっている。やがて車は山道に入った。平壌市内に向かっているのではないことは確かだ。
私たちをどこへ連れていくのだろうと不安になった。しかしそんな素振りを見せるわけにはいかない。淑子を横目で見ると、顔がこわばっている。私と同じ思いのようだ。行き先を聞きたかったが、じっと我慢した。軽率な行動をすれば命取りになるかも知れないと思ったからだ。
前方に検問所が見えてきた。すでに何らかの連絡を受けているのか、警備兵たちは直立不動で私たちの乗った車に向かって敬礼した。
右手に凍りついた川が見えた。大きい川なので大同江ではないだろうか。山道をぐるぐる回り、とうとう車は松林のなかに人目につかないように建つ山荘の前で止まった。
車から降りると、老婆と二〇代はじめとおぼしき美しい娘さんが私たちを出迎えてくれた。ふたりは私たちをなかへ案内した。
同行してきた崔課長が私に言った。
「呉先生たちはこれからしばらくこの家で導らすことになります」
私はなぜこんなところに往まなければならないのか尋ねたかったが、ぐっと言葉を呑み込んだ。口は災いのもとである。少し様子を見る必要があると思った。
娘さんが入ってきて、私たちを食堂へ案内した。行ってみるとテーブルには大変なご馳走が並べられていた。
崔課長は私の横で説明を加えながら、自分の手で料理を皿に取ってくれた。
淑子は子供たちにドイツ語で食べ物をひとつひとつ説明しながら食べさせなければならなかった。両親はともに韓国人でありながら子供たちが母国語をできないということが妙に恥ずかしかった。
食事が終わると、崔課長は私たち夫婦の部屋と子供たちの部屋、そして浴室、書斎などを家内してくれた。よく分からないが、ここは特別な建物のようだ。課長はここを山荘ではなく招侍所と呼んでいた。
「それではお疲れでしょうから、ゆっくり休んでください。私はこれで失礼しなければなりませんので」
「次はいついらっしゃいますか」
「すぐ、また来ますよ」
そう言って課長は金指導員だけ残して随行してきた一行とともに引き上げていった。

山中の招待所暮らし

山荘がある渓谷は景色が良かった。繁みを散歩しながら小高いところに立つと、私たちがいるような建物がかなりあるようだった。しかし山荘ごとに検問所があって、近くまで行けないようになっているらしい。平壌から来るベンツをときどき見かけることもあった。
遠くまで広がる雪に覆われた田畑は、私が幼い時に見た故郷の風景そっくりだった。手のひらぐらいの小さな田んぼ、そして凍りついた川・・・・・・。
ときどき川の向こうに、汽車が通るのが見えた。
私たちの世話をしてくれたふたりの女性のうち料理を受け待ったのは、六〇を過ぎたお婆さんのほうであった。彼女は熱心な党員で、話す時はいつも〝偉大なる首領様〟または〝父なる首領様〟という枕詞を付けた。心から金日成を敬慕しているようだ。
彼女は開城の貧しい家に生まれた。幼い時からよその家にやられ、子守りや炊事にこき使われながら大きくなったという。成人して結婚したが朝鮮戦争の時夫を失い、以来人民軍の将軍たちの食事係を担当してきた。その間に保育園の園長もしていたという。
彼女は金正日の指示で拉致され、北朝鮮に連れてこられた申相玉と崔銀姫夫妻がとても好きだと言った。申相玉は韓国を代表する映画監督、崔銀姫は大女優であったが、北に連れてこられたあとは金正日の期待を一身に背負って、レベルの高い映画づくりに精を出していた。お婆さんの話では、そのふたりを好まない人はいないようだ。
夫妻は北朝鮮の硬直した文化に瞬間的ではあったが、生気を吹き込んでいた。それにもかかわらず、申・崔夫妻はのちに北朝鮮を脱出してしまう。私がこのお婆さんから彼らの話を聞いた、すぐあとのことだ。
もうひとりの、二〇代前半の娘の名前は、金喜春であった。彼女は招侍所の警備をしている人民軍の青年と相思相愛の仲であった。恋愛中の人がみなそうであるように、この娘は満開の花のようだった。彼女は自分のほうから進んで恵媛や圭媛にハングル(朝鮮・韓国文字)を教えるなど、よく子供の面倒を見てくれた。それというのも、彼女が子供たちにハングルを教えている時、私と妻は接見室(応接室)で哲学と歴史の学習をさせられていたのだ。
哲学と歴史といっても、それはみな全日成と正日を礼賛する洗脳教育だった。当局が私たち一家をここに連れてきたのは、西側の垢に汚れた私たちの頭をじっくり洗脳するのが目的だったのだ。私と妻はそれを避けられないステップと割り切り、洗脳されようと努力した。
金喜春は私が本をたくさん待っていることを羨ましがっていた。この国ではなかなか欲しい本が手に入らないらしい。何か欲しい本があるかと尋ねると、
「兄が南朝鮮で出版されている『英韓辞典』を一冊欲しいというので、招侍所に出入りする欧米から来た先生たちにお願いしているのですが、いまだに手に入りません」
と言って彼女は顔を赤らめた。私は微笑みながら、持っていた民衆書館発行の英韓辞典をプレゼントした。
「これを、どうしましょう・・・・・・。こんなにありかたいものを・・・・・・。先生、本当にありがとうございます・・・・・・」
彼女が泣きださんばかりに感謝するのを見て、私は北にきちんとした英韓辞典がないことを知った。金正日は辞書もつくらずに、外国語の勉強を奨励していたのである。それでいて自分は日本などから輸入した高級紙で父親と自分を讃える本を作って悦に入っているのだ。

洗脳教育

いつしか八六年の正月がやってきた。北では陰暦で正月を祝う。
元旦は映画学習がない。私たちは月曜日から金曜日まで、毎日二時間ずつここの映画学習を受けさせられていた。教材は『朝鮮の星』を筆頭に、『廃墟の中から立ち上がった朝鮮』など愛国調のプロパガンダ映画ばかりだ。
しかし、普段の日なのに映画学習のない日もあった。招待所から出て平壌に行き、『金日成の聖地』を巡る日であった。見学ルートは金日成の生家のある万景台、歴史博物館、革命博物館、主体思想塔、凱旋門、革命列士陵、金日成の銅像、平壌産院、入民大学習堂、南朝鮮革命博物館などだ。
私は金日成の銅像に花を捧げ、深々と礼をしなければならなかった。
南朝鮮革命博物館に行った時、私は興味深い発見をした。『民主主義建設協議会(民建会)』主催で七五年か七六年にフランクフルトで開かれた独裁打倒デモに使用した横断幕が、ガラス箱のなかに保管されていたのだ。誰がドイツからここに待ってきたのだろうか。
また、万寿台の朝鮮革命博物館には全日成が中学校へ通う時に読んだという『資本論』がガラスケースのなかに展示されていた。私はそれを見て驚いた。
これは詐欺以外の何ものでもない。金日成が中学校へ通っていたのは一九二〇年代だが、その頃『資本論』がハングル訳されていただろうか。そんなことはあり得ない。日本語に訳されたものだったら信用したであろう。しかしガラスケースのなかにあるものはハングルで書かれていた。しかし私はそんな疑問などおくびにも出さず、同行してきた白指導員の視線を気にしながら、見るもの間くものに感嘆してみせた。
聖地めぐりの大部分は白指導員が担当したが、招侍所によく出入りするのは崔課長、白副課長、金指導員らであった。彼ら以外には、哲学と歴史の講義のため、ふたりの学者が定期的にやってきた。そのうち主体思想を担当した社会科学院の某教授は招侍所に来ることをことのほか喜んでいる様子だった。肉のスープに白いご飯を食べるという、そうめったにない機会に恵まれるからである。しかも、ときには外国の話を聞くこともできるのが刺激になるようだった。
彼は主体哲学の主命題は金日成が創始したのでなく、エンゲルスが書いた二編の論文をもとに作られていることを知らなかった。もちろん、〝自主性〟という言葉もエンゲルスの〝自由〟を入れ換えたに過ぎないことも知らなかった。
私は北の住民たちが主体思想という代用宗教によって思考を麻痺させられている現実を見るにつけ、『宗教は人民のアヘンである』というマルクスの言葉を実感せずにはいられなかった。
二月中旬、私は金正日の四四歳の誕生日に向けての祝賀文を書くよう指示された。こんなことに頭を使うのはバカバカしいので、私は招待所の木棚で見つけた本のなかにあった祝賀文に手を加え、家族の名を添えて提出した。内容は「祖国は私たちをその暖かい懐に抱いてくださいました。それに対して敬意と感謝の意を表します」というものであった。

現実を見つめる妻

二月中旬になっても、寒さは緩まなかった。ある日、ヒーターの前で本を読んでいると家内が不意に泣きだした。反射的に私は周囲をさっと見回した。幸いお婆さんも付添いの娘さんもいなかった。

「どうしたんだ、どこか痛いのか?」
そう尋ねると、妻は情けないという目つきで私を見つめながら声を低くして語りだした。
「あなた、まだ分からないの。私たちがここに連れてこられたのは、尹伊桑と金鍾漢の罠にはまったからなのよ。今考えると、あなたは自分の手で自分の眼を刺して見えなくし、私たちの眼まで刺してしまったんだわ」
「何がどうしたと言うんだ。今俺たちが飢えているとでも言うのかい。でなけりや、家もなくて、雑魚寝するほうがいいのかい」
「この人はほんとうに! 気でも狂ったんじやなくて。あの人たちのやり方を見なさいよ。あなたは社会主義者たちは誠実だと言うけど、どこが誠実なのよ! しっかりしてよ。ここの人々の様子をよくよくごらんなさいな。みんな口を閉ざしているでしょう。死にたくなかったら、くれぐれも言葉には気をつけてよ。あなたは酒が入れば、自分を素直に出しちゃうでしょ。あの人たちはそれを利用しようと待ち構えているのよ。この話はしまいと思ったけど、あえてするわ。今日、お婆さんと話をしていたら金鍾漢の話が出たの。お婆さんは、金鍾漢を知っていたわ。彼は奥さんとふたりの息子をつれて元山と松島海水浴場へ毎年のように来るんだって。ここにもたまに寄っていくようよ。私がキールにいた時、何と言ったか覚えている? 金鍾漢には気をつけなさいって何度も言ったでしょう。私たちの周りは信用できない人たちばかりなの。だからこれからは、お願いだから、言葉には気をつけて!」
はめられたのか・・・・・・。私は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。視界が急にボーッとして、そう高くない天井が、遠のくような感じがした。
その上、目眩がしてきた。しかし、私は何とか涙を出さないよう唇を強くかんだ。すべては私が原因なのである。だから、妻と一緒になって涙を見せながら、あからさまに後悔することはできなかった。
逆に私は開き直った。
「今さらどうするんだ。ここに来た以上ここで暮らさなくてはならないんだ。金鍾漢に罪はない。みんな俺の意志でしたことだ」
淑子の顔が蒼白になった。口がぶるぶる震えている。私は妻がどんな不平を言っても辛抱しようと思った。
淑子は目に涙を浮かべ、何か言おうとした。その瞬間、部屋のドアが関いて子供たちがやってきた。
「父さん!」
私は妻とのやりとりを聞かれたのではないかと心配になったが、ふたりの表情を見る限りそんなことはなさそうだ。子供たちはふたりで遊んでいてもつまらないので、こちらに入ってきたようだった。
「よし、よし、おりこうねぇ」
妻は子供らに寄り添って、鼻にかかった声で言った。

秘密工作員への誘い

ある日、白指導員と一緒に崔課長が訪ねてきた。
「じつは呉博士、キールにいる朴炳燮と接触したいのですが、手助けしてくださいませんか」
「私がですか? その人についてはよく知らないんだが・・・・・・」
関わりたくないので話をそらそうとすると、白指導員が冷やかな声で刺すように言った。
「外に出て党を助けなければ・・・・・・。そうすれば下山できます」
それを聞いて瞬間的に、この連中の手助けをするふりをしなければならないと思った。わずか二ヶ月の間に、私はある程度北朝鮮という国の本質を知るようになっていた。当局の連中は口先では呉博士、呉先生と敬意を表すように呼びながら、じつはこちらの喉元をつかんでいたのである。私はすでに工作機関の掌中に捕らわれていたのであった。
「そうすべきものなら、お引き受けしなければなりますまい」
そう言いながらも、腹のなかでは何がなんでも、彼らの掌中から抜け出さなければならないと思った。家族全員が難しいのなら、まず私ひとりでも、そして、それから、家族を救い出そう・・・・・・。
じつは、金鍾漢の紹介で、朴炳燮にはドイツで三度ほど会ったことがある。けれども、連中のほうが私よりも朴について、より多くのことを知っているようだった。
「とは言っても、私は朴炳燮の住所も電話番号も知りませんよ」
「それは、心配いりません。私たちが調べますから・・・・・・」
数日後一三課から連絡が来た。全斗煥・韓国大統領の西ドイツ訪問が発表されてから西ドイツとその周辺地域は警備が厳重になり、当分事業は遂行できないというのであった。

平壌への引っ越し

三月二〇日頃、私たち一家はようやく招待所から平壌へ移ることができた。
その朝、白指導員が何の前触れもなく招侍所にやってきた。やけに早い時間なので、私はもしかしたらと思い、彼の口元を凝視した。
「旅立ちの準備をしなさい」
「どこへ行くんですか」
私はタイミングを見計らって白指導員に聞いた。
「平壌へ行くことになります。行けば分かるのに、なんで聞くんですか」
彼はそれ以上話をするのが嫌な様子で、そっと背を向けた。
平壌の中心街から蒼光通りに近づくと前方に高層アパート群が現れた。ここが私たちの新居だという。すべて二〇階建てであると、白指導員が自慢気に言った。車はアパート群のなかに入ると、ひとつの棟の前で止まった。
待っていた七人の男がさっと近づいてきた。皆よれよれの服を着ている。そのなかから背の高い男が前に出て挨拶した。
「ようこそ、いらっしゃいました。私は呉先生のご家族の担当をする生活指導員です」
北朝鮮の人たちは、初対面の挨拶をする時自分の職種だけを話し、名前を言わないことが多い。はじめは戸感ったが、それを何度も経験するうちに、変には思わなくなった。
私たちの部屋は一二階にあった。ちょうど、エレベーターが故障中だったので、そこに行くのに階段を使うしかなかった。どうするのかと思っていると、
「部屋を見に上がりましょう」と白指導員が言った。
すると、私の答えも待たず、生活指導員ともうひとりの男が先に立って階段を昇りだした。
私は淑子や子供たちとともに彼らの後についていった。瞬く間にどんどん離されてゆく。息を切らしながらようやく一二階まで昇ると、汗が滝のように流れてきた。しかし、手伝いの人たちは、重い荷物を侍っているのに、汗ひとつかいていない。
「ここは共和国で一番良いアパートです。部屋が三つに台所がついています。ごらんなさい。衛生室(化粧室)があり、風呂も別にあります」
白指導員はそう言って目を輝かせた。たぶん彼は、こんな素晴らしいアパートで生活していないのだろう。
「これが入居証です。奥さん名義になってますよ」と言って白が妻に封筒を手渡した。
淑子は笑顔をつくってなかのものを取り出すと、さっと目を通した。
「あのう、名前が・・・・・・」
妻が、私の顔をうかがいながら入居証を白指導員に差し戻した。妻の名前が申淑子ではなく申淑姫になっていたのだ。
「ああ、それですか。共和国では〝子〟という文字は使いません。それは日本式の名前です。それで女らしく〝姫〟の字にしました。奥様は親愛なる指導者同志(金正日)の大きなご配慮に預かりました。これで私たちは帰らなければなりません。また明日来ます」
白治完指導員がそう言うと、生活指導員が男たちに指示を与えた。
「では、整理にかかってください」
白指導員と生活指導員が帰ったあと、男たちは部屋の整理や掃除にとりかかった。それを見て淑子が言った。
「あなた、あの人たちに一杯差し上げたいんだけど、招待所から待ってきたビールは四本しかないの。どうしましょう」
「買ってくるしかないだろう・・・・・・」
何も考えずにそう答えて私は外へ出た。アパートの前は平壌で一番の繁華街といわれる蒼光通りだから、何かしら手に入ると思ったのだ。しかしどの商店に入っても、酒どころか商品らしい商品さえない。
私は六〇北朝鮮ウォン待っていた。招侍所の床屋が二〇米ドルと換えてくれたものである。
しかし皮肉なことに、蒼光通りの商店ではドルは受け取るが、北朝鮮のウォンは使えないと言う。物がある店ではドルを出すように言われ、逆に朝鮮ウォンが使える店では物がなかった。
私はその時になって初めて、招待所の床屋とカネを交換したことを後悔した。聞いてみると、二〇ドルはヤミ相場で二千北朝鮮ウォンになると言う。うっかりあの男の口車に乗せられ、大損してしまったのだ。だからと言って今さら取り返しに行くわけにもいかない。
結局、あちこち歩き回ってやっとのことで、中国製の蛇酒を一本求めることができた。これで何とか面目が保てると思うと、思わずため息が出た。
翌日、生活指導員が米と副食を待ってきた。
「一週間分です。来週また待ってきます」
人民班の班長も訪ねてきて、不便があれば何でもおっしゃってくださいと愛想よく言った。たぶん、よく面倒を見るようにとの、中央の指示があるのだろう。この班長はしばしば訪ねてきて、困ったことがあれば手助けしますと大変な気の使いようだった。
この地区を担当する社会安全員(警察)もきた。
「用心してくださいよ。田舎から平壌へやってきて、空き巣や強盗をする者がこのところ急増しています。私的な物は、泥棒にあっても申告できませんから各々が注意するしかないのです」
安全員が低い声でこのように言ったので、私と淑子は思わず顔を見合わせてしまった。

北での〝異邦人〟

私は引っ越してから、自分なりに北朝鮮についてもっと知りたいと思い、平壌市内を歩き回った。
平壌駅から街はずれまで、足がくたびれるのをものともせず駆けめぐったが、予想に反して検問にあったり、安全員に制止されたりすることはなかった。また平壌最大の農民市場をぶらつきながら、そこにいる人間にあれこれ聞いてみたこともあった。しかし工場に入ることはできなかった。大きな工場の正門にはいつも軍服を着た兵士が番をしており、出入りする人間に目を光らせていた。
こんな経験もあった。ある日、平壌の中心部を歩いていると、人民学校(四年制の小学校)の児童たちが私の服装や挙動を変に思ったのか、あとをついてきた。
「ソ達人、ソ達人!」
と子供たちが叫ぶので振り返って怒った顔をすると、予供たちはワツと逃げ散った。しかし、歩きだすとまたついてくるのだ。子供たちの純真無垢な目から見れば私は異邦人と映ったようだ。

私はある日、道路をはさんで向かい側にあるアパートの前で懐かしい慶尚道訛りの会話を聞いた。ここは、日本からの帰国者たちが住むアパートだった。このアパートの人たちは慶尚道出身が多いらしく、会えばほとんどの人が私の育った土地の言葉を話すのである。このアパートは飛び抜けて立派な造りだった。それもそのはず、当初この建物は北朝鮮がフランスと合弁でホテルにしようとして建てたが、何らかの事情でフランス企業が工事の途中で撤収したため、完成後日本からの帰国者専用アパートとして使われているのだった。そうしたほうがホテルにするよりは金がかからないからだろう。
四月一五日がやってきた。この日は全日成の誕生日。北の住民たちにとって最大の祝日である。
この前日には、白飯と豚肉の配給があるので、めったに肉にありつくチャンスのない一般市民は、この日を心待ちにしていた。肉の配給といってもごくわずかで、スープにして家族で肉の味を思い出す程度のことしかできないのだが、それでも大変なご馳走だった。
この日は大人だけでなく、子供たちも菓子袋をプレゼントされる。
私も全日成の誕生日がくる数日前、恵媛と圭媛を連れて、菓子袋を受け取るために五月から通うことになっている近くの人民学校に行った。ただし、行けばすぐ貰えるのではない。私たちは校長と地区の党幹部の紋切り型の演説を聞いてから、菓子袋ふたつの配給を受けた。
四月一九日、私たちは日曜日の野遊会に招かれた。私と淑子は白指導員に言われて行ってみた。例によって、行くまでそれがどこの主催によるものか知らされていなかったが、そこにはたくさんの北朝鮮入りした人たちの顔があったので、私は対南工作機関に関係している組織の主催ではないかと思った。
白指導員にそれとなく聞いてみると、七宝山連絡所の野遊会であるという。この対南工作放送局の存在は関いたことがあった。
しかし、まさか自分がそこで働くことになろうとは夢にも思わなかった。


第6章 七宝山連絡所

悪化する妻の病

五月初旬、恵媛と圭媛が人民学校に入学した。姉のほうは九歳で、妹は六歳であった。
ふたりが学校へ通い始めて数日後、生活指導員が訪ねてきた。
「奥様、おめでとうございます。あなたは親愛なる指導者同志の大きなご配慮により、共和国で一番良い職場で働けることになりました。これから私がご案内します」
そうやぶからぼうに言われても、すぐウンと言えるものではない。淑子はまだ、完全に健康を回復していなかった。それに子供たちは学校に通い始めて間もない。母親としては、しっかり見守ってやりたいところだ。私は事情を理解してもらおうと思った。
「生活指導員同志、家内はまだ体調が思わしくないので、職場に出るのは無理です。考え直してくださいませんか。それよりまず、私の職場の問題を相談したいので、一三課の崔課長に会えるようにしてください」
「私は命令を受けて来ています。もう決まったことはひっくり返せないと思います。呉先生のことは、今度崔課長に会った時話してみます」
そう言って生活指導員は、半ば強制的に淑子をソ連製のボルガに乗せて行ってしまった。
どれほど悔しかったことか! 私は妻を守ることができず、去ってゆく車を歯ぎしりしながら見守るしかない情けない夫であった。
こんなことがあっていいのかと思っても、どうすることもできなかった。ただ淑子の新しい職場が体に負担のかからないところであることを祈るしかなかった。
ようやく夕方になって淑子は帰ってきた。顔からは血の気が失せている。部屋に入るやいなや淑子は声をあげて泣いた。
「何があったんだ」
泣き崩れている妻を見て、私は何か嫌な目にあったのだろうと思った。しかし、まさか拷問や厳しい取り調べを受けたわけではあるまい。考えあぐねていると淑子が口を開いた。
「どこへ連れていかれたと思うの? 七宝山連絡所ですよ。そこで私を対南工作放送要員に使おうというの。そう決まっているようで、いきなりテストされたわ。私だけじゃないわ。あなたも放送要員に使おうとしているみたいだったわ」
私は唖然とした。この私が子供だましのようなプロパガンダ放送の仕事などできるか!
「本当にそう言ってたのか。聞きちがえたのじゃないか。気でも狂わないかぎり、この俺を対南工作放送局で使ったりするものか?」
淑子はしばし無言で涙を目にいっぱいためながら、悔しそうな目で私を眺めていた。そして肩を震わせながら呟いた。
「あなたという人は、ほんとうに何も見えないのね。きっと心が広すぎるのよ。だけどどうするつもり? たぶんあなたも逃げられないわよ。もうこうなれば開き直って、じっとしていればいつか『災い転じて福となる』と思うしかないわ」
その言葉を聞いて、私は後頭部を鈍器で強く殴られたようなショックを受けた。
〝なんだ! この俺が放送要員になるだと! これじゃ話にならん〟私は胸のなかでそう叫ばずにはいられなかった。
翌日から淑子は弁当を持って出勤しだした。家を出るのは何と朝五時三〇分。疲れ切った顔で帰ってくるのは午後六時三〇分頃であった。
淑子は一日も休まず放送局へ出かけていった。その姿を見て私は彼女が一日一日命を削っているように思えた。
無理がたたって妻の健康は急速に悪化していった。その上、記憶力まで減退し始めた。見るに見かねて私は七宝山連絡所の党秘書を訪ねた。党中央へ妻が健康をそこねているので職場を休めるように、上申してもらうためであった。その際、かわりに私が連絡所へ出ても良いと申し出た。この願いは認められることになり、淑子は六月一五日付けで休職し、平壌医科大学付属病院へ通うようになった。できれば入院させたかったのだが、医師の指示は入院はせずに通院治療をするようにとのことであった。

再度の打診

妻が病院へ通っている間、子供たちの面倒は私が見なければならなくなった。こうした事情を連絡所の党書記に話すと、当面は午後から七宝山連絡所に出勤するだけでよいということになった。
初出勤の日、あまり暑いので半ズボン姿で出かけると職場の党書記に呼びだされた。
「呉先生、これからはパンツだけで来てはいけません。どうして知識人がそんな姿で外出できるのですか」
私は当惑して、今度からは気をつけます、と言ってその場をとりつくろった。党書記の部屋から帰ると、私の使う机へ案内された。
そこは三人部屋であった。私の横の人は『革命戦線』誌の記事を原稿用紙に写しているところだった。こちらが挨拶すると彼は名前は言わず、記者だと自己紹介した。
もうひとりのほうは珍しく自分の名前を言った。
「初めまして。私は金勝奎と申します。労働新聞の記者をしたあと、ここに来ました。金日成総合大学哲学科の出身です。呉先生の話はよく聞いております」
しかしよく見ると、彼は自己紹介とは違って、韓国で六〇年代に発刊された音楽百科事典を、ほとんどそのまま写し取る作業をしていた。
ここで彼らが書いている原稿は、『民衆のこだま』という対南偽装工作放送に使われると言う。韓国の反政府組織が行う地下放送であるかのように見せかけで行う放送のことだ。このふたりには共通点があった。それは暇さえあれば居眠りをしていたということだ。
全勝奎は韓国を呼ぶ時、〝半封建植民地〟と言ったが、放送用原稿にもそのように書いているようであった。
「南朝鮮は半封建植民地社会というより、資本主義的商品生産社会と言うべきでしょう」
と言うと彼は不思議な目で私を眺めた。その様子を見て、それ以上話をしてはならないと私は判断した。
数日が過ぎ、白指導員と金指導員が訪ねてきた。彼らは忘れかけていた朴炳燮の話をまた切り出した。
「コペンハーゲンに行って、キールから朴炳燮を呼び出してほしいんです。先生にとってもヨーロッパに行くことは悪い話ではないでしょう。聞くところによると、上の娘さんの目がとても悪いそうですね。東ベルリンで眼鏡をひとつあつらえたらいい」
ハイ、としか言えないことは分かっていた。しかし、人を騙してこんな国に連れてくることには抵抗があった。
「何日か時間をください」と言うと、
なぜか彼らは「そうしたほうがいいです」と言って帰っていった。
それから私はしばらく風邪をこじらせ、寝込んでしまった。ようやく熱が引いた頃、白副課長と白指導員が、入北してからしばらく住んだ招侍所の接待員であった金喜春を連れて見舞いに来てくれた。彼女は、しばらく見ない間にさらに美しさに磨きがかかっていた。妹のような金喜春に会うと、心がなごみ、体が軽くなった。私はその場で、デンマークヘ行って朴炳燮に会うと言った。ふたりは大喜びで私の手を握ってきた。
一方の手を白副課長が、他方を白指導員が・・・・・・。それを見て金喜春は美しい大きな目を輝かせて、満面に笑みを浮かべていた。あっさりウンと言ったのは、別に彼女の関心を引こうとしたためではない。どうせ、ウンと言うのなら、工作機関員に圧力をかけられながら言うより、金喜春の笑顔の前で言いたかっただけだ。

韓国向け偽装宣伝放送『救国の声』

七宝山連絡所は牡丹峰のふもとにあった。ここでの私の名前は閔永勲教授であった。
とうとう一〇月になると、彼らは私をマイクの前に立たせた。
私に課せられた仕事は『民衆のこだま』という偽装放送の要員として、土曜日を除き毎日一三分間、『救国の声』を放送することだ。突き詰めれば南北統一について、主体思想を天まで高く崇め奉り、韓国の経済を米国や日本に従属する経済と批判するのが仕事であった。私の声が電波にのって韓国全域に響きわたることを考えると身の毛がよだつ思いだったが、命を失いたくないのでやらないわけにはいかなかった。
現在も依然として『救国の声』放送は聞こえてくるが、北朝鮮ではそれを引用してニュースを流すことがよくある。
〈韓民戦中央委員会、秘密核貯蔵庫建設関連声明〉
ソウルからの『救国の声』放送によると、韓国民族民主戦線中央委員会は、南朝鮮当局が、特定財閥の支援のもと、米軍の原子爆弾を貯蔵する秘密核兵器貯蔵庫計画を引き続き推進していることと関連して、これを糾弾する声明を発表しました。声明の内容は次の通りです。

〈韓国民族民主戦線中央委員会声明〉
去る五日、〝山のなかにトンネルを掘って米軍の原子爆弾を貯蔵する極秘工事を自分が直接監督した〟という、現代グループ鄭周永・前名誉会長の発言は、日増しに内外で大きな物議をかもしています。このたびの秘密核兵器貯蔵庫建設をめぐる鄭周永の発言は、逆賊・慮泰愚の核不在宣言の真実性に強い疑いを抱かせています。韓国からアメリカの核武器を全面撤収させることは、この地に生をおく我が民族の運命と直結する死活問題であります。(以下略)

『救国の声』は、あたかも韓国内の左翼勢力の地下放送であるかのように偽装していたため、主に韓国出身の人を起用していた。南の言葉を話す人間でないと不自然だったからだ。ここでは私のような新参者のほか、六九年末に拉致されたKAL機のスチュワーデス・成敬姫、鄭敬淑も働いていた。
私は彼女たちと何度もじっくり話をしてみようと思ったが、ついにそのチャンスはなかった。具体的な目的があったわけでもない。ただ、拉致されて以降彼女たちはずっと北で暮らしてきたのだから、言いたいことがたくさんあるだろうと思ったのである。また南の話に花を咲かせてみたいという気もした。
しかし、南のことを話題にするのはタブーであった。そのため、彼女たちと会っても、必要な話以外は周囲の耳を気にして、どうでもいい雑談をするしかなかった。彼女たちはどんなにか、南の話をしたかったろうか。私はそのことを彼女たちの目つきで察することができた。

妻への告白

一〇月下旬のある日、午後四時頃、隣の部屋にいる玄龍鶴局長が訪ねてきた。
彼は部屋へ入ってくるなりいきなり言った。 
「呉先生、ここの党書記のところに行ってください」
何ごとかと聞いても、彼も分からないという。
いぶかしく思いながら、党書記の部屋へ行くと、部屋には対南工作を担当する第五課の白副課長と金指導員、そして白治完指導員が来ていた。
「呉先生、準備してください。対外連線部長同志にお会いしなければなりません」
彼らは理由も告げずに、連絡所の外に停めてあったメルセデスべンツに私を乗り込ませた。
対外連絡部長に会ってどうしようというのだろう?
いぶかっているうちに車は停まった。着いたところは牡丹峰招侍所であった。
そこには、第五課の洪課長らが並んでいた。私は面喰らってしまった。彼らがなぜ並んで私を侍ちうけているのだろうか。しかしすぐ謎が解けた。彼らと挨拶を交わしていると、もう一台ベンツが現れた。窓が外からはなかを覗くことができないマジック・ウィンドウになっているので、一見して高級幹部用の車だと分かる。車から降りた人は、対外連絡部長・李賛善であった。彼らは雁首をそろえてこの人物を侍っていたのである。
「そこにお掛けください」
と洪課長が私に上席を指した。本当に部長より上席に座ってよいのかとまごついていると、左隣に部長が座った。私はそれを見て恐縮しながら主賓席に腰を下ろした。それを察した李部長は手振りでまあまあ、気にせずにという仕草をして私を安心させてくれた。ほかの四人は、私たちの前に洪課長、白副課長、白指導員、金指導員の順で座った。全員大きなメモ帳を手に持ってペンを走らせようと待ち構えている。
党の対外連絡部長は、対南工作を取り仕切る責任者であり、北における最重要ポストのひとつだ。私は不思議と緊張はしなかった。それより、超大物と並んで座るという栄誉を与えられ、体がポッと熱くなった。
李賛善は、人参茶と外国タバコを私に勧めた。一瞬手が出かかったが、思い止まった。形式にこだわるこの国では、こういう時のマナーがあると思ったのだ。さっと前に居座る連中たちを見回すと、みな目を大きく見開いて私にどうか控えてくれと哀願するような目つきをしている。どうやら私が李部長の前で堂々とタバコをくゆらすのではないかと、気が気ではないようだ。
「結構でございます」
私が辞退すると、連中の顔は安堵の色に変わった。
私は心のなかで連中をあざわらいながら、一本もらって吸うんだったと思った。
「呉先生、共和国に来て、初めの印象はどうですか」
李賛善はほぼ標準語に近い発音で話した。
「親愛なる指導者同志(金正日)が、働き手たちがみんな敗北主義におちいっていると指摘なさったように、革命的な熱情が薄れているような印象を受けました」
私の答えは少し生意気なものであったが、率直に述べたのだ。私が見るに、北朝鮮の経済は完全に活力を失い、ほとんど麻痺寸前の状態だった。人民には生気がなく、心身ともになえており、劣悪な生活環境のために、恐ろしいほどの苦難にあえいでいた。
北朝鮮では、金日成の教示や金正日の言葉を正確に引用すれば、どんなにやばいことでも、無難に通るということを、私は知っていた。それで金日成の言葉を引き合いに出し、私の思いを込めて話したのだ。
李賛善が私にやや顔を近づけてきた。
「今、南朝鮮では革命を目指す勢力が解放区だ何だと言いながら、いたずらに火焔瓶を投げるなど、あまりにも軽挙妄動に走る傾向にある。偉大なる首領・金日成同志は、南での革命勢力の弱体化を憂いていらっしやいます。放送だけでは、偉大な首領様の意志を伝えることができず、もどかしい限りです」
私はどう答えていいものかと慎重にかまえた。下手に言うと、とんでもないことになるという警戒心が舌を動かなくした。ヘマをするよりは沈黙のほうがましに決まっている。
すると李部長が続けた。
「だから、呉先生が偉大な首領様の教示を実践する党活動を少し手助けしてくださらなければなりません。事業の成功の可能性をどのように見ていますか?」
前に座ってメモを取っていた連中の顔色が変わっていくのが読み取れた。彼らは再び一斉に哀願するような目つきを私に送ってよこした。
「成功が半分、失敗が半分の確率ですけど、さらに挑戦して偉大な首領様(金日成)の教示が貫徹されるように努力します」
私がそのような模範回答を述べると、彼らは喜びを隠せない様子であった。もし、拒否していたなら彼らがこれまでひとつひとつ積み重ねてきた実績が一瞬のうちに消える可能性もあったのだ。だから、思わず笑みがこぼれたのも当然なのだ。
李賛善は腕時計にチラと目をやってから立ち上がった。私も時計を見た。彼に会ってから四五分が経過していた。
「五課長、呉先生をお送りしなさい」
李賛善が洪課長に命令した。洪課長は、気をつけの姿勢でその命令を受けた。そして、李賛善が立ち去ると、やけに丁重に私を車に案内した。

金日成・正日を讃える学習

帰り際、車のなかで白治完が私に耳打ちした。
「許錟同志(政治局員・対南工作、外交担当)が、呉先生と一度お会いしたいと言っていました。任務を成功裡に終えて帰国すれば、お会いできますよ。それと、もうひとつ大事なことがあります。いいですか。今度の任務は重要事項ですから、奥様にも必ず秘密にしなければなりませんよ。絶対に」
私は大きく領いて、白治完を安心させた。しかし、そんな約束を守るほど私は愚かではない。ただ、どうやって淑子に伝えようか迷った。
私は結局、その夜寝床で頭から布団をすっぽり被って淑子に、北を発つ日が近づいていることを告げた。盗聴が怖かったのでそうするしかなかったのだ。
それを聞いて淑子は〝不整脈が続いている〟と言ったきり、一度口を噤んだ。よほど苦しいらしい。今では肝炎だけでなく心筋梗塞まで併発していた。
「ここでは回復できそうもないわ。私の体は、この国と同じように思えるの。あまりにも血の巡りが悪いわ。動脈硬化が進んでいるし」
「外に出て行けば、何らかの門が開けるかも知れないよ・・・・・・」
〝外に出ていけば・・・・・・〟。偶然出た言葉であった。しかし、その瞬間から〝脱出〟という言葉はかた時も頭から離れなくなった。
淑子もそう思ったようだ。
「こうなったらあなたが外に出て、何としてでも私たちを助け出すしかないわ」と結論付けた。
しかし病身の妻にそう言われると、かえって私の気持ちは萎えた。
弁明でなく、私は淑子の生命を助けるためもあって北に来たのであった。彼女は肝炎を患い、一応回復したとはいえ、その後遺症は重かった。ここでは十分な医療を受けられるという話だった。
ところがどうだろう。十分な医療どころか、妻は無理やり働きに出され、病状を悪化させてしまった。
北に来たことが結局は妻の命を縮めることになってしまったのだ。
私はその夜、冷蔵庫にある酒を全部飲んでしまった。それでもなかなか酔えなかった。体は酔っても頭が冴えたままなのだ。こんな状態が夜明けまで続いた。
翌日は土曜日で、学習の日であった。私は平日と同じく、五時三〇分に家を出た。
七宝山連絡所の土曜日の日程は次のようであった。
六時三〇分〜七時○○分 朝の掃除 七時一〇分〜八時○○分 党会議に参加
しかし私は非党員であったから、三〇代初めの女性が班長をしている集会に参加してふたりの四〇代の未亡人とともに、金日成語録である『親愛なる指導者同志のお言葉』をもとにして自己批判をしなければならなかった。
これはほとんど宗教儀式のようなものであった。だから「私の不徳のいたすところです!すみませんでした」をうまく言えばよいのであった。
また、八時一〇分〜一二時○○分の間は金日成・金正日父子の徳性、偉大性、英明性について学習し、お言葉の書き取りをする時間。
一二時○○分〜一三時○○分の一時間は昼食と休憩。
一三時○○分〜一八時○○分までは、いわゆる労作学習という『全日成の朝鮮労働党建設の歴史的経験』を反復して学習する時間。副所長や局長が学習を指導するが、聞いているほうはみんな要領よく寝ていた。けしていびきをかいたりはしない。私は北の人々の抜け目のなさに舌をまいた。それこそ生活の偉大な知恵である。
終わるのは一八時三〇分。退勤して、高麗ホテルがくっきり見える蒼光通りの家に帰れば一九時三〇分か、二〇時になった。本を読んだり、TVを見て二二時○○分になれば眠りにつく。土曜日は、大の大人がやるにしては何か馬鹿げた味気ない一日だった。
こうした土曜学習のほか、私は日曜日の労働奉仕にも駆り立てられた。
一〇月二七日、日曜日。私は光復通りで行われた建設労働に〝志願〟した。性能の悪い拡声器がザーザーと聞きざわりな音を出すなかで私はセメントブロックを造った。
一一月二日、土曜日。
張 鍚奎副所長が私を呼び出した。この人物は韓国出身で、フランス留学中、同じく韓国出身の夫人とともに北朝鮮入りした経歴の持ち主で、本名は鄭玄龍という。副所長の部屋には、玄龍鶴もいた。
「呉先生を中央党に召還するそうです。地方工作視察を一ヵ月間するためだそうです。月曜日から七宝山連絡所へは来なくていいです」
私は、来るものが来た、早ければ月曜日には出発することになるかも知れないと思った。

第7章 北朝鮮の工作員教育

特別待遇

私は、七宝山連絡所では、まさにノーメンクラトゥーラ(赤い貴族)と言ってよい待遇を受けていた。
そのためかどうか分からないが、一般の職員が私に投げかける視線は冷たかった。彼らの目は、「こいつは何のために北にやってきたんだ? おまえの目と耳は塞がっているんじやないか? おまえはここが地上の楽園だとでも思っているのか」と言いたげだった。
彼らが私に向ける憎悪には、妬みが入り混じっていた。彼らは一年にせいぜい二、三度、金日成や正日の誕生日などに肉の配給を受けるに過ぎなかったが、私は少なくとも一週間に一度、多い時は二度、一キログラムの豚肉を配給されていた。その半分は脂身だったとはいえ、このような特権を享受できるのは、この国ではごくひと握りのエリートだけだ。
その上、工作員になることを了承すると、ほかのノーメンクラトゥーラよりもさらに優遇され、北朝鮮では工場長に出世して初めて配給されるフィルター付きのタバコまで配給されるようになった。
農民市場など、ヤミで密かに取り引きされているフィルター付きのタバコは一箱二〇ウォン(公定レートは一ウォン=約六〇円)といわれている。年金生活者が一ヶ月に受け取る金額が二〇ウォンなのだから、このタバコ一箱の値段は常識をはずれている。
この頃になると、急に冷え込みが厳しさを増す。もう暦は一一月に入っていた。
一一月三日、私は淑子や娘たちと水入らずの時間を過ごした。たぶんこの日が家族と過ごす最後の日になると思ったのだ。白治完は来週から別なところに私を移して準備にとりかかると言っていた。
淑子は夕食をすませると恵媛と圭媛が寝かしつけた。ふたりきりになると、妻は、私がドイツで博士の学位口頭試験を受けた時に仕立てた洋服を、タンスから取り出してカバンに詰めた。
「もうすぐお別れの時間だわ。外に出たら、何としても私たちを助け出して。もしそれができない時は、交通事故でみんな死んでしまったものと考えて。恵媛と圭媛はまだ小さいから、この社会に何とか適応することができるはず。あなたが逃げ出したからといって、私たちが殺されることはないでしょう。お酒を飲み過ぎないでね。あなたが私の言うことを聞かないで、私たちをこの国に連れて来たことは、もう仕方ないにしても、工作員になってほかの人をここに引っぱり込むようなことだけは止めて。だからお願い、もう一度言います。ここには帰ってこないで。私たちは死んでもかまわない。どうか、汚らわしいことだけはしないで。そんなことをするため博士になったのではないでしょう」
妻の言葉に胸が張り裂ける思いだったが、不思議に涙は出てこなかった。
淑子は強い女たった。私が彼女の立場だったらどうしただろう。とてもこのように毅然とした態度ではいられなかったに違いない。

密封教育始まる

一九八六年一一月四日 月曜日
予想したとおり、朝、迎えの車が来た。
今日だと思ってはいたが、私はわざと驚いたふりをした。運転手は平壌に移る前、私たち一家が住んだ招侍所によく来ていたおじさんだった。彼は朝鮮戦争の時、人民軍の兵士として韓国軍を南の端まで追い詰めた洛東江の戦線に行ったのが自慢の種で、根っからの労働党員だ。彼はまた、北朝鮮の実情にも精通しているようだったが、招侍所にいた時は私の質問に対しては何も答えてくれなかった。今度も同様で、口を縫いつけてしまったように、ただ黙って運転していた。しばらく走って車は〝三号庁舎〟と呼ばれる建物の前で停まった。記憶がはっきりしないが、そこは、たしか向こう側に金日成総合大学の校門が見えていたから、チョンソン洞あたりではなかったかと思う。
隣に座っていた白指導員が車から降りて、その建物のほうに消えていった。ここは中央党に直属する工作機関、情報機関が入っている建物であった。北朝鮮ではそうした機関のことを隠語で〝三号庁舎〟と呼んでいた。この周りのどこかに、いわゆる幹部用の生活用品供給所があると聞いたことがあった。
白治完は、しばらくして庁舎から出てくると、再び車に乗って運転手に何事か耳打ちした。
乗用車は平野を抜けて山道に入っていった。私たちが初めて平壌にやってきた時と同じ道を車は走っている。道端の子供たちが、高級車に乗ったわれわれにに手を挙げて敬礼をした。それはちょうど、ハイル・ヒットラーを叫びながら手を挙げるヒットラー・ユーゲントの団員を思い起こさせた。
正午少し前に、大同江の上流にある二階建ての大きな山荘に到着した。そこからは何ヵ月か前に私たち一家が住んでいた建物が見えた。
この招侍所は海外に出る工作員や、北で「革命人士」と持ち上げられている日本から来た朝鮮総連の活動家、欧米に居住している北の息のかかった「統一人士」たちが密封教育を受ける場所である。私もこれから、工作員になるための洗脳教育をここで受けることになる。
食事がすむと、早速、教育が始まった。
最初に、工作員の活動フィルムを見せられた。それが終わると夕刻、洪課長と名乗る人物と中央党(朝鮮労働党中央委員会)の金指導員がやってきた。
まず、私は彼らに言われるまま、金日成の御真影の前で、工作員としての宣誓をしなくてはならなかった。
「・・・・・・親愛なる指導者・金日成同志が命じられた任務を遂行することを誓います・・・・・・」
宣誓がすむと、翌日からこちらの精神状態にはお構いなく教育は続けられた。
まず北朝鮮におけるエ業の成果を教えこまれた。これは私の接触対象である朴炳燮と李文浩に北朝鮮の工業がいかに高いレベルにあるかを説明するためのものだ。説明だけでなく、私は実際に、大安重機械連合企業所、社会主義成果展示館などに連れていかれ、詳しい解説付きで〝著しい成果〟を学ばなければならなかった。
次に白指導員と金指導員は、そのふたりをコベンハーゲンにおびき寄せるためには、どのように話を侍っていけばよいか、その仮想シナリオを書くようにと指示した。
私はたいして頭を使わず、ただ彼らが望むように書き上げた。
「よろしい。合格です! ここらで少し休みましょう。健康であってこそ、任務を完遂することができるのですから」
この学習期間中、私は十分な栄養食を摂らされ、たっぷり休養することができた。
初めは密封教育に多少緊張していたが、休養を十分取ったおかげで、日が経つにつれ、すっかり落ち着きを取り戻すことができた。すると、家族の顔がしきりに浮かんでくるようになった。できることなら、すぐ家に飛んでいきたかった。妻や娘たちは、車でわずか一時間足らずのところに住んでいるのだ。
しかし、密封教育を受けている以上、ここを抜け出すわけにはいかない。何とも、もどかしい話だが、私にはもう家族と会う自由がなかった。

気がかりな家族

ある日、招待所の医師が健康診断にやってきた。さらにその数日後には、南山病院の医師が来て、私にブルガリア製の抗生物質を手渡し、服用するように命じた。また、仕立屋も来て、体の寸法を計っていた。
出発の日が近づいているのは明らかだった。
工作員教育のスケジュールは緩やかなものになった。しかし、まったく無くなったわけではない。相変わらず何度も『敵の手に落ちたら自殺せよ』といった空恐ろしい題名のフィルムを見せられた。
私が欧州に行って工作活動をする目的は北が求めている人間を連れてくることにある。
北の当局が求めているのは、韓国の言葉を話す対南工作放送の要員である。北に連れてくるのが難しい場合は、韓国国内に地下党を構築する要員を補充しようとしていた。
一一月八日の昼食時、白指導員が尋ねた。
「呉先生は今何を考えておられるのですか?」
この男は、人の心の奥底を鋭く見抜く目を侍っている。言葉に詰まればあらぬ疑いをかけられる恐れがあるので、すぐ答えた。
「子供たちに何とか会いたいと思っています。ここで食べている松茸や肉を、娘たちに食べさせてあげられればなあ、と」
「では、一度行ってきなさい」
全く予期せぬ答えが返ってきたので驚いたが、私は白の気が変わらないうちに出ようと、すぐに準備をして、彼らが回してくれた車に乗った。
車が我が家の前に着くと、同行してきた白は、私に松茸や招待所から持ってきたいろいろな食べ物が入っている包みを手渡した。
車を降りると私はエレベーターに飛び込み、一二階に上がった。二度と会うことはないと思っていた妻は、私を見るなり、声を失い、子供のように泣き始めた。母親が泣いているのにつられて、子供たちも泣き始めた。私は、「どうしたんだ」と明るく振るまおうとしたが、自分の心をごまかすことはできなかった。一瞬のうちに目は涙でいっぱいになり、頬を伝って下に落ちていった。
子供たちは病気だった。父親が居ない間に熱が出て、まだ治らないのだという。
病んで熱が下がらないにも関わらず、予供たちは久しぶりに帰ってきた父に無我夢中で抱きついていた。満面に笑みを浮かべながら、ドイツ話で話しかけてくる。
子供たちの話す流暢なドイツ語を聞いて私の心は暗くなった。朝鮮話を話せない子供たち・・・・・これからこの国で生きてゆけるだろうか・・・・・・。
「圭媛の熱がとても高かったので、ゆうべ平壌医科大学病院におぶって行ったんだけど・・・・・・」
「治療は受けられなかったのか?」
「なかなか許可がおりなくて・・・・・・でも我慢して待っていたら、やっと注射をしてくれたわ」
医者を呼びたくてもこの国ではほとんどの家に電話がない。我が家も例外ではなかった。しかしたとえ電話があっても往診に来てくれる医者などいないだろう。仕方なく淑子は、自分の体でさえやっと支えている状態なのに、圭媛を背負って病院に行ってきたのだ。
私は心のなかに冷たい風が吹き抜けるのを感じた。経済学博士が何だというのか。娘が病気の時に、何もしてやれない、情けない父親じゃないか・・・・・・。

カムフラージュ

一一月九日 土曜日
朝、白指導員が家にやってきた。
「呉先生。出発まであと何日も残っていないから、家で待機していてください。月曜日の朝、お迎えに上がりますから。ただ、今日のお昼、七宝山連絡所に行ってきなさい。向こうで、大安重機械連合企業所、社会主義成果展示館を見てきたと言うんです。そうすれば彼らは、呉同務がこれからは我が国の経済界で働くのだと思うはずだから」
私は言われたとおりにした。工作員としてヨーロッパに行くことは極秘にしておかなければならない。そのため、これから経済部門で働くようになったと、カムフラージュしなくてはならないのだ。
七宝山連絡所に行くと、私と同じ〝入北組〟の尹老彬が手を差し出し、握手を求めてきた。「呉博士おめでとう。希望どおり、経済部門で働けるようになったようですね」
私は黙って握手を交わした。しかし胸の奥では、こんな思いがとぐろを巻いていた。
〝馬鹿なことを言わないでくれ。おまえも俺も、頭は空っぽの缶カラのようなもの。早合点が過ぎたということだ。長い歴史の流れを観念の世界で短縮してしまった白痴というわけさ。ブランキ(テロ陰謀)集団の中ではすべてが絶望に変わる。社会主義は不可能だ。おまえが自らの思想と一致させようとしていた主体思想は、ひとりの狂人のたわごとなんだ。俺は今、もうひとりの呉吉男を引っ張ってくるために旅立とうとしているんだぜ。やつらは、おまえたちが疑うようなことがあってはいけないと、私が経済部門に席を移すかのように偽装しているんだ〟
重い気分をひきずりながら七宝山連絡所から帰り、白指導員に報告すると、彼は満足げに頷いてから、立ち去った。
それからの二昼夜は、蜜のように甘いものだった。時間がこれほど速く過ぎていくものだということを、私はその時初めて知った。わずかの言葉を交わしただけなのにもう夜になる。ふたりの娘をかわるがわる抱きしめ、妻の細い腰を一度抱きしめただけで、もう二晩が過ぎていた。

妻の強さ

八六年一一月一一日
玄関のベルがけたたましい音を立てた。
時計は七時三〇分を指している。窓の外はまだ暗い。
胸が高鳴り、汗が出てきた。今度こそ本当の別れだ!
私は少しだけドアを開け、
「少し待ってください」
と言って一方的にドアを閉めた。
私は別れを惜しむ時間が欲しかった。しかし、白にそう言うと、どうしてもへり下った態度を取らざるを得ない。多少、高飛車なやり方だったが彼らは私を必要としているから、この程度のことで私をどうこうするわけがない。
まだ高い熱が下がらない圭媛が傍に寄ってきた。
「フケパク (おんぶして)」
圭媛をおぶった。服を着ていても、熱のあるのが分かる。圭媛は玄関のベルの音を聞いて、何かを感じたようだった。
「アッパ (父さん)、どこに行くの?」
「うん、ちょっと会社の仕事で出かけるところがあるんだ。もう降りなさい。おねえちゃんもだっこしてあげなきゃね」
「分かったわ、アッパ」
圭媛をおろして、恵媛を抱いた。淑子は涙をこらえて私の傍に立っていた。顔が青ざめている。心筋梗塞を病む妻を残して旅立つことは身を切られる思いだ。しかも、彼女は私がこれからどこへ行き、そしてもう帰ってこないということを知っている。
ドイツ語で恵媛に話しかけた。
「アッパは一ヵ月ぐらい帰ってこられない。地方の工場を見て回らなければならないからね」
恵媛の唇が私の頬に触れた。その唇からは、高熱の時に発する強い匂いが漂ってきた額に手を当てると、びっくりするほど熱い。
「恵媛、すっかり良くなるまで学校に行っちゃだめだよ。それから、オンマがくれる薬をいやがらないで飲まなきやだめだぞ」
「分かったわ、アッパ。圭媛のとなりに寝かせて」
子供たちを寝かせてから、私は妻の手を引いて台所に入った。まず、二重になっている窓を音を立てて開けてみた。もしかしたら、その隙間に盗聴装置が仕掛けられているかもしれないと思ったからだ。ざっと見回したがそれらしきものはない。
迎えの車が来ているというのに私はまだ迷っていた。妻と子をここに残して自分ひとりだけ逃げだすわけにはいかないという思いが募って、喉が詰まりそうだった。思い切って私は淑子に言った。
「俺が行ってしまったら、おまえ、子供たちを連れてどうやって生きて行くんだ? やはり、俺だけ脱出するわけにはいかん。帰ってきたほうがいいだろう」
私は淑子の言うとおりにするつもりでいた。
その時、頬に激痛が走った。淑子が私の頬に平手打ちを喰わせたのだ。
「馬鹿なことは言わないで!」
「しかし、おまえ」
「・・・・・・」
妻は黙って私の胸ぐらをつかみ、激しく揺さぶった。目には青い光が走っている。私はその目を見ながら、揺さぶられるままになっていた。
「これでも分からないの?」
淑子はもはや子供たちの横で泣いていた女ではない。強い母、強い妻に戻っていた。淑子は私から手を離すと、
「もう子供たちの顔を見ないで、このまま行きなさい」と言い放った。
それに押されるように私はドアを開け、家をあとにしたのだった。

蘇る妻の言葉

招侍所に戻ると、午後、もう一度フィルムを見せられた。例の、やつらに捕まったら自殺しろというやつだった。私はこれにはうんざりしていたので目を閉じ、前の晩に閉いた淑子の言葉を脳裏に蘇えらせた。
「・・・・・・誰でも今の地位よりもっと上に昇ろうとする限り間違いをしでかすことがあるわ。あなたが私たちをこんなところに無理矢理連れてきたことについては、許すことができるわ。その間違いがどんなに愚かであってもね。なぜならあなたが私の夫だからよ。でも、かわいい娘たちを犯罪者の娘にしてはいけない。純粋な人たちを陰謀のいけにえにするための手先になるなんて馬鹿なことをしてはいけないわ。
自由だとか平和だとか民族人団結だとか、もっともらしい看板を掲げていても、人の血となり肉となる貴重な物資を戦争準備のために無駄遣いしているから、ここの住民はみんな飢えて疲れ切っているのよ。社会主義なんて、何の内容もない抜け殼、風に揺れるボロ切れのような幻なのよ。無償教育制度、無償医療制度とうるさく騒ぐけれど、なかは空っぽじゃないの。薬もないのに、何か無償医療制度よ。
あなた、人民に配るボールペンひとつ、まともなものを見たことがあって? 社会保償制度が確立されていると宣伝しているけれども、死ぬほど働かされて定年を迎えて、支給されるのは月にたったの二〇ウォンなのよ。フィルターがついているタバコ一箱の値段だわ。こんな国がほかにどこにあって? こんな国で生きていくなら、子供だちと一緒に死んだほうがましだわ。
あなたひとりでもここを抜け出すことができるなら、私たちの分も生きてね。私は子供たちに、アボジは愚かだったけれども立派な人だったと言うことができるわ。あなた、人間は堂々と生きて、そして死んでいくものよ。罠にかかったままあちこち引きずり回されていてはいつまでたっても抜け出せないわ。しっかりして。ここを抜け出したら、三ヵ月以内に私たちを助け出して。それができない時は、交通事故でみんな死んだと思って、忘れてしまって。
汚らわしいことをしながら生きていっても意味はないわ。お酒を飲み過ぎないでね。馬鹿みたいに泣いてばかりいてはだめよ。私と恵媛、圭媛の死を無駄にしないでね。肉体はここで滅びても、私たちの心はあなたの心のなかで生き続けるわ。
百回嘘をつけば一回ぐらい騙されるだろうと、オウムのように同じことを繰り返す対南工作放送の要員をやるために、これまで夜も寝ないで勉強してきたんじゃないでしょう? そうでしょ?純粋な若者を騙してここに連れてきて、屈辱的な放送員をさせるようなことをしたら、それこそ重大な犯罪だわ。そんなことをすれば、死ぬまで悶々と悩み続けることになるのよ。絶対、犯罪に荷担してはだめ、逃げるのよ。
当局は私たちを殺したりはしないと思うわ。何の罪もないんだもの。それでも殺すというのなら、死んでやるわ。でも、こちらを殺せば、自分たちの体制が病んでいるということを知らせることになるから、やらないと思うわ。
ジュニのオンマ(宋斗律の妻)もミンジュンのオンマ(金鍾漢の妻)も抜け目のない女たちだわ。私もこれからは抜け目なくやらなければ。ドイツに住んでいる彼女たちに、毒のこもった呪いをかけてやりたいけど、それは我慢するわ。もう一度、お願いよ。純粋無垢な若者が、対南工作機関のいけにえにならなければそれでいいの。汚れた人生は無意味よ。あなた、それを忘れないでね。・・・・・・行ってらっしゃい」
私は目を閉じて、淑子の言葉を一語一句鮮明に思い返していた。洗脳フィルムに目をやりながらも、私は彼女の声を間くことができた。精神の力で。

残りわずか

一一月一二日、密封教育を受け始めてから、一一日が過ぎた。
朝九時、白指導員が薄笑いを浮かべながらやってきた。
「おはようございます。今日、呉先生の欧州への旅立ちを祝うため、副部長同志と副課長同志が招待所にいらっしやるそうです」
それだけ言うと白はすぐ教育にとりかかった。教材はまたあのフィルムだった。捕まれば死ねという超ワンパターンの洗脳フィルム。ほとほと嫌気がさす。
洗脳しようとして何度繰り返そうと、私は半生勉強を続けてきた学者。そういう人間にこのようなことをすれば、かえって疑問を植え付けることになるということを彼らは知らないのだろうか。この国ではあらゆる教育者が、人、を体制の歩く商品とするために、このような笑うに笑えぬ教育を繰り返し行っているのだろうか!
『自殺せよ。そして、偉大なる首領さまの胸で永遠の生を得よ』
毎日このような内容のフィルムを見せられるということは苦痛でしかない。早く終わってしまえ。でも、これも今日で最後だ!
昼食後、昼寝をしたあと招待所周辺を散歩した。私の足音に驚いて、キジがぱっと飛び上がった。あのように自由に飛んでいけたなら・・・・・・鳥たちが本当にうらやましかった。
その夜、八時を過ぎても副部長と副課長は到着しなかった。
「会議のため遅れるそうです。先に食事をすませておきましょう」
夕食をとりながら、私はひとりで中国産の五加皮酒を一本空けてしまった。この酒はかなりアルコール度が高いので、私は久しぶりに酔っぱらった。白指導員は副部長と副課長が来るためか、一口も酒を飲まなかった。
ふたりが来たのは午前一時頃だった。
白指導員はこの男を、朴己出氏(元進歩党党首・元韓国大統領候補)が、かつて日本に逃げ出し、病床で苦しんでいた時、日本に密入国して彼を北に拉致するための工作活動をした人物であると紹介してくれた。男は背が低く、幾分ヤブ睨みなのが特徴だ。
「こちらの呉先生は、かつての統社党党首金哲と親交のあった方で、数理経済学の分野に精通しています」
と、白が私を副部長に紹介した。
すると、副部長は二、三度領いてから口を開いた。
「われわれもスウリケイザイします」
全くのピントはずれな答えを聞いて白指導員が慌てて説明を加えた。
「数学的方法を利用して経済関係を補足する学問です」
副部長がおやっというような表情をしたので私は間髪を入れず丁寧に挨拶をした。これ以上副部長に恥をかかせてはまずいと思ったのだ。
私はすでに五加皮酒を一本空けていたので、完全に酔っていたが、まだ飲み足りなかった。気分的に、とことん飲まずにはいられないのだ。しかし、彼らは金日成の禁酒令のため、ビールをコップ一杯ほどしか飲まなかった。私はそれを知りつつ、もう一本五加皮酒を注文して、ひとりで飲み続けた。彼らが私を必要としているということがはっきりしているからだ。思ったとおり、彼らは私をぞんざいには扱わず、酒をくれといえば酒を出し、大声を上げても止めようとはしなかった。
それどころか、誇大妄想狂の指導者・金正日が直々に下した指令を受けて敵地に赴く私に、彼らはおべっかを使い始めた。このおべっかを肴に私は倒れるまで飲み続けた。
目が覚めると午前一一時だった。副部長と副課長は朝のうちに帰ったのか姿が見えない。
私は急に怖くなってきた。酒に酔って何か余計なことを口走りはしなかっただろうか。昨夜の記憶は途中で途切れている。しかし、すぐ気を取り直した。もし何か喋っていたところで、今となってはどうしようもないのだ。そう思って私はまた布団を被ると、一時間ほどごろごろして、昼食時に起き出した。どうしたわけか、こんなふうにだらしない行動をしても、誰も干渉しようとはしない。
昼食を食べている時、その理由が分かった。白指導員がこう言ってきた。
「呉先生、一五時ちょうどに平壌に向けて出発します」
あと二時間ほどしか残っていない。
驚いたが、私は箸が震えるのを見られないようにしながら、笑って答えた。
「いつ出発か、いつ出発かと思っていましたが、とうとう出発ですね」
私は食べ物を噛みながら、歯をむきだしにして笑った。


第8章 北からの脱出

 妻を残し平壌をあとに

一四時、招侍所を出発した。
車が平壌の空の玄関口・順安飛行場に到着すると、洪課長と白副課長が私を待ち構えていた。貴賓待合質に入ると、そこには、北のエリートたちがひしめいていた。閉鎖された社会で、海外に出る特権を与えられた者たちだ。党官僚と金日成体制の神政官たち、さらに人民軍の将軍も何人か見えた。私と同じ飛行機に乗る連中は皆貴賓であり、わざわざこのような貴賓室など作る必要はないように思える。
私を飛行機に案内してくれたのは、崔義雄少将(課長)と洪課長だった。
ふたりは私を最優先して搭乗させ、いい席を取ってくれた。それに続いて白副課長と彼の部下もぞろぞろと飛行政に乗りこんできた。
「欧州への旅立ちを心よりお慶び申し上げます」
と、白副課長が言った。私は答える代わりにっこりと笑顔を作ったが、心のなかでは別の言語が渦巻いていた。
〝欧州への旅立ちなどとほざくな。これで私は解放される。おまえたちは俺を体制のロボットとして人さらいの市場に送り出そうとしている。だから、何を迷うことがあろう。しかし、妻とふたりの娘たちは・・・・・・〟
私は北に来るまでは北朝鮮がこのようなありさまであるとは思ってもみなかった。しかし、この目に映った北朝鮮は、金日成がデッチあげた主体思想一色であった。そこには経済理論や科学的思考が入り込む余地は全くない。まさに、北朝鮮は国全体が似非宗教の狂信集団だったのである。
私は愚かだった。北に行きさえずれば最高の待遇を受け、経済の分野で自分の学問を完成させることができると信じきっていた。しかし、その期待はものの見事に砕け散ってしまった。私はこの国で韓国の反体制組織が行っている地下放送を偽装した『救国の声』という、才ウムのように同じことを繰り返す秘密放送局の要員となり、さらには対内工作員にされようとしている。これほどの屈辱があろうか。私がこんな犯罪に引きずり込まれようとは・・・・・・。
飛行機が動き始めた。隣にはヒルのような白指導員が座っている。その横にはフランス語を通訳する若い外交官がいた。
「もう飛んでいるんですね」
私はそう言いながら、白から目をそらせた。この男のいつも何かを探しているような視線がいやだったからだ。
一緒にデンマークに行くでしょうと言っていた金指導員の姿は見えなかった。そのかわり、後ろの席には洪課長が座っていた。この男はなかなか美男でエリート然としている。マルクス・レーニン学院の出身だそうである。
朝鮮民航機は、八時間ほどシベリア上空を飛び、暗闇に包まれたモスクワのシェレメーチェヴォ第二空港に到着した。
私と白治完だけが乗り換えのため空港内に残り、あとの連中はここの北朝鮮大使館に向かった。
薄暗い空港待合室で二時間も所在なく過ごすのは苦痛だった。
とても喉が渇いた。バーや売店でコーラやビールが売られているのを見ると、よけいに口のなかが渇いた。白治完の顔色をうかがったが、貴重な外貨を無駄遣いする考えは毛頭ないようだった。彼は今回一万二千ドルの現金を待ってきたらしい。しかし、どこまでも金正日の忠実な飼い犬であるこの男は、外貨を一銭でも無駄に使わないでおこうとしているようだった。
私にその金が任されているなら、迷うことなく冷たいビールで喉を潤しているところなのだが・・・・・・。
私もじつは三五ドル待っているのだが、それを使うわけにはいかなかった。もし使えば、白にそれをどこから手に入れたかと問い詰められ、最悪の場合には、脱出する機会が失われるかもしれない。また、その金は自由を取り戻すために、大切に使われるべきものでもあった。
やっと搭乗時間となった。ふたりともいい加減待ちくたびれていたので、すぐ飛行機(東独国営インターフルーク航空)に乗った。機内には乗客が三人しかいなかったが、あとからふたり乗り込んできたので、結局、搭乗客は私たちを入れて七人。機内は乗客が少ないせいか、温度がかなり低かった。その上、飛行時間が二時間しかないので、飲みものや食事のサービスもないという。
私の横には、若いドイツ人が座っていた。話しかけてみると、ウラル地方でボランティア活動をして帰国するFDJのメンバーであると自己紹介した。FDJは東独版の共産青年同盟である。私がその若者と話をしている間、白治完はうずくまって寝ていた。
彼は私を頭から信じ込んでいた。それも当然だ。平壌には家族が人質として捕らえられているのだから。
東ベルリンの飛行場に着くと、白が目を覚ました。寝ている間に私が掛けてやったオーバーを見て白は恐縮した。
「これはこれは、何と言っていいか・・・・・・私が呉先生のオーバーを掛けて寝ているとは・・・・・・呉先生も寒かったでしょうに・・・・・・」
彼は何度もありがとうを繰り返した。情が移ってしまったのか? 一瞬、私は彼が弟のように感じられた。しかし、その感情も束の間のことだった。
出迎えにきていたのは駐東独大使館の金参事官だった。
「お疲れになったでしょう?」
彼とは約一年ぶりの再会である。私たちは挨拶もそこそこに、外に出た。金の運転するメルセデスベンツに乗ると、なかは別世界に来たように暖かく、飛行機のなかで冷え切っていた体が、少しずつほぐれていった。
白治完は私が楽に座れるように気をつかっていた。これからは当分私が主役なのでその気持は分からぬではない。しかし、彼には悪いが、そうしたからといって私の計画を変更するわけにはいかなかった。人民を欺し、貧困に追いやる似非社会主義を容認するわけにはいかない。私はどうしても脱出しなければならないのだ。
金参事官が運転をしながら話しかけてきた。
「金鍾漢先生が呉先生の消息を尋ねてきたので、共和国で何の心配もなくりっぱに暮らしていると伝えておきました」
それを聞いた瞬間、思わず顔がカッと熱くなった。
〝あの野郎め!西ドイツに帰ったら、犬畜生にも劣る行いをやめろと言ってやる〟
その言葉は、くいしばった歯の間を抜けることなく、そのまま私の体のなかに呑み込まれていった。
その表情がおかしかったのか、白が言った。
「寒いところから急に暖かい車のなかに入ったから、呉先生も元気が出てきましたね」
私はそれにただ、ニヤッと笑って答えた。
ほかの車の姿がほとんど見えない道を、ベンツは快調に突っ走った。見えるものといえば車の前の闇を貫くフロント・ライトの光だけだ。
しばらくすると、検問所にぶつかった。警察官が車を止めたが、車のなかをちょっと覗き込んだだけで、行けと合図した。警察官は金参事官の顔を知っているようだった。あるいは、車のナンバーを見て、北朝鮮大使館の車だと分かったのかもしれない。

東ベルリンの工作拠点

車はアパートがずらりと並んでいる地区に着いた。
私たちは金参事官の案内でエレベーターに乗って六階にのぼった。
出迎えてくれたのは初老の男と女だった。男は六〇前後、女は五〇代半ばといったところで、見たところ、夫婦のようだった。
そこは、北朝鮮の欧米における最大の工作拠点であった。
金参事官は私たちを初老の男に引き渡して帰っていった。
「どうぞお入りください。夕食の準備ができています」
女に案内されて食堂に入ると、私は思わず足を止め、目を見張ってしまった。山海の珍味が大きなテーブルいっぱいに用意されていたからだ。私は空腹が極限に達していたので白と一緒にがつがつと食べ始めた。ビールも注がれるままにみんな飲み干した。しかしビールに酔い、ごちそうに舌づつみを打ったのも束の間、長旅の疲れと時差で次第に体がだるくなり、睡魔が襲ってきた。
部屋に家内されると、私はなかの様子を見る間もなくそのまま倒れるように眠り込んだ。
この部屋は普段書斎兼応接室として使われており、フロアの隅のほうに位置していた。そのため、居間に出るには白治完の部屋を通らなければならない。つまり、彼はいながらにして私を監視できるというわけだ。
ひと眠りして目を覚ますと、体が変調をきたしていた。扁桃腺が腫れて、熱がかなりある。
脱出しなければならないのに、病気にかかるとは・・・・・・。
恵媛と圭媛が患っていた百日咳のように咳がひっきりなしに襲ってくる。私が寝込んでしまうと、彼らは慌ててブルガリア製の抗生物質を飲ませ続けた。しかし熱はなかなか下がらない。
すると彼らは朝鮮人参錠も併せて飲ませた。朝鮮人参のエキスであるこの錠剤は、北朝鮮ではドルや外貨交換算を持って楽園商店にでも行かない限り手に入らないものだった。それ以外では招侍所でしか見かけられない特別な薬だ。
彼らはこの貴重な薬を私に服用させてでも、一日でも早く治そうとしていた。
ところが熱はいっこうに下がる気配がない。私は不安になった。病気のために計画を変えるわけにはいかない。無理にでも食事を摂って、体力をつける必要があった。
食べなけりゃ治らんぞ。死んだ母の声が耳元に響く。そうだ。早くよくなって脱出しなければ!
白指導員と初老の夫婦は熱心に看病してくれた。
しかし熱は下がらず、気がつくと流れ落ちる汗のため、シーツから腐ったような臭いが漂い始めていた。
私は医者を呼んで欲しいというようなことをほのめかした。
「そうしたいのはやまやまなのだが、ここの存在が知られる恐れがあるので・・・・・・」
と白治完は言葉尻を濁し、眉間に皺を寄せながら私を見つめた。今度の工作は私なしでは進められないから、彼も心配しているようだった。
ベッドに横になっていると、窓の間から石炭の煤煙がしみこんできて、咳が絶え間なく出た。これが、そうでなくても弱り切った私の体を苫しめた。
一時は半ば昏睡状態になったものの、寝込んでから四日目になると、熱は下がった。私はやっと起き出して、熱い湯で体を洗うことができた。北朝鮮から持ってきた歯ブラシで歯を磨くと、歯茎から血が流れ出した。北朝鮮の歯ブラシは毛が強く靴ブラシに近い。
「車先生(白治完の偽名)、病気のせいか歯を磨くと口のなかが痛むので、葉ブラシをひとつ買ってきてください」
私がそう頼むと、外貨をおのれの肉体の一部のように思っている白治完も仕方なく歯ブラシを買ってきてくれた。
カレンダーを見ると一一月一七日、日曜日だった。時間はそろそろ午後四時になるところだ。
窓の外に東ベルリンの市街地が見える。遠くに東ベルリンから西ベルリンに通じる電車が見えた。しかし、どうやって西ベルリンに行くのかは分からない。
「ちょっと散歩をしてきたいのですが」
部屋でテレビを見ている白に言った。
「そうしなさい。だんだんよくなってきているようだね」
彼は私が元気になってきているのが嬉しいらしく、すぐ承諾した。初老の男の姿は、そこにはなかった。
この男は毎日外出し、夕食時には帰ってくるのだった。いろいろ話を聞いてみると、彼は人民軍の将軍という前歴の持ち主たった。
私はひとりで一時間以上近くを散歩した。そして戻りながら、その工作拠点の住所を確認した。レーニン通り一七五番地。同じビルの中に、西ドイツ『シュピーゲル』誌の東ベルリン支局があることも確認した。

金日成死亡か?

翌一一月一八日。
テレビを見ていると、突然ARD(東独国営テレビ)が金日成が死亡した可能性があるというニュースを流した。初老の夫婦と白治完はドイツ語が分からないので通訳してやると、おかしなことに、三人とも全く驚いた様子を見せない。
「事実ではないはずです」
白がそう言うので「なぜですか」と聞き返すと、こんな答えが返ってきた。
「呉吉男先生は人民武力部長(国防相)呉振宇同志の交通事故の話を知っていますか?」
「ええ、聞いたことがあります。確か、一〇月二八日のことではなかったですか。光復通り建設現場に投入された人民軍を督励するため濃い霧のなかを走っていて、電信柱にぶつかったのではなかったですか?」
「そうです。大きな事故でした。その時も外国のニュースは呉振宇同志が死亡したと伝えていました。今回の首領様の死亡のニュースもその類でしょう」
それ以上続ける言葉がなかった。彼らはニュースさえも信じないのだ。そう言う私も百パーセント、ニュースを正しいと思っているわけではないが。
尹伊桑が西ベルリンの自宅からニュースの真偽を確認する電話をかけてきた。私は尹伊桑が工作拠点の電話番号まで知っていることに驚いた。電話を受けたのは初老の男だった。本国から何の連絡も受けていないようだったが、男はきっぱりと金日成の死亡を否定した。
結局、彼らが正しく、ニュースが間違っていた。翌一一月一九日、ARDニュースは死亡した可能性があると伝えた金日成がモンゴルの人民革命党書記長・バトムンフを順安飛行場に出迎える場面を放送した。私はあきれかえってしまった。北朝鮮が得意とする情報撹乱戦術は、自分たちが神のようにあがめている金日成の死までも材料にするのだ。
私はかなり頭が混乱していた。全日成が無事だとは・・・・・・。
白治完に散歩に行きたいと言うと、今度も白は快く承諾してくれた。
アジトから東ベルリンの中心部にあるアレキサンダー広場までゆっくり歩いた。しかし、ただ漠然と歩いていたわけではない。
道の両側に並ぶ建物をじっくりと観察し、自分が東ベルリンのどのあたりにいるのかをさぐりながら歩いた。しばらく行くとレーニンの銅像があった。
私は大きな通りから、ずっと奥のほうにのびている路地を見ると、そっちのほうに駆け出したい衝動にかられた。しかし、勇気がなかった。白治完の魔の手に再び捕らえられたら・・・・・・。
その日の午後、昼寝をしながらひどく汗をかいたようだ。目が覚めると枕がかなり濡れていた。
起き出して、部屋の窓から西ベルリンヘ通じる電車を眺めると、第二の故郷・西ドイツが急に懐かしくなった。あれに乗ることができたなら、いや、そこに放り出してくれさえしたら、私は自由の地に行けるのに・・・・・・。
時計に目を落とすと、午後三時だった。白指導員は眠りこけている。女も外出しているのか、姿が見えない。
私は服を着て、そっとアパートを抜け出した。

冷や汗

私はその建物の二階にある、『シュピーゲル』の支局に行って助けを求めようと思った。同誌は西ドイツを代表する権威あるニュース雑誌だ。
用心しながら二階に下りていき、支局のドアの前でいったん立ち止まって四方を見た。監視している人間はいない。私は震える手で事務室のベルを押した。
しかし、何度押しても応答はない。仕方なくドアを叩いていると、ずっと奥の部屋のドアが開いた。
出てきたのはドイツ人の女性だった。
女が私を見ながら訝し気な顔で言った。
「どなたです? その事務所には誰もいませんよ」
私は何か言い訳めいたことを言おうとしたが、緊張のあまり舌が動かなかった。女はうさん臭そうな目で私をジロジロと見つめている。内心ではかなり慌てていたのだが、私は何でもないかのように笑ってゆっくりと階段を下りた。チラッと振り向くと、女はしばらくそこに立っていたが、やがてドアを閉める音がした。 
ふうっ。思わずため息が出た。一瞬、ここは北朝鮮の工作拠点であるから、雑誌の支局という看板も偽装なのかもしれないと思った。背中を冷や汗が流れ落ちてゆくのが分かる。
建物を出た。しかし、行くところなどない。
束の間、これからどうしようか迷った。しかし、どう考えてもここで逃げ出すのはバカげていると悟った。方向が分からなかったし、分かったとしても私には身分証明書がなかった。逃げ出したところで東ドイツの警察にすぐに捕まってしまう。捕まれば警察は私をここに引っ張ってくるだろう。
店に入って何か買い物でもしながらいろいろと尋ねてみようとも思ったが、そうもいかない。三五ドル持ってはいたが、西側のようには使えない。ここは東ドイツだ。東ドイツも北朝鮮も、同じ体制下にある閉鎖された社会だ。
天気が悪いせいか、あるいは病気が完全に治っていないためか、まだ寒気がした。
暗闇が東ベルリンの陰欝な通りにおりてくる頃、私はやりきれないほどの惨めな気分で白指導員の待つレーニン通り一七五番地に向かった。
歩きながら、つぶやき続けた。
〝そうだ。脱出の機会はいくらでもある。俺に勇気が足りないだけなんだ。いつか完璧な機会を捕らえて逃げ出す〟
エレベーターに乗って上にあがると、ドアは閉まっていた。私はベルを押し、ドアを叩いた。こうなったからには、堂々と行動するほうが怪まれなくて済む。
ドアが開くと、ヒルのような白治完が下着姿のまま、禿頭を突き出してきた。一発殴りつけてやりたい衝動にかられたが、我慢した。白は目を見開いて私をじっと上から下へ見つめている。私が声もかけないでひとりで出ていき、何事もなく帰ってきたことに驚いているようだった。咄嗟に口から言い訳がすらすら出てきた。
「石炭の煤煙がひどいので、外の空気にあたりに出たんです。車先生は疲れて眠っていたので、起こそうかとも思ったのですがそのまま外に出ました。ところが、外の空気もひどいもんです。ここに比べれば、平壌の空気は本当に最高です」
そう言うと、とたんに強ばっていた白の表情がゆるんだ。私の説明に満足したようだった。「すみませんねえ。私が道室内をして差しあげなければならないのに・・・・・・」
白はそう言ってから、抗生物質と人参錠をくれた。
それを飲んで一時間ほど寝た。相変わらず汗が全身から吹き出している。その上、脱出を試みて失敗したことで、体はさらに重かった。
夕食の時、初老の男と白治完はあれこれと私に料理を勧めながらビールを注いでくれた。昼間の事件のため、いろいろと気を使っているようだ。
夕食を終えて、テレビを見ながら通訳をしてやると、彼らは喜んだ。
ふたりとも私を信頼しきっているように見える。しかし安心は禁物。もし必要とあらばこの連中は私をどうにでも料理してしまうことは明らかだ。
部屋に帰ってから、脱出したあとに連絡を取るため、西ドイツにいる尹伊桑と宋斗律、そして金吉淳の電話番号を一所懸命暗記した。寝ようと思って横になったが、気持ちが張りつめ、目が冴えた。それでも寝なければならないと思って目を閉じても、眠れなかった。夜通しタバコを吸い、何度か水を飲んだりしているうち、ようやく明け方になって眠りにつくことができた。

工作員の裏をかく

一一月二〇日。
白治完と私は午前中、西ドイツのテレビを見て過ごした。東西両ドイツはすでに、互いに電波を交換しているので東ベルリンでは西のテレビを見ることができた。
「呉先生に東学祭(五月民衆祭)のビデオを見せてあげなければ」
白治完はそう言いながら画像をビデオに切り換えた。
この行事には、鄭奎明、金吉淳、呉大石などが出ていた。東学祭が終わると、次は西ドイツに往む韓国人の反政府団体が行ったいくつかの行事が収録されているビデオが始まった。
後日、西ドイツに脱出してからこの話をすると、「北に流したのは全部あの金光浩の仕業だ。殺してもあき足らない奴・・・・・・」と侮しがる人もいた。
その日の午後になって、白治完が言った。
「明日、チェコのプラハに行くかもしれません。あちらはここより安全です」
白治完は安全ということを何度も強調した。私は妙な考えにとりつかれた。東ベルリンでは彼らにとって安全でないということは、こちらにとって有利なことではないのか・・・・・・。
しかし、私には選択権がない。脱出するまで、彼らの言うがままに行動しなければならないのだ。
「朴炳燮(西ドイツ・キール往往)と李文浩(西ドイツ・ゲッチンゲン在住)をプラハに連れてくることができますか?」
と尋ねると、白治完はそれには答えず、私を睨み付けた。慌てて私は言葉を継いだ。
「車先生の計画がそうなら、そうしましょう」
冷たい沈黙がしばらくふたりの間に流れた。私はその場から抜け出したいと思い、「ちょっと横になって休みたいんですが・・・・・・」と切り出した。
白治完が頷いた。私はさっと立ち上がり、自分の部屋に入ると、倒れるようにベッドに横になった。
汗のせいで服が潰れている。
四時間後、白治完が私を起こしにきた。
「身辺の安全を期すため、ここから汽車でロストーク(旧東ドイツの港湾都市)に向かい、そこで船に乗り換えて、コペンハーゲンに入るのがいいでしょう」
さっきの話とは違っていた。行き先がまたコペンハーゲンに戻ったので私はホッとした。
「それはいいですね。外貨も節約できますし」
不言に思われないようにすばやく答えた。彼は勘が鋭いので必要以上に緊張することが多い。夕食の時、初老の男が洪課長と金課長を連れて入ってきた。洪課長は、モスクワで金と合流したという。モスクワの大使館勤務なのだろうか?
私は笑顔を作って彼らを歓迎した。
「呉先生に挨拶をしようと思って訪ねてきました。お体のほうはどうですか?」
「あ、よくなってきています」
「先生の入国ビザは一〇日です。その間に事をやり遂げなければなりません」
「・・・・・・」
私は気ぜわしくスプーンを動かした。食べること、それは生きるということだ。食べなければ健康を回復することはできない。健康を回復すれば、自由を取り戻すことができる。そう思い詰めながら、食べ物を飲み込んだ。
白治完は私に部屋に帰るように命じ、そのあと三人で何時間か密談していた。この連中が何を話し合おうと、私にはどうでもよかった。ただひとつ、私の神経は脱出することに集中していた。どうすれば脱出できるのか? どのような方法がいいのか? 昼が有利なのか、それとも夜か?
八時。洪課長が金課長と一緒に部屋に入ってきた。
「呉先生、それでは明日またお会いしましょう」
ふたりが出ていくと、白治完が入ってきた。
「明日のため、ゆっくりと休んでください」
白が出ていくと、私は本箱をまさぐって薄い紙を何枚か取り出した。本箱には金日成の革命理論関係の本がぎっしりと詰まっている。私は紙を特ってベッドに横になると、まず息を殺して白治完の部屋の様子を耳で探った。もう寝てしまったのか、何の音もしない。しばらくそうしてから、私は紙に英語とドイツ語で短い文を書いた。

このパスポートは本物ではない。私の名はオ・キルナムである。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が発行したパスポートは、私の錯誤により、朝鮮民主主義人民共和国の工作員の手に落ちた。ドイツでの私の最後の居住地はBertha Von Suttner Str. 13000 kronshagen だ。
私は妻シン・スクチヤと、ふたりの娘、オ・ヘウォンとオ・ギュウォンを彼らの手から救い出すために、ドイツ連邦共和国に帰ることを望んでいる。ドイツ大使館や関係当局と連絡を取ってもらいたい。

書いては直し、直しては書くのを何度も繰り返した。また、紙ができるだけ小さくなるように苦心した。やっと書き終えたときには思わず、フーッとため息が出た。

しかしこれはまだ第一幕の始まりに過ぎない。早く体を休めなくては・・・・・・。そう思って私は、紙を片づけてからすぐベッドに横になり、目を閉じた。しかしできるだけ早く寝なくてはと思えば思うほど、目が冴えた。心臓の動悸が耳に響き、背中から、脇の下から、そして内股から、さらには手の甲からも汗が吹き出してきた。
その夜は、寝たり起きたりを何度となく繰り返しているうちに夜が明けた。

 機会到来

一一月二一日。
朝食のとき白治完が計画がまた修正されたと言った。じつに気まぐれだ。こいつらの秘密工作とはこんなものなのか・・・・・・。
「呉先生の健康が優れないので、一四時発の飛行機でコペンハーゲンに行くことにしました」
「すみません。私のために貴重な外貨を使うことになって・・・・・・」
そう言うと、白は満足げに頷いた。
「分かっていただければいいんです。どうぞ、食事をおあがりください」
その日、洪課長と金課長は食事の時に現れた。
さあ、出発だ。私は覚悟を決めた。
車はいつものメルセデスベンツ。私は前に乗り、洪課長と金課長、白治完は後に乗った。車は空港に向けて走りだした。みな無言で咳ひとつしようとしない。
この連中は世間知らずなふたりの韓国人留学生を密かに入北させるために触覚をそばだて、私は脱出の機会をねらって触覚をそばだてている。しかし、誰も胸の内はおくびにも出したりはしないのだ。
運転をした初老の男と洪課長、金課長は空港で私たちを見送るとそのまま帰っていった。
私は白のあとについて待合室に入り、離発着を知らせる掲示板を見ながら、微かに震えていた。
白治完も不安を感じるのか、うろうろしていたが、唐突にこんな言葉をかけてきた。
「ビールでも一杯どうですか」
私は首を左右に振った。おまえとはすぐ別れ別れになる。それなのに、面と向かって酒など飲めるものか。そんな思いが脳裏を駆けめぐった。
白が落ち首かない様子だったので、私は逆に、彼を刺激する質問をしてみた。
「私は帰国してからもずっと対内工作放送の仕事をしなければならないのですか?」
意表を突かれ、白が慌てるのが分かった。表情の変化がはっきりと見えた。だが、それ以上彼を苦るしめたりはしなかった。この男にそんなことが分かるはずがない。白治完も犠牲者のひとりに過ぎないのだ。
一四時三〇分。飛行機が離陸した。私は座席に座っていたが、ベルトを外してもよいという
放送を聞いて、化粧室に行った。ドアを閉めて、昨夜書いておいた助けを求めるメモを靴下のなかから取り出し、何度も読み返した。もっと詳しく言いておけば良かったとも思ったが、もう時間がない。これで大丈夫だと自分に言いきかせ、洋服の内ポケットにしまった。心臓が激しく鼓動している。内ポケットから手を出してみると、じっとりと濡れていた。
水道の水で火照った頬を何度も洗った。冷たい水で頬を洗うと、いくらか落ちつくことができた。ハンカチで顔を丁寧に拭いてから、何食わぬ顔で白治完の横の席に戻った。
飛行機はわずか四五分。すぐにコペンハーゲン空港に到着した。ここは私にとって思い出深い場所だ。そう、一六年前、留学のため西ドイツに向かう途中、ふたりの韓国人の女の子の手を引いて降り立った空港なのだ。彼女たちは、生きていれば、一八歳の美しい娘になっているはずだ。
出□の付近に私たちを持っている男がいた。男は白治完にここの大使であると自己紹介をした。
大使と白が入国審査を終えて先に進んでいる間に、私は急いでパスポートと救援を求める紙片をパスポートコントロールに押し込んだ。そして冒頭で述べたとおり、彼らの保護を受けて西ドイツに帰ることができたのだった。
西ドイツに帰るとすぐ私はミュンヘンで取り調べを受けることになった。
西ドイツ政府内務省の係官は、私にかつて西ドイツに亡命した当時、私と妻が所持していた大韓民国のパスポートを机の上に置いた。そのほかにも、私たち夫婦に関する書類をいくつか見せられた。
「身元照会は終わりました。ごくろうさまでした」
涙が頻を静かに流れ落ちた。
「奥さんとふたりの娘さんは、やむをえず、失踪として処理しました。また、呉吉男氏が持っていた我がドイツ連邦共和国の亡命旅券は紛失として処理しました」
脱出に成功。しかし、自由を回復した喜びも束の間、妻とふたりの娘のことを思って私は嗚咽した。
「うう・・・・・・」
「肩を震わせて嗚咽する私の肩を彼がおさえた。」
「奥さんと娘さんのことは、私たちも今すぐどうすることもできません。失踪とするしかないのです。しかし、可能な限りあらゆる措置をとるつもりですから、落ち着いてください」


第9章 虚しい家族救出活動

友の冷たい言葉

一二月一八日。早くも、脱出からひと月が過ぎていた。
尹伊桑に電話をかけてみた。
「とても北で暮らすことはできないので、逃げてきました。どうか、家族をこちらに呼び寄せることができるように助けてください。お願いします」
尹伊桑は、私が内務省から電話していると思ったのか、何も言わずに電話を切った。続いて、宋斗律に電話した。彼は、北で対南工作を担当する最高幹部の寵愛を受けていたので、助けようと思えば妻と子を助け出せる人物であると私は信じていた。しかし、やはり冷たい言葉が帰ってくるだけだった。
妻の健康を気遣ってくれた金吉淳博士にも電話をかけた。彼は、統一祭で尹伊桑の参謀のようなことをしていたが、北朝鮮一辺倒ではなく、何回も尹伊桑に「韓国に帰らなければいけませんよ」と忠告して、大作曲家の怒りをかっていた。しかし、彼の態度も同じだった。私はさらにブライデンシュタインにも、私を北に送ってくれた恩(?)のある金鍾漢にも電話をかけた。
しかし、ふたりには電話が通じなかった。
翌一二月一九日。ドイツ連邦内務省の係官に小さな写真スタジオに連れていかれ、正面と側面の写真を撮られた。どういうことなのか不審に思ったが、とくに何も聞かなかった。
しかし翌日にはその目的が分かった。新しいパスポートを作るためだったのである。
係官は再発行した亡命旅券を持ってくると、私にひとつのメモを手渡した。
「私はここにいます。何かあったら、ここに電話してください。できる限りのことはします。ご家族の問題は、国際赤十字社を通して解決するのが最善だと思います。赤十字社の人に一度相談してみてはどうでしょう。ご家族を救出する件について、力になれなくて申し訳なく思っています」
そして、彼は北朝鮮と西ドイツの間にはそれほど親しい関係がないのだと説明した。
そのあと、彼はレストランで昼食をおごってくれた。私は世話をかけついでに、もうひとつ頼み事をした。
「申し訳ないのですが、ドルトムント行きの飛行機の切符を用意してもらえないでしょうか。そこに友人がいるので、会いに行こうと思っています」
「分かりました。すぐ手配しましょう」
その日の午後三時、ミュンヘンからドルトムントに向かう飛行機に乗った。ゲアハルト・ブライデンシュタインに会うためである。彼に会えば、何とかしてくれるだろうという期待があった。私が、残りの人生をかけてやらなければならないことはただひとつ、家族の救出であった。
四時には彼の家につくことができた。青白く痩せ衰えた私をブライデンシュタイン牧師夫妻は暖かく迎えてくれた。しかし、彼らの笑顔はどこかぎごちなく、不安が読み取れた。私か北朝鮮を脱出したことを快く思っていないのだろうか。
私はそれを彼に尋ねたかった。なぜかといえば、ブライデンシュタイン牧師は、私に北朝鮮行きを直接勧めはしなかったが、それとなくそのような雰囲気を漂わせていたのは事実だからだ。しかし、いざ顔と顔を合わせてみると、そんな気にはなれなかった。今さらそんなことを尋ねて何になろう。私がここに来たのは、家族を取り戻すためなのだ。
化粧室で顔を鏡に映してみて、自分のやつれ果てた姿に驚いた。唇は上も下も腫れ上がり、荒れ果てている。目は充血し、髪の毛は脂気を失ってぼさぼさだ。こうなってしまったのは、取り調べを受けて疲れたからではない。心労のためだ。


旧友、ブライデンシュタイン牧師

私がブライデンシュタイン牧師と知り合ったのは、彼がソウルの延世大学神学大学院で客員教授として社会倫理を講義していた時だった。六九年の末のことである。
ソウル市内のあるマッコリ(麹を原料とする大衆酒)屋で私たちは初めて会った。仁川産業宣教のスンヒョック牧師、アメリカ人のオーグル牧師と一緒だった。それから、七〇年一〇月に私がドイツに留学するまで、彼とは三、四回会う機会があった。
私たちの因縁は、ただ会って酒を飲むというようなことで終わったのではない。私は彼の講演原稿を韓国語に翻訳したこともあった。それは、韓国労総とフリードリッヒ・エバート財団が共同主催した「労働組合指導者のための教育セミナー」での講演原稿だった。
彼の講演の主題は、社会正義と労働運動と民主社会主義を柱にしたものだった。
当時彼は、社会主義的生産関係が現実の人間社会において可能であるという妄想を抱いていた。それは私も同様だった。ふたりとも、その頃はマルクス経済学について基礎的な知識すら持っておらず、科学的というよりはユートピア的な幻想にとりつかれていた。
私がブライデンシュタイン牧師について多くを語るのは、彼が私に及ぼした影響があまりにも大きかったからだ。彼に会うことによって、私が人生の軌道を大きく変えたことは否定できない。
彼は七〇年代はじめ韓国に在住し大学の講壇や教会の説教壇で、科学的立場からではなくユートピア的な観点から、当時の韓国社会の問題点を暴きたて、めった斬りにしていた。外国人であったので、われわれが口にすることをはばかっていた政策批判もためらうことなく行った。そのため、多くの若者が彼に感動した。
そんな彼を軍事政権が快く思うはずがない。彼は国外に追放された。その後、私たちは七二年の夏、ドイツで再会した。
古色蒼然たる大学都市、チュービンゲンでのことである。まったくの偶然であったが、私たちは抱き合い、再会を喜んだ。
「こんなところで会えるとは」
私か震える声でそう言うと、彼が笞えた。
「娘の熱帯病検診のためにチュービンゲン大学病院を訪ねてきたところなんだ。ここでヘール(英語のミスターにあたる言葉)呉に会えるとは、これも何かの因縁というものだろう」
彼は韓国を追われてから、それに対する反発心からか、マルクス経済学でなく、マルクス主義経済学を研究し始めた。研究のモデルとしたのは北朝鮮の社会主義である。
ブライデンシュタインは北朝鮮の研究に没頭し、フォルクスワーゲン財団の奨学金を受けて米国や日本に行って二年間研究したのち、とうとう実際に北朝鮮に足を踏み入れたのだった。滞在期間はわずか二週間であったが、彼は北朝鮮から、ウソを真実であるかのようなオブラートに包んだ広報用資料をたくさん持ち帰ってきた。牧師は北から帰ると、『アジアンフォーラム』という雑誌に北朝鮮型社会主義モデルについての論文を二編発表した。この純粋な心の持ち主は北のブランキ(テロ陰謀)主義者どもの奸計にまんまと乗せられていたのである。


家族救出活動の開始

ブライデンシュタイン夫妻の家は、一戸建ての二階家だった。
奥さんのレナテは自分が使っていた寝室を私に提供してくれた。牧師は毎月の収入もまずまずで、それ以外にも莫大な財産を相続していたので、毎日あくせく働く必要はなかったが、働く女性の多いドイツ社会の例にもれず、レナテは養老院で看護婦をしていた。
私の話は夕食をとりながら始まり、夜中まで続いた。
私たち一家が帰国後招待所に連れていかれたことから、韓国向けの対南工作放送局の仕事をさせられたこと、そしてドイツに来た留学生を北に引きずり込むための手先となってコペンハーゲンまで来て、そこで脱出したことまで、丁寧に説明した。
ブライデンシュタイン牧師は話を聞くと、ドイツ人が韓国の軍事政権に反対して作った団体「コレア・コミティ(韓国連帯委員会)」議長である前オスナーブルック大学総長のプロイデンベルク教授に電話をして、私の妻と娘の送還について相談した。
しばらく話して彼は電話を切った。
「プロイデンベルク教授が何とかしてみると言っているので、待ってみよう」
彼は朴政権時代、東ベルリン・スパイ団事件で拘禁され、ソウルに連行されて死刑判決を受けた尹伊桑を西ドイツに帰還させる上で大きな働きをした人物であった。だから、彼が動けば家族をドイツに送還させることも可能だと私は信じた。彼はドイツにおける市民運動の中核的存在であり、ドイツ連邦議会法務委員長とも親交があるという。
その上、ブライデンシュタイン牧師は当時『緑の党』の代表委員会のメンバーであった。そんなふたりが声を上げれば、ドイツ連邦政府も黙っているわけにはいかない。私はどんな手を使っても家族を一日も早くドイツに取り戻したかった。
私は牧師に土下座でもしたい気持ちだった。
「ドクトル呉、北朝鮮当局とワイフに手紙を書きなさい。ああ、この世こんなことがあるうとは」
彼は北朝鮮のやり方に憤慨していた。北を社会主義のユートピアと信じてきたので、裏切られたという気持ちなのだろう。怒りの矛先は私にも向けられた。
「なぜ、北朝鮮行きを決心する前に私に知らせてくれなかったんだ?」
私は下を向くしかなかった。言うべき言葉がない。彼はつけ加えた。
「明日か明後日。そうだ。二二日に北朝鮮大使と面談してみよう」
「牧師だけが頼りなのです。今、ほかに信じられる人はいません」
やっとの思いでそれだけを言うと、額から汗が流れてきた。
牧師はコレア・コミティの総務と会計も担当していたので、自分が東ベルリンに行くつもりだと、コミティの議長であるプロイデンベルクに電話で伝え、便宜をはかってもらおうとしていた。


抗議と謝罪の手紙

一二月二一日午前。
私は対外連絡部長、李賛善に対し、私と妻に非人道的な行為を強要したことに激しく抗議する手紙を書いた。
午後、金吉淳博士から電話がかかってきた。博士はいつも、他人の困難を引き受けて解決してやりながら、自分自身は五〇歳を過ぎてまだ結婚もしていないという人物で、「俺の命の根っこ(性器)はもう全然元気がないから、ペンチでひっこぬきたいほどだ」と、ため息をつきながら冗談を言うような人物だった。彼は周囲から尊敬される高邁な人格の持ち主だが、今では回復不能なほど健康を害していた。七七年六月、ボンで聞かれた韓国問題緊急会議の時、尹伊桑にこき使われたのが原因だった。
金吉淳博士はドイツに滞在中、オッフェンバッハでKOFO(韓国学術院)の運営を任されていた。彼はKOFOの運営資金は尹伊桑個人が出しているものと信じていたが、実際は北の対南工作機構の資金で運営されていた。
ブライデンシュタイン牧師の家にいることを金博士はどのようにして知ったのかは分からないが、訪ねてきて、ギリシャ料理屋に連れていってくれた。これは大変勇気のいることだ。私は北朝鮮を脱出してきた人間だが、だからといって、韓国人の知人を訪ねることもできなかった。私は彼らにとっても裏切り者なのだ。そのため皆、被害にあうことを恐れ、私には背を向けるに決まっていた。ところが、金吉淳博士は別だった。
彼の前で私は泣き続けた。
泣きながら自問自答していた。民主が何で、統一が何だというのか? 何の罪もない私と家族が、彼らの魔の手にもてあそばれているのが分かっているのか……。
涙を拭いた。目の前にいる金博士は私の思いは分かるというように頷いている。照れ隠しに私は無理に笑ってみせた。彼も笑った。お互い、寂しい笑いであった。
その夜、金吉淳博士と別れてから、私はまっすぐブライデンシュタイン牧師の家に帰った。ドアを開けてなかに入る前、私はしばし立ち止まった。暗闇が牧師の家を包み、まるで私を追い出そうとしているように感じられたのだ。しかし、勇気を出して牧師の家に入っていった。
その晩、むしょうに淑子が恋しくなり、手紙を書いた。
愛する妻、と書き姶めたのだが、あとが続かなかった。タイプライターで文を書くのに慣れきってしまっていたためかもしれない。牧師の家にはハングルのタイプライターはなかった。
私は書いた手紙の内容を詳しくは覚えているほうではないが、今でもこの手紙の大体の内容を思い出すことはできる。
私が平壌の家を出た八六年一一月一一日の朝、妻も子供たちも病んでいたので、まず皆の健康について尋ねた。そして、このような悲惨な状態に追い込んだのは私であると肝に銘じ、自分は無事ドイツに脱出することができたので、これからドイツ連邦政府と関係要路を通して家族の帰還のために全力を尽くすつもりだ、と書いた。
そのあと、北朝鮮当局に対しても、謝罪の手紙を書いた。
私はマルクス経済学を現代ブルジョア経済学の始まりから学んできた。だから、自分は言ってみればまやかしのマルクス主義者に過ぎない。そんな私がどうして偉大なる主体思想に従って思考し行動することができよう。それゆえ、こそこそと逃げ出すしかなかった。だから、理解と寛容をもって、脱出という背信行為を許し、妻とふたりの娘を西ドイツに返して欲しい。そのあかつきには、祖国統一の日まで、西ドイツで静かに暮らすことを誓う。
そんなことを、丁重な言葉遣いで書き綴った。


尹伊桑からの伝言

一二月二二日午後八時。私は昨夜書いたばかりの手紙二通を、東ベルリンで北朝鮮大使に会ったら渡してもらうため、ブライデンシュタイン牧師に託した。
「これは明日、向こうに渡すから、今日はゆっくり休みなさい」
「あなただけが頼りです」
私は何度も礼を述べてから、自分の部屋に戻った。
眠ろうとしても眠れるはずがなかった。頭のなかが真っ白になったようだった。ときどき、この手紙がかえって家族にマイナスになるのではないかという不安にもかられて私は悶々としていた。
眠れないというのは最大の苦痛である。その上、病気が全快したとはいえない状態が続いていた。
その夜と次の日、私は部屋のなかをぐるぐると回りながら、牧師が北朝鮮大使に会って、すべてがうまくいくことを祈り続けた。いつの間にか私は牧師が淑子と娘たちを連れて帰ってくるような錯覚にとらわれ、ドアが開く音がするたびに、部屋を飛び出す始末だった。
ブライデンシュタイン牧師は、夕刻帰ってきた。
「面談はうまくいきましたか?」
子供のように興奮して尋ねた。
「あ、東ベルリンには行かなかった」
「はい?」
わけが分からなかった。東ベルリンに行って北朝鮮大使に会ってくると言ったのは、彼なのに。
「北朝鮮大使に会う前に、まず宋斗律氏に会って相談するのがいいと思ったんだ。ところが、彼とは電話が通じなかったんで、尹伊桑氏に電話をしたんだ。彼には会ってきたよ」
「尹伊桑氏は何と言っていました?」
私は性急に尋ねた。尹伊桑がその気になれば、私の家族を肋けることなど造作もないはずだ。「尹氏が言うには、北朝鮮の東ドイツ大使には何の力も無い。また、外国人が民族内部の問題に深く関与することを、主体思想で武装した北の人間は嫌うと言うんだ。だから私が動けば、家族の問題を解決する上で逆効果になる。だから、むしろドクトル呉にもう一度北当局への謝罪文を書くようにと尹氏は言っていた。それから、彼はまだあなたが南側(韓国)当局の手に陥っていないということをあなた自身から北朝鮮の工作責任者に電話で伝えるようにとも言った。これが尹伊桑氏からドクトル呉に渡してくれと預かったものだ」
牧師は電話番号が書かれた紙片と、封筒をひとつ私に手渡した。紙片に書かれた電話番号は、〇〇三七二―二二九四〇四〇一だった。封筒には尹伊桑の手紙と西ドイツ貨幣で五〇〇マルクが入っていた。
親愛なる呉吉男氏へ
家族と呉博士に連帯の情を表明し、家族の問題が解決することを希望し、またそうなることを確信します。

わずかな誠意で。
尹伊桑

牧師の話は続いた。
「尹伊桑氏は、あなたに北を刺激する発言や行動を慎むようにと言っていた。そうすれば、北朝鮮の党指導部はこれまで外国に示してきたジェスチャーから考えて、今回も円満に解決することができるはずだと楽観的な見方をしていたよ」
牧師はそう言いながら私を慰め、北朝鮮を旅行した時に、スパイとして疑われた話をしてくれた。彼の話を聞いてから、私は口を開いた。
「そうです。北の共産党(労働党)指導部は外部から文化、思想、科学などの理性の光が北朝鮮社会の内部に入ってくることに神経を尖らせています。自分たちの体制にひびが入ることを恐れているからです。彼らは、外部から入ってくるものは、良いものであろうと悪いものであろうとすべて遮断するつもりです。そうしておいて、人々の生活がけだもののように劣悪なものになろうと、われわれのやり方で生きていこうと北朝鮮の住民をおだてあげているのです。もちろん、おだての背後には銃と剣による威嚇があります。とても理解できないでしょうけど、それが事実なのです」
牧師は目を大きく見開いたが、反論しようとはしなかった。
しかし、そう言う私も少し前までは牧師と同じように何も知らずにいたのだ。北朝鮮をじかに見て、やっとその実態が分かり、今ごろになって当たり前のことを何か大発見でもしたかのように騒ぎたてているのだ。
「ドクトル呉、どちらにしても、家族を取り戻すためには尹伊桑氏の言うとおりにするのが一番だろう」
私も同じ意見だった。
「謝罪文を書きます」
[クリスマスの翌日には、妻の母の病気見舞いにミュンヘンに行かなければならないので、それまでに書いておきなさい。私が郵便で送るか、そうでなければドクトル呉が直接送ればいい]
そう言うと、牧師は東ドイツにある北朝鮮大使館の住所を書いてくれた。


韓国に自首さえしなければ

一二月二三日。
公衆電話のボックスに入って尹伊桑が書いてくれた北朝鮮工作機関の拠点に電話をかけた。牧師の家の電話を使わなかったのは、迷惑がかかるといけないと思ったからだ。それに、外で電話するほうが気兼ねなく話ができる。
東ドイツヘの電話は全くつながらなかった。何度ダイヤルを回しても、ツー、ツー、ツーという音しか聞こえない。私は東ドイツの通信事情が混乱していることなどつゆ知らず、およそ一時間、電話ボックスのなかで悪戦苦闘した。でも結局通じなかった。
どうしてもつながらないので西ベルリンに住む尹伊桑に電話をすることにした。
「もしもし……」
尹伊桑の声が出た。
「あの、呉吉男です。先生が書いてくれた電話番号が合っているかどうか確かめたくて電話しました」
尹伊桑は電話番号を言った。紙片に書きつけられた番号と同じだった。
「先生、送っていただいたお金、どうもありがとうございました。また、電話します」
「うまくやりなさい」
彼は短くそれだけ言うと電話を切った。その瞬間、背筋に寒気が走り、鳥肌が立った。
もう一度東ドイツに電話をかけたが、相変わらず通じなかった。一時間ほどダイヤルを回し続けて、やっと東ベルリンの工作拠点とつながった。
「もしもし」
声から判断すると、工作拠点にいたあの老人でも、金参事官でもなかった。
昼間なので、電話機はひっきりなしに硬貨を飲み込んでいく。ためらっている時間はなかった。
「もしもし。私は呉京賢という名前の外交官旅券でコペンハーゲンに来て、ドイツに帰ってきた呉吉男です。はい。呉吉男。私はまだ南朝鮮当局とは接触していません」
嘘ではなかった。私はその時まで韓国当局とはまったく連絡を取っていなかった。
電話を受けた工作員は言った。
「そこはどこだ? 今いる場所の住所と電話番号を教えてくれ」
「それは……」
私はためらった。ブライデンシュタイン牧師を巻き込みたくなかったからだ。彼の家の住所と電話番号を言えば、多かれ少なかれ彼を巻き込むことになってしまう。
私が言いよどんでいると、相手はこう言ってきた。
「南朝鮮当局に自首さえしなければ、家族の問題は心配することはない」
それを聞いて、希望で目の前が急に明るくなった。韓国当局に自首さえしなければ、家族は無事に帰ってくると言うのだ……。
硬貨をすべて飲み込んで公衆電話は沈黙した。
電話に出た男の言葉を聞き、涙があふれそうだった。
その男が言った“家族の問題は心配することはない„という部分が救世主の言葉のように頭のなかでこだました。それに加え、尹伊桑の「私の言うとおりにすれば、家族は無事に帰ってくるはずだ」という言葉もじつに心強かった。


手のひらを返した金鍾漢

一二月二四日午後。
公衆電話のボックスに入って西ベルリンの金鍾漢に電話をかけた。どれほど電話したかったことか。彼は私の北朝鮮行きに、誰よりも深くかかわった男である。
彼の電話番号を一気に回した。私の脳裏には、彼の顔、話し振り、そして電話番号が鮮明に刻印されている。
電話は通じなかった。私が逃げたことを知って、引っ越ししたのか? そうでなければ、私を避けるために電話番号を変えたか……。
何度ダイヤルを回しても無駄だった。もしやと思い、電話帳をひっくり返してみると、金鍾漢の電話番号が出てきた。私が記憶している番号は、(〇三〇)八二二六七六七だったが、電話帳には(〇三〇)八二四六七六七と出ていた。住所も変わっていた。もう一度ダイヤルを回すと、金鍾漢の妻が出た。彼女は私の声を聞いて非常に慌てた様子だった。
「金兄は家にいますか? いるのならちょっと代わってください」
[いません。でも、すぐに帰ってくるはずです]
「いつ頃かけなおせばいいですか?」
「一、二時間後にかけてください」
仕方なく電話を切って、ブライデンシュタイン牧師の家に帰った。頭のなかをさまざまな思いが駆けめぐった。令鍾漢には何と言えばいいだろうか。事実のまま話すのがいいのか、それとも少しブラフを利かせて脅かしたほうがいいのか……。
二時間ほど過ぎた頃、私はもう一度家を出た。そして公衆電話の前で何度も深呼吸をしてから、硬貨を入れ、ダイヤルを回した。
[もしもし]
「おう!」
彼の驚く声が耳に飛びこんできた。
「金兄、落ちついて聞いてくれ。私は堪えきれずに逃げてきた。西ドイツ当局には、金兄が私と家族を北に送ったと話してある。西ドイツ当局が取り調べに来るはずだ。でも、だからといって北に逃げるようなまねはしないでくれ。どんなことになっても、北に逃げてはだめだ。金兄、私も金兄のために動くから、金兄も私を助けてくれ。お願いだから、妻と娘たちがドイツに帰ってこられるようにしてくれ。金兄、金兄は北の実力者たちと親しいんだろう。私は知っているんだ。どうか妻と娘たちを助けてくれ。家族を助けてくれれば、金兄を怨んだりしない。
なぜ、なぜ、よりによって私を選んだんだ? 金兄。誓えと言うなら誓う。家族が帰ってきたら、クロンスハーゲンに帰って静かに暮らすつもりだ。金兄、金兄。どうか私の家族を返してくれ」
前後の脈略もなく、哀願し続けた。しかし、耳に飛び込んできたのは、かつての彼の声ではなかった。
「犬畜生め。俺が犬畜生のクソ餓鬼どもと何の関係があるってんだ。そんなことをほざくんじゃない!」
電話は一方的に切れた。
この電話で私はようやく気づいた。金鍾漢は私のことを思って北に送ったのではなかったのだ。ただ自分のことだけを考えていたのだ。
彼が、売れ残ったと言って野菜を持ってきてくれた時、私と淑子はどれほど感謝したことだろう。異国の地で、私たちへの彼の愛は兄弟以上だと感動したものだ。しかし、本心はそうではなかった。彼は北の指令で、計画どおり、私たちの面倒を見るふりをしていただけなのだ。
私は泣きながら受話器を置いた。
私の心はズタズタに引き裂かれ、揺れ動いていた。最も信頼していた友人に裏切られたという思いは、とても言葉にはできない力で私を苦しめた。友情にもイデオロギーがあったとは……。そして、自分が信奉するイデオロギーを私が捨てたからといって、使い古した靴のように見捨てるとは……。
涙が頬を伝って流れ落ちた。視野が揺れ、妻と娘たちの顔がまた浮かび上がった。おまえ、恵媛や、圭媛や。アッパ(父さん)はどうすればいいんだ?
まだすべてが終わったわけではないと悲壮な気持ちになって、ブライデンシュタイン牧師の家に帰った。道ばたを転げまわる紙屑のほうが私よりもずっとましだと考えながら……。


募る家族への思い

一二月二四日、クリスマスイブ。
牧師の息子たちがクリスマスを父母と過ごすために帰ってきた。ここでのクリスマスは、韓国での秋夕や正月のようなものだ。
夜が深まるにつれ、家族の宴は盛り上がっていった。窓の外がすっかり暗くなってくると、家族がそれぞれの楽器を持って集まってきた。父親であるゲアハルト・ブライデンシュタインは指揮を、レナテはピアノ、長男はフルート、次男はクラリネットを手にしている。ごちそうも山のようにある。
音楽とごちそう、それに幸福が溢れるような雰囲気……。しかし、どれも私の傷ついた心を慰めることはできなかった。
何もいらない。ただ、私は妻と娘たちの顔を見たいのだ。
音楽が響くなか、幸福な家族に囲まれていても、私は孤独だった。
一夜明け、クリスマスの日がやってきた。私は牧師の家族と離れ、自分の部屋にこもって一日中、手紙を書いた。北の対外連絡部長、李チャンソンに送る謝罪文である。尹伊桑の指示どおりにしたのだ。礼を失しないようにしながらも、自分の思いをすべて伝えようと、何度も書き直した。
どうしても対南工作放送で働くことができなかった理由を、穏やかな表現で詳細に書き綴った。
私は李チャンソンに、妻がドイツで治療を受けられるよう、ふたりの娘と一緒に出国させてくれさえすれば北朝鮮で見聞きしたことは一切忘れ去り、ひと言も洩らさないと確約した。本心からそうするつもりだった。
妻にも手紙を書いた。西ドイツに無事帰ってきたことを知らせ、近いうちに必ず再会することができるはずだと強調した。このようにしたのは尹伊桑が五〇〇マルクと一緒に寄こした手紙にそのような指示があったからだ。
私は手紙を抱いて寝た。夢に、愛する妻とふたりの娘が現れ、四人で抱き合い、泣き続けた。泣きつかれて目を開けると、すでに外が明るくなっていた。
一二月二六日、ブライデンシュタイン牧師は、私の手紙を持って妻の母を見舞うため、ミュンヘンに向かった。彼の子供たちはすでに家を出たあとだった。レナテも勤務先の養老院に行ったので、大きな邸宅にぽつんと残されたのは、私と一匹の猫だけだった。
牧師がミュンヘンに発ってから二日が過ぎた。
私はこれ以上この家にいてはだめだと考えていた。平和な家庭が、私のために混乱に巻き込まれる恐れがある。しかし、出ていくにしても、どこに行けばいいのか。
午後、牧師が帰ってきた。彼は帰ってくると、私ではなく、まずレナテに話しかけた。
「レナテ、お母さんの容態は良くないようだよ」
「そうなの」
それだけだった。私は目で牧師に尋ねた。
「あ、ドクトル呉の手紙は郵便局から送った」
「こちらの住所を書いたのですか?」
私が聞いた。
「いや、郵便局止めで送ったから、ここの住所は教えなかった」
皆、自分の逃げ道だけは確保している。しかし、家族を北に残したままの私には逃げ道などなかった。


第10章どん底の暮らし

根なし草

一二月二八日。
「もう充分休んだので、キールに帰ろうかと思います」
予想はしていたが、牧師もレナテもあえて止めようとはしなかった。今の私を誰が行くなと止めてくれるというのか。ドイツに二〇年近く滞在して私は初めて異邦人の悲しみを味わいながら駅に向かった。
駅に出て、ふと朴大原のことを思い出した。この人物は北朝鮮を訪問したことさえある人物ではあるが、太公望よろしく歳月に釣り糸を垂れる高潔でゆったりとした品格の持ち主だ。そのため周りの人たちからは親しみを込めて朴道士と呼ばれていた。彼なら私を冷たく見放すようなことはしないような気がした。
ケルンに住む彼に電話をかけてみた。
「呉兄、北に行って、逃げ帰ってきたんだって」
彼はすでに私の事件について知っていた。
「うちに来なさい」
「はい」
彼の家を訪ねると、しばらくして、金吉淳博士がやってきた。たぶん、私が電話をかけたあとで朴道士が彼に連絡したのだろう。金博士の顔色は見る影もなかった。肝炎を患っているのだという。しかし金博士は、いつもの明るさで、肝炎にかかるとおならがひっきりなしに出るんだと言いながら、何度も放屁を繰り返して私たちを笑わせた。
皆、四〇代半ばであった。朴道士が最年長で、私が最年少だった。
金博士が私をこつんとこづきながら言った。
「おまえは欲が深すぎる。だから煩脳の苦海にのたうつ運命から逃れられないんだ」
すると朴道士がつけ加えた。
「呉博士、そんなになんでもかんでも食いついたりしないで、優雅な鶴のように生きろよ」
私は笑った。こちらの苦しみを知って慰めてくれる彼らに気持が有難かった。
朴道士は、ちょっと見には、あれも良いしこれも良いといったような、骨のない清風名月のような人物にも見えるが、ありとあらゆる哲学書を渉猟した知識人であった。ところが、不思議なことに彼の目は、北朝鮮を見る時には完全に曇ってしまうのだった。
私は彼の誤った認識が正されることを期待しながら、北に関する、知るうる限りのことを話して聞かせた。彼の奥さんが従姉妹同士の関係にある七宝山連絡所の兪成根の話もした。
朴道士はずっと聞いていたが、それについては何も言わず話題を変えた。
「それで、ここに来てどうするつもりなんだ?」
「ケルン市に住もうかと思ってね」
「そうか。なら、生計をどうするか考えねばな」
しかし、金吉淳博士の考えは違っていた。
「クロンシュハーゲンのようなニーダーザクセン州の小都市で暮らすのがいいんじゃないか。あそこはいいところだよ。家賃も安いし、生活費も少なくてすむ。すぐに家を借りる金がないのなら、教会が運営する独身者宿泊所を訪ねていけば、お金の節約にもなる。家族と一緒に住むわけじゃないんだから、すぐに家が必要というわけでもないかろう」
彼の話はあまりに冷たいと思ったが、すぐに考え直した。私が彼の立場なら、どうしてやることができるだろうと考えてみた。立場が逆なら、私はどうすることもできず、同じことを言ったに違いない。誰を怨むことができよう。みな、私が馬鹿な選択をしたからこうなったのだから‥‥。
午後八時頃、南民戦事件に関係してフランスに亡命し、今はタクシーの運転手をしている洪某から朴道士に電話がかかってきた。パリに遊びに来いという電話のようだった。朴道士の快活な受け答え‥‥。ここも長居する場所ではないようだ。
「そろそろ、行きます」
私が立ち上がると、金吉淳博士も立ち上がった。
「そうか。じゃあ、行こう」
外に出ると、金博士が冷たい口調で言った。
「呉兄。これからは韓国人の居る場所には姿を見せるな。お互いのためだ。呉兄を暖かく迎えてくれる人は、ドイツにはひとりもいやしない。心して聞けよ。誰も呉兄が訪ねてくることを望んではいないんだ。汽車に乗ってキール方面に向かい、途中のハノーバーで降りるんだ。そして、何とか生きる道を探せ。女房と子供たちのことは忘れろ。期待が大きければ失望も大きいからな。子供たちはまだ幼いから、向こうの環境にも適応して生きていけるだろう。俺の話を冷酷だと思うなよ。北が家族を返してくれると思っているのか? とんでもない。家族と一緒に暮らそうというような夢は捨てろ。このままあちこちうろつきまわったところで、呉兄が傷つくだけだ。私の言いたいことは分かるだろう?」
「……」
私は彼を睨み付けた。この男は私を慰めようとしているのか、苦しめようとしているのか分からない。でもこの男がどう言おうと、私は家族を取り戻すためにすべてをかけるつもりだった。
私たちはケルン市のボン駅で別れた。
「近いうちにまた会おう」
彼が言うと、私はただ頷くだけだった。


冷たい雨降るハノーバー

彼が去ったあと、私はハノーバーヘの切符を買った。彼に言われたとおり、ハノーバーで降りるつもりだった。しかしそれからどうするのかという具体的な計画は何もなかった。
正午、ハノーバーに到着した。外は冷たい雨が降りしきっている。
一二月の雨はじつに寂しい。濡れるのを覚悟で雨に打たれながら歩いていると悪寒が襲ってきたので、すぐ駅に引き返し雨が上がるのを待つことにした。
行くあてなどなかった。駅の構内で夜を明かそうかとも思ったが、駅舎のなかで寝ることは禁止されている。仕方がないので、あちらの椅子に座っては、またこちらの椅子に移動するのを繰り返した。
一時間が過ぎた。体が鉛のように重い。周りを見回すと、駅構内で緑十字協会が運営するバーンホフ・ミッション(旅行者援助室)の看板が目に入った。三〇代前半と思われる清楚な感じのドイツ女性が窓口にいたので、近づいて声をかけた。
「あの、お願いがあります。キールに行く途中、ハノーバーで降りたのですが、寝るところがありません。待合室で寝かせてもらえればと思うのですが……」
「いいですよ」
彼女は優しく答えてくれた。
私が待合室の椅子に座っていると、彼女はお茶を持ってきてくれた。
「どこかお悪いんですか?」
「いえ、大丈夫です」
「少々お待ちください。今、部屋を用意しますから」
しばらくして、彼女が案内してくれたところは、ベッドがふたつある清潔な部屋だった。白いシーツがまぶしい。このシーツにくるまって横になれたら、どんなに柔らかで、気持ちいいだろうか……。
「ここでお休みください」
彼女の声はどこか遠いところから響いてくるように聞こえた。
「あ、はい。ど、どうもありがとうございます」
彼女が出ていくと、私は雨に濡れた服を脱いでベッドにもぐり込んだ。シーツにくるまれると、柔らかな感触が疲れ果てた体をなでてくれる。しかし、肉体の疲労とは逆に、精神はぴんと張りつめていた。
これからどうすればいいのか、私は悩んだ。
金吉淳博士が言ったように教会が運営する独身者用宿泊施設に行くか、それともキールに帰るべきか。
キールに帰ったとて、どうするというあてはない。僑胞たちは私を避けるはずだから職もなく浮浪者のように街をさまようしかない。韓国への帰国も不可能だった。北に密入国して対南工作放送の要員までやった私を、誰が受け入れてくれよう。
朝になり、ドアを開けたり閉めたりする音が聞こえてきた。目を開けて、壁の大きな時計を見ると六時だった。起き出して服を着ていると、昨夜案内してくれた女性がほほえみを浮かべて近づいてきた。
「ゆっくりとお休みになれましたか?」
「あ、はい。おかげさまで……」
この思いがけない恵みもこれ以上は望むことはできない。そう思いながらも、私は言葉尻を濁した。どこへ行こうか?
「スープを召し上がります?」
相手の優しい言葉に、黙って頷いた。
「待合室においでください」
待合室に入ると、何人かがスープを飲んでいる。私は、目の前に置かれたスープを一息に飲み干した。暖かな液体が胃にしみわたると、疲れ切った体が少し落ちついてくるようだった。
「もう一杯いただけますか?」
卑屈にならないように努めながら、側にいた女性に尋ねた。
「どうぞ」
彼女が皿を置くや否や、私はスプーンを皿のなかに入れ瞬く間に空けてしまった。


住む場所を求めて

八時にバーンホフ・ミッションを出た。
相変わらず雨が降り続き、やみそうにない。まず市住宅斡旋仲介課を訪ねることにした。雨に濡れて歩きながら、ここに住んでみよう、家族もいないキールに帰るより、ここのほうが良いかもしれないと心を決めた。
住宅斡旋仲介課はショッピングセンターを彷彿とさせた。たくさんの人々が私と同じ用件で集まり、順番を待っている。
三時間待ってやっと番が回ってきた。担当職員に旅行証明書を呈示して、
「一間の部屋を探しています」と言った。
担当職員は私の亡命旅券を注意深く読んでから返して寄こした。その顔は、さも面倒くさそうだ。
「ミュンヘンに帰ったほうがいいんじゃないですか。発行官庁がミュンヘンですから、そちらに住めばいいでしょう」
「ここに住みたいんです」
「ミュンヘンに帰りなさいと言っているではありませんか」
何度かこちらの事情を説明したが、相手は取り合ってくれない。もう押し問答を続ける気力もなかった。
帰ろうとしたらひどく目眩がして、もどしそうになった。それだけではない。足が張り、目を開けているのもつらくなった。足を踏ん張って何とか歩こうとすると、今度は手がしびれ、痙攣が走った。
とうとう私は人目もはばからずその場に座り込んでしまった。かろうじて意識はあったのでまず足を壁のほうに伸ばした。壁に足をつけて力めば、少しは良くなるような気がしたからだ。
廊下で順番を待っていた人たちが心配顔で近寄ってきた。
「どこか悪いんですか? 助けがいりますか?」
私は首を振った。
「ときどき痙攣が起こるんですが、こうしていれば落ち着いてきます」
目を閉じて休むと少しずつ元気が出てきた。しばらくそうやって横になっていると、落ち着いたので私はズボンを払って立ち上がった。
そこを出てから冷たい雨が降りしきる中を歩いて市庁広場に出た。雨の滴が顔を容赦なく打つ。前髪が雨に濡れてだらりと垂れてきた。住むところを探してあちこち訪ね回ったが、私を受け入れてくれるところはどこにもなかった。
もうどうしようもない。金吉淳博士の言うとおり、教会がやっている宿泊所に行く以外……。
歩いている人に、教会が運営する独身者宿泊所はどこかと聞き、三人目でやっとその場所が分かった。
行ってみると、そこはこの世のはきだめのようなところだった。入り口に酔っぱらいやら乞食やらが何をするでもなく群れている。それを見て私はやりきれなくなった。
呉吉男、おまえは経済学博士だ。乞食と一緒に住むために博士になったのか? 引き返せ、引き返せ。心のなかで、ひとつの自我がもうひとつの自我に向かって叫び続けた。入り口でぐずぐずしていたが、私はいつの間にか引き返していた。財布は空っぽで、すぐに金が手に入る見込みもなかったが、どうしてもそのなかに入ることはできなかった。
雨はまだ、降り続いていた。鉛色の空がズタズタになった私の心をさらに重いものにした。何の考えもなしに歩いていると、やがて鉛色の空がだんだん白くなっていくような気がした。それが最後であった。


人生の落伍者が暮らす施設

きつい消毒薬の匂いが鼻についた。こじあけるようにして重い目蓋を開いた。天井は白く、かなり高い。ここはどこだろうか? 驚いて起き上がろうとしたが、まるで肩に錘でも乗せられているように、身動きひとつできない。
「気がつきましたか?」
女の声だった。それも、ドイツ語だ。
「こ、ここはどこですか?」
声のするほうに振り返って尋ねた。目の前に背が高く、目の大きなドイツ人の看護婦が立っている。彼女は微笑みながら私を見おろしていた。
「ここは病院です」
「私が、な、なんで病院に……?」
「覚えていらっしゃらないと思いますが、道端に倒れていたところを、救急車で運ばれてきたんです。気がついて良かったわ。身元を確認しなければいけませんね」
私はポケットをひっくり返してパスポートを取り出し、彼女に手渡した。
「行くところがないのですか?」
看護婦がメモを取りながら聞いた。
「はい」
「それでは、独身者宿泊所に行きますか?」
私は目を閉じて頷いた。あの、人間のはきだめに入るしかないのか……。そう思うと知らぬ間に、涙があふれてきた。
呉吉男、おまえはもう博士でもなんでもない。おまえはただ、人生の敗残者にすぎない。その上、卑怯で愚かな人間だ。
「身元確認がすみましたので、シャウンブルク通り三番地の独身者宿泊所まで送ってさしあげます」
「そこは、どんなところなのですか?」
質問したところでどうしようもないことを知りながらも、聞いてみた。看護婦は相変わらずほほえみを浮かべながら質問に笞えてくれた。
「プロテスタントの慈善団体が運営する、生活に困っている人たちを保護する施設です。まずそこに入って、それからもっと良いところに移るようにすればいいでしょう。でも、もう少し元気になるまで、この病院にいたほうがいいですね」
目を閉じた。どうかゆっくり回復しますように……。粗暴な連中が群がる宿泊所よりは、病院にいるほうがずっと安全に思えた。
しかしそんな願いも虚しく三日後には、シャウンブルク通り三番地に移らなければならなかった。
そこに移った当日、隣の部屋に住んでいた男が拳銃自殺をするという事件が起きた。
この男は、強盗の容疑で、警察の追及を受けていたという。結局、警察の包囲網が独身者宿泊所に及んだため、男は諦めて銃で自分の喉を撃ち抜き、窓から飛び降りたのだった。私は事件を目撃して、ぶるぶると震えた。こんなところで、どうして生活していくことができようか……。
独身者宿泊所で生活する人々は、大部分が人生の落伍者であった。大なり小なり過ちを犯し、自らを社会的に廃棄処分にした人々である。さもなければ、私のように他人によって廃棄処分された人々だ。
生きる屍のように無為な時間が過ぎていった。外に出ようという気にもならない。与えられた食物を喉に流し込み、ベッドにだらしなく横になって豚のように眠りこける毎日……。
そんな私にも、訪ねてきてくれる人があった。一月のある真夜中、ベルリンから李鍾秀が米とキムチ、電気釜などを持ってやってきたのだ。
さらに、李鍾秀が去って間もなく、シン・イナと李文浩も訪ねてきてくれた。李文浩は私が接触するよう指示されていたふたりのうちのひとりだ。
私はまず家族を連れて北に行った経緯と、北で見聞きしたすべてを話したあと心から諭した。「反政府活動に巻き込まれるようなことは絶対にするな。一所懸命勉強しろ。勉強をするだけでも、人生は短すぎる」
そして迷った末に、李文浩に打ち明けることにした。
「じつは、私がコペンハーゲンに出てきたのは、君と朴炳燮を、北の責任工作員である自治完と接触させるためだったんだ」
李文浩は目を大きく見開き、あまりのショックに茫然としている。それを見て私は、白治完が工作資金として一万二千ドルを用意し、その金でふたりを北に連れ去ろうと計画していたことまでは話すことはできなかった。
「博士から呼び出しがあったなら、私はコペンハーゲンに行っていたでしょう」
李文浩の言葉に、私は、自分が犯していたかもしれない罪の大きさを知った。
「ふたりには本当に悪いことをした。しかし、女房にそれだけはやめてと言われて、罪を犯すようなことはしなかったんだ」
ふたりを窮地に追い込もうとした点について、涙を流しながら心から詫びた。
「博士、分かりました。もうそれくらいにしてください。今は、ご家族の心配をしなければならない身でしょう」
李文浩が、こちらの気か弱くなっているのを知ってか、力強い声で言ってくれた。
「ご家族の問題はいい方向で解決されると思います。彼ら(北朝鮮)はわれわれに、良い面だけを見せようと躍起になっています。そうしなければ、あの国に協力する人間など作り出せるわけがないからです」
李文浩は私を慰めるためにそう言っているのだと思ったが、その気配りが嬉しかった。


迷惑な報道

八七年一月五日。近くの公衆電話から、東ベルリンの北朝鮮大使館に電話をかけた。電話に出たのは、レーニン通り一七五番地の工作拠点にいたあの元将軍だという老人であった。
「私は、呉京賢、いや、呉吉男です」
すると、相手はいかにも嬉しげに尋ねてきた。
「体の具合が悪かっかようですが、今はどうですか?」
「すっかり良くなりました。ところで……」
「あ、家族のことですね。心配しないでください。すべてうまく解決するはずですから」
彼の言葉を聞いて、私は飛び上がらんばかりに喜んだ。西ドイツで家族と再会し、ここでもう一度一緒に暮らすことができるなら、私はなんだってできる。掃除夫になったって構わない。
電話を切ったあともしばらくの間は、天にも昇る気持ちだった。
李文浩の話によれば、尹伊桑の妻、李水子が、私の家族のために何度か北朝鮮大使館を訪ねてくれたらしい。また、金吉淳博士も尹伊桑に会って口添えしてくれたと聞いた。
そんな話を伝え聞いて、遅くとも復活祭の頃には淑子や娘たちと再会するためコペンハーゲンに行けるのではないかと思い始めていた。
ところが、妙なことになってしまった。
欧米のマスコミが、私の脱出事件を大々的に取り上げ北朝鮮の体制を猛烈に非難し始めたのだ。韓国の日刊紙にも詳しく報道された。
こうなっては、北朝鮮の上層幹部が腹を立て妻と娘を返してくれなくなるのではないかと心配になった。
ただ、ひとつ救いだったのは同じ時期に金萬鉄一家の脱出事件(日本の福井県に漂着)が発生したことだ。韓国のマスコミは私の事件を大きく報道していたが、すぐあとにその事件が発生したので、注目はそちらに移った。これで少し助かったと思った。
マスコミが騒ぎ続ければ、それだけ妻と娘との再会が難しくなるに違いないのだ。
欧米や韓国のマスコミが私の事件をどうやって知ったのか、いろいろと考えてみた。
思い当たる節があった。私と自治完を迎えに来た北朝鮮大使は、コペンハーゲン空港で私が失踪すると、デンマーク外務省に呉京賢を返せとねじこんだに違いない。それに対し、デンマーク外務省は呉京賢などは知らぬ、呉吉男ではないのかと反問したのではないか。そして、すったもんだの末、大騒ぎになったに違いない。
結局、デンマーク外務省は事件をマスコミに流すことによって、北朝鮮大使を窮地に追い込んだのだ。これは結果的に私にとって極めて迷惑なことになったが、どうしようもなかった。
この年、北朝鮮外交官や幹部級工作員の亡命事件が続発し、北朝鮮の威信は大きく失墜していた。これは私が最も恐れたことだ。こうなれば北朝鮮は態度を硬化させ、おとなしく妻と娘を返してくれないのではないか? 私は心配でいても立ってもいられなかった。
結局、北朝鮮大使館宛にもう一度手紙を書いた。私の気持ちに反して脱出劇が世界中で報道され、物議を醸してしまったことに対する謝罪の手紙だ。同時に私は家族を出国させてくれるよう善処して欲しいと訴えた。
その手紙を送ってからしばらく私は、虚脱状態でぼんやりと毎日を送った。


再度の北行きを勧める尹伊桑

いつのまにか三月になっていた。
日当たりの良いところでは、芝が緑の芽を出している。もう春だ。
春は、希望と同じ意味で使われる言葉ではなかったか。しかし、私はいまだ冬に閉ざされている。悪臭の漂う部屋。そして、アルコール中毒者たち……。
陽射しが暖かくなったので窓辺でひなたぼっこをしていると、ふと淑子の顔が浮かび、声が聞こえてきた。
「……誰でも今の地位よりもっと上にのぼろうとする限り間違いをしでかすことがあるわ。あなたが私たちをこんなところに無理矢理連れてきたことについてなら、許すことができるわ。たとえそれがどんなに愚かなことでもね。それはあなたが私の夫だからよ。でも、かわいい娘たちを犯罪者の娘にしてはいけない。純粋な人たちを陰謀のいけにえにするなんて、そんな役割を引き受けるような馬鹿なことをしてはいけない」
そうだ、おまえ。私はおまえの言うとおり奴らの共犯者にはならなかったよ。
淑子の声を聞いて、また勇気がわいてきた。私は尹伊桑に、どうか妻とふたりの娘を助けて欲しいと嘆願する手紙を書いた。
四月の初旬頃、尹伊桑から電話がかかってきた。
「ハノーバーに行く予定があるので、そこで会おう」
ルイゼンホーフ・ホテルで会おうと言うのだ。
約束の日に、指定されたホテルに駆け込むと、夫人の李水子も一緒だった。
「東ベルリンにある工作拠点の責任者に会って、呉博士が書いた謝罪の手紙を読んだ。よく書いたな。しかし、これからどうなるかは分からん。なにしろ呉博士のために、東ベルリンの工作拠点の責任者が平壌に召還されたからな」
「では、妻と娘は永遠に出てこられないのですか?」
目の前が暗くなるのを感じながら尋ねた。
「共和国では、君の家族を西ドイツに返すと、そのまま南朝鮮に行ってしまうのではないかと心配している。それに君は、七宝山連絡所の秘密を知っている。だから家族を人質として捕まえておく以外に方法はないと考えているようだ。こうなってしまっては、家族を西ドイツに返す問題は、金日成首領ひとりでは決定できないはずだ。それにしても、なんでそんなに軽々しい行動を取ったのだ? もう少し我慢していれば、いい職場に行かれたものを。いつまでも君を対南工作放送要員として使うつもりはなかったと聞いているぞ」
私は頭を垂れ、目を閉じた。妻と娘は帰ってくることができない。できない。できない…… 帰ってこないのなら、私は……。
李水子の声に、我にかえった。
「呉先生、虎に噛みつかれても、心さえしっかりしていれば助かると言うでしょう。気を取り直さなきゃだめよ。平壌にいる家族のことは忘れて、再婚なさいな。再婚して、幸せに暮らせばいいじゃないの」
尹伊桑が大声を上げた。
「何を言っているんだ。馬鹿なことを言うんじゃないよ!」
そして、私に向き直ると囁くように言った。
「呉博士、天が落ちてきても、抜け道はあるものだ。暗いトンネルのなかを這っているとしても、進んでいけば明るい光に出合うはずだ。だから、こうしてはどうかな。共和国では、君の罪を寛容をもって許す意向があると聞いてきた。家族のことを思って、もう一度平壌に帰りなさい」
「……」
「共和国にいる時、人々は私のことをどう言っておった?」
「あまりの噂を聞いたことはありません。でも、愛国者だと言っていました」
「私は共産主義者ではないが、社会主義者ではある」
彼は親指を立てて、つけ加えた。
「私はこの人を尊敬している」
彼が立てた親指は金日成であると判断した。
尹伊桑夫妻と別れてホテルを出た。足が震える。耳元には、いつまでも尹伊桑の言葉が残っていた。
-家族のことを思って、もう一度平壌に帰りなさい。
あとで聞いたことだが、尹伊桑と李水子はその足でボーフムに向かい、私の家族の問題を協議するために、ブライデンシュタイン牧師ともうひとりの人物と会談している。ブライデンシュタインも、妻と子供たちを返せば、私が韓国に行ってしまうと考えたようだ。だから、家族を人質としておさえておかなければならないと言ったらしい。いったい、彼らは誰の味方だったのか?
体調が思わしくなく二週間入院した。退院してみると、もう四月下旬だった。
外は、春の盛りであった。花が咲き、木々が水を吸い上げ、緑の葉をつける季節となった。
ブライデンシュタイン牧師から手紙が来た。ひとりで生きることを考えてみろと書いてある。同じような内容の手紙がほかからも何通か続いて届いた。
私が再婚して安定した生活をすれば、彼らは安心するのだろう。しかし、それはあり得ないことだ。誰が再婚などするものか! 俺は必ず女房と子供を救い出してみせるぞ!・ どちらが勝つか、勝負してみようじゃないか!
しかし、いくら気持ちを奮い立たせても私の体のほうは少しずつ衰弱していった。


第11章 希望と絶望のはざまで

必ず家族を救い出す

八七年七月一目。真夏の刺すような陽射しを浴びながら、私はハノーバー市ベンゼン通りにある独身者アパートヘ引っ越しをした。これで何とかこの世のはきだめから抜け出すことができた。これまでのところは実際は浮浪者収容所だったと言ってよい。私に新しい独身者アパートを斡旋してくれたのは、社会的に困窮する人を救済する相談所だった。
引っ越しを終えてから何日もたたないうちに、また内務省の係官が訪ねてきた。
彼は私の生活状況を見て言った。
「韓国政府があなたを援助する用意があると言っている。援助を受けますか?」
北にいる家族の送還問題を放棄したわけではないので、私は承諾も拒否もできなかった。
「考えてみます」
曖昧模糊とした答えを口にしながら、私は笑うしかなかった。
「もう一度来ますから、よく考えておいてください」
彼に、こちらの電話番号を書いて渡した。
新居に移って三ヵ月が過ぎた頃、尹伊桑から電話がかかってきた。
「呉博士、明日の午後八時、ハノーバー音楽大学まで出てきなさい」
「分かりました。先生」
私は彼が来いと言ったらベルリンでもどこでも行かなければならなかった。それだけしか家族を救う方法はないのだ。
尹伊桑は九月にヨーロッパの著名な音楽家を連れて『尹伊桑音楽祭』を主催するため、平壌に行ってきたばかりであった。
彼は七〇歳を記念して、北朝鮮政府の肝いりでいくつかの音楽会を開き、北朝鮮の労働新聞とテレビは、尹を偉大な音楽家という枕詞をつけて最大の賛辞を送った。
北は間違いなく世界的な大作曲家・尹伊桑を対南工作に利用していた。それを知らないのは、当の尹伊桑本人だけだった。
彼は世界中を飛び回り、平壌に行く前には西ドイツ政府から何とかいう功労大勲章まで授与されていた。
この大作曲家は、今を堪え忍んでいる北朝鮮の人々の気持ちを全く知らなかったし、見ようともしなかった。北朝鮮工作機関のおべっかにのせられた彼の目は、開いていても何も見えなくなっていたのだろう。
礼儀を失しないように、私はいい服を引っぱり出し、頭髪も丁寧に整えた。尹伊桑はハノーバー音楽大学で教授として後進の指導にあたっていたことがある。東ベルリン事件で三年間韓国で服役し、ドイツに帰ってきてからのことだ。
彼はここで音楽会を開くことになっていた。
約束の時間より一時間早く、ハノーバー音楽大学に到着した。
私は彼の音楽にはまったく興味がない。関心事はただひとつ。尹伊桑が北に残っている家族についての何か良い知らせを持ってきてくれるかどうかである。それを思うと心が震えた。
尹伊桑が出てきた。暗かったが、遠くから彼を見つけ、駆けていった。
「先生、お元気ですか」
彼は疲れているように見えた。健康を害しているような表情だ。ドイツと平壌の間を往復した長旅のせいだろうか?
「なかに入って演奏会を楽しみなさい。終わってから会おう」
「分かりました」
一二マルク(当時のレートで約一千円)を払って入場券を買った。私が一週間生活することができる金額だ。
音楽大学のコンサート・ホールは客席が六百ほどで、それほど広くはなかったが、ほとんど人で埋まっていた。
場内が静まり、演奏が始まった。
最初から退屈でうんざりする音楽に、私は音楽会が早く終わることだけを考えていた。
ようやく演奏会が終わると、重病で寝込んでいたのが全快したような気分になった。
拍手のなかを尹伊桑が舞台に上がり、指揮者の手を挙げた。雷鳴のような喝采がわきおこった。続いて尹伊桑はバイオリン奏者の手を挙げると、また拍手が起こる。尹伊桑が動くたびに、拍手がわき上がった。私もつられて手を叩いていた。
ドイツに来て勉強を始めた頃、教授が何か冗談を言ったので、学生たちが机を叩きながら大騒ぎをしたことがある。私はその冗談を理解することができなかったが、一緒に大笑いして机を叩いた。その時と同じだった。
長い拍手が止み、聴衆がホールの外に出ると、私も彼らと一緒に外に出た。あとは尹伊桑と会うという仕事だけが残っていた。ここに来た目的はそれなのだ。
途中でプログラムを貰って、読んでみた。尹伊桑の略歴が書いてあった。“KCIA(韓国中央情報部)に拉致され、拷問された自由の闘士。東洋の音を西洋の楽器で演奏する異能„。称賛は限りなかった。
私も彼が世界的な大作曲家としての地位を築いていることは認める。誰もこのことは否定できない。ただ、私は彼の荒唐無稽な傲慢さと、金日成の手先になっているという点を、容認できないのだ。
しかし、それと同時に自由の闘士・尹伊桑が私の家族の問題も解決してくれる唯一の人物と信じ切っていた。
私はこういう時が来ると思い、北朝鮮にいた時に対南工作機関で活動していたという事実を韓国側にもらしたりはしなかった。また、韓国当局からの援助の申し出も断っていた。それもこれも尹伊桑が、こうした私の姿勢を高く評価してくれるものと、信じていたからだ。それだけではない。妻と子供たちを返してくれるなら、私は彼に土下座するぐらいはもちろんのこと、犬のように這い回れと言われればそのとおりにする覚悟だった。


尹伊桑から渡された妻の手紙

尹伊桑を待ちながら、私ははやる心を抑えようと懸命だった。喉がむしょうに乾く。しかし、待てど暮らせど彼は姿を現さない。
ホールのロビーに聴衆はもうひとりもいなかった。私は外に出てホールの入り口でひとり立ち続けた。
ついに待ちわびた尹伊桑が現れた。
ところが、近づいてきた彼は予想もしなかったことを言った。
「呉博士、今日は遅いから、明日の朝九時にルイゼンホーフ・ホテルに来なさい。これは向こうで預かった奥さんから君への手紙だ。これを読んでから明日話そう」
それだけ言うと彼は帰っていった。まさに取りつくしまもないという感じだ。
私は震える手で妻の手紙を握りしめながら、その後ろ姿を見送った。
それからどうやって家に帰ったのか、覚えていない。家に戻ると早速、妻の手紙を取り出した。
手が震え、手紙を開く前から涙が止まらない。
あなた
どうお過ごしですか?
体の具合はどうですか?
あなたが行かれてから、もう一年近くになります。
恵媛、圭媛にさぞ会いたいことでしょう。
あなたの様子が分からなくて、もどかしい日々を過ごしていたのですが、こちらから手紙を持っていってくれる人がいるというので、急いでこの文を書いています。たぶん、その人はベルリンの尹先生ではないかと思います。
新聞によれば、先生は偉大なる首領さま(金日成)との接見もなされ、音楽会も成功したとのことです。
私は音楽会に行ったり、先生にお目にかかることはできませんでした。
私たちは何事もなく、平穏無事に暮らしています。恵媛は一学年飛び級して中学生になったのですが、そこでも最優等生です。圭媛も三年生になり、ずいぶんと手が掛からなくなりました。家のことを手伝ってくれることもあるんですよ。私の健康は相変わらずで、今は職場に出ています。八月に、静かな郊外に引っ越ししました。
前に住んでいた中心街よりも、山河が美しく、気に入っています。当局が勧めてくれたんです。
最初は、私も早くこの国を出たいと思っていました。でも、いろいろと説教されました。自分の地を捨てて、何の面目があって生きていくことができるのか? あなたたちは民主化運動をしていたというが、それは自分だけが贅沢をしようと思ってしたことなのか? どこかよその国のためにしたことなのか? ここに住んでいる人々は統一を願い、戦後の復興建設という困難を乗り越えてきました。皆一緒に働き、皆一緒に暮らしていくのが悪いことなのか? それが厭で祖国を離れるというのは、人間として許されることなのか?
最初は、私たちの考えが全部正しいと思っていたのですが、いろいろと話を聞くと、納得できる点が多々あると思うようになりました。あなたが去ってから、私たちはどうなるのだろうと毎日不安に包まれていましたが、これといった事件もありませんでした。
あなたについて解明しなければならないことがあるというので、すべて事実どおりに話しました。
それからは不安もなくなり、最近では、私たちは祖国に対して何ということをしでかしてしまったのだろう? ほかの方法を考えもせずに何でそうしてしまったのだろう?と思うようになりました。余りにも事を急ぎすぎたと今は考えています。でも、あなたを恨んだりはしません。
誰でも道を誤るということはあるものです。あなたのお考え次第ですが、帰ってきてもいいのではないかと思います。
それでは、くれぐれもお体に気をつけて。


一九八七年一〇月一一日
ヘウォン・オンマ(恵媛の母)


手紙を読みながら、何度も頭をかきむしった。淑子は平穏無事に過ごしていると書いてきたが、真っ赤な嘘だ。当局に書かされているだけなのだ。“山河の美しい所„に引っ越しをしたということが何を意味するかも分かっている。でも最も私の心を重くしたのは、“あなたを恨んだりしない„と言っているところだ。それは呪いの言葉を聞くよりももっとつらかった。
私は手紙を抱きしめながら、一晩中、苦しみ悶えていた。声を上げて哭くことができれば、少しは胸が晴れるだろうが、涙が出てこなかった。悲しすぎると泣くこともできなくなるという話を聞いたことがあるが、この時の私がまさにそうだった。


人質にされた妻と子

翌朝、私は起きるとすぐにルイゼンホーフ・ホテルに向かった。約束の時間にはまだ間があったので、ホテルの周りを回りながらタバコを吸い続けた。淑子は、“帰ってきてもいいのではないか„と書いてきた。これは北当局の強要によるものか、あるいは事実そう思っているのか? 私はずっと考え続けた。
約束の時間が近づいてきた。フロントに行って、尹伊桑の部屋番号を尋ねた。
「奥さんの手紙を読んで、どう思った?」
「妻は、私が平壌に帰ってきてもいいのではないかと思うと書いてきましたが、帰る面目もないし、帰ったところで意味のある仕事はできないと思います」
尹の言葉に私は率直に答えた。これは本心だった。
「呉博士、よく聞きなさい。奥さんは本当に立派な人だ。間違いを認めて、帰ってこいといっているではないか。それでもまだ君は分からないのか?」
「先生が私の入北を評価してくださっていたことは存じています。私は経済学者としてやりがいのある仕事をしようと、平壌に行きました。ところが、彼らに命じられたのは、七宝山連絡所で対南工作放送に従事するということでした。それだけではありません。次にはコペンハーゲンに行って、ふたりの南の留学生を北に誘い入れるよう命じられました。私は怖くなりました。もしこの仕事が人民のためになることなら私は逃げ出したりはしません。でも、とてもそうは思えません。それなのに彼らはしつこく、頑固でした。私は対南工作放送の仕事をするだけでも厭で厭でたまらなかったのに、さらにそんなことを命じられて息が詰まるようでした。
もう一度言いますが、工作員になれという命令を断ることはできなかったんです。その命令が下る前は何もかも捨て去り、ただ言われたとおりに北で生きていこうと思っていました。しかし、その命令だけには従うわけにはいきませんでした。私は自殺したいと思ったくらいです。
北の現状はひどいものです。恥ずかしいことですが、ドイツ語しか知らない恵媛が、あまりに切なくて、突然わんわん泣きながらアパートから飛び降りてしまいたいと言っていました。
恵媛はまだ一〇歳です。子供がそう思い詰めるほどあの国はすさみ、荒れ果てているのです。
私は、やっと食べていかれるだけの生活でもいいから、ただ学問することだけを願っていました。
しかし彼らは私を、対南工作要員として利用することしか考えていなかったのです。抗議にもならない抗議をしたこともありますが、何の役にも立ちませんでした。そらとぼけて、彼らはただ金正日のご意向だと繰り返すのみです。本当にあの国には愛想が尽きてしまいましたよ。
先生、前途有望なふたりの学者が私が行う工作の犠牲になることには耐えられませんでした。ふたりが南朝鮮の現政権に対し批判的な態度を取っていることは事実です。しかし、だからといって彼らが北朝鮮に対して無批判であるというわけでもないのです。それに彼らはまだ若く、ことの是非を十分にわきまえているとはいえません。私は、このままでは彼らが、自分のようになってしまうと思っていました。彼らが私に誘い込まれて、中央党第五課(北朝鮮の対南工作機関)と接触したとしましょう。あの恐ろしい安企部(韓国国家安全企画部)が、純粋なふたりの若者を放っておくと思いますか? もしかしたら、彼らはたった一度の過ちから、永遠に祖国に足を踏み入れることができなくなるかもしれません。
中央党の幹部たちは、南朝鮮のやつらを南朝鮮の者どもの手によって滅ぼさせるという悪辣な戦術を使っています。口では統一を念仏のように繰り返しながら、実際には卑劣な犯罪に手を染めているのです。
先生、八五年八月に入北を勧めてくれた先生が、もう一度私に入北を勧めるとおっしゃるのであれば、北朝鮮に行って人民のために経済学者として活動するという条件を保証してくださいますか?」
私はひと息にそこまで言うと、テーブルの上にあった水をがぶがぶと飲みほした。
「資本主義社会で学んだ経済学など、我が社会主義では何の役にも立たないと、許錟が言っていた。しかし、呉博士のためには、今良い地位を探しているとも言っていた。それなのに、なぜ脱走という性急で軽率な行動に踏み切ってしまったんだ」
許錟は尹伊桑の面前で、北朝鮮では科学としての経済学が通用しないということを認めたわけだ。それは裏を返せば、私の提案を受け入れることができないという意味でもある。
「ならば先生。経済学者として活動するという条件を保証してくれないというのなら、私が北へ帰る代わりに、妻と子供たちをドイツに返してください。私はどんな処罰でも甘受する覚悟で北に帰ります」


信じ難い現実

私の提案には多分に悪意が含まれていた。尹伊桑がそれに気がつかないわけがない。彼は声を荒げて言った。
「ほざくな! おまえは何を言っているのか分かっているのか。もう聞きたくない。出ていけ!」
この男は私をもう一度北に送ろうとして私に会ったのであり、家族をドイツに返してくれるためではない。そのことを理解して私はさっと立ち上がった。
「いいでしょう。出ていきます」
席を立って部屋を出ていこうとする私を、尹伊桑が止めた。
「呉博士、少しだけ我慢しなさい。聞いたところによると、君は数学も得意で数理統計学にも精通しているということだが、それなら、こうしたらどうだろうか?」
「どういうことですか」
私はぶっきらぼうに答えた。
「コンピューターサイエンスを四、五年ここで学び、それから家族のもとに帰るようにしたらどうか。その間、祖国は家族を国賓待遇で預かってくれるはずだ」
私は自分の耳を疑った。この男は何も知らないのだ。無知というにも、度が過ぎている。何度も北朝鮮に足を踏み入れたのは、何のためであったのか。私に見えたことを、彼は何も見なかったとでもいうのか。
「この年になってから新しい勉強を一から始める自信はありませんが、無意味でない仕事を朝鮮でできるというのなら、こんなにうれしいことはありません。
しかし、それは不可能です。北に行った知識人たちがどういう扱いを受けているか考えて見てください。東ベルリン事件の鄭河龍の弟、鄭玄龍氏が七宝山連絡所の対南工作放送局にいます。そこでは張錫奎という仮名をつかっています。彼は京畿高等学校からソウル工大金属工学科に進んだ人物で、ヨーロッパに留学していた際に東ベルリン事件が起こり、このままでは祖国にも帰れないと思って、夫人の尹ヒャンヒと、ふたりで平壌に逃げてきたのだそうです。夫人もあそこでは韓ソンエという仮名を使っています。
先生が韓民連の議長をなさっていた時に、国際部長だった許弘植氏も対南工作放送の要員です。それだけではありませんよ。カナダで物理学か数学か、とにかく自然科学系の教授をしていた人が北に来ました。ところが、北が彼にさせた仕事は、工作員の英語教育でした。彼の娘は、金永南外交部長(外相)の英語通訳をしているそうです。
釜山大学で哲学の教授をしていた尹老彬も、チョン・ヨンホという名で対南工作放送で働いています。そのほかにも、例を挙げたらきりがありません。皆そのようなありさまなのに、私だけが例外だというようなことがあるでしょうか。
先生、どうか家族を返してください。そうすれば、目を噤んで、静かに暮らしていきます。もしそれができないのならば、さっき言ったように、私が北に行き、家族をドイツに帰すようにしてください」
尹伊桑は私の話を聞きながら、いかにも不愉快な顔をすると、もうたくさんだとばかりに叫んだ。
「私は人道的な次元でおまえを助けようとしてきた。しかしおまえは私の苦労を爪の先ほども分かろうとしない。もうおしまいだ。出ていけ! おまえは恩をあだでかえした。好きにするがいい。家族を返せば、家族と一緒に南朝鮮に行ってしまう危険性があるから、返すわけにはいかない。許錟も言っていたが、おまえは朝鮮の内部事情を盗み見し、連絡所の秘密をかぎつけてから逃げ出したんだ。おまえは米帝に雇われたスパイに違いない。そうでないことを立証するためには、家族がいる平壌に帰らなければだめだ。帰っても、おまえは共和国の公民ではないから、法による処罰は免れるはずだ。
もう一度忠告する。平壌に帰れ。帰らないのなら、家族は人質として捕まえておかざるを得ない。軽率な行動を取れば、家族がどんな目にあうか、心しておくことだ。もうこれ以上おまえの顔なぞ見たくもない。出ていけ! 人間が、最後に残しておかなければならないものは、良心なんだぞ!」
尹伊桑の話を聞きながら、鳥肌が立つのを感じた。恐ろしい男だ。彼は、私を再入北させようという決然たる意志を見せたのだ。
あれほど待ち望んでいた一条の希望の光が消えていく……。
ホテルを出ながら、人生の終末を告げられたような絶望感と虚無感に包まれ、重い足を引きずって家路についた。


北朝鮮大使館からの接触

八八年一月一七日。
東ベルリンの北朝鮮大使館が、尹伊桑を通して連絡を取ってきた。連絡の内容は、八八年一月二八日午前一〇時に、オーストリアのウィーンにある北朝鮮大使館で、家族の問題を協議しようというものだった。彼らが私を拉致しようとしてそんな提案をしたのではないかと疑ったが、一応承諾した。
私は万一の事態に備えて、金吉淳博士と呉石根、ブライデンシュタイン牧師など親しい人たちにそのことを知らせた。
フランクフルトにあるオーストリア領事館で、入国ビザを取得したあと、二八日午前八時頃、私は呉石根と一緒にウィーンに向かった。
北朝鮮大使館では白治完と、海外同胞委員会援護局長という男が私たちを迎えてくれた。
彼らは私と呉石根を中華料理屋に案内した。私は再三、援護局長に家族を返してくれと頼んだ。しかし相手は身辺を保証するから北に帰ろうと言うばかりで、私と彼らの主張は終始平行線をたどった。とはいえ、彼らを刺激したくなかったので、私はできるだけ穏便に話した。
「今さら何の面目があって帰れますか。家族と一緒にドイツで静かに暮らしていきますから、どうか家族を返してください」
「呉先生、身辺の保証は十分にしてあげますから、家族のいる祖国に帰りましょう」
いくら話してもきりがなかった。これでは家族を返してもらうのはほとんど不可能に思えてくる。それでもあきらめず私は援護局長と名乗る男に家族の安否を訊ねた。
「呉先生、ご家族は今、ヒョンジェ山のなかに住んでいます」
息が詰まった。山のなかに住んでいるとは……。私は恵媛と圭媛にあげようと思って買った手袋を差し出した。
「子供たちにこの手袋を渡してやってくださいませんか」
「呉先生との話が終わっていない状況で、このようなものを預かるわけにはいきません」
彼らは冷たく拒絶した。父親として子供たちに手袋ひとつ自由に贈ってやれないとは、心が凍るようだった。
「ヒョンジェ山というのはどこにあるのですか? 収容所ですか?」
「説明できません」
目の前が真っ暗になるような絶望感に包まれた。平壌で一一ヵ月過ごしたがヒョンジェ山というのは聞いたことがなかった。どんな所なのだろうか。政治犯やその家族を収容する所なのだろうか。それとも粛清された人々の家族を強制移住させる山奥の農場なのか?
どのようにして中華料理屋を出たのかは記憶にない。私は発狂寸前だった。
北の連中と別れたあと呉石根が静かに、
「ウィーンに来たついでに、頭を冷やすのも兼ねて、観光でもしていこう」と誘ってきた。
彼にすまないと思い、頷いた。
しかし名所旧跡を回っていても、私の目に入るものなど何もなかった。頭のなかにあるのは妻と子供たちのことだけ。このままでは一生会えないという思いが募り、私は再び北へ行くことを真剣に考えていた。私が帰れば、妻と子供たちは助かる。しかし……。
答えの出ない問いを考え続けた。いつまでも、いつまでも。
結局、何の成果もないままドイツに帰るしかなかった。
私は呉石根の家にいたが、間もなくどうやって知ったのか、尹伊桑がその家に電話をかけてきた。
「呉博士、共和国は絶対にお前の家族を外には出さない。私の言ったことをもう一度よく考えてみろ」
「考えることなど何もありません」
私が電話に向かって叫ぶと、尹伊桑は何も言わずに電話を切った。


妻からの二度目の手紙

一〇月初旬のある日のことだった。早起きしたのだが、することもなくベッドでごろごろしていると、電話が鳴った。
「尹伊桑だが」
「先生、どうしたのですか?」
嬉しさ半分、恐ろしさ半分といった感じで尋ねた。
「今、ハノーバーに来ている。ルイゼンホーフ・ホテルにいるんだが、ちょっとコーヒーショップまで出てきなさい」
「分かりました」
顔を洗って、ホテルに駆けつけた。
「まず、奥さんからの手紙だ」
やにわに彼は淑子からの二度目の手紙を差し出した。何が書かれているのだろうか? もしかしたら、拷問されて、私に入北を催促する手紙を無理矢理書かされたのではないだろうか。
「力の及ぶ限り、呉博士の家族の送還に努力してみたが、送還はとうてい無理なようだ。呉博士が共和国に行くしか方法はない。奥さんと子供たちも君が帰ってくるのを首を長くして待っている。君の奥さんは本当に立派な人だ。共和国も、過去の過ちを反省して帰ってくれば、これまでのことは不問に付すと言っている。だから、妻子のことを考えて平壌に帰りなさい」
「私の答はこの前と同じです」
家族の送還が簡単に実現できるものではないことは十分承知していた。尹伊桑がもう一度入北を勧めに来るだろうことも予想していた。予想してはいたのだが、彼の知的良心を信じ、もしかしたらと一縷の望みを賭けてここに来たのだ。
しかし、これですべての希望は消え去った。これ以上、尹伊桑にもてあそばれるのはごめんだ。妻の手紙をポケットに入れて、私は決然と立ち上がった。
家に帰ってすぐ、震える手で封筒から手紙を取り出し、読んでみた。
あなた
昨年、尹先生に手紙を託してから、ちょうど一年が過ぎました。その間、つてがなくて手紙を送ることができませんでした。
お元気ですか?
子供たちと離れて寂しく暮らしているあなたのことがいつも気にかかっています。もちろん、あなたはあなたで私たちのことを心配していることでしょう。私たちは何事もなく無事に暮らしています。
私の健康状態も、悪くなってはいません。
職場生活をしながら子供たちを学校に通わせているので、いつも時間が足りません。でも、子供たちが私のことをいろいろと心配してくれるので、大丈夫です。恵媛はもうおとなのように何でも手伝ってくれます。
圭媛は、年齢よりもおとなびてきています。父親がいないと、そうなるのかもしれません。
今年初めに、海外同胞援護委員会にいる人があなたに会ったと言っていました。
その時の会談はうまくいかなかったようですね?
あなたに対していろいろと不満を述べていました。
互いに胸襟を開いて話し合おうと思っていたのに、あなたが連れてきた人たちが会合場所の周りをうろつき回って何か異様な雰囲気にしてしまったので、こちらの人たちは不快に思い、深い話はせずにうわべだけ二言三言交わして別れたと言っていました。
わざわざ会合の機会を作ったのに、なぜそんなことをしたのですか。
その話は本当のことなのでしょうか。
前に尹先生に託した手紙にも書いたとおり、私たちが最初に、深い考えもなく行動してしまったことは明らかに間違いであったと思っています。
三年ほどここに住んでみて、こちらの生活にも慣れてきました。
でも、やってしまったことをどうすればいいのでしょう。
私たちはあなたが帰ってくることを願っています。
あなたが帰ってくれば、すべてがうまくいくはずです。
国慶節を祝ったばかりのこちらは、秋の盛りです。
天気が1番いい季節です。都会より、今住んでいるところのほうがいいようです。慣れてくればそんなものでしょう。
何とかして、あなたのことを知らせてください。
手紙を送る住所;平壌市ヒョンジェ山区域ヒョン山里八班
一九八八年九月一五日
恵媛・オンマ

封筒には「朝鮮から」とだけ書かれてあった。
胸がじりじりと焼かれるようだった。この胸の痛みを誰が分かってくれるだろう。妻が自由な状況でこの手紙を書いたとはとても思えなかった。それだからこそ、よけい胸が痛んだ。

おぼれる者、藁をも把む

苦しみの時間がいつもと同じように流れていた。
いつの間にか一年が過ぎ、八九年の夏になっていた。
姉の娘であるふたりの姪が訪ねてきた。
「叔母さんや恵媛や圭媛はどこに行ったの?」
「四年前に交通事故で死んでしまったんだよ」
私は何の得にもならない嘘をついた。胸を鋭い剃刀で切られるような痛みが走る。
姪たちが怪訝な顔をしているので、さっと話題を変えた。
「そんなことはいいから、おまえたちも少し観光をすればいい」
そう言って私はふたりを連れて、ローレライ見物に出掛けることにした。

それからまた一年が過ぎ、姪たちがリュックサックを背負って再び訪ねてきてくれた。それまでの私はまさに独りぼっちだった。一週間に一度はかかってきていた金吉淳からの電話がどれほど慰めになっていたか分からないが、その彼も三月に帰国してしまった。呉石根も中国の延辺(吉林省の朝鮮族自治州)に行ってしまい、まさに、私は洛東江のような大河に捨てられたたった一羽のあひるの子といった状態だった。
九〇年六月、圭媛の誕生日が近づいてきた。有り金全部をはたいて、ふたりの娘へのプレゼントを買った。靴八足、手袋、靴下、パンティ、歯ブラシ等々。買いながら私は、店員に見られないように泣いていた。
子供たちへのプレゼントを小包で東ベルリンに送った。届かなくても仕方がないと思ったが、父親として心を込めた贈り物をしたかったのだ。
同じ月、無駄だと知りつつ、金正日あてに、家族と私の本を返してくれという嘆願書を書いて、東ベルリンの北朝鮮大使館に送った。たぶん、金正日の手には届かないだろう。しかし、じっとしているよりはましだ。家族を取り戻すために何かをしなければならないのだ。おぼれる者藁をも把むの心境だった。さらに、もう一通嘆願書を書いた。経済学者として、南でも北でも活動できない私に理解を示してくれと訴え、そのなかでも家族を返してくれと哀願した。
また一年が過ぎた。
九一年一一月二一日午前一一時、ハノーバー駅からベルリン行きの列車に乗った。北朝鮮対南工作機関の罠から、満身創痍となって逃げ出してから四年ニヵ月ぶりのベルリンである。
北朝鮮を脱出してから、私は一定の職に就くことができず、ドイツの社会保償制度にすがって何とか生きてゆくことができた。ハノーバー社会福祉局から支給されるお金で独身者アパートの家賃、電気代、水道代、掃除費、服代や靴代などを支払うと、残るのは四三二マルク(当時のレートで約三万五千円)。乞食とほとんど変わらない生活であった。
ベルリンまでの往復の列車の切符を買うと、残った現金は六マルクだけだった。私は自らを苦しめ、社会から徹底して廃棄処分されるようにしむけていた。だから、私の生活には〝絶望〟という言葉は必要なかった。すでにそれを通り越してしまっていたからだ。
すでに東西ドイツがひとつに統一されていたのでビザを貰う必要はなかった。パスポートの検査もなくなっていた。
それだけではない。月日は流れ、多くのものが変わっていった。変わらないのは、私というどうしようもない存在と、帰ることのない家族だけであった。

一縷の望み

東ベルリンに行くのは尹伊桑に会うためであった。尹伊桑夫妻は北朝鮮での静養を終え、帰ってきたところと聞き、私は性懲りもなく以前のような期待を抱いて列車に乗ったのである。そう思い立ったのは、東欧での共産主義の崩壊を見て、北朝鮮も考えを改めるのではないかと考えたからだ。今、世界中で北朝鮮だけがその体制を支えきることなど到底不可能だろう。
東ドイツが崩壊した今となっては、北朝鮮は統合ドイツと外交関係を結ばなくてはなるまい。私は旧西ドイツに亡命した人間だ。だから、北朝鮮が尹伊桑を通して私に手を差し延べてくれるかもしれないとも考えたし、また、そう信じていた。
車窓を旧東ベルリンの市街地が流れていく。街は、分断されていた祖国の半分を訪れる旧西ドイツからの観光客でいっぱいだった。五年前、私が東ドイツの北朝鮮大使館にいた頃は、これはどの活力はみなぎっていなかった。尹伊桑もこの街のように変わっているに違いない。彼に良心があるのなら、北朝鮮で休養している間にきっと私の妻と子供たちに会っているはずだ。
同情心のかけらでもあるならば、哀れな私の家族の近況を直接その目で確かめ、対策を考えているに違いない。
プラットホームには、竹馬の友である藩星完教授か迎えにきていた。一三年ぶりの再会である。まだ四九歳なのに彼は既に完全な白髪で、父親についてきた小学校一年の息子が孫のように見える。
街を暗闇が包み始める頃、彼のアパートに着いた。彼の奥さんが暖かく迎えてくれたので、目頭が潤んできた。最後に人間らしい扱いを受けたのはいつのことか思い出せなかった。
すでに夕食が用意されていた。キムチの匂いがたまらない。韓国の女性が漬けたキムチは、何年ぶりだろうか。その匂いを嗅いだら、もう我慢ができず、私はテーブルの上にある食べ物をひとつ残らず平らげた。
その日の午後六時、ベルリンでは『汎民連(祖国統一汎民族連盟)欧州本部』の大会が開かれていた。この組織は、北の対南工作機関と関係の深い組織で、尹伊桑はその象徴的存在だった。その集会には、黄晢暎、林民植、宋斗律などが参加していた。皆、北の対南工作機関から信任と信頼を受け、金日成との〝接見〟を済ませた人たちだった。
彼らが集会場に集まっていた頃、私はそこには参加せず藩教授の家にいた。彼らが何をしゃべり散らそうと私には関係がないからだ。
八時を少々回り、尹伊桑が帰ってきた頃合いを見計らって電話をかけた。
「尹だが」
「呉吉男です。先生のお宅にうかがいたいのですが、いつ頃がよろしいでしょうか?」
「今日来なさい。できれば一〇時に。夕食はすませてきなさい」
「友人の家で食事をすませているので、あとでうかがいます」
私は以前、尹伊奈に、「妻とふたりの娘をドイツに返してくれるなら、私は北に行きどんな処罰でも甘受します」と言ったのを思い出した。これを聞いて彼は火のように怒りだしたものだが、今日は絶対にそうなってはまずい。怒らせれば不利になることはあっても、得になることは何もない。あの気難しい人間をどうすれば動かすことができるのか・・・・・・。

虚しい会話

尹伊奈の家の前に立って時計を見ると、一〇時まであと二〇分ある。私は門の前を行ったり来たりして時間を潰した。べルを押さなかったのはカントの言葉を思い出したからだ。
〝約束の時間より前に訪ねては、こちらの品格を損ねてしまう〟
生きるため道端に捨てた自尊心ではあるが、尹伊桑の前だけではそんなふうになりたくはなかった。
ようやく一〇時になったのでベルを押した。
ドアを開けたのは尹伊桑の娘だった。「お入りください」という彼女の声は母親にそっくりである。
夫妻は食事中だった。「地下室に案内しなさい」と、尹伊桑が奥さんに言った。
彼女は黙って立ち上がると、私を楽器がおかれている地下の部屋に案内し、冷たい態度で椅子に座るように言った。明らかに私の訪問を迷惑がっている様子だ。
尹伊桑はドイツの人名事典にも大きく取り上げられている有名人であるばかりでなく、作曲家として世界的に名が通っている。だが、夫がいくら大作曲家だからといって、夫人が皇后のように振る舞うことは許されるべきではない。しかし、夫人の李水子にはこんな常識が欠落していた。この女の評判は、いわば身内である対南工作機関の要員の間でも最悪で、傲慢な女と陰口を叩かれていた。
「平壌は楽しかったですか?」
挨拶を兼ねて尋ねてみた。
「満足しましたわ。帰ってから幾日も経っていませんのよ」
「北の経済事情はどうでしたか? 少しは良くなりましたか?」
私は、東欧は崩壊したが北はいつ倒れるのか、というニュアンスを込めて質問したのだった。
朝鮮は自立経済ですのよ。東欧の現実社会主義とは違って、びくともしませんわ」
それを聞いて私は皮肉っぼく笑ってみせたかったが、ぐっと我慢した。しかし、腹のなかでは毒づいていた。〝大音楽家である亭主も、経済については何も知らないのに、おまえが何をぬかすか〟
李水子は前と違って、北朝鮮をかなり露骨に擁護するようになっていた。
北朝鮮の経済がこれ以上ひどくならないことを無理矢理願っているようにさえ見えた。なぜそんな願いを持つようになったのだろうか。まさか、主体思想を心から信じているからではあるまい。
尹伊桑は北の思想だけを信奉しているにもかかわらず、自分は以前から東ドイツではなく、資本主義国家の西ドイツに住んでいる。それも金持ちが住む高級住宅街に、だ。これは大きな矛盾ではないか。
その時だった。尹伊桑が地下室に下りてきた。糖尿病のせいか顔色が悪い。
私は丁寧にお辞儀をした。しかし彼はそれを受けようとしなかった。ただ怒ったような顔で部屋のなかを行ったり来たりしているのだ。なぜ彼がそうするのか、わけが分からず、不安になってきた。彼は家まで来いと言ったのではないか。だから払は来たのだ。何が気に食わないのだろうか。

妻と娘の肉声

沈黙が部屋を支配していた。一〇分ほど、私たちは同じ部屋のなかにいながらお互いに目を合わせなかった。
ついに彼が口を開いた。
「おまえの行いは何だ?」
「はい?」
「妻もなくそうやって暮らして、どうするつもりなんだ? だからもう一度平壌に行けと言ったではないか」
また始まった。この頑固な老人は前に言ったことをそのまま繰り返すつもりなのか。
「叱っていただき、ありがとうございます」
「酒を飲み歩いて、国の面汚しになっているではないか」
宋斗律が、私が酒に溺れていると告げ口したのだろうか。飲もうと思っても金がなくて飲めないという言葉が喉元まで出かかった。しかし、ぐっとこらえた。ここは我慢しなければ家族に不利になる。
「社会福祉の金を貰ってやっと生きて行く人間の屑のような生活に何の意味があるというんだ? そんなことをするために逃げ出してきたのか?」
全身の毛が逆立つような感覚が、背筋から首筋に走った。
「対南工作放送の仕事をするより、そして留学生ふたりを罠にかけるより、意味があります」
私の右側に座っていた李水子が軽蔑したように横目でこちらを睨んだ。まるで罪人を見る目だ。彼らに対して、私がどんな罪を犯したというのか。この地下室から飛び出していきたいという衝動にかられていると尹伊桑が叫んだ。
「分かった。出て行け」
私は即座に立ち上がった。すると間髪を入れず尹伊桑が再び大声を上げた。
「座れ」
私は一瞬その場に立ち尽くしたあと、何事も家族のためだ、と歯を食いしばって座った。下を向いて、顔を見られないようにしながら・・・・・・。
それと同時に尹伊桑が引き出しをあけ、濃い黄色をした封筒を出した。そしてなかからカセットテープを取り出すと、テープレコーダーに示し込んで、スイッチを入れた。
テープレコーダーからは、妻の声と愛するふたりの娘の声が流れてくるではないか。

私たちが別れてから、一五二〇日目になる今日、九一年一月一一日、誕生日のプレゼントが届いたの。九〇年九月一九日にハノーバーから送ってくれた手紙を見た時は、まさかプレゼントが本当に届くとは思ってもみなかったから、どれほど嬉しかったことか。
前に、健康が優れないという話を聞いたんですが、今はどうなの?
さて、何から話したらいいのでしょう。
いつ会えるか分からないし、今度いつあなたに手紙を出すことができるかまったく予測できません・・・・・・子供たちはあなたのことを思いながら、元気に暮らしています。
昨年の八月一五日、汎民族大会が聞かれた時に、鄭奎明博士、それからパリにいらっしやる李ヒセ先生をはじめとして、多くの方々が祖国統一のために努力されている様子をテレビで見ながら、あなたに対する信頼をまた新たにしました。
体はどこにあろうとも、祖国統一のために献身奮闘することが、祖国を愛するものの進む道です。またあなたの愛する恵媛、圭媛との再会を実現する道でもあるのです。あなたはこのことをよく分かっていらっしゃるのですから、私はいつの日かあなたと会えることを露ほども疑ってはいません。
必ず会えると信じて、健康に注意してくださいね。私たちのことにはあまり神経を使わないでください。生活は心配ありません。
永遠に愛するあなた、あなたの社会的な成功と健康を心から祈っています。

九一年一月一一日

アッパ (お父さん)! 恵媛ですよ。
何日か前、アッパと一緒に誕生日のお祝いをする夢を見たの。アッパが誕生日のプレゼントを贈ってくれたから、そんな夢を見たんだわ。私は今中学校四年生、一四歳になったの(北朝鮮では中学校は六年制)。卒業したら、大学に行きたいとは思っているけど、行けるかどうかは分からない。
オンマはいつも、アッパがいないんだからなおさら、日頃の行いや道徳についてクラスの模範にならなければいけないって言うんだけれど、私はそれを聞くたびに悲しくなるの。祖国にも偉大な我々のお父さん(金日成のこと)がいらっしゃいますが、私はほんとのお父さんのことをいつも考えています!
お父さん、いつまでも元気でね!
あんまり久しぶりにアッパって言ったから、涙が出てきちゃったわ。

九一年一月一一日

アッパー! 私は圭媛よ!
もう中学校二年生になったの。今年一三歳よ。
アッパ!会いたいわ。
アッパば知らないでしょう。私は早く大きくなって、お母さんの手伝いをしなくちゃと思っているのよ。でも、もう水汲みもできるし、火を焚くことだってできるわ。
病気にもかからないし、元気にしているわ。アッパが向こうに行ってからも、私の背はあんまり伸びていないの。
会いたいわ。アッパ!
アッパに会えたなら、何をプレゼントしようかな。
アッパ、さようなら!

九一年一月一一日

心臓を錐でえぐられる思いだった。妻と子供たちの声がいつまでも消えずに耳元から離れない。これはあらゆる肉体的拷問より、残酷な仕打ちだった。私は北の対南工作機関の、卑劣で恐ろしい手法に全身が震えた。しかし何とか最後の気力をふり絞って、胸の奥くからこみあげてくる涙を押し止めた。

消えた望み

「もう泣く力も残っていません。涙はとうに涸れ果ててしまいました」
尹伊桑は私が涙をぽろぽろ流すものと思っていたようだ。しかし泣かないのを見て、怒ったように黒白の写真六枚を私の鼻先につきつけた。
「見ろ。おまえの妻と子だ」
淑子、恵媛、圭媛の三人が写っていた。どうやら雪深い山のなかで撮ったもののようだ。三人が着ている服、履いている靴は、みんなドイツから持っていったものだった。私はどぎまぎして、思わず口走ってしまった。
「なんてみすぼらしい・・・・・・」
すると夫人が吐き出すように言った。
「父親よりましよ」
尹伊桑も妻の言葉に付け加えた。
「千倍もましだ」
一瞬私は、尹伊桑夫婦が善意から若い私を叱りつけているのではないかと思った。いや、そうであることを心のなかで願った。自らの目を自らの手で潰し、妻と子供たちの目までも潰してしまっただらしない男に、人生の先輩として叱りつけているのならば、まだ希望はある。しかし、尹伊桑の次の言葉が、私の期待を粉々に砕いてしまった。
「おまえは助けてやる価値もない男だ。おまえには失望した。出て行け」
私はもう一度立ちあがった。堂々と振る舞わなければと努めたが、足がぶるぶる震えていた。
「座れ」
尹伊桑は再び座るように命じた。彼の際限のない気まぐれに歯ぎしりしながらも、その言葉には抗しきれなかった。また、椅子に腰をおろしたが目は終始、尹伊桑を睨みつけていた。
「家族が生きてられるのは誰のおかげだと思ってるんだ? 私の言うことを聞かず、もう一度軽率な行動をとったら、家族をこのままにしておかないぞ。なんであちこち出歩いては共和国の悪口を言って回っているんだ。家族を殺されなければ分からないのか? 録音された奥さんの言葉を聞いただろ。 何と言っていた? 統一運動に励めと言っていなかったか? そうしてこそ問題も解決するというものだ。なぜ前向きな論文を書き、新開や学術雑誌に発表しようとしないんだ。そうせずに、統一運動を誹謗中傷して歩けば家族が死ぬことになるんだぞ」「私が統一運動を誹謗して歩いているなどと、誰が言っているのですか? 私がいつ北の悪口を言いましたか? もしも私がそんなことを言ったとしても、馬鹿にされるだけです。好きこのんで北に行き、いくらもしないで逃げてきたわけですからね。
前にも言いましたが、私と家族を交換するという条件でなら、平壌に行きます。ブライデンシュタインも北にいる家族のもとに帰って、一緒に強制収容所で生活すれば、三人の力とひとりの力を合わせる以上の、何百倍もの力になると言いました。しかし、断りました。
ブライデンシュタインは金日成が築いた北朝鮮の体制を、自分の反帝思想、社会主義に対する憧憬のおかげで誤って評価しています。彼は私を何度も勇気のない人間と非難し、さらに、こんな勇気のない者にはどうすればいいのか分からないと言いましたよ。彼のこの言葉を聞いて、私みたいな卑怯者は家畜のように屠殺してしまうべきだと答えました。馬鹿げた自虐趣味とお思いになるかも知れませんが、これは私の偽らざる心境です。今まで先生のお力で家族を生かしでおいでくださったことには感謝します。でも、たった今、家族を殺されなければ分からないのかとおっしゃったことに対してはもっと感謝します。家族も、尹先生の思いのままに抹殺してください。こんなに苦しめられながら、生きていかなければならないのなら、むしろ死んでしまったほうが幸せでしょう?」
ずっと我慢して、腹のなかに貯めていた思いを吐き出してしまった。しかし、明らかに失言だった。覆水盆に返らず。もう取り消すことはできない。
「この忙しいのに、私がそんな豚も食わぬようなたわごとを聞くためにおまえを呼んだと思っているのか」
それまで黙って座っていた李水子が、とうとう夫の肩を持とうと口を開いた。
「いいこと、呉博士。ブライデンシュタイン牧師は本当に立派な方ですわ。あなたにそんな失礼なことを言うことが許されて?」
彼らの意図がはっきり分かった以上、もう彼らの顔を見たくもなかった。この夫婦とはもう何を話しても無駄なのだ。とにかく一刻でも早くこの家を出たかった。
「それはそのとおりです。先ほどのは私の失言でした」
すると尹伊桑も少し声を和らげで言った。
「呉博士、今度入北する時は、拉致されたというような印象を残してはいけない。ドイツ当局に、自分の意志で北朝鮮に帰るのだということを確実に伝えておくように」
「そうします」
妻と子供たちの肉声が録音されているテープと写真が入った封筒をつかみ、私は立ち上がった。
「今日は帰ってゆっくり休みます」
「そうしなさい。決心したからには、いろいろ整理して行かなくてはな」
私は靴を履くのももどかしく、恐ろしい悪霊の家を飛び出した。漆黒の闇に沈む西ベルリンの金持ち村を一刻も早く抜け出すため、前も見ずに駆けた。そして大通りに出た時、悪霊の沼からどうにか逃げ出せたと思って私は道端にへたりこんだ。

それからも、尹伊桑は私にたびたび電話をかけてきたり、人を寄こして北へ帰るように説得した。しかし、私はこれ以上彼におもねり、懇願するのはやめようと決心した。そう決心した時、私は無念さがこみあげてきて涙が止まらなかった。こうなっては、家族を救うために何をすればいいかは明らかだ。我が祖国・韓国に帰り、過去の罪の償いをした上で、祖国の力で家族を取り戻す以外に方法はない。
真っ先に一肌抜いでくれたのは李三悦教授だった。彼は呉吉男を救ってくれと韓国大使館の公使や参事官に働きかけてくれた。それ以外にも、多くの人たちが私を祖国に返すために努力してくれた。ひとりひとりの名を挙げることは控えるが、とにかく私のために尽力してくれたすべての人に感謝している。彼らに祝福のあらんことを!




地方政治家向け 朝鮮学校無償化に反対する卒業生や元教員、在日朝鮮人の声 

└ 2017-02-22 17:05

2017年2月14日に滋賀、京都、和歌山の知事と県議・府議に次の要請文を2017/2/14に送付。
大阪府の知事と府議(大阪維新のみ)、大阪市の視聴と市議(大阪維新のみ)にも送付。

意図は、朝鮮学校の子供が北朝鮮と朝鮮総連に政治利用され、学ぶ権利を侵害されている実態をしってもらいたいため。


地方政治家向け_無償化に反対する在日の声.pdfをダウンロード

美濃部 亮吉  金日成首相会見記(雑誌「世界」1972年2月号) 

└ 2016-04-10 10:44

金日成首相会見記(雑誌「世界」1972年2月号)

美濃部 亮吉

[編集部まえがき] 東京都知事美濃部亮吉氏は、さる十月二十五日から約三週間の日程で、朝鮮民主主義人民共和国と中華人民共和国を訪問した。この旅行はさまざまな面で関心を呼び、大きな波紋を招いた。しかし、最も注目さるべきは、美濃部氏が東京都知事としてはじめて公的に朝鮮民主主義人民共和国を訪ね、金日成首相と二度にわたって会見したことであろう。とりわけて、その会見内容は、これからの日朝関係の展望においてきわめて重要な意味をもつものである。本誌は、朝鮮民主主義人民共和国および美濃部知事のご厚意を得て、その会見記録の全文を掲載することができた。
 なお、第一回の会見は、十月三十日、平壌市の中心部にある朝鮮民主主義人民共和国内閣庁舎で、昼食会をはさみながら約四時間半にわたって行われた。第二回は、翌三十一日昼、美濃部知事の宿舎、モランボン迎賓館に金日成首相が訪ねておこなわれ、この昼食会には、金第一副首相および美濃部知事に同行した小森武氏らが同席した。
 会見記録中の小見出しは、編集部の責任による。

一九七一年十月三十日
午前十時―午後一時十五分
於 平壌市 万寿堂議事堂

 金首相 日本の記者のみなさんは、はじめての訪問なので写真をたくさんとるようですね。
 美濃部 これからひきつづきもっと訪ねるようになるでしょう。
 金首相 それはよいことです。たばこをどうぞ。
 美濃部 わたしはたばこを吸わないもので……
 金首相 わたしはまず美濃部先生を団長とする一行のわが国訪問をありがたく思います。きょうこうしてあなたに会えたことをたいへんうれしく思います。
 わたしはあなたがたとは初対面ですが、在日本朝鮮人総聯合会の韓徳銖(ハン・ドクス)議長と金炳植(キム・ビョンシク)副議長を通じて、あなたがたが在日朝鮮公民の事業に多くの支援をよせておられることをよく知っています。わたしはあなたと初対面ですが、あなたがたがわれわれの親友である韓徳銖議長とは旧知であり、親友であるため、日本人民の使節であるあなたを単に東京都知事としてばかりでなく、親友として迎えます。たいへんうれしく思います。
 このたびのあなたがたのわが国訪問は、朝鮮人民と日本人民との親善をつよめる上で大きく寄与することと思います。
 話しあいに入る前に、まずわれわれの同志を紹介します。(同席の幹部を紹介したあと)
 健康の具合はいかがですか。
 美濃部 ありがとうございます。わたしたちは貴国に到着してからいろいろ配慮していただき、たいへん気持ちよく、健康にすごしております。いま東京は、空気もよごれており、水もにごっておりますが、みんな平壌(ピョンヤン)の清潔さと美しさに驚嘆しております。
 金首相 それはどうも。

訪朝の目的――美濃部知事

 美濃部 わたしはこのたび貴国を訪問することになりましたが、実は、五年前、わたしが東京都知事になったときから、できるだけ早く朝鮮民主主義人民共和国を訪問しようと考えていました。そうしてやっとこのたび貴国訪問が実現しました。今度わたしは三つの目的をもって訪ねて来ました。ひとつは、戦前に日本が朝鮮人民にたいしておかした数多くの過ちについて心からお詫びすることです。
 わたしは一千百万の東京都民と、そして一千百万都民と志を同じくする日本国民を代表して、朝鮮民主主義人民共和国を代表しておられるキム・イルソン首相に心からお詫びの気持を申上げるものです。これが、わたしのこのたびの訪問にあたっての第一の目的です。
 二つ目は、東京と平壌、日本と朝鮮民主主義人民共和国はきわめて近い距離にあります。このように近い両国であるにもかかわらず、いまのところ日本から平壌に来るのに二〜三日もかかる不自然で非合理的な状態にあります。それで一日も早く両国の関係を政治面で正常化し、文科、経済など各分野での交流を進めることが、アジアの平和を確立するための大きな問題の一つになると思います。そのため貴国と日本との関係を正常化するうえで何らかの寄与はできないものかというのが二つ目の目的です。
 三つ目に申上げたいことは、わたしは、一九二五年に大学を卒業して以来約四十余年間マルクス経済学を勉強してまいりました。それ故にわたしは社会主義者であり、社会主義の実現を理想とする人間です。したがってわたしは戦争には絶対反対です。
 もちろんわたしは、キム・イルソン元帥がなされたような活動はできませんでしたが、日本国内でわたしのなしうることはやりましたし、反戦運動をやったという理由で二年間も獄中につながれたこともあります。わたしは今でも戦争には絶対反対であり、帝国主義に反対する立場にたっています。このような立場にたっているわたしとして貴国ですすめられていつ社会主義建設の早いテンポに非常な尊敬の念をいだいてきました。それで、直接自分の目で社会主義建設の状況を見たくもあり、また直接自分のからだで感じとってみよう、このように考えてきました。いうまでもなく、貴国と日本は社会主義と資本主義という体制の異なる国であります。しかし、貴国ですすめられている社会主義建設が多くの点でわれわれにとってたいへん参考になるものと考えますし、その実際を見ることができることをうれしく思います。
 一昨日からいろいろなところを参観しています。工業農業展覧館、キム・イルソン総合大学を参観しましたし、昨夜は、歌と舞踊を見物しました。わたしは、お世辞でいうのではなく、キム・イルソン首相の指導されておられる社会主義建設にはまったく頭がさがるばかりで、感心しています。
 金首相 ありがとうございます。
 美濃部 わたしといっしょに来た小森君とも話したのですが、資本主義と社会主義の競争では、平壌の現状を見るだけで、その結論は明らかです。われわれは、資本主義の負けが明らかであると話し合いました。
 これから残っている数日間に、できるだけたくさん見てまわり、非常にこんな状況にある東京都の建設にわれわれが利用できるものは、できるだけ利用したいという考えをもっております。わたしたちはいろいろと配慮していただいていることについて心から感謝の意を表するものであります。
 金首相 わたしはまず、あなたが朝鮮人民にたいし好意をいだいており、朝鮮民主主義人民共和国にたいし友好的で親善的な態度をいろいろ示されたことに謝意を表します。韓徳銖議長の報告によれば、あなたは東京都知事に就任して以来、帰国事業やとくに朝鮮大学校の認可問題について、朝鮮人民のためになる良いことをいろいろして下さったということです。そういうわけでわたしはあなたの仕事を高く評価するものであり、また、朝鮮人民にたいし親善と友好にみちた熱い心情を抱いていることをありがたく思っています。
 このたび、あなたがわが国を訪問することによって、両国間の関係をいっそう密接にすることができ、また、直接美濃部先生にお会いできたことをうれしく思います。
 わたしは、あなたがたのわが国訪問の目的について十分理解しています。
 われわれは、あなたがたのわが国訪問の目的を支持します。さきほど美濃部先生が、戦前に日本人が行ったことについて朝鮮人民に詫びるといわれましたが、日本人民としてはわれわれに詫びることはありません。日本人民が朝鮮人民を侵略したのでもなく、朝鮮を侵略したのでもありません。それはあくまで日本帝国主義反動集団のしたことであって、日本人民がしたものだとは考えておりません。もちろん、宗主国であったため、そのようなすまないという気持をいだくかも知れませんが、朝鮮人民も、日本人民も、人民はすべて善良でよい人民であるため、朝鮮人民と日本人民の間には、謝罪すべきこともなく、敵味方になるはずもありません。あるとすれば、日本帝国主義者がおかした犯罪的な行為があるだけです。これは過去においてばかりではなく、これからもありうることと思えば、朝鮮人民は日本人民と、過去にそうであったように今後とも親善的な関係を維持しなければならないと思います。われわれはこの問題について、このように理解しています。
 私は日本帝国主義に反対して数十年間たたかいましたが、日本人民に反対してたたかったことはありません。われわれはつねに日本の共産主義者、社会主義者たちと手をたずさえてたたかいました。
 さきほど、美濃部先生がマルクス主義者、社会主義者として活動してこられたといわれましたが、これはよろこばしいことであり、同志であると認めます。
 われわれはいまでも、わが国の人民に過去について話す時、日本帝国主義と軍国主義にたいしては、反対しなければならないといいますが、日本人民とはどこまでも親善関係をたもたねばならないと教育しています。そういうわけなので、あなたがたがわが国の各地を参観される過程で、朝鮮人民が日本人民の使節であるあなたがたをいかに熱烈に歓迎しているかを身近に感ずることができると思います。
 美濃部 キム・イルソン首相のお話しを聞いて大変うれしく思います。なぜなら、キム・イルソン首相が話されたように、東京都民もそうですが、日本国民の大部分が戦争に絶対反対し、平和を支持する人びとであると確信しているからであります。
 ことしの四月、わたしが再選された選挙のさい、第一に民主主義をめざす憲法を守るべきであること、第二に平和を守るべきこと、第三に佐藤内閣の軍国主義政策に反対しなければならないこと、この三つを中心スローガンとしてたたかいました。その結果、有権者の六五%がわたしに賛成投票しました。これは東京都民がいかに戦争を憎み、平和を愛しているかを示すものだと思います。しかし、国家としての日本は、平和をめざし、戦争に絶対反対する国だとはいえません。今日の状態からして残念ながらそうとはいえません。みなさんの指摘されるように、軍国主義的傾向がさまざまな面にあらわれているのは否定しえない事実であります。
 しかし、同時に戦前の情勢とはかなりちがっていると思います。戦前とかなりちがっているというのは、二つの点で申しあげられます。
 まず、戦後数十年間、日本国民の間に民主主義が広がり、民主主義を望み民主主義はいいものだと考える気持がつよまっていることです。それは、さきほども申しあげたように、戦争を憎む気持が日本国民の間に多いことをも意味しています。
 つぎに、日本社会党と日本共産党の支持をうけているいわゆる革新勢力が強くなり、革新的な地方自治体が県、市、村でたくさん生れていることです。これらの勢力は戦争に反対しています。これらが団結すれば、平和を維持するのに大きな力になると思います。このような情勢は、戦前にはなかったことです。いまは戦争勢力も存在しますが、戦争に反対し、平和を望む勢力も力をつけ強くなったことが、こんにちの実状であると思います。
 わたしは、革新的な自治体のなかでももっとも大きな存在である東京都の政治と行政を担当しているわけですが、日本の平和勢力と戦争反対勢力を拡大発展させる上で、東京都が重要な位置としめていると考えています。その意味でわたし自身は大きな責任を感じています。そして、わたしは、なんとしてでも、日本が戦争の方向に進まないようにしなければならないと考えています。
 このたび貴国と中国とを訪問するようになったのも、この二つの国が社会主義国であり、平和を愛している国であるため、これらの国の実態を東京都民と日本国民とに正確に伝えることが、日本国内の平和勢力を強くするのに寄与することになるものと考えたからであります。これも私の目的の一つにはいっているのです。
 金首相 まったくその通りです。われわれは、今日の日本人民が過去の日本人民でないことをよく知っています。したがって、日本人民が少数の反動分子、支配層の戦争策動と軍国主義的な戦争政策にたいしブレーキの役割を十分はたしうるし、またそれを破壊しうる力量に成長していることもよく知っています。
 われわれは、一貫して、日本人民が平和、独立、自主、中立をかかげてたたかっているのを支持声援しています。この点で、美濃部先生の所感はわれわれと完全に一致していると思います。
 われわれは常に、民主主義、中立、自主の道をめざす日本人民の闘争に大きな意義をみとめており、アジアで日本軍国主義が復活し再び侵略勢力として登場できないよう、これに反対してたたかうことが非常に重要なことだと考えており、それがアジアの平和に大きく寄与するものと考えています。とくに、日本の東京都民があなたのような、いわば、自主と独立を主張し、また帝国主義に反対する、そういう進歩的人士を東京都知事に推戴し、六五%以上の賛成投票をしたということですが、これは、東京都民がいかに平和愛好的であるかをよく物語っています。われわれはこの事実に感嘆しています。これはよいことだと思うし、こんごさらに団結して闘争をうまくおこなえば、日本軍国主義の侵略的行動を阻止することができると思います。あなたに賛成投票したのが六五%だということですが、実際にはもっと多いかも知れません。内心では賛成しながら棄権した人もいるだろうし、また圧力によって別の方向についていった人もありえます。このような人びとをみなあわせるならば、もっと多くなるだろうと思います。
 美濃部 いくらそうだとしても、キム・イルソン首相がうけておられる程の支持をうけることができません(笑)。
 金首相 とんでもありません。
 わが国は、社会主義国です。わが国の人民は、八・一五解放後二十年の間、民主主義的で社会主義的な教育を受けており、社会主義制度を熱烈に擁護しているので日本のように複雑な状況にはおかれていません。しかし反対するひとが全くいないとは思いません。世の中にそういう例はありません(笑)。
 美濃部 わたしには、反対者が全くいないように思われます。いくらか反対者はいるのですか?
 金首相 それはわかりません。
 この二十年の間に新しい世代が育ちましたが、この新しい世代は社会主義教育をうけているので、みなわが社会主義制度を熱烈に擁護しています。
 わが国にはいまだに統一戦線体が存在しています。民主党もあり、青友党もあり、他の党もあります。かれらとの統一戦線はうまくいっています。われわれは社会主義制度をうちたてましたが、この社会主義制度に反対する人びとは極めて少数です。
 帝国主義に反対する立場はみな徹底しています。帝国主義に反対しない人は一人もいないと思います。というのは、かつて朝鮮人民は被圧迫民族であったからです。このような点からみて、帝国主義に反対することでは共通しています、現在、社会主義建設においても、一致団結してすすんでいます。

社会主義建設の現状

美濃部 わたしは、自分の国である日本の東京にいる時は、わたしひとりを護衛するため朝から夜おそくまで何人ものガードがついています。そのため、わたしには自由に行動するゆとりがありません。
金首相 わが朝鮮民主主義人民共和国では、思想教育をまんべんなくりっぱにおこなっているので人民はみな団結しており、よくないことをするひとはごくわずかです。もちろん、いまのところ、わが人民の生活が裕福だとはいえません。しかし、わが人民は、食べるに困らず、衣服にこと欠かず、住む家があり、また学ぶ自由があり、治療をうける自由があります。いいかえれば職のないひとはひとりもおらず、衣食にこと欠くひともいません。そのため、お金にたいする関心があまりありません。食糧は無条件で与えるようになっています。もちろん、主食のほかに副主食をより多くとるかとらないかは、そのひとの生活にもよりますが、食糧は保障されています。着る物も保障されています。着る物に上等なものとそうでないものとの差異があるいはあるかも知れませんが、裸ですごしているひとはひとりもいません。また飢えているひともいません。働く条件がすべて保障されているので不安を抱くひとはいません。
またわが人民は夜は、戸締りしないで寝るのが普通であり、鍵をかけて寝るひとはいません。商店にもちょっと掛金をかけるだけで守衛はいません。わが国には泥棒はいません。
もちろん、いまのところ、わが国の商品の質は高くありません。それに供給も十分とはいえません。しかし将来豊かにくらせるということを十分に認識しているので他人をうらやんだりしません。
子どもたちも、父母のいない子はみな国で育てます。これらの子どもをみな中学校、技術学校まで通わせ、職場を斡旋してやります。
あなたがたが街にでてみればわかるでしょうが、靴みがきをする子どもはひとりもいません。たばこを売り歩く子どももいません。乞食はひとりもいません、なぜなら、そうする必要がないからです。われわれは、労働力が足りなくて心配です。ですからどうしてそうする必要がありましょう。他人のものを盗んでくるよりも、一時間だけ働けば生活が保障されます。わが国では働かなくても毎日米を四〇〇グラムずつ無条件であたえます。四〇〇グラムあれば生活が満足だとはいえませんが、暮らしてはいけます。
われわれは、農民から高く買い入れ、都市と工場の労働者階級に安い値段で供給します。農民から六五銭で買い入れ、労働者、事務員に八銭で供給します。食べる心配がないので悪いことをする必要がありません。
物価政策面でも、子どもと青年向けのものは安く売り、ぜいたく品は高く売る価格政策をとっているので子ども用の商品がでるとみんな買っていきます。そのため商店の品物が売り切れがちです。平均して、成人用の衣服より子ども用の衣服の方がずっと値段は安いです。五〇%も安いのです。こういう条件のもとでは不良な子どもがでるはずがありません。もっとも重要なことは、われわれが青年教育に力を入れていることです。父母が職場にでてはたらくため、夕方には先生が学校で子どもたちを組織的に教育し、復習もさせ家まで送ります。このような条件のもとでは不良な子どもがでるはずがありません。
さらに医者の区域担当制と人民班担当制が実施されているために、ここでも不平不満がでる余地はありません。
あなたはさきほど護衛する人のために自由に活動できないといわれましたが、きのう南朝鮮からきた同志のはなしによれば、南朝鮮の朴正煕が道を通るときにはサイレンをならし、三〜四時間も人民の通行を禁止するので人民の不満がつのっているとのことです。
われわれには、そういうことはありません。
わたしは歩きます。わたしは建設場へも歩いて行き、商店へも歩いていきます。しかしこれまでテロにあったことはありません。学校へも急にでかけたり、工場へもでかけます。しかしわたしを射つ者はいません。これまでわたしは事故らしいものにあったことはありません。それに人民は、わたしを射つ必要もありません。なんのためにわたしを射ちますか。わたしは人民のために服務しているので人民を恐れません。あなたもそうです。あなたが人民を恐れるのではなく、反動分子があなたを恐れるのです。
ここには反動分子がほとんどいません。わが国で反動分子がいなくなったのは、かれらをみな監獄に入れたからではありません。反動分子は戦争の時にその一部が南朝鮮へ逃げました。南朝鮮に反動分子がよりあつまってわれわれに反対しています。
ここにいた商工業者は、アメリカ帝国主義の爆撃によってみんな破産し、失業者になりました。われわれが共産主義、社会主義の政策をとって破産させたのではなく、アメリカ人どもがことごとく破産させました。そこで停戦後、かえって国が商工業者を助けてかれらの生きる道を開いてやり、協同組合を組織するようにしました。技術のある人は技術を提供し、知識のある人は知識をだして協同組合をつくるようにし、国ではかれらに長期貸付をおこなうことによって、かれらの生きる道を切り開いてやりました。そのためにかれらはわれわれに反対しません。
宗教者の礼拝堂もわれわれがこわしたのではなく、アメリカ人どもの爆撃のためすべて破壊されました。
宗教者たちは、はじめはアメリカのために祈りましたが、礼拝堂などを爆撃されてからは、アメリカに反対するようになりました。そのためかれらは「神」やアメリカために祈ることは全然しなくなったのですが、ではだれのために祈ったのでしょうか、朝鮮民主主義人民共和国が発展することを願って祈りました。
例をひとつあげましょう。ある宗教者の夫人が語った話を紹介します。夫は宗教家ですが、わが国の制度に反対しました。後退期に、アメリカ帝国主義が北朝鮮に残っていると原子爆弾をおとすというので、この脅かしとぎまん宣伝にのせられて彼は南に逃げました。
彼には、子どもがたくさんいたので暮らしもらくではありませんでした。それでおそらく毎日のように子どもを幸わせにしてほしいと「神」に祈りをささげたようです。
夫は逃亡しましたが、共和国ではその夫人の子どもたちに勉強をさせ大学にも行かせました。子どもたちはみな大きくなり成長しました。そこで夫人が子どもたちにむかってなんといったでしょうか。おまえたちの父親は「神」を信じ、アメリカを崇拝して南朝鮮へ逃げたけれども服一着くれたわけでもなく、おまえたちに勉強させることもできなかった、しかし、現在おまえたちは朝鮮民主主義人民共和国の社会主義制度のもとで中学校を終え、技術学校を卒業し、大学も出た。それだから永遠に朝鮮民主主義人民共和国を支持し、りっぱに生きなければならない、このようにのべました。この夫人もキリスト教を全く信じなくなりました。このようにわが国では、宗教者がいなくなりました。老人の間には、部分的に信者がいます。
この問題についてもうひとつの実例をあげましょう。ここから遠くないところに大同郡というところがあります。わたしは停戦後、復興建設のため一度そこをおとずれたことがあります。ところがそこには牧師が一人いました。いまの彼は熱誠者ですが、戦争前にはわが国の制度に反対しました。土地改革法令にも反対し、その他の民主改革にも反対し、そのうえアメリカのためにたえず祈っていました。戦争がおこって、一部地域から後退するさい、かれの家にアメリカ人がきました。かれは真っさきに信者をひきつれて旗をかかげ、アメリカ人どもを歓迎しにでかけました。かれはアメリカ人を「神」のように信じていたのですが、アメリカ兵は、はいり込むや否やジープの上からカービン銃でにわとりを打ち、婦女子を見ると、「ガール」、「ガール」と叫びながら追いまわし、ついには牧師の娘を凌辱しようとつかみかかりました、そのためかれは、アメリカを崇拝する思想をすっかりすてさりました。かれは、わが人民軍が反撃に転じた時、自分が以前にわが国の制度に反対していたことを告白し、これからはわれわれを支持するといいました。したがって宗教もわれわれがほろぼしたのではなく、アメリカ人どもがすっかり破壊したのです。そのためにわが国には礼拝堂がないのです。
イタリアやフランスからわが国を訪れる民主的な人たちが教会を見たいといいますが、わが国には教会がありません。
美濃部 儒教、仏教のお寺などもありませんか。
金首相 寺はあります。
美濃部 しかし、あまり見かけませんね。
金首相 儒教寺院は平壌市内にはなく、遠い農村に行けばすこしあります。農村には昔のままの家があります。ところがいまの人たちは儒教を信じません。過去、儒教を信じていた人たちもみな年をとりました。若い人たちはみな現代教育をうけているので、儒教には関心がありません。
もちろん、わが国は戦争によってひどく破壊されましたが、アメリカ帝国主義が犯したこのような罪悪のために社会主義建設はいっそうやりやすくなりました。
農村の協同化も、わが国では容易に行われました。あなたはマルクス・レーニン主義を研究したのでよくご承知でしょうが、ロシアでは協同化を実現するにあたって大きな難関にぶつかり、激しい闘争がくりひろげられました。このことは作家ショーロホフの『開かれた処女地』という小説によってもはっきりと知ることができます。この小説の内容をみると非常に複雑です。
われわれは、ロシアの複雑な闘争経験を参考にしました。ところでわが国には容易に行える条件が一つありました。それは、戦争によって農村が破壊されたことです。アメリカ帝国主義が農村にまで無差別爆撃を加えたために、富農がみな破産しました。したがって富農たちの敵はアメリカであって、われわれではなかったのです。そこで私たちは停戦直後、すぐに協同化の問題を提起しました。
わたしは一九五五年に四月に発表したテーゼで協同化の問題を提起しました。当時なぜ、わたしがその問題を提起したかといえば、農村がまったく破壊されたからです。
レーニンも、機械化がなされていなくとも協同化をおこなえば大きな力になるとのべたことがあります。われわれは、この点を考慮に入れ、富農が復活したあとで協同化を行なうよりも、みんなのくらしが苦しい時に協同化を行なう方がよいと考えました。当時、富農といってもなにももっていませんでした。もっているものといえば土地だけで、生産道具はありませんでした。われわれが一九五五年四月テーゼで協同化問題をうちだしたときある国ではわれわれに工業化も行わずに、どうして協同化ができるのかとひぼうしました。工業化水準の高いヨーロッパ諸国でさえ協同化を実現できないでいるのに、なんにもない朝鮮がどうして協同化を行なえるかといいました。
しかしわれわれは、かれらのことばに耳をかさず、教条主義をおかすわけにはいかないといいました。なぜならば、わが国農村の実情は、力を合わせてやる方がいっそう有利だからでした。一部の富裕な中農のなかには破産せずに残っているのもありました。しかしわれわれは、かれらを強制的に協同組合に入れたりはしませんでした。われわれはどこまでも競争の方法で進めました。われわれは、貧しい人びとから先に協同組合を組織するようにしました。当時は牛も、農機械もない条件のもとで力を合わせなければなりませんでした。青年たちそろって軍隊に入っていたので、農村には婦女子と老人しか残っていませんでした。
そのため力を合わせなければならなかったのです。国家では協同組合を組織する人たちを優先的に支援しました。銀行でも、かれらに長期貸付をおこない、個人農には短期貸付しか与えませんでした。
さらに税金政策面でも、協同組合からは少なくとり、個人農からは多くをとりました。こうするのには、合理的な理由があります。協同組合の人たちは生活が苦しいので税金を少なくし、ゆたかな富農には生活が楽なので税金を多く納めよというものでした。
国家ではトラクター賃耕所を組織して、協同組合に生産道具を供給し、個人農は牛で耕すようにしました。こうした結果、貧しい生活をしていた人びとで組織された集団の生活水準がいちはやく向上しました。このように協同組合は、個人中農よりもすぐれており、生活条件もかれらよりよくなりました。
美濃部 農産物は現物で分配をうけ、組合員たちが個別的に売るのですか。
金首相 分配をうけて売ります。農民たちは現物の分配をうけるほか、現金の分配もうけます。いいかえるならば、米も与え、その他の収入として現金を分けあたえるのです。例をあげれば、ある家で米四トンをうけとったとすれば、その中から自家消費分として一トン半か、二トンだけを残し、あとは国に売ります。各郡には収買所があり、里には収買商店があります。里収買商店では工業製品もあります。農民たちは、その商店に米を売り、工業製品を買います。これは強制的におこなうのではありません。買いつけは自由です。一部の都市には農民市場もあります。郡にも農民市場があります。大きな都市にはありません。郡には収買所があり、里には収買商店がありますが、価格は同じです。
農民にとって米が不足していれば闇市場が生まれますが、米が豊富なので闇市場がありません。国家市場ですべて買えるのに、どうして裏で高く買うでしょうか、裏で買う理由はありません。
われわれの商業政策は、工業製品の価格を都市、農村を問わず同じくすることです。同一の価格です。マッチ、たばこも価格が同じです。しかし、協同農場で農民か手工業的につくった一部の品物は、かれら同士で価格を定めます。
美濃部 工業においても私企業というものは全くないのですか。
金首相 私企業というより、協同経営があります。個人経営はありません。なぜかというと、先程ものべたように、個人企業がすべて破壊されたからです。都市という都市はすべて破壊されました。平壌もすっかり破壊され、三〜四軒の家しか残っていませんでした。商店も工場もすべて破壊されました。そのためにわが国の社会主義建設を比較的順調にすすめることができたのですが、このことが他の国と異なる特徴的な点です。
社会主義建設で商工業者たちがわれわれの恩恵をうけこそすれ、被害をうけたことはありません。したがってわれわれに反対する派はありません。商店、工場などが残っていたならば、われわれに反対する人びとが多かったでしょうが、そういうものがなかったので反対する人たちもいません。
協同経営をおこなう工場も国家の恩恵をうけています、日本から帰国した人たちの中にときたま個人資本をもってくる人もいます。その人たちも個人企業をしにくるのではありません。かれらは、自分たちがもってきた財産を国に売り渡し、その金を銀行に貯金しておき、利子だけでも一生暮らすことができます、一部のものは朝鮮総聯に寄付してくる人もいます。個人企業といえば、ただこういうものがあるだけで、新しく生れるものはありません。
われわれは、日本で企業管理をしていた人たちを企業所の支配人、あるいは副支配人に登用します。かれらは、みな適材適所ではたらいています。わが国では社会主義制度がこのような形で発展してきました。いうなれば農業の協同化も、都市における協同化も、他の国よりも順調にすすめられました。それは、われわれがかれらの利害をおかさなかったからです。そのため、かれらはわが国の制度と国家にたいして不満を抱いていません。

青少年に対する教育――三つの方向

美濃部 朝鮮と日本、あるいは社会主義と資本主義の間で一番大きな違いがどういう問題であるのかということですが、日本やアメリカなどでもそうですが、資本主義国では政治にたいする不信感が非常に強いものになっています。そのために結局は、アヘンを吸い、麻薬をうつという現象などが生じています。
ところが、いまキム・イルソン首相が言われたように、社会主義国、とくに貴国では首相を中心とした社会関係が確立されており、国民の政治への信頼がきわめて厚い。これが社会主義と資本主義間の差異、とくに貴国と日本との根本的差異ではないだろうかと思います。
ソ連も革命以後、反革命勢力が強くなり、レーニンは「一歩前進、二歩退却」とする戦術を使わざるをえなくなりました。しかし朝鮮民主主義人民局和国では社会主義建設が非常に円滑にすすめられています。これは実に驚くべきことであると思いますが、いま金日成首相のお話しをうかがってみると納得がゆきます。
わたしたちが特に感ずるのは、貴国の青少年たちが金日成首相と一体となり、朝鮮民主主義人民共和国の建設に全力をつくしていることです。日本やアメリカの青少年たちは、政治的関心が次第にうすくなっているか、全く無関心であり、はなはだしくは虚無的におちいる傾向があります。こうした傾向は資本主義が退廃していくのと関連しているものと考えます。ほんとうに憂慮せざるをえない傾向だと思います。このような点で、社会主義国、とくに朝鮮民主主義人民共和国をうらやましく思います。
金首相 ありがとうございます。わが国でおこなっている青少年たちにたいする社会主義教育問題について少しのべたいと思います。
青年が腐敗するのは必ずしも資本主義のもとだけではなく一部の社会主義諸国でもそうした現象がおきています。われわれは多くの国の共産党幹部に接触もし、話もするのですが、或る国の共産党幹部たちは、豊かになれば自然にそうなるのだといいます。
さいきん、ある共産党の代表が、このような話をしながら、わたしにたずねました。わたしは、そのような考えは正しくないといいました。いま社会主義諸国で青少年が堕落するのは、資本主義から社会主義へ移行する過渡期において文化、思想活動をりっぱに行わなかったために生じたものだとのべました。
ことしある国の代表団がわが国を訪問しましたが、われわれと教育の問題でいろいろと意見を交わして帰りました、この問題は、非常に重要です。なぜなら、世界に社会主義が建設される前に、世界革命をなしとげる前に、中途で社会主義国の青年が腐敗するのは非常に危険だと思われるからです。青少年にたいする教育をよくおこなわないで、これに注意を払わないと、青少年は腐敗してしまうと思います。
われわれは、物質生活の一面だけを強調するからといって社会主義建設がりっぱに行われるとは思いません。われわれが朝鮮労働党第五回大会でもいったことですが、資本主義から社会主義・共産主義に行く途中で二つの要塞をともに占領しなければなりません。つまり思想的要塞と物質的要塞を占領しなければならないとのべました。そのうちのひとつだけを占領したのでは駄目だといいました。このことについてはこれまでもいろいろのべてきました。
ある国の人びとは物質的生活さえよければすべてがうまく行くと考えています。マルクスやエンゲルスが示した共産主義の原理によれば、共産主義社会とは、自分の能力の限り働き、自分の要求するものがすべて与えられる、そのような社会だといいました。もちろん、人民が豊かな生活ができるように物質的基礎をきずくための建設をしなければなりません。そうしてはじめて人民が自己の要求をみたすことができます。しかし同時に思想的要塞を占領しないと物質的要塞を占領することはできません。
社会主義国で大学生がデモをしたり、労働者階級がストライキをしたりすることがありますが、これは思想活動をよくおこなわなかったところから生じたものだと思います。もちろん、これは社会主義国の恥です。
物質的要塞とともに思想的要塞をも占領するためには教育全般を強くおしすすめなければなりません。さきほどのべましたように、わが国では青少年教育についてだいたい三つの方向をあたえています。ひとつは、過去の苦しい生活を忘れてはならないということです。過去、地主や資本家に圧迫をうけていたこと、また帝国主義侵略をうけたことを忘れてはいけないと教育しています。
今の青年たちはわらじがどんなものであるかを知りません。
美濃部 日本もそうです。
金首相 以前、私は軍隊にいって試験をしてみたのですが、小隊長たちが小作料が何であるかも知りません。これは祖国解放戦争後のことです。
新しい世代は小作料も知らず、わらじも知らず、わらぶき家も知りません。
これはなにを意味するでしょうか、過去の貧しかった生活を知らないことを意味します。そして過去に抑圧され、侵略されたことも知らないのです。いまわが国では「血の海」を公演しています。これはあなたがたに反対するものではありません。これを通してわれわれは日本帝国主義者が朝鮮人民を虐殺した蛮行について教育するのです。これは日本人民に反対するためのものではなく過去を忘れないようにするためのものです。
二つ目には、社会主義制度の優越性をもって教育することです。社会主義制度の優越性と社会主義愛国主義思想で教育します。これに共産主義道徳教育をあわせておこないます。利己主義、個人主義、個人享楽主義、機関本位主義、地方主義、分派主義、資本主義社会と封建社会のあらゆる余毒を取除くためあらゆる社会主義的愛国主義教育をおこないます。
三つ目には、南朝鮮を忘れないように教育します。以上にのべたことが、われわれの教育方針です。これとともに共産主義未来にたいする確信と信念で教育するようにしています。
われわれは、すべての活動に必ず思想教育を結びつけます。この前、日本の記者とも話したのですが、われわれは全民教育を実施しております。われわれは、国の手で十七歳まで、九年制義務教育を実施するだけではなく、高等教育をうけていようが、いまいが関係なく、全党が学習し、全人民が学習し、全国家が学習し、全軍が学習する制度をうちたてました。
美濃部 いわれる通り、過去を忘れないようにするということは大切なことです。日本でも、広島長崎に落ちた原子爆弾がどういうものであり、東京を焼夷弾で焼けばどうなるか、したがって再び戦争が起きてはならず、平和を破たんさせてはいけないといったことで青少年を教育しなければならないのですが、現在日本の文部省が実施している教育政策をみてみるならば、キム・イルソン首相のいわれたこととは全く逆に、過去のことは早く忘れてしまえ式に教育しています。学校の教科書をみても現に爆弾についての資料を次第に削除していますし、戦争に関する資料もできるだけ簡単にしなければならないといっています。こうした現状についてわたしは、非常に不安でなりません。というのは、これは日本を軍国化することと結びつきはしないかと思われるからです。
金首相 その通りです。

日朝友好と「日韓協定」

美濃部 キム・イルソン首相が導いておられるこのようにすばらしい国が日本のすぐ隣にあるという事実を日本国民と東京都民に知らせることは、日本を平和の道に進ませるもっとも大きな要因になると思います。こうした面からみて、できるだけ日本と朝鮮民主主義人民共和国間に国交関係が正常化できることを願い、もしそれがいますぐというわけにはいかないとしても経済、文化、体育などの分野において交流しあっていく事業はどうしても実現したいと思います。わたしは帰りましたら政府と話をしてこのことの実現につとめたいと思います。
こんどの訪問に際しても、努力すればある程度のことが実現できるということが改めてわかりました。このたびわたしが朝鮮民主主義人民共和国に来るときも、新聞記者の皆さんが是非一緒に行きたいと希望を提出したのですが、その際、日本の記者が貴国を訪問する以上、朝鮮の記者のみなさんも日本に行けるようにしなければならないとのべ、そのことを外務大臣に強く申し入れて説得しました。もちろん外務大臣が充分に答えたとは申せませんが、かなり考え方に影響を与えたと思っています。わたしはこんど帰りましたら、貴国と日本との交流を促進するためにできる限りの努力を払おうと思っております。
金首相 ありがとうございます。日本と朝鮮との国交樹立問題はわれわれにも興味ある問題だと思います。しかしこれには重大な難関がひとつあります。佐藤内閣のときだと思いますが、日本と南朝鮮の間に「日韓協定」が締結されたことです。その協定の第三条には朝鮮半島での唯一の「政府」は「大韓民国」であると指摘されています。これは佐藤内閣の侵略性を示すものであり、朝鮮にたいする内政干渉と見なすことができます。朝鮮が分裂している条件のもとでどうして「大韓民国」だけが唯一の「政府」となりうるでしょうか。もちろん「それ」にはこれが国連の決定によるものだとしていますが、国連というものはアメリカ帝国主義の指図のもとにうごく機構であります。
ですから国交を樹立するための運動とともに「日韓協定」を破棄する問題がともなわなければならないと思います。だからこそ南朝鮮の大学生や進歩的な人民が「日韓協定」に反対してたたかいました。わが朝鮮民主主義人民共和国政府声明でも「日韓協定」を認めず、無効であることを言明しました。もちろんそれが軍事同盟の性格を帯びるものではありません。しかし朝鮮半島での唯一の政権を「大韓民国」であると認めたことは内政干渉であり、「大韓民国政府」の「勝共統一」、つまり「北進統一」を手だすけすることになります。だから、それは、ひそかに侵略性を含んでいると考えられます。朝鮮半島における唯一の政府が「大韓民国」であるというのですから、朝鮮民主主義人民共和国を消滅させなければならないということにつながるのです。したがって、日本の反動内閣が三十八度線を鴨緑江の外におし上げなければならないといっているのは偶然ではないと思います。
わたしがあなたと日本の親友のみなさんにのべたいことは、「日韓協定」を破棄し無効にすべきだということです。なぜなら、それがわが国にたいする内政干渉であり、「大韓民国」の侵略性を助長し、わが国の分裂を永久化しようとするものだからです。もちろん信念にもとづいて一部の人は南朝鮮と取引きをし、また一部の人は朝鮮民主主義人民共和国と取引することができると考えています。進歩的な人士はわが国を訪ね、反動的な人びとは南朝鮮に行くでしょう。そうすることは信念上の問題から当然なことだといえます。
しかしわれわれは「日韓協定」第三条を朝鮮にたいする内政干渉だとみなすからこそ、朝鮮民主主義人民共和国と国交を樹立するためには「日韓協定」を破棄しなければならないと思います。
「日韓協定」を破棄しなければ、一八九四年に南朝鮮で農民運動が起きたとき、日本帝国主義者が「治安」を維持するという口実で、南朝鮮農民の運動を鎮圧するために入ってきたような条件をつくってやるのと同じことになります。
わたしは、日本の記者と話をしたときには、この問題にこれほどまでに深くたちいりませんでした。しかしあなたが進歩的であり、社会主義にもとづき、社会主義を志向する親友のひとりであるので、またこのような事実を日本人民と日本の親友に知らせる必要があると思い、お話するわけです。
朝鮮を承認する問題はまだ時期尚早です。
二つの朝鮮をつくってはなりません。われわれはこれに反対します。いま国交樹立のための運動を展開することも必要ではあります。われわれは日本でおこっているこうした闘争を支持し歓迎します。と同時に「日韓協定」で「大韓民国」を唯一の「政府」としたことを破棄するようにしなければなりません。
往来問題についていうならば、われわれは全面的に歓迎します。以前に帰国同胞を乗せた第一船がついたとき、一本の記者が大勢やってきました。そのときわれわれがまず譲歩して入国させました。その後日本政府はわが国の記者が日本に入ることに反対しました。はなはだしくはわが国の赤十字代表が日本の東京に行くことまで拒んでいます。新潟港の帰国船のまわりでだけ動けるようにし、他所には行けないようにしています。もちろん、だからといってわれわれは、日本の反動内閣がとっているのと同じような行動をするわけにはいきません。しかしながら、あなたもいわれたように、いつまでも一方的であってはなりません。それは、わが国の体面にかかわる問題です。日本の記者や人士は、わが国を自由に訪れ、われわれの方からはひとりも行けない、このような不平等な条件に甘んずるわけにはいきません。
それに、日本政府がとっている態度でいまひとつ正しくないことは、日本にいる居留民団の人たちには南朝鮮に往き来できるようにしながら、総聯の幹部は朝鮮に往き来できないようにしていることです。これは国際法上からしても正しくありません。日本にいる朝鮮民主主義人民共和国公民には、どうして自分の祖国に往来する権利がないというのですか。日本にいる韓徳銖議長は、日本で朝鮮民主主義人民共和国を代弁しており、積極的に支持するわれわれの同志であるのに、かれにまったく会わせようとしません。ですから、このように不平等で一面的な外交がどうしてできましょう。わたしは「朝日新聞」編集局長、「共同通信」記者と話したときには、ここまで深くはふれませんでした。問題を正しくとらえるならば、当然かれらに祖国に往来できる権利があたえられなければなりません。
日本の記者にもいいましたが、日本人がわれわれを恐れる理由はありません。共産主義の文献とマルクス主義の書籍は、日本で自由に出版されています。わが国から何人かが行って宣伝したところで、どれほど宣伝ができるというのでしょう。それに、ほかの国の共産主義者の入国は認めながら、どうして朝鮮の共産主義者の入国だけを禁止するのか、これは日本の反動政府が南朝鮮反動どもと結託してわれわれをまったく無視しようとするものであり、「勝共統一」のための共謀、さもなければ助長であるといえます。
日本は南朝鮮にたいしては「大韓民国」とよびながら、朝鮮民主主義人民共和国にたいしては、朝鮮民主主義人民共和国という呼称をつけずに北朝鮮としています。
日本がこのようにいろいろと差別待遇をする目的は、南朝鮮かいらいと結託して「日韓協定」第三条を朝鮮人民にむりやりにおしつけようとすることにあります。
最近、少しはよくなってきたようですが、これはあなたがたや日本の進歩的政党、社会団体と人民の闘争によるものだと思います。あなたがたは全権代表ではありませんが、東京都知事という地方全権代表としてこのたびわが国を訪問するようになったことは、朝鮮人民と日本人民との関係をいちだんと発展させるのに大きく寄与するでしょう。
われわれは、記者の交流、文化人の交流、また経済交流にも反対しません。しかし、われわれの方で、これを無理に要求はしません。互恵、相互主義の原則にもとずいてすすめられるならば、大いに歓迎します。

日朝交流の展望――経済・文化

美濃部 いまキム・イルソン首相が話されたことはまったく正しいことだと思います。私個人としては「日韓協定」が非常に不合理であり不当なものであることについてはよく知っております。また、総聯の人たちから、朝鮮民主主義人民共和国、即ち祖国との往来の不自由さからくる切実な問題についてもよく聞いております。わたしはこの不当な事態をなくするということにまったく賛成です。わたしはこういった事態を改善して自由な往来を少しでも実現できるよう一生懸命に努力したいと思います。
ところが佐藤反動内閣というのでしょうか、自民党保守内閣というのでしょうか、彼らは朝鮮民主主義人民共和国に対して不当な態度をとる以外ないのです。わたしはこれが実情だろうと思います。こうした事態を一日も早く解消しなくてはならないということは当然でありますが、最近になって情勢は若干好転しつつあるのではないかと思います。また、中国が国連で自己の正当な権利を回復し、中華人民共和国が唯一の正当な政府として認められました。こうした論理は朝鮮にも拡大されていくはずだと思います。すなわち朝鮮民主主義人民共和国も朝鮮を代表する唯一の正当な政府であるという考え方がつよまるのではないかと思うのです。
そうはいっても「日韓条約」がすぐさま廃棄される可能性はきわめて少ないので、そのことの実現にいたるまでには一定の時間がかかるだろうと思います。しかし辛抱強くわたしたちは努力したい、努力すべきだと思います。
そうした「日韓条約」廃棄までの段階として、文化、経済、新聞記者の交流、そして在日朝鮮人の人たちの往来の自由などを実現し、その積みあげで条約の廃棄までもってゆく。今回のわたしたちの訪問も、その第一歩です。
このたび日本の記者が貴国に入国できるようになったことに際してはすでに政府の約束をとってあり、朝鮮民主主義人民共和国の要人をお招きして、その方の訪日を受ける場合、その方に随行して記者がくるといえば、日本政府も承認せざるをえないと思います。このような方法で徐々に交流していき、やがては「日韓条約」を廃棄するところまでにもってゆきたいと思っております。
金首相 ありがとうございます。われわれはそれがすぐにできるとは考えていません。これも革命闘争ですから長期性をおびており、ながいあいだにわたってたたかわなければならないと思います。
美濃部 いうまでもないことですが、佐藤内閣が倒れたからといってすぐに万事が解決するというものではないでしょう。
金首相 その通りです。
美濃部 佐藤が問題なのではなく、保守党自体の性格が問題だと思います。
金首相 そうです。わたしは日本の記者たちに佐藤が倒れようが、第二の佐藤が登場しようが、それは日本内部の問題であるので関与しないといいました。問題は、佐藤でなくても反動的な政策を実施するのが正しくないのですから、朝鮮民主主義人民共和国にたいする政策自体を改めるようにたたかうことが重要であると話しました。
現在あなたがたがかかげている平和と民主主義、独立と中立のためにたたかうというスローガンは全面的に正しいものであり、また将来そうなるだろうと思います。民主的で中立的な日本を建設するのは、絶対に必要だと思いますし、われわれはそれを全面的に支持します。これは非常によいことだと思います。
わが国の事情については、すでに新聞記者たちにくわしくいっておきましたが、もっと知りたいことがありましたら聞いてください。
美濃部 昨夜わたしたちが音楽や舞踊の公演をみて考えたことです。日朝両国間で、一番交流しやすいのは、貴国の万(マン)寿(ス)台(デ)芸術団を招請し、同時に日本の芸術団を貴国に送ることです。これがいちばん実現しやすいのではないかと考えてみました。それをいつ頃実現さられるかと考えてみたのですが、首相のお考えはいかがでしょうか?
金首相 日本から招請さえあれば行かれると思います。この問題は「朝日新聞」編集局長がきたときに出されたと記憶していますが、かれは、具体的に百二十名ほど招請するといっておりました。これについて合意をみたとの話もあります。もしも日本が招請するならば、わが方は行く用意があります。われわれは、軍隊を送るのではなく、民間芸術団を送ろうというのです。万寿台芸術団は民間芸術団ですが、この芸術団を送ろうと思います。
美濃部 日本の芸術団を帰国に派遣する問題については、どうお考えでしょうか?
金首相 それに反対はいたしません。
美濃部 それが難しいとすれば、日本側の問題だと思います。
金首相 わが方には問題はありません。
このたびの訪問の機会にあちこちみて下さい。われわれは、いまも建設をさかんにおこなっています。人民生活をいっそう高めるため、いろんな方面で建設をどんどんしております。いたるところで建設がすすめられている状況を目にされるだろうと思います。今のところ、われわれには、いろいろな面で不十分な点がたくさんあります。それでいま大々的に建設する闘争をくりひろげております。
美濃部 現在はどの部門の建設に力を注いでおられますか。
金首相 まず電力工業部門、すなわち発電所の建設に多くの力を注いでいます。水力発電所と火力発電所などをたくさん建設しています。それに外国と契約して製鉄所も大きなものを建設しています。わが国では原油化学工業が十分に発達していません。いままでカーバイト化学工業を発展させてきましたが、六カ年計画の期間には原油化学工業に中心をおいて建設しています。いま主に化学工場をたくさん建設しています。原油加工工場もたくさん建設しています。
もっとも重要なのは、軽工業建設をさかんにすすめていることです。もともとわが国には軽工業の基礎がありませんでした。解放後、大いに力を注ぎはしたのですが、需要をみたすだけの軽工業には発展しませんでした。現在、軽工業を大々的に建設しています。
現在、日本の商人や外国の企業体がきて契約を結ぼうとしていますが、さいきん、アメリカのドルの価値が落ちているので、下手に契約すれば価格の上で損するのではないかとためらっているということです。そこでわれわれは日本のような国が、なにゆえドルを基本にしているのか、日本の貨幣とわが国の貨幣で直接計算することもでき、あるいは、小国ではあるが同様の少ないスイス・フランなどを標準にすることもできるのではないかといいました。
しかし、彼らはドル建てでやってきた習慣のせいでそうなのか、ドルで取引きしようといっていました。その後どうすすめられているのかはわかりません。
現在ドルの動揺がはげしく、危機が生じたため、ニクソンは「新経済政策」なるものを発表しました。日本はドル危機の影響をうけて相当苦境におち入っているようです。
現在、わが国は日本と小規模の取引は、たくさんしておりますが、大きな取引はまだ始められていません。われわれは自分で製作できない大型のものは、大部分ヨーロッパ諸国から買入れています。たとえば、発電機も大型のものはわが国でつくれないので、ヨーロッパの資本主義国から輸入します。小型のものはつくっているのですが、大型のものはまだつくれません。化学工場設備も大きなものはヨーロッパの国から買ってきます。日本との取引きがうまくいき、日本から買入れるようになれば、運賃も安くつき、お互いに好都合です。ところが、これがまだ解決されないので、大きな発展を見ることができずにいます。まえに日本に記者が書いたのを読んだのですが、朝鮮は近くて遠い国だといっていました。事実そのとおりです。
美濃部 おっしゃるとおりです。もし工場設備などを日本側が輸出する方針をとるとすれば、貴国では、それをうけ入れるものと考えてもよろしいでしょうか。
金首相 うけ入れますよ。
美濃部 わたしには、財界人の中にも知人がいますから、その人たちとよく相談してみましょう。
金首相 わが国の技術者たちは、日本から設備を買入れればヨーロッパ諸国から買入れるよりもよいともいっています。たとえば、昨年わが国は紡績工場設備を日本からとヨーロッパの国であるドイツから買入れましたが、日本から買ったものがヨーロッパから買ったものより、はるかによいといいます。ドイツのものが自動化の水準が高いという点もありますが、日本のものがわれわれの背丈に合うようにできているのであつかいやすく、便利だということです。また、文字も、われわれが日本語を教えるわけではないけれども、日本語に漢字がたくさんまじっているので、見るのに便利だそうです。われわれは日本の機会を買入れることに反対ではなく、賛成です。それを好んでいます。政府もそれを支持するつもりです。
美濃部 日本側がそれに見合って買入れる物資としてば、鉱物資源などがどうかと思うのですが……
金首相 鉱物資源も輸出できますし、わが国が生産するものは何でも提供することができます。われわれは大きな制限をもうけていません。というのは、わが国からこれらを買っていけないようにしたとしても、それは、日本軍国主義が復活するのを制限することができないだろうからです。買っていったにしても、何パーセントにもなりません。そのため、われわれは大きな制限をしないわけです。日本政府は戦略物資だといっておそれ、わが国にたいする輸出制限の措置をいろいろとっているようです。そうだからといって、わが国の経済建設を妨害することなどできるわけがないでしょう。
美濃部 おっしゃるとおりです。
金首相 それでは少し休んで昼食をいっしょにいたしましょう。
美濃部 ありがとうございます。

[以下は午餐会にて]
「義務教育を十年制に…」

金首相 わたしはながい演説をしようとは思いません。わたしは、美濃部先生と御一行のみなさんをいま一度、熱烈に歓迎するとともに、朝・日両国人民間の親善強化のため、美濃部先生と御一行のみなさんの健康を祝して、乾杯したいと思います。
美濃部 わたしはただ「ありがとうございます」という一言で、あいさつにかえさせていただきます。
金首相 魚の刺身はお好きですか?
美濃部 日本の刺身に似ていて、大変おいしいですね。わたしは、キム・イルソン首相がまだ山にいらっしゃった一九四〇年を前後にして約三年ばかり平壌(ピョンヤン)におりました。その当時の平壌と現在の平壌とは比較にもなりません。様子ががらりと変ってしまいました。
金首相 停戦になってから初めのうち、われわれは復旧建設の仕方をよくわかりませんでした。しかし、最初の街を建設し、つぎに二番目、三番目の街を建設していくうちに、だんだんとよくなりました。技術者もいなかったので、建設の途上で学び、実習しながら実践を通して少しずつ、改善していきました。
もともと、日本人は朝鮮人に技術を教えませんでした。日本統治の時期に、法律や医学を学んで弁護士や医者になった人は少しいました。しかし、その法律というのが天皇をあがめる法律なものですから、いまではなんの役にもたちません。朝鮮人の技術者はほんとに何人もおりませんでした。二十名ぐらいだったでしょう。いや、二十名にもなりませんでした。十五、六名いただけです。それも日本にいっていた人たちです。朝鮮にいた人は、技術を身につけることができませんでした。また、社会科学を学んだ人も少々おりましたが、それは改良主義社会科学なものですから、やはりいまでは役にたちません。
現在われわれは、自国の大学の先生をもっており、自国の技術者によって工場を運営しております。われわれは、民族幹部の養成に多くの力を注ぎました。
日本統治の時期、平壌に大同工専というのがありましたが、学生数はせいぜい二〜三百人にすぎませんでした。
美濃部 朝鮮の軽工業はどうですか。
金首相 北半部にはもともと軽工業基地がありませんでした。沙里院(サリウォン)に小さな紡績工場がありましたが、そこには五百錘しかありませんでした。南朝鮮には釜山(プサン)と仁川(インチョン)などに大きな紡績工場がありました。しかし、われわれには基礎もなければ、技術者もいないという、非常に困難な条件から出発した関係上、軽工業製品の質が向上しませんでした。技能、技術の指導が難点でした。
中国では上海、天津などに以前から軽工業が発展していました。中国にはある程度の技術者がいました。わが国とちがって、中国は完全植民地ではなかったので、民族的手工業があったのです。社会主義諸国の中で中国の軽工業製品がもっともすぐれています。
われわれは、六カ年計画の期間に軽工業を発展させようと思っています。
美濃部 製紙工業は以前からあったのですか。
金首相 製紙工業も、もともとありませんでした。日本の統治時期、王子製紙というのがありましたが、その生産能力は一千トン以下でした。現在では外国の力も借りて少しやっています。われわれは、いまフィンランドと契約を結んで製紙設備を買入れようとしています。ところがフィンランドでは大部分木材を原料としています。しかし、われわれは木材を建設に多く使わなければならないので、これも問題です。
美濃部 貴国には天然資源が豊富だということを聞いております。でも石油がないのがいちばんお困りではないのでしょうか。
金首相 石油がないから困るということはありません。われわれは、原油を中国からも買入れ、ソ連からも買入れます。さらに、エジプト、クウェート、イラクなどのアラブ諸国からも買ってきて使います。
わが国にない資源は、原油、コークス炭、ゴムです。
美濃部 工業農業展覧館を見て、貴国では人造ゴムを生産していることを知りました。
金首相 人造ゴムを生産するにはしていますが、大規模に生産しているわけではありません。六カ年計画の期間に大々的に発展させようと思っています。
美濃部 わたしたちは、昨日キム・イルソン総合大学を見学しました。ところで、キム・イルソン総合大学の学部が別々にわかれていて、いわば部分別大学になっているのですか。
金首相 いいえ、そうではありません。総合大学には専門学部がみな総合的にあります。この総合大学では、高い水準の理論と技術を学びます。総合大学のほかに工業大学があります。それに、各部門別に機械大学、軽工業大学なども別にあります。わが国には、道ごとに医学大学、農業大学、師範大学、教員大学、共産主義大学があります。共産主義大学というのは、党の働き手を養成する学校です。それに、鉱山の多い道には鉱山大学があり、炭鉱の多いところには石炭大学があります。このように地方によって水産大学もあれば、林業大学や海洋大学もあります。
美濃部 義務教育は九年制ですか?
金首相 そうです。わが国では勉強することが法的義務となっていて、勉強をしなければ国家的制裁をうけます。いまわれわれは十年制義務教育に移行する準備をすすめています。
美濃部 その九年間はどう区分されているのですか。
金首相 人民学校が四年間で、中学校が五年です。今後十年制を実施するようになると、人民学校を五年、中学校を五年にする方法もあり、あるいは人民学校を四年、中学校を六年にする方法もあります。われわれは、いま試験的におこなっているのですが、五年と五年にするのがいいのではないかと考えております。
美濃部 貴国には民族的な演劇がさかんなのですか。
金首相 現在おこなわれているのはみな民族的なものを基礎にしたものです。昔のものは封建色があり、当時の上層の者たちが好んでいたものです。われわれは現在、民族的形式に革命的内容を盛った芸術を発展させています。そこでは社会主義的リアリズムの方法に依拠しています。
美濃部 平壌には劇場が多いのですか。
金首相 多いですよ。
美濃部 映画館も多いですか。
金首相 映画館も多いですよ。市内にあるもののほか、工場や企業所、機関が所有しているものもたくさんあります。
美濃部 上映する映画は貴国の映画だけですか。外国映画は上映しないのですか?
金首相 外国の映画のなかでもいいものは上映します。テレビでも放映しています。外国映画は主に革命的なもの、教育的な意義のあるもの、歴史ものなどを上映します。外国との文化交流計画にもとづいて上映しています。
美濃部 首相が事務室で執務される時間はどれくらいですか。
金首相 わたしは昔から朝早く起きる習慣がついています。朝五時には起きます。出勤時刻は八時半ですが、それまで自宅で待っていて事務室に出かけます。夜早く帰宅したときには六時間ぐらい眠りますが、遅くなったときには四、五時間ぐらいしか眠れません。
わが国では、幹部はだいたい夜遅くまで働いてます。労働法令では、八時間労働制を規定していますが、幹部はもっと働きます。労働者はそうではありません。かれらは、八時間働いて家に帰ります。しかし、工場でも幹部は責任があるので早くは帰れないのです。
美濃部 首相は、工場や農村によく出かけられると聞いておりますが……
金首相 よく行きます。そうしてこそ、官僚主義や主観主義をおかさずにすみます。社会主義国で執権党が官僚主義と主観主義をおかさないためには、指導的立場にある働き手たちが工場や農村に出かけなければなりません。そうしてこそ、大衆の意見を聞くことができます。
ことしわが国では豊作にめぐまれましたが、天候がとくによかったから豊作になったのではありません。昨年、黄海南道で道党拡大総会がありましたが、そこへ幹部が出かけました。われわれは、この総会に当地の農民を参加させました。すると、農民のなかから田植えを五月二十日までに終えれば、一町歩あたり一トンないし一トン半を増収できるという意見が出されました。
党政治委員会ではこれを全国的に普及することにして、今年はその通りやってみました。その結果、豊作になったのです。これは、農民の意見を聞きいれた結果です。技術者とももちろん相談しなければなりませんが、それだけでは駄目です。革命というものは大衆のためのものですから、大衆の中に入って大衆とともにおこなわなければなりません。
金一第一副首相 首相が煕川工作機械工場の労働者の中に入って指導された結果、昨年に二千五百台しか生産できなかったこの工場がことしは年産一万台の水準にあがりました。
金首相 美濃部先生は、総聯の活動にいろいろと協力してくださっているようですが、今後ともいっそうのご協力をお願いします。
美濃部 できるだけのことはしたいと考えております。
金首相 われわれは韓徳銖議長に総聯が日本の法律に触れるようなことは絶対にしないようにといっております。それに、朝鮮人だけが団結するのではなく、日本人民ともよく団結しなければならないと強調しています。総聯の重要な活動は、祖国統一のための活動であり、在日同胞が朝鮮民主主義人民共和国を支持するようにすることです。それとともに、民族権利を擁護するための活動、とくに子弟の教育活動をりっぱに行なうことが重要です。美濃部先生は、朝鮮大学校の認可問題でわが国に広く知られています。先生は、今後とも、総聯の活動に協力してくださるものと信じます。もちろん、総聯自身が法に違反したなどというぬれ衣を着せられないように注意しなければなりませんが、あなたがたのような日本の進歩的な人たちがよく協力してくださればと思います。
美濃部 できるかぎりの支援を惜しまないつもりです。ところで、さいきん憂慮されるのは右翼学生らが総聯系の学校の学生に暴行を加えるという事件がひんぱんにおこっていることです。東京では近ごろこうした事件が少し減っていますが、大阪ではしばしば起こっているようです。
金首相 民族教育問題は重要な問題です。民族を形成する上で言語と文字は基本をなします。われわれは、韓徳銖議長と金炳植副議長が、つぎの世代に民族語を忘れないよう教育する事業を立派におこなっていると思います。この事業のため日本にいる同胞、とくに商工人たちが少なからぬおかねをだしています。
美濃部 よいことですね。
金首相 われわれは、美濃部先生の中国訪問問題を中国側に提起したのですが、すぐ返事がこなかったものですから、大使館を通じてちょっとあたってみました。すると、周恩来総理は、総聯の意見を尊重するといいながら、すでに東京に招請電報を送ったと知らせて来ました。われわれは、このことを大変うれしく思います。
美濃部 お力ぞえを下さいましてありがとうございます。
金首相 美濃部先生は、わが国の人民に非常にすぐれた人物として知られています。このたび、先生が反動どもの策動をはねのけ、わが国を先に訪問し、ついで中国を訪問するようになったことを、われわれは非常にうれしく思います。

一九七一年十月三十一日
十二時―十四時三十分
於 モランボン迎賓館
(知事主催答礼昼食会)

金首相 わたしは、この招待所に一年あまり来られなかったのだが、(壁にかかっている万景(マンギョン)台(デ)の風景画を指差しながら)あの絵はいいですよ。なかなかいい絵ですよ。
美濃部 あの絵をはずせば映画がみられるようにできています。昨夜、ここで『新しい朝鮮』という映画をみました。ところで、この建物はいつ建てられたものですか?
金首相 十五年ほどになります。一九五五年か五六年に建てました。成員の数が少ない代表団は、ここに多くとまっていました。いままで、スカルノ、シアヌーク、モディブ・ケイタ、コスイギン、周恩来など、多くの人がとまっていました。日本から飛行機にのって直接わが国にきたのはスカルノだけです。
美濃部 そのほかにもう一つあるのではありませんか。(笑)
金首相 それは、まっすぐにきたのではなく、ソウルを経てきました。あの事件当時、あなたがたも複雑だったでしょうが、われわれにとっても予想もしなかったことが起こりました。思ってもいなかった人たちがきたのに、日本の外務省からは送り返してほしいといってきました。われわれに、日本の警察の役割をはたしてほしいといってきたので、われわれは、それを認めることはできませんでした。直接きたのなら別ですが、途中で日本の飛行場に降りた時もどうすることもできなかったものを、われわれに捕えてほしいといいました。それは、無理な要求です。自国の警察でさえつかまえることができず、また、ソウルに降りた時にも、その飛行機がそこへ行くことがあらかじめ通報されていたにもかかわらず、どうすることもできなかったのに、われわれにたいして捕えてほしいといってきました。
その学生たちは、われわれにとってなんの必要もない人たちです。かれらがわれわれになんの必要があるでしょうか。なんの必要もありません。しかし、われわれは人道主義の立場から、かれらを送り帰すことはできませんでした。送り帰せば、かれらは日本の警察に逮捕され、監獄生活を送るようになります。かれらのうち二人が少しよくないだけで、そのほかは、みなすなおな者たちです。将来、両国間の関係が正常化されれば、かれらも日本に帰るでしょう。われわれは、かれらに君たちを逮捕しないという保障をとりつけてから、送り帰してあげるといいました。かれらの家族からわたしあてに手紙も送ってきますが、なかには、わたしがみる暇がないため、書記がそれをみて学生たちに送る場合もあります。
かれらは、軍事訓練をさせてほしいといいましたが、われわれは、そんなことはさせないといいました。朝鮮民主主義人民共和国をまもるのには朝鮮人だけで十分だから、かれら九名の手を借りるまでもありません。もしも、かれらがわれわれの銃を見たいというのなら、見せてはあげようといいました。われわれは、かれらが要求する本はみな与えており、ラジオも自由に聞くようにさせています。東京の放送もみな聞けます。
われわれにとっても、かれらの将来の問題が心配の種です。
美濃部 みなさん方には大変ご迷惑をかける問題です。
金首相 われわれがかれらを送り帰せば、日本で裁判にかけられるだろうし、そうかといって、こちらにいつまでもおいておいても、なんになりますか?すでに二年あまりの期間がすぎました。かれらが年をとれば、家族のこともいっそう心配になるでしょう。
美濃部 『よど』号事件に際してキム・イルソン首相がとられた措置は、大変適切で、しかも人道主義的な措置でした。ですから、日本国民の大部分は、キム・イルソン首相に感謝しております。
金首相 それはどうも。
小森 わたしは、日本をたつ時、ある日本の婦人からキム・イルソン首相宛の手紙をあずかってまいりました。それで、わたしがその手紙を首相にお渡ししてほしいとたのみましたが、お受けとりになりましたでしょうか。
金首相 わたしは、その手紙を昨夕みました。その女性がまだ生きて達者に暮らしているのを知り、大変よろこんでいます。
小森 中流の生活を営んでいます。
金首相 帰って会いましたら、わたしが感謝していたと伝えて下さい。
小森 必ずお伝えします。
金首相 わたしは思いだせなかったので、家族にたずねたところ、だいたい思い出せたとのことです。
わたしも記憶があいまいですが、その女性の写真をみたところ、間違いないようです。
解放直後、われわれ朝鮮人のなかに、日本人にたいする悪感情をいだいて、よくないことをした人も多少いました。
その当時、その女性が、わたしの家の近くに住んでいましたので、家にきて仕事を手伝ってもらい、一緒に過しました。さらに、その女性がわたしの息子の名前もおぼえており、また、私の弟についても話しているところからみて、間違いないようです。お帰りになりましたら、よろしくお伝え下さい。
小森 その女性は、首相のことを「金将軍」とお呼びしています。わたしが貴国にくる前に、そのひとが、わたくしのところにきまして、キム・イルソン将軍にこの手紙をとどけてほしいとたのみました。彼女は、二十五年前にあったことだといいながら、こういうことを話してくれました。彼女は、その当時、自分が日本でいちばん偉いのは天皇陛下だといったことがありましたが、キム・イルソン将軍は、それは間違っている、とおっしゃったというのです。二十五年たった今日になってみて、その時のキム・イルソン将軍のお言葉が正しく、自分の考えていたことが間違っていたことが確認されたといいながら、このこともお伝え下さいとたのんでいました。
金首相 ありがとうございます。
疲れませんか?
美濃部 わたしたちは少しも疲れておりません。
金首相 あまり緊張しないようにして下さい。
わたしも外国を訪れたことがありますが、行けば方々につれてゆかれるので、疲れる時が多いです。招待者のいうことを聞かなければならないし、行くところにはみな行かなければならないので、疲れた時が多々あります。しかし、あなたは、不便なことがあれば、いつでもおっしゃって下さい。そうすればあなたのいわれる通りにしてあげます。散歩なさってはいかがですか。コスイギンは、歩いてチェスン台に登りました。ここは反動派もいないし、空気もいいです。汚れた空気がありません。
美濃部 東京にいる時にくらべれば、本当に楽しく過しております。この迎賓館も都知事の公邸にくらべれば、本当に立派ですし、食事もおいしい。空気もきれいですし、水も澄んでいます。東京では、わたしは、いろいろな問題で悩んでいたのですが、こちらへきてからは大変愉快に過しております。
金首相 ありがとうございます。あなた方が満足しておられるので、招待者としては大変うれしいです。
それに、食物で口に合わないものがありましたが、おっしゃって下さい。そうすれば、ほかから料理士を呼んでも作ってあげることができます。
美濃部 どうもありがとうございます。
ところで、わたしたちがこちらへ来る直前に、東京都内では、ゴミ処理問題が大問題になっていました。東京では、毎日一万三千トンのゴミが出るのですが、これをどう処理するかというのが大問題なのです。わたしは、いまや東京のような大都市では“ゴミとの戦争”を宣言しなければならない時期にきたといったのですが、わたしが出発したあとに、その問題がどうなったのかが心配です。汚水は、下水道を通して流して処理していますが、ゴミが問題です。ゴミ処理のために利用してきた東京湾の埋立ても、すでに限界にきており、しかもゴミの増加率は急速です。もちろん、焼却炉をつくればよいのですが、それが住民に大きな被害をあたえることはなくても、住民はその近所に住みたくないといいます。さらに、焼却炉の建設を予定している地域の地主がこれに反対します。なぜなら、その近所に住みたいという人がいなくなるので、地価が下るためです。ゴミの問題をはじめ、大都市問題解決の基本は、土地問題にあるといえますが、かねてからわたしは、東京が社会主義諸国でのように土地が国有化されていれば、このような問題は起こらないのではないかと考えていました。わたしは、こちらにきて、このことをいっそう痛切に感じました。食事をいっしうにいたしましょう。

[以下は、午餐会にて]
歌劇『血の海』を観て

美濃部 わたしたちの一行は、貴国に到着して以来、キム・イルソン首相閣下のこまやかなご配慮のおかげできわめて愉快な日々を送っております。わたしはまず、このようなご配慮にたいしお礼を申しあげます。
わたしたちはキム・イルソン首相閣下を中心にして朝鮮民主主義人民共和国国民の皆さんが一体となって社会主義建設をいっそう前進なさるよう願っています。
最後に、日本と朝鮮民主主義人民共和国の両国間の交流がいっそう緊密になり、両国間の国交が正常化される日の一日もはやからんことを願い、祝杯をあげたいと思います。
金首相 きょう、このようなお招きをうけたことをありがたく思います。
美濃部先生と御一行のみなさんがたの健康のために、朝・日両国人民の親善、団結のために、この祝杯をあげたいと思います。
美濃部 わたしたちは昨夜、キム・イルソン首相が創作された歌劇「血の海」をみました。わたしは、もともと、むかしから日本軍隊と憲兵に憎悪をいだいていたものですので、なんら考えを異にするということはありませんでしたが、しかし、日本国民の一人として、この歌劇をみていてつらい思いをするところがあり、朝鮮のみなさんにすまないという気持をいっそう深くいたさざるをえませんでした。
もちろん、歌劇そのものが大変すばらしいものであることはいうまでもありません。
金首相 この作品は、もともと簡単な演劇でしたが、わが国の芸術家たちが、現在のような歌劇に仕上げました。われわれは現在、芸術をこの歌劇作品のような方向で、いうならば民族的形式に革命的内容をもった作品をつくる方向で発展させています。
「血の海」の内容は、過去を忘れまいという精神で教育するということが基本になっており、決して日本人民に反対するというものではありません。われわれは、この作品をつくるとき、日本人民に反対するという印象をあたえないように十分の注意をはらっています。
現在、「血の海」歌劇団が中国に行って公演していますが、中国人民もかつて、日本帝国主義の圧迫をうけたので、この歌劇の内容について多くの共感をよせているようです。
美濃部 よくわかりました。
わたしがかつて、大学に通っていたとき、植民地政策の講座を担当していた矢内原忠雄という先生がおられました。矢内原先生は『日本帝国主義と朝鮮』という著書も書かれましたが、先生は、われわれ学生に、日本帝国主義が朝鮮にたいし、どれだけ多くの悪事をはたらいたかを具体的に説明してくれました。そのとき、先生は、日本帝国主義の圧迫に抗しきれず、朝鮮の北部の人たちが“満州”にわたり、実にみじめな生活をしている事実についても話してくれました。わたしは、昨夜「血の海」の公演を思い気持でみながら、矢内原先生の講義を思いだしておりました。
金首相 当時は、朝鮮国内でも「討伐」がありましたが、一番ひどいところは巻間島での「討伐」でした。それは実に残酷なものでした。
ところが、日本軍兵士のなかにもよい人たちがいました。間島「討伐」のときにあったひとつの事実について話しましょう。
地下活動をしていた同志の一人がいましたが、かれがちょうど熱病にかかり「討伐」をうけたとき、身をかくすことができず、家でねていました。他の人たちは身を避けたのですが、この同志は身をかくすことができませんでした。かれは帝国大学出身で日本語も上手でした。そのとき、日本の将校が兵士にかれを焼き殺してしまえと命令しました。しかし、この日本の兵士は裏門を足でけり開け、その人を抱き起し、外にはい出るようにさせました。その人が畑の中にはい出したあとで、その日本の兵士は家に火をつけました。こうして、わが同志は生き残りました。この同志は戦争のさいに死にましたが、いつもこの話をしていました。これは、日本兵士のなかにも、善良な人が少なからずいたことを物語っています。
また、こんなこともありました。戦闘をしたあとでみると、日本軍がまだ使っていない弾丸を数十発ずつ手拭につつみ、木の枝にゆわえていったのをみたことがあります。
かれらは、そこに朝鮮の親友におくる贈物であると書き残したりしました。もちろん、自分たちの名前は明らかにしていませんでした。
当時、日本軍隊では軍国主義的教育を徹底的におこないました。そして、朝鮮の共産主義者は残酷だ、かれらは人間を手当たりしだいにつかまえては殺すなどと宣伝していました。そのため、日本軍兵士はわれわれに遭遇すると、最後まで反抗しました。捕えられると殺されると思いこみ、こわがってそうしたのです。ところで、当時われわれは、捕虜にした日本の兵士をつれて歩いたことがあります。かれらは、反抗する兵士にたいし、われわれは日本人だが、遊撃隊につかまってもこのように死なずに生きているから安心して出てこいと呼びかけました。
わたしが、平壌出身だということは、一九三八年までは知られていませんでした。ところが、われわれの捕虜になり、行をともにした日本人が帰り、新聞記者にキム・イルソンの故郷は平安南道大同郡のどこそこで、年はいくつだということをしゃべりました。そして、このときはじめて、わたしが平壌出身であることが知られるようになりました。
美濃部 いま、日本では、青年たちの政治にたいする信頼が殆どないといわねばなりません。かれらが、無政府的な傾向やニヒリズム的な傾向に走るのも、その基本的な原因は、政治にたいする信頼がないためです。しかし、朝鮮ではだれもがみな政治にたいする信頼感、キム・イルソン首相にたいする信頼感をいだいています。このような条件のもとでは、日本のように不良青年が生れるはずはないと思います。わたしは、このことがなによりもうらやましいです。
金首相 わたしは、全般的にみて、日本青年の中で、戦争を望む青年は、あまりいないのではないかと思います。
美濃部 しかし、日本には右翼的傾向をもつ学生が少なからずいます。かららは、最近にみられるように、総聯傘下の学校の学生たちにたいし、暴行を加えたりしています。もちろん、それほど多くはありませんが、一定の数だけはいます。これは残念なことです。
小森 日本の学生たちの中に右翼的傾向をもった学生がいるのは事実です。そして、彼らが、在日朝鮮人の一部のグループとともに総聯傘下の学生に暴行を加えている、これは、一般に伝えられていることです。こうしたことをみても、基本には、朝鮮の国土が分断されているという不幸があるといわざるをえません。もちろん、こういう襲撃事件をみてもみぬ振りをする日本警察が悪いのはいうまでもありません。
それに関連して、ひと言申し上げたいことがございます。美濃部知事が、朝鮮大学校認可問題で協力してくれたといって、在日朝鮮人のみなさんが、美濃部先生を訪ねてきて感謝の意を表しています。しかし、美濃部先生はいつでも、それは自分が当然しなければならないことをしたまでだと答えています。韓徳銖議長が指導される総聯中央本部は、東京都内にあります。東京都は美濃部知事の行政管轄下にある地域です。従ってわたしたちは、貴国と日本との間に外交関係がありませんが、実質的には総連を朝鮮民主主義人民共和国の外交機関として認めるという方向で考えています。そして貴国と連絡したいことがあれば、総聯を通して連絡をしています。もちろん日本政府は、美濃部知事のこのような措置を認めまいとしています。
すこし前、中国から王国権氏が日本にきたとき、かれは東京にある外国外交機関のなかで総聯中央本部だけを訪問しました。わたしたちも王国権氏が考えているのと同じような考え方をしています。すなわち、総聯を実質的に朝鮮民主主義人民共和国の在外外交機関として認めようということです。このような考え方を少しでも現実化する方法はあります。しかし、ここでも、そうした努力を妨害するのは、朝鮮民族が不当にも南北に分断されているという事実です。その事実が、日本政府を通して美濃部知事にもかかってきます。美濃部知事とわたしは、このたび朝鮮民主主義人民共和国をお訪ねする前に、総聯中央本部を正式に訪問しました。そして総聯の方々のご案内で中華人民共和国駐東京備忘録貿易事務所を訪問しました。知事ともなれば公式機関の人物です。その公式機関の人物が、総聯を訪問したことは、歴史上はじめてのことです。
金首相 結構なことです。大いに歓迎します。ありがとうございます。
小森 総聯の金炳植副議長が、積極的な活動をしています。あの方は経済学の勉強をされたので、きわめて経済学に明るいと思いました。
金首相 わたしはまだ、かれと会ったことがありません。将来、会える機会があるかもしれません。われわれは、かれが活発に仕事をしており、韓徳銖議長の仕事をりっぱにたすけていると思います。
小森 最近の国連における情勢などをみても、両国間の人事往来の問題は実現させる可能性があるのではないかと思います。美濃部知事とわたしが将来、相談しようと思っている問題について申し上げようと思います。『よど』号にのってきた学生は、招かれざる客ですが、美濃部知事は招待を頂いてきたお客です。そこでこのたびわれわれは、美濃部知事の名で貴国からある要人を招き、同時にカメラマンと記者が随行して来られるよう提案したいと考えております。われわれは、どなたをお招きするかという腹案をすでにもっていますが、それは、まだふせておくことにします。もしキム・イルソン首相が、われわれのお招きする人を日本に送ってもいいといわれた場合に、日本側としてはどうするかという問題がありますが、これについては福田外相は、うけいれるといいました。このためには美濃部先生は、福田外相とつよい交渉と話あいとを重ねました。その結果、福田外相はもしこんど、美濃部知事がお客を日本に招く場合、受けいれたいと答えたのです。もちろん、かれは入国を最終的に許可する権限は、自分にはなく法務大臣にあると答えましたが、わたしたちは、日本に帰れば、この問題をなんとか成就させるために努力します。場合によっては失敗することもないわけではありませんが、しかし、成功する可能性も大いにあると思います。こんごこの問題については、みなさんともっと相談してみようと思っています。
美濃部 わたしはなんとかして、このことを実現と考えています。わたしは、こうすることが、朝鮮民主主義人民共和国と日本のためになると思います。
朝鮮、中国との間に往来の門を開くことは、アジアの平和を守るために、きわめて重要だと思います。また、これは、日本が軍国主義の道を進むのを防ぐのに重要な意義があります。そこでわたしは、この問題をむしろ日本自体のために、東京都民のために実現しようとしているのです。このような方向で努力を続ければ、報道界はいうまでもなく東京都民もこれに協力してくれると思います。しかし、南朝鮮政府といろいろなつながりをもっている勢力は強く反対するでしょう。このたびわたしが、こちらにくる前にも反対派はわたしの訪問を妨げようと執ように、さまざまな動きを示しました。
わたしは、報道界の多数と国民の多数は、貴国との往来を支持するだろうと思います。反対派の主張は、でたらめな主張です。かれらは外交というものは政府のすることであり、地方自治体である東京都、およびその知事がすることではない、都知事が朝鮮民主主義人民共和国および中国を訪問し、外交をおこなうなどとは笑止である、このようにいいました。

日朝貿易の可能性と原則

小森 昨日、キム・イルソン首相は、日本との傍気を歓迎すると申されましたが、これと関連して、二つの問題についておたずねしようと思いますが、よろしいでしょうか。
金首相 どうぞ、おっしゃって下さい。
小森 申し上げます。第一に、日本の商社の中には「韓国」と取引きしている商社があります。中国は、このような商社とは貿易をしないという立場を明かにしました。貴国の政府においても、このような原則を堅持されるのかどうか、キム・イルソン首相は、これについてどうお考えでしょうか。
第二に、貿易をすすめる方法としては、現在中国との間でおこなっているように、日本側で特定の貿易機関をつくり、それを通しておこなう方法と、個々の商社同士で取引をすすめる方法があります。わたしたちの意見は、ある一か所の機関を通しておこなうのはどうかと思うのですが、貴国政府は、これについてどうお考えなのか知りたいと思います。いうまでもなく美濃部知事は、社会党と共産党の支持をうけていますが、他方では、財界の指導者の中にも親しい人が何人かいます。その人たちは、美濃部知事と個人的にたいへん親しいのですが、その多くは、美濃部知事の学生時代からの親友なのです。従ってわたしたちが日本に帰って朝鮮民主主義人民共和国を訪ねて知り、或は感じたことがらを話せば、その人たちに一定の影響をあたえることができるでしょう。同時に、いま中小企業退が“ドル危機”の波を受けて新しい市場を求めて汲々としています。美濃部知事の発言は、かれらにも影響を与えるものと思います。このような意味でわたしたちは、先ほど申上げました二つの問題についての貴国政府のご見解を知りうればと思います。
金首相 問題は、周恩来総理の四大原則のようなものををかかげるかということですが、われわれとしては、そういったことにかんして公式にのべたことはありません。周恩来総理は、朝鮮を訪問したあと四大原則というものをだしましたが、周恩来総理が、これを発表したのは、朝鮮を侵略しようとする勢力、台湾を侵略しようとする勢力、インドシナを侵略しようとする勢力を弱化しようとするところにその目的があると思います。われわれと合意のもとにそうしたのではありません。
周総理が訪ねてきたとき、日本の侵略勢力を阻止することについて一緒に討論しました。そしてそのときに、共同声明にもこの問題を入れました。
貿易取引問題については、率直に言って日本のどういう会社が南朝鮮とどれだけの取引きしており、台湾とどれだけ取引きしているのか、インドシナ諸国とどれだけ取引きしているかについて、われわれはつかんでおりません。中国の人たちは知っているかもしれないが、われわれはこういう問題についてよく知ってはいません。
そこで参考のために一度中国の人たちにたずねてみようと思っています。一線をひくことができるかどうかという問題ですが、わたしの考えでは線をひけない事情もありうると思います。
これまでは日本との貿易がそれほど多くなかったので、この問題を重要視しませんでした。日本政府がわが国に対して敵視政策をとってきたために、貿易を発展させることができませんでした。このような状態で日本との貿易に依存していては失敗することもありうるし、そうなれば、計画を遂行できないこともありうるので、日本との貿易問題を重要視しませんでした。われわれは平壌に熱暖房をいれるために大きな発電所を建設しましたが、そのときにも日本の商社と話し合いをしました。しかし、当時は、現在よりも情勢が厳しいときでした。日本の商社は、口では売るといいながら、政府に問い合わせて見なければならないとか、できるかどうかわからないなどといいました。そこでわれわれは、やむなく西ドイツから発電機を買入れなければなりませんでした。われわれとしては、西ドイツから買おうと日本から買おうと、ポンドやドルが支出されることにかわりありません。いままで日本の会社とは大きな取引きはありませんでした。あったとすれば小さな取引きだけです。
もしも日本政府がわが国との貿易の道を開こうというならば、われわれも政策をかえることはできます。政府で日本との貿易額をどれほど増やすべきかという問題を検討することもできます。これまでこのような問題を討論したことはありません。わが国は日本との貿易が多くないので中国のように条件をつけたりしませんでした。もし日本政府がわが国と貿易を行なう可能性のあることが確実になれば、政府でこの問題をあらためて討議するようになるでしょう。
以前は、主に共産党・社会党系の商社と小さな取引きをしただけです。ところが今年になってはじめて自民党系の財界人数名がわが国を訪問しました。最近その報告を聞きましたが、わが方からかれらにいくつかの工場の設備問題を出したそうです。かれらはそれが可能だといい、合意書までつくって帰りました。かれらはわが国の技術者を招いて、工場を見せるといいました。技術者の入国査証手続きをとるために写真を送ってほしいというので、写真も送りました。結果がどうなるかは、しばらく様子をみなければなりません。
かれらは台湾、南朝鮮などをすでにおとずれており、わが国には初めて来たのですが蒋介石、朴正煕からわれわれについての悪宣伝を相当聞かされたようです。こんどかれらは中国を通ってわが国に来ましたがわが国の外務省に自分たちの身辺の安全を保障してほしいという要求までだしました。最近の通信をみると、南朝鮮当局はかれらがわが国を訪問したことをどうして知ったのか、日本政府に抗議したそうです。ともかく、結果は待ってみなければわかりませんが、こんご試験的にこうしてみて、もし日本政府が、わが国と貿易する可能性をみせるならば、わが政府としても検討してみます。そして中国側とも話し合って歩調をあわせるようにします。わたしがすでにのべたように、日本政府がわが国との貿易に大きな制限を加えない限り、われわれとしては反対しないでしょう。むしろやるからには、広くやりたいと思います。ひと言でいって、日本との貿易をどうすべきかという問題は、まだ党中央委員会や内閣で検討したことがないので、これから情況をみながら、検討してみたいと考えています。
おそらく、社会主義諸国の中で日本との貿易額がいちばん大きいのは中国ではないかと思います。
われわれが日本軍国主義に反対することについての論説を発表したあと、ソ連も日本との関係について神経をつかいながら、ソ連政府が日本との貿易を行なう問題についてどのように考えているのかと問合せてきました。われわれは貿易をすることには反対しないと答えました。今年、ソ連の人たちがわが国にきましたが、かれらにも思想闘争は思想闘争であり、貿易は貿易であるといいました。
小森 キム・イルソン首相からきわめて重大なお話をうかがいました。また、首相は、昨日、教条主義はとらないといわれましたが、そのことばがわたしの耳にまだ残っています。そして、いま、首相は貿易についても、弾力性のある政策をとるとお話しになりました。
ところで、さきほど日本軍兵士のなかにもいい人がいたというお話しがありましたが、日本の資本家のなかにも、もちろん資本家というわくのなかではありますが、いわばよい資本家と悪い資本家がいるといえます。
もし将来、経済使節団が貴国を訪問するとすれば、その使節団の主要なメンバーとは先ほど申し上げた美濃部知事の友人たちでありましょう。かれらは、日本独占資本家のなかでも、もっとも代表的な資本家です。しかし、かれらは、日本の資本家のなかでも比較的自由主義的傾向というか、進歩的な思考方法をもつといわれている「経済同友会」の指導者たちでもあります。
今年、自民党系の資本家が貴国を訪問したそうですが、わたしは、その人の名前は知りませんが、こんど美濃部知事が帰って、さきほど首相がいわれたような内容を財界の指導者たちに話せば、かれらは朝鮮民主主義人民共和国に行ってみたいというかも知れません。この場合、美濃部知事が有力な財界人で使節団をつくり、貴国に派遣したいといえば、うけ入れて下さるでしょうか。
金首相 うけ入れます。
美濃部 小森君もいいましたが、たしかにわたしは、社会党と共産党の支援をうけている者ですが、同時に資本家とも多少の関係があります。このたび、朝鮮に向かう前に、日本航空の社長がわたしのところに来て、機会があれば朝鮮民主主義人民共和国と中国の指導者の方々とあって、日本の航空機と両国の航空機との相互飛行についてどう考えているのか、一度おたずね下さいとたのまれました。すなわち、日本の旅客機が平壌飛行場に来るとともに朝鮮の旅客機も東京の羽田飛行場に来るようにしようというものです。わたしは彼に、それはまだはやすぎる、飛行機の往来は人間の往来を前提とすべきなのに、まだ人間の往来問題も解決がむずかしい状態のもとで、これをとび越えて飛行機の往来問題から手をつけようというのはあまり早すぎる、このようにいってやりました。すると彼は、それでは、人間の自由往来が実現した場合は、飛行機の自由往来が可能なのかどうかをたしかめて欲しいといいました。
かれは、機会があれば一度、おたずねしてほしいといっていましたが、ちょうど今日は、その機会だと思い、申しあげる次第です。
金首相 全般的にみて、かれがそういう話をしたのは、何もよくない意図からではないと思います。なぜならば、これは結局、日本政府のわが国にたいする非友好的な敵視政策を排斥する運動のひとつのあらわれであるからです。そういう考えが悪いものだとは思いません。それを実現させるために、日本反動政府に圧力を加え、かれらがわが国にたいする敵視政策を止めるよう闘争することはよいことだと思います。
通信によれば、中国と日本の間に国際電話が開通し、二四時間通話できるようになったということですが、これもよいことだと思います。わたしは、航空会社の意図は悪くないと思いますし、日本政府の立場がどうであるのかは、しばらく様子をみなければならないと思います。
小森 よくわかりました。
貿易問題と関連して、重要な問題をもうひとつ申しあげたいと思います。いま日本政府としては、朝鮮民主主義人民共和国と貿易をする用意があると公式には言いにくい立場でありましょう。日本政府は、なかなかそういうことをいいそうにありません。しかし、日本政府が必ずしも公式態度を表明せずとも黙認するという前提のもとで、日本と大きな貿易をすすめる問題について意見交換をすることができるとお考えでしょうか。
キム・イルソン首相は、昨日、日本との貿易問題は日本政府の態度にかかっているといわれましたが、政府が見ぬふりをして黙認する場合、日本と貿易をすることができるとお認めでしょうか。わたしがこのようなことをうかがうのは、この問題にたいする理解をいっそう正しくするためです。
金首相 そうすることも悪くはないと思います。日本政府もそのようにしていこうという意図ではないかと思います。南朝鮮もしきりにうるさくいうので、そういうふうに黙認する方向でやろうということも考えられます、朝鮮大学校の認可問題にしてもそうだと思います。日本政府が法的には、朝鮮大学校の認可を認められないとしながらも、現在、実質的には黙認しています、日本政府は、かつてわが国にたいしておかした罪があまりにも多く、それを一度に改めることはむずかしいので、あるものは黙認しながら徐々に改めていこうという方針をとっているようです。
いくらか前に「朝日新聞」後藤編集局長がわたしにつぎのような質問をしました、国連での中国代表権問題で、アメリカと日本が手を組んでいることについてどう思うかと聞きました。
そこでわたしは、こう答えました。アメリカは蒋介石のような手先が多いだけに、かれらのまえでは体面も保たねばならないので、その場ですぐに出て行けなどとはいえないでしょう。国際潮流によって問題が可決されてしまえば、大勢がそうなのだから仕方がないではないか、それでもわしはおまえを支持してやったではないか、こういうふうにいおうとしているのだ、こういうわけでアメリカは二重の案を出しているのだ、と、わたしは後藤編集局長にいいました。
実際、ニクソンは体面を維持するのさえむずかしくなりました。
通信によると、アメリカは、こんどの国連総会で中国問題についての投票のさい、八つのアフリカ諸国が約束を破って中国を支持する投票をしたといって非難しました。
しかし、それらの国は共同で投票しようと約束したことはないと反ばくしました。
これをみても、アメリカはいましかたなしに、そうした政策をとっているのではないかと考えられます。ニクソンが中国を訪問すること自体が、すでに蒋介石追出しに拍車をかけたものではありませんか。
日本政府の政策もそうだろうと思います。もし日本政府が美濃部先生のこのたびのわが国訪問を絶対に反対する立場であれば、どうして南朝鮮が反対したのに黙認したのでしょうか。
美濃部 長時間にわたって有益なお話をして下さいましてまことにありがとうございます。では、この辺で……。
金首相 今日、このようにお招き下さったことにたいして重ねて謝意を表します。


北朝鮮の記録 訪朝記者団の報告(下) 

└ 2015-07-01 09:53

重工業をめぐる話題 読売新聞社:秋元秀雄

煙の出ない石炭 ーー特色ある製鉄技術ーー
 金属工業省が直接に管理している清津製鋼所と金策製鉄所、そして黄海製鉄所の三つが、北朝鮮の製鉄部門のカナメといえるだろう。だいたい北朝鮮の重工業は、威鏡道の北部海岸線と、馬息嶺につながる西海岸の中部平野に集まっているが、この三つの製鉄所も金策、清津が北部海岸線、黄海が中部平原にどっかりと腰を下ろしている。この地方こそ、かつて朝鮮で生活をしたことのある日本人技術者にとって、忘れることのできない郷愁の地である。
 朝鮮動乱のさなか、われわれは東京で、金策はどうなっただろうとか、黄海製鉄所は三十八度線に近いから、大分ひどくやられたのではないか、あるいはまた三菱系の会社にいる技術者は、清津製鋼所の回転ガマは、疎開してあるんだろうな、などと、わがことのように心配しているのを、よく耳にした。
 だが、実際に現地へやってきて、日本でこういう噂が絶えないというのはただ単に日本人のもっている郷愁がそういわせているのではない、ということをはっきり知ることができた。事実、日本の八幡製鉄所でも、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄といった大どころの製鉄会社の技術者たちは、みな、北朝鮮の三大製鉄所について、いろいろな資料をとりよせ、目を皿のようにしているのだ。 
 なぜだろう。日本の技術者はどうして欧米先進国の製鉄技術もさることながら、北朝鮮の製鉄に注目しているのか、それには深いワケがあったのだ。まずとりいそぎ三大製鉄のあらましを紹介してみよう。
 清津製鋼所は、動乱で戦前六基あった回転炉が、全部破かいされてしまったが、昭和二十九年から復旧作業にとりかかり、三十年に回転炉四本を、動かすことができるようになった。その後三十二年に一本、三十三年にもう一本なおし、今度いってみたら戦前のとおり六本の炉が回転をしていた。そして目下、二本増設する計画で土台の基礎工事を進めていたが、このうちの一本は三十五年度中に動き出す予定だといっていた。直径三・六メートル、長さ六十メートル、傾斜二度の炉は、七十秒ごとに一回転しながら、一日に八十トンから百トン近い”粒鉄”を生産している。さあ粒鉄というのが問題である。日本人に粒鉄といっても、一般の人は全然見当がつかないであろう。銑鉄とちがうし、鋼塊ともちがう。いわば朝鮮の製鉄を特色ずけるものとして、各国の製鉄技術者の注目の的になっている。くわしくはあとから登場するので、この隣りにある金策製鉄所に目を転じよう。、
 緩衝期ににぶつかり、目下工場の設備やら工員の数を第二次五ヶ年計画にそなえ、どのような規模にしたらよいか、幹部が集まって研究中なので、工場の敷地とか、工員の数は、ついに教えてもらえなかったが、千トン高炉が二基、景気よく煙をはいていた。また黄海製鉄所にいったとき、八百トン高炉が、これまた景気よく出銑している真最中であったが、金策と黄海のちがいは製品段階にある。つまり黄海の方は銑鉄から厚板、薄板、丸鋼、帯鋼、型鋼まで一年間に十三万トンほど一貫してつくる設備をもっているが、金策は高炉で銑鉄を流し出すだけ、あとはこの銑鉄を貨車に積んで、地方の鋳物工場へ送り出している。こういうちがいがあるわけだが、ここにまた注目されるような共通点が一つある。それは両方とも、銑鉄をつくるときコークスに鉄鉱石の粉鉱を十五%から二十%ぐらいまぜあわせてつくった「鉄コークス」というのをひとまずつくり、これで銑鉄をつくっていることである。これも日本ではやっていない方法だ。粒鉄といい鉄コークスといい、さきほどもいったように、これが北朝鮮の製鉄におおいに特色をもたせているのである。
 それなら朝鮮はどうして、こんな変わった鉄の作り方をしているのか。はっきりいうと石炭がないからだ。いやそんなことはあるまい。戦前、日本は朝鮮からレン炭や豆炭につかう石炭をたくさん輸入していたではないか。さんきんも韓国から豆炭を輸入しようとしたら、突然韓国が、日本には石炭をうらない、といい出して業者はずいぶんこまってしまった経験があるではないか。事実はそのとおりだが、石炭は石炭でも朝鮮の石炭は無煙炭といって、煙のでない石炭なのである。レン炭や豆炭用には、火をつけてぼんぼん煙が出たんでは困る。そのかわり石炭が燃えるとき、、そんなに大きなエネルギーを出さなくてもいい、とざっとこんな具合なのである。ところが炉の中で鉄鉱石をとかし、鉄分をとり出す石炭は、煙が出ても強い粘結力、エネルギーをもったものでなければならない。これが朝鮮の山にはないのだ。みんな中国からカイラン炭とか双鴨炭を買ってきてつかっている。
 黄海だけで月に五万トン以上のカイラン炭が大同江から運ばれてきていた。原料炭を全部、外国に頼らなければならない、というところに朝鮮の製鉄所のいちばん大きい悩みがあるのだ。逆に言えば”石炭の節減”これが製鉄技術者の第一目標になっている。そうした環境から生まれ出てきたのが、粒鉄であり鉄コークスなのだ。粒鉄とはどんなものか。先ずこれを説明しよう。どこの国でも鉄をつくる順序は大抵きまっている。高炉に鉄鉱石を入れる。そして粘結炭をもやしてつくったコークスを、この中に入れて溶剤を加えて火をつけると、下の蛇口からドロドロに溶けた鉄分が流れ出てくる。これが銑鉄だ。ところがこの銑鉄には、鉄のモロサのモトになる炭素分が、まだ三・四%から多いものは四・三%も含まれている。そこで銑鉄をもう一度製鋼炉に入れて、炭素分が一・五%ていどにおちるまでやきつくして、鋼のかたまりをつくるわけである。だが、朝鮮にはコークスをつくる粘結炭がない。そこで現場の労働者や技術者が集まって、よりより相談したあげく、回転炉の中にまず鉄鉱石をいれて、そこへこれならどこを掘っても出てくる無煙炭を吹き込んで、特殊な溶剤をいれてやくことにした。そして出てきたものが、ブツブツになった鉄のかたまり、いわゆる粒鉄である。チェコスロバキア、ポーランド、西ドイツ、ソ連などで試験的に、こまこれをまねてつくっているが、回転炉をとおるだけで粒鉄には炭素分が一・五%も入っていない。というデータがでている。
 鉄コークスも、コークスをそのままもやしたのでは勿体ないから、最初からこれに粉鉄をまぜあわせてから、もやす、日本でも全く事情が同じである。日本の製鉄技術者が、郷愁をこえて粒鉄や鉄コークスに目をつけているのは、じつはこうした理由がひそんでいたのである。
 
P111
金属を削るのに油は要らぬ
ーー機械工業の水準ーー
 正月を平壌のホテルでおくり、一月の中旬に東京へ帰ってきたが、あれから二ヶ月ばかりの真、私はずいぶんおおぜいの在日朝鮮人と話をしてきた。呼ばれて北朝鮮の話をしにいったこともあれば、わざわざ私をたずねてくる人もある。こうした機会を通じいろいろの質問を、いろいろの層の人からうけたが、その中で一番、関心をもたれているのが、祖国の機械はいったいどの程度のものであるか。”祖国の機械工業の水準”はどれくらいか、ということだった。これには私もきわめて意外の感をにうたれてしまった。自分の国の国産機械が、どのていどの実力をもっているか、これに無関心の者はいないだろう。しかし会う人ごとに、といっていいほどこの質問が出るとは、思ってもみなかったことである。ある在日公民は、「あなたは、ものによってはもう国際水準にある、などといったが、とうていそんなことは信じられない」と立場がいれかわったようなことを聞く人もいた。
 「ものによっては国際水準にある」このことはまぎれもない事実だ。成興市の郊外に、国立竜城機械工場を訪ねたときの話をしよう。この土地に戦前、日本の野口系の会社が、極めて小規模の機械工場をここにたてたが、すぐ終戦となり、その存在は当時朝鮮にいた日本人でも、あまり知らなかったほどの工場である。ところがここ二、三年のうちに、この工場の名はだんだん日本にも知られるようになってきた。どうしてであろう。
 ソ連や東欧諸国が全部無償で、素材から組みたてまでの一貫設備を、ここに建設してくれたからでもない。製鉄から鉱山関係、鉄道用、化学工業用からセメント用の機械にいたるまで、大型発電機を除いたら、なんでもつくっている、という万能工場であるという点でもない。ここの鋳物の素晴らしさと,朝鮮がほこる超硬切削工具の実力が、この工場でいかんなく発揮されている、という二つの事実が注目されているのだ。
 朝鮮には鋳物につかう優秀な砂があることは、古くから日本でも知られていた。しかし戦前は、これが十分に開発されないままほおっておかれたのである。それをこの工場の技術者が、みごと探し出し、いまここには黄海南道の夢金浦、成鏡南道の利原羅興などから、硝酸分八十%、アルミナ分のほとんどない理想的な鋳物用の砂が運こびこまれている。この結果、戦前一団式であったこの工場の鋳鋼法も、多段式にきりかわっていたし、鋳物工場の電気炉、溶解炉から流れ出る鋼塊で、コンプレッサーからタービン、機関車、貨車の車輪までどしどし鋳造できるようになったのである。
もうひとつの関心ーー
 それは豊富な特種資源にものをいわせ、北朝鮮はここ四、五年来、非常に硬質の切削工具をつくり出しているということだ。ところが、一部これは外国にも輸出されているので、日本の企業もこの工具を、すでに手に入れてつかっている者もおり、この関係から”朝鮮バイト”の名は、ようやくわが国でも、その名を知られ出したのである。竜城でつかっている高速旋盤はソ連製であったが、これにはめ込んであるバイト(切削工具)は国産バイトだ。これはどこの国でもそうだが、ふつう加工素材にバイトをかけて金属を削るときは、バイトの歯こぼれを防ぐため、切削面に上から油を注ぎかけるのが常識である。ところがよくここの現場で注意してみると、たいていのものは注油することなく、直接バイトをかけている。
 私は機械の止まるのをまって、そっとバイトの歯を調べてみたが、むろんなんともなっていない。これはおどろくべきことである。全炳漢支配人は、「製品はまだまだ国際的水準に達していない」とけんそんしていた、事実、現場で組立て中の八百馬力のエアーコンプレッサー、二百馬力巻き揚げ機、千五百馬力減速機、シャフトから各種圧延機などをみても、製品としてはまだ荒けずりの点はあるが、朝鮮人が自分の手で全く新しく開拓した鋳物と切削工具の水準は、十分国際的水準と認めてよいだろう。

国旗勲章”千九百人”
ーー脅威の復興、肥料工業ーー
 北朝鮮の工場で、これほど動乱でメチャクチャに破かいされた工場はないだろう。記者団がこの工場を訪ねたとき、事務所には全柄彩副支配人をはじめ金鋌雲副技師長、公務部長の任基宰さんから頸部調や硫安、硝安、運輸、硫酸部門の各責任者が、おおぜいでわれわれをまっていた。金柄彩さんの話によると、この工場には、労力英雄が副技師長の金鋌雲さんの他にももう一人いる。そして国家から業績を認められて国旗勲章をもらった労働者が千九百人もいる、という。そして彼等が、いかにして労力英雄になり、また勲章をもらったかという話になったら、全さんは特異このうえもないという楽しそうな顔でしゃべりまくっていた。
 ところが話が、三年間の戦争におよんだ途端、全さんは勿論、同席していた人たちはみな一瞬顔つきがかわってしまった。それはあまりにも、ひどかったからだ。動乱が開始された昭和二十五年の八月一日に、アメリカのB29が百機も、この工場の上空にあらわれ、四時間にわたって爆弾をおとした、と全さんがいったとき、副技師長以下、工場の人たちはみな大きくうなずいた。そしてその後三年間、毎日のように爆撃をうけ、しまいには艦砲射撃までうけた。小型爆弾は計算に入れず、大爆弾と艦砲射撃だけで、この工場は六平方メートルに一個の割で爆弾をあびたそうである。しかも二ヶ月間この地方は国連軍に占領され、それでも残っていた僅かの設備は、これで根こそぎ破かいされた。とにかく完ぷなきまでにやられたわけだ。それだけに生産再開まで、ずいぶん時間がかかったという。昭和三十年の八月になって、やっと硫安の生産が再開され、第一次五ヶ年計画をむかえ、ソ連の十億ルーブル無償援助の一部で、戦前はなかった硝安工場をふやしたり、いまでは過燐酸石灰を合わせ、化学肥料の生産高は、全国の七十%を占めるほど復旧したわけである。そして硝安工場へ行ってみたら、袋詰めにされた硝安には中国行きのスタンプがどしどしはられ、輸出の花形にのしあがろうとしていた。話を聞くまでもなく、現場をひとまわりしただけで、よくまあここまで復旧させた、ということはひと目でわかる。まだ工場の隅には、爆弾でやられたままの工場が、そのまま残っており、その右の方に新しくつくり直された硫安工場が、きわめて対象的に向かいあっている。これでは勲章をもらった労働者が千九百人いても、ちっとっもおかしくないわけだ。
 そして、成興市と興南史を結ぶ街道に、新設された化学工場の本格的な可動はあと一、二年ということだが、この化学工場とお互いに原料や製品を交流しあう時期がきたら、またひとつ大きく発展することだろう。すでに金鋌雲さんを中心に、ことしから熱源に石炭のガス化を実現しようとしており、これが軌道にのればアンモニャ系の肥料の生産は、またぐんとふえるはずである。

”特許料”を払います
ーー労働者の給与体系と労務管理ーー
 社会主義国家というのは、すべて平等が原則だから、いくらたくさん働らいたって、それほど働かない人と給料は同じだろう。こんな事を本当に思っている人もあるかもしれない。
 だが,北朝鮮の労働者は,一軒の労働者アパートに、給料のちがった労働者がたくさん同居している。アパートは原則として職場のすぐそばにたてられるので、同じアパートには、これまた原則として同じ職場の人間が住む傾向が強いわけである。それでいて隣りの部屋の人は、五十五円をもらっているが、その向かい側の人は百二十円も月給をもらっている。その隣りは、また九十五円もとっている。しかもこの人は、工場から先月ラジオを給与の一部として買ってもらった。いったいこれはどうしたわけだろう。、労働者の給与水準については、他の報告にもあるだろうから、ここでは給与体系について報告をすることにする。
 北朝鮮で、”あなたは月給いくらもらっていますか”と聞くと、かならず名目賃金はいくらいくらです、と答える。となるとそれ以外に収入があるような感じをうける。事実それはある。つまり名目賃金というのは、業種によってちがうが、大体五十円から六十円ていどと全国的にきめられており、どんなに能率の悪い人でも、これだけは最低線として保証されている。そのほかに「都給制」とよばれる日本の過勤料に似た制度があるのだ。政府は各現場ごとにその月の生産指示量を割当てるが、その現場が非常に能率よく仕事をして、このノルマを達成してしまうと、このあと超過して生産した分に対し、一定の率で奨励金が出るようになっている。しかし一定の率で無制限に計算していくと、月給のトータルが実際には二百円にも三百円にもなる人が出てくる。同じアパートに住んでいて、これではあまりに差がついて、いろいろとさしさわりも出てくるおそれもあるので、現金で支給する額は大体、百五、六十円で、頭を抑え、これを超過した分は、支配人が四半期ごとに計算したうえ、月給だけではとうてい買えそうにもないラジオとか時計とか,高級なオーバー生地、背広とかを買って支給する賞品制度を併用しているのである。清津製鋼所へいったとき、例の朴容泰支配人が、ちょうど第四・四半期(北朝鮮では一〜十二月を一年度としている)分の賞品として,六万円分(日本円で九百万円)の賞品を買い集めていた最中だった。だから朝鮮ではラジオをそなえ、日曜日など腕時計をはめて背広を着込んで家族連れで外出する労働者は、それこそ全く模範的な労働者であり、時計、ラジオは贅沢品というより、国家への忠誠のシンボルといえるわけである。
 さらに労働者には、もっと魅力的な収入の途が開かれている。生産性の向上や環境衛生の改善に役立つような発明をした者に、国が特許料を支払う制度が生きているのだ。社会主義国家と特許料、これはちょっと奇異な感をもつが、とにかく特許料が払われていることは事実である。朴支配人に、この話しを聞いたとき、私と同席していた清津の帰国公民迎接委員の許さん、また通訳の朴哲さんも、これはどうも初耳です、とばかり私と一緒に、じつに興味深く聞き耳をたてていたほどだ。
 朴支配人は『ちょうど昨日、政府から二百円のお特許料をもらった労働者が、この工場にいるから、その人の場合をお話ししましょう』といって、くわしくそのいきさつを語ってくれた。
 尹命満さんという三十八才の回転炉修理工が、その主人公であった。この労働英雄の卵は、かねてから回転炉のまわりにモヤモヤしているチリが気になって仕様がなかった。そしていろいろ青写真をかきながら研究した結果、ついに回転炉の集ジン装置を発明したのである。これまで回転炉から出るチリは、そのままサンドポンプで吸いあげて捨てていた。ところがこの中には鉄鉱石からでる鉄分や無煙炭の粉などが、まだたくさん含まれており、これがまたモヤモヤのもとになっている。そこで尹さんは、チリに水をかけて、ますこれがとび散らないようにして、さらにこれをチェーンコンベアでふたたび炉の中にもどすことを考えついたわけである。この考えが政府に建設的な創意として認められ、金属工業省は、この装置を早速二本の回転炉にとりつけることを命令し、一本につき百円、二本で二百円の賞金が、きのう尹さんの手もとに届けられた、という筋書きである、朴さんは、賞金といっていたが、立派に特許料といえよう、ただ資本主義の特許料と、ちょっとちがう点がある。資本主義国家の場合は、特許権というのは半永久的に個人所有が認められるが、朝鮮の場合はそうではない。現在、ある回転炉に、この装置がとりつけられた場合は、その炉が北朝鮮のどこにあっても尹さんに一本につき百円の金を払うが、今度政府が全く新しい工場を、どこか別のところに建設し、その回転炉に最初からこの装置をとりつける場合は、すでにその特許権は政府のものに帰属する、ここが根本的にちがうところである。

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住宅建設と市民生活 共同通信社:村岡博人

クレーンの街
 朝鮮の街を歩いていたる所で目についたのは建築用の資材を持ちあげるクレーンだった。
 平壌駅におりると、すぐ目の前の右手に出版センターを建設中のクレーンが立ちならび、駅前の人民軍通りを真すぐ大同江の方に向かってゆくと、スターリン通りとぶつかる右角で、建坪二万八千余平方メートル、高さ四十八メートルというオペラ劇場の建設工事が行われていた。戦争の被害が比較的少なく、朝鮮の京都とでもいえそうな町、古い名所古跡を多く残して居る開城でも労働者アパートをたてるためのクレーンがいくつもみかけられた。平野の真中の農村や北の港町の清津も例外ではなかった。仲間の一人が朝鮮名物はクレーンだといっていたが、朝鮮中クレーンの立っていないところはないといってよいかもしれない。
 
 いまさきまでもたっていた三階建の建物がアスファルト道路にぶっ倒れ
 なかばやきただれた街路樹は
 腰を折られて地べたにでんぐりかえり 太陽さえ黒い煙のむこうで
 血のように、どす赤く燃えている朝鮮!
 爆撃のために雀さえいなかった朝鮮!
 
 趙基天氏は戦争中作った「朝鮮はたたかう」という詩の中で、むごたらしい破壊をえがき、この地から都市と村とを探すことは徒労だと呼びかけたが、朝鮮戦争は”ノコギリ戦争”といわれるほど戦線がいったりきたいりしたので、その被害もわれわれの想像をこえるものがあったようだ。平壌についていえば五十五万発の爆弾で原っぱにされた。、人口一人当たり一発の爆弾が落とされた勘定だ。それを短期間に復興し、このごろでは戦争直後に建てた応募住宅の建てなおしにまで着工しだしたのだから忙しいわけだ。
 一九五八年七月モスクワで国際建築家会議が開かれた時、ヨーロッパの代表がその建築の速度の早さを疑ったという話をきいたが、私も東京に帰って高層建築の立ちならんだ写真をひろげた時、何人かの人から「表通りは立派だけど裏はどうなんだ」という質問をうけた。表ばかりきれいでウラはゴミゴミしているとことの多い東京のことを考えれば無理のない質問かもしれないが、朝鮮の町には表も裏もなかった。町に出て地図を買いたいといった時、案内してくれた人に朝鮮ではまだ町野の様子がどんどん変わっている最中なんで地図を作っていないんですと説明されたこともあった。朝鮮人自身でさえ何ヶ月も町を離れていると様子が変わっているのにびっくりするそうだ。
 建築のテンポがとくに急激に高まったのは一九五七年、朝鮮労働党中央委員会の十月総会が、組立て式建築方法を広く採用するように呼びかけてからだった。日本ではやりの住宅公団アパートなどにくらべると若干、中の造作など作りが雑な感じもしたが、積み木細工でもやっているかのように、出来あがった壁をクレーンで積みあげていくスピードには驚いた。「地震がないのでつぶれる心配はない」とのことだったが、最近は一世帯分十四分で造れるということだった。勿論外側に色をぬったり、床をつるつるに磨くような余ゆうはまだない。
 われわれ訪朝記者団の案内役をつとめてくれた労働新聞国際部長の田仁さんは戦後三回家を変えたといっていた。一間から二間、いまは三間と台所付きの家にいるが、職業同盟(日本の労働組合に当る)では四間のアパートを提供してくれるといっているそうだ。「見にいったんですがね、陽当たりが悪いんで移るのをやめにしたんですよ、そのうちにもっといいのが出来るようになるだろうと思ってね」田さんはこういっていたが、事実住宅の室は年々向上しているようだった。
 「これは一九五七年」「これは五八年」「これは昨年建設されたものです」と説明された建物をみてゆくと、外側はほとんど変わりないが、一世帯あたりの部屋数が二つから三つにふえ、浴場施設が付属するといった調子で年ごとに住宅事情の好転してゆく様子が感じられた。

カラすぎる食物の由来?!
 例えば、一九六十年の平壌の住宅建設計画は面積にして六十七万余平方メートル、これによって東平壌の寺洞と建設中の第二大同橋を結ぶ区間に、巾八十メートルの東大院通りが生まれ、その両側に八階ないし十二階建の高層文化住宅が千三百世帯建設される。これには塔式住宅を配合して建物の美感をます予定だ。住宅ばかりではない。十四の技術学校と人民学校、機械大学をはじめとする四つの大学幼稚園、託児所のほか十ヵ所の浴場、一日一万着を洗える機械化された七ヵ所の洗濯所を新設するのも一九六十年の目標だ。
 朝鮮労働省は一九五九年十二月一日から四日間、中央委員会の拡大総会を開いて一九六十年の国民経済発展計画などを討議した。総会は金日成首相が提案した、一九六十年を「緩衝期」として来年から第二次五ヶ年計画にとりかかるための準備期間とする方針を採択した。そして緩衝期の中心課題は「これまでの、とくに一九五九年度の計画遂行において一部の経済部門に現れた緊張をとき、弱い環を強化して人民生活をいっそう向上させること」であると指摘した。今までは「最大限の増産と節約」というスローガンでがんばってきた。在日朝鮮人を迎え入れるだけの余力も出来たし、ここらで一息、「今年は勤労者の住宅と文化更生施設を大いに建設しよう。主食と副食物及び大衆消費品の生産をあらゆる方法で増大させ、その品種をいっそう多くし、製品の室をたかめることによって大衆が要求する各種の消費品を円満に供給しよう」というのが、一九六十年を迎えた朝鮮の目標だった。
 いわゆる三十八度線、軍事境界線をはさむ非武装地帯まで耕している平和里農業協同組合で、李福淳委員長も語っていた。「この村は戦争の終るのがおくれたのでまだワラぶき屋根の家があります。しかし今年の八月十五日にまたきてみて下さい。きっと全部がカワラぶきになっていますよ」彼の表情は確信にみちていた。
 金日成首相も帰国者を前にして語っていた。「ここにきて富者になったと考えてはいけない。しかし働いて食べて住んでゆくにはいい条件がある。第一に失業者はいない、飢えている人もいない、野菜や肉はまだ不足しているが党はこの問題の解決に力をそそいでいる。
 よく働きよく闘えばよく食うことが出来る。住宅にはいいものもあるし悪いものもある。、これまでは人々をほら穴から引上げるのが当面の任務だったが、今ではせまいながらもみんな住む家が出来た。この厳寒でもこごえ死ぬ人はいないーー」首相はそっちょくに「まだ野菜や肉類が不足している」といっていたが、われわれが(療法食食目)翁車の眼でみた限りでは、戦争直後の日本のように配給所に列を作るというような極端なものではなかった。日本でもまだ副食品まで配給制だったころラジオがよく「きょうの入荷はスケソウダラ○○貫..........:といったような放送をしていたのを覚えている人も多いと思う。私は朝鮮でそのことを思い出した。いたるところでこの魚、朝鮮名でいえばメンタイ(明太)にお目にかかったからだ。平壌では天びん棒の両側に何十尾もぶらさげてはこんでいる人を見かけたし、農業協同組合の食料品販売所でも山と積まれているのを見た。生のままでは食べきれないのだろう。威口の町では日の当たらない場所の板べいにぶらさげて干してあった。朝鮮では冬はほとんど雨が降らないし、盗んでゆく人もいないので夜も外に出しっぱなしにしておいて”凍干”させるということだった。味がよいわけではないので、ホテルの食卓ではメンタイの卵ーータラの子以外にはお目にかからなかったが、質よりまず量が要求されている現在の朝鮮では、どこの家庭でもたくさんたべているようだった。
 東京では朝鮮料理といえば焼肉ぐらいしか食べたことのなかったものにとって、本国での正月料理は色々と珍しいものが多かった。中国料理の水ぎょうざに似た「マンド」、もち米に干し柿、栗、ナツメ、松の実、蜂蜜などをまぜて赤飯のようにふかした「薬飯」など十数種類も食卓にならべられた時にはどれから手を出そうかとまよったほどだった。ただ困ったことには大部分がカラすぎた。最近は日本人でも愛用者の多い朝鮮漬「キムチ」(沈菜)にしても、ちょっと赤い所を口に入れると飛びあがるほどカラかった。
 病院を見学した時、心臓病の多いことをきいたので、「刺激物をとりすぎるためではないか」ときいてみたがはっきりした回答はなかった。「朝鮮人の食物がカライのは過去長い間圧迫されていた時代わずかな副食物でごはんをたべねばならなかったから自然辛いものをとるようになったのではないか、そのうちに肉や野菜がもっと豊富になればしょくせいかつも改善されてうくだろう」と案内係の朝鮮人記者の一人はいっていた。
 日本にいる時にも、貧困の中で腐った肉でもたべねばならなかった在日朝鮮人がいわゆるホルモン焼きを考案したということをきいていたが、過去の朝鮮と切りはなしては考えられない日本の責任を思い出される言葉だった。キムチは朝鮮では四季を通じて日常の食卓になくてならないものとされているのだろう。宴会や酒席にも必ずならんでいた。下痢のため病院に入院した仲間の一人は、「医者に刺激物はとらないように」と注意された直後、看護婦さんの運んできてくれた食ぜんにキムチがあったといいい、「あの程度のカラさは刺激のうちにはいらないのだろうかね」と笑っていた。それほどキムチは朝鮮人の食生活と切りはなせないもののようだった。

酒とタバコと
 工場見学をした時、「昼食は工員さんと一緒に食堂で」と希望したのだが、「お客様にそそうがあってはいけない」と白いテーブルクロスのかかった別室で御馳走されたのは残念だったが、そばやにいきたいという希望はかなえられた。暮れの一日、平南第一麺屋という”国営のおそば屋さん”へ行った。建物は古風な朝鮮式の二階建てだった。国営の商売になると売り上げが自分の収入に関係なくなるせいか、お客扱いがぶっきらぼうになることもあるようだが、「このそば屋は女給さんたちのサービスがよいことと、料理がうまいことで有名」という説明をききながら二階へ上がった。なるほど忘年会でもやっているのか、酒を飲み歌を歌っている人々など、どの部屋もお客さんが一ぱいのようで人気のほどがうかがわれた。黒いチマ(スカート)に桃色のチョゴリ(上衣)という制服姿の可愛いお嬢さん方が、おしぼりをもってきてくれるのも悪い気はしなかった。真ちゅうの器に銀のはしという昔風な食器を使うあたりも、なかなか工夫をこらしているようで、一番上に真赤にのっていたからしをはしでどけてから食べた平壌冷麺の味も忘れがたいものがあった。
 朝鮮語にソンジュ・フーミョン(先酒後麺)という言葉があるそうだ。われわれもここで大部酒をすすめられて飲んだ。”にんじん酒”といって、朝鮮人参のエキスをアルコールでうすめたような強い酒で、もちろん火をつけると燃えだした。日本お酒とちがってちょっとぐらい飲みすぎても頭が痛くなることはなかったが、われわれ記者団の中には酒に弱い者もいて、”不老長寿の薬だ”と無理にすすめられるのには大部困っていた。その中の一人がある宴会の席上でこういった。
 「われわれは東京にいる時、北朝鮮というところは自由のない生地獄だときかされていた。
 こちらにきてもう大部たったがどうみても生地獄とは思えなかった。しかし私はj今夜朝鮮に自由のないことを発見した。酒からの自由がない」、朝鮮人もまじえてこの皮肉たっぷりな挨拶にはヤンヤのかっさいが起こった。だが相手もさるものすぐ立ってやりかえしてきた、「日本人記者のいうことは本当だ、酒からの自由がなくていけない。その意味で乾杯しましょう」。もちろんこの機智にとんだ応答に宴席は再び大笑いとなった、酒からの自由を求めた仲間はこの日から宴席を途中でソットぬけ出すようになった。「朝鮮では酒の席からぬけるのに奥さんがこわいからなどといったら笑われて相手にされないけど、お客さんがシッポをまいてソッと逃げる分にはいっこう失礼にならないんですよ」と朝鮮人記者に教えられたからだった。朝鮮でも日本同様新聞記者はよく飲むらしく、私もアニ・アニ・ペクチャ(いやいや百杯)という言葉をおぼえるくらいすすめられて”にんじん酒”を飲んだ。酒はこのほかしょうが酒、こうりゃん酒、ぶどう酒など種類は豊富で、そう安くはなかったが百貨店にも山と積んで売っていた。もちろん自由販売で、夜などアパートの下の食堂でイッパイやっている労働者の姿をみかけたものだ。
 煙草についていえば二十本入り八十銭のモラン(ぼたん)から十五銭のズンサン(増産)まで九種類ほどあったが、中では三十五銭のコンソル(建設)というのが一番売れていたようだ。いずれも健康の問題を考えてニコチンでもぬいたのか”軽い”というのが同行記者の一致した感想だった。
 平安南道の立石農業協同組合で朴竜女さんに会った時、解放前地主の所に住み込んで働いていたという彼女は、当時のことを思い出し、「あのころは主人のお膳の上の山もりのごはんからのぼる湯気をみて、いつもうらやましく思っていたものでした。それがいまは自分のものになったんです。おぜんに向かうと死んだお母さんに食べさせたかったと思ってーー」と語りながら、目に涙をためていたが、今では北朝鮮だけで自給自足出来るだけの米がとれるようになり食生活もだんだんほうふになってきているようだった。

量では豊富になった衣料
 今年の一月国家計画委員会の中央統計局が発表したところによると、一九五九年度の穀物生産高は三百四十万トン、野菜の生産量は前年に比べて四十三万トン増加、果物も一一二パーセント、水産物は百九パーセント、醤油は一四八パーセント、野菜は一八六パーセントと増加しており食品の流通学が全体で一二八パーセントに増加していることからも食生活の充実ぶりがうかがわれた。
 衣料事情の面でも前年にくらべるとその好転ぶりはめざましいものがあるようだ。質のいいものを作るのはこれからだが、全体としてもう不足しないだけの量を揃えることは出来るようになったという印象をうけた。清津であった女性同盟の幹部の人は「昔はきたきり雀だったのが、最近はやっとみんな外出用、普段着、作業着と別々にもてるようになった」と語っていた。
 ちょっと関心をひかれたのは日本からの帰国者の方が町を歩いている朝鮮人婦人よりも派手な服装をしている人が多いことだった。自分からのものを節約してまで親切にしようとしている迎える側の人々に複雑な気持ちを与えるのではないかと考えたからだが、この予想は見事にはずされた。
 「日本の風俗がそうなっているかよく知らないけど服装や髪の形などは本人の自由です。私たちにはハイヒールより健康的な美しさを持つ靴があると思うし、パーマネントをかけても前髪だけはきれいになでつけておいた方が美しいと感じている人が多いんです。」しゃべっている様子に日本からきた人が派手な服装をしてけしからんというようなせまい考え方は、ほんの少しも感ずることは出来なかった。
 日本の社会での考え方、感じ方が朝鮮では通用しないということはよくあることだ。例えば帰国者が持っていった電気冷蔵庫や洗濯機についての考え方にしてもそうだった。帰国者は日本流に「まわりの人が使うようになるまで自分だけぜいたくをしないでしまっておこう」と考えるが、まわりの朝鮮人は「その考え方は間違っている」と指摘する。「電気器具で家庭労働を軽減するのはぜいたくではなくてわれわれの目標だ、低い方にあわせていないで使える人から使わなくては進歩しない」これが社会主義なのかもしれない。はじめはとまどう帰国者たちもすぐに電気洗濯機や冷蔵庫を使う方が正しいことに気づくだろうと感じさせられた。
 よく社会主義というと「自由がなくて息がつまりそうだ」という人がいるが、衣生活に関する限り朝鮮は中国以上に自由な感じだ。昔どおり黒い丸いカンムリを頭にのせ、まるで日本の大和朝廷時代の絵に出てくるような白装束をした老人がいるかと思うと、背広にソフトというスマートな青年もいる。中国のように工人服一色といった劃一的なところはすこしも感じられない。婦人の服装になるとさらに色彩が豊富になり、形も長いチマに短いチョゴリという朝鮮服から、セーター姿まで色とりどりで、これも中国風なズボン姿はあまりみかけなかった。
 清津紡績工場を見学した時、せっかく作業服が支給されているというのに、朝鮮服をきたまま働いている女工さんをみかけたが、案内してくれた朝鮮人記者は「女性というのは自分をきれいにみせたがるんでね、彼女等は朝鮮服の方が自分に似あうと信じているんですよ」といって説明してくれた。彼女らのおさげにした長い髪には赤い髪かざりタンギ(リボン)が結ばれていた。
 朝鮮の婦人服の歴史は古く高句麗の時代(紀元前三七ー紀元六八年)からいまのようなチマとチョゴリがあったようだが、最近は洋服のスカートのように丈のやや短い、ひだのある筒型のチマもはやっているようだった。これは軽快で、活動には便利で経済的だからだろうが、これからも民族衣裳のもつ伝統的な美しさを生かしながら社会主義的な生活様式にあわせた色々な変化が起こっていくことだろう。
 昨年の主な衣料の生産高は織物が一億五千八百万平方メートルで、前年の一四四パーセント、靴下類が千七百足で百五パーセント、肌着類が九百二十八万一千万で一二八パーセント、まだ豊富だとはいえないかもしれないが、全国の学生に夏服、大学および高等専門学校の学生にはオーバーも無料で支給されていた。
 
デパート風景
 おおみそかの日われわれ日本人記者団は駅前のデパートに入ってみた、が、衣料品売り場には人がたくさん集まっていた、とくに子供の晴れ着がどんどんと売れていた。、赤、黄、青といったはなやかな色のたてじまの「セクトン・チョゴリ」と赤いチマと一組で三十五円、。決して他の物価とくらべて安くはないが、まず子供にきれいな着物をきせてやろうという親心がさっせられた、朝鮮のお金は昨年二月幣価切下げっをやったので、現在は七・二円が一英ポンド(約千八円)にあたり、日本円に換算すると約百五十円だった。授業料は無料、病院の治療費も無料という国の物価と日本の物価をくらべるのはむずかしいっことだが、デパートでの値段表をならべてみると次のようになる。、工員さんの平均月給が五、六十円ぐらいと思ってみてもらえばだいたいの見当はつくだろう。
 子供のワンピース四円五十銭、子供用わた入上衣十五円、クツ下九十銭、順面二十八インチ巾一米四円、大人用の絹の上等な朝鮮服が六十円、背広上下七十二円。Yシャツ十円、それに一番人だかりしているところをのぞいたら子供用のメリヤスのズボンを二円五十銭で売っていた。
 社会主義の国ならばどこでも同じだろうが、朝鮮の物価を日本と比較してとくに注目されたのは生活必需品の値段がべらぼうに安いのにくらべて、ぜいたく品とくに装飾品などがとてつもなく高いということだった。例えば六畳、八畳と台所便所付ぐらいのアパートで家賃が光熱費、水道料を含めて夏は一円二十銭、冬は二円四十銭、お米が一キロ八銭というのに対して、ケース入りの朝鮮人形が二百円、大きな刺しゅうの額が二百五十円といった調子だった。、必需品に品物の種類ばかり多くするために単価があがり、消費者がそんをしているような日本のくらべれば平壌のデパートの売り場にならべられた品数ははるかに少なかったが、指輪(五円四十六銭)ブローチ(八円、二円二十銭)口紅(一円)クリーム(一円六十銭)などなどもならんでいた。バイオリン(九円)カナキン(六十円)など楽器や、サッカー靴(十八円)バレーボール(九円)軟式テニス・ラケット(二十円)などスポーツ用品がたくさんならんでいたのは、学校や職場でサークル活動がさかんなためだろう。
 駅前でパートは一階が食料品、二階がカバン、クツなど雑貨類、三階がオモチャ、人形、楽器、四階が衣類売場になっていた。平壌にはこのほかにもう二つのデパートがあるとのことで、制服をきた販売員は「商品種類は毎日のようにふえています。それに質も最近は目立ってよくなってきています」と確信を持って語っていた。
「百万円のミンクのオーバーを着ている人がいるかと思えば、石炭界の不況で何十万人の失業者が出て黒い羽根募金が行われる日本とはちがいます。そりゃ日本人が見れば朝鮮人の生活はまだ中の下、あるいは下の上かもしれません。しかし、朝鮮人はみんながその生活に満足し、みんなが生活水準を工場させようと祖力しているのです」。朝鮮人記者の一人はこういっていたが、ほんとうに朝鮮人はみな将来しあわせな生活がくることを知り確信しているため、現在の生活に満足しているようだった。
「朝鮮人の生活楽器向上していることはなによりも事実が証明している」。私は何人かの工場労働者や農民の家庭生活について色々ときいているうちにこう考えるようになっていた。
 例をあげよう。奇洞炭坑で働いている呂孝弼さんの家庭は七人家族で長男は中学に、次男は人民学校に、その下の二人の娘は幼稚園にそれぞれかよっていおり、いちばん下の男の子は託児所の世話になっている。かれが自分の父といっしょにこの炭坑で働くようになったのは一九三十年のはじめごろ、当時かれの父母と妹の四人が命をつないでゆくためには日に三キロの穀類が必要だった。そのためかれらは家庭総収入の九十パーセント以上を食費にあてていたが、それでも自分の顔のうつるようなうすい粟のおかゆをすすらねばならなかった。いまではどうだろうか、最近の家計等から計算したところ収入に対する支出の比率は次のようになっていた。
 米代 四・七パーセント、燃料代 二パーセント、住宅使用料その他 ○・七パーセント、服飾代その他 二三パーセント(これは市価に換算してのことで、実際は炭坑の副業農場から購入するのでもっと安い) 被服費 十五パーセント、それに家具代や文化用品代を十パーセント、合計してみても支出は収入の五十五・四パーセント、にしかなっていない。教育費や保険費はいらないし娯楽費をつかったとしても月収の二十ー三十パーセントは貯金出来る計算だ。
 平壌から南へ車で一時間ちょっとのところにある黄海製鉄所の製鋼工場につとめている秋祥秀さん(四十九)の場合は、奥さんと十三才になる息子と三人暮し、月収はこの工場の平均賃金六十五円より高く約百二十円、支出をみると家賃は水道料、電気気を含めて二円、米代は十五日分で一円二十銭だから月に二円四十銭、服飾費はお客さんがあった時などは五十円を越すこともあるが、平均して三十〜三十五円、本題など文化娯楽費が月に四円五十銭、この冬は町に出て子供のものなど五十円ほど買ったが、毎月平均に十円から五十円は貯金する。
 「主人はお酒も少し飲みます。しかし貯金は出来るし、ソ連製のラジオもあるし、ヤギも一匹飼っているので乳をしぼることも出来ます。昔は、お金持ちのことがうらやましくて仕方なかったけど、いまはこれ以上何が要求出来ましょうか。幸福そのものです。貯金は、戦争中に失った家具を買い入れることに使おうと思っています」ーーー奥さんは幸福そうな表情でこういっていた。

家事労働から解放された婦人たち
 市民生活について語るとき、みすごすことの出来ないのは、家庭労働を共同かすることによって軽減し、婦人を家事から解放しているというであるいうことである、せんたく,食事、育児など一切を共同で処理することによって浮いた時間を婦人たちは生産や学習に使っていた。
 共稼ぎの若い夫婦にとってどこでも問題になるのは赤ん坊のことである。年老いた母親でもいればお守りをたのむのだがーーというわけで、老いも若きも男も女も働け働けという前に、まず託児所や幼稚園の建設を急いだ。だから都市でも農村でも働く人たちの集まっているところには必ず託児所があった。紡織工場のように女工さんの多いところではとくに施設が整備されていた。
 金策製鉄所の場合を例にとってみよう。この工場は託児所を三ヵ所にももっており、収容人員は千人、われわれのたずねたところは三十二室に約三百人の幼児をあずかっていた。保姆さんは五十人いた。保姆さんの資格をえるためには、中学を卒業したあと一年の専門教育をうけることになっており、保姆さんの養成所では各道(日本の県にあたる)ごとに一ついじょうあるとのことだった。
 託児所の部屋はどこでも朝鮮式にオンドルで暖められているので、子供たちは男も女も同じ色のベビー服を一枚きただけでおしりは出しっぱなし、所長の崔凰淑さんは「この方がずっと衛生的なのでーー」と説明してくれたが、こどもたちがおしりを丸出しにして遊び回っている姿は、床の下から暖めてくれるオンドル付の朝鮮の託児所でなければ見ることの出来ない風景だろう。室温は二十度、厚着をしていたわれわれはちょっと汗ばむくらいの暖かさだった。
 壁に時間表がはってあったが、それによると、一日の日課は午前七時半から子供の受付開始、八次半から十時までお化粧、十時から三十分間、授乳および間食、十時半から二時間昼寝、十二時半から三十分間自由時間、一時半から授乳、二時から自由時間、二時半から一時間半睡眠、四時から着替えで五時半おかえりとなていた。こうした一日あずけのほかに月曜から土曜までといった調子で、夜間もあずけっぱなしで親たちの都合のよい日に家につれて帰る制度もあった。八時間制の三交代で、一日中機械を動かしている工場の多い朝鮮では、こうでもしないと安心して働けないのだろう。託児所のあずかるのは生後三十三日から満四才まであとは幼稚園になる。
 平壌紡織工場で技師になるため勉強しているという若い夫婦にあった時、産児制限の話を持ち出してみたが、「託児施設がよく出来ているので、子供が出来たからといって仕事や勉強のじゃまになるなんていうことはありません。朝鮮では産児制限なんていうことはーー」と軽く話題をそらされてしまった。
 「託児所の子供たちはどこへいっても、アブジ、アブジ」(おとうさん、おとうさん)とひとなつっこくわれわれ訪問客のそばによってきた。子供たちの頭の上には「わが国のつぼみたちよ、グングンと大きくなって新しい朝鮮の大きな柱となろう」という金日成首相の言葉が大きく掲示されていた。託児所は工場や農業協同組合の経営しているものが多かったが、子供たちの衣、食、住は政府によっても保障されているのだった。
 家庭生活の中で育児についで共同化の進んでいるのが目についてのはせんたくだった。平壌の町に立ちならぶ高層アパートをみた時、表にも裏にもせんたく物一つ、ふとん一枚ほしてないことに気がつく。日本のアパート群、いわゆる団地で、腫れた日など窓と言う窓からなにか干し物が出ている風景をみなれてきたわれわれには、ここには人が住んでいるのだろうかといぶかしく感ずるくらい、変化のない壁と窓が続いていた。
 想像される一つの理由として、零下十数度までさがる寒さがあった。ぬれた物など表に出したら凍ってしまうのだろうかーーこの疑問にあるアパートの入口であった一人の婦人が答えてくれた。
「せんたくは下着まで全部共同のせんたく場に頼むんです。簡単なものなら朝、仕事にゆく時渡して、夕方帰る時には受け取れます。
 食事もお米を渡しておいて、アパートの下の共同食堂で家族そろって食べている人もいますよ」
 もちろん自分で、洗濯したい人は共同のせんたく場へ言って気のすむまでたたいてもかまわない(朝鮮のせんたくの仕方は太い棒でたたくようにする).
だがすこしぐらいの手数料を出しても期間の節約になるからたのむという人の方が自然に多くなっている。食事になるとまだ自分の家で作って、親子水入らずでたべたいと考えている人が多いようだが、若い人たちの間には労働日は協同食堂で食事をすまし、休日祭日だけ自分たちの家庭料理をたのしむという人もふえてきているとのことだった。農村の場合、まだ全部が平壌の町ほど共同化されているわけではなく、せんたくなど共同浴場とならんでたてられたせんたく場におかみさんたちが集まって、棒でたたきながらせんたくするときいた。しかしここでもチョゴリやチマの仕立てなど裁縫の仕事は共同化されていた。正月平安南道の立石農業組合を訪ねた時。村の中心部の丘の上に食料品販売所や床屋さんとならんで建てられた、”裁縫班”の仕事場では、「みんなが遊ぶ時に私たちは忙しいんですよ」と元日から若い娘さんが三人、懸命にミシンを踏んでいた。
「昔はめんどりが鳴くと国が滅ぶといって女をいやしめたもんじゃ、それがいまではーー」板門店の近く、軍事境界線のそばの非武装地帯でニンジン作りをやっている朴大竜老人は、こういって婦人の地位の向上を感慨深く語っていた。日本の国会にあたる最高人民会議に二十七人の女性が進出し、一万三千二百九十九人の女性が各級地方人民会議の代議員として活躍しているということは、こうした日常生活の共同化などによって時間を得た婦人の生活の充実に裏付けられて初めて可能になったことではないだろうか。
 平壌紡織工場であった二十九才の織布女工朱炳成さんは労働英雄であり,最高人民会議の代議院でもあった。労働英雄という労働者として最高の称号を与えられたのは、一人で三十五台の織機を受け持つ多機台運動の先駆者だったからで、国家基準は十二台、現在の平均は二十台ぐらいだとのことだった。楽浪区域選出の”議員さん”としての役務は、この地区の常務委員会に提起するのが仕事だといっていた。
 朱さんの月収は平均百二十円程度、昨年紡織工場の近くにある機械製造工場につとめている男性と結婚したが、夫の月収は五十円程度、「だんなさんを尻にひくようなこのはないですかねえ」と同行記者の一人がいったのには笑って答えなかったが、朝鮮人記者が、「ああいうようにえらい女性が多くなると家庭生活はどうなるんだろうな」とまじめくさった顔をしてみせたのにはこっちまで笑ってしまった。みんなが最低生活を保障されたうえで、「働きに応じてとる」という社会では、朱炳成さんのような例もそう珍しくないわけで、農村でも収穫が「家」に属さず働いた「人」にわけられるということが、女性の地位の向上に大きな意味をもっていた。「働きにおうじてとる」という制度はいわゆる家長制度にとどめをさし、封建的家族制度から女性を解放したのだった。
 いまでは女性が親の選んだ相手にいやいや嫁にいかされるというようなこともない。もちろん見合い結婚が全くなくなったわけではないが、労働を通じて性格なり生活態度をみてから相手をえらぶから職場での恋愛結婚が圧倒的に多い。
「私たちが最初に知りあったのは一昨年のことでした」整紡修理工の林成奉君(二十九)は奥さんの姜仁淑さん(二十六)との結婚についてこんなふうに話してくれた。「私が夜間紡織専門学校を出て現場で働いているところへ、彼女は大学出の技師としてやってきました。正直にいって顔はあまりきれいでないけど、知識も多く技術もすぐれているし同僚たちの信頼もあつめていました。私ははじめから彼女の高い品性に心をひかれていました。そのうち二人で映画をみにゆく機会がありました。『平和への道』という第で、主人公は愛国的な活撥な男でした。帰り道、映画の感想をのべあっていた時、彼女は”これから先あなたはどうするつもりですか”ときいてきた。私はこの質問にちょっとめんくらったけど、”すぐ自分はこの映画の主人公のように、大たんにものを考え、大たんに研究し、最短期間で技師になります”と答えました。彼女は”もしなれなかったら”と反問し、私は”職場で学習の条件は保障されているし、自分さえ努力すればきっとなれる”と決意を語りました。この夜がきっかけとなって二人はたびたびあうようになり、一緒に映画にいったりクラブにいったりするようになりました。結婚したのは昨年のはじめです。」
 男女の交際は仕事や学習の場を通じて行われるだけでなく、映画やダンスなどクラブ活動を舞台とすることが多いようだった。どこの工場や農村でもたいていクラブか民主宣伝室という集会場を持っている。若い連中はみんな仕事が終わるとここへきて歌ったり踊ったりする。映画は毎日やっており四日ないし五日ごとに変わる。月に一回もみないというような人はほとんどない。料金は何回みても月三十銭。最近では天然色映画「春香伝」や抗日パルチザンの奮闘ぶりを描いた「未来を愛する」というのが人気を集めていた。ダンスは大きな輪を作って踊る大衆舞踊だが、フォークダンスとちがって最後まで選んだ相手とはなれずに踊っていられる。ただし「朝鮮の女性ははにかみやが多いんだよ」と朝鮮人記者が説明してくれたが、日本式の社交ダンス?にはお目にかかれなかった。娯楽の種類からいえば、タマツキ台ありピンポン台ありという板門店休戦会談場の記者室が、私のみた中で一ばん完備した場所だったが、なにはなくても朝鮮人はよく踊り、よく歌うようだった。
 クラブの数は全国で三百。民主宣伝質は一五二千六百七十二ある。この他映画は七百五十五の常設館で見せるだけでなく、農村へは巡回映画帯が週に一度ぐらい、持ってまわっていた。
 
完備された休養施設
 日本では温泉にゆくのも一種の娯楽で、会社や村の団体旅行などで温泉にいって帰ってくると遊びつかれてくるような例も多いが、朝鮮の温泉場は徹底した休養所になっている。清津から汽車で四十五分ほど南へ行ったところに朱乙という町がある。日本の統治時代から温泉場としてしられたところだが、山あいの林の中を清流にそって上る道のあたりは奥伊豆の狩野川べりを思い出させる美しい景色だった。今ではここに温泉休憩所という国営の施設が建っている。ちょうどわれわれが訪れた時は冬の休所期間で増築工事をしているところだったが、所長さんの話では三月から十二月はじめまでの間に一万人以上の労働者が休養にやってくるということだった。冬の休所期間といえば冬こそ温泉場のかせぎ時だと考えている日本人には奇異に感ずることだろう。間違いではない。冬は屋外の運動が出来ず休養にきてもお湯に入って部屋でゴロゴロする以外にやることがないから積極的な休養にならないというのがその理由。朝鮮の休憩所に入所した人はみんな規則正しい生活をおくることになっている。
 日課をきめるのは入所者で構成している生活委員会、夏は朝六時、秋は七時に起床、きょうの午前中は登山、午後は歌やおどりの競演、あすは建物別対抗の運動会...............といった調子だ。お湯は豊富にあふれているが入浴の回数もきまっているし、昼寝も日課になっている。「夜八時間は寝ているし、はじめは寝付けないんですよ。だけど本でも読んでいるようなものなら、休憩所で働いているお嬢さんがやってきて”いけません。いまは睡眠をとるべきです”とおこられるんですよ」同行の朝鮮人記者はこういって笑っていた。
 客引きの番頭もいなければ厚化粧の女性陣もいないが、酒は自由販売だしおみやげもの屋もあった。ただし飲んで騒いでクダをまくような人をみかけることはないそうだ。
 朝鮮ではすべての労働者が終末のほかに一年に二十四日間ぐらいの休日を与えられ、外金剛、雲山、陽徳、松興、信川など全国の景勝地に作られている休養所に入ることになっている。温泉も勤労者の明日の生活のためにあるのだった。
 日常朝鮮人はまだ一般に入浴の回数が少ない。このほかまだ頭の上に物をのせて歩く、食物がカライ、冠婚葬祭を派手にやるといった古い習慣など、否定すべき習慣も全くなくなったわけではない。こういうものは一朝一夕で変わるものではないのだろう。
 教育文化相の李一郷さんは「否定すべき習慣の多くは、勤労者たちが歴史的に強要されてきた生活水準の低さに起因しているものが多い」とそっちょくに認めていた。「社会主義建設は自覚した大衆の問題が基本的に解決されたこれからは、徐々に生活習慣も変わってくるだろう」とも語っていた。
 頭に物をのせて歩くのは健康上よくない。だがこれは交通手段、運輸手段と関連して考えねばならないと言うのが李教育文化相の考え方だ。現在平壌市内のおもな交通機関はバスだけ、乗用車はガソリン節約で一般市民は特殊な場合、例えば病人が出たとか、結婚式場からおよめさんが帰るとかいったような時にか使わない。バスもこんでいて、人々は停留所に列を作って待っている。そういう時に重たい物をはこぶのに「頭に物をのせてはいけない」といっても無理なこと。「今年から自転車も大量生産段階に入ったし、交通事情が緩和されるのも間もないだろう。そうしたら自然人々も重いものを頭にのせてはこばなくてもよくなるだろう」というわけだ。
 結婚式にしても、昔は三里さきの道まで酔っぱらいを寝かせなければ盛大でないといわれたのが、このごろでは食堂などで簡単に行われるようになった。入浴の習慣にしても政府は現在週二回入るように勧告しているが、もっと沢山の共同浴場が出来て入りやすくなればみんな毎日でも入るだろう。なんでも頭から命令して強制的に変えさせることはかんたんだが、それをせず、まず条件をととのえ、下からの自発的意志によってゆこうというのが朝鮮式のやり方だ。
 第二次五ヶ年計画は朝鮮の社会主義建設にとって決定的な時期になるだろう。朝鮮人の市民生活の水準もその時には飛躍的に向上しているにちがいない。国営化。集団化という形式がととのったのに応じて、生活の奥深いところでも革命はすでに進行しているようだった。

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教育と福祉衛生 読売新聞社:嶋元謙郎

土曜日の学習
「毎週土曜日の午後にな学習があるんです。大臣級、次官級、局長級とそれぞれのクラスに別れていますが、各クラスに大学の教授が出むいて哲学と政治経済学を勉強する。それが、現在、いかにわが国に適用されているか、新しく政府や党で決定されたことをいかに解決するかなどについて、講義したり討議するのですが、なかなか大変ですよ。時には金日成首相自ら生徒になって一緒に勉強するんですから、教授もつらいし,われわれも頭が痛い。勉強して行かないと恥をかきますから。昨年十月までは、土曜日の午後になると、好きな魚釣りにいっていたのですがネ........」
 教育文化相の李一郷さんが、こういって頭をかきながら苦笑していた。朝鮮ではいま、上は首相、大臣から、下は一般人民に至る迄「学習運動」がもり上がっている。まず指導者層が率先して実行しているのだ。「土曜日は全然仕事にならん」と新聞記者がこぼすほど。土曜日になるとゴルフでソワソワして仕事に手のつかない日本の政治家、実業家に見せてやりたいくらいだった。
 この学習運動は名付けて「文化革命」。なにしろ朝鮮は近代史において百年の遅れがある。西欧諸国が産業革命を行って近代へと脱皮した時期に、朝鮮ではまだ封建制がしかれていた。産業革命を終えて飛躍的な発展をみせた時には日本の植民地化にあって、朝鮮の文化の発展は押さえられ、解放まで低い民族として残されてきた。この百年の遅れに追いつき、追い越すことが「文化革命」のネライである。
 突如としてこの問題が提起されたのではない。政治革命が終って国家機構が確立し、計画経済を行って生活のメドがつき、義務教育を或程度実施して大衆の文化水準を一定のところに高めることができたから、はじめて昨年十月にとりあげられたのである。
 国民生活が、不安で、衣食住にもこと欠くようでは、なにを説いても無駄だ。教育水準が低いときに、高尚な理論を教えても理解できない。いまや、一定の衣食住が充足されて、理解力も高まったから、先進国並みに引きあげようというわけだ。
 日常生活のなかでは、毎朝ヒゲを剃ろう、髪の手入れを怠るな、アカのついた下着を着るな、一週間に三度以上入浴しよう、ツメを切ろう..........というような、誰にでもわかることから、この革命は進められている。日本では社会党や日教組などで嫌われた道徳教育もこのなかに含まれている。「親には孝行をしましょう」「目上の人には礼儀をつくしましょう」といったたぐい。
 しかし、こういったことは、まだ文化革命の序の口である。本質は教育改革だ。ことしから朝鮮ではきゅうねんせいの完全義務教育制が○かれる。(印刷落ち)その九年制度の学校卒業生程度に、全人民の教育水準を引上げることが本当の目的なのである。

人民学校(小学校) 四年
中学校 三年
技術学校 二年
高等技術学校 二年
大学 五年
(このほか高等技術学校から二ー三年制の専門学校がある)

 学校の数は大学三十七、専門学校四十六など全部で七千九百校。学生数は大学生三万六千人を含めて二百五十万人。
 幼稚園を別にすると、小学校から大学迄の修学年限は十六年で、日本の六・三・三・四制による十六年と同じである。しかしその内容は大いに違っている。
 お気づきの方もあとうが、日本に当てはめれば、中学三年生から高校卒業までの四年間が、朝鮮では技術学校、高等技術学校となっている。思想、常識などの一般課目のほかに、とくに技術、技能を習得させようというのだ。ここを卒業した人は、技手以上の技能資格者になる。”国民皆技術”である。つまり、文学を志す人も、経済、哲学などいわゆる社会科学を志すひとも、大学に進学したいものはみんなこの二つの技術学校を卒業しなければならない。「ぼくは数学は苦手だから」「物理がからきしだめだから」などといってはおられない。
 それまでは、といっても学制の変った昨年暮までだが、高級中学を卒業しても、すぐには大学を受験することができなかった。
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二年以上、工場や農村の生産部門で働いたあとでないと、志願資格がない。労働者と同じ体験をし、同じ生活を経験することによってインテリとして労働者階級から浮上らないように配慮したためと、技術を身につけさせることが目的だったが、こんどは実生活の経験が免除されたかわりに、四年間の技術の基礎教育となった次第、人工衛星の飛び交う科学時代に対応し、遅れをとるまいというネライだ。
 旧制度のときは中学校までの七年が完全義務教育だったが、ことしからは文化革命の趣旨に沿って技術学校までの九年間が義務。イギリス十年、日本九年だから、一応世界の中等教育の水準に達することになるが、ここで特筆されるべき点は、朝鮮ではあえて「完全」という言葉をつけて強調していることだ。
 日本の場合だと、義務教育は単に憲法によって義務づけられているにすぎない。従って北九州の炭坑地帯のように、石炭界が不景気になると学用品はおろか、教科書まで買えなくて学校にいけない児童生徒がでてくる。義務はあっても、それに対する裏付けがないのである。いわば掛け声だけだ。
 それに対して朝鮮は、教科書、ノート、鉛筆、クレヨンなどの学用品はもちろんのこと、通学に必要なカバン、靴、帽子、学生服、下着類まで、とにかく学校にいくための一切のものが、すべて国家から無料で支給されている。親たちが、なに一つ整えてやらなくても、学校にいける仕組みだ。だから朝鮮全国、ほとんどの児童生徒は、同じ帽子、同じ服、同じ靴をはいている。貧乏人ーー朝鮮には貧乏人はいないが、もしあったと仮定してもそこの子弟は心起きなくみんなと同じように学校にいって勉強できる。完全な教育の機会均等といっていいだろう。これが「完全義務教育」とわざわざ断っているゆえんである。
 九年完全義務教育制は、一応ことしから実施されるが、一度に全部が移行するのではない。学校の設備や生徒への支給品は間にあうが、いっせいに切替えるだけの教員数が不足しているのだという。ことしは、とりあえず全体の八十パーセントを九年制にし、二年後の一九六十二年までに百パーセントにする目標だ。義務教育年限の二年引上げによって生じる教員不足を解消するためには、教員の養成にやはり二年はかかるという。これが完成すれば、さらに高等技術学校の二年を加えて、十一年制の完全義務制を施行すると張りきっていた。
 この義務教育の延長と歩調を合わせて、一般人の教育水準を九年制卒業程度に高めるために、成人学校が開かれている。むしろ、文化革命は成人学校の方に重点がおかれているともいえる。
 各工場、農村、居住区などにある民主宣伝室というのがそれだ。毎日通う人もいるが、老人であろうが、主婦であろうが、すべての人が一年に二ヶ月は仕事と平行しながら学習しなければならないと規定されている。名前はいかめしいが、クラブを小さくして図書館の機能をかねたようなものだ。黄海製鉄所で見学した民主宣伝室には、まわり一面に朝鮮の歴史を分かり安く解説した重要年表が挿絵入りではってあるほか、マンガ入りの「道徳書」や「共産主義教養書」「衛生常識」「一般冶金学」「金属部門の技能者のために」などといった題の本が、両面にある本箱いっぱいに並べてあった。こどもたちが二年で終えるところを、三年から五年かかって習得しようという意気込みである。
 しかし、この成人教育だけで人民の文化水準が引上げられるものではない。それにはもう一つの大きな歯車が必要だ。朝鮮はむかしと全く一変している。広い道路、整然とした並木、両側に立ち並ぶ五、六階建の高層建築の列は、東洋というよりは、どこか西欧の都市にやってきたような感じだった。わずかに町の半分が焼け残った開城市にいって、昔ながらの建物を見たとき、やっと朝鮮にきたという実感慨がおこるほどの変貌ぶりだが、頭に物をのせたオモニ(お母さん)たちがバッコしている。近代国家に移り変わろうと意図していても、やはり古くからのロウ習は抜けきれないものとみえる。こうした悪癖をなくすことも、文化革命の重要な課題の一つだ。
 では、なぜいままでに改めなかったのか? 朝鮮の都市はどこもチリ一つないほど美しい。むかしの朝鮮人は、街中でペッペッと痰をはいたり、手バナを噛んだり,とにかく不潔の代名詞みたいなものだったが、いまではそんな朝鮮人にお目にかかろうとしても、全然見当たらない。そんな悪癖は、現在全く払拭されているのに、重いものを頭にのせて歩く習慣がなぜいまだに残っているのかは大いに疑問だった。それに対して政府の高官はこう答えた。
 「道路にタン壷や紙クズ箱を備えつけると、自然に放痰や手バナはやらなくなる。それでもやっておれば、みんなの迷惑する不潔な仕ぐさはやめようと注意することができる。こうして、街をキレイにしてきた。しかし、いますぐ頭にものを載せて歩くなとはいえない。なぜならば、頭にとってかわってものを運ぶ運送方法がたちおくれているからだ。自転車や手押車が少ない。これを解決しなくてはやめてしまえと強制することはできない。」いくら強制しても実行する人はいないだろう。
 まず環境を改善すること。まことに社会主義的な地について考え方だ。
 つまり、文化革命によって人民の文化水準を高めるためには、同時に国民の生活を引き上げなくてはならない。それには生活の合理化、そうして必然的な結果として,機械化が叫ばれるわけだ。このことを「技術革命」といっている。
 目的は全人民に一つ以上の技術を所有させることと、技術の神秘性の打破、いいかえれば技術は誰でも持つことができるという自信を植えつけること、の二つである。
 新教育制度で、技術学校、高等技術学校を新設したのも、このあらわれであるが、とくに大衆の技術習得のために、「科学知識普及協会」が組織されている。中央に本部をおき、各道、郡、市、里、洞にそれぞれ支部を設けて、機関誌や民主宣伝室を利用して啓蒙運動が行われていた。技能者には国家技術者審査会によって一級から七級迄の資格を決定し、すべての人が七級以上の技術をもたなければならないことになっている。
 「機械の子産運動」というのがある。一つの機械で、新しい機械をつくりだせ。つまり工作機械を製造する工場でなくても、機械をつくってみろ、というネライだ。威鏡北道にある朱乙亜麻工場はこの掛け声で高精能の万能旋盤やプレーナー、シェーバーをつくった。亜麻工場だから、もちろん専門の機械製作用の精密機械があるはずない。それでもなおかつ、みんなが工夫してつくり上げたのだ。平壌自動車修理工場ではトラックを生産した。そのトラックを見たが、お世辞にも上等とはいえない。しかし、自分たちの力で旋盤をつくった、トラックを生産したという自信が重要なのである。
 技術は神秘のヴェールを被った秘密のものでない。誰でもヴェールを取りはずせる。しっかりやんなさい。と指導しているわけだ。
 専門工場のスローガンは「先進技術で武装しろ」。後進国が飛躍的に発展するためには、この方法しかないのだそうだ。オートメーション化はこの至上命令ともいえる。建設部門においては、クレーンによるアパートの建設をよりスピードアップしろ、運輸の面では全鉄道線路の電化をしろ。
 農村では農業機械化だ。すでに水利化と電化が、ほとんど完成したので、ことしからは重労働は全部機械にしようとの合言葉だ。
 現在トラクターは全国の農村で七千台。これをことし中に四千台増やして一万一千台にする。内訳は国産三千台、輸入一千台。トラックは一千台のところを三千台増やして四千台。こちらはみんな国産品だ。脱穀機、除草機もつくる。こうしてとりあえずことし中に平安南道、黄海南道の九十パーセントを完全に機械化し、来年は平安北道と威鏡南道、再来年には残りのすべて、という計画だ。このため、農村では、いまトラクター、トラックの技術講習会のまっさかり。ほとんど毎日のようにいろいろな新聞に、どこどこの協同組合では、何人が技術をマスターしたと言う記事がでていたほどだ。
 このように朝鮮ではいま、文化革命と技術革命を両方の車輪にして、千里の駒の勢いで先進国に追いつこうとしている。

金日成大学の学生たち
 われわれは金日成綜合大学を見学した。その名が示すように、日本の東大と同じく、朝鮮では最高の名誉ある大学である。
 以前の建物は朝鮮戦争で完膚なきまでに破壊されたとかで、現在は四階建ての建物が二むねしかない。そのうえ、戦争直後につくられたので、建てつけがひどく無細工だ。しかし、ここで学んでいる学生たちは、生き生きとしていた。
 朝鮮には現在大学が三十七校あることは、先にもしるしたが、志願者が多いので、全員を入学させることはできない。日本と同じように入学試験が実施されており、やはり”狭き門”となっている、入学者は平均三人に一人、それが、物理数学学部の物理科、経済学部の政治経済科、哲学科、法学部の国際関係科などという憧れの学部は十人に一人の割合になるという。
 大学の試験期日は全国一斉に行われるから、合格しない人も多いわけだが、朝鮮では日本のように受験勉強の為の浪人は許されない。入学試験をおちると、全員工場か農村行き、ここで働きながら受験勉強をしなくてはならない。さらに翌年大学の試験を受けるには、そこの職場の推せんがいる。従って、仕事をサボッで勉強だけに熱中することもできない仕組みになっている、。金日成綜合大学の例では四年目にやっと合格した人があるという。
 現在同大学には物理数学、化学、地理、生物、歴史、経済、法学、語文(国文学)、外国文学の九学部があり、四千五百人の学生が学んでいる。講座の数は四十五、研究室十、実験室二十で、教職員は三百人いる。社会科学と自然科学の比率はちょうど半々。来年からは自然科学が少し増えるそうだ。各学部を通じての必須科目はロシア語、哲学、マルクス・レーニン主義、朝鮮労働党闘争史、政治経済学といったところ。
 学生の自治団体としては民主主義青年同盟がある。そのほかには寄宿舎委員会があって、寄宿舎を運営しているのだけ。
 学生は勉強熱心だ。というのは、朝鮮では落第が認められないからである。
 学生は次の指導者として全人民の税金によって教育されている。従って怠ける者は教育される資格がない。落第するような出来の悪いものは、別の職場で働いてもらおう。こういうのが根本思想なのである。もちろん日本の学生のように喫茶店通いする学生もある。しかし、入りびたったり、授業をほったらかしてまで喫茶店にいきはしない。そんなことをしていると,人民から批判される。人民が学生を育て上げる責任をもっているからで、批判をうけると退学になりかねない。
 そのうえ一つのクラスが、落第生を出してはならないという共同連帯責任のようなものをもっている。落第生がでると、そのクラスの成績に響いてくる。だから、遅れている学生や、講義がのみこめない学生がいると、放課後、全クラスで教えあう。それでもダメなものは退学処分になるだけだ。
 学生は人民に養われているのだから、学生結婚は全然ない。とにかく勉強することが学生の義務である。勉強につぐ勉強。これが学生の勤めだ。
 授業料は一銭もいらない、それどころか、ほとんどの学生が十五円(日本に直せば約二千二百円 朝鮮の平均賃金の二二パーセント)の奨学金ももらっている。奨学金のない学生は、政府、党機関の重要な地位にある人の子弟だけだ。身寄りのないもの、日本や韓国から引き揚げていった学生には二倍の三十円のほか、下着一切が支給されている。このほか、全学生に学生服とオーバーが配給。いうならば、大学で勉強するのに必要なものが全部至急されているうえに、お小遣いまでもらえるのだから、人民に養われているというのも当然だ。
 結婚を考えるヒマもなく勉強するのももっともなことである。のんびりした日本の学生には少々つらいかもしれないが、学生の本分を考えれば当り前のことかもしれない。

入院の体験 
 新しい年が明けたばかりの一月二日の朝のことだった。
 われわれ記者団の一人A記者が、体の具合が悪いといって、朝食に食堂に下りてこなかった。もともとA記者は,昨年夏に胃かいようを患っており、朝鮮に着てからも、アルコール類を一滴も飲まないほど気を使っていた。
 朝鮮人は宴会好きであり、酒隙である。
「マーニペッチャン(いやいや百杯)」
「ソンジュフーミョン(先酒後面)」「ターマシダ(底まで乾そう)」「ジュージョンイーバンソク(酒政十八則)」などという俚諺が数えきれないほどある、だから宴会は乾杯につぐ乾杯攻めだ。乾杯の盃を飲み干さないと、
「底を明けるまで」
といって、みんな立ったまま、その人が盃をほすのを待っている。酒に弱い、S、I、両記者は死ぬほどの思いだったようだが、そんな朝鮮人たちも、胃かいよう後間もないというA記者にだけは、決して勧めなかった。酒好きの彼のことである。強引にさされば、あるいは飲んだかもしれないが、病後とわかると決して無理強いしなかったところが面白い。
 余談はそれまでにしてA記者は、少し神経質すぎるほど身体には気を使っており、暮れの三十日にも平壌市にある赤十字病院に精密検査にいって「大丈夫」という保証をとってきたばかりの出来事だったから、われわれとしてもびっくりした。
 部屋にいくと、昨夜から一晩中下痢つづきで殆ど眠っていない。熱を計ってみつ三十八度六分あった。
「どうしたんだ?」
と聞くと
「どうも、急性胃炎だな、なにか食中毒をおこしたんだろう。東京でもよくやったから、一日ゆっくり寝ておれば直るよ」と当人は至極のんきなことをいっている。とkろが、案内役の労働新聞田国際部長が見舞いにきて、
「これは大変だ、すぐ医者に診てもらわんと大変なことになるですよ」
というのである。A記者は、そんな大げさはしないで欲しいと頼み込んだが、もちろん承知するはずはない。十分もしないうちに,お医者さんが看護婦をつれてとんできた。
 そのお医者さんは裾の長い白い診察着に、白帽子、白マスク、看護婦さんも同様の白ずくめだ。ちょうど手術室で手術をするような形々しい恰好である。ちょっとど胆をぬかれた。
 診察は日本と同じ。脈をはかり、検温して、病状をきいて、ーー内診。十五分ほどいろいろとA記者の身体をみていたが、眉をひそめて宣言した。
「入院する必要があります」
それは宣言というよりも宣告といった方がふさわしいような、重々しい声だった。当のA記者はあわてた。
「入院なんてとんでもない。東京でこんな症状になったことがよくあったんだから。」あわてたのはA記者よりもむしろわれわれ残りの記者だった。もし入院が長びこうものならば、A記者一人だけを残して帰ることはできない。全員が残るわけにはいかないから、誰か一人が代表となって看病せねばなるまい。帰国状況や一般印象記を打電したあとではあるが、早く帰って連載物を書きたいという意気はみんながもっている。誰が残るか、一同ハタと弱ったものである。
「なんとか入院しないですむうまい方法はありませんか」
としまいには哀願したが,白ずくめのお医者は断固として受けつけない。空しく平壌市内朝鮮赤十字に入院してしまった。
 帰国の予定日も間近に迫っていたので、残酷ではあるが、われわれはA記者にかまっていることができなかった。われわれにはまだ、取材したいところが、たくさん残っていたから。
 ところが翌三日の夕食後、われわれが平壌ホテルの三階ロビーで,夜の取材の打合せをしていたところへ、ひょこりA記者が帰ってきた。大した病気ではないという赤十字病院の診断を聞いていたものの、余りに早い退院だったから、びっくりした。日本では、「入院」といえば、最低五日か一週間ぐらいはかかる「重病」の場合に限られている。だから、われわれもA記者は少なくとも三日以上は入院するだろうと予想していた。それが入院後三十時間経つか経たないかのうちに退院してきたのだから驚いたのはもっともだ。
「誤診だったのか?」
とある記者が尋ねたが、そう疑ってみるのも無理はなかった。
 ところが、A記者の話を聞いて、朝鮮の医療に対する考え方を知り、「なるほど」とあらためて感心したものだ。

おごそかな診断
 A記者の話は次のようなものだ。
 はじめの診断も、赤十字病院の診断も、A記者が予想した通りの「急性胃炎」だった。だから来診したお医者さんの診断は誤診ではなかった。なぜ、それが分かっていながら入院させたのかというと、「どうして急性胃炎にかかったのか。胃が悪いのではないか、それとも他に故障があったのか」という原因を調べるためだったそうだ。
 
 A記者の経験談によると、入院するとまず風呂に入れられる。風呂から上がってくると、下着、パジャマ、ガウンなどが揃っていて、自分の持ち物を使うことは一切禁止されているという。病院は十二条くらいの一室に二つのベッド。ラジオ付き、魔法ビンと紅茶があって、これだけは自由に飲むことができる。
 診察は四人の医者。それぞれに診察して、その所見を討議しあって病名を診断する。日本のように一人の医者が診察して病名をきめるのとちがって、あくまで合議制だ。その点ではアメリカ、システムに似ているといえよう。
 合議が終っても病名は明らかにされない。A記者がしつこく聞くと、「まだ科学的に証明されていないから、教えるわけにいかない」とのこと。それからレントゲン検査、バリュームをのんでX線透視、検便、検尿、血液検査........。うんざりするような検査が次々に行われ、それらのデータが出揃ったところで、もう一度四人の医者の合議が行われ、やっと「急性胃炎」と診断されたという。
 「胃かいようの後の胃の回復は順調である。しかし、まだ完全には回復していないし、相当疲労している所見がみえる。こんどの場合は、疲労したところへ不純な食物が混ってきて消化しきれなかったためにおきた急性胃炎である。胃に異常は認められず、またその他の消化器官は正常である。従って胃の疲労をを回復させるため①アルコール類の飲用を止めること②刺激物、とくに辛いものを食べないこと③消化しやすい軟いものをとること...............」とおごそかに言渡されたそうだ。
 ここに朝鮮の特色があると思う。つまり、朝鮮では、単に 発熱をとりさり、下痢を止めることだけが、医者の務めではないのである。病人の身体はどうなのか。内臓器官はどういう状態にあるのか、ほかに欠かんはないのか、という点まで調べて、診断、処方するというやり方だ。、病気をすれば,必ず人間ドックに入れられる、と考えてよい。
 ものぐさな日本人ならば、”何でもない病気”をするたびに、一々入院させられていたのではたまらない。その度毎に,わざわざ精密検査ではやり切れないと思う。、面倒くさい、自分の身体は自分が一番よく知っていると、わめきたくなるに違いない。
 ところが、朝鮮では、何でもない病気でも、病気であることには変わりないという考え方だ。病気であるからには徹底的になおさなければならない。二度とかからないように精密検査をして治療しなくてはいかん。ついでに、何処か他のところも悪くなっていないか。全くわずらわしいほどである。親切すぎるともいえる。しかし、それが医者の義務であるというのだ。医者がわれわれの要求に一顧をも与えず、断固として入院を命じたのも、職務に忠実であったからにほかならない。
 日本で、入院とか、人間ドック入りというと、大へんだ。、まず金がかかる。勤めも休まなければいけない。それやこれやで、医者が入院をすすめても、おいそれと入院できないのが実情だ。入院するくらいなら、多少時間がかかっても自分で静かに療養したいということになる。
 ところが朝鮮では、やたらに入院する。するというよりさせられるという方が正しい。熟練した医者が不足しているからかというと、そうではない。何度も病気になると、診察した医者の職務怠慢になるからだ。そのうえ治療費、入院代一切がかからないから、気楽に入院となるわけ。

 朝鮮には健康保険料というのがない。ないのが当たり前で、一切の治療費、薬代はいらない。すべて国家が負担してくれる。
 東京都足立区から帰国した金泰治さんは、十二指腸かいようで平安南道中央病院に入院していたが
「私は日本に二十年住んでいたが、入院したのはこんどがはじめてだ。身体が弱って入院したいと思ったことは度々あったが、お金がなくてできなかった。帰国したときは、自分ではなんともないと思ったのだが、無理に入院させられたような次第だ。入院するために帰国したようで心苦しいが、こんなに大切にされて、タダだとは知らなかった。全くすばらしいの一言だ。しかし、それでも、ときどき夜中に目をさまして”入院費用はいくらかかるだろう”と考えてハッとすることがある」と苦笑しながら、礼賛していた。
 帰国者のなかで入院させられた人は多い。神経痛で入院したある人などは、
「これっぽっちのことで入院するなんてもったいない。」
と涙をこぼしていた。

若い医者たち
 A記者の退院後、われわれは平安南道中央病院を視察して、朝鮮の医療機構について詳しく調べるチャンスを得た。
 平安中央病院は平壌市の北にある鉄筋コンクリート五階建。まだできたばかりの真新しい病院だった。供雲梓という四十六才前後の中国の医学大学を卒業した人が院長で、医者七十五人、看護婦百二十人、従業員四百人。ベット数四百、最新設備を誇る病院だけに冷暖房つき、真赤なじゅうたんが廊下いっぱいにしきつめられ、病室は明るいクリーム色。一部屋平均四人で、枕元にはスタンド、ラジオのイヤホーン、電話つきという至れり尽くせりの設備で、手術室、レントゲン室、各種検査室、分娩室なども日本の一流病院と比べて勝るとも劣らないほどだった。とくにここには、蛍光燈とエレベーターがあった。われわれが朝鮮で蛍光燈とエレベーターをみたのは、あとにもさきにもこの病院だけだ。
 供院長の説明によると、朝鮮ではは日本の村や町にあたる里、洞に診療所。郡、市に病院、道に中央病院がある。このほか赤十字病院、大学病院、閣事業所、機関などにも病院があるが、原則は診療所ー病院ー中央病院というシステムで、個人の開業医は全然認めていない。
 病気をすると、まず診療所の医者がかけつける。そこで間に合わないときには郡、市の病院へ、さらに重患の場合は、中央病院に運ぶ。診療所といっても数人から十数人の医師がいる小型綜合病院だそうで、A記者を最初に診察したのはこの医者だった。この人たちは一地区を担当して、巡回している。この診療所制は徹底しているので、朝鮮にはほとんど無医村がないという。殆どと言うのは全里、洞の九十九点何パーセントまでで、まだ百パーセントに達していないためだ。
 このような機構になっているから、日本のように「ーー先生』と指名して、いわゆる”名医”にかかることはできない。しかし、中央病院や郡、市病院の先生たちは、随時下級病院に出張して治療や技術指導を行っている。また重病人は直接中央病院に運ばれるなど治療の”平等”に気を使っている。
 医者は若い。平南中央病院を例にとると、七十五人の医者の平均年令は四十才。そのうちの半数が二十七才から三十才までの開放後新しく医者になった人だという。お年寄りの中には、ふたりの日本医大を卒業した人をはじめ、九京城帝大医学部、京城医専、セブランス医専(京城にあった)などを卒業した日本系の医者もいるが、大部分はソ連、中国の医大を卒業した人。熟練者の揃っている平南病院でこういう数字なのだから、朝鮮全体では、三十才以下の医者が半分以上もいるのではないか、と思われた。実際A記者の入院した平壌赤十字病院のないかの医者も、主任医者を除いて、ほとんど三十才前の若い医者だった。朝鮮にそんなに医者がいるはずないと信じない人のために、付けくわえておく。

予防医学に重点
 朝鮮の医療政策は、治療よりも予防医学の方に重点を置いている。まず病気をしないことだ。
 平壌市外城区橋口洞のアパートに入ったる帰国者がこう語った。
 「うるさいと思うほど医者が訪ねてくるんですよ。食慾はありますか、便は快適ですか、セキはしませんか、と。いいえ、全く調子がよろしいといっても、ノドを調べたり、眼をみたり、まったく皇帝並みの扱いなんです。これは、われわれが帰国者だから特別扱いをしているのかと思って隣りの人にきいたら、この家もやっぱりそうなんです、
 一体、どういうわけで、こんなにしつこいのかと尋ねたら、診療所の医者は担当地区から病人を出すと減点されて月収に影響するというんです。だから、担当地区から病人がでないように、暇をみてはぐるぐると巡回しているんですネ」
 こんな制度があろうとは、実はわれわれは予想もしていなかった。朝鮮といえばむかしから文化が遅れている。とくに医学は遅れていて、天然痘やライ病が多いと思って居た。事実、解放食後や朝鮮戦争直後には、風土病や伝染病がまんえんして困ったそうだが、防疫事業や治療設備の拡大、保健幹部の養成、医療品の生産、供給を重点的に行って、現在の制度を実施できるまでに漕ぎつけたのだそうだ。、
 朝鮮ではまた医薬分業が確立されている。医者は診察して処方箋を書くだけ。薬はすべて薬剤師が調合するといった具合。従ってかつての日本の医学とは全然違っているわけだ。面白いことは漢方医が、独立の学科として医科大学や中央病院にあることだ。近代医学をとり入れながら、伝統の漢方医学も同時に発展させようというわけだがなかなか、アジア的なやり方だと思った。
 このように保健医学の面では非常に発達した制度をとっているが、これに伴う弊害もおきているという。それは、人民大衆が診療所を利用しすぎることと薬を無駄使いすることだ。
 なにしろ、一切無料だから、少し身体の具合が悪いとすぐ、診療所にいく。折角投薬しても、一、二回しかのまずにほったらかす。これは非常に無駄なことであると、政府幹部が考えこんでいた。
 われわれは医学については分からない。しかし医学が経験を必要とする分野であるのに朝鮮の医者が若いこと、日本よりも伝統楽器浅いこと、などから日本の水準にはまだ及びつかないと思われる。しかし、その水準はともかく、医療費無料、予防医学などといった朝鮮の制度は先進国をしのぐものといえるようだ。

至れり尽くせりの孤児の待遇
 社会主義国家だけに、社会福祉は行きとどいている。
 われわれは実際に養老院を見学しなかったが、此の国では男六十才以上、女五十五才以上は原則として労働禁止。栃木県から引揚げた五十五才の婦人が「日本でバタ屋として働いていたから、帰国してからも働きたいと申し出たところ、朝鮮では五十五才以上の女性が働くことはまかりならんと拒絶されました。まだまだ働けるのに」とこぼしていたが、余程、その人を必要としない限り、働かせない。
 その代わりに、いわゆる定年になるときの月給が,死ぬまで毎月支給されている。そういえば暖かい冬の日に、平壌の大同江河畔のベンチに腰かけて、日なたぼっこをしている老人たちの姿をよく見掛けた。
 孤児に対する待遇は至れり尽くせりだ。、
 三年前の朝鮮戦争を戦ってきたから、朝鮮には孤児が多く、初頭学院(人民学校まで)と遺子女学院(初等中学、高級中学クラス)とに収容している。
 われわれは国防省が管理している平壌近郊の万景台革命者遺子女学院を参観したが、ここは国防省の所管だけに、生徒たちは、かつての日本の幼年学校生とのような軍服じみた制服を着ていた。一目で孤児と分かるためだそうだ。
 この学院には約千人の孤児がおり、三十畳くらいの部屋に十二人が生活していた。孤児たちの衣食住や学用品はもちろん国家で無償給付。お小遣いも一ヶ月二ー三円支給されている。
 このような初等学院や遺子女学院は各道、郡、市などにあってそれぞれ教育省、通信省、各道などが管理しているので、全体の正確な事は分からなかったが、とにかく、革命や戦争の犠牲者だけでなく両親が病死したものも含めて、すべて孤児になった子どもが収容されているという。両親の許を離れて、兄弟だけで帰国した東京出身の朝鮮人子弟も、遺子女学院に入れられていた。
 どうして高校クラスまで一般の子どもと区別するのかというと、普通の学校に分散していれると、親のない子としてひがみやすくなることと、分かれていると面倒をみるのに不便だからだ。
 朝鮮には里親制度がない。よほど近い親戚でないと、孤児を引取って育てることはできない。全部、これらの学院に収容されるのである。
 だから、がくいんの生徒たちは大切にされる。服装が一目でそれと分かるようになっているのもそのためだし、大学に進学するときは最優先という恩典がある。孤児たちが生き生きとして朗らかなのも、こういった制度のおかげだろう。社会福祉は、社会主義国家の方が進んでいる。そう思わずにはいられなかった。

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文化・芸術・スポーツ 共同通信社:村岡博人

舞踊「はえあるわが祖国」

 かたときも忘れざりし
 あざやかな朝の国、
 松の木つねに青きたらちねの山川よ!
 夢にもうつつのごとたまらなく懐かしかったわが祖国、
 人民の意思でたてられた
 ああ、朝鮮民主主義人民共和国!
 
 舞台に向かって右手の幕前で”序詩”の朗読をしているのは”半島の舞姫”として日本にも知る人の多い舞踊家、崔承喜さん。それに人民俳優の黄徹氏と人民賞受賞者の功勤俳優金完羽氏だった。崔承喜さんは眼鏡をかけ、えんじ色のビロードのような朝鮮服に身をつつんでいた。戦争で片腕をなくしたという黄徹氏の上衣の右袖の先がポケットにつっこまれているのも印象的だった。

 逢いたかった同胞、兄弟
 ふたたびこんなにめぐり合い
 なんとうれしく幸福なことよ!
 だが、いかに忘れられよう
 われらのほこらしい革命の道程にひそむ
 過ぎし日の血のにじむ闘争の物語を、
 そもだれが
 帝国主義の鉄鎖でこの国の人民をしばりあげたか、
 愛する国土を奪われ
 北は豆満江、南は玄界灘をわたって
 散らぬ他国へ行かねばならなかった
 ああ、忘れられぬ怨みの歳月よ!
 いまなお涙のなかにいたましく聞えくる鉄鎖の音ーーー

 三百余人のオーケストラの伴奏で、一千数百人の歌う合唱組曲「祖国」が荘重にひびくなかに、、幕があがり、舞踊「暗黒の中で」がはじまる。舞台は日本帝国主義の支配下で、自由と光明を待ちわびた朝鮮人民の姿を描く。
 これは平壌の朝鮮人民軍体育館で日本〜の帰国者を歓迎して公演された音楽舞踊叙事詩「はえあるわが祖国」の開幕の様子だ。この詩は年代記的に朝鮮の歴史を歌ったもので、舞台は幕なしに転換していく。舞踊、合唱、管絃楽、詩など色々な特性をもった表現形式が有機的に統一されすばらしい芸術的アンサンブルをなしているのだ。朝鮮で開花発展した民族文化の集大成といってもいいだろう。最前列の席にすわってみていたわれわれもそのすばらしさにおしみなく拍手を送った。
「日本に持っていったら大変な人気だろう」
「いやこれなら世界中どこの劇場にもっていってもうけること間違いなしだ」
「残念ながら今の日本には個人的に秀れた芸術家はいるけど、こんな集団芸術といったようなものはとうてい出来ないね」
 感想こそ思い思いだったが、同行記者みんながこの作品を生んだ背景について、日本にないものを感じたという点では共通していた。
 この作品は多くの作曲家、舞踊家、指揮者、舞台芸術家などが集まって創作したもので、講演には学生や職場のサークルなどから三千人が参加していた。それはもう個人の力による創作ではなく、ここ十数年の間に朝鮮で蓄積された芸術の成果を集約的に表現したものだといった方が適切だった。われわれは朝鮮に入って何日もたたないうちに、この感動的な舞台をみせられたので、どうしてこうした作品が生まれ,洗練され調和のとれた演奏や舞踊が生まれるのかを、その後自然に心掛けて注意するようになっていた。この疑問に対する回答は工場や農村のサークル活動の中にみつけることが出来た。
 金日成広場にめんして立てられた政府機関の合同庁舎で、われわれは日本でいえば文部大臣にあたる李一郷教育文化相に会う機会があった。日本語の百科事典のおいてある”相室”で李さんは「もうすっかりわすれてしまった」といいながらも上手な日本語で話してくれた。その時聞いたことだが、現在朝鮮には音楽サークルが一万五千八百九十五あって参加人員は約五十九万人。舞踊サークルは一万四千七百十六あって参加者は約二十八万八千人、演劇サークルは一万八百九十九で十四万八千人が参加しておりこの他にも文学サークルその他があるとのことだった。人口約一千万人、東京都ほぼ同じくらいの人数に対してこれだけのサークルがあるということはちょっと日本では想像しにくいことかもしれない。朝鮮では芸術家が大衆的な基盤の上で育てられていた。正月に訪ねていった平安南道の立石農業協同組合で、あるいは平壌紡織工場で、われわれはたくさんの専門芸術家の卵に会った。彼等は技量がのびるに従って道立劇場に入り、さらに国立劇場に選ばれてゆく、中には専門学校、例えば舞踊学校、音楽学校といったところに入学を許され、専門芸術家になってゆく人もいた。
 あの三千人による音楽舞踊「はえあるわが祖国」がたった三回の合同練習で、すばらしく調和のとれたいきいきとしたものになっていいたのは、こうしたサークルで基盤の作られてた芸術家によるアンサンブルだったからにちがいない。部分品が標準化されている大きな機械のように、全国のサークルで育てられてきた若い朝鮮の芸術家たちは、一つの指揮棒を中心にまとまって、美しい演奏をきかせてくれ、流れるような舞踊をみせてくれたのだった。
 朝鮮の集団芸術のすばらしさがどこから生まれてくるかという疑問を解く一つの鍵は、芸術の大衆性ということだった。どこから連れてこようと同じような水準の音楽家、舞踊家がいくらでもみつかるということは集団芸術にとって大切なことにちがいない。

映画「春香伝」
 職場のサークルで創作活動が盛んだったこのも印象深いことだった。例えば平壌紡織工場でみせてもらった舞踊劇にこんなのがあった。第一景は、百貨店の売場、織物をあれこれ品定めしているお客さんが売り子に対して生地の質や色がよくないと訴える。ちょうどそばにいた二人の女工さんはいたたまれなくなって逃げ帰る。工場ではあれこれと議論がおこる。はじめはお互いに責任のなすりあいなどやっているが、最後にみんなで協力してやれば品質も向上出来るという確信をつかんで、みんな明るい表情で職場に向かうといったような筋書だった。
 一九六十年の朝鮮は第一次五ヶ年計画を短縮達成し、第二次五ヶ年計画にとりかかる前の準備期間、正式にいえば緩衝期だ。この期間の主な目標は人民生活の向上と農業の機械化、それにすべての工業部門で労働生産性をたかめ、施設の拡張によらないで生産の増加を獲得することだった。紡織工場のサークルがみせてくれた舞踊劇は、この緩衝期の目標をテーマとした創作劇だったのである。清津でみた金策製鉄所サークルの創作劇にしても立石農業協同組合で聞いた歌にしてもすべて生産と生活にむすびついたところで創作がおこなわれていることがはっきりわかった。
 一九五十六年四月、朝鮮労働党の第三回大会が開かれた頃には、金日成首相も中央委員会活動の総括報告の中で「社会主義リアリズムの方法に立脚し、自然主義や純粋芸術などには断乎として闘え」とうったえながらつぎのようにのべねばならなかった。
 「わが文学者、芸術家は、いまなお労働者たちの創造的労働や現実生活から遠くかけはなれている場合が少なくない。こうしたことは、かれらの創作活動にきわめて否定的な作用をおよぼしている。作家や芸術家たちがひんぱんに工場や農村を訪ねまわってはいるものの、多くの場合そこでくりひろげられている生活の本質を洞察しえず、ただ皮相的な現実にのみとらわれている。こうしたことはかれらがわれわれの社会発展の本質を知らず、またわが党の政策をはっきりと把握していないためなのである。文学者と芸術家たちがマルクス・レーニン主義によってしっかり武装し、人民大衆の生活のなかにもっと深く入り込んでいくならば、かれらはわれわれの社会の典型を正確にとらえることが出来るだろうし、したがって彼等の作品はわが人民の期待と要求をみたしうるであろう」
 いままでは職場の芸術家たちが、自分らの生活に取材して創作しているように、専門芸術家たちもこぞって農村や工場に出かけてゆき、労働者の現実生活にふれながら創作活動を行っている。国立舞踊学校の教授をつとめている人民俳優の崔承喜さんも、一九五九年の暮には南浦の製錬所やガラス工場に指導にいったと語っていた。生産生活と結びつかない文化を朝鮮でみつけることは出来ないといってもいいだろう。
 戦争が終わってからたった六年という短い期間に立派な民族文化が開花したことについて、作家同盟の委員長であり最高人民会議常任委員会の副委員長でもある作家の韓雪野さんはこんな説明をしてくれた。
「解放後十五年、しかもその間に戦争の大きな被害を受けながら、「はえあるわが祖国」のような立派な集団芸術が何故出来上がったか、歴史的にみなければわからないだろう。それは長い間外国人の支配下で窮乏にたえながら、人民自身が生活を描いた人民文化の伝統があったからこそ出来たことなのだ。例えば李朝時代のように政治的にすたれた時代でもすぐれた文化が残っている。貴族の文化など支配者の文化でなく人民の文化だったからだーー」
 もちろん朝鮮労働党と朝鮮民主主義人民共和国政府が戦時中でも芸術家をとくに保護したこともみのがせない事実だ。崔承喜さんのはなしだと、戦争中食料の少ないときでも、芸術家は歌ったり踊ったりするとお腹がすくだろうといって、公演のあるたびにおそばなど”おやつ”が特別に配給されたそうだ。
 モランボン(牡丹台)劇場で韓雪野産の原作になる”ヒョンジュ(きょうだい)”という演劇をみた時、もらったプログラムの拍子に「共産主義典型の創造は、われらの芸術の高尚な任務だ!」ということばが刷り込まれていた。このスローガンでもわかるように朝鮮では社会主義建設のために芸術家のはたす役割を非常に重視している。だからこそ優遇もするわけだ。しかしそうかといって宣伝臭の強い作品ばかりが生まれているわけではない。この芝居などはまだ登場人物が類型化され、善玉と悪玉が強調されすぎるようなきらいもあったが、一般にはそう教化宣伝のにおいの強いものばかりではなくなっているようだった。
 映画についていえば崔承喜さんの主演した「沙道物語」(一九五七年)のように侵略者を撃退する千七百年前のものがたりを舞踊化し、純愛のエピソードを織り込んだもの、古典の老女物語「沈清伝」(一九五八年)などにつづいて昨年は貞女物語「春香伝」が天然色フィルムで作られていた。南朝鮮でも映画化されているこの古典が、北朝鮮ではどのように解釈されているか興味深かったが、身分のちがう男女が李朝末期の封建制に抵抗してつらぬき通す純愛の物語として、鼻につくような社会主義の宣伝臭全くなかった。この映画について、われの案内役についてくれた朝鮮人記者の一人は、「もし南北朝線を統一するための自由選挙が行われることになり、お互いに選挙運動をやるようになったら、演説などやめてこの春香伝の映画だけもって廻ればいいという話があった」といっていた。昨年の夏この天然色映画春香伝が封切られた時、平壌の映画館の前には列が出来たという話もきいた。現在朝鮮には七百五十五の映画館があり、昨年は一人平均十三時間映画をみている。これらのことは最近の朝鮮の映画が高い娯楽性の中に社会主義的な教養性を持っているということを意味してはいないだろうか。
 李一郷教育文化相は芸を批判する三つの尺度として、世界観の問題、大衆に対する教養性、芸術的技巧の三つをあげていた。そしてサークルでは世界観の問題が一方的に強調されがちで、専門家になると技巧に重点がおかれて世界観の反映のしかたが問題になりやすいとそっちょくに語っていた。生産生活に結びついた芸術といってもそれは決してマルクス・レーニン主義の世界観をむき出しにしたものばかりではないのである。
 
新聞・ラジオ
 平壌の町を歩いていて珍しく感じた風景の一つに新聞掲示板があった。バスの停留所ごとに四頁建ての新聞をひろげて両側がらガラスではさんだ大きなケースが眼の高さに立っているのである。朝鮮記者同盟の委員長玄弼勳氏の話では新聞用紙の不足から発行部数が需要に応じきれないため、こうしてみんなが読めるようにするということだった。農村では作業の間の休憩時間に集まって、一人が読むのをみんあが耳を傾けて聴いて居た。文化水準の向上にともなって新聞をはじめとする出版物や、ラジオに対する要求が日ましにたかまっているようだった。
 有力尚は朝鮮労働徳の機関誌「労働新聞」と、政府の機関誌「民主朝鮮」のふたつの全国紙、あとは平壌新聞とか威鏡北道日報といった地方新聞と、農民新聞、文学新聞、民主青年など各社会団体の機関誌だった。
 労働新聞の発行部数は三十万部ではいたつは全部逓信省が引受けている。
 党の機関誌だからその社説も権威があるわけで、朝鮮における唯一の通信社である朝鮮中央通信社もよくこれを飲用していた。地方新聞が一日おくれで労働新聞の社説を転載しているのも何回かみかけた。そこには日本人記者団が朝鮮から東京へ電報を打つ順番をきめるのに血眼になったり、自分だけきいたことは出来るだけかくそうとするような無益な競争はなかった。
 ちょうど平壌駅前にレンガ造りの出版センターを建設中で、一九六十年中にこれが完成すればドイツ製の輪転機を入れ新聞、通信、出版社がみんあここに集まるということだった。新聞社の印刷工場は新聞以外の雑誌、単行本まで印刷しており、例えばこれまで朝鮮最大の出版工場であった労働新聞出版印刷所では、一九五九年五十種の新聞雑誌のほか五百万部の単行本を印刷していた。
 新聞や雑誌、ラジオは国民の教養のためのテキストになるわけで、従って記者の地位も”人民の教養者”として非常に高く評価されていた。東欧の社会主義国から視察にきたジャーナリストの一人が、「朝鮮における記者の待遇はすばらしい、国にかえったらぜひ真似をさせるようにしよう」と感想をもらしていたという話もきいた。実際記者には住宅のほか毎年一着の夏服と一足の靴、二年に一着冬服とスプリングコート、三年に一着のオーバーなどが無料で支給されており、われわれを案内してくれた記者も朝鮮では目立って立派な服装をしていた。記者が優遇され尊敬されているということは、青年の中に記者を志望するものが多いことでもわかった。昨年も専門的に記者を養成する文学大学などは競争率が十五倍になったとのことだった。
 もちろん新聞やラジオが人民の教養のためのものだからといって、むずかしい政治論議やお説教めいた解説ばかりで埋めているわけではない。「平壌新聞」など地方紙には広告部があって、広告料をとってデパートや映画館、劇場などの”お知らせ”を掲載していたし、青年同盟の機関誌「民主青年」など「恋愛・結婚・家庭」をめぐる労働者が、長い間一緒に生活し、子供もある自分の奥さんのことをきらいになり、「気がきかない、背が低い、みにくい」などいろいろな理由をならべたてて離婚を申し出たのが発端で、さまざまな意見と批判がよせられ、またそれに対する反批判などがよせられたものだった。
 ラジオでも、夜仕事の終った時間や正月などにはダンス音楽を流していることが多かった。
 日本の統治から解放された直後には二百三十万人以上の文盲がいたという朝鮮では、その後盛んな成人教育の一九四九年には文盲がなくなったという話だったが、まだ読み書きの不自由な人は多いらしく、ラジオのはたす役割はそうとう重視されているようだった。政治的関心の高さにもよるのだろうが、一九六十年の午前零時から金日成首相の新年の挨拶が放送された時など、ホテルのウェイトレスまで仕事の手をとめ、何かメモをとりながらこれに聴き入っていた。まだ一家庭に一台というほど受信器は出まわっていないので、農村、工場などでは協同組合で有線放送施設を作っているところが多かった。
 朝鮮の文化について語るときぬかせないものに大衆舞踊がある。これは社会主義を建設している朝鮮人の生活から切りはなすことの出来ない休息の一形式になっていた。毎日仕事が終わると人々はクラブや舞踊場に集まって音楽と舞踊を楽しむのを日課の一つにしており、休日になると公演や遊園地に数十人から数百人もの男女があつまって大衆舞踊をおどる。
 われわれも清津の港で、招待所の前であるいは平壌駅前で、工場で、農村でーーいたるところで踊っているのをみ、仲間に入って踊ったりしたものが。普及している大衆舞踊は三十種ぐらいあってそれが次々とくりかえされる。

 オンヘヤ
 ヘヘヘ、オンヘヤ
 今年の麦作 
 豊年だ オンヘヤ
 君も僕も オンヘヤ
 麦打ちすまして オンヘヤ
 復旧建設に オンヘヤ
 競い立て  オンヘヤ
 ヘヘヘ  オンヘヤ

 昔から朝鮮人の間に伝わってきた、豊年祝歌オンヘヤのメロディは、、あちらこちらで聞かされた金日成将軍の歌とともに今でも忘れられないものとなっている。踊りの歌では”オンヘヤ”のほかに”フンラリ”、”勇進歌” ”千里馬トラクター” ”親善のワルツ” などがとくに人気があるようだった。
 メーデーや八・一五解放記念日のような祭日の夜には、平壌の金日成広場をはじめ全国各地で大規模な大衆舞踊会が開かれる。とりわけ金日成広場は無数のイルミネーションで飾られ、サーチライトの光と祝砲の放つ花火が夜空に花園をなすその下で、数万の群衆が夜のふけるまで踊り続けるとのこのだった。


体育・スポーツ
 舞踊や音楽と同じように大衆化され、社会主義建設のために不可欠な要素となっているのもに体育とスポーツがある。
 毎朝午前八時、朝の冷たい空気をふるわせて元気な声がホテルの部屋の窓から飛び込んでくる。
 「ハナ、ツー、セー」(一、二、三) ホテルの従業員たちの朝の体操の時間だ。窓から下を見下してみると、食堂で働いていた若い女性も、荷物をはこんでくれたボーイさんもみんな元気いっぱいに手足をのばしている。
 中国でも午前十時、通信社「新華社」を訪問した時、一斉に部屋を出てきた人々がなわとびや駆け足をやっているのをみた。ホテルから飛行場に通ずる道でまだ薄暗いうちから走っている若い男女をみかけたこともあった。
 社会主義の国はどこでも体育を奨励しているが朝鮮もその例外ではなく、体育が積極的な休養として生産や学習と結びついているところにその特色があった。
 朝鮮では内閣のもとに国家体育指導委員会が設けられ、その下部組織が全国各地に網の目のように広がって、体育の大衆化のために指導を続けている。政府は昨年、全国民が一日一時間以上体育運動をしなければならないという規定を作った。ホテルの窓から号令がきこえてきたのはその一つの現れだった。さまざまな職場で働いている人たちのために、体操も人民大層、生産大層、坐って仕事をする人のための体操、立って仕事をする人のための体操といったように考案されていた。しかしラジオの利用がまだ中国ほど十分には行われていないので、現在では「人民体力検定制度」が体育の大衆化のために最も主要な役割をになっていた。
 ソ連の「G・T・O」中国の「労衛制」にひってきするのが朝鮮の「人民体力検定制度」だ。一口にいえば戦争中の日本にもあった「体力章検定」のようなものだが、戦争のための”体力増強”を目的とした日本のそれと、社会主義建設のための労働人民の健康増進を目標とした朝鮮の体力検定制度では、目的において著しいちがいがあった。
 人民体力検定制度は内閣の決定にによって作られたもので、成年級一級、二級、少年級の三段階にわけてそれぞれ標準記録が決められている。現在行われているのは一九五七年に制定されたもので、成年級一級を例にとってみると、女子は十六才以上に十五才と二十五才以上三十才以下の二段階にわけており、男子は十六才から三十才、三十一才から三十五才、三十六才から四十才、四十一才から四十五才の四段階にわけて十四種目について標準記録が決められていた。
 例えば十六才以上三十才までの男子は人民保健体操とスキーで十キロメートルの疾走が出来るほか次の記録をもたねばならない。懸垂九回、百メートル十三秒八、千五百メートル五分二十秒、走巾跳四・五メートルまたは走高跳一・三五メートル、手投弾(七百キログラム)投げ三十八メートル、距離泳二百メートル、百メートル速泳二分二十秒、行軍(八キロ)六十分、円盤投げ二十二メートル、槍投げ二十八メートル、砲丸投げ八・三メートル。これを突破するのはちょっとした努力がいりそうだ。
 労働者も農民も働きながら練習するのだからこれらの種目を一ぺんにパスすることはなかなかむずかしい。だから今月は走る種目、来月は跳ぶ種目と言った調子で主目標をきめて一つ一つとっていく。工場単位、農村単位、学校単位に体力献呈小委員会というのがあって、ここで各個人の日常の成績をみており、標準記録を突破するようになると郡の委員会に報告してくれる。郡の体育指導委員は報告をうけると現場へ出向いていって審査する。少年級と成年級二級の場合は郡の体育指導委員が資格を与えることが出来るが、成年級一級の場合は道(日本の県にあたる)の体育指導委員会に審査を依頼する。
 成年一級の上にも無資格選手、三級選手、二級選手、一級選手、スポーツ名手、功勲体育人というランクが出来ている。スポーツ名手は一九五九年末まだ四十五人しかおらず、功勲体育人は制度だけで該当者はいなかった。名手をのぞいて資格が有効なのは二年間で、それ以上たつとまた献呈をうけかえねばならない。検定はいつでもうけられるようになっているが、年に四回、四、六、八、十学には「人民体力検定週間」というのがもうけられ、大衆的規模で検定を行う時がある。各種目別の選手大会と検定とも密接な関係がある。選手権大会に出場するのは射撃、通信狭義などの例外をのぞいてみんな成年級一級の合格者でなければならず、大会での成績がよければその場で名手の資格を与えられるようになっていた.
 大衆化の基礎のうえで優秀な選手がどんどんと育っていることは、舞踊や音楽家の場合と同様だ。
 陸上競技の一九五級年度最高記録表をみると男子千五百メートル三分五十七秒八。円盤投げ四十二・四六メートル、女子百メートル十二秒四、二百メートル二十四秒八などがめぼしいところ、もっぱらチーム・ゲームの方に重点がおかれているのかサッカー、バレーボールなどが世界的水準に達しているようだった。
 朝鮮にはオリンピック委員会に属する各種目別の委員会のほかに六つの体育協会があった。労働者の組織する「鋼鉄」、農民の「豊年」、学生の「千里駒」、人民軍の「二・八」、交通運輸部門に働く人達の粗詩句する「機関車」、それに日本n警官にあたる内務省員の組織する「稲妻」だった。これには一万二千余の初級体育団体がもうらされているとのことだった。
 国際試合も盛んでソ連をはじめとする社会主義国ばかりでなくフランス、アラブ連合、イラク、セイロン、インド、インドネシアなどととも親善試合をやっており、昨年一年だけで六十の外国チームを迎えたといっていた。
 朝鮮のスポーツといえばその昔ベルリン・オリンピック大会ノマラソンで優勝した孫選手を思い出すが、最近の様子について国家体育指導委員会の人は「南朝鮮の新聞によるとギャングの頭目になっているそうですよ」と顔をしかめて語っていた。
 この国には日本のようなプロスポーツはない。いくらすばらしい技量をもっていても日本の学生野球や実業団野球選手のように誘惑の手がのびるということもない。ここではスポーツと体育はみるものでなく、自分自身がやるものであり、明日の生産と結びついたものだった。
 
オリンピックについて
 アジアの先進的スポーツ国である日本について,朝鮮のスポーツ界はとくに関心をもっているようだった。
 四年後には東京でオリンピック大会が開かれることになっている。この大会のもつ意義としては、アジアで初めての大会ということがよく強調されている。その意味では日本が南北朝線の関係をいかに調整するかということは中国と台湾との関係をどうするかという問題とともに、大会の成否をきめるカギとして世界中の注目を集めている。これについて朝鮮オリンピック委員会の委員長を勤めている洪命熹副首相は、日本国民が帰国問題でみせたと同じような援助をよせることを希望していた。
 朝鮮チームのオリンピック大会参加について、国際オリンピック委員会(IOC)は中国の場合と異なった態度をとっている。中国の場合は二つのオリンピック委員会を認め、二つの代表団を参加させる方針だが、朝鮮については一九五七年のソフィア総会でも一九五九年のミュンヘン総会でも単一チームを構成して参加するよう勧告しているからだ。朝鮮のオリピック委員会はこの勧告にもとずいて、再三”韓国”側に会談を開くよう申入れ、場所として中立国香港まで提案したが、”韓国”側は応じなかった。これはもし単一チームを作る話し合いがまとまらなかった場合はさきに加盟している”韓国”だけが参加権を得ることになっているためで、なんとかかんとか理屈をつけて引延しをしているのだった。両方が統一チームを作ることに熱心だった東西ドイツの場合と事情がちがうわけだ。
 洪命熹委員長は、日本に希望することの第一として、IOCの方針を積極的に支持してほしいと述べていた。これは日本が次期大会の主催地であり、IOCでの大きな発言権をもっているばかりでなく、各種競技連盟でも重要な地位を占めているという評価にもとずくものだった。日本が南北朝線の代表を招いて単一チームを作るための会談を開く努力をするならば、会談の場所など一切の むずかしい条件をつけずに参加したいともいっていた。
 だから日本がローマ大会のサッカー予選で”韓国”だけを相手にしたことについては強い不満をもっており、洪委員長も「朝鮮が東京大会に参加するようになるためには、日本が南朝鮮だけを相手にすることをやめなければならない」とはっきり指摘していた。
 また「単一チーム構成の問題以前に日本が朝鮮チームの入国を認めることが必要だ。お互いの誤解をとくためにもまず手はじめとしてスポーツの相互交流をやろうじゃないですか」とも語り、「日本側が出入国を認める場合には直ぐにもサッカー、バレーボール、バスケットボールなどのチームを送る用意がある。日本側からがサッカー、バレーボール、バスケットボール、卓球、レスリング、ボクシングなど二十種目のチームを受入れることが出来る」と具体的な種目名まであげていた。
 スポーツに国境なしと常々いっている日本でありながら朝鮮とのスポーツ交流だけは行われたことがない。洪委員長も「今年はスポーツを含めた朝、日の文化交流をやりたいですね」といっていたが、国交が回復していないというだけの理由で、スポーツばかりか一切の文化交流まで禁じられている不合理な現状は出来るだけ近い将来に改めねばならないことだ。この問題については舞踊家、崔承喜さんもこんなふうにいっていた。
「私は日本にくるようにという交渉をもう五回ぐらい受けました。お国では私たちがいける状態が出来たのでしょうか。われわれの方はあらゆる国と文化交流を望んでいます。日本からみえた文化人とも三回ほど共同コミュニケを発表したことがありますが、かんじんの文化交流はまだ実現していません。しかし在日同胞の帰国がはじまって、この希望は現実的なものとなってきたと思います。帰国問題と同じように文化交流の問題も相互の努力できっと実現することでしょう」
 崔承喜さんといえば、連日警戒警報だ、防空演習だいうさわぎだった昭和十七年の春、帝劇に初出演、マチネーを加えて二十四回という世界舞踊界でも初めてといわれる長期独舞公演を行った時のことを思い出すオールドファンも多いことだろう。あの時「草笠童」「侍の子』などを踊った崔勝子ちゃん(超鮮名安聖姫さん、承喜さんの長女)も今では立派に成長し,平壌の舞踊学校で母親とともに創作活動を行っている。自分の生まれたところに一度きてみたいと思うのも人として自然な夢ではないだろうか。
 朝鮮と日本のスポーツや芸術の交流をはばんでいるものがなんであるかは非常に明白になっている。それは日本政府が”韓国”にいわれのない気がねをして、朝鮮人の入国を認めないから実現出来ないのだ。スポーツや芸術だけではない、あらゆるものにさきがけて行われるべきジャーナリストの交流さえはばまれているのが現状だ。この状態をあらためてほしいという気持ちは政治的な信条をこめてみんなが一致していることではないだろうか。
 崔承喜さんを十六才の時からわが子のように世話した舞踊家、石井漠さんは語っている。「ボリショイ・バレー団の公演に岸首相夫妻等をお招きした時のことだった。岸さんは急に思い出したように”崔承喜さんがくるとかいう話どうなってますか”と話しかけてきた。芸術に国境はないというけれど,岸さんでさえ、個人的にはこういう関心をもっているのになぜ呼べないんでしょう。私もあちらへよばれているしぜひ崔承喜の日本J公演も実現させた」みんなが力をあわせれば石井さんの願いがかなうのもそう遠い日のことではないかもしれない。

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農村を訪ねて 毎日新聞社:清水一郎

夢に見た幸福
 砂っぽこりの多い野や山。草木もロクに生えていない。転々と見える草葺き屋根の貧しい農家、壁は今にも崩れそうな泥の壁。米も麦も、そしてヒエ、アワさえも満足に穫れない。一体何と寒々としたところだろうーーこれがむかしの北朝鮮の農村の印象だったという。
 土の色はいまでも変わりはない。全体的に黄土がかった灰色の土地、ところによっては赤茶けた田畑が見渡す限り続く。肥沃な平野という感じはまずどこにも見受けられない。しかしいまの北朝鮮の農村にはカワラ葺きのしっかりした家がどんどん建っていた。壁は白壁かレンガ造り。田も畑もよく耕されているし灌漑の掘割りが方々に開かれていた。農民たちに会ってみたら口々に「働くのに張り合いを感ずる。幸福だ」との言葉だった。恐らくそれは真実の声だろう。全体として北朝鮮の農村は日本の豊かさにまだ及ばないが、ともかくいまの北朝鮮の農業はかつてない発展をみせていると感じた。貧しかった農民たちにとってそれは生まれてはじめての繁栄であり、夢に見た幸福がいま眼の前に実現されたところであろう。

立石農業協同組合
1月2日、平安南道文徳群立石農業協同組合を訪れた.首都平壌市から百キロ近く奥地に入ったところにある。途中の道路は悪くない。若草色の車体をしたソ連製の乗用車”ボルガ”は時速六十キロから時には七十キロぐらいで跳ばす。遠藤には農村はいくらもあるのだが、北朝鮮側がわざわざここにわれわれを案内したのは、ここが典型的、模範的な農業協同組合だからということによる。
 正午近く、村に着いた。村長さんともいうべき同農業協同組合管理委員長、姜仁学さん(五十)はじめ数人がわれわれ待ちくたびれていた。朝方、見学日程の打合せやら交渉やらがひっかかり、出発が予定より一時間以上も遅れていたのである。さっそく組合の会議所に使われている細長い、あまり大きくない建物に集まってもらい、姜さんから組合に着いての説明をきくことにした。村から出席したのは姜さんのほか管理副委員長、梁昇鎬さん(三十五)、簿記長、金承銅さん(三十五)、勤労者学校教師、白容植さん(三十八)、農業第二作業班、崔応漢さん(三十四)、同第十一作業班、朴竜女さん(四十)、同第八作業班、崔栄子さん(二十)と、もう老年で非組合員になった金泰さん(六十一)の七人だった。
 立石農業協同組合がある付近一帯は、むかしからヨルトウサムチェルリ(十二、三千里)平野と呼ばれる平地である。、この組合は平地のほぼ中心部にあり、耕地面積は千五十町歩、組合員は千五百八人(男六百二十一人、女八百八十七人)いる。
 解放(一九四五年八月十五日)以前にはこの高地を三十七人の地主が所有していた。いずれも朝鮮人で日本人の地主はいなかった。そして解放前十五年の数字を平均すると、部落全体の世帯数は五百三十、人口は二千六百五十五人で耕地のほとんどが田であり、畑は十町歩ていどである。
 生産高は町歩当り六百五十キロ、収穫総計は年に四百八十トンであり、これを地主と小作人が半々に分けると小作人一世帯の平均取分は四百五十三キロで一人当り九十キロに過ぎなかった。当時、一年中自分の食糧だけで食べてゆけたのは、わずか四十一世帯だけである。このため小作人のうち七十三世帯が次々と部落を離れてゆかねばならなかった。多くは満州へ。そして一部はシベリア、日本へも行った。解放後、三十七人の地主は村を追われた。土地は小作人たちにい分配され、あたらしい 農村の建設が始まり、貧しかった者にしあわせがやってきた。
 ところが、一九五十年六月に始まった戦争でこの幸福もこわされた。
 五十二年五月中旬の夜、たった一回の猛爆撃でコッパミジンの大被害をこうむったのである。、すなわち、六百四十戸のうち四百五十五戸が破壊され、あるいは焼かれた。死者は実に七百四十五人、家畜のうち死んだ牛百六十五頭、死んだ豚三百二十頭、残った牛はたった二十五頭にすぎない。ニワトリ、アヒルなどの被害も数千羽に達する。前年の収穫物千七百八十トンのうち千五百二十トンを失なった。その後アメリカ軍による占領期間が三十六日あった。戦争を通じて学校、病院、倉庫をはじめ農機具などもあらかた焼失した。
 しかし農民は屈せずに働いた。残った牛の背に擬装をほどこしながら一坪の土地もほっておかないように耕した。夜は防空壕の穴ぐらしだった。そして一腔五十三年夏の停戦調印を迎えた。
 停戦後、北朝鮮政府は経済三ヶ年計画をたて戦災の復旧、新経済の建設に乗り出した。農業経済面では経済発展の諸条件考慮し、農業協同組合組織を農村に作ってゆく方針をとった。
 立石農業協同組合がはじめて組織されたのは一九五十四年十月のことである。発足当時参加したのは八十世帯、組合員の数にして百五十二人、組合の土地は百三十五町歩だった。その後組合に加わる者がどんどん出て、一九五七年には村の全世帯が参加、立石の協同組合化は完成した。
 一九五九年度のこの組合の収支計算書を公開してもらうと次のようである。
 まず、総生産高は七千七百九十五トンで町歩当たり八トン百六十キロになる。このうち十二パーセントを現物税として国家に納めた。そして
▽種子として残したもの(百五十八トン)
▽肥料購入に当てるもの(二百五十九トン)
▽共同蓄積(二千九百四十九トン)=百二十七万八千朝鮮円に相当する
を差し引いて残り三千五百十三トンを各世帯に分配した。一世帯当り平均分配量は四トン三百キロになる。
 このほか現金収入として組合には四十七万四千八百五十円がありM、一世帯当り三百五十円ずつ分配した。一労力当り百八十九円になる。
 協同組合の共同財産にはまた家畜、果樹園などがあり、その数量は次のようだ。
▽牛、四百九十二頭 ▽豚、九百八十五頭 ▽山羊、四十二頭 ▽ニワトリ四千五百七十五羽 ▽アヒル、七千さん百七十五羽 ▽ウサギ、四千七百五十羽 ▽三百五十待ち歩の水田でコイを養殖しており,親コイ八千百二十尾。
▽リンゴ園、二町歩四百五十本。町歩当り収穫量は二十トン百キロで一昨年から昨年にかけ一万二千本の苗を植えた。
 現有の農機械としてはトラック四台、トラクター十台があるが、このうちトラック一台、トラクター七台は三区年度購入したもの。
 感慨水利施設としては揚水機五台(百馬力二、五十馬力に、三十五馬力一)を備え、田畑全部はもちろん、住宅周辺にある個人持ちの菜田にまで渇水期に水を補給出来る。
 脱穀機は三十四台、大部分、組合自体で組み立てたもので、一日平均百四十カマス、最高五百カマスを脱穀する能力がある。
 住宅施設ではこの農村でもどんどん進められていた。現在ここの世帯数は八百十七、そして昨年一年間で住宅百に十七棟を新築、百四十七むねを改築してカワラぶきにした。このほか三階建校舎延四千九百七十三平方メートル、畜舎六百九十五平方メートル、食堂三百五十平方メートル、瓦工場千二百平方メートル(二台で一台一日四百枚を生産)あるいは幼稚園、託児所、共同浴場、理髪所、農機具修理所なども建設し、総計延面積一万四千七百平方メートル(住宅を含む)が新しくできた。
 ことしの目標はトラック荷台、トラクター六台を新規購入することである、昨年はトラクター十台で千町歩余の耕地を耕したので、一台当り百町歩を受持たねばならず忙しかった。こんど六台入れば、一台当り六十町歩に軽減されるから極めて楽になる。その結果、トラクターはトラックと協力し、肥料運搬の機械化を進められるので、農民の労力も軽減される。そのため目下四月末完成を目当てに、どこの水田、畑にもトラックが入れるよう、道路の整備を進めている。
 穀類一町歩当りの今年の収穫目標は十二トンだ。
 まだわずか残っているワラぶき屋根の住宅は全部カワラぶきにし、二階建て住宅も建設するが、住宅問題のいっさいは今年八月までに解決する。
 日用品のいっさいは今年八月の食器戸棚などは組合の家具工場で製作しており、二月末までには全家庭にこれらの家具がゆきわたる。
「豊かになった生活水準をもっと高めよう」というのが、協同組合の活動方針である。

一日のくらし
 以上が組合管理委員長、姜仁学さんの説明のあらましだった。姜さんは若くして小作争議に加わり警察に検挙、ごう問を受け、村を去り、土工、人夫などさまざまの辛酸をなめ、解放後、村に皈って協同組合組織の
指導的地位に立つようになった闘争経歴をもつ人だった。中肉中背、手も指もがっしりと太く、日に焼けた顔にはどちらかというと柔和な眼がいつも微笑みをたたえていた。
 若い崔応漢sだんに”ちかごろの一日”はどう過ごすのか、たずねてみた。
「朝八時半ごろ、作業場に集まります。組合で打つ鐘の音が合図です。そこで班長からその日の仕事について指示を受け、作業を始めます。蛭にはまだ鐘が鳴り、食堂へ行く成り家へ帰って昼食です。昼休みには演劇、音楽、舞踊なふぉのサークル研究会があり、再び作業につきます。作業は五十分働らいて十分から二十分休みまた五十分働らく。休み時間には新聞雑誌などの読報会が開かれます。
 その日の作業が終ると班ごとに集まって各人の作業の評価を受け、労働手帳に点数を記入してもらいます。一年間の合計点数に比例して収穫物や現金の配分が行われるもので、これを都給制といいます。
 作業評価が終ると労働手帳をもらって共同浴場へ行ったり家へ帰ったりする。夕食後は映画をみたりラジオをきいたりサークル活動をやります。
 この村には出力三百キロワットの有線放送施設があり、七百五十個のスピーカーが各家庭に配置され、中央放送の中継をききます。また各班の作業成績、個人の作業成績などが発表されるのもこのスピーカーです、。これ以外普通のラジオは百五十台くらい村にあります、サークルに参加している青年は約百人。十二人一組のバンドが二つあり、舞踊、合唱、演劇などで活躍します。ほかにスポーツサークルや女子のための料理サークルも開かれます。児童のためには児童教養室があり、課外勉強は主にここでやります。
 金泰さんはこの日集まった組合側の中で最年長だった。むかしといまと、生活はどう変わったかを話してもらった。
「むかし、この当りの村の小作人は一町歩耕して十カマスというのが普通だった。それがいまでは一町歩で二百カマスていどとれるようになった。作物は主にイネです。ほかにトウモロコシ、マメ、ムギなどもあります。
 解放前、お金持ちの地主がいて、毎日ごちそうを食べて過ごしていた。しかしほかの者は食べものすら満足になかった。いまではだれひとりひもじい思いをする人はいない、私の息子も一人は運転手として働き他の二人は大学と中学で勉強している。もともと六人のこどもがいたが、息子一人と娘二人を爆撃で失った。それでもこどもを大学にだしてやれるなど、むかしは想像もできなかったことだ。
 むかしといえば、灌漑の水路などももちろんなかった。日照り、かんばつが何より恐ろしかった。まだ覚えているが私が二十才の年だ。雨が全く降らず、何もとれなかった。乏しいお金でアワを買い、カユをすすって生命だけをつないだ。だから毎年、不安におびえて空ばかり見上げて暮らすのがわたしたちの生活だった。
 ところが今ではどうです。水路が縦に横に延びている。トラクターもある。水が自由になったからにはただ働きさえすればいい。働けば生産はあがる。楽しみだ。」
 苦しい生活の時代が長かったからだろう。六十才の金さんは年令よりも大分老けてみえた。
 冬の日足は短い。日が暮れないうち写真取材もしてしまわないと困ったことになるので、話の方はこの辺りで一応中断して村を案内してもらった。
 村のほぼ中央に食堂や市場、理髪所、洋服店などの施設がある。みんな公共の経営だ。そのそばに鐘があった。戦争のとき、アメリカの爆撃機が投下した不発弾をそのまま逆さ吊りにして作ったものだ。この鐘の音を合図に農村の作業が始まり作業が終る。組合副委員長の梁昇鎬さんが叩いてみせてくれたが、耳をつんざく大きな音がする。四キロ四方に響き渡るという。
 赤塗りのトラクター十台も並んでいた。最寄りの駅まで歩いて四十分。バスはきていないし、自転車やリヤカーはまだ普及していないので、トラックを往復させて利用するそうだ。市場をみる。衣類、柱時計、日用雑貨や荒物類、瀬戸物などが一ヵ所にまとまって売られている。十二月に入荷したという白木綿の布地に人気が集まり、おかみさんたちが群がっていた。
 魚屋、八百屋、肉屋はすぐ隣り。暇がないのでチラッとのぞいてすぐ次へ廻るのだが、平壌のデパートや頂点などの印象で想像していたよりもこの村の生活は豊からしい。品物の量も多く、恵まれているようだった。
 理髪所はもちろんイナカの床屋さんふう。三人の理髪師がハサミを動かしており、”いつもキレイに”と標語のポスターが張ってある。
洋服屋さんというのはクリーニング店といっしょで、もちろんプレスもやる。ミシンが六台に若い女の裁縫師が三、四人就業しており絹の朝鮮服などが縫われていた。
 住宅は一戸当り六畳くらいの居間二つの客間一つ、台所が別についている。カワラ屋根、白壁ぬりで平屋建て。一戸一戸かなりの空地を前後にとってキレイに並んでいる。軒には分配されたモミのカマスが高く積み上げられているが、盗難の心配はないという。北朝鮮ではこの点極めて安心で、われわれが物をうっかりどこかへ置き忘れても紛失してしまうことは全くなかったし、スリやカッパライの心配は全然しなくてすんだ。
 最近建てたばかりの共同浴場をみた。タイルなどというしゃれたものは使ってない。セメントで浴槽、洗い場などを塗り固めたままで見栄えはよくない。もちろん農民たちの手造りである。しかしモーターで水を汲みあげ、石炭がまでどんどん涌かし、午後六時から午前一時ころまでいつも入浴できるし婦人浴場の隣りには共同洗濯場まで設けてある。三十人から四十人の乳幼児を収容する託児所があった。村全体で同じようなものが六ヶ所に配置され、それぞれが幼稚園も付設されているそうだ。こどもの部屋はオンドルで暖められるようにしてあった。
 昨年新築した三階建ての学校があった。資材は国から補助してもらったが、あとは組合だけの力で建てたという。装飾の部分はまだ工事がすんでいなかったが、校長先生が待っていて校舎の中をみせてくれた。
 教室数は四十三、付属室が十。生徒数は人民学校六百十八人、初級中学校七百八十二人、農業学校四百三十二人でこの三つが同居している。教員は合計五十七人。
 正月なのに教室の一つでは十数人の生徒が一生けんめい勉強している。歴史研究サークルだという。正面の壁には金日成首相の額、周囲の壁には朝鮮独立闘争史などの年表たくさん張ってあった。
 田んぼへ出て灌漑の水路や水門をみせてもらう。巾四メートルぐらいの水路は真白に氷っている。金泰老人に水門のそばへ立ってもらって撮影。もう日は沈んでいた、。
 作業班の現場事務所などをのぞいて再び会議室へ戻り、中断された話を再開することにした。質問も答えも全部通訳が入るので、時間をとることおびただしい。
問「委員長の日課について?」
姜委員長「朝九時に事務所へ出る。そこで朝礼を行い、十三人の常務委員の視察分担をきめ、それぞれ作業現場へゆく。私は途中、住宅に寄って家庭に残る老人のこと、燃料、健康、家庭建設などの問題で一、二軒ずつ歩く。現場では一、二時間みなといっしょに働き、夕方再び常務委員が集まってその日の作業について意見を交換、だれだれは疲れているとか、どの班ではどういう問題を解決せねばならぬかを討議する。しそて作業計画を作り六時半ころ家に帰る。作業計画は常に三本立てで作ってある。つまり、一日、五日、一ヶ月の三種類である。」
問「協同組合の運営が軌道にのるまでには、いろいろ問題があったと思うが?」
姜委員長「五四年の組織当時、一日八時間労働ではとても間に合わなかった。国家の供給で五六年度からトラック、トラクターが入った。このころから組合員で借金をもつ者は一人もいなくなり、食糧も豊富になった。個人農の人もつぎつぎと組合に入ってきた。いまでは組合自体で農機具を生産するまでになった。」
問「三十七人の地主の消息は?」
姜委員長「知らない。他の地方に移り、それぞれ働いて行きている筈です。これはもと地主だった者はその土地に住んではならないことになったからで、希望に従い,行く先をきめ住宅も割当ててもらって分散しました。解放後は地主と小作人を分離する方が社会の進歩に役立つからです。この部落にも他の土地で地主だった人が移ってきましたが、また他所に行き、いまではおりません」
問「婦人の一日の生活は?」
朴竜女さん「男は一ヶ月二休日は五日ですが主婦は七日あります。そして作業所へ出るのも男より三十分遅れだし、夕方の終業は一時間早くていい。乳幼児のある母親はこのほか午前と午後に三十分ずつの授乳時間が与えられます。昼食時間に託児所からこどもを連れて家に帰りいっしょに食事します。」
崔栄子さん「合唱のサークルに所属しており作業の休み時間に練習します。映画や行事のない夜は基本練習にあてます。
 民主成年同盟の会議ではマルクス・レーニン主義や党文献などの学習のほか、党と政府の方針にそっていかに活動すべきか、また組合員の前に横たわる問題はいかに解決するかを討議します。
 たとえば十二月に開いた会議では自給肥料生産の問題をとりあげました。
 これは塔中央委員会で討議された三つの問題のうち、人民経済計画に関連するものであります。
 自給肥料というのは泥炭のことです。そして一人毎月三トン当りの泥炭採取を決議し実行しました。もちろん時間外労働です農村機械化が進んだので労働が楽です、むかしの三分の一も疲れない。
 泥炭は近くの低い山の間などにあり、三十センチも掘れば出てくるところもある。運ぶのはトラックだから三トンといっても問題は発見してトラックに積みこむだけです。これを田に埋めておけば自然に腐食していい肥料になるのです。水をよく吸うのでこの点でも助かります。十二月には六千五百トンを掘り出しました。肥料に使うことも出来ます。泥炭利用は解放後はじめたことです。
朴竜女さん「むかし朝鮮には”ニワトリのメスが鳴けば家が滅びる”というコトワザがあった。女を卑しくみて、いいたいこともいうなという意味です。女性にとって、当時では想像もできない生活条件がいま確立されました。
 私は若いころ、徐尚隣というところで農奴をしていた。、一生けんめい働いても、貰う食物はいつも冷たい残飯だけ。それを食べながらご主人の湯気の立つお膳がうらやましかった。そういう生活が今時分のものになったのです、倉庫には米がある。
いまお膳に向かうと一生の間働きつづけてきても暖かいご飯を食べられなかった母を思い出す。夕食後、家族といっしょに映画をみるとき、南朝鮮や日本へ行った親類のを思う。こういう幸福な生活は決して天から降ってきたものではない。自分たちの闘いとったものだ。国家の正しい農業政策の元で保障された生活だ。自分の幸福を思うたびに金日成首相を思い出す。」
崔応漢さん『日本のみなさんにとくに訴えたいのは,再び戦争をしてはならないということです。私は軍隊で前線にいたので生き残りましたが、帰ってみたら家は焼かれ家族五人は全部死んでだれもいませんでした。一番上の兄は占領期間中に米軍に虐殺され、妻は強姦され妊娠しました。米兵に連れられて行く途中、信川付近で爆撃で死んだそうです。両親も弟も爆撃でやられました。私は身も狂わんばかりでしたが、村の人たちから家もフトンももらい、その後再婚して女の子が一人います。歴史をふりかえってみても、私たちがアメリカ人に対してホッペタ一つなぐったことがあったでしょうか。それなのにこんな悲惨な目にあわされました、人類の間で再びこんな悲劇をくり返してはいけません。」
 村の人たちの話は尽きなかった。朝鮮人の対米憎悪がどんなに強いかを示す言葉は強烈だった、。戦争中、われわれが吹きこまれた”鬼畜米英”のスローガンを思い出させるに十分だった。
 朝鮮人の戦争体験は朝鮮人自身のものとして、われわれが口をさしはさむ余地は全くなかろう、しかしそれほどまでに激しい憎悪感を一つの民族に対して別の民族が抱いているということ、これを眼の前で見聞きするとき、どうにもやり場のない憂うつ感が沸き起こってきて仕方がなかった。
 この夜、われわれには平壌でもう一つの仕事が残っていた。メモを閉じて暇をおこうとするとさえぎられた。「食事の準備ができました。正月に訪れた客をそのまま返すわけにいきますか。食堂でサークルの演奏でも聞いてくつろいで下さい」と熱心に引きとめられる。
「それでは」ということになり、食事しながら二十人ばかりの青年男女の演奏や合唱を聞いた。一段落したところで、
「こんどは日本の歌を聞かせて下さい」
という注文、下手な歌にも拍手が沸いた。特産の人参酒はかなりまわっている。テーブルをめぐって踊りが始まる。姜委員長も金老人も崔さん、朴さんもみんな踊る。われわれも手をとって教えられ、踊りの輪に入れられた。思わぬところで思わぬ正月を過ごす羽目になったものだ。

板門店の農林
 農村をみた経験はもう一回ある。
 十二月三十日、板門店の軍事境界線(いわゆる三十八度線)を見学した帰り、平和里農業協同組合に立寄った。板門店のすぐ近く、耕地や住宅の一部は非武装地帯内にふくまれているとかで、もともと韓国側であったのが、停戦協定後は北朝鮮側になった村である。地理的には三十八度線より南にある。
 ます管理院長の説明をきいた。それによると、組合員は七百五十四世帯、三千六百人で水田五百町歩、畑二百五十町歩をもつ。作物は稲を中心とした穀物で、人参栽培を副業とする村である。
 最初に組合を組織したのは一九五四年で、それまで一町歩当りよくみて二トンだった収穫が四トンにあがった。しかし分配は,提供した労力のほか、出した土地の割合をふくめて行う”第二形態”をとった。五六年に全戸が参加した時には配分は”第三形態”すなわち労力のみに応じた分配に転換した。
 協同化完成後、生活水準は高まり、五十六年にまず電気が入った。同時に有線放送設備もできた。それまで防空壕暮らしだった農民も五七年には草ぶき屋根の臨時住宅ながら全部家をもつようになった、しかしこれも六十年八月十五日までに全部カワラ屋根の文化住宅に建てかえることになっている。
 最近ではミシンが二百五十台は入り、収穫は町歩当り五トンになった。五九年度、一戸当り平均三トンの穀物と現金三百円を分配した。付属商店をはじめ診療所、共同浴場、学校を建設した。村からソ連留学生も一人出した。
 停戦後に植えた人参が六十年から収穫期に入るので、こんどは一戸当り現金九百円(日本金一万三千五百円)穀物四トンを分配できるだろう。
 以上が管理委員長の話しだった。
 平和里農協には作業班が三十二班あり、一班平均五十人で構成する。農産二十五班と人参、養蚕、果物、牧場、機械、野菜、建設が各一班である。班の労力者は満十七才から六十才(女は五十五才)までで、老人は付帯能力として数える。
 作業計画とともに標準作業量が班構成についても総会で決定し、不公平のないようにする。洪純芬 さんは二十七才の女性。二年前から養蚕作業班長をやっている。
「農産二十五班のうち七班までが女の班長です。みんな会議でもよく意見を延べるし女性の地位が高まりました。共和国になってとくに感ずるのは、人間に対し差別をつけないという点です。
 浴場ができ、最少限度週一回はだれでも入浴するようになりました。洗濯や裁縫も協同でする準備をしているし、映画もみます。サークルの文化活動が盛んで生活水準は眼にみえて工場してきました。自分の仕事にみな誇りをもっています。」
 と語った。
 平和里は北朝鮮のなかではどちらかというと立ち遅れた農村だという。なるほど戦後の臨時住宅だといういまの農民の家は泥造りに草屋根だ。それに屋根そのものが低い、というより家全体が小さく貧相だ。
 しかしそこに働く人々、少なくとも新しい平和里農村の指導的立場にある男女はいずれもさかんな意気に燃えていた。それも中味もなしにただ大言壮語するという精神主義者たち、ハッタリ屋たちではなかった。しっかりと数字をつかみ、目標をたて、着実に計画を実行してゆくタイプだと見受けられた。彼らの進む道程には、あるいはつまづきもあろう、計画の誤りを露呈することがないでもなかろう。しかし国全体が完全な社会主義、共産主義化を目指して居地目線にかけてゆく、この大きな流れのなかでは、つまづきも誤りも大した問題ではなさそうだ。少なくとも北朝鮮という国がいわば上り坂にあるといえるここ当分の間は、そう断言できよう。農村を通じてみても北朝鮮は激しい若さを関させる新興国であった。








(注) 共同経営の第一形態は、作業だけを協同でおこなう固定的労力相互扶助班であり、第二形態は、土地を統合し、共同経営を運営するが、労働と土地によって配分を行う半社会主義形態であり、第三形態は、土地とその他の基本的生産手段を統合し労働によってのみ分配を行う完全な社会主義形態である。
     





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はだかの朝鮮人ーあとがきにかえてー 読売新聞社:嶋元謙郎

 われわれ紅潮記者団一行七人が、平壌飛行場に降りたったのは十二月十八日。同じ卑怯状から飛びたったのが一月五日だから、朝鮮には正味十九日間滞在していたわけである。
 わずか十九日間で朝鮮の全貌が分かるはずはなし、語る資格もない。しかしわれわれは朝鮮滞在中にこの目で見、この耳で聞き、このハダで感じた記録を、率直にありのままにこの冊子のなかで書きしるそうとこころみた。それが戦後はじめて正式に朝鮮を訪れた記者団として当然の義務であると思ったからである。
 わずかな滞在期間ではあったが、われわれはなるべく広く深く朝鮮を知ろうと、文字通り夜を日についで、視察し、取材を行った。元日の日まで、通訳や案内役のシリをたたいて取材したほどのどん欲さで、われわれ一行のある記者などは二年分の仕事をやったと悲鳴をあげたほど。それでも、帰ってみると、視察しそびれたり、聞きのがしてきたことがたくさんあった。だからこの記録も決して完全無欠なものではない。しかし、その不足を補うため、朝鮮で発行している文献を利用することはさしひかえた。というのは、それらの文献を信用するかしないかの問題ではなく、われわれが見、聞き、感じた以外のことであるからだ。
 その点、これはあくまでもわれわれのメモによる記録である。ハッタリや誇張ないのはいうまでもない。

ある韓国人記者
 なぜ、われわれが、このようにこだわるのかといえば、一部の心なき人たちから、洗脳されてきたのだろうとか、宣伝に迷わせたのだ、というような中傷がなされているからである。それに答えるために、次の話をしよう。
 われわれが香港から日航機で帰るとき、途中立ち寄った台北から、韓国の商人三人と新聞記者二人と隣り合わせて坐った。たまたまわれわれが朝鮮の「ピョンヤン(平壌)」という煙草を吸っていたことから、お互いにそれと分かって話しあったが、
「北朝鮮はどうなっていますか?」
と聞くから、
「お話しするよりも写真をごらんなさい」と、われわれの写してきた写真を披露した。商人たちは
「解放前の平壌は知っているが、これでは全く見当がつかない。同じ土地つづきのところに住んでいて、こんなに立派になっているとは知らなかった。すばらしい」
と感嘆していたが、韓国の記者諸君はウソだといって信用しようとしない。適当につくった写真だというのだ。こちらも同じ新聞記者だからインチキ写真呼ばわりされたのではハラの虫が承知しない。それではフィルムをお目にかけようというこよになった。ところが、その記者たちはあわてて断った。
「フィルムは見たくない。」というのである。
フィルムを見れば、その写真がつくったインチキのものであるか、あるいはありのままの姿をとらえたものであるかは一目でわかる。もちろんわれわれのフィルムは、修正や誇飾のないそのものズバリであるから現在の朝鮮の躍進ぶりが”真実である”と認めないわけにはいかなくなる。それがイヤなのだそうだ。真実を探り、報道するのが新聞記者の勉めであるからには、この記者たちは新聞記者としての使命を捨てたともいえよう。批判精神に富んだ新聞記者ですらこうなのである。われわれは彼等の頑固さを悲しむと同時に、真実から目をそむけようという人が、いかに多いかを知った。
 韓国系の人だけではない。日本人のなかにもいる。しかも、それがかつての朝鮮に住み、朝鮮で働いていた人に多いのである。その人たちのために、わたしは一言語らなければならない。

清潔、勤勉、親切な朝鮮人
「朝鮮民族というのは、こんなに立派な人種だったのか」
 朝鮮にいったわれわれ一行は、異口同音にこういって驚いたものである。それまで朝鮮人に対する蔑視感情があったわけではない。日本人より以上にすばらしいかもしれないという感嘆と垂えんの声だったのである。
 私にいわせれば、「現在朝鮮に住んでいる朝鮮人と、むかしの朝鮮人とは、全く人種がかわっている。」とさえいえる。
 実は私は三才のときから中学を卒業するまで、十五年間を朝鮮で育った。いまの私の年令からいえば、ちょうど人生の半分を朝鮮で送ってきたことになる。いうなわば朝鮮は私にとって第二の故郷だ。
 だから、私は朝鮮人については、こどものころからつき合って詳しく知っていたつもりである。その私が、目を見はったほどの変わりようなのだ。
 いまでも朝鮮人といえば、不潔で、怠け者で、手ぐせが悪く、乱暴で粗野だ.......などと、ハシにも棒にもかかわない遵守であると思って居る日本人がいる。ところが実際に朝鮮で会った人たちは、清潔で、勤勉で、親切で、おとなしい。いわばまるで正反対の人ばかりである。
 一例をあげれば、私が平壌について翌日、該当で煙草の吸殻を捨てたところ、たまたま通りかかった中年の婦人が「アイゴウ(ああ)!」といってその吸い殻を拾ってタモトに入れた。吸殻を拾って吸うほど煙草に困っているのではさらさらない、吸殻を歩道の両側のクズ入れに捨てるために拾ったのである。日本での週間とはいえ全く私は穴があれば入りたいほどの恥ずかしい思いをした。
 朝鮮では日本のように、くわえ煙草で歩いている人は一人もいない。煙草を衰退人は、両側の歩道に約数百メートルおきに置いてある高さ五十センチほどの白いセメントづくりの灰皿兼ゴミ箱のまわりで吸っている。また、むかしは街頭でよく手バナをかんだり、タンをはいたものであるが、ついぞお目にかからなかった。中国では街角に「放啖罰千金」とか「不放啖文明化」などというポスターが貼ってあって、タンをはくのをやめる運動を行っていたが、朝鮮ではそんなポスターは全然見かけない。それほど清潔になっているのである。たまにくわえ煙草で歩いていたり、放啖している人を見掛けるが、いかんながらこれは全部日本から帰国したばかりの朝鮮人である。日本にいる朝鮮人だけでなく,われわれ日本人も見習ってよい点だろう。
 朝鮮人は勤勉だ。工場や農村では、一日の労働が終わっても,なおクラブや民主宣伝室で、勉強したり、実習している人が多い。少しでも技術を向上させるためだそうだが、こんな熱心さもかつてはなかったことだ。朝鮮が朝鮮戦争の廃墟のなかから、わずか六年の間に不死鳥のように立ち上がった原因の一つは、こういった朝鮮人の勤勉さであろう。
 とにかく、朝鮮人はすべての点で変わっていた。その原因は何だろうか?
 日本人が知っている朝鮮人とは,日本の植民地下にあった時代の朝鮮人であり、日本という”異国”に住んでいた朝鮮人だ。差別と屈辱と搾取にあえいでいる姿である。つまり、ゆがめられていた朝鮮人観にすぎない。真の、ハダカの朝鮮人ではなかったわけだ。
 朝鮮に住む朝鮮人は、母なる祖国を持ち、民族としての誇りと自信にみちた朝鮮人である。これが本来の姿なのだ。われわれははじめて朝鮮人の本当の姿、ハダカの朝鮮人を知ったといえよう。人種が変わったと思うのも当然だ。愛する祖国を持ったということが、こんなにも人間の性格をかえるものが、私はつくづくと感じいったことだった。
 「まず、朝鮮人観を改めなさい。さもないと朝鮮に対する評価を誤るから。」私は声を大にしてこう叫びたい。
 
すばらしい親日感情 
 われわれが朝鮮を訪問して一番嬉しかったことは、朝鮮全土にわたって対日感情がすばらしく好いことだった。それは「好い」というよりも、親日感でもちきりであり、友好親善の気運が爆発していたといえよう。
 金日成首相をはじめとする政府、労働者、言論界はもちろんのこと、どんな片田舎にいっても、じいさん、ばあさんまでが日本人だとわかるとよってきて握手を求めた。
「在日朝鮮人軒国が実現したのは、日本の国民が人道的な立場に立って協力に帰国問題について協力してくれたからだ。こんな立派な日本人と、ぜひ親善を深めたい」
というのである。
 実はわれわれは、かって日本人が朝鮮を植民地として搾取してきたという引け目を負っている。どんなにひどいことをしてきたか、無茶なことをやってきたか、についても知っている。いわば”低姿勢”で訪問したのであるが、われわれの杞憂はすぐに吹き飛んでしまった。日本人の傷跡には触れない。暗い過去をむしかえして日本人をせめようとしない。過去は過去、今後は今後、とはっきり区別しているのである。かえってわれわれの方が、過去の日本のやり方を反省せざるを得ないような有様だった。
 この事実は、朝鮮人たちがいかに熱烈に同胞の帰国を待ちわびて板かということを物語るもので、帰国朝鮮人が増えれば増えるほど、親日感情が加速度的に高まっていくことが想像される。
 また帰国した朝鮮人で、日本のことを悪くいう人は一人もいなかった。われわれは赤十字のマークの入った新聞記者章をつけていたが、街を歩いていると帰国朝鮮人が向こうから飛んできて、嬉しそうに話しかける。ホテルにもよく訪ねてきたりした。その人たちは、差別と貧困の生活にあえいでいた日本時代の苦しさは、ほとんど忘れてしまって、帰国に際しての日本人の歓送や賜物などのあたたかい思い出しか残していない。楽しい「思い出を語って」いるのである。近所の人に話のも、この思い出だ。だから、この人たちによっても、一層の親善のタネはまかれようというわけだ。
 こんな親日感情に富んでいる国を隣国としてもっている日本人は幸福である。互いに往来して仲良くしたい、という気持ちになるのは当たり前だ、。とこRが、現在の日本政府は、「仲良くしよう」とさしのべている朝鮮の手を、邪険にふりはらっている状態だ。
 日本政府の対朝鮮関係は、対中国関係よりも一段ときびしい。
 たとえば、われわれが、在日朝鮮人の帰国受入れ状況を報道するために、朝鮮対外文化連絡協会の招きで朝鮮に出かけるということが、はっきりわかっていながら、政府はパスポートの行き先に「朝鮮民主主義人民共和国」と明示するのを拒んで、通過国にすぎない「中華人民共和国」と記入したくらいだ。当時国会でパスポートに「ヴェトナム人民共和国」と記入したことが、北ベトナムを商人している証拠ではないかと問題になっていたためでもあるが、われわれは行先が迷うかわせめて「朝鮮(北半分)」ろか「北朝鮮」と書いてくれと要求しても、「朝鮮」という字を書くことだけはかんべんしてくれという始末。それほど政府は「朝鮮」に触れることを恐れているのである。まるでライ病患者のような扱いだ。
 
日朝の文化交流
 日本政府はこれまで北朝鮮からの朝鮮人の入国を、ただの一度も許可したことがない。
 ”半島の舞姫”として日本人にもたくさんのファンをもつ崔承喜さんを、日本に招こうという運動は数年前からおきている。崔承喜さんも初舞台を飾った日本での公演を、一生の楽しみにしており、これまでに日本の招聘団と前後三回にわたって契約書を交わしたが、いぅれも日本政府の入局拒否でフイ。同じく国交を回復していない中国からは、京劇などの文化人が来日したことを考えると、一段と朝鮮は差別待遇されているといってよい。
 そればかりではない、朝鮮が熱心に要望していた東京オリンピック大会にも参加を認められず、また東京で開かれたオリンピックサッカー審判の講習会にも、代表が香港まできておりながら日本のビザが下りずにむなしく帰ったという事実もある。「重要なことは参加することである」というオリンピック精神や、スポーツに国境はないというスポーツマンシップの鉄則も日本政府にはいれられなかった。
 さらにこんどの帰国船による日朝新聞記者団の相互交換も、政府が朝鮮記者団の日本での取材の自由を認めないために、いまだに実現されない状態だ。
 人間の交流だけでなく、文化品の持ち込みや貿易までもしぶっている。昨年十一月の読売新聞社の後援で東京で開かれた「今日の朝鮮店」の出品物は、十ヶ月間東京の倉庫に眠ったのちにやっと許可されたものだし、貿易にしても直接日本に輸入することはできない仕組みになっている。
 朝鮮との貿易は三十年十月の次官会議で「不許可の方針」が立てられ、現在でも効力を発揮している。ところが朝鮮の地下資源、とくに茂山の鉄鉱石は純度の高いことで日本の鉄鋼界にとってすいえんの的だ。これを輸入するためには一たん香港まで運び、香港の商社から買付たという口実で日本にもってきている。三角ルートを経てくるから、当然値段も高いが、業界では争って飼っている現状だ。結局三十四年十二月十七日に通産省は、輸出する場合は朝鮮に直接送ってもよいとタガをゆるめたが、それもほんの一部品目だけ。重機械類や金額のはる品物の輸出は、禁止されているか、あるいはいぜんとして香港経由である。
 朝鮮にとっても日本から買いたいものはたくさんある。昨年六百億円に上る火力発電装置を日本に引き合いにだしたほか、毎年タイヤ、機械、自動車、織物、雑貨などを欲しがっている。しかし、これも日本政府の不許可のためご破算になり、ここ一年の間に、イギリスや西ドイツと高額な取引をしている有様だ。朝鮮という目の前の大きな至上を荒らされるのだから日本の業者にとっては、”頭痛のタネ”。国際市場の「朝鮮行き」のバスに乗りおくれるなとあせっている。
 もうお分かりのように現在の日朝関係は、朝鮮が積極的に文化、スポーツ胃、経済の交流を望んでいるのを、日本側が拒絶しているといった状態である。もちろん日本としては朝鮮半島が朝鮮民族による単一国家として統一され、その国と国交を結ぶことが最も望ましいに違いないが、現状は雪どけにあるいまの世界情勢をもってしても、三十八度線で南北に二分されている韓国と朝鮮との早急な平和統一はむずかしい。しかしそれだからといって、統一されるまで今日の状態を続けるというのは能のない話ではないだろうか。
 日本政府の不許可の理由の一つは、韓国関係をおもんばかってのことである。釜山に緑流されている日本人漁船員を一日も早く日本に迎えるために、日韓会談をなんとかまとめようというハラもあるだろう。、もちろんわれわれも,日本人漁船員が早く釈放されて故国に帰ってくることを望んでいる。


北朝鮮の記録 : 訪朝記者団の報告 (上) 

└ 2015-07-01 09:20

本稿は、1960年に新読書社から発行された「北朝鮮の記録 : 訪朝記者団の報告 」を紹介しています。帰国事業当時「38度線の北」同様、大きな影響を与えたと思われる訪朝記事です。現段階でのコメントはつけません、一つの歴史的資料としてお読みください。

北朝鮮の記録 : 訪朝記者団の報告(1960年 新読書社)

目次


近くて遠い国 ーまえがきにかえてー 共同通信社:村岡博人
「帰国者」が平壌に着いた    産經新聞社:坂本郁夫
政治のはなし 読売新聞社:嶋元謙郎
経済について 読売新聞社:秋元秀雄
重工業をめぐる話題 読売新聞社:秋元秀雄
住宅建設と市民生活 共同通信社:村岡博人
教育と福祉衛生 読売新聞社:嶋元謙郎
文化・芸術・スポーツ    共同通信社:村岡博人
農村を訪ねて 毎日新聞社:清水一郎
はだかの朝鮮人ーあとがきにかえて 読売新聞社:嶋元謙郎
 



  近くて遠い国
           ーまえがきにかえてー



                        共同通信社社会部:村岡博人


 われわれ日本人記者団七人を乗せた朝鮮民用航空の特別機が、瀋陽を出てから三十分も経った頃だったろうか、紺色の制服を着たスュチュワードの一人がそばにやってきた。腕時計を差しながら何か朝鮮語で語りかけている。言葉は通じないが時計を一時間進めろということのようだった。
「なるほど中国と朝鮮は一時間時差があるんだな」そう想い、時計の針を動かしながら見下ろした窓の外には、雪化粧した山岳地帯がどこまでも続いていた。日本を出て香港に着いた時一時間おくらせた時計をまた一時間進めるーーー「日本時間にもどったんだな」という感慨と共に、ここにくるまでの長い旅のことが映画のコマのように次々と頭に浮かんできた。やっとこさ朝鮮に入国したというのが率直な感じだった。
 在日朝鮮人の帰国が開始されると決まった時、日本の新聞、放送等あらゆる報道機関は朝鮮へ特派員を送ることを考えた。帰っていった人々がどのように迎えられ、どんな暮らしをすることになるのか、落ち着き先を見届けるのが主な目的だが、帰国船の往来が始まる前の雰囲気では、帰国を妨害する”韓国系”の朝鮮人が、航行の途中で何をやり出すか分からないという心配もあったからだ。
 そのため日頃から在日朝鮮人の帰国問題を取材してきた日本赤十字記者会のメンバーは、朝鮮赤十字会と交渉、帰国船を利用して日本と朝鮮の記者の相互交流をやろうという話をまとめていた。ところが日本政府はどうしても帰国船に乗ることを許さなかった。色々と交渉しているうちにとうとう第一次船は、一九五九年十二月十四日、新潟港から朝鮮の清津港に向けて船出して行ってしまった。それではという訳で、日本政府を口説き落とし中国行きの旅券と平壌までの往復の旅費、一ヶ月分の滞在費に相当する外貨をもらって、香港、北京経由朝鮮に入ったのがわれわれ五社七人の特派員、朝日新聞の入江徳郎、岡光真一、読売新聞の秋元秀雄、嶋元謙郎、毎日新聞の清水一郎、産經新聞の坂本郁夫、それに共同通信から私だった。
 朝鮮は、寒い、寒いという話をさんざん聞かされ、厚いオーバーを着込んでいったわれわれは、まず香港の飛行場で人々の好奇の目にさらされた。ここは冬でもオーバーいらず、背広姿であるき廻ってもちょっと汗ばむほどの暖かさだったのである。
 次になやまされたのは、しちめんどうくさい税関の手続き。とくに経済断交以来厳しくなったといわれる中国の税関では、「中国を二つに分けて書いている」という理由で、わざわざ東京から朝鮮へ持って行こうと重い思いをしてさげてきた「世界年鑑」を取り上げられる一幕もあった。「中国で使うんじゃない、日本の資料として朝鮮の人にあげるんだ。中国の国境を出て朝鮮に入る時には返してくれ」と頼んでみたが、鋭い目つきをした税関の人は急に日本語が分からなくなったかのように返事してくれなかった。
 冬だというのに夾竹桃の紅い花が咲く南の国境の町深 から、口がこわばってしゃべるのもおっくうになるくらい寒い瀋陽まで二日で飛ぶ、中国縦断の旅は決して楽なものではなかった。
 今になって考えてみれば、香港、北京、平壌という三つの都市を比較出来るという利点もあった。豪荘な邸宅と、イワシの缶詰を積み重ねたように天上の低い部屋に貧困者がぎっしりつまっている難民アパートが鋭い対照を見せている香港、公私合営の商店や古い屋並みも残っている北京、それと朝鮮の民主首都(朝鮮では南北の統一が出来るまでの仮の首都としてこう呼んでいる)平壌を三つ並べてみるとそれぞれの違いが一層はっきりした。しかし船で行っても三〇時間で行ける新潟清津間約千キロを、飛行機を使って四日間、約七千キロも廻り道させられ、時計の針をおくらせたり進めたりしなければならなかったことを考えると、不合理なことを強制された怒りが胸にわいたものだ。 

古くて新しい隣国

 近くて遠い国ーーそれはもう朝鮮の代名詞としてどこへ行っても通用する言葉になってきたようだ。この言葉の意味は単に近い隣りの国へ行くのに馬蹄型に遠回りして行かねばならないという地理的な交通上の問題だけをいっているものではない。
 ドイツ統一党ドレスデン市委員会の機関誌「ザクセン新聞」の記者ヴォルフガンク・フェル・ステル氏は、東ドイツから地球の円周の四分の一を廻ってはるばる朝鮮にやってきた時、「ドイツと朝鮮は遠くして近い。遠いという距離感格は地理上のことだけであって、政治、経済、文化の上ではそういう距離感を持っていない。二つの国は多くの点で非常によく似ている」といった。私が朝鮮で感じたのはこれと全く逆のことだった。日本人が近くて遠い国という場合、こうした政治、経済、文化の面での距離感もその内容をなしている。
 日本と朝鮮は古くから非常に密接なつながりがあった。往来をはじめたのは一世紀の末ごろといわれている。そして大和朝廷が日本をほぼ統一したころ、朝鮮にあった高句麗と百済、新羅の人たちが続々と海を渡ってやってきたらしい。これらき家人の持ってくるすぐれた大陸文化は、島国日本の人たちにとってどんなにか驚異であり貴重だったろう。こうした帰化人との協力で複雑な織物、武器ができ、国家、社会の制度などが進歩していった。近畿地方の古墳から発掘される遺物の中には、新羅の鏡や、高句麗の剣等と同じデザインのものがいくつも発見されている。東京都下調布市のはずれにハイキングコースで親しまれている深大寺という天台宗のお寺がある。この寺は約千三百年前、この辺りに住みついた高句麗の帰化人が仏の助けで日本娘と結ばれた、その感謝の印に建立したといわれている。近くの駐在所の住居簿には「高麗(こま)」の姓が沢山みられ、このロマンスのような古い日本と朝鮮のつながりを今に留めている。このような地名は日本地図を広げると全国に幾つもみられる。
 古代の日本語と朝鮮語には非常に似ていたらしい、現在でも朝鮮語と日本語は構文が同じで、敬語などもあり発音の似た単語もある。日本書紀などには朝鮮語の発音がそのまま漢文で記された箇所がかなりある。鹿児島県伊集院郡の苗代川部落のように、今でも氏神様のノリトを古代の朝鮮語で上げているところもある。「今日も一日、明日も一日、何を嘆き悲しむことがあろうか」というような意味だそうだ。
 これほど日本の朝鮮のつながりは深いにもかかわらず、現在朝鮮半島の北半部にある政治、経済、文化は日本のそれとひどくかけはなれたものとなっている。日本がアジアに於ける高度に発達した資本主義経済の国として、アメリカへの従属関係を深めているのに対して、朝鮮は社会主義政治の実験室といわれるほど徹底し、社会主義経済建設のために猛烈な勢(で進んでいる。勿論ソ連、中国をはじめとする社会主義諸国と深い友好関係を結んでいることはいうまでもない。
 どうも日本と朝鮮の文化は生まれは近いところのようだが、そこに開花している内容は、今ではだいぶ違ったものになってきているようだ。朝鮮が生まれかわったという意味では、”近くて遠い国”という言葉は、”古くて新しい隣国”と言い換えた方が適切かもしれない。その国、朝鮮民主主義人民共和国の政治や経済や文化がどんなものか、これからわれわれ訪朝記者団の報告を呼んでいただくことにしよう。

張本へのヤジ

 朝鮮から帰ってあちらこちらで書いたりしゃべったりしながら改めて驚き考えさせられたことが一つある。それは多くの日本人が遠いイギリスやアメリカ、あるいはフランスやドイツといったヨーロッパの国々のことをよく知っているわりに、お隣の朝鮮のことをほとんどなにも知らないという事実だった。
 一つには新聞記者の交換も出来ず、お互いに知る権利が奪われているという理由もあるだろう。しかし朝鮮戦争が終ってからここ五年間に日本から朝鮮を訪問した人の数は千人に近いと聞いている。どの人たちも色々と報告している筈なのに、全くといって良いほど現在の朝鮮については理解されていないようだ。
 こんなこともあった。昔日本が統治していた時代朝鮮に住んでいたという老人たちの集まりでのことだった。訪朝記者の一人があれこれと説明しても「私は清津の町なら道の隅まで知っている」 「X Xの工場は私たちが作ったんだからーーー」といった調子でみんな信じようとしなかった。ところが写真を出して色々としゃべっているうちに、一人の老人が「私は金策製鉄所の溶鉱炉を設計した者だが、これは私の設計したのと違う」といいだした。その御陰で他の人々もやっと説明を本気で聞きだしたというのである。
 この話は極端な例だといわれるかもしれない。だが、日本人が新しい朝鮮を知らされなかったというより、知ろうとしなかった。知りたがらなかったという事実をたんてきに物語ってはいないだろうか。それは何故か、この報告書を読まれる前にちょっと考えてみていただきたい。
 プロ野球の好きな人なら未だ覚えているかもしれない。日本の朝鮮の赤十字協定がカルカッタで調印され、在日朝鮮人に対する関心も大分高まってきた頃のことだった。プロ野球大毎対東映の二十四回戦が東京の駒沢球場で行われた。ちょうど東映の張本選手がバッターボックスに入ろうとした時、グラウンド一杯に響く大声でトゲトゲしいヤジを飛ばす人がいた。
 「張本、お前は朝鮮人じゃないか、朝鮮人は国へ帰れ」。張本選手はこれに微笑で応えてバッターボックスに立ち、四球で一塁にあるいた。それを追っかけるようにまたヤジが飛んだ。「皆さん一塁ランナーは朝鮮人です。俺は朝鮮人は嫌いなんだ。」大声で叫んでいるのは、三塁そばの内野指定席に座った白いワイシャツ姿の男だった。
「私は朝鮮人です。私は笑ってあの日本人の顔をみてやりました。なぜなら、わたしは朝鮮人として誇りを持ち、自負心をいだいているからです。東映に入団するとき、日本籍に入れといわれて断ったのもそのためです。私は微笑でこたえ、そして勝ったのです」。試合の終ったあとで張本選手はこう語っていた。
 この話は”朝鮮人”とか”朝鮮”という言葉に多くの日本人たちがいだいている特殊な感情を暗示してはいないだろうか。張本選手のような有名人で、朝鮮人であるとはっきりいっている人は少ない。日本の社会に溶け込んで生活している多数の朝鮮人、とくにスポーツ選手とか流行歌手とかいう人気商売で活躍している有名人たちのほとんどは、朝鮮人であることをひた隠しにしている。
 こんなこともあった。日本赤十字社の幹部で、在日朝鮮人帰還対策中央本部の仕事をしている人が、まだ帰国船の往来のはじまらない頃、新潟の日赤センターを視察したときのことだった。厚生省のお役人から帰国者用の寝具を前にして説明を聞いた。それは自衛隊で使った古毛布で隅には前の使用者の名前や所属を書いた布が縫い付けられたままになっていた。「在日朝鮮人総連合会の幹事が視察にきた時、この毛布をみて、長い間苦労してきたんだ、日本で過ごす最後の夜くらい、せめて暖かい布団にゆっくり寝かせてやろうといった気持ちになれないのだろうかと不満顔でした」
 この報告を聞いた日赤幹部は憤然とした表情でつぶやいた「何をぬかすか。朝鮮人がぜいたくをいうな」
 これはこの人一人の特殊な気持ちとして片付けられるものではないようだ。朝鮮人を対等な外国人として扱かおうとしている人たちの中にさえ、これに似たおかしな感情が無意識のうちに流れている。”朝鮮人”と呼ぶことに何か軽侮な響きを自分から感じ取ってしまい、そうした気後れから、”朝鮮の人”とか”朝鮮からきた方”といった表現をしているのがそれだ。ドイツ人とかイギリス人に対して ”ドイツの人” ”イギリスからきた方” といった呼び方をする人はそういないだろう。どこかで朝鮮人を差別しているからにちがいない。
 こんな話をさいしょにもちだしたのはほかでもない。多くの日本人が”外国”人としての朝鮮人を今でも特殊な色メガネでみているということをいいたかったからだ。そして故意に朝鮮のことを知ろうとしなかったのではないだろうか。
 
ぬぐいきれぬ偏見 

 社会科学者たちの調査や統計でも日本人の朝鮮人に対する偏見や差別感ははっきり裏付けることが出来る。
 国立数理統計研究所が発表した国民性の研究によると、日本人がすぐれた人種や民族と考えているのはドイツ人、アメリカ人、イギリス人の順。朝鮮人は反対に南洋の土人に次いで最も劣った民族とみられている。また泉靖一京大助教授が、東京都民を対象にいった調査でも、「醜さ」「不潔感」「ずるい」「腹黒い」などの理由で朝鮮人を”嫌い”とする人が圧倒的に多かった。
 このような朝鮮人に対する”さげすみ”が、いわれのないものであることもこの頃はたいていの人が知っている。いわれがないというより、長い間の植民支配の手段として、支配者から教え込まれてきたといった方がより正確かもしれないが、そうした優越感が誤ったものであるということに気付いている人は多くなったにもかかわらず、心の底から偏見や差別感をぬぐいきれないでいるというのが現状のようだ。
 このような偏見をもって、われわれの見てきたままの報告を読めば、それが一種の偏向をおかしているように見えるのも無理はない。「五社七人がそろって朝鮮のことを誉めるのはどういうわけだ」「御馳走になって洗脳されたんじゃないのか」「もう少し悪口も書いた方が君のためだぞ」。われわれの書いたりしゃべったりしている朝鮮の報告によせられるこうした批判は、そのまま読んだり聞いたりする側の偏見の裏がえしだといったらいいすぎだろうか。
 現に”韓国”政府の機関誌といわれている東亜日報なども東京一月二八日UPI発として「日本人記者の見た北韓実情」という記事を六段抜きの囲みで掲載しているが、その見出しは「徹底的に犠牲と成った大衆生活」「経済復興は前途遼遠」となっている。
 この引用の仕方がわれわれの報道しようとした真意を伝えておらず、言葉のはしはしを意地悪く利用しているといってしまえばそれまでだが、一方でベタボメだといわれる記事が他方では全く逆の意味で使われているというのが実態だ。事実は一つしかない。
 われわれの報告を信じ難いと思う人があるとすれば、それは日本の統治時代の朝鮮を頭にえがいて、それをそのまま新しい朝鮮に当てはめて考えようとしているからではないだろうか。偏見にとらわれた頭で現実をはかろうとすれば正確に反映出来ないのは明らかだ。
 その意味でこの報告が”近くて遠い国”を少しでも日本に近ずけ(”古くて新しい隣人”たちをより正しく理解するために役立てば幸いだ。


「帰国者」が平壌に着いた
産經新聞東京本社社会部:坂本郁夫 

その日の平壌

 その日、平壌の街は、快晴とはいえ、肌を刺すような北風が吹いていた。「今日の午あとに,第一次帰国同胞が平壌に着きます。市民の間に、大変な歓迎熱がありますが、寒いので、婦人こどもは出迎えを辞退するよう、呼びかけています」私たちは、通訳氏から、こんな”前触れ”を聞きながら朝食をすませた。
一九五九年十二月二十日
 前日,空路平壌入りして、一夜明けたばかりの私たちである。商船のこと等、皆目わからないだけに、単なるニュース予告と聞き流して、夢中で真っ赤なキムチを頬ばっていた。
 ところが、午前中のスケジュールである、祖国解放戦勝記念館見学に出かけようとして驚いた。まだ十時前だというのに、ホテル前の大通りには、色とりどりの増加を持った人たちが、あるいは無言で、あるいは歌を歌いながら、行列をつくって平壌駅の方へ歩いている。
「あの行列は何ですか?」
「帰国同胞歓迎の市民たちですよ」
「まだ三時間もありますよ」
「そうです。市民たちは、心から彼らの帰国を歓迎しているのです。家にじっとしていられないのです」
 いつまでも続く行列をみて、私たちは「こりゃあ大変なことだ」と、つぶやいた。
 記念館見学を終えて、そそくさと駆けつけた平壌駅前。そこで私たちは、思わず立ちすくんでしまった。
 どこから、こんなに、沢山の人たちが出てきたのだろうか。駅前の広場も,駅から帰還者の宿泊所になる大同橋ホテルまでの幅六十五メートル、長さ一・・六キロのスターリン通りの両側も、人また人。
 手に手に、造花やノボリや小旗を持った人たちは、「キムイルソン・マンセイ(金日成万歳)を叫んだり、「金日成将軍の歌」を歌ったりしている。駅前の広場は、大きな興奮で、どよめいているのだった。
 聞いてみると.一五万人の平壌市民が、”帰国同胞”を迎えるため、自発的に出かけて来ているのだという。
 朝鮮に来る前、私は、帰還第一船を送り出すために新潟に行かされていた。帰還列車が新潟の駅に着くたびに、駅前を埋めた朝鮮総連や帰還協力団体の人たちの、派手な歓迎風景、そして「マンセイ」の越えで送られて出ていった船....................。
 過去数年間にわたって、私は”引き揚げ記者”として、中国やソ連からの帰国邦人を興安丸や白山丸で迎えにいったこともあるし、舞鶴で、待ちわびる肉親たちと一緒に出迎えたこともあった。
 日本人の帰国は、敗戦による抑留の果ての帰国であったため、歓迎風景といえば、肉親との再会に”涙する”場面ばかりだった。ところが、新潟で見た、今度の帰還は、”涙”の見えない、”歓声”一本槍の場面ばかりだった.
 その”歓声”うずまく帰還風景に、いささかドギモをぬかれ、圧倒された私たちが、わずか一週間のあとに、この平壌での、新潟の規模を数十倍上回る、”歓迎風景”をみたのである。
 「ヤッテクレタ」  私は、思わず、こう唸って、立ちすくんでしまったのである。
 北風と、大群衆の歌う「キムイルソン・チャング」(金日成将軍の歌) が舞う中に、帰還者を乗せた特別寝台列車が、平壌一番ホームに入ってきた。二十日午後一時五十三分。歌声と歓声がひときわ高まった。
 清津から平壌までの二四時間近い、汽車の旅にも疲れも見せない帰還者たちが、窓から手をふり、小旗を出して、これに応える。
 駅ホームの中央に陣取った李一卿赤十字副社長、李周淵迎接委員会委員長た、政府高官の顔が、ほころびた。
 「案内人」と朝鮮文字で書いた腕章の女学生たちが、長いホームをいったりきたりして、帰還者たちを誘導する。
 一人、また一人、帰還者たちは、ホームを埋めた人垣きから、五色の紙吹雪の嵐をうけながら出口へと向かう。

 「梯団長」と書いた赤いタスキをかけた老人が、若い男の肩車にのせられてやってくる。レイをかけ、帽子も服も、小さな顔も、いっぱいに細かい紙吹雪を付けたこどもが、手を引かれてやってくる。
 拍手をして出迎える政府高官。
 「よく帰ってきたね」ーそう言わんばかりに、差し出す高官の手を、しっかり握り、思わず「マンセイ」と叫ぶ老人。
手拍子がとられ、狂気のように旗がいちふられる。帰還者も、その歓迎のウズにまき込まれて、思わず歌を歌い、拍手をする。
 やっとの思いで駅の外に出れば、今度は一五万人という、身動きの出来ないほどの人たちに囲まれる。バスに乗るが、バスは人に遮られ動けない。
 薄い絹の服を着た若い男女が、朝鮮古来の民族芸術などの踊りや歌を、バスの前で帰還者に披ろうするのである。
 太鼓が鳴り、笛がふかれ、弦楽器が鳴る。それにあわせて、ピンクやブルーの絹の衣裳が舞う。駅前広場は、それこそ、アリの入り込む隙もないくらい、ギッシリつまっているのである。「歌」、「踊り」、「マンセイ」の交錯。
 どのくらいたったのであろうか。その広く、大きな ”環” が少しずつ、バスの通る道を開けていった。僅か一・六キロ離れた大同橋ホテルに、バスの先頭が着いたのは、汽車が着いてから三時間もたったあとだった。
 「まったく、何かに憑かれているような騒ぎだね」
ーー昼飯を抜いたことも,ノドがかわいたことも忘れて、ただ、やみくもの歓迎風景に、モミクチャにされた私は、誰かに話しかけながらタイプをたたいた。

ーー帰国者の一人、盧敬子さん(二四)=川崎市浜町四-一=の話 
昭和薬科大学を辞めて平壌薬科大学に入るために来ました。もちろん生まれたのは日本で、両親と妹は日本に残っています。やはり感激と喜びで一杯です。元気にこれからやって行こうと思います。
ー日本人妻の山中鈴子さん(二六)=千葉市緑町=も「元気で着きました。これからのことは全部おまかせします。歓迎は涙が出るほど嬉しく、知らない国という不安は消え飛びました」と語った。
行数の関係もあるし、電報事情もあって見たり聞いたりしたことの全部を書くことは、もちろん出来ない相談だった。しかし、私たちは書くべきことは、みんな書いた。
 ローマ字の電報は、平壌ー上海ー東京と打電され、二一日付各紙の朝刊のトップを、賑やかに飾った。

「北朝鮮帰還者感激の平壌入り

 市民十五万が出迎え 手に手にバラの造花持ち」
という見出しで.........。
 ”何かに憑かれたような騒ぎ”という言葉を私は使った。
平壌の街中が、誰か、名指揮者のタクトで大交響楽団が、整然と、一大シンフォニーを奏でるように、秩序整然と「歓迎劇」を、”上演”しているからである。
 日本だったら絶対に、こんな風景には、おめにかかれない。東京といわずに、どこか小さな県庁の所在地くらいの都会を想像したって、小さな村を考えたって、出来そうにないことである。
 お国柄が違うといってしまえば、それまでだが.....................。
 しかし、なぜ、この国の人たちは、こんなに、憑かれたような騒ぎを続けて、帰還者を迎えるのだろうか。ーーこんな疑問が湧いて来るのは当然だ。
 田仁徹(へんはサンズイ)、林哲さんら、われわれを案内してくれた人たちは、この疑問に、こう答えてくれた。
「朝鮮が北朝鮮と南鮮(韓国)の二つにわかれてから十五年。北朝鮮はその間、国連軍を相手に戦った。一九五三年七月、朝鮮戦争が終わったときは、傷ついた国民と、全くの焼け野原だけが北半分に残されていた」
「それから六年余、北朝鮮は遅れをとりもどすのに必死だった。学生も、婦人も、労働者も、みんなが動員されて、祖国復旧に死力を尽くした。機械なんかはもちろんなかった。シャベルとモッコ、それだけだった」
「シャベルとモッコで焼け跡を掘りかえし、土を捨て、道をつくった。有り合わせの機械で、家を建てた。レンガ工場がないので、手でレンガを焼き、そのレンガを使ってレンガ工場を建て、住宅用のレンガをつくった。戦災で廃品同ようになった工場の機械を復旧させて、どしどし立派な機械をつくるようになった」
「一千万国民の血と汗の結晶が、今、目の前にある平壌です。もちろん、まだ日本をはじめ、先進国に遅れを取っている。しかし、、かつて、国もなく、貧乏のどん底に喘いでいた朝鮮から見れば大きな発展であり、喜びである」
「金日成首相同志(同志という言葉をよく使う)も言っているように、今の北朝鮮は、まだ”中農”ほど度の段階だ。しかし”貧農”からは足を洗った。貧しいながらも”中農”なのである。二年前だったら、おそらく、帰国同胞をうけ入れることは出来なかったろう。帰国同胞を引きとるだけの”実力”というか、”下地”が出来あがったのである。ー国を持った喜び。復興の喜びーその具体的な現実として行われた「帰還」。それだからこそ、国民の一人一人が、帰還者を歓迎し、国中が「帰国」一色に塗りつぶされたのである。憑かれたような騒ぎが持ちあがったのである。
 両親と離れ、はじめてみる故郷に、期待と不安を抱きながら、第一次帰還船に乗ってきた盧敬子さんとは、平壌駅前に並んだ帰国者輸送バスの中で逢った。
 バスの中で、東京のデパートの包み紙に包んだ荷ものを持ち、何かしょんぼりと、立っていた帽子を被った若い女性。
「お疲れになりました?」
「ええ船酔いしまして...........」
 歯切れの良い日本語が、彼女の口から、とび出した。私の日本語を聞いてか、元気をとり戻したようだった。
 父親が朝鮮総連の幹部であること、母も妹も川崎に残っていること。どうしても”祖国”に帰りたかったこと。薬剤師になることを志していること........などが、スラスラと語られた。
ーー清津に着いた日、零下一五度に下がった寒暖計をみると、思わず、両親や妹のところに、飛んで帰りたい気持ちになりました。たった一人で、見も、知りもしないところにきたんですもの。
ーーだけど、船から一歩上陸した途端、私の、そんなセンチメンタルな気持ちは、どこかへとんでいってしまいました。出迎えの人たちが五万人もいたでしょうか。雪の降る、冷たい戸外で、私たちを待っていてくれ、それこそ、抱きかかえるように、休憩所に連れていってくれました。
ーーあったかい紅茶と、ビスケット。外の寒さとは比べものにならないくらいのスチームの効いた部屋。朝鮮服を着た若い女の人たちが、手をとるようにして、何でもしてくれる。温かい紅茶を、大事に、ひと口ひと口すすって、私は、新しい”祖国”に住む覚悟をかためました。
ーー大の男が、”俺たちには,こんなに歓迎される理由がない””ほんとの親子だって、これほど温かく迎えてくれない”といって泣き出し、奥さん方は奥さん方で、”もったいないもったいない”と涙を流していました。
ーー清津に四日間いて、一九日の午あと三時半、私たちは汽車に乗りました。この間中、私たちはゴチソウぜめに合いました。毎日、食べ切れないほどの料理が出ました。日本にいる朝鮮人の生活というのは、一部の人を除いては、皆、いちように苦しいものです。食べたいと思っても、買えなかった肉や魚。それが毎日、もてあますほどつくのです。
ーー「こどもが、リンゴを食べたいといっても、日本では買ってやれなかった。ほんとにリンゴの夢を見たことも有ります。それが、帰還船に乗ってから、毎日着くのです。こどもが喜んで、リンゴを食べている姿をみて私は涙が出て、しょうがありませんでした」といった奥さんもありました。
ーー清津から平壌まで、二四時間近い汽車の旅でしたが、汽車がとまれば、駅毎に盛大な歓迎をうけ、湯茶の接待もうけました。ほんとに、どういったら良いか、わからないくらいの感激です。
ーー食べなれない辛いものも食べて、胃をこわしたら........というのでしょう。清津の食べものは、私たちに向くように辛みをへらしてくれていたということです。
ーー何だか、ジーンとなっちゃった。
敬子さんは、バスのシートの背に顔を伏せてしまった。
清津に向かう
 翌二十一日、私たちは、第一次帰還者の盧敬子さんら九七五人のきた道を辿って平壌を発って清津へ向かった。
 敬子さんたちが、口を揃えていう”大歓迎”を、この目でたしかめたかったからである。
 十六時間五十分の汽車の旅を終えて、降り立った清津には雪が舞っていた。
 早速、清津市迎接委員会を訪ね、金弘善委員長、金洛(サンズイに叡の右)委員らと逢った。
 金委員長等の話によると、帰還が決まってから、わずか四0日間で、五階建て一七四室、千人を修養出来る、アパート形式の”仮泊所”(招待所)をつくったという。
「朝鮮人の生活はオンドルとは切り離せません。だから、このアパートも、全部オンドルです」という。
 招待所には,食堂、病院はもちろん、図書室、娯楽室、銀行、日用品売店などがある。
 招待所には、百五十人の専任職員がいるが、このほか、帰還船が着く埠頭にはアルバイト学生の”案内人”が数百人いる。船が着く日は、学校は休み。職場は保安員だけを残して、市民の大半が出迎えに行く。人口二十万の清津の、四分の一、五万人が第一船を出迎えたという。

「第一船を迎えて.受入れ側である、貴方たちは帰還者をどう見るか」
ー私たち記者団は金委員長に、こんな質問をした。
「抱き合って泣いた人もあるし、二十年振りにくらいで逢った肉親の変わりように、驚いて声も出なかった人もある。”劇的”という他にはないだろう。帰ってきた人は、ほとんど泣いた」
「印象に残ったことといえば、三十年振りに、オンドルのある部屋に入った老人が、涙を流しながら、骨まであったまるような気がする。ほんとに、固かった骨もとける..........と何度もくりかえしたこと。日本で生まれたこどもたちが、祖国の土を、はじめて踏んで、祖国の水をのんだ、その姿ーーこの二つは、私の記憶から永久に消えないだろう」

 二十三日は、また、雪だった。零下十二度まで下がった寒暖計は、いっこうに、あがろうとしなかった。
 メリヤスのズボン下二枚に、毛のズボン下、長袖のシャツ三枚にワイシャツ、セーター、背広、オーバー、帽子には北京で買った耳隠し付き。自動車のシートに座れば、ちょっとやそっとでは立ちあがれないくらい、ダブダブに着込んだ私は、港へいった。
 真白な粉雪が、サラサラと音をたてて降り、”最高の寒さ”に唇も紫色になる。だが、その寒さの中で、頬を真っ赤に染めた人たちが、じっと船の到着するのを待っていた。おとなも、こどもも....................。
 中には、薄いチマ・チョコリ (朝鮮服) を着た朝鮮民族芸術サークルの男女もいる。真っ白な制服の看護婦もいる。
 思わず通訳の朴さんに
「あれで寒くないんですかね」
「いやァ、みんな慣れています。」という答え。思わず首を傾げてしまった。
 「八・・一五記念日とか、メーデーとか、国の、お祝いの日には、国が号令をかけなくても、市民たちは、自発的に町に集まり、お祝いをします。こんどだって、船がいつに着くとわかれば、みんなが、自発的に出て来て、こうして出迎えるのです。国には命令はありません」
「学校だけは休んで居ますが................。みてごらんなさい。みんな楽しそうに、歌を歌い、踊りを踊っているではありませんか。心から帰国同胞を待っているのです」
ーーその”自発的”な歓迎風景はーー船が着くまでは、埠頭の休憩所の前で、船が岸壁に着けば船の前で、帰還者が埠頭から六.二キロメートル離れた招待所に入る時は、招待所の前へ..........と移動して行く。
 招待所に、帰還者が全員入ってしまえば、今度は、その前でプカプカ、ドンドンと「キムイルソン・チャング」の大合唱。
 雪を真白に被りながら、手袋もしない小さな赤い手に、時々、息をプゥーと拭きかけながら、小太鼓を叩いていた、小学校一年生の女の子の姿が印象的だった。
 に授産日は、第二次帰還者が清津に着いた日。船の到着が午あと一時三五分だったが、清津の町や埠頭で、歓迎の騒ぎが繰り広げられたのは、午前九時から午あと、夜も暗くなるまで。
 抱き合った。泣き伏した。呆然とした。我を忘れて「マンセイ」「マンセイ」と大声で叫んだ。
ーー船到着から招待所までの光景は、この言葉で表現するだけで良いだろう。
ーー精力的な歓迎。
 平壌ー清津とみて歩いて感じたことである。朝鮮の人は、あの辛い唐辛子とニンニクが大好きだ。私たちが東京で食べる朝鮮料理なんて、本場のとくらべたら”朝鮮料理”ではないような気がする。

 その唐辛子とニンニクが、精力的な、力にあふれた体をつくる。子の国民がサッカーをもっとも愛好することでも、その”力”が分かる。
 その”力”が、国を持った喜びと復興の喜びの具体的な現れとしての”帰還”で、最高度に出される。
 雪も、寒さも吹き飛ばす”熱い歓迎”。
 ほんとに、”熱い歓迎”だけがあるのである。

 北朝鮮政府は、在日朝鮮人の帰還問題が、日本政府で検討されはじめ、藤山外相が、「近く帰還を実現させる」と、はじめて明らかにした一九五九年一月、早くも、その受入れ態勢をつくりはじめていた。
「貧乏のどん底にあり、職を求めて海外に散っていった人たちを、今、国の基礎が固まり、充分とはいえないまでも、国民のみんなが安楽に暮らせるようになった時に、 喜んで迎え入れ、われわれと同じように安楽な生活を享受させること.これは、同胞愛からほとばしる民族的義務ではないだろうか」これが、その理念であった。
 このため、政府には李周淵副首相を委員長とする帰国同胞迎接委員会が出来、帰還者うけ入れの一切を行うことになった。
 もちろん、この下部組織として、日本の県に当たる道をはじめ、市、郡にも、それぞれの迎接委員会が出来、受入れ対策が、各道、市、郡別に、それぞれきそわれた。
「いつでも帰ってらっしゃい」ーー一九五八年一年間で、平壌だけで二万三千世帯分の住宅が建った。このスピードでいつでも帰還者用の住宅が出来る。何人でも、直ぐにうけ入れられる態勢がつくられていたのである。
 金日成首相も、この帰還者受入れには、大変な気の使いようで、帰還者には、当座の生活安定のために、一人あたり二百円(日本円三万円相当)の補助金を出すことを指示した。
 二百円といえば、北朝鮮では、労働者の給料の四ヶ月分くらいに当たる大金。迎接委員会では、現金を与えるよりも、必要な日用品を取り揃えてやった方が、兎に角便利であるという見解をとり、現金は一人当たり二十円(日本円三千円)を補助金として出し、残りの金で、家具、日用品を買うことにした。
 この国は、社会主義国である。自由主義国の日本等とは、恐らく、総てが違う。第一、失業がない。国民の一人、一人が、もし、その人が働ける環境にあれば、必ず”職”がある。
 だから、帰還者も、例外無く、その能力、技術、知識を百パーセント発揮出来、生活楽器、九速に安定出来るように、配置される。
 住宅があって、日用品も揃い、職場もきまる。あとは、こどもの教育。
 教育については、これも、政府の方針で、日本で大学の学生だった者は、無試験で、該当学年の大学に編入される。
 今の、北朝鮮の学校制度では、大学に入るには、高級中学を卒業あと、一度、社会に出て、二年くらい、みっちり働き、”技術”を身につけてからでないと、大学は入学資格がないが、帰還学生には、これが適用されない。ひとつの組織で動く、この国にあっては、まさに破格の出来事だ。

 中学生(高級、初級とも)、小学生については、語学の関係もあって、日本の学生より、一年下げて編入される。つまり、日本で高三だったものは、朝鮮の高級中学二年に編入される。
 もちろん、独身大学生用に、大学の寄宿舎は、空けてある。手抜かりはない。
 帰還者が、新潟で船に乗れば、あとは、ベルトコンベア式に、スムースに、ことがはこび、新潟出発後一0〜一五日くらいで、北朝鮮に安住の地が出来る仕組みだ。
張さんの話
張姞洛さんは、夫の崔元喜さんとともに、一家七人で、第一次帰還船で帰って来た。夫の崔さんは、茨城県古河市で、朝鮮総連茨城西南支部長をつとめていた人。
「日本にいたときは、とても惨めでした。お祭りの夜に、娘に一枚の着ものも買ってやれず、一銭の小遣いも持たせなかった事は,今でも悲しい想い出です。夫も、いつも熱心に仕事し、上の人ともよくやっていましたが、その勤め先が潰れたりすると、今度は、次の仕事に不安が来る。戦争中はある工場の課長まで努めましたが、戦あとは、苦しくなる一方。ついに、組織の仕事をする他無くなりました。大きくなったこどもの就職の事も考え、帰る事にしたのです」
 張さんは、帰還の事情を、こう話した。
 その張さん一家だが、二0日、平壌の大同橋ホテルに、ひとまず、落ち着いてから、僅か四日間で、夫の崔さんの仕事をはじめ、こどもたちの学校も、全部きままった。
 政府の迎接委員会の人が、本人の希望を聞き、政府の計画とにらみ合わせて、仕事をきめてくれるのである。
 崔さんは、日本にいた時、苦学して日大法学部を卒業した経歴があるので、委員会の人は、
「裁判所に勤めたらどうだろうか」といったそうだ。
 崔さんは、
「とんでもない。私には、堅苦しいところはむきません」と答えたという。
 結局、崔さんは、簿記を習ったことがあるというので、平壌精密機械工場の経理をやることになった。
 長男正竜君(二一)は、日本にいたとき、芝浦工大土木科三年に在学、東都大学野球リーグ戦では、四番を打って、一塁を守って、ちょっと有名だった。”永山正竜君”。正竜君は、金策工業大学に編入された。
 長女英子さん(一八)は音楽大学へ、次男栄司君(一五)は、高級中学、次女成子ちゃん(一一)は、初級中学、三男正守君(九つ)は、小学校にあたる人民学校へ。
 住宅には、平壌市外城区橋口洞十四亜アパート七十四班。三間で浴室付きのアパートが与えられた。引っ越しは二五日。新潟を発ったのが一四日だから、一一日目に、新居におちついたことになる。

 大同橋ホテルから、アパートに来て、ほんとに驚くことばかりですーー張さんは、こう語る。
「家に入ってみたら、テーブルや箪笥はもちろん、七人分の椅子、茶碗、湯のみ、手拭いが全部、キチンと置いてあるではありませんか」
「そして、台所には、一ヶ月分のお米と、肉、魚、野菜、調味料が置いてあり、お豆腐やキムチまである。ちょっとみて下さい。あのお豆腐まだ残っているんですよ。食べ切れなくて........」
「引っ越したら、直ぐ、隣組組織の”女性同盟”の人が来てくれて、荷ものをほどくのや、掃除を、色々手伝ってくれました。ここはオンドル式に出来ているでしょ。お米の炊き方や、オンドルの火のつけ方を、どうしようかと思っていたんです。そんな心配なんか、どっかへいってしまいました」
「馴れるまでオンドルをたいてあげましょうーーといって、女性同盟の人が、毎日、あさに来てくれるのです。見よう見真似で、私も、大分、うまくなりました。同盟の人たちは、それこそ、喜んでくれました」
「ええ、もう大丈夫です。夫は十五の時、朝鮮を離れ、日本に行きましたし、私も、こどものころに日本に移りました。だから、来る前は、やはり、ちょっと不安はありました。しかし、それも、もう解消しました。これからは、一家七人、生まれ変わったつもりでやっていきます。
「日本の、私たちの知っていた人たちは,みな親切でした。ただ、朝鮮人ということで、常に仕事(就職)に対する不安がありました。こどもを野球選手にしたのも、就職ということを考え、不良学生にならないで、明るく生きて行けるようにと考えたうえでのことでした。でも、いまとなってみれば、そんな心配もいりません.............」
 黒いチマ・チョゴリを着た張さんは、一二月二七日、新居を訪れた私に、こう明るく話してくれたのである。
 張さん一家とともに第一次船で帰った九七五人の人たちは、どのように配置されたか。委員会に聞いてみた。
 独身学生所帯を除く二四二世帯の内、一六七世帯は工場に、五世帯が農村に配置された。工場に配置された者の中には、普通工員でない技師、技術者や、専務を執る管理部門系統も含まれる。
 残り七0世帯は、社会団体、文化団体などに配置された。写真技術者は写真報道社、芸術関係者は芸術団体へ。医者は保険機関へ。その他、国家機関といわれるお役所や、職業同盟、女性同盟など、社会団体へ..........。
 もちろん学生は希望通り、学校へ入れられ、大学生二四人のほとんどは、金日成大額に編入された。
 平壌に落ち着いたのは九六世帯。残りは平安南道、平安北道に配置された。
 委員会の話では、日本で個人企業をしていた人は、その人の能力や希望によって工場等に配置、部、課長、技師になって働いてもらう。第一船の人たちの中には、自分の仕事を選ぶことが出来ない人がいたが、この人たちには、まず各地を見学旅行させ、そのうえで、仕事を選んでもらうようにしたという。
 国家の計画と、個人の希望ーーその二つによって、帰還者は、北朝鮮到着後f、一0〜一五日で、各地に散ってゆく。

ある日本人妻
 本川玉代さん(三三)は、東京都世田谷区上馬二-四六から日本橋の商事会社に勤める夫、玉末守さん(三七)とともに、第二次船で帰った”日本人妻”だ。
 おからばかり一ヶ月も食べたこともあるし、メリケン粉だけの日が二ヶ月も続いたこともがある。日本ではそれほど苦しかった。
 川越にいる七十二歳の老母は、
「あんたは、夫を好きになって結婚した。国籍が違っても、好きな人と結婚するのは当たり前。どんなに苦しくても、夫と別れたりしてはダメだ。立派な国際結婚なのだ」と、常に玉代さんを激励していたという。
 ”朝鮮に行ける日が来る”ーー新聞が伝えたのは、一九五九年の一月だった。
 玉代さんは、是が非でも、北朝鮮に行こうと、夫に話した。夫の玉さんは、
「折角、立派な勤め先があるのに。もう少し経って、よう子をみてから..........」と消極的だった。朝鮮人である夫が消極的で、日本人である妻が積極的に「帰還」をしたいと願った。
 はたからみれば妙な、取り合わせだった。しかし、玉代さんは、その日から、一生懸命朝鮮語の勉強にはげんだ。
 週二時間ずつ二回の勉強ーーその熱意に動かされたのか、夫の玉さんも一緒に帰るといい出した。
「字は読めるんですが、話が通じないので...........」
玉代さんは、私に逢った時、こう漏らしていたが、今では、もう立派に会話も出来るようになっただろう。

 玉代さんの話ではないが、帰還が実現するまでには、かなりの曲折があった。
 六0万人を越える在日朝鮮人のうち、一九五九年一月現在、北朝鮮に帰還を希望するものは一一万七千人(朝鮮総連調べ)に達していた。
 これより先、一九五八年九月八日、金日成北朝鮮首相は、在日朝鮮人の要望に応え、「在日同胞の帰国を歓迎する.新しい生活が出来るように、総ての条件を保証する」と演説、九月一六日には、南日外相が、帰還船希望者引き渡しに関する日本政府宛の声明を発表。一0月一六日には、金一副首相が、旅費負担と配船の準備があるという談話を明らかにした。
 日本国内でも、このような動きを反映して、「在日朝鮮人帰国協力会」が発足、朝鮮総連とともに、帰還実現に積極的に動き出した。
 政府は、このような背景の中に、北朝鮮問題を検討した結果、日韓会談が、いつになっても再開されそうもないこと、帰還希望者を、いつまでもとめておくことは、居住地、帰還先選択の自由に反することーーなどの理由から、人道問題として早急に配置するという方針を決め、二月一三日、閣議了解で、「帰還」を決定した。
 そして、韓国への影響もあるため。厳正中立な立場にある赤十字国際委員会に、その仲介をとってもらうことにし、直ちに日赤本社を通じて、その要請を行った。
 人道を旗印とする赤十字にバトンが渡ってから、日赤は、島津会長を中心に、全社を挙げて、帰還問題ととり組んだ。
 四月一三日から、スイスのジュネーブで開かれた日朝赤十字会談は、ある意味では難航した。
 北朝鮮側が、まず、赤十字国際委の介入は不必要であると、日本案に反対したからである。
 日本側としては、韓国からの横ヤリを防ぐため、公正な第三者である国際委の「介入」を必要条件とした。つまり、国際委が、その帰還が本人の自由意志であるか、どうかをたしかめないことには、韓国に対し、納得のゆく説明が出来ないからであった。
 四月一三日から六月二四日まで、会談を重ねること十八回、やっと、日朝赤十字の間で合意が成立した。そして、協定が出来あがり、国際委の承認を待って、調印することに話し合いがついた。
 日本側は葛西副社長、北朝鮮側は李一卿副社長を団長とする両代表団は、お互いに、よく話し合った。
 もちろん、「人道」と「政治」は、紙一重でその間のかね合いも、むずかしかった。島津社長が、ともすれば、”政治的”に動こうとする政府に、ダメ押しの陳情をするため、岸首相や、藤山外相に「直訴」したこともあった。
 妥結した朝、記者団とともに徹夜し、日赤食堂でつくった味噌汁をすすりながら、島津社長がいった言葉ーー
「やっと肩の荷がおりた感じだョ。戦争中は交換船でフィリピンの米軍捕虜たちに援護もの資を配り、戦あとは国際委の代表と一緒に国内の捕虜収容所を回って捕虜送還をした。昭和二十八年には、一月に中国、十月にソ連にいって邦人引き上げ協定をつくった。どれも割合に上手くことが運び、今度ほどのことはなかった。今度が一番大変だった」
ーーほんとに実感がこもっていて、忘れる事が出来ない。
 私は、この交渉の間、初めから終わりまで、ずっと日赤をみてきた。日赤がどんなことを考え、どのようにつとめて来たか、恐らくほとんど全部を知っている。
 だから、この島津さんの言葉が、忘れられないのかも知れない。日赤は、とことんまで、全力を出して、帰還実現に努力した。
 私は、北朝鮮を去る、案内役の前夜、田さんをつかまえて、大いに、この点を強調した。、
 誤解があってはならないからだ。
 田さんも、ジュネーブに、労働新聞特派員として出かけた、ベテラン記者。
「日赤と、北朝鮮赤十字の、言わば民間外交が結実したのです。現に、帰還者が続々帰って来ているのではありませんか。人道万歳です」
田さんは、こう言っていた。
 
 日朝赤十字で話し合いが着いたものの、今度は国際委がいっこうに腰をあげなかった。自由主義陣営から、社会主義国への帰国という点もあったろうし、韓国、米国とのかね合いもあったろう。
 しかし結局は、国際委も、「人道」の名において、乗り出しを決定し、八月一三日、インドのカルカッタで、日朝両代表による調印が行われた。
 やがて、国際委代表が来日し、九月三日は、帰還の手引きともいう「帰還案内」が、日赤から発表された。そして九月二一日から、一斉に受付開始を予定した。
 ところが、帰還者世話人の立場にある朝鮮総連では、「帰還案内」のうち、「意思確認」「面会、外出禁止」など三項目は、人権無視であるとして反対、申請拒否という闘争に出て、混乱した。
 実際のところ、日赤自体、この三点については、初めから、これほど強くしようとは考えておらず、むしろ国際委の助言によって”完璧なもの”が出きたことに、苦慮さえしていた。
 一時は帰国棚上げ論も出たが、政府、日赤、朝連と、あっせんの役を買って出た衆院外務委員会委員を中心とする国際議員団との間で話し合いが着き、一0月二八日、ようやく解決した。
 一一月四日、機関申請は再開された。開店休業を続けていた窓口は、四五日振りに活気を呈した。初日だけで三,八六三人が、申請した。
 この日をどんなに待ち望んでいたことだろう。どの窓口も、喜びに溢れた帰還希望者でいっぱいだった。ーーー
振り返れば長い、長い間でしたーーーー本川玉代さんは、平壌の大同ホテルで、こう、つぶやいた。
「いつかは、夫の国に来ると思っていたのですが..........」
その玉代さんは、大みそかの夜、金日成首相招待の新年迎えの宴会に招かれた。
 その日、玉代さんはホテルの流し場でこどもの靴下を洗っていた。
「奥さん、ちょっと集まって下さい」
誰かが、呼びにきたので、行ってみると、ホテルにいる第二次帰還者の内、一三人が大みそかの金日成首相招待宴に呼ばれたというのである。
 日本人としては、玉代さんが、たった一人の代表だ。

「一九六0年を迎える新年宴会に、同志を招待する
 一九五九年一二月三一日二三時 内閣庁舎    内閣」

 玉代さんは、朝鮮文字で書かれたインビテーション・カードを握ってはなさなかった。
その夜、玉代さんは、まだ落ち着き先が決まらないので、荷ものをほどく事も出来ず、新潟以来、ずっと来ているピンクの手編みのセーターに茶色のスラックス姿で宴会に出かけた。
 豪華なシャンデリアに輝く一室で、政府、党幹部とともに、金首相招宴に臨んだ彼女ーー
 金首相がつかつかと、そばに来て、
「乾杯しましょう」と言った。
隣りにいた議員さんが通訳してくれた。

 玉代さんは、ブドウ酒をグッと飲み干した。甘いも、辛いも分からなかった。ただ、心臓がドキドキして、顔がほてっただけだという。
「全く、夢みたいだ。死ぬまで、このインンビテーションカードは離しません。だが、このブドウ酒とともに、今までの苦労も、皆、吹き飛んでしまいました。あとは、私の体の半分に流れている日本人の血に、恥ずかしくないよう、朝鮮の人に笑われないように頑張ります」
 私は玉代さんの幸福を祈って別れた。
ーー帰還者の一人、一人が、私の逢った限りでは、みんな幸せそうだった。
 北朝鮮帰還を実現に移したことは、これら帰国した人にとって、よかったことだ。
 帰還実現に努力した日赤の島津社長らに、是非一度、このっ光景をみせてあげたい。
 島津さんは、きっと、帰還者の一人、一人と、手をとりあい、抱きあって、ともに喜ぶことだろう。
 人道の花が、みごとに実ったーー
 この玉代さんに逢った日、私は、こんな原稿を,夢中でタイプしていた。

ある運転手君との会話
 東京に帰って、二三日たった、ある日、乗っていたタクシーの運転手君に話しかけられた。たまたま私と同僚が話していた、朝鮮の話を、「悪いとは思いながら聞いたんですが.........」:という前置きで、彼は、こういった。
「私は朝鮮人です。三月に向こうに帰ろうと思っているものです。北朝鮮に新聞記者の人たちが行って、色々報道してくれたおかげで、よく事情がわかりました。ぢかし、一つだけ得心の行かないことがあります。良い点だけが強調されて、悪い点がほとんど書かれていないのです。日本の人から見れば、まだまだ遅れている点が多いでしょう。そんな点を,私たちは知り、そして帰りたいのです。行ってから、がっかりするよりも、ここはこういう国だということを、予め頭に入れておきたいのです。」
 私自身は、この点も新聞に書いたつもりだった。だが、この運転手君の質問に、改めて答えなくてはならなかった。朝鮮総連の都内のある区の委員をしているという彼は、喜んで、私の話を聞いてくれた。

 日本人の目から見たら、北朝鮮は、まだ、たしかに日本の水準には至っていない。
 金日成首相が、われわれ記者団と逢ったとき、「朝鮮は、やっと”中農”ほど度になったばかりだ。これから、みんなで建設して、そして富んでからセイタクをする」と言った。
 国内のどこを見ても、「建設」一本槍である。”千里馬運動”という生産運動が展開され、一九六0年は、緩衝期という調整の年、総てを一九六一年からの第二次五ヵ年計画にかけている。
 第二次五ヵ年計画を終えれば........。それまでは国民の消費生活は、最低線の保証に留められている、未来に希望があろうというものだ。
 現在はーー 
 衣、食、住、は基本的に保証されている.「基本的」というのは、最低線保証のことだ。
 一般労働者の平均給与五0円。そのうち家賃は水道、電気料込みで一円、米代一五日分一円二0銭(三人家族)。副食費三0〜三五円という支出である。学校、病院は無論タダ。社会主義国だけに福祉面は発達している。しかし、われわれ日本人から見たら、このような生活内容では、息苦しさが残る。いわゆる”消費面”が全くないからだ。
 ガソリンをソ連からの輸入に仰ぐ北朝鮮では、ガソリンは血の一滴だ。お役所の自動車も所有台数の半分以上(例えば教育文化省では八台中五台は動いていない)が動いていないし、タクシー等はもちろんない。ライターも見かけない。東京の自動車洪水等、この国では、”お話”としてしか聞かれないだろう
 自動車は月産三千台、リヤカーも量産されていない。お隣の中国では、今や自転車ブーム。ある大臣は「自転車は、近く月産三万台に増やす。運搬機関が発達しなくては、なんとも仕ようがない」とわれわれに言った。
 平壌市内の帰還者落ち着き先を回っていた時、あるアパートの前に、新品の電気冷蔵庫と電気洗濯機が、荷造りしたまま置いてあった。
 北海道の釧路からきたという夫婦は、われわれの好い取材対象になった、。

ーーこれは両方とも新品ですね。
「ええ、住んでいた家を売って、買って来ました」
ーーこれから荷をほどくのですか。
「まア。この冷蔵庫と洗濯機は当分しまっておきます。なぜかといえば、このアパートで、これを持っているのは私たちだけなのです。招待所の人は、どんどん使っていいと言ってましたし、電気関係のお役所に頼めば、コンセントをつけてくれたり、、電気をくれるといってましたが、みんなが苦労して復興に努力しているのに、自分たちだけが、これを使う気持ちには、とてもなれません。アパートの人が、みんな持つようになったら、出して使います」
 通訳の田さん、朴さんが口をはさんだ。
「あなた、なぜ使わないんです。使っていいんです。招待所でも、そういったでしょう。我が国は、社会主義国です。しかし個人の所有物にまで干渉はしません。個人が個人からサクシュすることーー女中を置いたりすることは禁じますが、個人の所有物には何の制限も加えません。車を持って来た人にはガソリンを配給してあげるし、電気製品を持って来た人には電気をあげましょう。使っていいんです」
 しかし、材料の関係から蛍光灯、ラジオの国産がむずかしく、電気洗濯機、冷蔵庫も、まだ試作の段階という。この国の事情を、恐らく知っている、この帰還者の夫婦は、果たして、電気製品を使えるだろうか。



「せっかくそう言うんだから、使おうや」と考えるのは、われわれ日本人。
 通訳氏の説明は、たしかに理くつにあっているが、絶対主義の社会主義国では、そんなワガママが許されるかどうか。
 われわれ記者団の中でも、この電気製品を巡って、「使える」「使えない」の論争がまき起こったが、私は後者に手をあげる。
 北朝鮮滞在中、幾度となく見た、あの、組織的な大衆動員による”大歓迎風景”。その”組織”の中に、新しい一員として入った帰還者は、やがて、もっとも早い機会に、みんなの力で同化され、第二次五ヵ年計画の貫徹のために働く、千里馬運動の一員になってしまうーー大歓迎風景をみていて、私はこう感じた。
「アパートの人たちの洗濯を一手に引きうけたら..........」ーー記者団は、こんな言葉を残して夫婦のもとを去った。
 苦労して過ごした日本での生活の末、やっと手に入れた新品の電気製品が、もの置から出されて、陽の目をみる日の、早く来ることを祈りながら.........。

「北朝鮮に行けば、職がある。日本にいる時より、ずっと楽になる」
こんな気持ちで来られたのでは困る。新しい北朝鮮に住むには、それだけの覚悟はいる。車が縦横に走り、電気製品が普及し、ダンスホール、キャバレー、バーと夜の歓楽街のある日本とは、自らちがう。遊ぶ施設、ゼイタク品はない。ただ”建設”あるのみの社会。
 末来を楽しみに生きる国---それが北朝鮮という国だ。

 こどもだってそうだ。アメリカのスポーツである野球はない。こどもを連れて来る人は、日本の漫画本や玩具は、船に乗る前に、こどもから離し、こどもを、一日も早く,北朝鮮に馴れさせるために、北朝鮮の本を見せ、北朝鮮の遊びを覚えさせなければならない。親として、こどもには、是非、こうやってやりたい。
ーーある主婦は、しみじみといっていた。

 朝鮮人の運転手君は、こんな、私の話を黙って聞いていた。
「よく分かりました。みんなが知りたがっていることなので、早速、この話しをしてやりましょう」
「私だって、今、毎月四万円から五万円の収入があります。一応、家具も揃っているし、それほど苦しい生活はしていません。向こうに帰れば、今より苦しく、厳しい生活をしなければならなくなるでしょう。それでも私は帰るつもりです」
「私が、帰ることに、ふんぎりを付けたのは、こどもが可哀想だからです。日本にいて大学を出ても、朝鮮人なので、良いところでは雇ってくれません。せっかく育てても、こんな惨めな目にあわせてしまう。親として、しのびないのです。出来るなら、生まれ、育った”日本”を、いつまでも,”第二の故郷”として、美しい想い出の中に残し、いつか、日本に”里帰り”する日があるように、こどもたちが悲哀にぶつからない前に、帰りたいのです」
 ある高名な評論家は、ラジオの座談会が終ったあと、私たちに、こう言ったことがある。
「戦争中なら、一億総決起とか何とかいって、国民を一線に揃えさせることが出来るが、平和な時に、千里馬運動なsどのかけ声で、国民を動員出来るなんて、大した国だ。私はそこに頭を下げる。だけど、その国に住みたいかと聞かれたら、ノーという。いってみたいかと言われたら、イエスと答える」
 日本人の社会主義国北朝鮮に対する、代表的な観方だろう。
 生活環境から来る、一つの息苦しさ、圧迫感ーー自由に育ったわれわれには、到底耐えられないものがある。
「しかし、帰った人たちが、みな、未来に希望が湧き、苦しさが未来の繁栄につながる建設の一課ほどとして消化されてゆくのなら、いいではないか。日本人と朝鮮人との間にはものの考え方に、色々違う面があるだろう。帰った人たちが、喜んでくれさえすれば、私たちのやった仕事が、赤十字の精神に則った人道主義としての輝かしい業績になるだろう」
と、島津日赤社長はいう。
 帰る人も、受け入れ側も、双方が喜びの中に続けられる帰還。
日本海エキスプレス(九行)という愛称をうけた二隻の帰還船は、人道の使途として、今日も日本海の荒波を蹴立てて、ピストン輸送をいっている。
 日本海エキスプレスの平安な航海を祈ろう。

北朝鮮帰還が実現するまでの経緯
▽一九五八年九月八日=金日成首相、「在日同胞の帰国を歓迎する」と演説。
▽同九月十六日=南日外相、帰国希望社を引き渡して欲しいと日本政府宛の声明を発表。
▽同十月十六日=金一副首相、配船準備ある旨を語る。
▽同十一月十七日=東京に「在日朝鮮人帰国協力会」誕生
▽一九五九年一月二十九日=藤山外相、参院本会議で「在日朝鮮人の北朝鮮帰還は近く計画を発表出来る」と声明。
▽同二月二日=岸首相、衆院予算委員会で「送還を行う」と発現。
▽同二月十三日=人道問題として赤十字国際委員会介入のもの、帰還を行う旨の閣議了解が行われた。また、この日、国際委も自由意志による帰還なら歓迎すると発表。
▽同四月十三日=日朝赤十字第一回会談ジュネーブで開催。北朝鮮はソ連船を使用。諸手続は朝鮮総連を窓口にして行いたいと主張。
▽同四月十五日=第二回会談、北朝鮮側、帰還者希望者の意思確認を拒否。
▽同四月十七日=第三回会談。北朝鮮側、国際委介入に反対、日赤は朝鮮総連名簿尊重を拒否した。
▽同四月二十日=第四回会談。意思確認等につき、日赤側、文書で説明。
▽同四月二十二日=第五回会談。意思確認問題で合意成立。
▽同四月二十四日=第六回会談。北朝鮮側、限られた範囲での国際委介入に同意。北朝鮮側の帰還計画案を提示す。
▽同四月二十四日=第九回(原文まま、第七回か第八回と思われる。第七回、第八回について記述無し、P-一八)会談。
日赤「実務に国際委介入」「朝連名簿は認めない」など十七項目を回答。
▽同五月二日=第九回会談。日赤、「苦情処理委員会」設置を含んだ協定草案を提出。
▽同五月四日=第十回会談。北朝鮮側「苦情処理」は混乱を招くと反対。
▽同五月六日=第十一回会談。日赤、更に整理した協定草案を提出。朝連名簿不採用、北朝鮮代表の入国を拒否。
▽同五月二十日=第十三回会談(十二回について記述無し)。日赤、最終案を提示。
▽同五月二十五日=第十四回会談。「苦情処理」「国際委介入」で、日本側最終案を拒否すると北朝鮮側が主張。
▽同五月二十六日=両主席会談。北朝鮮側、日本案を変えねば決裂、二十九日までに回答せよと主張。
▽同五月二十八日=北朝鮮側、国際委介入の用語「指導」を「観察」にして欲しいと非公式に申し入れる。
▽同六月一日=第十五回会談。ー日本側最終案を提示。
▽同六月四日=第十六回会談。北朝鮮側日本修正案に不満示す。
▽同六月九日=政府、日赤は北朝鮮側の主張を容れ、苦情処理で新提案を準備。
▽同六月十日=第十七回会談。日本側「苦情処理」を撤回。事実上妥結す。
▽同六月二十四日=第十八回会談。在日朝鮮人の帰還に関する協定(付属書を含む)及び共同コミュニケの草案完成。国際委の承認を待って調印することに決まる。
▽同六月二十九日=国際委、「帰還問題は再検討の要がある」と言明。
▽同七月六日=国際委、介入決定は更に時間が掛かるとして承認を延期。
▽同七月七、九日=北朝鮮、日本両赤十字代表団一旦帰国。
▽同七月二十一日=ハーター米国務長官、ボアシェ国際委員長と会談、米側の意向を伝えたと言われる。
▽同七月二十四日=日赤、国際委の承認をうけ、北朝鮮赤十字宛、カルカッタで協定調印を行いたい旨打電。
▽同八月十三日=カルカッタで日朝両赤十字代表の手により帰還協定に調印さる。
▽同八月二十三日=赤十字国際委マルセル・ジュノー副委員長、「介入」のため来日。
▽同九月三日=日赤、ジュノー氏の助言により「帰還案内」を発表。
▽同九月二十一日=機関申請受付開始。朝鮮総連、「案内」に不満として、新逝去期等奏者を展開、各窓口混乱す。
▽同十月十日=北朝鮮赤十字、帰還案内は協定違反だと日赤に抗議。
▽同十月十三日=日赤、第一船は十一月十一日新潟に入港するよう要請
▽同十月十九日=北朝鮮側、業務はかどり次第配船すると日赤に返電を打つ。
▽同十月二十日=日赤、十一月十二日第一船新潟出航を断念。新潟日赤センター開所。
▽同十月二十二日=衆院外務委員会岩本伸行、帆足計、穂積七郎代議士ら、日赤、朝連の間の斡旋に乗り出す。
▽同十月二十七日=政府、「帰還案内」を「実務細則」で緩和することに決定。
▽同十月二十八日=朝鮮総連、斡旋を了解。反対闘争取りやめを決定。
▽同十月二十九日=米国務省、帰還問題で日本を全面支持する。韓国の自重をを望むと、はじめて公式見解を発表。
▽同十月三十一日=日赤、国際委の了解を得て、帰還案内の緩和を指示。
▽同十一月四日=全国三千六百五十五カ所の日赤窓口で申請を再開。
▽同十一月十六日=帰国祝賀大会に民団、右翼千人が押しかけ、混乱、七人が逮捕される。(東京池袋)
▽同十二月十四日=第一船、新潟を出港。年内三回配船。



政治のはなし
                            読売新聞社:嶋元謙郎

『官僚主義について』
 実をいうと、われわれは朝鮮の「政治」についても報告をしなければならない。しかし、朝鮮の最高主権機関は最高人民会議であり、その構成は労働者、事務員、インテリなど二五0人(内女子二七人)からなり、................。と政治形態について説明してもそれ程意味がない。
 それよりも一体朝鮮政府は、具体的にどのような政策をとり、人民たちはどのように受取っているかという方が、遥かに興味深い。いうならば、政府と人民の”社会主義的なものの考え方”と”受け止め方”だ。ここのしるすいろいろな話はわれわれの感じ取った民衆の中の”政治”の一端である。
 中国の北京から飛行機で朝鮮の臨時首都平壌に入ってまず目を奪われることは、町行く人たちの服装がバラエテーに富んでいることである。というのは、中国では男も女も、例の工人服という詰襟の洋服を着ていた。勿論真冬という条件が重なっていたからでもあろうが、ともかくわれわれの通過した広州、武漢、北京、瀋陽の各都市は、町全体が紺と草色に塗りつぶされていたといって良い。人民外交学生のお偉方も、新聞、通信社の幹部も、宝石商の店員も、飛行場の事務員、タクシーの運転手に至る迄、みんながみんな工人服を着ている。色彩が乏しいと、とかく人間は暗い気持ちに陥りがちなものである。何か息苦しい、そんな感じに囚われて、中国を通過する三日間というものは憂鬱ですらあった。
 それが平壌では、背広を着ている者もあり、作業服あり、工人服あり。特に女性は、白、赤、黄、緑、様々な色のチョゴリ、チマと呼ぶ朝鮮服を着ている人や、ワンピース、ツーピース、更には毛皮のオーバーを羽織っている人など様々。何かホッと開放されたようで、旅愁を慰めるに充分だった。勿論、着ている布地はお世辞にも上質とはいえないし、消費文化が百花繚乱と咲き誇っている日本に比べると、色彩や種類もまだまだお粗末であり、貧弱ですらある。しかし、同じ社会主義国家で、しかも隣り合った中国と朝鮮で、このような開きがあるのは一体何故だろうか?
 ここで中国と朝鮮の消費物資の比較をしようというのではない。消費物資の豊富なことでは、中国の方が朝鮮より遥かに豊かである。われわれが感じたのは、服装の点に於いて中国が画一的なのに比べ,朝鮮は個人個人の好みに任せていることだ。つまり、朝鮮の社会主義的な考え方、というものは、非常に巾が広く、かつ柔軟性に富んでいるのではないか,という点である。
 服装ばかりではない。われわれは元日に朝鮮作家同盟委員長の韓雪野氏、副委員長の李北嶋氏らと懇談したが、その席上で、先ず話題になった日本人作家は、なんと湯浅克衛氏であった。湯浅克衛氏といっても戦後は余り精力的な創作活動をしておられないから、ピンと来る人は日本人の中にも少ないかもしれないが、戦前は「鴨緑江」「オモニたち」など、朝鮮を舞台にした一連の小説を書いていた作家である。朝鮮で生まれ、朝鮮で育った人であるから、朝鮮を愛するという点では人後に落ちなくても、いわゆる左翼系の作家ではない。というよりも、むしろ左翼の公式論でいうならば、”反動作家”のレッテルをはられそうな作風だ。
 最近の活躍ぶりや家族のことを色々尋ねた挙げ句、帰りぎわに「ぜひ、朝鮮に招待したいから、私のところに連絡して下さるように伝えて欲しい」
と依頼されたときには、正直なところ面食らってしまった。左翼作家ならばともかく、”反動作家”をも招きたいとは。「え?」ともう一度念を押した程だった。清濁合わせ飲むというのか、何といおうか、その肝の大きさ、度量のあることにはびっくりした。
 帰国後この話をある朝鮮関係の団体に伝えたら、飛び上がって驚いた。この団体では湯浅克衛氏をハナにもひっかけていなかったからである。慌てて住所を調べて連絡を取っていたが、朝鮮側の巾の広い考え方に比べ、日本にある朝鮮関係の団体の考え方は、何か自分で自分を狭くしているかたくなな感じではないだろうか? これからの親善友好運動に一考を要すると思う。
 この朝鮮の柔軟な考え方は、映画、演劇、オペラなどの娯楽面にもよく現れている。
 われわれは朝鮮で、オペラ「栄えある祖国」「沈青伝」、映画「春香伝」、演劇「兄弟」などを鑑賞したが、そのいずれもが、社会主義の宣伝臭が少ないという点にびっくりした。
 実はわれわれとしては、朝鮮という国を、建国の歴史が浅く、社会主義陣営に於いても後進国であるとみていた。従って社会主義を人民に徹底させるために、あらゆる機会を捕らえて、特に映画、演劇などの娯楽を通して教育し、啓蒙しているのではないか、という風に考えていた。しかし、そういった宣伝臭は、各工場にある言わば素人の芸術サークルに見られるだけで、玄人の演ずるオペラ、映画、演劇には、ほとんど抵抗を感じなかった。
 例えば「沈青伝」は、昔ながらの物語が忠実に神話的な雰囲気の中で進められ、社会主義的な解釈や表現などは一言半句もでてこない。古典ばかりではない。朝鮮戦争の孤児の問題を取り扱った韓雪野原作の「兄弟」にしても、戦争の悲劇や、逞しい祖国愛の精神を盛り上げる場面はあっても、ついぞ社会主義的なお説教はでてこない。だから観衆が素直に芸術の中に溶け込んで行くのであろう。あるシーンではすすり泣きが館内を圧し、ある場面ではドッという爆笑が湧いていた。
 在日朝鮮人の帰国問題で活躍された朝鮮赤十字会の李一卿委員長は、教育文化相を兼ねているが、その話によると、余りに啓蒙性が強かったり、現実を歪曲していると、人民にそっぽを向かれるのだそうだ。つまり、朝鮮の芸術は、あくまで人民のものであり、人民と共に進むように批判をうける。
 われわれが朝鮮に滞在中、丁度「一人の青年の歩いた道」という題名の映画が上映中だったが、これがさっぱり不評判で、観客の入りが少ないとり教育文化相がこぼしていた。「高など中学を卒業した一学生が、大学に進学するのをやめて、祖国建設のために工場で働く」といったテーマに恋愛を盛り込んだメロドラマだが、「それでは大学に行くのが間違っているのか.工場で働くだけが能ではないだろう」という声が高まって、正月興行だというのに散々の不成績。朝鮮の映画や演劇などは,全部独立採算制だから、お客が不入りだと、それを作ったプロダクションは損をする。日本換算九百万の制作費がかかったんだそうだが、こんな不入りではどうしようもないと李教育文化相が嘆いていた。つまり、良い映画、大衆に喜ばれる映画でないと採算がとれない。人民大衆がその審判官になっているわけだ。これでも判るように、朝鮮では上からの押しつけよりも、下からの人民の批判が重視されているようだった。
 こういった人民からの批判は、特に国家機関に働く、いわゆる官僚に向けられている。というのは、朝鮮にも「官僚主義」という言葉が実際に存在し、生きている。民主主義の精神からすれば、総ての”官僚”は、人民の”公僕”でなければならないし、また人民の税金食わせて貰っているのだから”公僕”であるのが当然なはずだが、この至極明快な原則が充分徹底していないことは,われわれは日本でイヤというほど味わっている。もっとも日本は、民主国家の仲間入りをしてからまだやっと十五年しか経っていないから、多くを望む方がどだい無理な話かもしれない。一体、いつになったら、われわれは真の国家の主権者としての権利を行使出来るのか、日本の官僚のあり方、やり方をみていると甚だ心細い限り。歴代の内閣や各官庁でいく度となく「官僚主義の打破」が叫ばれながら、いまだかって完全に実行されたことはない。いうならばお先真っ暗という状態だが、この点朝鮮ではうまい方法をとっている。
 「人民からの不平不満の投書に対しては、これに明確に答えなければいけない」という官僚に対する義務づけがそれだ。このことを「官僚主義反対闘争運動」という強い言葉で表現している。
 一例をあげると昨年の大学入試シーズンのとき、朝鮮には現在、金日成総合大学はじめ大学が三十七校ある。日本では人口九千万人に対し、国立大学九十九校、朝鮮では人口一千万人に対して三十七校だから、朝鮮の方が幾らかゆとりのある比率になっているが、それでも、やはり入学試験となると受験生は頭が痛い。平均三人に一人。金日成大学の物理学部や経済学部の哲学科、政治経済科などという憧れの学科は十人に一人くらいの狭き門となる。そこでいきおい学生たちは、どの大学を受験したらよいか大いに頭を悩ますわけで、シーズン近くなると、進学相談の問い合わせが、教育文化省に一日二百通前後届くという。
 これを管理するのは数人の視学である。一人一人に対して適切な助言や指導を行うことに服務規程で決められているが、何分一日二〜四十通の回答を出さなければならない。その他にも視学としての勤めもある。つい面倒臭くなるのが人情というもので、ある視学が、判で押したような、決まりきった回答をだした。勿論その学生は、担当の高級中学の先生とも話し合いをした挙げ句、思い余って教育文化省に相談を持ちかけた程だから、こんな通り一遍の回答で満足するはずはない。また相談の問い合わせを出す。同じような内容の回答。そこでこの学生が怒って、それ迄のいきさつをしたためた抗議文を出した。
 このような人民の不平不満は、投書係を通じて担当者の手許に送られるから、投書係が見逃すはずがない。たちまち「官僚主義の典型」として槍玉に挙げられたという。
「一体その人は今どうなっていますか?」
 われわれは興味深く李教育文化相に質問した。ソ連のベリア、マレンコフ、モロトフを引き合いに出す迄もなく、社会主義国家に於いては、一度批判されて失脚すると消されるか、左遷されるか。とにかく二度と浮かび上がって来ないというのが、われわれの通念だったからだ。ところが李教育文化相は、そんなわれわれの興味を知るや知らずや、こともなげに答えた。
 「視学として人民に奉仕する義務を怠っていたのだから、視学を罷免されるのは当たり前だ。その人に能力が無かったことが明らかにされた以上は、職場を変わって貰うより他に方法はない。今はやはりこの省の別の職場に格下げされていますよ」
「官僚主義反対闘争運動」は、このように、”必罰”の形で強硬に進められている。社会主義というものが、総ての点に於いて”計画性”を内包している限り、「官僚主義」を完全に払拭することは非常に困難なことであろうし、事実「左翼官僚主義」という新語が生まれていることから推しても、根絶やしするのは不可能かもしれないが、こういった制度を採ることによって、一応の是正は出来るであろう。中々良い制度である。日本も少し見習ったら良いがーーと官僚国ニッポンに住むわれわれはうらやましい気がした。
崔承喜が断頭台へ?
 ところで、ここで読者の皆さんは、朝鮮では批判された人物が、寛大な処遇を受けられていることに、不審の念を抱かれるに違いない。日本人の持っている社会主義国家への最大の恐れは、社会主義体制下では国家や政府、党の指導路線からはずれたり、あるいは批判をうけた場合には、必ず刑務所にぶち込まれるのではなかろうか、ということである。従って一度ヤリ玉に上げられたものは、再び舞台には登場してこないと思いこんでいる。いわゆる「反民族的」「反国家的」のレッテルを押されれば、永久に消え去ってしまうというわけだ。
 実は、われわれが朝鮮に着いて三日目の一二月二0日、平壌の国立体育館で行われた「帰国同胞歓迎大会」に、崔承喜が黄徹氏らと共に、芸術家を代表して真っ先に舞台に登場した時には、アッと息をのんだ。朝鮮舞踊の代名詞にもなっている程の世界的舞踊家が挨拶を述べることは、当然すぎる程当然な話なのであるが、それには次のようなイキサツがあったからだ。
 われわれが朝鮮を訪問する直前、つまり帰国問題が大詰めにさしかかっていた三十四年夏から秋に掛けて、日本では、日本人に馴染みの深い崔承喜が、朝鮮政府から批判をうけて消えてしまったというウワサがパッとひろまっていた。
 ウワサは主として韓国系の新聞、雑誌を通じて流れた。それによると、教育文化省の次官をしていた夫の安漠氏が、独善主義、芸術偏重傾向を指摘されて失格し、それに伴って崔承喜は「人民芸術家」の称号をハク奪され、夫共々断頭台の露と消えてしまった、というのである。そういえば安漠氏が批判されたことは朝鮮からの報道で確認されていたうえに当時の朝鮮からの出版物には、崔承喜の近況を報じたニュースも、また踊っている崔承喜の写真もなかった。朝鮮通と言われる人ですら、崔承喜の消息を知らなかった程である。だから、われわれが日本を出発するとき
「朝鮮人の中で日本人に最も親しまれ、馴染み深いのは崔承喜だ。彼女だけには必ずインタビューするように」と部長から命ぜられたときには、ハタと弱ったものである。一体生きているのかどうか。若し生きていたとしても、果たしてインタビュー出来るものか?実は全く自信がなかった。
 それ程気をもませていた崔承喜が、真黒のビロードのチョゴリ、チマに身を固め、昔ながらの美しい双頬をほころばせて「麗しい朝の国...........母なる我が祖国に限りない光栄を捧げる」とプロローグの詩を朗読した時には、全くホッとした気持ちだった。
 その上プロローグが終ると、この夜臨席した金日成首相の直ぐ隣りの席に座を占めて、最後迄観劇していた。偉大な芸術家は消されていなかった。それどころか「人民芸術家」としての最高の地位を厳として誇っていたのである。お嬢さんの安聖姫も、この夜のプリマバレリーナとして主役を演じていた。
 後日、崔承喜とインタビューした時にわれわれは夫安漠をも含めた家族のことを質問した。
 「夫は前の職場に居りますし、娘は貴方方がご覧になった通り、長男は十五才で音楽学校でピアノの勉強をしています」
 淡々と語る言葉には、少しも暗いカゲがなかった。後で労働新聞の記者に聞いたところによると、次官は辞めてしまったが、格下げとなってやはり前と同じ教育文化省に勤めていると崔承喜の話を裏書きしていた。
 これは非常に興味深い問題だった。そこでわれわれは、朝鮮ではいわゆる政治犯をどう扱っているのか?また朝鮮の留置場、刑務所も見学したいと案内役の朝鮮記者同盟に申し入れた。政治犯については、ここ数年というものは、ほとんどない。あったとしても先ず人民から批判を受けて反省していくから、司直の手に掛かるような極悪なものはない、という説明であり、留置所や刑務所の見学は遂に実現することが出来なかった。この点、非常に飽き足らなかったし、帰国してからも返す返す残念に思っている。ただ、朝鮮では刑務所とは言わずに、人民教化所と称していた。これは単に犯罪者を処罰するのではなく、犯罪者を再教育するのを主な目的としているからだが、
「中国のように各房にはカギがないのか」という質問に対しては
「残念ながらまだある」
 ということだった。われわれは実際に見学することができなくて物足らなく思ったが、スケジュールの関係もあり、断念せざるを得なかった。
 しかし、われわれは、政治犯や人民教化所を見学しなかったけれども、その処置が寛大であろうとは想像できる。
 平壌には「スターリン通り」というのがあり、スターリンの胸像や肖像がも、あちこちに残っている。「スターリン通り」というのは「金日成広場」につながる平壌のメインストリートである。スターリンの死後、スターリン批判が現れて、社会亜主義国の中で通りや建物からスターリンの名称や肖像画が次々に消えていったことも思い合わせると、いまだに堂々と名前や肖像を残しているこの国のやり方は一種異様ですらある。ボウヨウとしているのか、自信があるのか、ともかく、こういったところに朝鮮の社会主義的なものの考え方があるのではないだろうか。

スローガンについて

 朝鮮でも、やはり中国と同じように大通りや大きな建物には,垂れ幕や引き幕のスローガンが掲げられている。都市といわず、工場といわず農村といわず、どんな片田舎にいっても必ずスローガンがある。
 「金日成将軍万歳!」「金日成を首班とする労働党万歳!」「鉄と機械は工業の王ようである!」「生活環境をより文化的に衛生的に改善しよう!」「継続躍進、継続前進」「千里の駒に乗って闘おう」「花の莟(子どもたちのこと)は新しい朝鮮の大きな柱」そのほか「在日朝鮮同胞の帰国を熱烈に歓迎する」などなど。
 とにかく、朝鮮人はスローガンがお好きである。とくに「金日成将軍万歳!」「金日成を首班とする労働党万歳!」のスローガンの多いことは、われわれ資本主義社会から訪ねたものにとっては、ときに目障りですらあった。皮肉なものの見方をする人は、
「それ見給え。強力なスローガンを掲げて人民を引っ張っていかないと、大衆がついていかないんだ。これこそ共産主義の政治理念であり、独裁政治のあらわれだ」
 と我が意を得たようにいうかもしれない。そういえば戦時中の日本も、「欲しがりません勝つ迄は」とか「勝ってカブトの緒を締めよ」いうスローガンが合い言葉にされていた。
 しかし、この両者の場合には、根本的な違いがあると思う。日本のスローガンは国民の目をごまかして侵略戦争にかりたてるための志気の鼓舞である、だが、朝鮮のそれは、戦争目的ではなく自らの生活を向上させようとする合葉である。といった理屈があるに違いないが、そういった難しい理論は抜きにして、いかに朝鮮人が「金日成を首班とする労働党」の下で結集されているかについて事実をもって答えたい
 朝鮮では、労働者、学生、農民、新聞記者、運転手、その誰をつかまえてもいい、「いまの暮らしは胴ですか」と質問すると、きまってこう答える。
 「いまだって。いまのことをお話ししても無駄でしょう、来年はもっと立派になりますよ.目に見えて分かっているんだから』と。
 日本では来年のことをいうと、鬼が笑うという。実際、来年のわれわれは、何着の洋服をつくることができるのか、テレビを買えるかどうか、家の前の道は舗装できるだろうか、下水は甘美するだろうか、公営住宅に入ることができるか、そのどれをとっても皆目検討がつかない。本当に日本では、確実な将来というものが、なにひとつ保証されていないのである。それどころか、来年には失業するかもしれないという不安を持っている人もいる。
 ところが朝鮮人は、一人残らず来年のことを確信し、かつ断言する。
 その根拠はなにか? 政府の公約したことが、これまで公約通りに実現されてきたという信頼感である。
 五年前までは食物も少なかったし,防空壕を改造した穴ぐらに住んでいた。四年前には戦後九造したバラックに入り、暖かいフトンにくるまって寝ることが出きた。三年前には小ざっぱりした服装を整えられたし、酒でもビールでも果物でも、自由に好きなだけ買えた。二年前には二間続きのアパートに入って.......。だから来年は」
 これは平壌市の文化アパートに住んでいるある建設技術者の懐柔である。つまり、生活の一つ一つが、年々歳々目に見えてよくなっているという裏付けがあるのだ。、単なる希望的観測や虚ろな妄信ではない。
 朝鮮戦争直後、ソ連の十億ルーブルをはじめとする社会主義諸国の無償援助資金の使い方をめぐって、朝鮮の政府や労働党の内部で,大モメにもめた事件があったそうだ。
「三年間という長い機関を闘い抜いてきたから朝鮮人は疲労こんぱいしている。なにわともわれ、まずめしを食わし、衣服をきせて元気をつけてから再建に乗り出しても遅くない」という朴憲永を中心とした一派と、「いまは苦しいけれども祖国再建の土台をつくることが、将来の朝鮮を繁栄させる道だ」と主張する金日成将軍を先頭とする一派の争いだった。
 結局、金日成将軍の路線が、再建の基本方針として打ちたてられたわけだが、苦難の一、二年を経たあと、国民生活が加速的に向上してゆくにつれ、今更ながら金日成しょうぐんの素晴らしい予見を、あらためて見直しているといってもよい。廃墟のなかから、僅か五、六年の短期間のうちに、金日成将軍の言葉を借りれば「中農の地位までになった」事実は、将軍と労働党に対しての信頼をいやがうえにも高めたことだろう。

 三十八度線に接した寒村平和里で、四十六才になる婦人が語った。
「難しいことはわかりませんが、日本の植民地時代、李承晩統治時代、いまの金日成将軍時代と三つの異なった時代に生きてきたわたしにとってとにかくいまの生活が、これまでの暮らしのなかで一番いいんです。こんな生活ができるように指導してくれた方に感謝するのは当然でしょう」と。
 ”反動的”な意地悪な言い方をすれば、共産主義とか、社会主義とか、そんな理論はどうでもいいんである。要は着実に生活が向上し、明日への確信がもてる政治に、大衆はついていく。
 日本の自民党であってもいい。失業の不安をなくし、月給を二倍に引き上げてただみたいな家賃の住宅に住めるならば、何億という選挙資金をかけなくても、ひとりでに政権がころがりこんでくるに違いない。そうなれば日本でも、「岸首相を首班とする自民党万歳!」というスローガンが、いたるところにかかげられるだとう。
 われわれも「来年は必ずこうなります」と希望をもって断言できる国民になりたいものだ。

私有財産について

「朝鮮では私有財産が認められている」こういっても、大方の人はわれわれの言をを信じないかもしれない。
「社会主義国家でそんなバカなことが」
というだろう。実際、ある座談会で記者がこう話したところ、第六次船で帰国するという中年の朝鮮人がびっくりしたほどだから、無理もない。われわれも朝鮮にいってこの目で確かめるまでは、半信半疑だったのだから。
「私有財産とは何か?」
などというしち面倒くさい理論は別にして、実のところ朝鮮では、土地はもちろんのこと、起業所、商店、事業所などは、ほとんど私有ないし、私営を認めていない、農村については農業のところで詳しく説明するが、農村で私有が認められているのはアヒル、ニワトリ、山羊などの小家畜と、ホミ(手くわ)などの小さな農具。それにわずかばかりの菜園だけで、農地はもちろん、農業機械、農機具、牛馬などは農業協同組合の所有になっている。また商店、事業所にしても、すべて国営か協同組合経営。中国のような「公私合営」という半官半民の商店もなくて、ちょうど日本のタバコボックスのような六角形の駄菓子屋まで、すべて公営だ。
「では、やはり私有財産はないではないか」
と早合点なさるかもしれないが、ちょっと次の話を聞いて頂きたい。
 三十八度線のすぐ南にある開城市は、朝鮮で戦渦をまぬかれた唯一の都市である。戦渦をまぬかれたといっても、米国が日本の京都を爆撃しなかったように、高麗の王建が築きあげた千五百年前の古都を後世に残そうという人間としての良心から、破壊しなかったのではない。たまたま朝鮮戦争の停戦会議開始と同時に、中立地帯に指定されたから、ほかの都市のように廃墟にならずに、市街の半分が焼け残ったに過ぎないが、ともかくこの開城市には、むかしながらの、朝鮮の歴史をとどめる家、邸がたち並んでいる。高麗文化を極めた首都だけにいわゆるヤンバン(両班)と呼ばれる富豪の家も数多く残っているが、これらの家がすべて元からの所有者のものだ。戦時中家人が疎開して無人の町と化したときには、政府や人民軍が使用していたそうだが、平和の鐘とともに持主に返してしまったという。
 鋲を打ちつけた大きな木の扉の門構えの邸は、内庭を中心に、部屋数二、三十室は下らない。そこにただ一家族だけが住んでいる人も、数えればきりがないという。停戦直後の、極度に住宅が不足したときにも、これらの邸は強制接収しなかったとか。
 ただここで問題になるのは、一家族だけで住むのをいさぎよしとしないで、アパート式に部屋を貸す場合だ。このときは市の人民委員会に申し出て、規定の部屋代だけを受取る仕組みになっている。規定額以上をとることは、もちろん許されない。
 懸命な方は、もうおわかりのことと思うが、自分自身だけが使い、享受するための私有財産は認められている。ただこの私有財産を生産手段として使用し、利益をあげることが禁止されているのである、つまり、金儲けをするということは、だれかが損をしていることだ。難しい表現をするならば、搾取されている。この人民間における搾取は絶対に認められないという思想だ。
 もう一つ例をあげると、第一次、第二次船でパーマネントのセット一式や乗用車を持って帰国した朝鮮人がある。この人たちは、自分たちは日本にいて祖国建国のときも、また朝鮮戦争やどれにつづく復興建設にもなにひとつ役立たなかったから、せめて日本から持ってきたものを国家に寄付したいという純粋な気持ちからだったが、その態度が厳しく批判された。
「あなた方の持ち帰ったものは、あなた方の私有財産であって、国家のものではない」ご自由にお使いなさい、というわけだ。ただし使用にあたっては三つの方法しかない。
 まず第一に、その私有財産を使って、パーマネント屋を開業する。開業するといっても朝鮮では市営企業はないから、国営パーマネント屋をつくって、そこの管理人となる。もちろん管理人の給料はほかの髪結師よりはるかに高い。
 第二の方法は、国家がパーマネント一式を賃借りする。これだと給料のほかに、毎月使用料が入ってくる。
 三番目は、国家がパーマネント一式を買いあげるやり方だ。
 どれでもよろしい。あなたの希望する方法でお使いなさい。と指示していた。
 乗用車にしてもそうである。ただ、日本の”白タク”のように、こっそりお客を乗せて小遣い稼ぎをしてはならないわけだ。実に合理的にできているといえよう。
三十八度線について
 朝鮮半島を東西に貫く三十八度線についても報告しなければならない。
 軍事分界線を中心に、南北それぞれ二キロ、合計四キロの巾が非武装地帯となっている。この人ため的な境界線が、朝鮮民族の悲劇、ひいては世界の悲劇、平和の悲劇である。
 開城から自動車で約三十分。そこの非武装地帯入り口でバスに乗りかえて十分ほど走ったところに、川をはさんで南側に米軍のMP、北側に朝鮮人民軍の管理する関所がある。ここの踏切を開けてもらって入ったところが、”板門店”という名で有名な直径九百十四メートルの中立地帯である。朝鮮人民軍と韓国国軍が管理しているのではなく、人民軍と米軍が共同管理しているのだ。
 二人一組の両軍の兵隊がパトロールしていたが、話しひとつしない。もう六年も、こういう単調な情勢のなかにあって、ただ一つ取り残されたような冷たい対立。
 ここでは双方の新聞記者は自由に歩きまわり、取材できる原則になっているそうだが、いまだに南北朝線の新聞記者すらも、話し合いをしたことがないという。それというのも、朝鮮側の新聞記者が大手を振って歩いているのに、韓国側の記者は、一室に閉じ込められて自由に歩けないのだ。軍事停戦委員会のテーブルのうえにマイクが備えつけてあったが、そのテーブルをたどっていくと、韓国の記者控え室につながっていた。取材の自由を守り、かつ北側との接触を禁じるという妙な論理からだと、案内人が説明した。
 板門店から三十八度線にまたがる平和里という寒村まで、われわれは丘のうえから、また車のなかから、つぶさに軍事分界線周辺を眺めたが、北の方が軍事分界線のところまで、余すところなく耕されているのに比べ、南の方は荒涼とした原野になっていた。評論家の寺尾吾郎氏が訪ねた三十三年の秋には青々とした畑と赤茶気た荒地とが、対照的にはっきりそれと識別できたそうだが、われわれの訪れたのは十二月三十日。真冬なので青と茶色の区別はできなかったが、積雪をおこして起耕した北側と、雪一色におおわれている南側と、単調な色彩の下で一別できただけに、一層、寒々としたものを感じた。
 北の方は軍事分界線のところまで農夫が仕事にいっているのだから、南にいこうと思えばいつでも行ける。軍事分界線を一歩踏みこえて両手をあげれば、たちどころに南からお迎えがくるに違いない。それにもかかわらず野放しにしているのは、南へ逃げてゆくものはないという自信のあらわれなのだろう。
 それにひきかえ南の方は非武装地帯は韓国人立ち入り禁止筑になっているとかで、人ッ子一人見当たらなかった。多分、北に行くのをおそれているのかもしれない。
 朝鮮では三十八度線をこえて南から北にゆくことを「義挙入北」といい、韓国は韓国でこの反対を「義挙越南」というそうだ。どちらが多いか、韓国軍人が飛行機で「義挙入北」したことや中部朝鮮で一部隊が大挙「入北」した新聞報道から察すると、「入北」の方がはるかに多いのではないか、という気がする。
 韓国の李承晩大統領は「北進統一」を唱えているが、朝鮮では「平和統一」が合言葉になっている。同じ「統一」を目指すにしても、南と北ではその方法が「武力」と「平和」というようにまるで違っているのだ。その相違は何だろうか?

 ことしは朝鮮では、第二次五ヵ年計画に入る前の緩衝期に入っているが、来年からの第二次五ヵ年計画の合言葉がふるっている。
「朝鮮の北半分だけで、前朝鮮の経済をまかなえるだけの生産を行おう。食料も重工業も軽工業も。さらには社会保障までも、北朝鮮だけでできるようにしよう。そうすれば、民族の悲願である朝鮮統一は,自然と達成される」
 つまり、人口一千万の北朝鮮のひとたちが、二倍の人口のある南朝鮮の人たちまで養おうといっているのである。戦争なんか馬鹿馬鹿しい。主義思想などというのも一般人民には納得し難い。だから、経済建設で勝負をきめようというわけだ。どえらい自信である。
 日本人のなかにも、朝鮮側が韓国に対し、人の往来を自由にしよう、郵便物を交換しよう、南北の交通を再開しようと、提案したことを知っている人もいるが、多くの場合、多分朝鮮の宣伝だろうぐらいにしか考えていない。実はわれわれも日本では百パーセント信じかねていたのだが、実際に朝鮮にいって、物資の出回っている状況や、自信に満ちた態度をみて、「成程」と関心せざるをえなかった。
 「南北が同じ人数をそれぞれ交換して、自由に見学されればいいんですよ。どちらが住みよいか、暮らしやすいかは一目で分かることだから。それを南が、拒否している事実はそれだけ自信のない証拠でしょう」
 労働新聞の田仁徹国際部長はこう語っていた。それだ。朝鮮は、満々たる自信を持っている.この自信が、やがて朝鮮を統一する重要な要素になるのではないか、とわれわれは感じた。
 朝鮮には、軍人と警官が目立って少ない。これは意外なことだった。だから、われわれは、軍人と警官の写真をとるのに少なからぬ苦労をした。車で通っていて軍人や警官をみつけると、あわてて車を止めて写真をとらなければならない。ぼんやりしていると写真をとりはぐれる。それほど少ないのである。
 一体どうして少ないのか。とわれわれは質問した。田仁徹部長が明確に答えてくれた。
「軍人が少ないのは、万一戦争が起こった場合、われわれは侵略を防ぐ自信を持っている。超戦争のとき、われわれは世界最強のアメリカ軍と戦って、祖国を立派に防衛した、そのときには全人民が立ち上がる。いまは平和なときだから、なにもわれわれの税金で、無駄なものを養っておくひつようがありますか?それよりも生産の面で祖国再建に力を尽くした方がいいではないですか」
 まことに至極もっともな話だ。しかし原爆線の経験はないから、そのときはと質問したところ
「原爆戦争になったら仕方ないです。朝鮮人が死ぬだけでなく、全人類が滅びるのだから」と。
 警官については当たり前のことを聞くな、というような顔で説明した。
「犯罪が少ないんだから、少なくなるのが当然だ。交通巡査だけで足りるから、女子警官で十分ですよ」
 そういえば、警官のなかには婦人警官が目立っていた。
 犯罪については李一郷大臣が統計を示してくれたが、それによると朝鮮全土で一年に十数件にすぎないようだ。一千万人のうちの十数件。まことにウソのような話である。
 日本では警官に税金泥棒というと憤慨するが、朝鮮では大っぴらに「税金を食う奴」という言葉が使われている。軍人と警官。こんな無駄飯食いを養っておくのは、もったいないというわけだ。ここにも、朝鮮の平和を願う祈りがよく現れていた。


経済について
                             読売新聞社:秋元秀雄


三年前と今日の朝鮮

 ついこのあいだ、金日成大学を卒業したばかり、という感じの金河燦さん、国家計画委員会の総合計画局員といういかめしい肩書きにも似ず、じゃんじゃんと”偉大なる社会主義建設の勝利”を語りつづけている。
「我が国における社会主義建設が革命的向上をなしているのは、社会発展の客観的要求からくるものであります。その物質的、精神的基礎は何か、労働者の熱誠と創造力、そして党と政府の適切な処置.....」。
 あと二日,一九六0年を迎える。という一二月三0日の午さがり、宿舎平壌ホテルの三階の会議室で、私はこの人と向かいあっていた。むずかしい化学方ほど式を日本語でスラスラと説明するほどの腕前を持つ。通訳の朴哲さんと三人で。
 「党が最初に打った政策は、一九五六年一二月の中央委員会会議で示されました。経済部門の指導方法を決定的に改善すること、とくに増産と節約のスローガンを打ちたて、あらゆる予備を動員させることにした。この決定にもとずいて金日成首相同志は、直接、各地の工場、農村に出向き、労働者、農民と予備の動員、生産性の工場に着いて話し合ったのです。かくて労働者の創造力は.............」
 話はかぎりなく続けられていく。要するに金さんの説明によると,一九五七(昭和三十二)年にたてられた第一次五ヵ年計画は、わずか二年半で達成してしまい、いま北朝鮮は、六十年度(三十六年度)から繰り挙げて開始される第二次五ヵ年計画の準備をととのえる”緩衝期”を迎えている。というのである。とにかくずいぶん時間がかかった。人民経済発展の概括からは始まって、第一次五ヵ年計画の推移、そしてその結果えられた人民の物質文化の向上。
 たとえば人民学校から大学にいたるまで、生産教育につながる夜間大学まで含めると、全国に学生は二百五十万人もいる。だから国民のうち四人に一人は学校へかよっている計算になる、ところまで説明を聞くのに、いうに三時間半の時間がかかってしまったのだ、なんともいき詰まるような思いで、私も背中にびっしょり汗をかいている。聞き終わって、金さんとニッコリ顔を見合わす、金さんも頬玉の汗を浮かべていた。通訳の朴さんも、大変な《重労働》に苦笑しながら。
「一服入れましょうか」
という。緊張に張りつめた室内が、やっとほぐれて、私たちは熱い紅茶をだまって飲みはじめた。閉めきった部屋の寒暖計は摂氏二十四度にもあがっている。煙草をひとくち大きく吸い込んだままソファーにもたれて、私はフト外をふりかえってみた。三日寒さが続けば、つづいて四日暖かいという三寒四温型の大陸性の気候は、丁度四温に入っている。とはいえ、今年の平壌は例年よりもとても暖かいようだ。窓ごしにみえる大同江に張りつめた氷も、四、五日前からずんずんととけ出している。いつしか私は三年前の北朝鮮を、もうろうとした頭の中で思い出していた。
 昭和三十一年の十月、北京で、戦後はじめて日本商品見本市が開かれたとき、亡くなった大阪商船の相談役の村田省蔵さんが、この見本市の葬祭をしていたので、私は社命をうけ、村田さんのおともをして中国へやってきた。十月六日から北京西部の中ソ友好開館でフタをあけた見本市は、予定どおりの会期を終え、つぎの開城上海に移るまで、半月ほど暇ができたので、にわかに思いたって一人で、北朝鮮を訪ねたことがある。中国の国家通信新華社の呉学文、丁拓両記者(戦後二度、日本に着ている)に見送られ、前門の旧北京駅を発車した平壌雪の国際列車、。ひろびろとした広軌道の客室ーー四人一組のコンパートに、北京での公用出張を終え平壌に帰る一人の朝鮮人と同席した。ーーこんなことが走馬灯の画のように思い出されてきたのだ........
年恰好からみれば、この朝鮮人は日本語がわかるはず、とおもいながらも、いきなりこの人に日本語ではなしかける勇気がなかった。飛行機の上から遠く地平線までみえる広大な河北の平原を、汽車はだまって走りつづけている。夜中の午前二時、瀋陽(昔の奉天)にて医者した。汽車はこれから一挙に南下、鴨緑江をはさむ国教の町、安東へ向かうわけだ。初めてみる朝鮮、あの動乱にあけた北朝鮮、新しい仕事に向かう興奮で寝られぬまま、私は安東で予想される出国手続の準備などをはじめていた。同質の朝鮮人は私があけ閉めするトランクの物音に、フト目をさまし、ニッコリ笑ってまた眠りこんでしまった。夜が白々ろあけはじめたころ、この人はむっくりベットから起きあがり、ベット・ランプをたよりに旅行日記をつけていた私に、突然大きな声で”お早う”と日本語で話しかけてきた。逆に私の方がすっかりはにかんでしまい、蚊のなくような声で”お早う”と返すのが、精一杯。
 ベットにどっかりと坐りなおし、「朝鮮は初めてですか、あなた読売新聞の型ですね」と話しかけてくる。
 「私も子供のとき、東京にいたことがあります。戦争で東京はどうなりましたか、下町に住んでいましたが、聞くところによると本所、深川あたりは、ひどくやられたそうですね.........」
 やっと落ちつきをとりもどした私は、彼に戦時中の東京の模ようを話してやるとともに、こんど一人で朝鮮を訪ねることになったいきさつを、ひとおとおり説明してやった。この人の名は金茎善さん、平壌市の体育指導委員会に勤めている公務員である。安東の生還で一時間ばかり停車したとき、金さんは私に
「これから鴨緑江をこえ、いよいよ朝鮮に入るわけですが、なにかお聞きしたいことがありますか」と新設にたずねてくれた。そこで私は
「お国の事情は、平壌についてからゆっくりうかがうつもりですが、ただ一つ心配のタネがあります、朝鮮人の対日感情です。半世紀にわたって日本は圧政をしてきましたから」さっきからこの人に、聞きたいと思っていたことを、思い切ってきり出してみたのだ。ところが金さんは、”ああ”どのことならと軽く返事をしたまま、しばらく考えこんでから
「なにも心配はいりません、あなたが新義州(安東の対岸、朝鮮の国境)の町に入り、そこから四時間、平壌に着くまで汽車の窓から町や村をみれば、すべて分かります」とナゾのようなことをいう。しかたがない、いわれたとおりにしよう。
 新義州のホームには朝鮮対外文化連絡協会から通訳の金正翼君が出迎えにきていた。あとは同室の金さんのいうとおり、汽車の窓から走りゆく朝鮮の村々を、私はくいいるように眺めてみた。
”すごい”、こうとしか形容できない。停戦が成立して三年もたっているのに、線路の両側には、三メートルおきぐらいに爆弾の跡が、大きく残されており、橋という橋は原形をとどめないほど、破かいされている。おそらくいまみている山河も、大分形が変わってしまったのだろう、そして田や畑、小高い丘には、赤さびた戦車がみまなおお腹を無地だしにひっくりかえっている。あの戦争が、いかに厳しくむごたらしいものであったか、私ははっきりみてとったわけだ、フィルムを何本も詰めかえながら、夢中で走り行く動乱の”ツメ跡”をカメラにおさめていた。
”すべてが分かりますよ”と金さんのいった意味が、なんとなく分かりかけてきたような気がする。それでもきいてみた。
「金さん、いくら朝鮮んがあたらしく生まれかわった、といってもひところは対日感情は悪かったでしょう」
 彼はだまってうなずく。
「しかしこの戦争があまりにむごたらしかったので、対日感情は、すべて対米悪感情にすりかわってしまったのかもしれない、つまり三十五年間にわたる日本時代の悪い記憶が、わずか三年の戦争で、すっかりホコ先をかえてしまった。こう考えるのは日本人のご都合主義でしょうか」と問いかけてみた。金さんは
「いやとにかくあの戦争はひどすきました。そしてはっきりいえることは、対日感情は極めていいということです」
ーーこんなやりとりまでが三年前の朝鮮の印象とともに、静かに思い出されてきたのだ。フトわれにかえって、私は窓の方へ歩いていった。三年前同じこのホテルの窓からみた大同江の岸辺には、川上から船で運ばれてきた赤いレンガが山と積まれていた。そしてレンガは、どしどし労働者住宅の建設現場に運ばれ、レンガを舟から下ろす労働者の叫び声が、このホテルの部屋まで聞こえていた。平壌の町がひと目で見渡せるモランボン(牡丹台)にあがってみても、労働者住宅、政府庁舎はまだらに建設が九がれていた、それでもまだ半分以上も空き地だった。清津へ行っても威興、開城を旅行しても、空き地だらけ、市民の生活も、やっと”食”だけが最低線を保証された、というのが三年前のいつもかわらぬ北朝鮮の姿であったのだ、そしていま窓から見下ろす大同江の岸辺には、敷石をはりつめた美しいプロムナードが遠く大同紋、練光亭までつづいている。

千里馬(チョンリマ)経済の登場

最初の復興発展三ヵ年計画
 自動車で平壌から約二時間、黄海北道松林市にある黄海製鉄所を訪ねたとき、私はここの副支配人の李芳根さんに、きわめて無礼な質問をあびせかけてしまった。
「副支配人さん、この製鉄所のげんりょうの手当のことなんですが、石灰石の山が三キロメートル離れている、というのはいいとしても、ここで使う鉄鋼関の山は百キロメートルも離れている。どうしてもっと鉄鉱石の山のそばに製鉄所をたてなかったのですが」
 李さんは、
「戦争でこの製鉄所も、ひどくやられました。だからここを復旧させるとき、実はそうしたことも考えたのですが、何しろここには高炉のど代がまだ残っていましたから」
と笑いながら答えてくれた。どうせ新しくたて直すなら、ちゃんと原料供給という立地条件を考えてたてればよいのにーーハラの中でこう反ぷくしてみたが、私はこのとき、ハッとあることに気がつき、そしてこれはえらいことを聞いてしまった、といまさらながらにくやみいってしまったのである。此の製鉄所ばかりでない。清津にある清津製鋼所、金策製鉄所、興南の化学肥料工場、またこのあいだ見学してきたばかりの威興の竜城機械工場、みんなひとつの共通点をもっている。それは例外なくみな海岸線にそってたてられているということだ。しかもいずれもがかって日本が建設に手をつけた工場である。日本人はどうして立地条件を無視して海岸に工場をたてたのだろうか。その答えははっきりしている。朝鮮から原料ーーしかし現をほり出し、これを朝鮮の工場で半製品にかえて日本に運びこみ、完成品に仕上げるには、半製品工場は海辺にあった方がずっと便利だからである。それでいまでも北朝鮮の重工業基地は、東海岸と西海岸の南部に集中している。朝鮮人が最初から計画をたて、自分の手でつくった重工業なら、決して海岸にばかり工場をたてなかったはずだ。セメント工場は、石灰石の山の上に、製鉄所は鉄鉱石の山のフモトに、当時世界の話題をさらった鴨緑江の水豊発電も、もっと朝鮮の使いやすい場所にダムをつくったはずである。破かいまぬがれた黄海製鉄所の第一、第二高炉の土台も、もうした考えで日本人がつくったものである。それを臆面もなく私は、どうして鉄工石の山の傍に工場をたてなかったのか、などと質問をしてしまったわけだ。帰えりの自動車の中でも、このことがくやまれてならなかった。と同時に、改めて朝鮮の経済と産業について昔をふりかえって考えざるをえなくなったのである。
 解放前、つまり日本時代の朝鮮の経済を朝鮮人はこういう表現で説明する。「長い間、朝鮮を植民地として支配してきた日本は、朝鮮をいつまでもたちおくれた農業国にとどめておき、食料と原料供給基地として、また商品販売市場として、日本本土の経済に完全に従属させた。日本は朝鮮で原料を略奪し、本土に半製品を供給させるためにの若干の工業と、軍需工場を建設しただけで、朝鮮に必要な機械設備や、軽工業清貧の大部分は、全的に日本本土経済に依存するようにした。民族資本の発展は極度に抑圧され、技術水準はたちおくれ、民族技術者の成長もはなはだしく制限された。」この終果、たとえば機械工場は東海岸にあったが、朝鮮人はそのころベアリングの作り方を知らなかった、というのである。かつて朝鮮で工業を経営した日本人、いまわれわれの周囲には、こういう人たちがたくさんいるが、朝鮮人のいう原料の略奪、民族資本の抑圧について、意義は唱えても、この事実、つまり結果的に日本人が、朝鮮の産業を地理的にたいへん偏ぱなものにしてしまった、というこkとは認めざるをえないのではないだろうか。
 三年にわたる激しい動乱からたちあがって、朝鮮の産業経済を復興させようとしたとき、朝鮮人は、まずこうしたハンデキャップを背負ったまま出発せざるをえなかったのだ。停戦が成立した昭和二十八年の六月に開かれた労働党中央委員会の第六次全員会議で、まず焼跡の整理をしよう、破かいした工場のたて直しを急ごう、そして打ち出された最初の三ヵ年計画、正式には「戦後人民経済復旧発展三ヵ年計画」も、じつはたいへん困難な計画であった。戦争の被害について国家計画委員会は破かいされた企業所の数は八千七百余棟、灰じんに帰した住宅は六十余万戸、その総面積は二千八百万平方メートルに達した、また五千余ヵ所の学校、一千余ヵ所の病院、診療所、二百六十ヵ所あまりの映画館や劇場が、地上から姿を消してしまった。損害程度を金で換算すると日本円で六千三百億円にもなる。と説明していた。戦争というもう一つのハンデキャップを背負い、”重工業を優先的に発展させながら、同時に軽工業と農業を発展させる”という難事業に向かったわけである。建設がはじまるやいなやソ連から十億ルーブル、中国から八億元(旧人民券)の援助がとどいた。そしてこの三ヵ年、計画も予定より四ヵ月早く完成したという。最終粘土の昭和三十一年末現在の工業総生産額は、計画がすべりだした二十八年に比べ二・八倍にふえたし、農業の分野においても平南かんがい工事(かんがい面積四万町歩)をはじめ、大規模なかんがいや河川の修理工事が実を結び、穀物の生産高も、日本時代の最高水準より八%も上回った。という報告が出されている。私が前に北朝鮮を訪ねたのは、丁度この三ヵ年計画が終った三十一年の十一月であった。

話題をよんだ第一次五ヵ年計画 

 焼あとの整理、教場敷地の整地も終え、本格的な住宅や重工業の建設準備がととのったので、朝鮮はいよいよ第一次五ヵ年計画を昭和三十二年度からとりかかることになった。計画のあらましは、三十一年に開かれた労働党の第三次全国大会に提案され、計画の終る昭和三十六年までに、工業の生産額を三十二年の二・六倍に、農業のみのりを二倍に、そして労働者の所得を一・五倍に引き上げて、国民の衣食住の悩みを根本的に解決する、という方針がきめられたのである。そして各部門ごとに、例えば重工業のうち鉄はいくら、セメントはどのくらい、綿布はなんメートルなどと細かい生産指示計画が現場に示された。
 私はこの細かい計画数量を、その後中国をへて日本に帰ってきてから知ったのだが、指示量をみてびっくりしてしまった。それはたしかに、この計画どおりにことが運べば、昭和三十三年を迎えると、人口一人当たり電力は八百二十キロワット・アワー、石炭は七百三十九キログラム、銑鉄は四十二キログラム、鋼鉄は三十九キログラム、化学肥料は四十九キログラム、セメントは三十四キログラムにも生産があがり、肥料やセメントなどは完全に日本の実績を越えてしまうことはよくわかる。だが、あの朝鮮ーー三ヵ年計画をやっとやり終えたばかりの北朝鮮が、一挙にこういう水準まで、力を引きあげることができるだろうか。
 たとえやりとげたとしても必ずどこかに無理がおこるに違いない、という気持ちを強くした。さっそく私は、東京にいる貿易会社の中堅幹部や、経済団体の研究熱心なひとたち数人で構成している中国、朝鮮問題の研究会で、私の率直な意見をつけて五ヵ年計画の概要を討議してみた。この研究討議は五、六回つづけられたが、程度のちがいああっても、みな結局は私の最初の居んそうどおり、”五ヵ年計画はあまりにもぼう大でありすぎる”という点で一致したのである。その後の三十三年の春、この研究会のメンバーからD通商社のI君、T商会のS君の二人が、相ついで北朝鮮に出かけていった。我々はこの二人が三ヵ月ばかりたって帰国するや、さっそく、”五ヵ年計画”の現段階について、話を聞く会を開いたが、二人の印象では、とにかく計画は予定どおり、いや部門によっては予定以上に建設が進んでいるというのだ。
 信じられない。表面的には進んでいるようにみえるが、どこかに、この計画にズサンな点があるのではないだろうか。こういう議論を会うごとに一年ばかりつづけているうちに、昨年の夏、S君は、突然商用ができて、あたふたと二度目の訪朝に羽田をとびたっていった。
五ヵ年計画と向かいあう
 四ヶ月ばかりさきに出かけたS君を追うようにして、私も十二月十二日の夜中、羽田を飛び立った。六日間もかかってやっと北京の新僑飯店(新僑ホテル)にたどりつくことができた。明日は平壌か、よしまっさきにたしかめたいのは、五ヶ年計画だ、これをはっきりたしかめない以上、いまの朝鮮問題はなにもわからない。
 在日朝鮮人の祖国帰還、この大ニュースが日本の新聞にはじめてのったとき、私の頭の中にはみるみるうちに深い”疑念”のかたまりがひろがっていった。在日朝鮮人総連合会は、帰国希望者は数十万人といっている。よしこれが半分としても十五万人から十七万人もの在日公民が朝鮮に帰えっていく。受け入れて住まわせる住宅はできたのだろうか。また帰国希望者は青年層に多いときいている。もう大学はそんなにできあがったのだろうか。新聞や雑誌が、あらゆる角度から「帰国問題」を論議しているなかで、私はひとり”現実”を気にやんでいた。そしてこの疑問は、あしたはいよいよ朝鮮と言う北京までたどりついても一向に去らなかったわけである。ホテルのロビーで煙草を買っていたとき突然うしろから”おーい”と肩をたたかれた。真黒に雪やけしたような懐かしいS君が突ったっている。私と入れ違いに日本へ帰る途中だという。
「五ヶ年計画はどんなだ。四ヶ月もいたからはっきりつかんだろう」
さっそく部屋につれもどして開口一番こう聞いてみた。
「まあとにかく、ここまできた以上、俺からはなにもいうことはない。現地でたっぷり研究してみろよ」
 こころ憎いまで落ちつきはらっている。
 それから十日ばかりたって、私は平壌のホテルで金河燦さんと向かいあってすわっていたのである。私の質問『社会主義建設のテンポがひじょうに早いことはよく分かったが、いくらなんでも五ヶ年でやろうと考えた計画が、二年半で完成したなんて、どうしても信じられない。ぶしつけな質問で恐縮だが、これは計画そのものが、最初から過小でありすぎたか、あるいはどこかズサンな点があったのではないですか。はっきり納得させてもらいたい』ーー朴さんの通訳が進むにつれ、金さんの顔は”待ってました、恐らくそうくるだろうと思っていた”といわんばかりに大きくうなずいて、五ヶ年計画の”奇跡”を熱情こめて話し出したのである。
工作機械の”子生み運動”
「これははじめとてもむずかしい任務だと思いました。あなたがいうまでもなく一九五六年当時の朝鮮に、この計画を五ヶ年以内に完成せよ、と命令するのはきわめて困難であることは知っていた。しかも最初の三ヶ年計画のときはソ連はじめ社会主義兄弟国家から、物質的な援助がかなりあったが、こんどは全く自分の力でやる以外にない。しかしすでに達成した成果にもとづいて、また労働者の熟誠と創造力は、この難かんを見事のりこえたのです........」
 例の調子で、この若い愛国者は、資本主義の国からやってきた新聞記者をなんとか説得しようと、大きくヒザをのり出してきた。
 大声をはりあげながた政治闘争にあけくれる日本の労働者をみなれているわれわれは、ただひたむきに心血をそそぐ北朝鮮の”労働者の熱誠”を理解するのはむずかしい。現場で直接こうした労働者と接してみるとすなおに理解できることであるが、これが五ヶ年計画の奇跡をうんだのだ、といってもこれをすなおに理解できる日本人は少ないだろう。
 だからここでは五ヶ年計画は、いかに指導されてきたか、この経過をたどってみた方がよいと考える。まず最初に労働党が手をくだしたのは”経済予備の総動員”と、これにつながる”生産性の向上”である。わかりやすくいうと、各工場現場にある余力をまず探し出せ、そしてこれを有効に活用することを考えて、労働者一人当りの生産能率を、大いに高めよ、という意味だ。私が三年前に朝鮮を去った直後、つまり昭和三十一年十二月に、平壌で労働党の中央委員会全員会議が開かれ、ここで五ヶ年計画が翌年から開始されるにあたり、現場の指導方法を決定的に改善する手だてが検討された。この結果五ヶ年計画の内容を大きく特徴ずける”予備の総動員”がきめられ、ただちに金日成首相ならびに党、政府幹部の地方視察がはじまったわけである。
 いったい、予備の動員というのは、具体的にどんなことをしたのだろうか。
 帰国第二船を出迎えに清津へいったとき、私は前に一度訪ねたことのある清津製鋼所を、おとずれてみたが、顔見知りの労力英雄の称号をもつ支配人、朴容泰さんが、こんな話をしてくれた。
ーーここの製鋼所は、普通の製鋼所と違って無煙炭と鉄鉱石を回転炉で溶かしながら、粒鉄を作る(このことはのちに重工業の項でくわしく報告する)ので、非常に熱管理が大切である。ところが現場では、炉の中へ原料を送り込む段階で、だいぶ熱源のロスをやっていた。昭和二十九年以来、三十一年、三十二年と毎年のようにこの現場に金日成首相がやってきて、その都度現場の労働者と熱管理の議論をしたあげく、問題のロスをはっきり指摘され、いまでは効率がぐんとハネあがったという。ーー
「これは本当なのです...........」
 こういって朴さんは私を回転炉の方へ連れていってくれた。もちろんこのときも、一人の現場労働者が、このロスを改善するため現場の中から予備を動員した創意を生み出し、これが生産性の向上に極めて役立った、ともいっていた。
 レンガ積みの労働者住宅の建設が、これまた労働者の着想から生まれた創意ーーレンガ積みブロックで、ぐんと前進したのも、この頃である。五ヶ年計画の予定によると、昭和三十三年度中に平壌だけで七千世帯の労働者アパートが建つことになっていた。これを今日では、どこの建設現場でもさいようしているレンガのブロック積みに切りかえたため、二万世帯分の住宅が年度末をまたないで完成したという。労働者の創意工夫の奨励が鳴物入りで全国に拡ろまっていったのだ。
 清津からの帰りみち興南の肥料工場に、全炳彩副支配人をたずねていった。たしか硝安向上でアンモニヤ酸化の白金触媒をみていたとき、金雲副技師長が揚酸ポンプのわきにおいてあった旋盤を指差して、
「この旋盤は、ここの工場でつくったのですよ」
と教えてくれた。
「えっ、肥料工場で旋盤を組みたてた。材料は?」
「材料はこの工場のあちこちにある、つまり予備をかき集めたのです」
どうも額面どおりには受けとれない、というような顔をしていたら、金さんは、いま全国にひろがる”工作機械の子生み運動”の話をしてくれた。
 朝鮮には工作機械がとても足りない。昨年あたりから懸命に国産化をはかっているが、それでも足りないので、一分チェコスロヴァキア、東ドイツなどから輸入もしている。、そして一台の旋盤でも研磨盤でも、工場に送られてくると、その現場がたとえ家具の工場であろうと、紡織工場であろうと、さっそくその工作機械と、同じ工作機械を現場の余備をかき集めて必ず一台組みたてることにしている。そしてできた機会はmすぐに他の現場に送ってやる。するとこれをうけとった現場でも、また一台同じ機会を組みたてる。つまりつぎからつぎへと工作機械が子供を生んでいく予というのである。
 そしてレンガブロックの採用も、子供を生む工作機械も、これらは最初の計画には、全然入っていなかったことである。いわれるとおり第一次五ヶ年計画は、たしかにぼう大な計画であった。しかし計画がすべり出すと、予想もしていなかった労働者の革新的な創意がつぎからつぎhrとあらわれ、これがいつのまにか五ヶ券計画推進の軸になった。だから建設は千里の駒にのったように、九ピッチで進み、五ヶ年計画を二年半で超過達成する、という”奇跡”が誕生した、と朝鮮人は信じているのである。

緩衝期とはなにか?
ーー工業と農業の不均衡ーー

 五年でやろうと思っていたことが、二年半でできてしまった。あとは一体どうするのだろうか、こういう疑問をもつのは当然だ。つぎの第二次五ヶ年計画のすべり出しを早める以外になかろう。しかしいくら実施の時期をくりあげるといっても、第二次計画には第二陣としての準備が必要だ。だからせいぜいくりあげたとしても一年がいいところ。昭和三十七年からはじめる予定を三十六年に、つまり来年にするのが精一杯である。とすればそれまでの一年半に、じっくり第一次計画の反省と第二次の準備を固めよう。そしてこの機関を”緩衝期”と名付け、それぞれに任務を与えることにした。これがいま北朝鮮のどこの工場にもかかげられている「緩衝期の任務を達成しよう」というスローガンの由来である。
 計画のくりあげ達成、ということ自体、資本主義の国では、それこそメッタになりことなので、つぎの段階へ進むため、クッションの時期をもうける、などというのは、どうもわれわれにはピンとこなかった。
 だが、ここで私の関心をひいたのは緩衝期の任務の中に特筆されている、「工業と農業の不均衡是正」の問題である。ひとくちにいうと、重工業の発展を優先的に進めてきた結果、第一次計画のしめくくりをしてみたら工業が農業とり、ぐんと進みすぎていた。このままにしておくと農村んで一番大切な、濃厚機械化などが計画どおりにいかない心配がある。だから進みすぎをため、おくれをとりもどす、アンバランスの是正がぜひとも必要である。これは緩衝期の重要な仕事であるというのだ。
 工業と農業の不均衡、これは北朝鮮だけでなく隣りの中国でも、ソ連でも社会主義国家には、程度の差こそあれ、共通した悩みになっているようだ。ただ穀倉地帯が南半分にあるため、農村の水利化、電化をとりあげ、食料自給に”とどめ”をさすという意味で、農村の機械化をやらざるをえない北朝鮮にとっては、ただ単に国際的に共通な悩みなどと、のんきなことはいってられない。すでに農村機械化の基本方針として、政府は昭和三十五年度中に平壌周辺と黄海南道、平安南道の農村を完全機械化する。その他の地方は、これを追っかけて、一、二年内に畜力を機械にかえる。と打ち出している。
 そうかといって農村が発展充実するまで、つまり機械化がうけいれられるようになるまで、工業の建設を休むというわけにもいかない。
 農業と工業の関連は、社会主義計画経済にあっては、より密接なつながりをもっている。たとえば紡績鋼業を発展させるためには、どうしても原料の綿花が豊富にいる。農業がこれまでのような手法で営まれておれば、結局、紡績工業への計画的な原料供給が、おくれをとることになる。なた食品か鉱工業を発展させるためには、十分な肉と野菜が必要である。これは畜産業の発展と不可分の関係にあり、飼料の確保が根本である。この面からどうしても、農村の機械化が大きくクローズアップしてくるわけだ。逆に見れば,農耕機械の農村への供給が、間に合っていない、ともみることができる。とすれば同じ機械工業の中でも、濃厚機械と一般機械との間に不均衡が存在していることになる。だからひとくちに不均衡といっても、内容はとても複雑である。
 これをどう解決するか、北朝鮮経済の最大の課題といえよう。

国営企業の採算ーー財政収入と支出ーー
サービス満天、国営そば屋

 西平壌を盛モランボン(牡丹峯)にそって左へ折れたところに「国営平壌第一めん屋(オク)」と言う国政のそば屋さんが一軒ある。夕方になると、冷めんや朝鮮料理をサカナに、酒によった労働者や公務員たちの、楽しい歌声が流れてくる。前にいったときは、この家の先の方に箕林閣という大きな国営のそば屋があったが、今度きてみると、これを上回る立派な国営そば屋ができていたのだ。
 国政なので、支配人以下、従業員はみな国から月給をもらっており、店の再三も、この程度に客が回転していたらさぞ楽だろう、と言う想像がつく。真白な作業服に、白い帽子を被った女の従業員がいい。こちらから頼んだ酒や料理を手ぎわよく運んでくれるが、このお嬢さんたちは、めっぽうあいそうがいい。なにを聞いても親切に教えてくれる。それでいて非常にういういしさが残っている。日本人記者団に一番人気の集まったのは、この店だ。ここの従業員たちは、生活の心配がない。またわけもなくクビになる心配もない、とすればあいそうよくしていた方が、とどのつまり自分も楽しいにちがいないわけである。オンドルのきいた二階の部屋で冷めんをたべながら、私はフトこん なことを考えていた。
 一万人の労働者が一日に三十万平方メートルのキレ地、一万枚のメリヤスのシャツなどを縫っている平壌紡織工場も国営。いちにちの労働を終え、友達や家族が楽しく、しかも料金をぼられる心配もなく冷めんをたべられる第一めん屋も、そして箕林閣も国営である。
 開放直後、北朝鮮には若干の私企業が存在していた。それがあの動乱で、すっかり灰にされてしまったため、たとえ設備や見せの一部が残ったものも、再び自分たちだけの力で私企業を起こすことができなくなってしまった。だからいま北朝鮮では、国のどこかに、工場がたっても、商店がポツンと店開きをしても、みな国営である。
 北朝鮮は”社会主義の事件室”とよくいわれる。建設にあけくれる朝鮮人にとっては、実験室だなんて冗談じゃない、こちらは少くも真剣なんだ、というかもしれないが、こうした面からみると北朝鮮の社会主義建設は、全く青写真どおり進めてゆける強みをもっていることはまちがいない。とにかく地上に、なにがたっても国営だ。
 国営企業というのは、一体どんな仕組みで国とつながっているのだろうか。

月給を下げられた社長さん

 金属工業省の清津製鋼所の社長室で、北朝鮮では支配人室というーー。朴容泰支配人と張鐘九技師長と私は三年前におとずれた、この工場の印象を話しあっていた。
 そのころ朴支配人は、まだ現場の一労働者であった。第一次五ヶ年計画をくりあげ達成するのに、朴さんはおどろくべきエネルギーと創意を、政府から与えられた”増産と節約”の至上命令にそそぎこんだ。そしてある時期、彼はこの工場の全労働者をひきずって計画目標の達成に努力をかたむけた張技師長は、朴さんの功績をたたえてこういう。昭和三十三年九月、労働英雄の称号をもらった朴さんは、全労働者に押されてこの工場の支配人になったのである。それまでただニコニコ笑いながら自分の話をきいていた朴さんは、すかさず『そして現場にいたとき百五十円近くとっていた月給は、とたんに支配人の月給百二十円におとされたのです』とチャチャを入れたのでドッと
大笑いになった。
 だが、これは笑いごとではない。労働者より社長の方が手取りが少ない。これはまあわかるような気がする。たとえ月給が下がっても朴さんには支配人という新しい生きがいもあろう。それにしても支配人の月給とか、労働者の月給、これは一体だれが、どんな基準できめるのだろう。働きすぎて体が弱れば、どの工場にも栄養食をたんと食べさせ、ゆっくり九用をとらせる夜間休養所、などという贅沢な設備までもっている。国営企業というのは、そんなに儲かるものなのか、清津製鋼所のやりくりを朴さんと張さんにきいてみた。
 まず年度の終わりになると、工場の幹部が集まって、翌年の生産計画をたてる。ここまでは資本主義の私企業と同じである。工場の設備や労働者の能力などを考え、生産計画がきまると、これをただちに金属工業省へ送りとどけ、工業省はこれを調査研究したうえ、さらに国家計画医委員会と合同で、検討する。
 この間、朴さんや張さんは政府によばれてこまごまと計画案を説明するわけだが、これでよし、となると、国からその計画を達成するに必要な運転資金と設備資金が下りてくる。そしてこの資金で茂山(モサン)からいくらでも鉄鉱石を、どのくらい買え、出来た粒鉄は、どこの鋳物工場へ一トンいくらで売れ、鉄鉱石をとかす粘結炭は、中国の開らん、双鴨から、これだけ回してやる、などという詳細な生産指示書が与えられるという。そのうえ指示された製品の販売価格には、ちゃんと敵性利じゅんが含まれているので、工場はもちろん、政府の方でも四半期ごとに計算をしてみると、この工場にいくら利じゅんがたまったか、あらかしめわかるようになっている。もちろん利じゅんは支配人や労働者の月給、その他生産に必要な経費を全部払ったうえでの利じゅんだ。
 さあ、その利じゅんはどうなるか、資本主義の国なら、さしずめ企業の内部保留とか、下部の配当金とか、いろいろ使い途があるが、そこは国営企業、まず財政省がその大部分を徴収する。園の「小鈴」は一定の率がきめられてあって、工場に「起業所基金」として積立てが認められる。そしてこの基金は、支配人の考えひとつで、労働者に時計とかラジオなどの賞品(重工業の項でくわしくのべる)を買ってやったり、夜間休養所のような校正設備のもと手に使えるようになっている。
 結局、ノルマを達成し、それ異常の実績をあげれば、それだけ政府の徴収金もふえるし、その分だけ又労働者の実質賃金もふえる、という仕組みになっているわけだ。
 しかもどこの工場も五ヶ年計画で与えられた生産量は、みな達成してしまい、その後もどしどし生産をつづけているので、いま財政省には全国の国営企業から、わんさと金が集まっている。こんな計算も成り立つわけである。平壌の戻ってさっそく財政省の予算局員、徐東寛さんにあって、国営企業からの”あがり”をきいてみたら、ことし政府は全体で二十三億二千五百万円八朝鮮円一円は日本円百五十円)のしゅうにゅうをみこんであいるが、このうち九五・三%は、こうした社会主義経理体系から入ってくる。という驚くべきふところ具合を教えてくれた。九五・三%というと政府が予定している前支出、住宅の建設から工場の拡張費、帰国者を迎える費用など二十二億八千百万円の大部分にあたるわけだ。ーーだから朴さん、たとえあなた月給が下がっても、もってメイすべきであろう。
無駄のない支払い
 北朝鮮の百五十一円で、中国の百五十円が交換されている。だから中国円と朝鮮の円は、ほぼ同じ値打ちに扱われている。その中国円で、私が昭和三十一年の十二月上海へいったとき毎月七百円も、手取りのある工場の経理さん(日本でいう社長さん)にたくさん出会った。
 経理の月給としては百五十円ていどであり、これで十分に暮らしがなりたつのに、っこの人たちは月給のほか政府から、下部の配当金が何百円と入ってくるのだ。社会主義国家と配当、これは一見ムジュンした話のようであるが、中国政府は上海を中心に根強く生きてきた。買弁手金亜資本主義を、社会主義的に改造するため、その過渡的手段として「公私合営」という企業の経営形態の看板が大きくかかげられている。
 公私合営とはなにか、ひとつ具体的に説明しよう。ここn革命前に民営の煙草工場があったとする。そこの経営者が政府に公私合営を申し入れると、さっそく政府のお役人がやってきて、この工場の資産を評価査定をする。そして、今後、この工場は国家のものとして組み込まれ、運転資金から設備資金まで全部、国が面倒をみることになるわけだが、この新しく生まれ変わった公の工場の経営に、それまでいた工場主は政府の評価した”私”の資産をもって参加し、依然として社長の肩書きをもって残るばかりでなく、毎月政府から資産に見合った「定息」つまり利益の配当をうけるわけである。だから煙草の工場や綿布の工場、マッチの工場などを三つも四つも持っていた社長さんは、新中国で七百円から八百円もの月収をえているのである。
 納得づくの革命を原則としている以上、中国としても、これは止むをえない措置ではあるが、社会主義のあるべき姿、という点からみると、これら旧資本家たちへの定息の配当は、きわめて無駄な支出ではないだろうか。この制度も近く中国では、旧資本家たちの自発的な意志として廃止される、ときいている。これはあの広い中国のことだからそう等の金額に達するにちがいない。
 北朝鮮にはこれがないのである。さきほどもこの点にふれたが、北朝鮮はすべてが国営だ、。旧資本家や地主に社会主義経理の中から配当を払う必要がないのである。
 社会主義計画経済の立場からいえば、これは大きな特徴であり、北朝鮮経済の最大の強味ともいえるだろう。
兵隊とおまわりさんが見当たらない 
 また強みはもう一つある、。どこの国でも予算に大きな比重を占める兵隊と巡査の”かかり”が、北朝鮮には非常に少ないのである。
 私は二度目の訪朝なので、北朝鮮のどこを旅行しても、逆に私の方が朝鮮人から”三年前とどこが違っていますか”と聞かれることが多い。その度に私は、『兵隊と巡査の数がずいぶん少なくなりましたね』と答えてやった。北京を飛びたった飛行機が、平壌に舞い下り、自動車で東平壌をつきぬけて大同橋を渡り、ホテルに着くまでのわずか、二十分の間、つまり私の第一印象がきざまれるコースだが、まっさきに私は,兵隊と巡査ーー北朝鮮では内務員というーーが、目立って少なくなったことに気がついた。
 地方へ旅行するにつれ、このことはますますはっきりした。前にきたときは、まだ中国の人民志願軍が北朝鮮に駐留していたせいもあるが、南の軍事境界線附近には、兵隊がわんさといた。どこの駅を汽車が通っても守備隊の兵隊がホームにたっていたし、橋という橋には、必ず番兵が着剣して警備していた。
 町を歩いても街角には、巡査が附近に目を光らせていた。
 今度はそれがない。しばらくいるうちに他の日本人記者団もそれに気がつき、車で町を走っていても、どこかで巡査をみかけると、車の窓からカメラを出して、さも珍しいものをみつけた、といわんばわりにパチパチ写真をとり出す始末である。私は黄海製鉄所の帰えり途に動向の民主朝鮮(政府機関紙)の韓竜泳記者に、『ずい分少ないね』と聞いてみた。韓君は顔を窓の外に向けたまま『兵隊と巡査の数の多いのは、民主国家とはいえないね』と、ポッツリひとこと返事しただけ。そんなこのは分かっている。ーー私はそのときハラの中で「朝鮮人は、もう戦争も内乱も絶対に起きない、とほんとうに信じこんでいるのだろうか、」という疑念がわいてきた。平壌にかえりつくや、冷の財務省の徐東寛さんいあってみた。いったい政府は兵隊と巡査の費用に、朝鮮でいう民族保衛費と行政費にどのくらい予算を計上しているのだろう。それをまずたしかめてみる必要がある。二人で国の財政支出の検討がはじまったわけだ。まず目につくのは経済部門や社会、文化方面への支出である、。これは教育とか社会保険、科学振興費などが含まれているが、全体の八九・四%を占めている。昭和三十一年にきて調べたときは八七%であったはず。その後建設の規模はぐんとふくらんだし、学校の数もふえてきている。とすれば何か減ったものがなければならない。やはり民族保衛費と内務費をいれた行政費だ、三年前に支出全体の五・九%を占めていた保衛費は、昭和三十四年には二・八%に、行政費は六・一%が四と、両方ともおおむね半分にへっているのだ。

二つの革命と金

 ほかの報告にもあると思うが、いま北朝鮮には、どこの職場へいっても、どんな山深い農村へいっても”文化革命”と”技術革命”という二つの革命のいぶきがふきまくっている。第一次五ヶ年計画は、北朝鮮政府の言をまつまでもなく、たしかに国民の衣食住を、根本的に解決した。このことは三年前と今日の朝鮮とを、実際に見比べてはっきりいえる。またこれによって朝鮮人は、想像もつかないほど自信をもったことも事実である。つぎの段階に対し、朝鮮人はいったい何を考えているのだろう。金日成首相にいわせると、社会主義のより高い段階、共産主義社会の入り口に、立とうとしているわけだが、われわれが今日の朝鮮をみて感ずることは、とにかく停戦以来のわずか六年間で、よく、この段階まで国力をひきあげた。ということだ。このエネルギーを支えている物質的な力は、なんといっても重工業である。そして重工業の中心は、いずれもかつて日本人が手がけたものであり、今日朝鮮人は、これを日本時代以上の水準に引きあげたばかりでなく、完全に生まれかわった朝鮮人の重工業として、打ちたてることに成功した。こういうことははっきり感ずる。
 第二次五ヶ年計画でねらうもの、つまり朝鮮の産業立地条件に完璧にマッチした、本格的な重工業を建設し、これに第一次五ヶ年計画で復興させた現在の重工業をむすびつけることに成功したら、これまた金日成首相の”人口一人当たりの生産量はアジア第一”というアッピールは別としても、朝鮮の国力を、われわれは全く無視できなくなるだろう。だから技術への神秘性を打破せよ、技術というものは神秘なものでなく、これは克服され自分の身につけるものである。という技術革命と、この精神生活を支える力を養う文化革命とは、いまこそ北朝鮮にとって、いちばん、大切な心構えでといえるあろう。兵隊と巡査が多いのは民主国家ではない、と韓君はいみじくも答えたが、これと戦争の可能性は別のものであるはずだ。こrうぇについては私はひとつの考え方をもっている。朝鮮人は、世界の中で、近代戦争を経験した唯一の民族といえる。そしてあの三年にわたる動乱で朝鮮人は、いろいろのことを学んだにちがいない。あるいはこういうことを学んだのではないだろうか。
 近代戦争というものは、いくら朝鮮が予算の十%も二十%もかけて兵力を増強しても、いざ開戦となれば、ひとたまりもない。それほど規模も大きく、残忍なものである。不幸にして戦争がおきたら、そこには彼らのいう兄弟国家の友誼がある。朝鮮動乱の停戦お朝鮮人からみればひとつの友誼のあらわれであった。いずれ開戦ともなれば、友誼を信じよう。そのかわり、少なくとも平時においては、できるだけ人間を建設にふりむけ、最初の三ヶ年計画にあらわれたような兄弟国家への負担を、一日も早く軽くしよう。ーーこう考えて民族保衛費と行政費をへらしたとすれば、われわれは兵隊と巡査の少ない朝鮮を、額面と居り信じられるような気がする。とにかくこうした強い政治の力というものが、私のような旅行者の生活の中にも感じられるのである。
 またあれだけ豊富に金が産出していながら、私が町で金をみたのは、ただの一回。平壌の臥山洞に新設された「工業および農業展覧館」の展示場に”重要輸出品”のレッテルをはって並べられているのをみただけ。あとは町を行く婦人の装身具には勿論、工芸品にも金粉すら使っているのをみたことがない。そしてちょうど、昭和三十五年°の日本の朝鮮との貿易量を具体的にとりきめるため、平壌にきていた日本の貿易団体のA君に、朝鮮国際貿易促進委員会のある幹部は、『代金は金でお払いしても結構です』と真顔で答えたという。ここにもはっきり政治が感じられるし、また心憎いまでの能率の良さも感ずる、朝鮮の経済は、ここしばらくは文化革命と技術革命の二つの車輪に、強い政治力に引っぱられながら、第二次五ヶ年計画に向かって進んでいくだろう。


訪朝記者団,訪朝記者団 編




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